
終日、晴れ。日差しは強いが、もう完全に秋の陽気だ。空気はカラっとしていて、汗がどっと出る事もない。
昨夜、私は珍しく、認知症の母を寝かせ付けてから、すぐにシャワーを浴びて、洗髪もしておいた。
このところ、母は横になって間もなく寝てくれて、そのまま1時か2時頃まで起きて来ないので。
今晩も、母は午前1時頃に起きてきて、トイレへ行くと、それ以降はテレビを付けたり、何度も部屋を出て来て、ウロウロしたり。
私は久々に布団の中で寝ようと思ってたのに、洗濯をしながら、夕食の食器を片付けたり、母がディサービスで風呂に入れてもらって着替える服を用意したり、ブログを書きながら、母がトイレへ行く度に監視してたら、朝の5時半になってしまい、結局、
布団の中に入ったのは1時間ほどだった。
その時、私のは年中、冬布団だが、それを被って寝ても、暑くも無く、ちょうどいい感じに思えた。
母のディサービスの日は朝から忙しい。
母を8時半に送り出しても、ゴミ出し、食器洗い、洗濯、水やりと続く。
特に火曜日は、ヤクルトが1週間分を持って来たり、生協が1週間分の食料品などを持って来て、慌ただしい。
しかも、金曜日あたりから、急に冷え込むらしく、明日、木曜日は天気もイマイチらしいので、今日、
母の布団を干して、シーツも洗って、冬の掛け布団を出しておく。
ずっと薄い夏の掛け布団だから。ただし、羊毛布団で、冬は暖かく、夏は涼しいらしいが。
布団は折りたたみ式の物干し竿の上に乗せる。その竿は、毎回、アルコールティッシュを何枚も使い、繰り返し拭く。
最初の画像は、春からしまってあった母の冬用の厚い掛け布団を干してる光景。しまう時にシーツも洗ってあるので、今回は干すだけ。
ここは庭の南西の角にあたる、盆栽棚とテラスの間の空間。布団を横長に干すと、もういっぱい。
それだけ、盆栽棚が幅を効かせてる事にもなるが、2列ある棚のうちの南側は、これから生垣の影が落ちて、陽が当たらない。
かつて、母がマトモだった頃は、この画像の右手にあるテラスの上の狭いバルコニーの手すりから外に布団を干していたものだ。
その時、拭くのは手すりだけで、その20cmほど下からはモルタルの外壁に布団が垂れるわけで、今の私の感覚からすると抵抗がある。
つまり、シーツが外壁に擦れて汚れるのではないかと。
以下は以前に掲載した画像だが、この上のバルコニーの外壁に布団を垂らすように干してたのだ。
一方、敷布団はシーツも洗い、反対の南東の角あたりに干す。

↑ここは母の部屋の前で、今年の初め頃までは、縁側越しに外の布団が見えると、もう母は気になって仕方ない。
「陽に当てたら痛む」とか言って、30分と経たないうちに取り入れようとしたりして、母がいる時には干せなかった。
今は、縁側との間の障子を閉めてるのと、母がその縁側に立って、あまり外を見ない事もあるけど、母がいる時に干していても、あまり気にしないようだ。
以上の2枚を南側に干すと、もう場所も竿も無い。
それで、家の東側にある物干し台の竿に洗ったシーツと、夏用の軽い布団を干した。
しかし、ここは午後から家の影になってくる。
それで、冬用の布団を先に取り入れ、東側に干してた、しまう夏布団を南側に移動したり、あらかた乾いたと思えるシーツを布団にセットして、一緒に陽に当てたり。
こうして、母の布団は頻繁に干したり、夏用と冬用を入れ替えたりしてるが、
私の布団はめったに干してない。
そもそも、私用の夏布団なんて無いし、布団の中で寝るのは年間でも、数える日数ほどだろうか。
ベッドの上に布団を敷いたままで、その上のベッドカバーの上で寝てる。
ベッドカバーの上に防水(防湿)性もある敷パッドを敷いていて、その上に夏から現在に至るまで、まだクール敷パッドを重ねて敷いていて、その上で寝てる。
さすがに夜、窓を開けっ放しだと寒く感じるので、窓を閉めて、ひざ掛け用と思える短い薄い毛布を腹掛けに使ってる。
着てる服も真夏と同じ半袖Tシャツ一枚だ。その服のままで寝てる。
午後3時には布団を取り入れ、3時半過ぎから買い物に出る。
夕食は、昨日が魚だから、今日は肉。しかも、昨日はご飯を炊いて、今日はその残りだから、おひつ代わりの炊飯土鍋を洗う。それで、プライパンは使わない。
そうした条件を考えて、そして前から買ってみたかった、スーパーの惣菜コーナーで売ってる
憧れの出来立て?のトンカツ。
これは今日の朝の新聞折り込み広告にも出ていた。1枚を一口サイズに切ってあり280円。この値段は午後4時からのタイムセール。これを1つにして、他にナスの天ぷらでも買おうか思案したが、値段も変わらず、結局はトンカツを2つ買う事に。くー
これは見るからに美味しそうで、手に取ってもまだ暖かい。以前に生協で取った、冷凍品でレンジでチンするトンカツのように、極薄で衣の方が厚いって事も無い。
野菜類はどうするかと考えた時、肉を焼いたりしたらレタスを使っていた。
