母が3月21日に亡くなった。
あっけない最後だった。
24日には別の病院に転院する予定だったのに。
母が入院したのは「急性期の病院」なので、慢性期の病状になると、長期的な受け入れをしてくれる病院へ転院を迫られる。
画像はちょうど開花して来た、48年になる山桜の盆栽。
私は父が最後まで入院していた国立の病院を希望したが、そこは近年、なかなか受け入れしてくれないらしく、
別の私立の病院への転院が決まっていたし、その準備もしていた。
ところが、20日になって、
血中酸素の状態が悪くなり、酸素吸入しても回復しないと言って来た。
「面会してもらってもいい」と言われて、2月6日の入院以来、2度目の面会に行った。酸素マクスをしながも、呼吸が苦しそうで、時折り、頭を左右に動かしながら。見るのも辛かった。
レントゲンの写真も見せてもらったが、肺炎が進行してるという。
ただ、私が見た限りでは、入院時よりも少し、白っぽく映るところが少しは増えてるかと思われる程度。
父が施設から運び込まれた時は、肺がもっと真っ白になっていて、「ここまで来ると、今夜がヤマ」と言われたものだ。それが回復したのだ。それも2回も。父も同様に呼吸が苦しそうだったのだが。
その後、
父は前述の別の国立病院で1年半、胃ろうからの栄養で入院していて、亡くなった。
母の主治医はこの日に
「抗菌剤を変えてみます」と言ってた。
もっと早くからそうすべきではなかったのか。
胃ろうからの栄養補給をすると、熱が出て炎症反応の数値が悪くなり、中心静脈栄養で補給すると肝臓の値が悪くなると言われていた。
このところ、ろくに栄養補給もされず、ほそぼそと点滴に頼ってきた状態。そりゃあ抵抗力も弱ると思う。
この20日は、回復を祈って帰宅した。
3月21日。
午前2時過ぎに、病院から
「最高濃度の酸素を吸入してても、SpO2の値が下がり続けてる」と電話があった。
もうダメかもしれない。どうする?
私はこの場に及んで、
ネットで葬儀屋を捜し始めた。
父の時は、2009年11月31日の午後10時頃に「血圧が下がって、もう今夜が危ないです」と言われて出かけて行った。やはり呼吸が苦しそうで、それを何時間もそばで見守っていた。でもやがて呼吸が穏やかになった。これで何とか持ち直してくれたら。私も駐車場の愛車の中で、少し寝ようかと思ってたら、急にピーと音が鳴り、心電図が平坦になった。
父は2009年12月1日の午前3時50分に84才で亡くなったのだ。
母の病院からは午前3時台にまた電話がかかり
「すぐに来てください」と言われた。
それでも
私は母の部屋を片付けていたのだ。病院から自宅へ連れ帰って、安置する事を想定して。
そして慌てて愛車を飛ばして10分もかからない病院へ着いたが、既に母は亡くなっていた。
母の死亡時刻は父より50分遅い、午前4時40分。2023年3月21日だった。
母は89才だった。
唯一の親族である、私の妹には、これ以前から何度も携帯と家の固定電話にかけてるのに出ない。
病院で亡くなったら、一刻も早くという感じで、遺体の引き取りを求められる。
父の時は「冠婚葬祭ベルコ」とテレビCMもやってるところの会員で、積み立てていたから、すぐにそこに電話をして、間もなく引き取りに来てくれた。
けど、母はそんな当ては無い。改めてスマホのネットで捜す。
また亡くなると、看護師が体を綺麗にするのだが、コロナのせいで日額450円の「入院セット」というのを使っていて、着てる寝巻きがそれなので、
返却が必要で、着替えを用意して欲しいと。それなら、先に電話で言ってくれたらいいのに。
1階に自動販売機があるというけど、寝巻きが4千円台と高いし、お金も持って無い。ともかく、私は常にキャッシュレスで、自治会費と年に2回の散髪代しかお金に触る機会が無いし、実際、お金も無い。
病院にATMはあるけど、夜中は閉まってる。それでまた家まで寝巻きを取りに帰った。
明け方のまだ暗い道を愛車で飛ばす。こういう時に頼りになるのは、28年連れ添った愛車だと、つくづく思う。
ともかく、時間に追われるばかりで、母の死を悲しんでる暇も無い。
病院に戻ってから、またスマホで葬儀屋捜し。
一番安いのは火葬場への「直送」というスタイル。家は浄土真宗とか聞いていて、父の時はその時だけの僧侶も呼んだけど、私は全く信仰は無い。
今回はそんなのは不要だけど、通夜や告別式とか無しにしてもいいのか。
