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2023年07月16日 イイね!

第5回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜日産編♪

第5回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜日産編♪さて、トヨタ、スズキ、ダイハツ、ホンダと来まして、ついに日産自動車について調べてみよう〜語ってみよう〜となりました!


そう第5回となります、今回は日産自動車です。




うーん。。。
実は日産には特別な思い入れがありましてね。。。

ちょっと写真はないのですが私が初めて買ったクルマがドノーマルの日産S13シルビアK'sです☆

この車にどうしても乗りたくて免許を取りました!

当時の写真がない為1番近い画像を拝借しました。
(Nosweb.jpより)

ただ、初めての車はサンルーフ付きで雨漏りが凄く、さらにタービンブローやエアコンもブロー、オイル漏れも激しかった上に自損事故もして廃車になってしまいました。


そして飽きずに再度購入(笑)


アオシマ プラモデル 1/24 ザ・ベストカーGT No.079 S13 シルビア後期型 エンジン付
(こちらも写真がない為青島文化教材社さんより)



今度もまた黒のK'sでワチャワチャ弄ってある車を買っちゃいました(笑)

見た目はノーマルだけどTEIN車高調、ワタナベのアルミ、エアロはノーマル、A'PEXiのマフラー、社外タービン、社外ブローオフ、社外エアクリ、得体の知れないROMチューン車に乗ってましたが、国道で追突されて廃車になってしまいました(泣)


2台合わせても6年くらいしか乗れなかったこともあり、シルビアにはやはり今でも特別な思い入れがあります。


しかし、なんで写真が1枚も残ってないのか😭


実は、今のワゴンRは昔の2台目のS13シルビアみたいにしたくて、ワタナベのアルミ履いたり、ステアリングも当時シルビアに付けていたそのままのmomo VELOCE RACING
、ホーンはmomo CORSE BLACK にしたり、シートも当時のRECAROル・マンカラーにしたりしているわけで(笑)







今の車も気分はシルビアのようなつもりで乗っています(笑)



まっ、そうゆうわけで私は、MT車好きの古い人間なんですよ。。。(笑)


だいぶ前置きが長くなりましたが、やはり日産車はねー、ホンダ車もそうなんですが過去の車の印象しかないんですよね。。。



ホント、昔が良すぎてね〜、



とゆうわけで個人的な感情がだいぶ入ってしまいますがどうか怒らないで頂きたいものです(汗)


日産自動車株式会社(にっさんじどうしゃ、英: NISSAN MOTOR CO.,LTD.)



神奈川県横浜市に本社を置く、日本の多国籍自動車メーカー。

同社の筆頭株主のルノー、三菱自動車工業の3社と、ルノー・日産・三菱アライアンスを形成している。

また三菱自動車工業の筆頭株主でもある。

神奈川県横浜市のグローバル本社

1905年に、鮎川義介が最先端技術であった鋳物技術の習得へ渡米した際に、米国工業の頂点に自動車工業があると見たことに端を発する。

義介の帰国後、大叔父の井上馨の斡旋により、親戚の久原家、貝島家、藤田家、三井家の出資を受け、1910年に福岡県戸畑市(現在の北九州市戸畑区)において戸畑鋳物株式会社(現在のプロテリアル、旧日立金属)を創設し、義介が専務技師長となり鋼管製造の傍ら、1924年には農業用・工業用・船舶用石油発動機製造販売へ事業を発展させた。

戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し1929年(昭和4年)に自動車用マレブル鋳鉄製造を始める一方で、久原家が興した久原鉱業の社長に就任して同社を改組し、1928年に日本産業株式会社(略称、日産)とした。

これが後の日本産業コンツェルンの基となる。



【ダットサンの成り立ち】



『快進社』


明治時代末期の1911年(明治44年)、輸入車の模倣で実験的に作られた一品モノに留まっていた自動車を国産化すべく誕生した「快進社」は、1914年(大正3年)にエンジンまで純国産のダット自動車(脱兎号)を開発、1918年(大正7年)にダット41型乗用車を発売します。

DAT号と快進社の従業員。

快進社は乗用車の分野では輸入車が圧倒的な力を持っており、とても太刀打ちできず、トラックの分野に参入する。

それは陸軍がトラックの国産化政策を進めようとしていたからだ。

第1次世界大戦で人員や物資の輸送に自動車が役立つことがわかり、民間企業に製造を委託しようと考えたのだ。

しかし、快進社の規模は小さく、陸軍はまともに相手をせず認定しなかった。

交渉の末にようやく認定されたのは1924年である。

それでも経営状況は好転せず、1925年に快進社は解散。


『実用自動車製造』

一方で大阪の久保田鉄工所(現クボタ)を中心として自動車を造ろうという機運が盛り上がり、1919年に実用自動車製造が設立された。

アメリカ人技師のウィリアム・ゴルハムの指導を受け、三輪自動車のゴルハム号の製造が始まる。

実用自動車製造の三輪自動車。右端に写るのが、開発を指揮したウィリアム・ゴルハム。



しかし事故が多く、安全性に疑問を持たれ苦戦していた。

1919年、実用自動車製造は四輪乗用車のリラー号を開発して販売していたが、販売は低迷して経営危機に陥っていた。

陸軍のあっせんで快進社と実用自動車製造は合併して生き残る道を模索する。

1926年にダット自動車製造が設立され、実用自動車の工場でダットの保護自動車が製造されることになった。



戸畑鋳物株式会社の傘下として、1931年にダット自動車製造株式会社を収めるものの、1933年(昭和8年)ダット自動車製造株式会社が、株式会社石川島自動車製作所と合併し自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)を設立するに際して、戸畑鋳物株式会社がダットサンの商標と製造権、および、大阪工場を無償で譲り受け、日本産業株式会社の出資を加えて同年12月に、新ためてダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。


1933年式ダットサン12型フェートン。

ダットサンという名称は1932年の10型から採用された。




日本産業コンツェルンを、翌1934年(昭和9年)に日産自動車株式会社と改称したのが、興りである。

1936年(昭和11年)9月14日、自動車製造事業法に基づき豊田自動織機とともに政府から自動車製造許可を受けた。

なお、先の自動車工業株式会社は、橋本増治郎が1911年に設立した快進社がルーツであり、1914年に誕生したダット号が初の自動車の開発・製造であった。

しかし、ダットサンの知財と大阪工場を得たのは日産であった。




さて、ここからは日産の歴史を名車と共に載せて行きます☆


創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年にイギリスのオースチンと技術提携している。

1958年には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場してクラス優勝を飾り、1960年には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。

110型系(1955年 - 1957年)

ダットサン1000乗用車(210型)
画像は1958年オーストラリア・モービルガス・トライアル、Aクラス優勝の富士号


初代ダットサン・ブルーバード
P311型(中期型)
1960年10月 - 1961年8月



1966年8月1日には、経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により合併。

スカイライン、グロリアなどの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む人材を戦列に加えた。



スカイラインスポーツのベースとなった1961年式「プリンス・グロリア」。テールフィンの生えたアメリカ車的なスタイリングを持つ、当時の国産最高級車だった。


ALSID-1

BLSID-3
61年式「スカイライン1900デラックス」。前出のグロリアとの差異は、エンジンがハイオク仕様のグロリアに対してレギュラー仕様となるため最高出力がやや落ちること、および内外装の細部のみ。これらの写真を見比べた限りではサイドモールディングとホイールキャップくらいしか違いがないが、グロリアのほうがアクセサリーが豊富なため車重はやや重く、スカイラインの1340kgに対してグロリア1360kg だった。



またプリンス自動車工業の宇宙開発事業を承継し宇宙航空事業部を発足させた。

1973年の米国環境庁(EPA)の燃費テストでサニーは第1位となり、この間、燃費向上のための高張力鋼板およびボディの防錆性の向上のための亜鉛ニッケルメッキ合金を用いた防錆鋼板(同社では「デュラスチール」と命名)、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで、「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。

日産 サニー 4Drセダン 1973


しかし、その反面、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」が戦後に解散となった際、日本国内各地の地元の有力ディーラーの大半がトヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)に組織化されたために販売力でハンデがついてしまい、技術面では「技術の日産」と評されるほどに優位を保っていた反面、販売面ではマーケティングと販売戦略で業界トップとなったトヨタには及ばず、1980年代以降は更にトヨタとの差は広がった。



【901活動】

1980年代には「90年代までに技術世界一を目指す」という名の下、全車種を対象にエンジンをはじめ、シャーシやサスペンションの設計目標と、走行実験におけるハンドリング評価基準の大幅な底上げなどに力を注いだ「901活動」がおこなわれており、日本車の技術向上に大きく貢献したことでは一定の評価を受けている。



さぁ〜ここからですよ😀


1980年代後半のバブル経済(バブル景気)時代には、K10型マーチをベースにしたパイクカーの第一弾として限定1万台で発売され2か月で予約完売となったBe-1。

K10型マーチ

1985年2月発売型(日本仕様)

Be-1



日産・Be-1
BK10型


これは、話題になりましたね☆


私の中のマーチといえばこれ♪

1989年1月に登場したマーチの史上最速モデル、スーパーターボ


全日本ラリーのベース車として、1988年に登場したマーチR。Rのロゴマークが眩しい!!


マーチRのインテリア。レーサーの定番装備でもあった3連メーターや、MOMO製の3スポークステアリング


もうこの車は反則だね😀
車両重量は770kgにして
エンジンは直4SOHC+スーパーチャージャー+ターボ。


スーパーチャージャーにターボって(笑)

これは日産の最高傑作です☆




さて、当時日本唯一の3ナンバー専用の高級車であったY31型シーマ。

バブル時代のトレンドが再び注目され、「バブルの象徴」としてテレビでも取り上げられる機会が増えているのが、日産の初代シーマ(Y31型)だ。

これは怖いお兄さんがたくさん乗ってましたね(笑)


そして当時はデートカーとして人気となったS13型シルビアなどをヒットさせた😄

ライトウェイトスポーツの日産のS13型シルビア



はい!
出ました😀

S13シルビアです☆


S13型シルビアQs 前期。

’88-’89日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞、’88年度グッドデザイン大賞の受賞とメディアからの評価も高かった。

1.8L 16バルブ直4ターボのCA18DETエンジン 前期型

搭載するエンジンはCA18型の1.8L直4で、NAモデル135馬力のJ’s、Q’sと、ターボモデルで175馬力のK’sが用意されていました。そのK’sは、軽快に吹き上がるエンジンで、パワーもトルクもちょうど手頃、爽快な加速性能を持っていました。

1991年にマイナーチェンジしたS13シルビア後期型。

主な外観の変更点はリアスポイラー形状とアルミホイールのデザイン

それまで搭載していた1.8LのCA18型エンジンが、2LのSR20型に変更されました。

これによってNAは135ps/16.2kgm→140ps/18.2kgmへ、ターボは175ps/23.0kgm→205ps/28.0kgmへパワーもトルクも高くなって、断然力強くなりました。

手の届く価格、手頃なサイズ、振り回して走るのに充分なパワーと3拍子揃った頃で折からのドリフトブームのアフターバーナーに点火する役割を果たしたものシルビアでした。



それが今や中古車市場において手の届かない領域にあります(笑)

びっくりですね🥹


S13型シルビアの「リトラクタブルヘッドライト&ハッチバッククーペスタイル版」としてラインナップされた180SX(写真はTYPE2)

シルビアとのパーツの互換性が高かったため「シルエイティ」「ワンビア」と呼ばれる合成車も流行った。のちに「シルエイティ」は日産純正として500台限定で販売されている(写真はTYPE2)



さて、「Be-1効果」や「シーマ現象」なる流行語まで生みだし、「901活動」のもとで開発されたR32型スカイラインやZ32型フェアレディZなどのスポーツ系車種をはじめとしてP10型プリメーラなどのセダン系車種なども高い評価を得るなど存在感を示していた。


『R32型スカイラインGT-R』


R32型スカイラインGT-Rは2ドア・クーペ、4人乗りのみ。当時、日産でおこなわれていた運動性能向上運動「901運動」の集大成ともいうべきモデルだった。

サスペンションは前後ともマルチリンク。



『Z32型フェアレディZ』


z32 2シーター ノーマルルーフの5速ツインターボ


ちなみにこちらは私の親友T.OHTANI君が乗ってました☆





2by2


『P10型プリメーラ』


4ドアセダン(後期最終型)
1994年9月 - 1995年9月

ちなみにこちらも私の親友T.OHTANI君が乗ってました☆



『スカイラインの歴史』


日産・スカイライン(3代目)
C10型
通称:ハコスカ(箱スカ)

2000GT-X



GT-R

日産・スカイライン(4代目)
C110型

2000GTX-E(Sタイプ)

GT-R

日産・スカイライン(6代目)
DR30/HR30/FJR30/ER30/VPJR30/VSJR30
通称:ニューマンスカイライン、鉄仮面(後期型RSの通称)、New愛のスカイライン(前期)

前期型(1981年-1983年)
2ドアハードトップ2000ターボGT-ES



後期型(1983年-1985年)
4ドアセダン2000ターボRS-X


テレビドラマ「西部警察」に登場したマシンRS-1。2000ターボRSをベースとしており、赤灯などを除いたエアロパーツ類は当時一部ディーラーオプションとして設定されていた。

日産・スカイライン(8代目)
BNR32/HCR32/HNR32/HR32/ECR32/ER32/FR32/HNR32改

前期型4ドアGTS-t



GT-R



すいません。。。
自分の好きなところしか載せてません(⁠+⁠_⁠+⁠)



『フェアレディZの歴史』


初代 S30型系 (1969年 - 1978年)

2by2(GS30型)

2代目 S130型系 (1978年 - 1983年)

280Z Tバールーフ 2シーター

280ZX リア

280Z 2by2

3代目 Z31型系 (1983年 - 1989年)

300ZX 2シーター (前期型)

300ZX 2/2 (後期型)

4代目 Z32型系 (1989年 - 2000年)


5代目 Z33型系 (2002年 - 2008年)




『プリメーラの歴史』


初代 P10型/W10型系(1990年 - 1995年)

5ドアハッチバック(欧州仕様)

2代目 P11型系(1995年 - 2001年)

4ドアセダン
1997年9月改良型


◉1989年は国産車のビンテージ・イヤーといってよく、スポーツカーに限ってもユーノス「ロードスター」(NA)が生まれ、トヨタ「MR2」(SW20)が一段とスポーティに生まれ変わり、ホンダ「CR-X」にVTECを搭載したSiR(EF8)が追加され、ラリーで活躍していたトヨタ「セリカGT-FOUR」(T180)がモデルチェンジしてより戦闘力を高め、日産「フェアレディZ」(Z32)は一気にモダンになった。


ホント全メーカーこの時代か最高の時代だったのではないか😄





しかし、1991年のバブル経済崩壊以降に開発・発売されたU13型ブルーバード(特にEEX/SSS系の4ドアセダン)やC34型ローレル、B14型サニー(同B14型ルキノクーペを含む)、S14型シルビア、R33型スカイライン(同R33型GT-Rは除く)、R11型プレセア、N30型ルネッサなどの車種は終始、販売不振に終わり、低迷の兆しは見え始めていた。

9代目 U13系ブルーバード

セダン

7代目 C34型系ローレル(1993年 - 1997年)

前期型
1993年1月 - 1994年1月

後期型
1994年9月 - 1997年6月

8代目 B14型系サニー(1993年 - 1999年)

中期型 1.5EXサルーン
(1995年9月 - 1997年5月)

後期型 1.5EXサルーン
(1997年5月 - 1998年10月)

6代目 S14型シルビア(1993年 - 1999年)



前期型(1993年10月-1996年6月)

後期型(1996年6月-1999年1月)

9代目 R33型スカイライン(1993年-1998年)

セダン 1993年販売型 GTS25t タイプM



セダン 1996年1月改良型 GTS25 タイプS/S

2代目 R11型プレセア(1995年-2000年)

1995年1月発売型



1997年6月改良型 2000レフィナL

N30型ルネッサ



ルネッサ(前期型・1997/10-2000/1)



『S14シルビアとR33スカイライン』


S13シルビアからフルモデルチェンジを図ったS14シルビアの登場は1993年。

S13の成功後だけに、大きな期待が寄せられていました。

しかし、全体に大型化が図られ軽快さがスポイルされたことに加え、丸みを帯びたデザインが重たいイメージに拍車をかけたために批判を浴びます。

S13が近未来的でスタイリッシュなボディデザインと高い走行性能から販売台数は約30万台にも及び、5年間販売されました。

その後もマイナーチェンジをし、特別仕様車を投入するなど精力的に販売数の増加に取り組みますが、先代S13とほぼ同等の販売期間にもかかわらず、8万5千台あまりの販売でS14の生産は終了します。

S14シルビアに搭載されたエンジンは、S13後期から引き続きSR20型でした。

しかし、後継のS15に搭載されたSR20エンジンと比べても遜色のないほど、大幅なパワーアップが図られています。

自然吸気のSR20DEで160ps、ターボのSR20DETでは220psの最高出力を発揮。1997年に作られたオーテック特別仕様車は、250psとS15とまったく同じ出力です。

実は車重の増加に見合うポテンシャルの引き上げがしっかりと行われていたので、見た目のイメージほど走行性能は犠牲になっていません。

S14シルビア不人気の理由となった、ボディサイズの大型化はクルマの運動性能という意味では決してマイナスではありませんでした。

トレッド幅とホイールベースの拡大によって走行安定性が向上。限界領域でのコントロール性能も高かったことから、当時盛り上がりを見せていたドリフトシーンで注目を集めます。

また、ボディ剛性も曲げ剛性で約200%、捻り剛性で約150%とS13から大幅にスペックアップしていたことも、ボディに無理を生じさせるドリフトには有利な点でした。さらに足回りも。

