2021年06月30日
学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
個人的にはほとんど興味はないが、東京オリンピックが目前である。
ネット上ではオリンピック批判が吹き荒れているが、実際の世論としてはオリンピック賛成派反対派それぞれというところだろう。どのみち開催は既定路線、というより中止という概念自体存在しないのであり賛成派は殊更騒ぐ必要もないのだから当然だ。
おっさん個人としては、オリンピックを機に国民の意識が「スポーツ観戦」ならぬ「スポーツ感染」くらいになれば、「自粛」など一切しなくて良くなるのだからいいことだとは思っている。
とは言え東京では緊急事態解除からわずか10日ほどで既にリバウンドが明らかとなりつつある状況なのだそうで、五輪前としては最後にもう一幕くらい、超弩級グダグダコロナ対策政治パフォーマンスがあるのは間違いないだろう。
もしかしたら、コロナの感染が拡大し始めた昨年の冬真っ先に社会や大衆に自粛を訴えた日本の超有名セレブロックミュージシャンが、今度は「オリンピックのために國民一丸となって頑張ろう」などというメッセージを発したりするのかもしれない。
数少ない(あくまでネット上で)賛成派であるホリエモンは、そもそも「コロナはただの風邪」と言って自粛要請を徹底して批判していたのだから、オリンピックをやるのは当然ということである。その主張は首尾一貫しているし、自分もその理屈は正しいと思っている。
自分もコロナに関して基本的にはリスクを低く見る「ただの風邪」派であり、ゲームセンターや音楽のライブに行けなかったことなど「自粛」を殊更嫌悪している。その点からすれば本来オリンピックは問題ないことになるハズだが、これに対しては反対派である。
これでは主張が一貫していないということになるのだが、なぜ反対なのかと言えば、もはや言うまでもないだろうが、ロクな感染対策もできず、ゲーセンやライブ、運動会や部活、飲食や旅行を散々悪者にしておきながら、オリンピックはやるという政府のグダグダ対応とダブルスタンダードに嫌悪感を抱いている、それだけである。
世界最大のイベントをやるために小規模なイベントや飲食を禁止するという時点で理論的に破綻しているし、感情的にも受け入れられないのは至極当然だろうと思う(ただこういうところだけは「自粛を要請してるだけで何も禁止はしてない」という「理屈」を持ち出すのだろう)。そもそもコロナ当初から今に至るまで基本的な認識から実際の対応に至るまで論理的に説明されていたことなど一度もないのだから当然である。
もちろん現時点、つまり緊急事態が解除されている(沖縄を除く)状況ではゲーセンもライブも運動会も部活も飲食も旅行も「対策をしているからOK」という理屈で可能なのだから、オリンピックもできることにはなる(その後どうなるかということは全く別として)。というか政府はそのために緊急事態宣言のタイミングなどあらゆるものをお膳立てしてきたのだから尚更だ(その後どうなるかということは全く別として)。しかし、たとえそうだとしても、これまでとはレベルが圧倒的に違う巨大規模のイベントでありそれに伴う感染拡大の可能性も全く違うのだから、その点だけでも単なる嫌悪感だけではないと言ってもいいだろう。
そもそも去年は延期されたのに今年は強行されるのは、欧米が一定程度落ち着いたからでありそもそも日本がどうこうではない。もし現時点で欧米がロックダウン状態だったらやはり延期か中止されたハズである。
正直に言えば、やはり自分はオリンピックが嫌いである。
元々は特段嫌いでなかったものであっても、それが世の中で極端に礼讃されるとき、自分も一緒になって喜ぶ人間と、嫌悪感を抱く人間に分かれるものである。これがコロ前であれば、実害といえば見たいテレビ番組がオリンピックに取って代わられる程度のものであり(それすらひどく憤慨したものだが)、そもそもコロナも政府の対応も関係ないただの感情論ということになる。
が、嫌いになった理由はもう一つある。
こう見えて若い頃は、野球、サッカー、バレーボール、相撲、格闘技、F1、そしてもちろんオリンピックもしっかり見ていた、というか特定の競技の生中継をテレビで見るため仕事を休んだことすらあるほど本気で楽しんでいたものだ。真剣に見るあまりルールや採点基準を覚えたりしたもので、ソルトレークシティーのときの明らかにアメリカに優位な判定、採点を行うレフリーや審査員には大いに憤慨したものだった。