私の妹(母の長女)には全く連絡が付かない。後に聞くと、睡眠薬をいつもより多く飲んで寝ていたというのだが。
社員5千人ほどの会社を作って、長く社長、会長をして来た母の妹(叔母)にもメールしておいた。
親族って、それだけだ。前にも書いたように母の姉は認知症で施設に入ってるし。父方は一人っ子で、その祖父母は私が幼稚園の頃に亡くなってるし。
ネットでは直送形式の葬儀は7万円台から出てるけど、それは消費税抜きだし、事前の予約、資料請求で5万円引きという結果の価格。それには火葬代とかも含まれていない。
ともかく
「小さなお葬式」というところに電話をかけてみた。
しかし、
市内には提携出来る葬儀屋が無いらしく、安置は鈴鹿市や四日市市になり、そこでは面会も出来ないと言うのだ。火葬前に妹らには会わせてやりたいし。
そして、ネットで格安葬儀をうたうところは、葬儀をコーディネイトするだけで、
各地の葬儀屋と連絡を取って委託するようだ。つまり、上前を跳ねてるはずで、そうした
地元の葬儀屋と直接連絡が取れればもっと安くなると思う。
やはり、事前に準備が必要なのだ。私はまだ母は生きてくれると信じていたし、
葬儀の事なんか、考えたくもなかったのだ。
まぁ、
高齢の親を持つものは、その時の覚悟、準備が必要という事なのか。
次に電話をかけたのは
「心に残る家族葬」というところ。
どこでも、いろんな料金プランがある。
私が選んだのは直送の14万3千円のコース!
プランを決めても、これから提携する葬儀屋を捜すと言う。30分後にかかって来て、やはり市内には対応出来る葬儀屋が無いので、
鈴鹿市の葬儀屋になるけど、面会は出来ないと言う。火葬場で直前に少し顔を見れる程度と言うのだ。
火葬は住民票がある市内でするけど、安置が鈴鹿の会館で、そこでは面会は出来ない。
しかも、鈴鹿までの移動の追加料金がかかるかもしれないと。具体的には50kmを超えると発生すると言う。
私はかつて、鈴鹿市郊外の盆栽屋で通いの職人をしていた時期があり、そこまでの往復が約70kmだった。どの程度の追加料金なのか、5千円程度とかハッキリしない。
ともかく、病院からの搬出が迫られていて、そこに決める。後に、対応する葬儀屋から連絡が入るので、移動の料金とかはそちらで聞く事に。
ところが、また30分後にかかってきた鈴鹿の葬儀屋の担当者は開口一番、
「市内の『いつくしみの杜』での安置をご希望されてると聞いてますが」と言う。そんなところがあると言うには初めて聞く。
その「いつくしみの杜」で安置出来れば面会も出来るけど、9時にならないと空きがあるかわからないと言う。現時点では既に埋まってるような話しだった。
「いつくしみの杜」でなければ、自宅安置しか、面会出来る搬出先は無いと言う。
移動の為の追加料金についても質問すると「何のことですか?」 市内の「いつくしみの杜」か自宅安置ならば追加料金はかからない。
そして、搬出する為の車はこれから手配すると言う。つまり、遺体をストレッチャーに乗せたまま運ぶ車の業者はまた別のようだ。
そして9時になってかかって来たら、やはり「いつくしみの杜」は埋まっていて、
自宅安置する事になった。次は「納棺はいつにしますか」と。明日にでもと話したが、要するに棺桶に入れること。それなら今日でもいいと。
ただ、病院からの搬出は午後1時だと言う。
実際は、その移送の車が、それ以前の移送で時間がおしてきて、午後2時に迎えに来た。
病院側は早くベッドを開けて欲しいと言う感じなのだが、仕方ない。
その病院からの搬出は黒いヴェルファイアだ。私の愛車で先導して帰る。
自宅1階の和室にある電動ベッドの上に母の亡骸を一旦、置く。
移送の車の後を、鈴鹿の葬儀屋の「とわのそら」の担当者の車が追って来て、
なんとその
プリウスに組み立て式の棺桶を乗せていたのだ。
それを和室内で組み立てる。底の板はシッカリとした一枚板だけど、側面や窓が付いた上面の板は中が空洞の軽いもの。
私と葬儀屋のN氏の二人で、ベッドの上の母を棺桶に入れる。下の布を突っ張った状態で持ち上げて箱に入れるのは重く感じた。最後の1月に車椅子ごと計った時は48.7kgだったけど。
母の入った棺桶を再び電動ベッドの上へ乗せる。今度はむしろ軽く感じた。
ここで
大きな箱状のドライアイスもセットされた。計ってはいないけど、見た目で30×10×10cm位の直方体のを胸の上に数個と、頭の下の首当りに1個。