S13と共通ながらストローク量が確保されていて安定性が増しています。

いずれのポイントも、ボディの大型化によって実現した性能です。

当時の日産デザインを象徴するS14の丸みを帯びたやわらかなスタイリングと、大型のボディサイズによる高い居住性は現在では魅力の一つとして見直されています。

S14と同様に大型化で不評を買ったもう一つの日産車がR33型スカイラインです。

しかし、R32の高騰を皮切りに大きく見直され、海外を中心に高い評価を得るようになったのはご存じの方も多いでしょう。

「R33」って呼ばれる9代目スカイラインが登場したのは、1993年。

日産・スカイラインGT-R(4代目)
BCNR33型

1997年改良型


技術的にも凝っていた。作り手の思い入れを感じさせるモデルだ。

搭載された新技術は多い。

ひとつは、電動式になった後輪操舵の「スーパーHICAS(ハイキャス)」。

橫G応答制御が加わった。

もうひとつは、アテーサE-TS(電子制御トルクスプリット式4輪駆動システム)採用のフルタイム4WDモデルの設定(1993年11月に地追加設定)。

当時は、しかし、批判にさらされたクルマだった。「大きい」とか、「太った」とか、「おとなしく見えすぎる」とか。

先代のR32スカイラインは「室内が狭い」と言われ、かつ衝突安全性のためにはクラッシャブルゾーンの大きなボディが必要だったが、スカイラインにスポーティさを期待しているひとたちには、どうにも不評だった。

1995年1月に追って発表されたR33のGT-Rも、やはりおなじ批判にさらされた。

でも280馬力(と公表数値以上の)パワーと、37.5kgmの最大トルクを実現。

すくなくとも数値上の性能は向上していた。

いたずらにデカくなったという批判を事前に回避するため、日産はニュルブルクリンクでR33GT-Rを走らせた。R32GT-Rが8分20秒だったのに対して、R33は7分59秒。

“名車”と高く評価されたR32GT-Rより21秒もタイムがちぢまったことをさかんに喧伝。

RB26DETTエンジンに、アテーサE-TSとメカニカルLSD(VスペックではアクティブLSD)、さらに電動スーパーHICASにはヨー(旋回したときの慣性)レートフィードバック制御も盛り込んだ。

250馬力の6気筒ターボエンジン搭載の「GTS25tタイプM」だって、とても操縦が楽しいクルマである。

とゆうわけで、S14シルビア、R33スカイラインだって究極の名車なのだ(笑)



私は別に日産の関係者ではない(笑)
雑誌から抜粋したもので私もそう思うのだ(笑)




【経営危機】

バブル崩壊の影響で、高価格で収益性の高いシーマやセドリック、グロリアなどの高級車の販売が減少した上に、もともと商品企画(いわゆるマーケティング)や販売戦略が不得意な上にヒット車種を数多く出せないこと、さらに過激な組合運動に足を引っ張られ抜本的なコスト削減もままならないまま財務内容はますます悪化の一途を辿り、「901活動」でコスト上昇を招いた走行実験部やデザイン部を中心としたリストラを断行してもなお1998年には約2兆円もの有利子負債を抱え経営危機に陥ってしまう。

その中でも、A32型セフィーロ、E50型エルグランド、K11型マーチ、C23型バネットセレナ(のちのセレナ)などがコンスタントに販売台数を記録して経営危機に陥っていた日産を支えていた。

2代目 A32型セフィーロ(1994年 - 2000年)

前期型

後期型

2.5 Sツーリング(後期型)

初代 E50型エルグランド(1997年 - 2002年)

キャラバンエルグランド

ホーミーエルグランド ハイウェイスター

後期型(2000年8月 - 2002年5月)

2代目 K11型系マーチ(1992年 - 2002年)

1992年1月発売型



1999年11月発売型


初代 C23型バネットセレナ/セレナ(1991年 - 1999年)

前期型 (1991/6 - 1994/4)
2.0 FX

中期型 (1994/5-1996/12)
2.0 FX フルオートフルタイム4WD

後期型 (1997/1-1999/6)


しかしながら、R34型スカイラインGT-RやZ32型フェアレディZ、S15型シルビアを始めとしたスポーツカーも後継機を世に送り出すこともなく生産中止となった。

日産・スカイラインGT-R (5代目)(1999年 - 2002年)
BNR34型

M−Spec Nür



7代目 S15型シルビア(1999年 - 2002年)

オーテックバージョン

ヴァリエッタ

スペックRエアロ


さて、ここまでダラダラ書いてしまったが。。。


私の日産愛はこのあたりから終息していく。。。



その後、軽自動車市場の拡大を背景に、軽自動車を含めた日本国内シェアで、ホンダの後塵を拝するようになり、国内シェア第3位に転落した。



【ルノーと資本提携へ】


継続的な販売の不振により、2兆円あまりの有利子債務を抱え倒産寸前の経営状態となった1999年3月に、フランスの自動車メーカーのルノーと資本提携(ルノー=日産アライアンス)を結び、同社の傘下に入り更生を図ることとなった。

提携内容は、ルノーが6430億円(約50億ユーロ/330億フランスフラン/54億USドル)を出資し、日産自動車の株式36.8%、および日産ディーゼル工業の株式22.5%を取得するとともに、日産自動車の欧州における販売金融会社も取得するというものだった。

当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさや労働組合の抵抗などを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行き先を危惧した。

同年中に日本人社長の塙義一は解任され、ルノーの取締役会長兼CEO(PDG)であったルイ・シュヴァイツァーの指示より同社副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営責任者(CEO)に就任した。

ゴーンらのチームは、同年10月19日に発表した「日産リバイバルプラン(NRP)」のもとリストラを進めた。

ルノーから資金や人員が注入されると同時に、東京都武蔵村山市にあった日産自動車村山工場や、京都府宇治市の日産車体京都工場などの生産拠点の閉鎖、資産の売却や人員の削減とともに、子会社の統廃合や取引先の統合、原材料の仕入の見直しなどによってコストを削減した。

またこれに先立って外国企業の影響を避けるため、宇宙航空事業部が石川島播磨重工業に売却され、IHIエアロスペースが設立された。

更に、車種ラインアップの整理と同時にデザインなどを刷新し、積極的な新車投入を行ったことで販売台数を伸ばし、2003年6月には当初の予定から前倒しで負債を完済した。



【2000年代以降】


ゴーンは日産自動車の建て直しの手腕が高く評価され、2005年4月からはルノーの取締役会長兼CEO(PDG)も兼任している。

2013年11月までは、ゴーンCEOの指揮の下で日産自動車生え抜きの志賀俊之が最高執行責任者(COO)を務めていた(現在は日産社内でのCOO職は設けていない)。

2008年には、サブプライムローン問題に端を発した世界的な金融危機や原油高騰による不況の中、世界販売台数は0.9%増加し、アメリカでは自動車販売台数が18%減少の中、日産は10.9%減にとどまった。

2007年春に、企業誘致に熱心な横浜市の「横浜みなとみらい21(MM21) 地区」66街区に本社社屋の建設を着工し、2009年8月2日に「横浜グローバル本社」として竣工した。

2014年には、2018年までにルノーとの部品共通化を7割まで拡大すると発表した。

三菱自動車工業との共同開発で軽自動車の販売をしておりミニキャブ→クリッパー、ekワゴン→デイズとして販売している。

2015年度、2010年代の営業利益のピークを迎える。

北米市場の売り上げ増が拡大の原動力となっていたが、内情はモデルチェンジのサイクルを伸ばし、インセンティブの積み増しによる薄利多売が支えていたもので、ピークアウトした2016年度以降はインセンティブの効果も薄れ営業利益が激減していった。

モデルチェンジのサイクル延長は、カルロス・ゴーン代表取締役の方針によるものだったとされ、代表取締役が離脱(後述)した後は各国の投入する車種群の見直しが進められた。



【三菱自動車燃費偽装問題発覚】

2016年4月に三菱自動車の燃費偽装問題が発覚した事に関連し、5月12日に日産が2370億円で三菱自動車の発行済み株式の34%を取得し筆頭株主となり、戦略的アライアンスを締結すると共に、三菱自動車の再建を支援すると発表した。


同年10月20日に日産が2370億円で三菱自動車工業の発行済み株式の34%を取得し筆頭株主となり、ルノー・日産アライアンスに加わったことを発表した。

2017年9月15日に発表した新6ヶ年計画では三菱を含めてさらにアライアンスを強化し、アライアンス全体のパワートレインの共通化を従来の1/3から3/4に拡大するとしている。

2017年1月、ディー・エヌ・エー(DeNA)と提携し「自動運転タクシー」の開発を進めると発表した(2017年度より「Easy Ride」として実証実験も開始)。



【無資格者検査問題発覚】


2017年9月29日まで、同社の日本国内の全6工場で生産した21車種について完成検査の一部を未認定の検査員が行っていたことが明らかになり、新車販売を一時停止する事態となった。

同年10月6日、新車の完成検査を無資格の従業員が行っていた問題を受け、乗用車など38車種、計約116万台のリコール(回収・無償修理)を国土交通省に届け出た。




【2018年7月、排気ガス性能検査結果改ざん問題発覚】


【2018年11月、カルロス・ゴーンによる役員報酬に係る不正問題発覚】


筆頭株主のルノーから派遣されたカルロス・ゴーンが代表取締役会長兼社長兼最高経営責任者(CEO)を2017年3月まで務めた。

同年4月からは会長に専念、また2005年4月よりルノーの取締役会長兼CEO(PDG)も兼任してきたが、2018年11月19日、金融商品取引法違反容疑で逮捕された(後述)。

日産自動車は同月22日に開かれた臨時取締役会で、同代表取締役のグレッグ・ケリーとゴーンの代表取締役会長職の解任を決議した。



【2018年12月、ブレーキ検査の数値かさ上げ問題発覚】



もちろん他のメーカーもいろいろ不祥事あってリコールとかやっているけど、正直カルロス・ゴーンの問題で決定的に日産のイメージは地に落ちてしまった。。。

しかも、日産の経営陣、幹部の問題で従業員は罪なく振り回されている。


1番は『技術の日産』って自分達で言わなきゃ良いのに😔

技術の高さや評判は他人が言うことであって(笑)


あと、キムタクのアンバサダーはなぁ〜。。。

もちろん木村拓哉さんが悪いわけじゃなくて、それこそ長い期間、トヨタの1994年にデビューした初代RAV4を皮切りに2004年から2017年にかけて断続的に歴代カローラ(カローラフィールダー)のイメージキャラクターを務めてきた記憶しかない(笑)

もちろん数々の俳優や女優さん達が自動車会社CMを移籍しているのだが(笑)



2015年の東京モーターショーで、トヨタのプレスカンファレンスにサプライズ出演したイチロー。豊田章男社長と。


かつては「イチロニッサン」のキャッチフレーズで有名だったイチローさん(笑)




ただ、私の中では、面白いクルマ作りの日産のイメージも無くなってしまった。。。




【NISSAN NEXT】


2020年5月28日に発表した2019年度決算で日産自動車は1992年決算以来27年ぶりの巨額の赤字決算に転落した(総額6712億円)。

これと同時に事業構造改革計画「NISSAN NEXT(ニッサン ネクスト)」を発表し、コスト削減、過去の過度な値引きに依存した販売体制・老朽車種の刷新、電動化への対応を打ち出した。

翌2020年度決算では新型コロナウィルス(COVID-19)の影響により減収減益になってしまったものの、2019年度決算時に掲げた、損益分岐点の引き下げ、生産能力の削減、新型車の導入に成功した。

業績は依然予断を許さない状況にあるが、快方に向かっている。

2020年7月15日、新CIが導入され、ブランドロゴが19年ぶりに一新された(詳細は後節)。

また、同年8月1日から10月23日まで体験型エンターテインメント施設「NISSAN PAVILION Yokohama(ニッサンパビリオン)」を横浜みなとみらい地区(61街区)に期間限定開設した。

2022年10月、ルノー、日産の両社は共同声明を発表し、資本関係の見直しとの引き換え条件に、ルノーが欧州で計画する電気自動車(EV)新会社に日産も出資を検討していることを明らかにした。

ルノーは現在、日産株43%を保有しているが、資本関係上の「不平等」を疑問視する声は根強く、このため、日産が出資比率の引き下げを改めて要請。ルノーが日産株を15%まで下げ、日産が持つルノー株の15%にそろえるのを軸に協議を進めると伝えられている。

2023年2月6日、日産とルノーは出資比率を15%の対等に揃えることなどを柱とした新たな提携で合意したと発表した。




【先進技術の日産】


先進運転支援システムにおいては日産が一歩リードしている。
過去の日産ばかりあげるわけにもいかないので、

『技術の日産』

を紹介しましょう。



1)前方衝突予測警報

日産の「インテリジェント FCW」はフロントバンパー下部などに取り付けられたミリ波レーダーにより前方とその前、2台の車両との距離を計測することができる。



2)ハンズオフ

日産のハンズオフ可能な運転支援システム「プロパイロット2.0」は、スバルやBMWのADASがハンズオフ可能なのは渋滞時のみとなっているが、日産のプロパイロット2.0は120km/hという国内で許される制限速度のマックスまでハンズオフを可能としている。






3)VCターボエンジン

自動運転といえば一般ユーザーが想像しやすい夢のテクノロジーだが、エンジニアにとっての夢を実現させたのが、「VCターボ」エンジンだ。

燃費やパワーを決める最重要パラメータである圧縮比を自在に切り替えることは理想のエンジンにつながる要素といえる。






4)プレミアム・ミッドシップパッケージ

日産スポーツのフラッグシップであるGT-Rにも日産のオンリーワンの技術が投入されている。ニスモ仕様では600馬力を発生するVR38DETT型V6ツインターボ、雪道からサーキットまでカバーするマルチパフォーマンス4WDなど、その構成要素はトピックスの連続だが、そうしたパワートレインを最適配置しているのが、日産が特許を持つ「独立型トランスアクスル4WD」だ。

このレイアウトの凄いところは前後重量配分を最適化するというだけでなく、ボディの振動をエンジンやトランスミッションの重量で打ち消しあう設計としている点にある。パワートレインをボディダンパーとして利用するという画期的なアイデアによってGT-Rの基本は作られている。





よく、自動運転のCMで手離しでの運転を公開しているが、私は、あくまでもドライバー本人が危険な凶器を扱っているということを自覚しなければいけないんだと思っています。

もちろん、これからの高齢化社会においてまさかの時の運転アシストはとても大事だと思うし、技術の進歩は推奨しますが、CMはあくまでもドライバーとしての自覚を養わせるような構成にしないといけないと思う。

その代表的なものがスバルインプレッサのアイサイトのCM。

私はインプレッサが大好きな車でもあるし、クルマを否定するのではなく、あの、

「娘を守りたい。だから私はインプレッサ。。。」

それは違うでしょ。
って思ってしまう。

「娘を守りたい。だから私は安全運転!」

じゃないのかな?
って思ってしまう。

不測の場合(飛び出しとか)に役立つアイサイトのCMに替えて欲しいと本気で思う。


私も何回か事故をしている。
だからこそ、常に左右の確認をしなければいけないと思っている。

駐車にしろ、発進にしろ、走行中にしろ、常に目視、動作確認をちゃんとしなければいけないと思う。

各社、運転支援システム等のCMが多いがそこに安全運転を前提にしているとはどうしても思えない。

自動運転技術や安全運転支援システムが進歩してもドライバーとしての自覚が後退したら意味がない。

安全運転に注意喚起をした上でのCMを作るべきだと私は本気で思います。



すみません。。。
熱く語ってしまった(笑)








最後にMT好きのおじさんからすると悲しいのが、200万円以下で買える貴重なMT車「マーチ NISMO S」も消滅してしまいました。

国内の日産車に残るMT(マニュアルトランスミッション)を搭載するモデルが「フェアレディZ」のみとなる……という事実です。

新型フェアレディZ(MTモデル)の価格は、524万1500円から646万2500円までとなります。

こんなん、貧乏人が買えるわけがない(笑)

そもそもスカイラインGT-Rはマニュアル車のみだったのに(泣)


そんな伝説の車達も中古車なのに高くて買えないし(笑)


とにかく日産は良いクルマたくさんあっただけにトヨタのMTラインナップの多さに感服します(笑)


最後に私の好きな日産の名車をもう1台取り上げて終わりにします😄






1990年フルモデルチェンジによってデビューした4代目 日産 パルサー(N14型系)

中でも、ラリー参戦を前提に開発され、イメージリーダーの役割も担っていた「GTI-R」はコンパクトなボディに高出力のターボエンジンを搭載した四輪駆動スポーツモデルとして、日産のコンパクトスポーツモデルのシンボル的存在だ。

3ドアハッチバックの日産 パルサー GTI-Rだが、230馬力を発生させる直列4気筒2000ccターボエンジンを搭載し、前後の動力配分50:50のビスカスLSD付きセンターデフ式四輪駆動(アテーサ)を採用。

実際、0-400m加速は13.5秒と、R32 スカイライン GT-Rに迫るかなりの俊足ではあったものの、前70:後30のフロントヘビーな前後重量バランスと195/55R14のタイヤサイズにより、いわゆる“曲がりにくい車”になってしまった。

開発当初からの目標でもあったラリーへ参戦し、1992年にスウェディッシュラリーで総合3位を獲得するも、エンジンの排熱をはじめ多くの問題が浮上し、さらに日産の経営不振と重なったこともあり僅か2年で撤退してしまう。


日産 パルサー GTI-Rに搭載されていたハイパワーなSR20DE系エンジンは、汎用性の高いエンジンであることから、当時の人気モデルでもあった初代 プリメーラへのエンジン移植や、同じSRエンジンを搭載するシルビアへのパーツ流用などが行われた。




いやー良かったですよね〜☆


以上日産の紹介になります♪

なお、やはり個人的趣味で古い車ばかりの紹介になりましたこと心よりお詫び致します🙇



それでは、また!






参考資料


Nosweb.jp
ホンダからデザイナーを引き抜きプレリュードの牙城を崩す|憧れだったシルビアS13 Q's Vol.2

car-moby.jp
ニッサン党なら「快進社」は知ってる?実はトヨタ以上の歴史を誇る日産のルーツとは

web CG
第100回:日産のルーツとなったダットサン 国産車開発を夢見た苦闘の歴史

第44回:『トリノの風薫る』プリンス・スカイラインスポーツ(1962-63)(その3)

仁義なき移籍!? 自動車メーカーのCMを渡り歩いたタレントたち

b-cles.jp
ダットサン(日産) サニー (3代目 B210 1973-1977):ボディを拡大すると共に個性的なスタイリングに

モタガレ
日産が誇るベストセラーコンパクトカー!日産・マーチ(K11型)は何が凄かった!?