が、あまり詳しく勉強すると当然その背景などもだんだん分かってくるものであり、そこにネットが普及してくると更にいろいろな情報も加わって、要するに「裏側」が見えてきてしまうということがある。表側だけを極端に美化するマスコミ、競技性など全く理解もせず国家への帰属意識だけで興奮する視聴者、ルールや裁定に力を加えることで結果を得ようとする組織の不正などに対して、絶望や反感を抱くあるいは冷めてしまうということであり、言うなればそれがおっさんになるということである(それが逆に「厨」だということになるのかもしれないが)。
そもそもオリンピックは基本的に4年に一度しか見ない競技ばかりで、ほとんどの視聴者はその競技性どころかルールすら理解していない場合も多いだろう。
例えば、スキーのクロカン系競技などは(選手が一定レベルにあることは当然として)もはやワックスの選択が勝敗を決するという状況で、その開発から現場での情報収集、調整といった技術的な部分まで巨大なナショナルチームとしての総合力でなければ勝負にならないというハナシだ。が、テレビを見ている限りそこをゲーム性の要素として大きく取り上げるワケでもなく(あまりそこを強調すると番組の方向性が変わりターゲットとなる視聴者層への訴求力が失われる恐れもあるためか)、ただただ何周もコースを周回する映像を見ている感じでしかない。
例えばひたすらコースを周回する競技としてはモータースポーツがその最たるものだが、それを面白がって見るには当然そこにゲーム性が見えてくる必要がある(モータースポーツの場合スピード感とかマシンがかっこいいとか映像だけでも訴求力がある部分は多少あるが)。そしてスキーのワックスの話はF1のタイヤ選択に例えることができるだろう。
自分がF1を見ていた30年前は、ブリジストンとピレリの2メーカーでそれぞれ4種類くらいからレースごとにチームが選択する形となっていた。サーキットの特性、マシンの特性、そして最も大きな天候という要素によってその選択が大きく勝敗を分けるため、タイヤ交換と給油を行うピットストップがチーム戦略の根幹だった。その戦略を如何に実行するかということもまたドライバーの技術であり、ピットストップ自体を固唾をのんで見守ったほど重要であり面白かった(その意味ではピットリポーターは重要だったなあと思う)。年間16戦トータルで見たときに、あのときのタイヤ選択が、ピットストップがということまで思い出されるほど楽しむことができたのである。
ただそこまで楽しむにはそれなりの知識、情報が必要であって、ましてF1は年間16戦ある中での話である。4年に一度の一発勝負(その競技自体は当然常に行われているのだが)をテレビで見ても、競技性、ドラマ性というものはそこまでちゃんと見えてはこないだろう。実際テレビ放送を見る限り競技的な中身は薄く、となれば如何に盛り上げるかという点にのみ特化した映像制作となり、国家の代理戦争として闘争本能に訴えるか、「選手の頑張り」的なあまりに稚拙な単なる感動ポルノを流しているようなものだ。結局オリンピックなどスポーツでも競技でも何でもない、ただのお祭りでしかないのである。
古い話ばかりで恐縮だが、自分がF1を見ていた当時解説者が「F1は、オリンピック、サッカーワールドカップと並ぶ世界三大スポーツだ」という話をしていた記憶がある。10代の自分には何が三「大」なのか、F1は毎年16戦やるのに他の2つは4年に一度でなぜ同列なのか疑問だったが、要するにその「大」とは「カネ」であることはこの年になれば判ることである。そう考えると毎年16戦やるF1がすごいのか、4年に一度でそれだけ稼ぐオリンピックがすごいのかよく判らなかったりもするが、要するにそれだけ巨額のカネが動く「興行」なのだ。
そしてその興行を主催する側の最たるものが、テレビや新聞などのマスコミである。
言うまでもないが彼らは初めから彼らの目的で、まるで真実であるかのような「映像」を用いてスポーツという「娯楽」を作り上げ、それを商品として販売し巨額の利益を得ているのである。彼らが作る「ニュース」「情報番組」までもがこれらの宣伝に利用されているということもまた言うまでもない。ネット上では「オリンピックが始まればマスコミは掌返し」と言われているが、元々テレビなどというものは徹底したダブルスタンダードであり、片方で散々批判しておきながら次の瞬間満面の笑みで礼讃するというのも昔から極当たり前のことだった。ましてコメンテータなどというものは制作者(あるいは所属事務所)と契約を結び報酬と引き換えに番組に「出演」しているのであって、そこに個人の思想による正義あるいは主張的な何かが存在するなどと信じる方がおかしいのである。そもそもマスコミとは常にそういうものであり、「新聞社」「テレビ局」ましてや「ワイドショー」などというものに論理性や一貫性というようなものを求めること自体間違っているのだ(アメリカではついこの間まで、特定の支持政党を養護する偏った情報を流し続けるメディアの姿勢が問題視されていたのだから、真逆のことを平気で言えるというのはどちらの意見も平等に報じる「いいことだ」ということになるのかもしれない)。