鼻の穴には病院で既に綿を詰めてあり、このドライアイスで頭部を冷凍すると言うのだ。これで液体が出てこないはずだけど、もし出てくる場合は止めようが無いとも言ってた。
こうして
棺桶が冷蔵庫の役割もするので、納棺は早い方がよかったのだ。
顔の上に扉が付いていて、顔が見える状態だけど、そこはビニールが貼られてる。
こうして、上下する電動ベッドが祭壇みたいになった。
この状態で一夜を過ごす。
よく亡くなった人の表情を「眠ってるような」と言うが、まさにその通りに見えた。
これはドライアイスで冷やしてるからかもしれない。
3月22日。
母は終日、家にいる。
午後3時頃、葬儀屋がドライアイスを交換に来る。と同時に死亡届を出して来てくれてる。
夕方、妹家族が主人と成人してる息子の3人で来る。
我が家は普段使う部屋以外は物置状態なので、近くにホテルを取ってる。
自宅でこうしていても、
親しい近所付き合いも無いから、誰も来ない。
唯一、連絡をしていたケアマネージャー(女性)が来て、眠るような母の顔を見て、一人涙を流していた。それを見ると、私も目頭が熱くなる。
妹らは夜に一旦ホテルへ帰る。
鎌倉にいる母の妹は80才だけど、メールの返信が来ていて、「今は家族葬でいいと思う」という事と、「体を悪くしていて行けません」という内容だった。私の妹とは電話でも話したらしいけど。
後に、香典を送ってもらってる。
3月23日
午前10時過ぎに、妹らが花を買って来てくれた。その
花で棺桶の中を飾る。
その
花で飾られた母の写真を撮っておけばよかった。
花を添える前に撮ってるからいいと思っていた。
後で、妹が撮った写真をもらったけど、もの凄く小さな画素数の写真だった。まるで初期のガラケーの映像のような。妹のはiPhoneだけど、そんな写真撮影の設定のまま使ってたようだ。
この時点で、母の寝巻きが少しはだけたように見えたので、胸の上に乗ってるドライアイスを少し持ち上げて、直そうとしたが、
母の体はもう冷凍肉のようなカチカチの感触だった。
午後1時半の予定が20分頃、迎えに来た市の霊柩車に、雨の中、みんなで乗せる。
昔のイメージの「ザ・霊柩車」では無く、
黒いアルファードだ。側面後方に何か社名なのか小さく書いてあったけど、一見したらそれとはわからない。
ただ、黒い衣装の数人が棺桶を黒い車の後ろから積み込むのだから、見る人がいれば葬式とわかるだろう。
私は一人、その霊柩車に乗って行く。皮肉な事に、こういう高級車に乗る機会はめったに無い。妹らは自分達の車で後に付く。
10分ほどで「いつくしみの杜」に到着。施設は新しく広い。
2009年の父の時も市内の斎場だったが、なんか違う。それもそのはずで、ここは2015年に新設されたのだ。場所的には少し北側に移動したらしいが。
ともかく、
自宅-病院-いつくしみの杜(斎場=火葬場)はそれぞれ4~5kmのトライアングル状態なのだ。
午後2時頃に炉に入れる。その前に女性職員に言われるままの儀式? 私から順に何かを摘んで額の当りに当てて。私は超テキトーにやった。こういう「儀式」はともかく大嫌いだから。
寝たきりになって7年程、自宅で介護して来て、見慣れた寝顔のような母なのに、このまま焼かれてしまうのかと考えると、目頭が熱くなって来た。
ずっと施設にいて、そこから病院に移って1年半くらいだった父とは感慨も違う。
1時間半ほどかけて焼かれる。その間、家族、親族用の部屋が用意されてる。
大広間のようなところから、それぞれの待機部屋があり、入り口にドアは無く、外から中が見えにくくなってるだけ。
ここで、葬儀屋の「とわのそら」の担当者に支払いをする。
前述のとおり、
全て込みで14万3千円。
これらは市に支払う火葬代3千円や霊柩車代9千円も含まれている。
「とわのそら」はNPOで特定非営利活動法人となってる。
もう十分に丁寧な対応で、何の不満も無い。
火葬の間、待つ時間が長く感じられた。が、後半、
外でやたらうるさい。女児と思える数人の声で「もういいかい」とかくれんぼをしていて、それに大人の男の声で一緒に遊んでるのだ。どういうつもりだ。
ようやく、職員が呼びに来て、骨となった母と面会。まだ熱気があり、白い骨は足などが見て取れる。腰の部分に複数の穴の空いた三角形の骨が一際大きく感じられた。が、頭部は父の時もそうだったが、椀状の骨が被せてあるみたいに見える。母は歯も上下共にシッカリしてたけど、それらが全く見えない。
人の顔、頭蓋骨という印象が無いように細工してるのだろうか?