ベストカーweb
よくこんなクルマつくったなぁ...マーチスーパーターボという傑作

S13シルビアは何が凄かったのか?当時の若者が熱狂したデートカーの魅力

日産180SXの魅力 ワンエイティは今こそ再評価すべき7!?【偉大な生産終了車】

web option
「日産よ、あの頃を思い出せ!」超絶スパルタンなマーチスーパーターボという傑作を振り返る

auto messe web
バブルの象徴だった日産「初代シーマ」中古車のチェックポイントは?【旧車セダン購入ガイド】

GQ japan
R32型スカイラインGT-Rは、一体なにが凄かったのか?

paper wave
希少なz32 2シーター ノーマルルーフの5速ツインターボに乗る方法を整理してみた!

旧車王ヒストリア
不遇の評価が見直されつつあるS14 シルビア! 実は高性能だった本当の魅力を詳しく紹介

東洋経済Online
「R33スカイライン」良い車なのに不評だった悲哀
今思えば洗練されたデザインとメカニズムだった

web car-top.jp
「技術の日産」を堂々名乗るにはワケがある! 他社の追随を許さないクルマの「圧倒的技術」4つ

くるまのニュース
日産「MT車が消滅」の危機!? 残るは「Z」だけ? マーチ生産終了でオジサン世代落胆の残念な現状とは

MOTA
GT-R超え!?日産 パルサー GTI-Rは速さへの情熱が詰まったコンパクトホットハッチだ!【MOTA写真館】

日産HP

Wikipedia

より抜粋、要約、画像添付。
Posted at 2023/07/22 00:00:41 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年07月05日 イイね!

第4回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜ホンダ編♪

第4回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜ホンダ編♪さぁ、トヨタ、スズキ、ダイハツと続き第4回の今回はホンダになります☆

ホンダについて調べてみよう〜語ってみよう〜♪



私の好きなホンダ車はねーやはり昔の車だよね~☆
ビート、シティ、トゥデイ、CR-X、シビック、アコード、インテグラタイプR、S2000かなぁ☆



◎本田技研工業株式会社(ほんだぎけんこうぎょう、英: HONDA MOTOR CO.,LTD.)

日本の東京都港区に本社を置く、世界的な輸送機器メーカーである。通称「Honda」、「ホンダ」。


Honda青山ビル(本社)


オートバイの販売台数、売上高は世界首位。

自動車の販売台数は世界7位(2015年度)、国内2位。

小型ジェット機(ビジネスジェット)の出荷数世界首位。

芝刈機のシェアも世界首位。

発電機、除雪機、小型耕うん機のシェアは国内首位。




代表者
三部敏宏(取締役代表執行役社長兼CEO)
竹内弘平(取締役代表執行役副社長)



ホンダといえば、この人なしには語れない。

そう、本田宗一郎さんです☆



本田宗一郎が1946年に静岡県浜松市で本田技術研究所を起業し、後に本田技研工業へ改組した。

二輪車(オートバイ)、四輪車(自動車)およびライフクリエーション事業(汎用製品:耕耘機・芝刈機・除雪機・発電機・船外機)を主要事業としている。

また、新規事業としてHondaJet(ホンダジェット)と呼ばれる小型ジェット機及びターボファン式ジェットエンジンの開発・生産、二足歩行ロボット「ASIMO」に代表される各種ロボティクス機器の研究開発、風力発電施設による売電事業なども展開している。

米ブランドコンサルティング会社のインターブランドが発表した2019年の世界ブランドランキングでは、日本の企業では7位のトヨタに次ぐ21位である。


2011年に発売したN-BOXシリーズの大ヒット以降は、国内販売の半数を軽自動車が占めるようになっている。

(ホンダHPより)

日本での販売網は、四輪販売店がホンダカーズ店、二輪販売店がホンダドリーム店に大別できる。

発電機や刈払機等の汎用機を専門に扱う店舗ブランドは存在しない。

小型車・軽自動車を主に扱っていた旧プリモ店の運営会社の出自が自転車店、オートバイ店、機械工具店、マリーン・船外機取扱店、農機具取扱店であったり、地元有力者の中小の商店や企業などで委託販売形式を採用していた名残があり、地元に密着した販社が多い。

二輪車では無いレンタカー事業は、トヨタや日産など同業他社よりも早い1964年に参入したが、5年後の1969年に撤退、その後は日本国内全域を網羅する自社ブランドのレンタカー会社を持たなかった。




確かにホンダレンタカーってないね(笑)




ニッポンレンタカーやオリックス自動車、沖縄ツーリストと提携して、ホンダ車専用の予約サイトをこれら3社に運営委託している他、期間・地域限定でホンダ車を安価でレンタルできるキャンペーンを展開している。

その後、二輪車のレンタカー事業としてホンダGOバイクレンタルを2020年4月6日から開始した。

このサービスは予約から支払いまで全てオンラインとしているのが大きな特徴である。

2017年9月、カーシェアリング形態の会員制レンタカーサービスとして「Every Go」をスタート。

2021年4月より「Every GO」のサイト運営を100%子会社であるホンダモビリティソリューションズ株式会社に事業譲渡する。


【アメリカ進出】


北米では大衆車ブランドの"HONDA"と高級車ブランドの"Acura"(アキュラ)で展開、大衆車では大きなシェアを占める。

北米での売上は大きな収入源で、日本では販売していないATVやパーソナルウォータークラフトなども取り扱っている。

ホンダ四輪車のアメリカ展開は、1969年にN600をハワイ州で発売したことから始まった。

ポートランドに米国ホンダを設立、本土にも輸出を行うが、初期ロットの車両にカーヒーターとデフロスターの欠陥が見つかり、1台9ドルで売却されスクラップになるといった出来事もあった。


【中国進出】


中国展開は、1973年に宗一郎が自ら訪中して中国展開を決意し、二輪車の輸出を始めた。

1982年には重慶市のメーカーと技術提携して現地での二輪車部品生産を開始した。1992年には重慶市、広州市ならびに天津市に合弁企業による二輪車生産工場を設けた。

本格的な四輪車の販売へ乗り出すべく、1993年には香港にHONDA CHINAを設立した。

当時は現地生産車ではなく輸入車のみではあったが、中国での販売とアフターサービスを行った。

本格的な四輪車の生産は1994年に、東風汽車(武漢)との合弁で設立した東風本田零部件有限公司で始まった。

1998年には広州汽車(広州)と合弁し、それまでの合弁相手だったプジョーが撤退した後の工場をそのまま譲り受け、アコードやフィットなどの生産を始めた。

プジョーと合弁していた時代からの従業員を本田流に指導し、高品質の製品が作り出されるようになった。今では広州本田だけで年産24万台に発展し、広州市のパトカーにもホンダ車が使われている。



藤沢武夫の

「(ホンダの)社長は技術者出身であるべき」

という言葉が現在も守られており、現在の三部敏宏に至るまで、歴代の社長はすべて技術者出身である。

そのうち福井威夫まではエンジン開発部門の技術者であり、宗一郎以外の全員が四輪F1もしくは2輪WGPのエンジン開発経験がある。

また、宗一郎・藤沢は両者とも子供をホンダに入社させない方針であった。

創業初期に重要な役目を担った宗一郎の実弟・弁二郎も退社させている。その後、弁次郎はホンダの部品メーカー本田金属技術を、長男の博俊はホンダのアフターパーツメーカー「無限」を創業した。


(クルママガジンイキクルより)


創業者一族による会社の私物化の弊害を恐れる宗一郎の信念が貫かれ、縁故採用は一切行わず、実力本位の採用を行っている。

もっとも、初期の頃は宗一郎と自身の父親が知り合いだった縁で入社した2代目社長の河島喜好のように親戚・口利きで問題なく入社することができた。

縁故採用を行わないルールを作成したのは、会社がある程度大きくなってからのことであり、縁故採用を行うわけにはいかない宗一郎の個人的事情が陰にあった。

一方で中途採用には積極的であり、初期の自動車開発を進め、F1監督も務めた中村良夫を始め、ASIMO開発の中心者である広瀬真人、SH-AWDなどの駆動力制御が専門である芝端康二も中途採用組である。

ほかにも宗一郎の思想が反映した事例としては、社長室がない、重役達は一つのフロアを共有しているという特徴がある。


【労働環境】


労働環境は、ほかの自動車工場より良いといわれる。

良い例が、連続2交代制勤務といち早く週休2日制を導入したことがあげられる。

また、従業員の作業服の洗濯も無償で行っている。

また、ほかの自動車工場に比べ、女性の進出も多い。

現場主義で知られ、新入社員は工員以外にも、事務職・技術職・また男女の性別を問わずに、各製作所で半年間程度の研修をさせている。


【知的財産権】


日本の自動車メーカーの中では知的財産権に関する取り組みが早く、1980年代以降、ホンダ車を製品化したプラモデル・ミニチュアカーにはパッケージに「本田技研工業承認済」(現在は二輪・四輪どちらかのマークおよびHonda Official Licensed Productの組み合わせ)の表記が記載されるようになった。


これは創業者の宗一郎が、

「ウチの車を製品化するときは、できる限り似せて作って欲しい」

と発言したことにも由来する。

ゲームについては、一般車両が混在して走るレーシングゲーム(首都高バトルシリーズなど)には版権を許諾していなかったが、2017年に登場したスマートフォンゲーム「首都高バトルXTREME」で初めて、アザーカーが登場するゲームに収録された。

c)2017 GENKI タイトル画面
(Responseより)

また、ASIMOを開発・製造していることから、自動車がロボットに変形する作品での使用には一定の制約を設けており、「トランスフォーマー バイナルテック」ではロボット変形時に装備させる道具を武器としないことでホンダ車の商品化に漕ぎ着けた経緯がある。

トランスフォーマーバイナルテック BT21アーシーfeat.ホンダS2000ハードトップ
(ホビーサーチより)


また、2012年から商品展開された「超速変形ジャイロゼッター」でも、日本の自動車メーカーの車両が多数登場する中で一台も登場しなかった。

これについてホンダ側は「イメージに合わないためお断りした」と回答している。

「超速変形ジャイロゼッター」
(NEWSポストセブンより)


この記事によると、ある自動車業界関係者の話では、


二足歩行するロボットといえば、ホンダにはASIMOがある。

人間の生活空間で、平和に共存する未来を目指して何十年もロボットを開発してきたのにクルマが変形して“戦う”のは大きな抵抗があるそうです。


【環境問題】


1971年には、低公害技術であるCVCCを発表。

米国でマスキー法という環境規制法が成立しており、その規制開始期限までに規制に対応するエンジンは世界中のメーカーが開発不可能と言われていたほど厳格な規制であった。

そのマスキー法の条件をクリアしたのが、当時、日本の中小メーカーだったHondaであり、Hondaの名前を世界に知らしめた。



『世界のHonda』の始まりである☆



翌年から翌々年にかけてトヨタ、フォード、クライスラー、いすゞに技術供与した。

近年は、ハイブリッド車インサイトやシビックハイブリッドなどの二酸化炭素の排出量の少ない車両の本格普及に向けての低価格なハイブリッドカーの販売、地球環境産業技術研究機構(RITE)との共同研究による、稲わら、麦わら、コーンの茎などの農業廃棄物や木屑などのバイオマス資源からエタノール燃料を効率的に生産する循環型エネルギー技術の開発、各工場での生産体系や物資輸送体系の見直し、有志による海岸の清掃活動など、多岐に渡っている。

また日本国外では、中華人民共和国内モンゴル自治区通遼市のホルチン砂漠での植林作業を展開し、砂漠緑化活動も毎年行っている。

これらの環境問題に対して積極的に取り組んでいるだけでなく、来るべき未来に向けた次世代環境技術の実践開発として、水素燃料電池自動車FCXクラリティのリース販売、環境負担の少ない水素燃料生産供給インフラ「太陽電池式水電解型水素ステーション」、既存の都市ガスなどの天然ガス供給インフラから水素を製造しつつ、燃料電池コージェネレーション機能によって家庭用の熱(給湯や暖房など)および電力の供給を行う「ホーム・エネルギー・ステーション」の開発及び実験稼動も行っている。



これがWikipediaを中心に編集したホンダの会社概要である♪






ここからは更にホンダの歴史を名車を踏まえて紹介していこうと思いますよ☆


自転車が主な移動手段だった1946年。旧陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンと出会った。

本田宗一郎は、遠くへ買い出しに行く妻を思い出し、
それを自転車の補助動力にすることを発案。

約500基あったエンジンを、自転車用補助エンジンに
つくり変えて売り出しました。

それまでにない便利さが
受け注文が殺到、たちまち在庫がなくなると、
宗一郎は自社製エンジンの開発に着手。そして1947年、
Hondaの名が記された最初の製品として、
このA型エンジンを完成させました。




1948年、本田技研工業株式会社創立

従業員34人、資本金100万円。浜松の小さな町工場
で自転車用補助エンジンの製造からスタート。

1953年、汎用事業開始
農機用エンジンのH型に始まり、
1959年には耕うん機F150を発売。



1954年、マン島TTレース出場宣言

二輪最高峰とされたレースへの出場を宣言。
5年後の1959年に初出場。


1958年、スーパーカブ発売

誰にでも扱いやすい便利な乗り物として大ヒット。

1960年、(株)本田技術研究所 設立

より自由な発想で研究開発に専念できるようにと、本田技研工業(株)から独立し発足。


1961年、マン島TTレース初優勝

125cc・250ccクラス
1位~5位を独占


1963年、待望の四輪進出

T360(1963~1967年)
(cobby.jpより)

軽トラックのT360に続いてスポーツカーのS500も発売。

S500(1963~1964年)
(cobby.jpより)




1964年、F1 初出場

日本初のF1マシンRA271が第6戦ドイツGPでデビュー。
翌年最終戦メキシコGPで初優勝。


1972年、低公害CVCCエンジン発表

当時最も厳しいとされたアメリカの排出ガス規制マスキー法を世界で初めてクリア。


初代Z(1970~1974)前期N360型

バモスホンダ TN360型

ライフ(初代)4ドアセダン GF

初代シビック(1972~1979)




1982年、日本初のフランツシステム車

手の不自由な方の運転操作をサポートするフラ
ンツシステムの搭載を国産車で初めて実現。


1982年、アメリカで日本メーカー初の四輪車現地生産を開始



1986年、小型航空機と
航空機用エンジンの研究を
開始




この時代に出たのが、名車。

トールタイプハッチの元祖「初代シティ」(1981~1986)

デートの必須アイテム「2代目プレリュード」(1982~1987)





1988年、F1史上初の16戦15勝

アイルトン・セナとアラン・プロストの操るマクラーレン・ホンダMP4/4がサーキットを席巻。



この頃のF1はある意味ブームでしたね(笑)

そして、この頃の車が最高に好きだ(笑)


シティ「ターボⅡ」(ブルドッグ)

ホンダ・トゥデイ(前期型)
(1985年9月 - 1988年1月)

「ビート」(1991~1996)

初代インテグラ・タイプR(DC2/DB8型)

2代目CR-X(EF8型)

1984年にスポーツグレードとなるシビックSi

5代目シビックEG6型

EK9 CIVIC TYPE R


いやーカッコイイ!

とにかくね、軽量コンパクトボディに圧倒的破壊力の高回転型エンジンが魅力のホンダ車☆

「NAのホンダ」「エンジンのホンダ」「パワーのホンダ」がうちらの世代には馴染み深い♪

レッドゾーンまで吹け上がるNAのエンジン音。
最高だった♪

とにかく乗って楽しいクルマ☆


NSX Type R(1992~1996)

S2000(1999~2009)
AP2型 Type-S




2000年、ヒューマノイドロボット ASIMO発表

小型軽量で人間の歩き方に近い二足歩行が可能になった新しい人間型ロボットを実現。


2002年、燃料電池自動車FCXを世界で初めてリース販売

燃料電池自動車として初めてアメリカ政府の販売
認可を取得し、日米でリース販売を実現。


2012年、パワープロダクツの世界生産

累計1億台を達成


2014年、二輪車の世界生産
累計3億台を達成


2015年、WGP700勝達成

二輪のロードレース世界選手権シリーズで前人未踏の記録を達成。




私は、バイクとか乗れないのだが、バリバリ伝説ってゆう漫画が未だに大好きである(笑)

(自宅の漫画の一部)

しげの秀一先生と言えば今や『頭文字(イニシャル)D』だが、私の中では『バリバリ伝説』だ(笑)

ヒデヨシが亡くなったとこなんて泣いた泣いた(T_T)

漫画といえど、『タッチ』の上杉和也が亡くなったとこと『シュート』の久保さんが亡くなるシーンは衝撃的だった(T_T)


あっ、歳がバレる(笑)


そんなこんなで『バリバリ伝説』では主人公、巨摩郡がゆくゆく世界GPに行くのだが。。。



そうゆうのもあり、1980年代からのロードレースを良く観ていました(笑)

漫画にも出てくるワイン・ガードナーやランディ・マモラなんかもだが1990年代のマイケル・ドゥーハンや2000年代のバレンティーノ・ロッシなんて凄かった(⁠^⁠^⁠)


日本人ライダーも活躍していたけど阿部典史ことノリックと加藤大治郎の死を聞いた時はかなりショックだったなぁ。。。


そんなこんなで漫画の影響もありバイクレースも昔はかなり好きだった。


今、全然観なくなっちゃったけど>⁠.⁠<




2015年、F1再挑戦

新たな技術的チャレンジを求めパワーユニットサプライヤーとして7年ぶりにF1に参戦。


2015年、HondaJet引き渡し開始

アメリカの連邦航空局による型式証明を取得し、お客様への引き渡しが開始。


2016年、燃料電池自動車

CLARITY FUEL CELL発表

燃料電池自動車トップクラスの一充填
走行距離約750kmを実現。


2016年、四輪車の世界生産

累計1億台を達成


2017年、「スーパーカブ」シリーズ

世界生産累計1億台を達成

2020年、新型電気自動車

Honda eを発売


2020年、WGP800勝

二輪のロードレース史上初


2021年、Honda F1

ドライバーズチャンピオン獲得


2021年、世界初 自動運転レベル3対応

レジェンドを発売


2022年、モータースポーツ事業を担うホンダ・レーシングが技術支援を行うオラクル・レッドブル・レーシング
F1ダブルタイトルを獲得


2022年、「CIVIC」誕生50周年






今ホンダは、安全運転支援システムを売りにしている♪





【Honda SENSING】


Honda SENSINGは、そこで培った外界認識技術をベースに開発した、安全運転支援システムです。 クルマの前方・側方・後方の状況を認識し、安全・快適な運転や事故回避を支援します。


バカルディ時代から大好きなさまぁ~ずがやっているとは知らなかった(笑)




しかし、生産完了した車がたくさんある。


ゼスト(2006~2012)

CR-Z(2010~2017)

ストリーム(2000~2014)

クロスロード(1993~2010)

インテグラタイプR(1995~2006)

S-MX(1996~2002)

HR-V(1998~2006)

バモス(1996~2018)


ホンダといえばのライフも生産完了したようだ。




今現在のホンダ車の新車は、








これだけみたいだ。


どうやら2022年5月、シャトル、CR-V、インサイトも生産終了になった。

さらにアコードについても9月に生産終了。


2021年にはオデッセイ、レジェンド、クラリティ、アクティが廃止になり、2022年3月生産終了のS660(2021年11月1日に650台追加生産発表)、2022年9月生産終了のアコード、2022年12月生産終了の2代目NSXを含めると、この2年間で10車種が消滅した。


どうやら、


「次世代の電動化戦略を発表したホンダだから」


らしい。



なんというか時代を彩り築きあげてきたものが無くなって行くのは寂しいものだ。

最近のニュースでは2024年にはアコードが復活するそうだ。
フィリピンではシティが復活するようだが、昔らしさの欠片もない。

そして、脱エンジンで八千代工業を売却するとした。

ホンダは2040年までに新車販売のすべてを電気自動車(EV)か燃料電池車(FCV)にする「脱エンジン化」を進めている。

EVシフトが主力サプライヤーの売却に発展することになる。





時代の流れとはいえ、もうそこには私の好きな、

「NAのホンダ」、「パワーのホンダ」、「エンジンのホンダ」

は無くなってしまったなぁ。



寂しいなぁ。。。。



この想いは次の回にも繋がっている。。



それではまた(笑)







参考資料


イキクル
無限って何?ホンダ車のエアロパーツとアフターパーツメーカー「無限」について詳しく解説!