そしてもう一つの「興行主」が、「競技団体」である。
競技団体の会長は政治家である場合も多く、そして最近、一部で「脳筋」などと揶揄されるものの「お茶の間」には人気のある元代表選手タレントが、競技としては全く畑違いである日本フェンシング協会の会長に就任したというニュースもあった。
「競技を知らずに選手のために仕事ができるのか」という、表面上の論点となっている「部外者」問題ついて仮に単純にそのことだけを考えるのであれば、フェンシング協会の中には人材がいないということを公言していることになり恥ずべきことだとか、本来競技を理解しこれまで競技のために長年活動してきた人材を登用するべきだかという考え方は確かに心情的、道徳的なハナシとしては理解できる。が、そのような意見こそまさに「部外者」による勝手な、表面的な感想でしかない。
今回のタレント会長人事はまさに、競技団体の目的とは、存在理由とは何なのかを明確に顕しているのであり、それは「スポーツを愛する個人の活動を支援するため」などということでは決してない。会長の仕事、会長の適性としてその競技団体が必要としているのはまさに(広い意味での)政治力、政治活動であり、真面目に競技に打ち込んできた人間がその職に就く必要も、競技を理解している必要も、ましてや競技を愛している必要も全くないのだ(これについてはそこら辺のサラリーマンでも一つの職場の長がその仕事を理解しているというワケでは全くないのだから、タレント会長の方が人目に晒されるプレッシャーもはるかに大きい分責任も重大ということにはなるだろう)。
実際このような会長人事は組織を強化するため、つまり協会の会員を増やすために有効だと考えられるからこそ行われるのであり、これにより会員が減るということになれば行われるハズがない。件のタレント会長も、お茶の間に人気があり、だからこその人選であり、おそらくフェンシング人口は増えることになるのだろう。世の中的に、大衆はそれを喜んで受け入れていると考えるべきなのである。
結局競技団体の目的とは何かと言えば、それは「カネ」以外の何モノでもないのであり、もちろんそれはアマチュアスポーツであっても同じなのだ。
このようなことを選手、まして子どもたちがどう思うかなどということはそもそも競技団体側には全く関係ないし、実際のところ子どもたちにも否定的な感情よりむしろ好意的な見方の方が多いだろうと思う。競技的にも、選別システムに投入する母数が多ければ多いほど結果に表れ、結果が出れば会員が集まるというのが最も基本的なビジネスモデルである。
日本代表選手ともなれば当然、その競技団体の選別システムによって徹底的に選び抜かれた人間達である。彼らが生み出す利益によって組織が運営されるのであり、彼らは組織の利益のために存在するのである。
もちろん結果を出した極一部の選手には本人の収入にもその利益の一部が反映されるのだが、ちょっと前に際どい写真集を出版して話題となった、オリンピックでメダルは獲得できなかったものの国内では有名な女性アスリートは、選手としてのピークをとうに過ぎたものの現役にこだわり続けた結果、なかなか厳しい経済状況の中で活動し続けているということだった。つまり「ピークを過ぎる」ということイコール「価値がなくなる」のが「代表選手」という「商品」なのである。その後は論功行賞で組織の仕事でもするかタレントにでもなるのがフツーなのだろうが、競技自体を愛する彼女のような人間はだいたいこのような(もちろんそれが本人の意志であればいい悪いの問題ではないが、少なくとも経済的には厳しいという)状況になるのが社会の法則なのである。
とは言え実際のところ彼ら選手の大半は、何もわからない子供の頃から競技団体の選別システムの中で身を削り、その中で運良く一握りのトップ選手になれたしても、まだまだ社会人としては未熟な状態でピークを迎え、そしてそれを過ぎるとお払い箱になるのがお決まりのパターンだ。大抵はそうなってからようやく本当の「自分」と向き合う人間と、そのまま組織の歯車として生きていく人間がいる、というようなことだろう。