それをしんなりさせる為のドレッシングも切れてるので、一緒に買う。
帰宅して、買って来たものを冷蔵庫に入れたりしてたら、もう母がディサービスから帰る5時前ギリギリ。汗ばんで軽くシャワーもしたいけど、もう時間が無い。
母が帰宅したら、まず手洗い。そして着替え。普段着に着替えさせる。
そして、「テレビを見ておけ」と言って、私はシャワーをしてから、夕食の支度にかかる。
レタスを表面の葉は水洗いして、ちぎってボールに入れ、ノンオイルの青じそドレッシングでしんなりさせる。最初は少ないかと思えるドレッシングの量でも、レタスから水分も出てくるので、今回もちょうどいい味付けになった。これ以上、ドレッシングが多いと、漬物みたいに塩辛くなる。
トマトは先日、家で収穫した分。以前に比べて、かなり小粒だが、これでも今日、生協が持って来たミニトマトより大きい。
母のトマトは湯通しして皮を剥かないといけないので、あまりに小粒だと余計に剥きにくい。
チリメンジャコは今日買って来たもので、ハチミツ黒酢をかけておく。
汁物はいつものとおり、マイタケ1袋、エノキは1袋の半分、豆腐1丁300g、ほうれん草はほとんど1袋分を使って、しんなりしたら溶いた卵1個でとじる。
トンカツは温めたいけど、レンジだと油が表面に出て、ベトベトしそうなので、今日はオーブン?トースター?で。
母の分は、端の小さな1切れを父の仏壇に、もう1切れを私の分にした残り。少し減らしてる。
仏壇のついでに母の布団をさっと敷いてしまう。母は横でテレビを見てるまま。
私は台所に戻って、汁物を椀に入れてから、母を改めて呼びに行く。
母を手洗いさせてから、食卓へ連れてくる。
母はチリメンジャコは好んで食べるけど、トンカツは
「コレなんや」を繰り返す。
それでも、私が先に野菜類を全て食べてる間に、母はトンカツを結構食べた。
途中からになったけど、母にも私が医者でもらってる、コレステロールを吸着するコレバインを飲ませておく。私は肉を食べる前に飲んだ。
母は最後の一切の、端の方の大きめのトンカツを見て、最後の「コレなんや」を言い、
さらに
「こんなもん食べるもんとは思えんわ」
表面の衣がトゲだって見えて、そう思うのか。
私もステーキだったら(もうここ何年も食べてないか)、端の方の脂の塊は残すのだが、トンカツは衣で覆われてるから。切ってあると、どっちの端にその脂があるかわかるが、食べてしまう。
牛肉の脂の塊はなんとかく食べにくいけど、豚肉の、特にトンカツのそれはサクッとした感じで、甘みもあって美味しいから。
美味しいけど、普段、気にしてるコレステロールとか、健康面にはよくないと思う。
まぁ、久々だし、当面、トンカツをする事も無い、タマにだから。
世の中の美味しいものは、そのほとんどが健康には悪いのだ。
金があって、贅沢ばかりしてる芸能人とか、節制してない人は、短命ではなかろうか。
美味しいものを好きなだけ食べて、太く短く生きるのも人生かもしれないけど、ある程度の歳になると、健康面をどうしても気にしてしまう。
母は私と逆に、肉から食べて、野菜は後回し。そもそも
野菜は食べたく無い。
レタスだって、うんと少なめなのに、それすら食べたがらない。
汁物の具も食べず、「これは残しておくやつや」「アンタ食べ」「こんなん欲しないわ」
それを順番に、「コレを食べろ」「食べんかい」と何十回と怒鳴り倒して、なんとか全てを食べさせた。
考えたら、今日は母が施設で昼を食べてきてるから、夕食も簡単に済ませるべきだった。
これと言って、作ってもいないのに、準備に時間を取られ、夕食が終わって、食器も洗ったら、もう9時過ぎだった。
歯を磨かせて、トイレに入らせる。朝からウンチしてないので「ウンチしておけ」
母は「ウンチは出ない」とか言ってたけど、そのうち「ここでしてええんか」とか言いながら、きばって、しばらく時間がかかったけど、ポチャンの音。
私が「ウンチ出たんか」と聞けば、
母は
「ウンチはさっきそこへ出て行ったで」と開いたままのトイレの戸の外を指さし、さらに続けて、
母は「他の人らと一緒に行ったんや」
ウンチが歩いて出て行ったんか!
ウォシュレットでお尻を入念に洗わせるが、どうも座る位置が悪いのか、紙で拭かせるとベットリとウンチが付く。
それを3回繰り返し、4回目のウォシュレットで紙に何も付かなくなった。
便器の水が溜まってるところに落ちてるウンチの他に、前のほうに散らばったようなのが落ちてるので、シャワーで洗い流しながら、ウンチをしてるのではないか。
トイレ一つにも時間を取られ、付ききっきりでないといけない。
小さな子供がおれば、同様の手間はかかるだろうが、それは成長と共に楽になる?ハズだが。
私は子供を持った事も、結婚した事も無いのに、同様の世話を親に対してやかないといけないのだ。
そしてこれは、死ぬまで続く。