時代を駆け抜けた!ホンダの20世紀・あの名車たちを振り返る

NEWSポストセブン
子供に人気のあのカードゲームにホンダ車だけ登場しない理由

ホンダHP
ヒストリー

cobby
ホンダの歴代車種100種一覧!時代を彩ったHondaイズム溢れる名車たち

WEB CARTOP
かつてのホンダは凄かった! 踏めば脳天まで痺れる「エンジンのホンダ」を感じさせる名車5選

Nosweb
80-90年代 スポーツカー百花繚乱【2】珠玉のユニットVTEC|ホンダ

ベストカーweb
『頭文字D』を彩った伝説の名車列伝16 ホンダ シビック(EG型) 編

web Option
「ポルシェを追い回す爆速ホンダトゥデイの勇姿」軽自動車の概念を覆すモンスタースペックに迫る!

ベストカーweb
今夏4車種が一気に生産終了という衝撃!何故こうなったのか?ホンダOBが叱る!

グーネットマガジン
セダンは不滅! ホンダアコード、先進装備満載で2023年後半に日本デビュー!

最新自動車マガジン
ホンダ 新型 アコード フルモデルチェンジ 日本モデル 2024年発売

くるまのニュース
ホンダ新型「シティ」発売! 精悍顔の「コンパクトセダン」 めちゃ速そうな「RS」もアリ! 比に投入

ヤフーニュース
ホンダ、脱エンジンで子会社売却へ 八千代工業、インド企業傘下に

ホンダHP

Wikipedia
Posted at 2023/07/15 10:39:30 | コメント(1) | トラックバック(0)
2023年07月02日 イイね!

第3回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜ダイハツ編♪

第3回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜ダイハツ編♪さぁ、個人的に好きな自動車会社、好きな車を調べてみよう〜語ってみよう〜とゆうことで第3回目は、トヨタ、スズキと来て次はマツダ?スバル?

違うのです(笑)
第3回目はダイハツです☆



ダイハツといえばシャレード、ミラ、ソニカ、コペン、ストーリアX4、ムーブ、タントなどなど。



◎ダイハツ工業株式会社(ダイハツこうぎょう、英: DAIHATSU MOTOR CO., LTD.)

(ダイハツ工業㈱HPより)

ダイハツは、主に軽自動車、および総排気量1,000cc以下の小型車を主力とする日本の自動車メーカーである。本社所在地は大阪府池田市ダイハツ町。日野自動車などと共にトヨタグループ16社のうちの一社で、トヨタ自動車の完全子会社(機能子会社)である。

主要株主は
トヨタ自動車が100%です☆


ダイハツ工業㈱本社
(Wikipediaより)


代表者
松林淳(代表取締役会長)
奥平総一郎(代表取締役社長)
星加宏昌(代表取締役副社長)


現在量産車を手掛ける日本のメーカーとしては最も古い歴史を持ち、初の国産エンジンを開発する目的で大阪高等工業学校(後の大阪帝国大学工学部、現大阪大学工学部の前身)の研究者を中心に、1907年に「発動機製造株式会社」として創立された。

(ダイハツ工業HPより)

ブランド名・社名は、創業後、社名に「発動機」を冠する後発メーカーがいくつも出現し、既に出回っている「発動機製造」の発動機をどこで造った発動機か認識するため顧客の方で「大阪の発動機」と区別呼びし、やがて詰めて「大発(だいはつ)」と略称したことに由来する。


設立年の1907年、日本で初めての国産エンジンである「6馬力 吸入ガス発動機」を発明。

その当初は工場等の定置動力用として用いられるガス燃料の内燃機関(ガス発動機)や鉄道車両用機器の製造を手掛けていた。

1919年に純国産エンジンで軍用自動車を試作し、1930年には自社製小型4サイクル空冷単気筒サイドバルブ(SV)のガソリンエンジンを搭載した試作型オート三輪「ダイハツ號(号)HA型」の開発で本格的に自動車業界に参入。

ダイハツ号
(ダイハツ工業HPより)

創立50周年となる1957年にミゼットで国内や東南アジアで大ヒットを記録し、1972年まで東洋工業(現マツダ)とともにオート三輪業界の覇権を争った。

(ダイハツ工業HPより)

1951年に「大阪発動機」から現在の「ダイハツ工業」へと社名を変更した。

四輪市場には1963年のコンパーノから参入。

(Wikipediaより)

しかし当時四輪車への新規参入には通産省(現在の経済産業省)が難色を示していたため、スムーズな参入が出来なかった。

また堅実な社風であったため、派手にアピールする手法も取らず、地味な印象となり、すでに評価を得ている先行メーカーに割って入って新規顧客を獲得するのは容易ではなかった。

同じころ自動車業界は再編の波が吹き荒れており、ダイハツにも三和銀行によってトヨタ自販・トヨタ自工との提携話が持ち出され、1967年11月に両社は業務提携に至った。

この時の提携は同時期にトヨタ傘下入りした日野に比べると対等な関係で、それぞれの経営に自主性を持って運営していくと声明文が出された。

またこの翌年ダイハツ自動車販売株式会社が設立されている。1966年までは鉄道車輌用の原動機、変速機および駆動装置も製造していた(ダイハツディーゼルとして分社化)。

トヨタとの提携後はパブリカをベースとしたコンソルテ、トヨタ・カローラをベースとしたシャルマンを生産し、四輪生産のノウハウとブランド力を蓄積していった。

ダイハツコンソルテ
(GAZOOより)

ダイハツシャルマン
(Wikipediaより)

1977年には満を持してダイハツ独自開発のコンパクトカーであるシャレードを投入。

(Wikipediaより)

それまで振動の問題などから国内外のメーカーから敬遠されていた4ストローク直列3気筒ガソリンエンジンを採用し、軽自動車程度の価格に見合わぬ高い燃費・動力性能でカーオブザイヤーを受賞、ダイハツの四輪車は名実ともに大躍進を遂げた。

1980年になると、現在まで続く軽自動車のミラシリーズが登場。

ダイハツ・ミラクオーレ
ダイハツ・ミラ(初代)
L55V 型
1982年5月改良型
(Wikipediaより)

ここにアルト擁するスズキとの軽自動車戦争が勃発した。

1981年にダイハツ自動車販売はダイハツ工業と合併。

1995年には同じトヨタ傘下の日野自動車と商品相互供給に関する基本契約の締結を発表、以降現在まで部品の取引を行っている。

1998年にはトヨタが株式を51.2%取得し、トヨタの連結子会社となった。

1995年登場のムーヴシリーズ、2003年登場のタントシリーズなどが大ヒットを記録したことで、2006年度(2006年4月から2007年3月までの一年間)には軽自動車総販売台数で30年以上連続1位であったスズキの牙城を崩し、ついにダイハツがトップに立った。



その後2017年まで11年間連続で首位の座を守り続けている。



また軽トラック市場もハイゼットなどを主力に、スズキとシェアトップを奪い合っている。

2009年からは軽自動車生産から撤退したスバルにも軽自動車・軽福祉車のOEM供給を開始。

2016年度の国内販売台数は57万台だが、これに加えてトヨタ・スバルへのOEM供給・受託生産が25.5万台あり、軽自動車メーカーとしてのみならずトヨタグループの重要な生産拠点としての役割も大きい。

2016年にトヨタがダイハツの株式を100%取得し、完全子会社となった。

これ以降ダイハツはトヨタグループにおいて軽自動車を含む小型車部門としての立場を明確にし、新興国向け戦略の一翼を担うことになる。




『ダイハツの素晴らしい技術力』


技術的な分野では、親会社のトヨタと異なる独自のものが多い。


『e:Sテクノロジー』

代表的なものとしては、ハイブリッドではなく内燃機関・シャーシの改良によって低燃費を実現する『e:Sテクノロジー』が挙げられる。

(webcg.netより)

トヨタがD-4系の直噴技術を発展させているのに対し、ダイハツはポート噴射にこだわり直噴と同じ効果を低コストで実現している。


『スマートアシスト』

衝突被害軽減ブレーキなどの運転支援システムに関してもトヨタに頼らず、『スマートアシスト』と呼ばれる技術を独自に開発している。

(U-catch.daihatsu.co.jpより)

さらにはトランスミッションについても、トヨタが子会社のアイシンAW(現・アイシン)と共同開発しているのに対し、ダイハツは内製に徹している。


『D-CVT』

2019年にはトヨタ・アイシンが発進用にギアを装着したCVTを開発する一方、ダイハツはギアを高速側に採用し動力分割機構も搭載した『D-CVT』を発表している。

(car-moby.jpより)


「DNGA」

プラットフォームでは、トヨタの新世代コモンアーキテクチャー戦略「TNGA」に準じた、独自開発の新世代プラットフォーム「DNGA」(「GA-Aプラットフォーム」のみこれに該当する)の開発を行っており、2019年7月には4代目「タント」(および、そのOEMとなる2代目スバル・シフォン)に先行採用された。

プラットフォームに用いられたダイハツの新世代のクルマ作り「DNGA」に基づく新技術
(Car-Watchより)


「ハイブリッド車」

ハイブリッド車については、2005年に「ハイゼット(10代目カーゴ)」に導入していたが、高価や燃費などを理由とした販売不振のためトヨタからのOEM供給を除きHVの開発から一時全面撤退していた。

当時の「ミライース」の広報でも


「HV/EVは万人の手に届くモノではない」

「エコカーはみんなが買えなければ意味がない」


と言った旨の文が掲載されていた他、他社で導入されているマイルドハイブリッドすら全く導入しない程ハイブリッド車の開発に否定的な姿勢を見せていた。

しかしその後、日本政府が、


「来るべき地球全体のカーボンニュートラル化」

を前提に2035年までを目途に国内の新車販売からガソリン車・ディーゼル車などといった100%内燃機関だけで走る自動車を排除する方針を発表したため、ハイブリッドの開発拒否の姿勢を断念せざるを得なくなり、2021年1月21日に10年ぶりにハイブリッド車の開発に再参入することが発表された。


「EV車」

以前は逆にモーター駆動の開発に熱心で、電気自動車(EV)の開発を1965年に始めていた。

1966年にはやくも「コンパーノバン」をベースとしたEV試作車を発表、1968年にはハイゼットバンをベースとしたハイゼットEVの販売を開始、以後電動ゴルフカートや超小型軽3輪EV「DBC-1」、「ハロー」、「ラガー」などさまざまな車種でEVを発表、販売している。公道走行可能なEVで2000台近く、遊園地などの構内専用車種を含めると8000台を超える販売実績がある。


EVに不可欠な次世代電池や燃料電池などの技術開発にも取り組んでおり、リチウムイオン二次電池を積んだ実証実験車を発表し公道走行試験を行っている。

将来的にゼロ・エミッション法の世界的広がりにより販売が必須となることが予想されるEVに関して、「トヨタには頼らない」としていた。


「ディーゼル車」

ディーゼルエンジン開発にも早くから長けており、小型~大型ディーゼルエンジン技術(大型は,鉄道車両用)で実績を残している。

1960年代初頭に小型トラック用としてはクラス初のディーゼルエンジンを採用すると、1983年には「シャレード」で当時世界最小排気量となる1リッター3気筒の乗用ディーゼルエンジン(CL型)を開発。

CL-10型 直列3気筒 SOHCディーゼル 1.0L
(Wikipediaより)

これが1リッター36.54kmという驚異の燃費で世界記録を樹立し、ギネスブックにも記載された。

2003年の東京モーターショーでも660ccの2ストロークディーゼルエンジンが出展されたが、こちらは市販化には至っていない。

過去には船舶用の低速大型ディーゼル機関も生産しており、太平洋戦争後の1950年代以降は、国鉄のディーゼル機関車・気動車向けディーゼル機関生産に、(例:DML30HS系や,DML61系列,その他,気動車の冷房用電源用「4VK等」)先発の新潟鐵工所・神鋼造機と共に携わった。

これら船舶用ディーゼルエンジンは1966年(昭和41年)に分社された系列の「ダイハツディーゼル」に移管されたが、ランドクルーザープラドなど自動車のディーゼルエンジンの受託生産は今もダイハツ工業が行っている。



1970年代にスズキに4ストロークエンジンを供給していたことがある。


当時の排ガス規制に対応できず困っていたスズキはトヨタ(豊田英二氏が仲介)を頼り、トヨタは系列会社となっていたダイハツにAB型エンジンの供給を要請、これが実現した。

同様にシャレードに搭載され高い評価を受けていた3気筒CBエンジンを、1982年から93年までイタリアのイノチェンティ・ミニ社に供給していた。


「水平対向エンジン」

日本で初めて水平対向エンジンの乗用車を作ったメーカーでもある。

1951年発売の三輪車の「Bee」がそれで、駆動形式はRR、リアサスペンションは独立懸架式という当時としては先進的なものだった。

(Wikipediaより)

この他軽自動車に四輪独立懸架を積極的に導入したり、660ccの4気筒エンジンであるJBエンジン、軽自動車唯一の4WS(四輪操舵)を採用したL220S型ミラ、国内ラリー特化型車両「ストーリアX4」を開発したりするなど、現在の堅実な車作りとは裏腹に挑戦的な機構・パッケージングの自動車を売っていた頃もあった。

ストーリアX4
(Wikipediaより)



(se555 netより)

実はこの車はダイハツで1番好きで、ラリー競技の好きな私は本気で買うかを迷った車です(笑)

ただ、実際買ったのは三菱ミラージュサイボーグRなんだが(笑)

おっと、三菱の話は今後しましょう☆

ストーリアX4の後継はブーンX4でしょうかね😀


さて、近年は「軽のGTカー」とも呼べる「ソニカ」や、荷室の広さより乗り心地を重視したFFの商用車「ハイゼットキャディー」など新たなジャンルの開拓も試みているが、いずれも続かず失敗に終わっている。

ソニカ前期型
(Wikipediaより)

ハイゼットキャディー
(Wikipediaより)


「鉄道分野」

その機械加工能力の水準を買われ、1920年代以来、国鉄(当初は鉄道省)との関わりも深く、鉄道向け機器としては蒸気機関車用の給水加熱器や自動給炭機(国鉄・汽車製造との共同開発)、客車室内の引き戸用ドアチェック、通勤電車の自動ドア向けドアエンジンなどを製造した。

このため、鉄道用空気ブレーキ装置の大手メーカーである日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)の設立にも関わっている。



さて、実はここまでほとんどの文章がWikipediaのコピペになってしまっている😔

いつもはWikipediaをベースにいろんな記事を物色して要約したり編集したりしているのだが、どうしてほとんどWikipedia抜粋になってしまったのか?

それは、ダイハツさんの歴史や技術が素晴らしい為に省略出来るところがほとんどないからである。



言うなれば『技術のダイハツ』である☆


こんなこと言っては同業N社から怒られてしまうが、親会社トヨタの力を借りない独自の技術力を要しているのがダイハツであることがわかった!

