
今を去ることウン十年も昔。遠い昭和の時代、中学1年生の時の国語の教師は、野武士のような風貌をした人で、年齢はおそらく五十台も後半だったのだと思う。
厳しい教師で、何か忘れ物とか不始末があると、今であれば体罰に近いこともあったように思うが、授業がおもしろかったのと、その合間に時々する余談が興味深く、negaboはこの教師が好きだった。
この教師は、第二次大戦中、飛行機乗りで、特攻を命じられたが飛行機の故障で不時着し、漁船か何かに助けられたということだった。特攻といっても、戦闘機で艦船に体当たりするものではなく、艦上爆撃機か攻撃機で敵基地を攻撃するというものだった。negaboはうかつにも、「故障しなかった他の機はどうなったのですか?」と授業中発言してしまった。その教師は、表情を変えることなく、しかしnegaboの問いに答えることもなかった。まずい質問をしてしまった…中学1年ながらそう思った記憶は忘れられない。
その教師が、戦争に使う飛行機について話していたことも記憶に残っている。自分が乗っていた機(96式とか97式っていうような年式を言っていたようだが艦上爆撃機だか攻撃機だか憶えていない。なんとなく2名乗りの双発機を想像しながら聞いていた)は、まだ広いほうだったが、零戦などの単座戦闘機は、本当に狭い。搭乗すると体をまともに動かすことができない。戦うためだけに作られた飛行機だということだった。
零戦を作るときに、限りなく軽量化を図り、空気抵抗を減らすために、リベットの頭を滑らかにした話や、運動性能重視で装甲板などには力を入れなかったため、銃撃を受けると穴が簡単に空いたなどということは本で読んで知っていたので、なるほどそのようなものなのかと思った。
第二次大戦終盤で、桜花という特攻のロケットが登場した。一式陸攻という大型の飛行機のお腹に取り付けられ、離陸し、目標に目がけて飛び込んでいくという恐ろしいロケットで、ミサイルの電子制御を人間が操縦して行うというものだ。
人の命は兵器の一部。しかも交換部品であった時代なのだなぁと中学生ながら思ったnegaboなのだ。
中島飛行機という、航空機メーカーを前身とするスバル。その生み出してきた乗用車が、飛行機メーカーとしての影響が色濃く出た自動車づくりしてきたということはよくいわれることだ。

自分にとっての初めてスバルのクルマは三代目レオーネツーリングワゴンで、グレードはST。1800CCのエンジンは、非力に感じたこともあったが、ハイトコントロールにより車高が変化したり、副変速機が付いており10段変速にもなるトランスミッションにはこだわりを感じた。また、ボディ下部の塗装はちょっとやそっとぶつけても錆びさせないぞというヘビーデユーティを感じた。
以来、レガシイツーリングワゴン・TiタイプS、レガシイグランドワゴン、レガシイアウトバック、フォレスター(SJ)と乗ってきた。
自分が乗り続けるには、クルマも大型化してきたし価格も高額になってきたし、今後はどうなるかわからない。今乗っているフォレスターで普通車購入はおしまいかもしれない。そうなると自分が今後スバル車を買う意味はあるだろうかなぁなどとも思っている。
今年になって、娘のためという口実で、スバルの軽自動車の遺産ともいうべきR2を中古で購入し、その乗り心地に驚いた。この足回りは、軽自動車らしからぬものだ。またブレーキの効き方もすばらしい。
妻のハスラーには、様々な足回りの強化部品を取り付けたい気持ちになり弄ってきた。しかし、R2は弄る気がしない。このままで走っていて楽しい。小気味よく街の中を駆け抜け、のんびり田舎道を走れる。長い長い急坂はちょっと苦しい悲鳴をあげるが一人か二人でドライブするにはとても楽しい。
走行距離は37000kmほどで手に入れたクルマだが、何しろ12年前のクルマだ。できるだけ長く乗れるようにしていきたい。
なぜだかわからないが、R2を運転していると、冒頭の国語教師の話を思い出す。何度も思い出すのでこの文章を書いている。
R2は操っている感があり、飛行機を連想するのだろうか。それとも戦闘機の広さの話を聞いたせいだろうか。R2は決して広い室内ではない、車検証入れを入れるスペースにも困り座席下に置いているくらいだから。
アタマの中で思うことってのは不思議なものだ。
Posted at 2020/09/30 11:35:41 | |
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