火の鳥〜鳳凰編という角川映画があります。
この映画は、1986年末から1987年のお正月映画だったそうですが、映画館やテレビなどで上映されているときは、主題歌のサビの部分を多分テレビとかで聞いたことあるのかも、、くらいしか知りませんでした。
この映画の存在を知り、初めて観たのは高校生になってからです。
私が赤いてんとう虫のシールをノートに貼っていたら、友達が「この映画をテレビでみてから、てんとう虫を見ると泣ける」というので、レンタル屋さんで借りて観てみたんです。
これほど、トラウマを刺激された映画はありませんでした。
世界中に、許せないようなことをする人がいて、憎んでも、それはどうしようもなく、
また、守りたいと思うものも、幸せであるべきだと思うものも、世界中で苦しみ続け、
それを知っても戦うこともできず、守ることもできず、何一つ世界は変わらずに動き続けるなかで、
私も、そして多くの人が、一度はそれに苦しみ、なんとか現実を封印して生きているのに、
ときどき、その封印がとけて絶望したりする。
この映画は、現実を受け止めたままの私から、
犯罪も犯してしまいそうなほどの憎しみを消し、希望を与えてくれました。
今みえてるものだけが、全てじゃない。
過去があって今があり、そして未来は誰にもわからない。
悪人は、苦しい子供であった、そして愛を知って善人になり、善人は欲を知って悪人になる。
この世で報いをうけなくても、必ず生まれ変わって報いをうけるという、
輪廻転生がテーマだからです。
ちなみに、原作では私は救われなかったと思います。多くを語りすぎていて、その考えを私が受け入れられないところが多いのと、愛を失ってからの我王があまりにも違いすぎるのです。
私は神様なんて信じていないし、
全ての人が報いを受けるなんて、それもやっぱり信じてはいないかもしれません。
それでも、この映画をみて、鳳凰のあまりの美しさに、素直にこの世界観を受け入れ、号泣するほど救われたんです。
私もいつか苦しみや欲望から悪人になるかもしれない、
憎しみと傲慢さは、ときに比例するのだからと。
ですが悪を憎む気持ちがなくなれば、この世に正義はなくなります。
悪を憎むことができる程度の正義は、どんなに苦しくても持ちつづけなくてはいけないと思うのです。
主人公、我王が受けた一番苦しい罰は、愛を知ってしまうことでした。
それは我王にとって肉体がどれほど残酷にされるより、とても苦しく耐えられない罰でした。
それでも我王の罪は、許されることはないのです。
この作品を知ってからは、苦しいときは観ていた映画だったのに、20年以上ずっと観ていませんでした。
自分が金の鳳凰座と知って、もう一度みたくなり、やっと手に入れ、お墓参りの数日前にもう一度観たばかりだったのです。
凄い偶然でしょ?
ももっぴが死んでから、私が願ったことも、潜在意識のなかに、きっとこの映画があったからなんだと思いました。
火の鳥は、それから他の作品もみましたが、鳳凰編しか私には響きませんでした。
この作品だけが特別に思えます。
何度もみていると、子供や動物が善人になつき、自分より守ろうとするシーンが、一番胸が痛み苦しくなるシーンになりました。
純粋な正義を私達はどうしてきたのかと。
住職様からいただいた双鳳文、、、
どのように使っていいのかわかりません。
でも仏壇に敷いたら、私が供養しているみんながとても幸せになりそうですし、毎日あの柄をながめることができたら、
私、毎日幸せ感じちゃうかもしれません。
住職様もおば様もどこかに敷くといいと話してくれましたし。
私は、ずっと鳳凰の何かが欲しかったんです。置物とかタペストリーとか、食器とか、、
でも逆に、鳳凰を手に入れようとしたり、壊したりなんてしたらバチがあたりそうで積極的に手に入れられませんでした。←これも映画の影響かもしれませんが(^_^メ)
それを一番ふさわしい場所で、一番ふさわしい方からいただけたことは、本当に感動的だったんです。
鳳凰を解禁してもいいのですよと言われてるみたいでした。
よし!角川書店もマークに鳳凰つかっちゃってるし、わたしも鳳凰もの、やっぱり何かほしい✩(˃͈ ˂͈ )✩しかもすごく!
と、映画を観ていなかった20年で、すっかり大人になり、物欲がでてしまっているズグロンでした。
Posted at 2021/10/20 18:06:05 | |
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