これではブログ的につまらないのでここからはダイハツ車の紹介と共に絶えず比較される続けるスズキと一緒に軽自動車戦争を見て行こうと思います☆



【軽自動車の歴史】

まずわが国の自動車史において、「軽自動車」ということばが登場するのは、昭和24年(1949年)のことです。

同年法律が改正され、自動車の種類として、従来の「小型自動車」が「小型自動車」と「軽自動車」に分割されたのが始まりです。また翌昭和25年(1950年)の法改正では、 「軽自動車」の対象を2輪車、3輪車にまで拡げられました。

しかし、軽自動車は、昭和30年に至るまで実際に生産されていたのはほぼ軽二輪車だけといった状態でした。

戦後、自動車生産再開とともに最も急激にその台数を伸ばしたのは小型3輪車であり戦後の物流を担っていました。


(軽自動車検査協会資料より)

小型3輪車は昭和32年を生産台数のピークとし、その後は減少の道を歩み、昭和40年代にその生産は打ち切られます。

昭和22年(1947年)に東京電気自動車(株)より電気自動車「たま号」が生産されています。

電気自動車たま号
(軽自動車検査協会より)

電気自動車については乗用車、トラック、バスが生産されており、昭和20年に46台、21年には451台、22年には948台、23年になると1,402台、ピークの昭和24年には1,614台が生産されました。

戦後のこのような時期に電気自動車が存在していたことが一般的には驚きです。

しかしながら、朝鮮戦争の勃発とともにバッテリーの原料の鉛が高騰し、一方で、統制下にあったガソリンが大量に出回ることとなり、まもなく電気自動車の生産は中止されました。

昭和30年10月.鈴木自動車工業(株)が軽乗用車スズライトSS と、同ライトバン、ピックアップトラックの3車種を発売しています。

(軽自動車検査協会より)

昭和30年代の初期にかけては、自動車メーカーを目指した多くの企業が軽自動車の生産に乗り出しましたが、そこから自動車メーカーへ成長を遂げたのは鈴木自動車工業(株)、現在のスズキ(株)だけです。

そして昭和30年代前半(1955年~)には鈴木自動車工業、ダイハツ工業、富士重工業、東洋工業(現:マツダ)、新三菱重工業といった軽自動車メーカーが出そろい、いよいよ本格的に軽3輪車、軽4輪車の生産が開始されていきます。

1958年に誕生し、日本にモータリゼーションをもたらしたスバル360も軽自動車だった。

スバル360
(GAZOOより)


軽自動車は、日本国内のみを対象にして製造されているモデルだ。

ナンバープレートの黄色や.規格が道路運送車両法施行規則で定められており、条件を満たせば税金などが優遇される法律が1949年に制定され、1951年の改正で今日に通じる基礎が作られた。

もともと戦前から三輪自動車を製造していたダイハツは、1957年に発売した三輪トラックのミゼットで軽自動車に参入した。

ミゼットMP5型
(1962年12月販売型)
(Wikipediaより)

その後ダイハツは、1966年にはフェローで乗用車の分野に進出する。

1976年に排気量の上限が550ccまで拡大され、全長と全幅もそれぞれ3200mmと1400mmになった。1990年には排気量が660cc、全長3300mmとさらに規格が変わる。

1980年にクオーレから派生したミラクオーレを発売し、2年後から単にミラと呼ばれるようになったモデルが1979年に出たアルトと真っ向からぶつかることになった。

スズキアルト前期型1979年
(wikipediaより)

ダイハツ・ミラクオーレ
ダイハツ・ミラ(初代)
L55V 型
(Wikipediaより)

これが始まりで、スズキとダイハツは、軽自動車の年間販売台数で競い合っていく。



【軽自動車戦争勃発】



⚫ダイハツ「ミラ」VSスズキ「アルト」


ミラ
(web.cartop.jpより)

アルトワークス
(web.cartop.jpより)

⚫ダイハツ「ムーブ」VSス
ズキ「ワゴンR」

ムーブ
(wikipediaより)

ワゴンR
(wikipediaより)

⚫ダイハツ「ミラウォークスルーバン」VSスズキ「アルトハッスル」

ミラウォークスルーバン
(web.cartop.jpより)

アルトハッスル
(GAZOOより)

⚫ダイハツ「ミラジーノ」VSスズキ「アルトラパン」

ミラジーノ
(web.cartop.jpより)


アルトラパン
(web.cartop.jpより)

⚫ダイハツ「 ミライース」VSスズキ 「アルトエコ」


ミライース
(web.cartop.jpより)

アルトエコ
(web.cartop.jpより)

⚫ダイハツ 「タフト」VSスズキ 「ハスラー」

タフト
(smauto.co.jpより)

ハスラー
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ「タント」VSスズキ 「スペーシア 」

タント
(smauto.co.jpより)

スペーシア
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ 「ムーヴ」VSスズキ 「ワゴンR」

ムーブ
(smauto.co.jpより)

ワゴンR
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ 「ミライース」VSスズキ 「アルト」

ミライース
(smauto.co.jpより)

アルト
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ 「ミラトコット」VSスズキ 「アルトラパン 」

ミライコット
(smauto.co.jpより)

アルトラパン
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ「ミラバン」VSスズキ「アルトバン」

ミラバン
(wikipediaより)

アルトバン
(wikipediaより)

⚫ダイハツ「ソニカ」VSスズキ「セルボ」

ソニカ
(autoc-one.jpより)

セルボ
(autoc-one.jpより)

⚫ダイハツ「ハイゼットトラック」VSスズキ「キャリートラック」

ハイゼットトラック
(car-lease Onlineより)

キャリートラック
(car-lease Onlineより)

⚫ダイハツ 「コペン」VSスズキ 「アルトワークス」

コペン
(smauto.co.jpより)

アルトワークス
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ「 アトレーワゴン」VSスズキ 「エブリイワゴン」

アトレーワゴン
(smauto.co.jpより)

エブリイワゴン
(smauto.co.jpより)

⚫ダイハツ「タント ファンクロス」 vs スズキ「スペーシア ギア」

タントファンクロス
(motor-fan.jpより)

スペーシアギア
(motor-fan.jpより)

⚫ダイハツ 「ムーヴキャンバス」VSスズキ 「ワゴンRスマイル」

ムーブキャンバス
(car-topiksより)

ワゴンRスマイル
(car-topiksより)

とまぁ、上げだしたらキリがないくらい比較されてきました(笑)

ところが、突如強敵が現れました。
2011年、ホンダから発売された「N-BOX」です。

(wikipediaより)


とは言えども軽自動車といえばダイハツとスズキが圧倒的に販売台数が多いです☆


私は専門家ではないのでそれぞれの優越はつけれないですが、長年販売台数において両者ともやり合ってきたわけです😁

それはそれは、長年に渡る激しい闘いであり今現在も繰り広げられています(笑)





さて、前回のスズキ編、前々回のトヨタ編にも書きましたがトヨタとスズキが資本提携を結びました☆


2016年10月には業務提携に向けて動き出していた上、2019年3月にはトヨタからスズキへハイブリッド技術を供給すること、逆にスズキからトヨタへはインドやアフリカ市場においてOEM供給するといった協力内容が発表されたした。

トヨタの創業者豊田佐吉とスズキの創業者鈴木道雄は静岡県出身の同郷で共に自動織機のメーカーから自動車産業にシフトしたことから、じつは自動織機の時代から両社の関係は深い。


1950年には労働争議により資金繰りに苦しんだスズキをトヨタが援助したという過去もある。

排ガス規制をクリアできないスズキの軽自動車のためにダイハツのエンジンを供給、スズキ・フロンテに搭載するといった風に助け舟を出したというのも有名なエピソードだ。

スズキにとって二度の大きな危機をトヨタが救ったともいえる。


スズキ フロンテ
1977年 ダイハツ製550 cc直列2気筒4サイクルSOHCエンジン(AB型エンジン)を一部のグレードに搭載。
(トヨタHPより)


そんな過去もありながらもビジネス面では、互いに一線を引いてきたトヨタとスズキ。


最近ではトヨタを中心に大きく動いてます☆




【トヨタ、ダイハツ、スズキによる3社協業】



2023年5月18日~21日にG7広島サミットの会場に隣接する「ひろしまゲートパークプラザ」において、カーボンニュートラルへの取り組みを紹介する展示イベント

「Diversity in Carbon Neutrality」

が開催された☆

会場ではトヨタ自動車、ダイハツ工業、スズキ自動車の3社が共同開発したBEV(電気自動車)の商用軽バン(プロトタイプ)が公開されました。

スズキ、ダイハツの“小さなクルマづくり”のノウハウとトヨタの電動化技術を融合することで、軽商用車に適したBEVシステムを構築。


スズキ仕様
スズキ 「エブリイ」


ダイハツ仕様(展示車)
ダイハツ「ハイゼット カーゴ」

トヨタ仕様
トヨタ「ピクシス バン」
(トヨタHPより)

生産は一貫してダイハツが担当し、3社共にそれぞれ2023年度内の市場導入を目指していくそうです。



さらに、今回のトヨタ・ダイハツ・スズキの3社による協業は、今後登場が予想されている1.0Lクラスのコンパクト・ミッドシップ・スポーツカーの共同開発を想起させる。


トヨタ「SPORT EV」
(ベース車両)
(トヨタHPより)


トヨタ、その100%子会社のダイハツ、そして過酷な軽自動車戦争をしてきたスズキが協業した♪

トヨタのTNGAの知見のもと、スズキとダイハツが得意とする

“小さなクルマづくり”

のノウハウがここでも活かされることでしょう☆



【スズキとダイハツの協業】


スズキとダイハツが、2社協力による農家の方々の困りごと解決を通じ、農業と地域活性化を目指す、「第8回国際スマート農業EXPO」に共同出展した。

2021年10月13日(水)~15日(金)に幕張メッセにて開催された「第11回農業Week」における「第8回国際スマート農業EXPO」に共同で出展した。(ブース小間位置:8ホール4‐26)

(スズキHPより)

両社が協力して日本の農業や地域社会を活性化していく想いを表現するため、両社の軽トラック(スズキ「キャリイ」、ダイハツ「ハイゼット トラック」)に加え、スズキの「モバイルムーバー」と、ダイハツの農業用ドローンを展示。

今後も両社は、農家をはじめとしたお客様の暮らしに寄り添い、地域社会をより豊かにしていきたいという共通の想いのもと、お客様の困りごと解決に向けたサポート活動に、協力して取り組んでまいります。
(スズキHPより)


(RESPONSEより)

(RESPONSEより)



なんて素晴らしいことでしょう。

熾烈な軽自動車販売競争を繰り広げるダイハツとスズキが2社で取り組む姿勢☆

これからもお互いに尊重しながらライバルとして良い車作りをして欲しいものです♪

そして、トヨタはそんな軽自動車市場を壊さぬよう、維持して頂きたいものです☆



それではまた(笑)



参考資料

Car-Watch
ダイハツ「DNGA」の見どころをクローズアップ(プラットフォーム編)

webcg.net
ダイハツ、低燃費技術「e:Sテクノロジー」を開発

car-moby.jp
ダイハツ「D-CVT」とは?世界初の技術を採用したトランスミッションを解説

U-catch.daihatsu.co.jp
スマートアシスト特集

軽自動車検査協会
軽自動車の歴史

GAZOO
ダイハツvsスズキ――軽自動車ウォーズ(1993年)

autoc-one.jp
ダイハツ vs. スズキ! 日本の独自規格「軽自動車」を牽引する2大メーカーを比べてみた

smauto.com
永遠のライバル、現在の情勢は!? スズキVS.ダイハツ軽カー1対1対決ガチ7番勝負!!(2021年3月10日発行分)

Clicccar.com
トヨタ、ダイハツ、スズキの協業はBEV商用軽バンで終わらない。ミッドシップ・スポーツカー開発へ

Global Toyota
スズキ、ダイハツ、トヨタ、商用軽バン電気自動車を公開

スズキHP
スズキとダイハツ、「第8回国際スマート農業EXPO」に共同出展
~2社協力による農家の方々の困りごと解決を通じ、農業と地域活性化を目指す~

RESPONSE
スズキとダイハツが手を組んだ「クルマの販売は関係ない」共同出展の理由

トヨタHP

ダイハツHP

スズキHP

Wikipedia
Posted at 2023/07/04 14:08:58 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年07月02日 イイね!

第2回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜スズキ編♪

第2回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜スズキ編♪さぁ、長々トヨタ自動車を調べて疲れてしまったが第2回目はスズキについて調べてみよう〜考えてみよう〜です☆


日産やホンダじゃないの?

すいません。
違うんですね(笑)

さて、スズキと言えば我が愛車ワゴンRにアルト、ジムニー、スイフトが非常に有名である。


(suzuki.co.jpより)



◎スズキ株式会社
(英: SUZUKI MOTOR CORPORATION)は、日本の静岡県浜松市に本社を置く世界大手の輸送機器及び機械工業メーカーである。



スズキ㈱本社
(Wikipediaより)


四輪車の世界販売台数は第10位
国内販売台数は第2位
二輪車の世界販売台数は第8位
国内販売台数は第2位

船外機では販売台数世界第3位である。

2020年度には国内販売台数(普通車と軽自動車の合算)が2位となった。


2022年の乗用車メーカー国内販売ランキングは、

1位:トヨタ(129万台/レクサスを含む)、2位:スズキ(60万台)、3位:ダイハツ(58万台)、4位:ホンダ(57万台)、5位:日産(45万台)、6位:マツダ(16万台)、7位:スバル(10万台)、8位:三菱(9万台)であった。


1998年から採用しているコーポレートスローガンは、


「小さなクルマ、大きな未来。」



大工から身を起こした鈴木道雄により、1909年に織機メーカー「鈴木式織機製作所」として創業された。

当初の木製織機からのちには金属製自動織機の生産へ移行し、企業規模を拡大すると共に、精密機械の加工ノウハウを蓄積した。



ちなみに前回書いた豊田佐吉さん、そして今回の鈴木道雄さん、それから本田宗一郎さん(ホンダ創業者)は同郷(静岡)にあたり共に日本を代表する自動車メーカー創業者の1人として知られる。


近代化された力織機はいったん織物工場に納入されると長年の稼働が可能な耐久商品で代替需要が小さく、将来の販路飽和が予見されたことから、機械技術を活かした多角化策として、早くから自動車産業への進出検討を始めていた。



本格的な参入は1950年代初頭の自転車補助エンジンブームを機にオートバイ開発に乗り出した1952年からである。

スズキ初の二輪車「パワーフリー号」

2サイクル36ccの補助エンジンを自転車に搭載した、まさに原動機付き自転車。
(suzukibike.jpより)


更に1955年には四輪軽自動車分野にも進出し、以後、小型オートバイと軽自動車分野をメインに、日本の小型自動車業界での地歩を築いた。


四輪車は軽自動車や小型車などを主力としている。

軽自動車の分野では、1973年から2006年までの34年間にわたり販売台数日本一を誇り、マツダや日産自動車、三菱自動車工業へのOEM供給も行っている。

社団法人全国軽自動車協会連合会の発表した2006年度(2006年4月 - 2007年3月)軽四輪車新車販売台数速報によれば、長年競い合ってきたダイハツ工業に1位の座を譲った(ダイハツ61万6206台、スズキ60万5486台)。

同社は2006年にスイフトやSX4などの小型車や普通車の強化を表明しており、生産能力確保の為には軽No.1にはこだわらず、軽生産の縮小も辞さないという姿勢を打ち出している。

しかし、2014年は同年1月に発売を開始したクロスオーバーSUVのハスラーが発売初年で10万4233台とヒット車種となったことで軽乗用車販売台数の大幅アップ(2013年比15.9%増)に貢献し、同協会による2014年の軽四輪車新車販売速報ではダイハツ工業(70万6288台)を2,795台上回る70万9083台となり、8年ぶりに軽自動車年間販売台数No.1の座を奪還した。


新興国市場への進出に積極的で、特にインド市場で強みを発揮しており、インドにおける自動車年間販売シェアの54 %はスズキが占めている。

2002年にインド政府との合弁会社マルチ・ウドヨグをマルチ・スズキ・インディアとして子会社化し、連結経常利益の4割を占めている。

ハンガリー(マジャールスズキ)とインド(マルチ・スズキ)の生産拠点では、日本国外市場向けの製造のみならず、日本市場への輸出も積極的に行っている。


自動車以外ではモーターサイクル、モーターボート(スズキマリン)、船外機、発電機、リース/クレジット事業(スズキファイナンス)、住宅(スズキハウス)、マジャール・スズキからの縁によるハンガリー産ワイン・はちみつ、保険の販売やカー用品事業(オートリメッサ)、ガソリンスタンド、ゴルフ場の経営なども手がける。

これらのほとんどは関連会社のスズキビジネスが担当している。

2020年に創立100周年を迎えた国内自動車メーカーの中でも歴史の長い名門企業である。

現在の大手自動車メーカーでは珍しく、起業から現在に至るまで創業家一族が経営の中枢を担う役職を世襲している。

ただし、2000年から2008年までは創業家以外から社長が選出されており、初代社長の鈴木道雄と2015年に社長に就任した鈴木俊宏以外の創業家出身の社長は全て婿養子である。




コーポレートスローガンの歴史は、

○乗りものをつうじてひとりひとりを豊かに(1970年代中期)

○価値ある製品づくりをめざす鈴木自動車

○もっと個性的に、もっとあなたらしく Personal Best(1987年 - 1997年)

○小さなクルマ、大きな未来。(1998年 - 現在)

Way of Life!(グローバルスローガン)


である。



私の中では、Personal Bestのスズキのイメージが非常に強い🤔

よくCMやっていたのを覚えている(笑)

今はももクロだろうか(笑)
スズキ愛車無料点検中とスズキの初売のCMは非常に耳に残る😀

(suzuki.co.jpより)



織機から出発し、2輪車に参入。55年に国内初の軽4輪車「スズライト」を完成したスズキ。

1956年 スズライト・SF型
(Wikipediaより)

軽4輪駆動車「ジムニー」など、独創的な製品を世に送り出してきたパイオニア精神は今も受け継がれている。

スズキ・ジムニー(初代第1期)
LJ10型
(wikipediaより)

スズキを世界的な自動車メーカーに育て上げたのは4代目社長の鈴木修会長だ。

78年に社長に就任し、翌年に発売した軽自動車「アルト」は47万円という画期的な低価格で大ヒットした。

前期型
1979年5月 - 1982年10月
(wikipediaより)

経営の大黒柱となったインド進出でも先見の明が光った。

世界の有力メーカーが時期尚早と躊躇(ちゅうちょ)する中「大手が出ていない国で車を作れば一番になれる」と進出を決めた。

15年に鈴木会長の長男である鈴木俊宏社長にバトンを引き継いだ。





スズキにとってこの人なしでは語れないだろう。

鈴木修相談役(前会長)の存在だ。




鈴木修


1930年生まれの91歳。岐阜県出身。1953年中央大学法学部卒業後、銀行勤務を経て、1958年鈴木自動車工業(株)(現スズキ(株))入社。2代目社長だった鈴木俊三氏の娘婿になる。1963年取締役。常務、専務を経て1978年社長就任。2000年から会長、2008年には再び社長を兼務した。

(wikipediaより)

ホープ自動車という名もなき自動車メーカーから「ジムニー」の元になる知的所有権を買い取り、いまに至る大ヒットに導いたのは鈴木さんの功績である。

いまから40年以上も前に全国統一47万円の価格で「アルト」を売り出して、これまた大成功を収めたのも鈴木さんの手柄だ。


スズキがインドで大成功を収めていることはたびたび報道されているけれど、ハンガリーでも1991年に現地生産を立ち上げていて、いまも年平均10万台ほどのコンパクトカーを世に送り出している。

しかし、鈴木さん率いるスズキはこの間、すべて順風満帆だったわけではない。

当初、スズキは米GMグループだったが、GMは2006年、スズキへの出資比率を従来の20%から3%に引き下げ、2008年に資本提携を解消した。

GMの経営不振が原因だった。

そこでスズキは2009年、独VW(フォルクスワーゲン)と包括提携で合意するが、経営の独立性をめぐって激しく対立。

スズキから見ると、VWとの提携は対等でなく、乗っ取りに近かった。

このため鈴木さんは提携解消を目指したが、VW側と折り合わず、2015年、国際仲裁裁判所(ロンドン)の決定によりようやく解消(VW出資分の買戻し)に漕ぎ着けた。

しかし、VWとの間には、こんなエピソードが残っている。

資本提携に向け浜松市を訪れたVWのエンジニアたちがスズキの竜洋テストコースでスズキ車に試乗したところ、その完成度の高さに驚いたという。

VWはスズキの技術力を高く評価したからこそ、支配力を強めようとしたのだった。




2019年驚くべき出来事があった😀



トヨタ自動車と資本提携で合意したのだ。

VWとの包括提携を破棄した後、スズキは孤立状態だったが、結果的にトヨタと組むことで落ち着いた。



しかし、スズキユーザーである私も驚いた。
それはダイハツが100%トヨタの子会社だからだ!!