そこにゴロンと頭蓋骨があると、気分を悪くしたり、夢に見たりする人もいるから、配慮してるのだろうか。
後は言われるままに骨を拾い上げて骨壷に入れる。
帰りは雨も止んでいた。私は霊柩車に乗って来たので、帰りは妹らの家族の車に乗せてもらって帰宅。そこで、妹らも着替えて滋賀県の家に帰って行った。
今回の
母の葬儀は直送という最安プランだったけど、何らミジメったらしい事はなかった。
それは自宅で安置出来たせいもあると思う。「いつくしみの杜」での安置が空いて無かったから、仕方なかったのだが、それがかえって良かった。
父の時も同じようにすればよかったと思えたほど。
父の葬儀も妹家族の3人と、前述の母の妹が、当時は会社の会長をしてたけど、鎌倉から駆け付けてくれた。集まったのはそれだけ。
でも、
父の葬儀の総費用は104万7千円!
ベルコに積み立ててた両親二人分の67万円を使ったけど。前夜から一睡もして無い状態で打ち合わせをして、言われるままのプランで、ハトを飛ばすオプションまで付けて。通夜の為の部屋も用意はしてくれたけど。
また坊さんを呼んで、支払った金はまた別。
おまけに葬儀後は12月という事もあって、
やしきたかじん似のベルコの担当者が「ボーナスの査定に影響するから」と泣き付かれて、母を新たな会員にして継続積み立てをしたもんだ。後に30万ほど溜まったところで解約して、全額では無い返還をしてもらってる。
ただ、その2009年の時点で、母は既に認知症で、細長い台の上に安置されてる父を見て、
「あんなところに寝かされてたら、寝返りうったら落ちてしまう」を繰り返し言ってた。
自宅で父を安置してると、母は何をしでかすかわからず、ずっと監視してなければならないところだった。
ただ、
母が思いのほか早く亡くなった事には、まだ納得が行かない。
2月に入って、口から食べられなくなったので、胃ろうをする為に入院させてようなもの。1~2週間で退院出来ると思っていた。
それが
胃ろうからの栄養補給が始まって間もなく、2月28日に病院で大量嘔吐して、それを大量に誤えんして、一気に肺炎が進んでしまった。
その後、中心静脈栄養と胃ろうを交互に繰り返すような状態だった。
前述のとおり、亡くなる前日の3月20日になって、若い主治医は
「抗菌剤を変えてみます」なんて言ってたけど、もっと早くそれをすべきだったのでは。
見せてもらったレントゲン写真では、父の時はもっと真っ白になっていたのに、回復してたのに。それも2回も。
母の主治医は当初から
「もう老衰なので、胃ろうは勧められない」と言ってたように、懸命に救命措置をしてくれてたのか、疑問が残る。
医学的にはそうなのかもしれないが、遺族はずっと疑念や後悔が残るのだ。
その辺のところを医療従事者はよく考えて欲しい。
はっきり言って、その医者に「恨み」まで残ってしまうのだ。
それが、なんか日増しに強くなる気がする。
私に十分な金があったら、病院や医者を訴えたかもしれない。
なんせ、病院で大量嘔吐して一気に具合が悪くなったのだから。そしてその後、適切な薬剤投与をしていたのか。
母は自宅で安らかに眠るように亡くなるのが、私にとっての理想像だった。
気付いたら亡くなっていたという感じに。
それが現実は病院に入れた為に、最後は苦しみながら亡くなってしまった。
不慮の事故などで家族を亡くした遺族は、もっともっと後悔の念が強く残るだろうな。