これは自然の法則であり、それを最大限利用する人間が正しいのであり、理解していない人間がいるとすればそれはその人間が愚かなのだと言わざるを得ない。もちろん理解はしていても利用はしないという人間も数多くいるのだが、理解し利用したくても簡単ではないということもまた自然の法則ではある。
件のタレント会長についてのテレビの情報、芸能人側からの発信ではほぼ全て彼を礼讃するものばかりだが、興行主としてマスコミと競技団体は目的が同じなのだから当然である。またその中での芸能人の発言の中身で言えば「あいつはまじめなやつだ」「みんなのために頑張れるやつだ」「だからいんじゃね?」というような、小学生レベルのハナシなのだが、社会の法則を知り抜き、芸能界で生き抜いてきた彼らが本気でそう思っているワケでもないだろう。そもそも芸能界とはそういう場所であり、そこで生きる彼らは、彼らの論理で、彼らの利益のために、全力を尽くすのである。
これは政治家も全く同じであり、コロナ対応で散々エビデンスがどうのこうと言いながら、ここに来てオリンピック強行の理由に平気で感情論を持ち出すような、蛙の面に小便のような人間達でなければ、そこまでの立場には決してなれない。
つまりマスコミ、芸能人、競技団体、選手、そして政治家は皆同じ穴のムジナなのであって、テレビや新聞は全てオリンピックという興行のために存在するのである。
結局、オリンピックとは「祭り」である。
歴史的に見れば、祭りとは権力システムそのものでもあり、大衆の帰属意識を高めるため、あるいは帰属意識の高い人間が満足感を得るために催される「儀式」なのだ。儀式とは、シャーマンにとって最も重要な「技術」であり「道具」である。
大相撲では呼び出しの時必ず出身地を言うことになっているが、これはかつて力士は地域の英雄として見られていた証なのだそうだ。
また国内では一大スポーツイベントである高校野球は、昭和であれば地元の高校が出場すれば大人から子供まで大喜びだった。現在は強豪高と言われるところはほぼ全て全国から生徒が集まっているのだから、地元出身の選手などほとんどいないのだが、そんなことは誰も気にしないのである。
オリンピック賛成派とは、そもそもお祭り大好き、周りと一緒になって騒ぐのが好きな人間達であり、日本人、日本国に帰属している事以外に自分の存在を見いだせない集団主義の人間達であり、努力、根性という精神論が大好きな人間達である。
そしてもう一つは、それらの人間を最大限利用し莫大な利益を得る人間達であり、これらを前述の人間達と併せて「体育会系」と呼ぶ。
オリンピックとはまさに「体育会系の祭典」なのである。
対して反対派というのは、一言で言えば、上記のような人間が嫌いな人間達である。
政府が嫌い、マスコミが嫌い、競技団体が嫌い、にわかファンが嫌い、バカが嫌い、故にオリンピックが嫌いなのである(ただ今回はコロナ問題を論理的に考える人間、そして論理的思考力とは別に単に不安が強い人間が多く含まれるかもしれない)。
社会を動かしているのは、このような人間達では決してない。故に彼らは多数派とはなりえない。
社会、経済を動かしているのは、賛成派のような人間達の強力な「欲望」である。
彼らは決してバカではない。社会の法則を理解し、他人を観察し、情報を集め、必死で考え、自分の利益のために必要なことを最大限実行している、それだけである。
むしろバカなのは、理屈や道徳、規律や規範、善と悪などという概念を持つことで彼らに利用されている反対派のような人間たちである。実際反対派には何の力もない、故に理屈や道徳を持ち出すことしかできないのだ。
こう見えて自分も若い頃は複数の競技に実際に参加していた。
社会人になると運営側の仕事も一定程度こなさなければならなくなり、ほとんどの参加者が子供という地方の小規模な大会の実務を何度か経験している。
その中で、自分のチームを少しでも有利にしようとする指導者が少なからず存在することには正直辟易していた。
日本のスポーツ指導者は体育会系精神の塊であり、日本のスポーツ文化のレベルの低さはもはや日本人の性なのである。
自分が所属していた団体では幸いにもその競技、そして選手を愛する指導者に恵まれたと思っているが、そのような指導者はたいてい大会の結果などにはこだわらないものである。
そのような指導者もいること自体間違いはないが、巡り会えたとすればそれは本当にたまたま、幸運でしかないということを認識するべきだろう。
Posted at 2021/07/01 06:20:47 | |
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