次回のダイハツ編にて詳しく書くつもりだがスズキとダイハツは長年、軽自動車戦争を繰り返して来た(笑)


トヨタと組むことによってスズキをも傘下にしスズキとダイハツが統合、軽と小型車部門の開発・生産を一元化なんてことにはならないだろうか😔?


トヨタはスズキの最大のライバルであるダイハツを完全子会社として抱えているが、商売敵のスズキと資本提携するメリットはほとんどないはず。

敢えていえば、スズキがインドに生産拠点を設け、シェア1位を保持していることぐらいだろう。

それゆえにトヨタがスズキと組むことなど、自動車業界ではありえないと思われたが、鈴木氏はそんな「常識」を見事に覆した。

トヨタの豊田章男社長との個人的な人脈で実現したのは間違いない。




もともと豊田章一郎氏とも親交があった鈴木修氏は2023年2月14日に亡くなった豊田章一郎氏に対して、「会社人生の父だった」と言い悼む声をあげた。




「生涯現役」を公言してきたその鈴木修氏が2021年6月の株主総会で代表取締役会長の座を退いた。

鈴木修会長の退任により、スズキを本格的に率いることになった鈴木俊宏社長は、2015年6月に社長就任し6年が経過するなかでの全権委譲となった。

スズキは、トヨタと同じく織機メーカーとして創業し2020年には創業百年を迎えている。


その鈴木家は代々婿養子が継承して、修氏も2代目の俊三氏に婿入りしたが、俊宏社長は、その鈴木修氏の長男として鈴木家で初めての男子ということで、いずれスズキの経営に携わることが確約されていたともいえる。

スズキは鈴木俊宏体制による次の百年に向けて胎動している。

「小・少・軽・短・美」のスローガンを継承して2025年度までのスズキ新中期経営計画で、3兆円企業から4兆8000億円売上への飛躍を目指す。


今後のスズキの課題は、スバルやマツダを含む広義のトヨタグループの中で、競合するダイハツと、どう棲み分けを図るのかということだろう。

スズキの鈴木俊宏社長は2020年3月期第2四半期決算の決算会見で、ダイハツ工業との関係について質問され、「ダイハツとの棲み分けをスズキが考えるということはあり得ない」を強調したが、トヨタグループの中でどんなポジションを担うのかが見ものだ。






スズキの歴史を振り返る名車達の一部をあげます😀



1955年/スズライトセダンSS


1971年フロンテクーペGX
(ベストカーより)



キャリィバン

G・ジウジアーロがデザインを手がけたキャリイバンは1969年7月から3年間販売された。前後対称というスタイルで、リアハッチの傾斜が強いため荷室容積が少なく、次の5代目ではオーソドックスなスタイルとなった。
(ベストカーより)



1977年/初代アルト
(ベストカーより)


初代アルトワークス

1987年2月、DOHC12バルブエンジンにインタークーラーターボを加えた軽初のツインカムターボ車、アルトワークスが発売。EPI(電子制御燃料噴射)に加えてクラス初のESA(電子進角システム)、水冷式オイルクーラーまで備えたエンジンはリッターあたり117.8psとなる最高出力64ps/7500rpm、最大トルク7.3kgm/4000rpm。低回転域からリブリミットの9500rpmまで一気に吹け上がる鋭いレスポンスだった、
(ベストカーより)




RS/アルトワークス
(wikipediaより)


アルトワークス
(カルモマガジンより)


ワゴンR

鈴木修会長が鶴のひと声で「ワゴンであーる」でいいんじゃないかと進言し、そのまま車名になったのは有名な話
(ベストカーより)




2代目ワゴンR RR
(wikipediaより)



ちなみに私の愛車もフロントにだいぶ原形ないが2代目ワゴンR(笑)




ワゴンR RR



(スズキHPより)



1970年/初代ジムニー
(ベストカーより)

1981年にデビューした2代目ジムニーは18年にわたって生産された
(ベストカーより)


(スズキHPより)


1991年/カプチーノ

軽自動車の自主規制値めいっぱいの64psを発生。マツダのAZ-1、ホンダのビートとともに「軽スポーツABCトリオ」と呼ばれ人気を博した 。ルーフとボンネット、リアフェンダーの一部にアルミニウムを使用し、ホイールや駆動系にもアルミニウムを使うことで700kgに収めた
(ベストカーより)


スイフト スポーツ

鍛造ピストンの採用や高圧縮化などの専用チューニングを受けた125ps/15.1kgmを発生する1.6L、直4NAエンジンを搭載。サスペンションの取り付け剛性アップや専用設計フロアなど、多くの専用チューンが行われ、車重は1060kg(5速MT車)。 2007年5月に発売された2型では5速MT車は1速→2速のクロスレシオ化(1速3.545→3.250)、ファイナルギア比変更(4.235→4.388)、レッドゾーンの引き上げ(6800rpm→7200rpm)(レブリミットは7000rpm→7500rpm)などの改良を受けている
(ベストカーより)


2014年1月に発売した初代ハスラー
(ベストカーより)



ちなみに鈴木修会長の社用車はソリオだそうです(笑)



さて、私が思うスズキ車の最大の魅力は、

「安くするために軽くする」

という考え方。

スズキのクルマづくりの原点だということ。

車体が1割軽くなると、コストも1割安くなる。

そして、車体が軽くなった分、燃費もよくなる。

そして、車体が軽ければ同じエンジン性能でも速くなるということ☆

良い部品を作り良い車を作る。

良い部品だから違う車種との互換性も高く流用も効くし、流通も多く部品も安く手に入る。

そして、何よりこだわりも深いが故に MT車も多い。

ホンダのS660と同様、年々厳しさを増す、衝突安全性能と燃費性能、騒音規制に対応できないため、“いったん生産終了”という形をとったアルトワークスもいずれ復活するのではないだろうか?


是非ともスズキならではの車を作り続けて欲しい。


スズキの挑戦はまだまだ続く。。。





最後に鈴木修氏の名言をいくつか紹介しましょう☆


いったん規則ができると、自分の頭で考えずにそれに従う人が出てきます。これを世間では大企業病というのでしょうか。最も頭に来るのがこういう姿勢です。

鈴木修

グローバル化のなかでは、明るい性格のヤツが求められる。明るくアッケラカンとしてる人が、海外で活躍でき、やがてはツキも生む。理屈ばかりで暗い性格はダメ。

鈴木修

俺はサラリーマン社長じゃないから花道はない。だから、自分の任期を考えて経営してきたわけじゃない。

鈴木修

1位と2位が本気で戦いはじめると、3位以下のメーカーなんて木端微塵に吹き飛ばされる。3位以下の企業というのは不安定で脆弱な存在にすぎず、やはり小さな市場であってもナンバーワンになることが大切だと思います。

鈴木修

クルマを生産していない国に行けば、100台でも1位になれる。従業員の士気を高めるためにも、スズキでも1番が取れる国があるんだというのを見せたかった。

鈴木修

ビリだからチャレンジできた。

鈴木修

GMは大きな鯨です。一方、スズキは、メダカよりも小さな蚊のような存在です。メダカなら鯨に飲まれてしまうかもしれませんが、小さな蚊なら、いざというときには空高く舞い上がり、飛んでいくことができます。

鈴木修

会社が大きくなったからといって、スズキという会社に実力がつき、強くなったわけではありません。体の内部の筋肉や臓器が十分に発達していないのに、身長だけがどんどん伸びたようなものです。外からは一人前に見えるかもしれませんが、内部にいれば、その危うさを感じないわけにはいきません。

鈴木修

土曜休んで日曜も休む奴は要らない。今の日本の悪い所はアメリカ的時間の切り売りが横行している事だ。8時間働けばそれでいいなど通用しない、成果で報酬がでるんだ。

鈴木修

自動車会社にとって最も大事なのはクルマです。当たり前のように聞こえるかもしれませんが、その経営者がどんなに人格者でも、いかにブランド力があっても、商品に魅力がなければ会社は傾いてしまいます。自動車に限らずメーカーとはそういうもので、商品がすべてといってもいい。

鈴木修

私はよく「スズキは中小企業だ」と言います。「売上高3兆円で中小企業というのはおかしい」と反論されることもありますが、私が言いたいのは規模の話ではありません。会社の中身が中小企業のままだと言っているのです。他のメーカーと比べるとまだまだ見劣りします。

鈴木修

「安くするために軽くする」という考え方は、スズキのクルマづくりの原点です。車体が1割軽くなると、コストも1割安くなる。そして、車体が軽くなった分、燃費もよくなる。これはいまでも生きています。

鈴木修

メーカーは現場がどうモノを作るかが勝負で、システムだとか管理だとかは後からついていけばいい。

鈴木修

コスト意識を経営がはっきり持つためにも、本社を工場から離してはならない。スズキの本社はいまも静岡県浜松市高塚町の工場横にあります。創業以来、本社工場の考えを変えたことはないし、今後も変わらないでしょう。

鈴木修

部品や製品はもちろん、設備まで、いかに小さく、少なく、軽く、短く、美しくするか。それがコスト削減とともに、できあがったクルマの燃費向上へとつながる。小型車と同じ安全基準が適用される中でのこうした努力が「小さなクルマをつくることなら、誰にも負けない」というスズキの競争力を養う力になっていたと思います。

鈴木修

メーカーというものは工場にカネが落ちているところだ。設計がいいモノを考えて、生産現場がいいモノをつくれば、そんなもん、売れますよ。管理なんて必要ない。

鈴木修

スズキはもともと小さな会社ですから、巨大なライバルと対等に戦えるわけはありませんが、これだけは絶対よそに負けない、特長のある会社にしたいと私は常々思っていました。のちにリスク承知でインド市場に飛び込んでいったのも、他の大手が手を伸ばさないインドなら、一番が取れるだろうと考えたからです。

鈴木修

止まったら負け。この程度の働きで業績が上向くと考える社員がいたとしたら危険だ。

鈴木修

難しい問題に直面したら、自分だけで抱え込まずに、上司に相談してほしい。相談を受けた上司が迷ったら、さらにその上の上司に相談してほしい。これを繰り返すことで、組織のコミュニケーションがよくなり、会社の実力がアップすると思います。

鈴木修

僕は本社工場にものすごくこだわりがある。製造業である限り、モノつくりで生きていこうとする限り、経営の方針を決める本社は現場から離れてはいけないという信念があるからです。

鈴木修

製造業は1円のコストダウンが生死を分けるといわれています。1円を大事にするというのは、決して空疎な精神論ではありません。1円の重みというのは、私たちが日々実感していることなのです。売上高3兆円、利益900億円というと非常に大きなビジネスをしているように見えますが、実際には1部品あたり1円50銭の利益を積み上げた結果にすぎません。もし1部品あたり1円50銭のコストダウンができれば利益は倍増しますが、反対に1円50銭コストアップになれば利益は吹き飛んでしまいます。

鈴木修

会社のトップが会長、社長なら、そのうちのひとりは技術者であるべきだというのが私の持論です。やはり、メーカーのトップには必ず技術者を入れた方がいい。結局、クルマをつくるのはエンジニアであって、彼らをきちんと処遇すること、報酬でもポストでも処遇することが非常に大切だと感じています。スズキの場合は、役員人事でも技術系と事務系が均衡しています。

鈴木修

かつて大企業といえば、資本金や人員数、売上高、歴史、利益といったものさしで判断することができました。ところが現在では、そうしたものさしだけで大企業だと判断することはできません。業界でシェアがナンバーワンかどうか、すなわちプライスリーダーであるかどうかが肝心です。たとえ小さな規模でも、強い個性や特色を備えた商品で、極めて高い市場シェアを持つ会社こそが大企業であると言えると思います。スズキはまだその域に達していません。

鈴木修

日産さんにOEM提供すれば、それだけで年間3万台超が売れる。3万台といえば、スズキの大阪府での販売台数とほぼ同じだ。軽自動車で最大のライバルはダイハツさんだが、先方は47都道府県で勝負している。うちは日産さんへのOEMで48都道府県で勝負できる。長い目で見れば、ダイハツさんとの競争でうちが有利になり、悪い話ではないはずだ。

鈴木修




参考資料

ニュースイッチ
「100年企業」になるスズキとマツダ、トヨタを後ろ盾に開拓精神を貫けるか

PRESIDENT Online
「新技術がわからない」軽の守護神・鈴木修氏の引退で、自動車産業の崩壊が始まる

gqjapan.jpより
偉大なる経営者、ひとり去る──スズキ・鈴木修会長退任へ

ベストカーweb
カリスマ経営者の鈴木修氏が昨年勇退したけれど。。。
今後の「スズキ」は大丈夫か?

J CASTか会社ウオッチ
スズキの鈴木修会長が引退へ 最後は「ありがとう。バイバイ」 「中小企業のおやじ」「忙しくて死ぬ暇もない」名言残し

NHK news web
豊田章一郎氏死去 スズキの鈴木修相談役“大変ショック”

朝日新聞 Digital
スズキ相談役の鈴木修氏「会社人生の父だった」豊田章一郎さん悼む声

Response.
スズキ社長、トヨタと資本提携しても「ダイハツとの棲み分けはあり得ない」

ベストカーweb
【時代に刻む名車の数々!!】
スズキ100周年 記憶に残る革命車とその礎

The Greats
鈴木修の名言
スズキ代表取締役会長

東洋経済Online
スズキ「いつの間にか2位」に躍進した隠れた実力強さが功を奏したか?他メーカーが弱すぎか?


Wikipedia

スズキ㈱HP




次回はダイハツ編です(笑)
それではまた(笑)
Posted at 2023/07/02 14:26:39 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年06月30日 イイね!

第1回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜トヨタ編♪

第1回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜トヨタ編♪好きな寺社仏閣巡りも最近では仕事が忙しいのと車の不調にて遠出が出来ない為、日本の自動車会社に関して調べてみよう〜、考えてみよう〜☆

ということで今回はトヨタ編をお送りします(笑)


ただ、こちらは全て私の個人的趣向、意見でもありますのであしからず♪

私の好きなトヨタ車といえば、2000GT、セリカXX、スターレット、初代カローラFX,ハチロク、ソアラ、MR-2、セリカGT-FOURなどなどだ😀



◉トヨタ自動車株式会社
(トヨタじどうしゃ、英: TOYOTA MOTOR CORPORATION、通称:トヨタ、TMC)

(トヨタ自動車HPより)

トヨタ自動車は、愛知県豊田市に本社を置く日本最大手の自動車メーカー。
豊田自動織機(愛知県刈谷市)を源流とするトヨタグループの中核企業。
ダイハツ工業と日野自動車の親会社、SUBARUの筆頭株主である。

トヨタ自動車本社
(Wikipediaより)

トヨタグループ全体の2022年の販売台数は1,048万台と、3年連続で世界1位となった。

世界最大の自動車メーカーの1つであり、2021年時点の単独売上高は全世界の企業の中で世界9位。

2022年における企業ブランド力は全世界で6位。

日本で最も売上高が大きい企業である。


凄いですね~☆


豊田佐吉(トヨタの始祖)
豊田利三郎(初代社長)
豊田喜一郎(第二代社長、実質的創業者)


織機の研究をしていた豊田佐吉さんは、1890年(明治23年)4月、東京上野で開催の第3回内国勧業博覧会を見る。
そこから1890年(明治23年)11月11日、豊田式木製人力織機を発明、特許申請。

1891年(明治24年)5月14日付で、豊田式木製人力織機の特許を得る。

(トヨタ企業サイトより)


これがトヨタの始まりである。



実質的なトヨタ自動車の創業者はニ代目社長の豊田佐吉さんの長男、豊田喜一郎さんからと言われている。

(Wikipediaより)

1933年9月1日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設。

1936年に自動車製造事業法の許可会社に指定されたことから、これが1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任。1941年には社長に就任した。

戦後混乱期(戦後占領期)の1949年(昭和24年)2月に、日本経済の自立と安定とのために実施された財政金融引き締め政策ドッジラインはインフレ・国内消費抑制と輸出振興が軸だった影響もあり、不況に陥った中、トヨタ自動車の債務も増大し、早期優遇退職を行う経営側と全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会の対立が激化。

事態の責任をとるため、1950年6月に社長を退任し、東京に研究所を設立し、エンジンの研究などを行った。

1952年3月に亡くなるが彼が生前関わっていたトヨペットクラウンが1955年に発売された。

(群馬トヨタ太田竜舞店ブログより)

戦後のトヨタ自動車の建て直しをしたのが、「トヨタの大番頭」と呼ばれた三代目社長石田退三さん。

また、五代目社長の豊田英二さんと共に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれた。


そして六代目社長になったのが豊田章一郎さんだ。

(Wikipediaより)

トヨタ自動車株式会社名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長。

この前まで社長だった豊田章男さんのお父さんである☆


さて、現在の代表者は、
豊田章男(代表取締役会長)
早川茂(代表取締役副会長)
佐藤恒治(代表取締役社長兼CEO)である。


豊田章男会長が11代目社長。
佐藤新社長が12代目である。


もともとモリゾウとしてのレーシングドライバー豊田章男は私もYou Tube動画でたくさん観ていた☆

(Car Watchより)


はっきり言って、今現在、車と言えば低燃費、環境配慮、安全性能、自動運転技術にEVというのが主流であるが私には全く興味のない話だ(笑)

お叱りをうけそうだが。。。
単に昔の車が好きなだけです🥹



2019年東京モーターショーでのコメントは車好きならみんな知っているやつ。

(Creative Trendより)


記者:

豊田社長が乗ってみたい新しい車とは?


豊田社長:

本当のことを言って良いんですか?
僕はね。。。ガソリン臭くてね、燃費が悪くてね、音がいっぱい出てね、そんな野性味溢れた車が好きですね。。

『CASE』とか言ってんですよ立場上。

『燃費も大切ですよね、騒音はだめですよね』と言っていますが、心の底ではね、クルマってそういうものなんですよ。古い人間ですけど。。。


愛車と言われる以上は、私の足りない技能を補ってくれる役割も大切だし、

私がそのクルマと付き合ってる間に、どんどん、
私の運転技能というか、運転ラブというか、クルマラブを
ますます高めてくれるクルマが、私は大好きです。




これを聞いた時、今の時代にあった車の開発の中にもこうゆう想いがある社長のいる会社では面白い車を作ってくれるのではないか。と期待を持たせてくれるのがトヨタだと思う☆


だってただの車好きのおじさんなんだもの(笑)



といいつつ私はトヨタ車1台も買ったことないが(笑)




豊田章男さんを深掘りして調べてみよう☆

(トヨタイムズより)

豊田章一郎・博子夫妻の長男として愛知県名古屋市に生まれる。母・博子は三井財閥一族の伊皿子家8代目・元三井銀行取締役三井高長の三女。

愛知教育大学附属名古屋小学校、愛知教育大学附属名古屋中学校、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。
バブソン大学経営大学院修了(MBA)。

めちゃくちゃ優秀ですね🤔



高校在学中にはアメリカ合衆国ハワイ州へ渡り、米国大統領をも輩出したプナホウ・スクールで学んだ。

慶應義塾大学在学中はホッケー部に所属し、ホッケー男子日本代表にも選出されたが、日本がモスクワオリンピックをボイコットしたため五輪出場には至らなかった。

大学卒業後に渡米。語学習得を目的としていたが、バブソン大学(マサチューセッツ州)のビジネススクールに入学し、1982年に経営学修士(MBA)を取得した。

なお、この頃はゴルフに夢中であった。

MBAを取得したのち、アメリカ合衆国の投資銀行(A.G.ベッカー(英語版)1984年にメリルリンチが買収)にて勤務した。

しかし自分が豊田家の人間であるという周囲の目から悩みが増していき、上司の「同じ苦労をするなら、トヨタのため苦労したらどうなんだ?」という言葉に豊田の姓を受け入れることを決意。

1984年に投資銀行を辞し、トヨタ自動車に入社した。

トヨタ自動車への転職を決意した章男に対し、父である章一郎は「(章男を)部下に持ちたいと思う人間は今のトヨタにはいない」と戒めたうえで、特別扱いはしないと言い渡した。

そのため、章男はトヨタ自動車に対して履歴書を提出し、章一郎は社員としての入社を認めた。

入社後は、生産管理や国内営業などを担当した。

係長から平社員への降格人事も経験したものの、販売部門への「カイゼン」活動の横展開などを通じ、販売部門の改革を主導した。

1998年には、自動車関連の情報を総合的に提供するウェブサイト「GAZOO.com」を立ち上げた。

その後、アメリカ合衆国カリフォルニア州にて、ゼネラルモーターズとの合弁企業「NUMMI」の副社長を務めた。

一人の車好きとして「モリゾウ」を名乗り、モータースポーツやマスメディアに登場することでも知られる。



経営者としては2013年から、レクサスインターナショナル、第1トヨタ、第2トヨタ、ユニットセンターの4つの事業ユニットを各副社長とともに分担する新体制を開始し、章男はレクサスインターナショナルを担当する。


2015年には走りの質感を向上させた新プラットフォームのTNGAの採用を開始し、第1弾として4代目プリウスを投入した。

(Global Toyotaより)

2018年にはモビリティサービスの分野で孫正義率いるソフトバンクと提携。時価総額日本1位と2位の企業の提携は世間を驚かせた。

同年かつての上司でデンソー副会長などに出されていた小林耕士を、トヨタ自動車副社長に登用する異例の人事を行った。

また同年、史上初となる2度目の自工会会長就任をしている。

2017年の秋の褒章にて藍綬褒章を受賞した。


2018年3月決算ではトヨタ史上最高益となる2.4兆円を達成し、2019年3月決算では日本企業として史上初めて30兆円の売上高を達成した。

2019年6月には、トヨタ自動車創業家出身としては、父・豊田章一郎が2015年に退任して以来となる、デンソー取締役に就任した。

2019年はトヨタ自らが情報発信をするためのメディアである『トヨタイムズ』を立ち上げた。

また自工会会長として臨んだ2度目の東京モーターショーでは、車好きではない家族連れもターゲットにして大胆な改革を断行、前回開催の77万人から倍近い130万人に増加させることに成功した。

(Toyotimes.jpより)

2020年には静岡県裾野市のトヨタ自動車東日本東富士工場跡地に、未来の技術を試すための実証都市(ウーブン・シティ)を建設するという壮大な構想を発表している。

2023年4月1日、社長職を佐藤恒治に譲り、自らは代表取締役会長に退いた。


これがWikipediaによる主な経歴である。
正直、経営者一族としてボンボンで何の苦労もなく経営者になったのかと思っていたらそうではなかった♪


豊田章男さんの経営戦略は、
リーマンショック時の反省からコスト削減と効率化、経営のスリム化をすることで迅速な意志決定と人材育成の道筋を整備したといわれる。

また生産を中心に担ってきた子会社の整理や、関連企業の整理を行った。

例えば、ほぼトヨタ専属であったデンソー、アイシンをはじめとする部品メーカーの「トヨタ離れ」を促進させて依存度を下げ、業績を向上させた。

販売への「カイゼン」の活用
「カイゼン」活動に代表されるトヨタ生産方式を販売部門にも導入するよう主張。

これらの活動を通じて販売部門の改革を働きかけ、納車時間の短縮などを主導した。

更にパーツの共通化と車種削減をしコモンアーキテクチャー戦略「TNGA」を導入し、それまで膨大な数に膨れあがっていたプラットフォームや部品の種類を大幅に共通化した。

また積極的な提携を行った。

従来のトヨタは自社・自グループ内のみで開発を進める「自前主義」にこだわったが、豊田はスバル、BMW、スズキ、マツダ、テスラ、フォード、マイクロソフト、ソフトバンクなど多数の企業と提携することで、コストの削減と開発促進体制を採っている。


(スバルHPより)

(bmwfun.rgr.jpより)

(ameblo.jpより)

次世代を見据えた自動車開発分野においては、マイクロソフトやソフトバンクと提携し、ITを用いた新たな自動車技術および自動車サービスの開発に取り組んでいる。

エコカー開発の分野は、2016年念頭に「今後100年エコカーの時代」とし、燃料電池車やプラグインハイブリッド車(PHV)など複数の技術を、各地域の消費者のニーズに合わせてより本格的な展開を進め、世界的に広がる環境政策に対応するとした。


2015年には普及を目的に燃料電池車に関わる特許5700件を無料公開し、「水素社会」の促進に努めた。

またEV(電気自動車)の分野についても、マツダ・デンソーと「EV C.A Spirit」を共同設立して開発を行う。

なおラインナップ全てをEV化することには否定的で、公には「2025年までにエンジン車のみの車種をゼロにする」としているが、これはガソリン車しかラインナップされてない車種にもモデルを追加するという意味で、純エンジン車自体を撤廃するというわけではない。

2021年には水素燃料エンジンの市販車への導入に向けた開発に着手したことを明らかにしている。

そして更には、実験都市の建設計画を打ち出している。

2020年、あらゆるモノやサービスがネットで繋がる「コネクテッド・シティ」の実験都市を東富士工場跡地に建設する計画を公表している。


そんなこんなで今となっては、

売上高
連結:29兆9299億9200万円
単独:12兆7297億3100万円
(2020年3月期)

営業利益
連結:2兆4428億6900万円
単独:9788億400万円
(2020年3月期)

経常利益
連結:2兆5546億700万円
単独:1兆7353億6500万円
(2020年3月期)

純利益
連結:2兆761億8300万円
単独:1兆4240億6200万円
(2020年3月期)

純資産
連結:21兆2418億円
単独:12兆4502億円
(2020年3月期)

総資産
連結:52兆6804億3600万円
単独:17兆8092億4600万円
(2020年3月期)

従業員数
連結:37万2817人
単独:7万710人
(2022年3月31日現在)

支店舗数
5,142店


日本が世界に誇る大企業それがトヨタである😀

まっ、しかし、今や時価総額で世界一の自動車メーカーとなったテスラと比較されている。



我々、真の車好きからすればトヨタに限らず国内メーカーは車にかける想いが全然違う😤

もちろんそれだけで経営は出来ないが。。。
でも頑張って欲しいものだ(笑)



そうゆう面では、豊田章男社長は、文字どおりトヨタ自動車のすべてを変えたと言われている。

“80点主義”といわれた同社のクルマづくりを改め、限りなく100点に近い製品開発を目指すようになったのは、なかでも最大の功績と言われている。

2009年の社長就任以来、トヨタの製品は目覚ましい進化を遂げた。

それ以前に比べると、まずはボディー剛性が格段に向上し、足まわりの動きも一段とスムーズになったようだ。


プリウスアンダーパネル


側面衝突時の衝撃を逃がして骨格のわずかな変形のみに抑えることで、キャビン内の搭乗者を守る。
(プリウス広報資料より)


エンジンが高負荷時に安っぽいノイズを発しなくなったのも、豊田章男社長が「いいクルマづくり」を掲げて改革に取り組んだ成果だといえるらしい。

HEV用もラインアップするトヨタの中核エンジン[ZR series]

直列4気筒1.8〜2.0ℓ(プリウス、ノア/ヴォクシー、エスクァイア、カローラスポーツ、C-HR etc.)
(Motor-Fan.jpより)




さて、もう1つトヨタと言えばモータースポーツをやり続けていることだ☆


モータースポーツ界への貢献は計り知れないものがある。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

社長自らがあそこまで積極的に関与しなければ、現在のWRC人気もスーパー耐久人気もなかったはず。


サーキットに通い詰める社長(笑)
こんな社長なかなかいないだろう(笑)

(PRESIDENT Onlineより)


かつては「御曹司の道楽」と難じられることもあったが、レースの経験をクルマづくりに生かす流れが社内に定着してきたこともあり、そうした批判は影を潜めつつあった。


モータースポーツは、豊田氏が2009年の社長就任以来掲げる「もっといいクルマづくり」の起点である。

走行環境が過酷なレースを通じて課題を洗い出し、スポーツカーをはじめとした市販車の開発につなげていく狙いがある。

とくに熱心な車ファンに対しては、「平凡なトヨタ」から脱却していることを示す意味合いも持つ。

耐久レースやラリーで鍛えられた四輪駆動のスポーツカー「GRヤリス」(2020年発売)の進化版の限定車(500台)を1月に売り出すと発表したところ、1万人を超える応募が殺到した。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

豊田氏といえば、トヨタ創業者の喜一郎氏の孫。

リーマン・ショックで大赤字に陥ったさなか社長に就いた。

その前からドライバーの顔を持ち、副社長だった07年から「車開発の聖地」とも言われる独ニュルブルクリンクの耐久レースに出場。


「乗って楽しいクルマづくり」を追い求めていた。



きっかけは、トヨタ自動車に所属していたメカニック兼、熟練の「マスターテストドライバー」としてスポーツカーの開発や後進の育成に携わった成瀬弘(なるせひろむ)さんの存在だ。

豊田章男さんが2002年にアメリカから帰国した直後、成瀬さんは、

「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない」

「月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ」


と言い放った。

章男氏はは成瀬氏に弟子入りして熱心に運転技術とクルマ造りの精神を学び、『乗り味』の繊細な違いを理解できるように努力した。


「道がクルマを鍛える」

「安全で疲れないクルマが良いクルマ」


など、現在章男氏やGRカンパニーが語る自動車思想は、ほとんどが成瀬氏に辿り着くと言っても過言ではないようだ。

(小学館より)

社長就任前の2007年、当時副社長だった豊田氏の姿はドイツのニュルブルクリンク(ニュル)にあった。

ここで行われる24時間レースに初めて参戦するためだ。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

マスタードライバー成瀬氏の下で基礎から運転を教わっていた豊田氏のトレーニングの相棒は、80系スープラ。

必死の思いで後を追ったそうだ。



(Wikipediaより)

かつて豊田氏は、トークセッションにおいて「技術部との会話が通じない」と語ったことがある。

エンジニアではない豊田氏は、ドライバーとしてクルマづくりに向き合うことで技術部との共通言語を得ようとしていた。

数年の運転訓練を経て、いよいよ豊田氏は成瀬氏とともにニュルに挑むことになる。

だが、当時の挑戦は社内でも理解されなかった。

チーム名に“トヨタ”の名前を使うことはできず、豊田氏が当時担当していた事業である「GAZOO」を使用。


“豊田章男”という名前も伏せるしかなく、愛知万博のマスコットキャラクターにちなんで「モリゾウ」というドライバーネームを名乗った。

現地での訓練は、これまで同様80系スープラ。

本番はポケットマネーで購入した中古のアルテッツァを改造して臨むしかなかった。

(Wikipediaより)

他のメーカーが、発売予定の開発中のスポーツカーを走らせている中、自分たちは販売終了となったクルマに乗るという屈辱。

この悔しさがニュル24時間への挑戦を続けていく原動力となり、クルマづくりへの向き合い方の根幹を形成していった。

2019年、17年ぶりに復活したスープラが再びニュルを走った後、豊田はこのように語った。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)


13年前、トヨタも名乗れず、このニュルで、成瀬さんとほぼ2人でプライベーターよりもプライベーターらしい、本当に手づくりのチームでここに来ました。


その時の誰からも応援されない悔しさ、何をやってもまともに見てくれない悔しさ、何をやっても、ハスに構えて見られてしまう悔しさ。そして生産中止になったスープラで練習をしている悔しさ。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

全ての悔しさが、成瀬さんが亡くなった6月23日に社長に就任した時からの、ずっと私のブレない軸でもあります * 。


私が「もっといいクルマをつくろうよ」ということだけしか、社長になって言わないのは全てその悔しさであります。

(2019.6月 ニュルブルクリンクレース後のコメント)

*成瀬氏は2010年6月、当時開発中だったLFAのテストドライブで出かけた一般道で事故に遭い、帰らぬ人となった。




ただ、もっとも、当時は必ずしも社内の空気は好意的ではなかったそうだ。


「御曹司の道楽だ」

「リスク管理ができていない」


経営の中枢にありながらレース参戦を続ける豊田氏に対して、社内から批判的な声が少なくなかったという。


しかし、次第に周囲の見る目は変わった。

開発の前線で性能をチェックする「マスタードライバー」として会社を率いるようになり、海外からの注目も高まった。

F1やWRC(世界ラリー選手権)など、世界的なモータースポーツを統括するFIA(国際自動車連盟)は今年2月、最高意思決定機関である評議員会のメンバーに、豊田氏を選んだ。

自動車メーカーのトップとしては初めての選出だった。



トヨタ創業者の喜一郎氏はモータースポーツについて

「オートレースは単なる興味本位のレースではなく、日本の乗用車製造事業の発達に、必要欠くべからざるものである」

と書き残している。



豊田氏も「やれ道楽だとか言われたが、(モータースポーツは)トヨタの原点」と語る。

「スポーツカー、ファミリーカー、その先にある自動運転でも、もっといいクルマづくりにつなげていく」

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

若者の車離れやEV化による自動車のコモディティ化への危惧から、

『次の100年も、クルマを徹底的に面白くする』

とし、モータースポーツ活動を積極的に振興している。

FIA 世界耐久選手権(WEC)や世界ラリー選手権(WRC)のような最高峰カテゴリのレース活動が有名だが、ニュルブルクリンク24時間レースや全日本ラリー選手権、スーパー耐久などにも「凄腕技能養成部」を初めとするトヨタ社員のチームを送り込んだり、市販車の開発者にもドライブさせるなどして人材育成・市販車開発に役立てている。

2016年にはトヨタ・レクサスの全てのモータースポーツ活動を「TOYOTA GAZOO Racing」の名の下に一本化した。

さらに全国にカーショップの『GRガレージ』を展開し、車好きを増やすためのプロモーションを行っている。


市販車の走行性能の向上
2015年に投入された新プラットフォームTNGAではコスト削減のみならず走行性能の向上が盛んに喧伝され、プリウスやカローラは従来の安価なトーションビーム式から走りの質感が高いダブルウィッシュボーン式へと変更された。

またクラウンやC-HRのような、本来スポーツカーでない車種も徹底的にニュルブルクリンクで走りこませて鍛えている。

2019年には愛知県豊田市に、ニュルブルクリンクをイメージしたテストコースを開設している。

また前述のGAZOO Racingは社内カンパニー『GRカンパニー』として市販車へレースで得た知見をフィードバックすることで会社の利益に貢献するとしている。

市販スポーツカーの新規開発
他社とのジョイントにより86やGRスープラ、GRヤリスを開発し、トヨタブランドとしては途絶えていた2ドアクーペをラインナップに復活させた。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)
またレクサスにおいてもRC、RC F、LCといった複数のクーペを誕生させている。

(Wikipediaより)

またブランドとしても2009年にコンプリートカーの『GRMN』、2010年に乗用車をスポーティーにチューニングした『G's』を立ち上げた。

2017年にはこれらをGAZOO Racing由来のブランド『GR』のピラミッドの下に統一し、さらなる展開体制を採っている。




(Toyota Gazoo Raicing.comより)
2023年6月25日、アフリカ大陸のケニアで開催されてきたWRC世界ラリー選手権第7戦『サファリ・ラリー・ケニア』の競技最終日、日曜のデイ4はSS14~19が行われ、TOYOTA GAZOO Racingワールドラリーチーム(TGR-WRT)のセバスチャン・オジエ/ヴァンサン・ランデ組(トヨタGRヤリス・ラリー1)が優勝。2023年シーズン折返しの一戦で今季3勝目をマークした。

(Toyota Gazoo Raicing.comより)
総合2位はオジエと優勝を争ったチームメイトのカッレ・ロバンペラ(トヨタGRヤリス・ラリー1)。
同じくTGR-WRTのエルフィン・エバンスと勝田貴元が3位、4位に入ったため、トヨタ勢が昨年のサファリ・ラリーに続き1-2-3-4フィニッシュを達成した😀

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

(Toyota Gazoo Raicing.comより)

GRヤリスは、市販車をモータースポーツで勝てるように改造する従来のつくり方ではなく、モータースポーツで勝てるクルマのベース車両を市販車でつくる、逆転の発想が採られている。


これまで「86」や「スープラ」を復活させてきた豊田氏だが、いずれもSUBARU、BMWとの共同開発であり、トヨタがゼロから開発するスポーツカーに並々ならぬ情熱を注いできた。



2000年代、トヨタのスポーツカーは生産終了が相次いでいた。2代目スープラが2002年、アルテッツァが2005年、MR-Sが2007年に終了。

MR-S
(Wikipediaより)

MR-2 AW11型
(Wikipediaより)

MR-2 SW20型
(Wikipediaより)

当時のトヨタは、海外を中心に販売台数を伸ばし、規模の拡大を追求する中で、「売れるクルマ」「儲かるクルマ」を軸とした戦略を立てており、「一部のクルマ好きのためのクルマ」と位置付けられたスポーツカーは、重点ラインナップから外されてしまっていた。


それでも豊田氏は、レクサスLFA(2010年)、86(2012年)と立て続けにスポーツカーを復活させた。

豊田氏は「時代のニーズに合わせ、変化し続けるからこそロングセラー」と考え、時期を待ってマイナーチェンジを加えるのではなく、需要に応じてタイムリーに「もっといいクルマ」を提案できるよう、開発、生産、調達、営業、管理部門に至るまで、クルマづくりを見直すとした。


カローラはセダンであることにこだわらず、「カローラスポーツ」「カローラクロス」を。ヤリスも「GRヤリス」や「ヤリスクロス」といったラインナップを追加するなど、商品を群で展開するようになった。

カローラスポーツ
(Wikipediaより)

カローラクロス
(Wikipediaより)

GRカローラ MORIZO Edition(プロトタイプ)
(Wikipediaより)

時代が悪いから、開発をやめると言うことではなく、将来を見据え、こういう時代でも技術や技能の伝承を続けることは、とても大切なことだと。

カーボン素材や、時速300kmからでも安全に曲がれ止まれる技術、各種の機能部品など、色々な技術のブレークスルーもたくさんあると。


クラウンやカローラといった「ロングセラー」も息を吹き返し、86やスープラ、GRヤリスといった「スポーツカー」も復活した。


働くクルマ、商用車も大切にしている。
HEVからBEV、水素まで、電動車もフルラインで揃っている。


「TNGA」と「カンパニー制」と「地域制」。

この3つが相まって、世の中が必要とするどんなジャンルのクルマでも、それを一番に考え、実現できる人が、いまのトヨタにはいる。


それが世界のトヨタであるのだろう☆



何となく豊田章男さんはとても社長っぽくない好感度の良さを感じる♪
それは豊田章男さんの名言や入社式の社長挨拶をみてみると大変素晴らしいと感じます♪

是非ネット検索してみて下さい(笑)




そして2023年4月1日、自動車販売台数3年連続世界一のトヨタ自動車の社長が交代した。


(Toyotimes.jpより)

巨大メーカーを14年にわたって指揮し、ブランドイメージを大きく向上させた創業家出身の豊田章男氏が退任、53歳の佐藤恒治(こうじ)氏に後を託しました。

佐藤氏は1992年に入社、シャシー設計を経て製品開発におけるコンセプトプランナーなどを担当。

そして、2017年に登場したレクサスLCではチーフエンジニアとして陣頭指揮を取った。

実はこのモデルは「市販を前提としていないコンセプトカーを量産化する」という壮大なプロジェクトだった。

企画当初、佐藤氏はレイアウト検討をするも、当時のトヨタ/レクサスが持つ技術とリソースでは市販化は無理だと判断。

即座に章男氏に「LCの市販化はできません」と伝えに行くと、「今できないのは分かっている、それをできるようにするためにはどうすればいいのか? 変えるしかないでしょ」と言われた。

そこで佐藤氏は既成概念にとらわれずプラットフォームをはじめとする主要構成部品を新規開発し、市販化にこぎつけた。

その後、レクサスの開発統括やエグゼクティブ・バイス・プレジデントを経て、2020年1月にLexus Internationalのプレジデント、同年9月にGAZOO Racing company(GR)のプレジデントとなり、「プレミアム」と「スポーツ」の両ブランドのトップとなった。

ちなみに現在GRがモータースポーツを通じて開発を行っている水素エンジンを、章男氏に提案したのは佐藤氏であるそうだ。

水素エンジンカローラ
(Global Toyotaより)


エンジンルーム水素配管の改良
(Global Toyotaより)

佐藤氏もまたクルマ好きであることに違いないが、章男氏が、


「運転するのが大好き」


なのに対し、佐藤氏は、


「運転する人が笑顔になるクルマをつくるのが大好き」


だと語る。

愛車は2002年まで生産された4代目スープラだが、最近、程度極上のAE86(カローラ・レビン)を購入したばかりで、マイナーな修理状況でもうれしそうにSNSに上げているのをみた。


今後取り組む課題が3つ。

それは、

「次世代BEV(バッテリー電気自動車)を起点とした事業改革」

「ウーブン(トヨタが開発する実験型未来都市)の取り組み強化」

「アジアのカーボンニュートラルの実現」

だ。

次世代BEVの話が出たことから、「豊田章男氏はBEV化への対応遅れをようやく認めて引責辞任、佐藤新体制はBEV化の遅れの取り戻しに全力で挑む」などと報じた新聞・経済誌もあるが、それは完全なミスリードだそうだ。


「カーボンニュートラルに全力で取り組むが、正解がわからないから選択肢の幅を広げることが大事」という基本方針は全くブレていない。

佐藤氏も「新しい経営チームのテーマは『継承と進化』。

豊田社長が浸透させてきたトヨタが大切にする価値観があるからこそ、我々がやるべきことは『実践』のスピードを上げることです」と語っている。


章男社長はレースで水素エンジン車のステアリングを握っていることから「水素推し」というイメージが強い。

それが理由か、本人は常に「トヨタは全方位戦略」だと語っているにも関わらず、「章男氏はBEV嫌い」とメディア側が曲解してると感じることが多々ある。

佐藤氏は、

電動化推進の戦略を取る「レクサス」と、
内燃機関の可能性を探る「GR」と両方のトップを務めていた強みを生かした経営戦略をとるのではないかと言われている。

しかし、いいことばかりでもない。


東京オートサロン2023
(Toyotimes.jpより)


「AE86 BEV Conceptカローラレビン」はEV(電気自動車)
(東京オートサロンOnlineより)







「AE86 H2 Conceptスプリンタートレノ」は水素エンジン車
(東京オートサロンOnlineより)



14年に及ぶ章男氏の社長就任期間は、振り返ればさまざまな問題との「戦い」の連続だった。経営では、リーマンショックの後始末、米国の公聴会、東日本大震災、コロナ危機、ウクライナ侵攻に伴うロシアからの撤退、そして半導体危機など困難ばかりだった。

章男氏は「何もない平穏な年は一つもなかった」と語るが、それらを乗り越えただけでなく、しっかりと収益を出せる体制を築き上げた。



そして佐藤新社長になり、今度は、トヨタ自動車の中核グループ企業で、また看過できない不正が見つかった。


100%出資するダイハツ工業が海外向けに開発した車で、安全試験の認証手続きを欺いたという。

トヨタグループでは、日野自動車のトラックの排ガスや燃費をごまかす悪質な不正や、トヨタの源流企業でもある豊田自動織機でのフォークリフトの排ガスデータの改ざんのほか、販売子会社の車検を巡る不正などが相次ぎ発覚。

新任の佐藤恒治社長の責任は重い。

これからグループ企業全体で開発現場に不正や隠蔽がなかったかを総点検するという。

失った信頼を取り戻すためにも、不正の撲滅に不退転の覚悟を求めるとも指摘される。


トヨタが日本のトップ企業であり続け、日本の自動車業界を牽引しているならばこの困難な局面も誠意ある対応、並びに我々車好きをガッカリさせないような車作りをお願いしたいものだ!



ちなみに私はトヨタの関係者でもなんでもない(笑)


それともう1つ。
車に関わるの税金の問題😤


日本自動車工業会(自工会)の会長となったトヨタ自動車の豊田章男氏は、日本の自動車関連の税負担が先進国ではもっとも高いことを強調し、自工会としても理解を高めるための活動や政府への働きかけを行っている。

実際、自動車に関する税金は9種類にも及び、かなりの負担となっている。

自工会の資料によれば平成30年の予算で自動車ユーザーが負担する税金の総額は国の租税総収入102兆円の8.2%に当たる8.4兆円にもなると言う。

2004年の第38回東京モーターショー以降「みんなで考えよう クルマの税金」と題して、自動車関連諸税に関するフォーラムを繰り返し開催し、消費者への啓蒙活動を行ってきている。

同時に署名を集め、あるいは政府への要望書を提出するなどしてきた経緯がある。



①「自動車重量税」

「自動車重量税」が施行されたのは、今から51年前の1971年。

本来は「重量の重い自動車が道路を走ると劣化をさせる。
その瑕疵を補填するため」という理由であった。

「重いクルマほど道路を痛めるから、その度合に応じて税金を払え」ということだった。

②「自動車税」

ちなみに「自動車税」は、自動車重量税よりも前の1950年(昭和25年)に施行されているが、当時クルマは庶民にとって高嶺の花で、裕福な人しか所有できなかった。経済力のある人だから、“財産税”的な意味もあった。

それが高度成長期になり、一般庶民でもクルマを購入できるようになった。

そうなると、道路の建設や整備が必要になる。

「道路を作る」という名目で、自動車オーナーに建設財源の一部を負担させる法律が、「自動車取得税」「自動車重量税」と「揮発油税(いわゆるガソリン税)」である。

さらに道路を作ることが急務だったため、暫定的に税金を上乗せすることにしたのだ。

「予算がないけど、道路がないと困るでしょ。だから暫定的(とりあえず)に税金を上げるよ!」と言ったまま、「いつまで」と期限がないのをいいことに、今も税率は上がったままだ。

(※2019年10月1日以降、「自動車税」は「自動車税(種別割)」に名称が変更されている。ここでは分かりやすく変更前の「自動車税」で統一する)


その後、日本中で道路の整備が進み、平成19年度には「特定財源税収」が歳出を大幅に上回ることが見込まれた。

つまり、足りなかったはずの道路建設費が「黒字」になったのだ。

黒字になったから、その時点で「上乗せした税金」だけでも撤廃すればいいはずが、“なぜ”かそのままの上乗せされた金額のまま徴収され続けている。

あろうことか2009年に「道路特定財源制度」が廃止され、「一般財源化」されてしまったことで、道路の建設や整備のために使わなくても良くなってしまったのだ。

我々が選んだ政治家によって「理不尽な法改正」が行われた。

「道路を作る」という「課税根拠」が根底から覆された。

それなのに「道路を作る」という名目で今も税金を徴収し、道路以外の支払いに使われている。

「一般財源」についてザックリ説明すると、「財源の使途が特定されず、いかなる経費についても自由に使える収入」をいう。

つまり、各都道府県・市町村で「どんな用途で使おうとも、使いみちを問われない」ことである。

「道路を作る」という目的のために徴収されていたはずが、「何でも使っていいですよ」と変えられてしまった。

ちなみに、元道路特定財源だった「自動車取得税」は、消費税が10%になったときに廃止され、今は「環境性能割」という新しい税金に取って代わられている。


日本で自動車を所有する場合、「購入時」「保有時」「走行時」のそれぞれの場面で税金がかかる。さらに別途、消費税もかかる。

もともと、日本は自動車ユーザーに重い税負担を課している。保有段階でかかる税負担が、イギリスの2.4倍、ドイツの2.8倍、アメリカの31倍に達するという試算もあるくらいだ。

クルマを購入するときにかかる税金には、「自動車税(軽自動車税)」「環境性能割」「自動車重量税」「消費税」の4種類である。


そして毎年納付する必要があるのが「自動車税(軽自動車税)」である。

自動車税は都道府県税、軽自動車税は市町村税となる。

これは年に1回、クルマの持ち主に対して課せられる。

そして2年ごとの車検時に、「自動車重量税」を支払っている。


③「ガソリン税」

クルマを走らせるには、当然ガソリンが必要になる。ガソリン価格には、「揮発油税」と「地方揮発油税」が含まれ、1リットル当たり「53.8円」を税金として支払っている。

ガソリンには「二重課税」といわれる「消費税」もかかっていることを忘れてはいけない。

とにかく「日本」という国は、クルマを走らせるだけで「税金」がかかるのだ。


2018年の記者会見で、トヨタ自動車の豊田章男社長がこう言っている。


「日本の税収は約100兆円だと思います。その中で、自動車関係諸税は8兆円を占めているわけです。
もともとは『道路特定財源』であった取得税(当時)と重量税が『一般財源化』されているということで、自動車ユーザーが毎年4兆円以上も一般財源化された税金を負担しているということです。それによって自動車関係諸税が、地方財政を補填しております」 「日本の自動車ユーザーが世界一高いレベルの税金を負担しているという事実を踏まえたうえで、今年(2018年当時)こそ、抜本的な税制改正に取り組んでまいりたい」と語っている。


しかし、2023年の現在も、今も何も変わっていない。

政治力も経済力も発言力もある大自動車メーカーが奮起してくれないと、理不尽な自動車関係の税金が下がる希望はない。

クルマの購入から保有、そして使用の3段階で、9つ(消費税を含む)もの税金が課されていることは世界的に見てもめずらしい。

クルマを利用する人たちは黙ってそれらを納税する優良な国民である。

だが、現行の税制にはさまざまに不都合な側面がある。

また、車齢が古いクルマの場合は税額が高くなるという前代未聞の税制もまかり通っています。

新しいクルマへの買い換えを促進されるという側面があるため、自動車製造側の自工会はこの問題についての活動には消極的ですが、ユーザー団体を標榜する日本自動車連盟(JAF)は、車齢が古いクルマへの重課税をはじめ、各種税金への是正要望を出しています。




頻りに今言われる3R が
ある。

Reduce(リデュース)、Reuse(リユース)、
Recycle(リサイクル)の3つのR。

車に取っては何も意味を成さない!
何故なら古い車を大事に乗ったら税金が高くなるのだから(笑)



クルマに乗るのに必要な維持費は税金だけではない。

まず、自動車賠償責任保険、いわゆる自賠責保険や強制保険と言われる保険料が必要です。

自賠責保険だけでは実際の事故には対応できないため任意保険もあります。

任意保険は多くのクルマが加入していると思われがちですが、じつは対人対物で4分の1、人身傷害で3分の1が未加入です。任意保険が未加入な原因の一端は、税金や自賠責などの負担が大きすぎるという側面もあるそうです。


更に「走行距離課税」なんてとんでもないものまで検討されている😤


政府税制調査会(首相の諮問機関)では電気自動車(EV)の普及を念頭に、走行距離に応じた課税が必要との意見が出ている。

これに対し、自工会は物流業者や車移動が多い地方の負担が増えるなどとし「国民的議論がないままの拙速な導入は断固反対する」(永塚誠一副会長)とした。


豊田章男会長(トヨタ自動車会長)は日本の自動車関連税について「世界一高いことに変わりはない」と指摘。

その上で「税金を減らすことだけ要望しているわけではない。
各省庁が財源の綱引き合戦に終わらず、集めた税金をどう活用するか議論してほしい」と競争力強化につながる方策を求めた。



トヨタの会長が訴えても何も変わらないから諦めるのではなく、我々国民がきちんと改善してもらえるようにさまざまな形で訴え続けるしかない。

私の趣味、趣向は今の時代とはかけ離れているかもしれないが、世界や政府主導のおかしなこと、理不尽なことに立ち向かっていってくれるような企業にトヨタ自動車はなり続けていってくれることに期待したいと思います😀




さて、何度も言いますが私はトヨタの関係者でもなんでもない(笑)

スズキ車に乗っているのだからスズキからとも思ったのだが、まずはやはりトヨタからじゃないとおかしいかな?と思い最初に取り上げてみました☆


参考資料

Onlineオートサロン2023
サスティナブルなAE86がTGRブースを飾る!! 電動化と水素エンジンで走り続けるレビン&トレノ【東京オートサロン2023 東ホール8 TOYOTA】

NIKKEI リスキリング
トヨタ社長のもう一つの顔 「モリゾウ」に変わる時

東洋経済Online
豊田章男の「運転の師匠」がこだわり続けたこと
成瀬弘氏はなぜ「ニュル」を走り続けたのか

トヨタ社長交代、豊田章男氏に見た強烈な危機感
「私は古い人間」「クルマ屋の限界」発言を読み解く

日刊ゲンダイ Digital
トヨタ自動車・豊田章男会長の信任は低下 EVシフト鮮明な佐藤恒治社長が描く会社の未来

ENGINE web
「私の全ての原動力は『悔しさ』です・・・」トヨタ社長交代の裏で、豊田章男氏があるジャーナリストに語っていた胸の内とは?

ベストカーweb
「僕はね、ガソリン臭くてね、燃費が悪くてね、音がいっぱいでるクルマが好き」
豊田章男社長が生み出した「GR」の奇跡

「自動車ユーザーも、バイクユーザーも、軽自動車ユーザーも、国民ですよ」とあまりにも高くて複雑な自動車税制に自工会の豊田章男会長が記者たちへ伝えた直球ど真ん中

Nippon.com
退屈からの脱却!クルマ好きの心をつかんだトヨタ―豊田章男社長の挑戦

ニュースイッチ
レースから学び市販車をつくるトヨタ。章男社長が自ら出資し“働く”理由

auto sports web
トヨタ完勝、サファリで2年連続1-2-3-4達成。オジエが僚友の追撃振り切り今季3勝目/WRCケニア

RESPONSE
トヨタグループの愛知製鋼でも不正発覚、契約規格外の鋼材を出荷[新聞ウォッチ]

SAKISIRU
自工会・豊田会長「日本の自動車税は世界一高い」、ネットでは減税への期待が高まる
ネット民「JAFに続きトヨタも怒りの抗議」

読売新聞Online
自動車の走行距離課税、自工会の豊田会長が反対姿勢…「税金をどう活用するか議論してほしい」

Wikipedia

トヨタイムズ

GAZOO.com

Global Toyota

より引用、抜粋、編集させて頂きました。



それではまた(笑)
Posted at 2023/06/30 15:33:41 | コメント(0) | トラックバック(0)

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