2022年10月20日
痛みに敏感だったズグロンは、無痛分娩をすすめられていました。
海外では当たり前になっていた無痛分娩でしたが、その頃日本では、婦人科御三家と言われる病院でさえやっていませんでした。
それでたくさんしらべてもらって、元麻酔科医で父親が産婦人科医であったこたとから、後に産婦人科医になり、麻酔科医の経験をいかし、無痛分娩日本一と言われていた医師がやっている病院をみつけます。
後に買うことになっていく雑誌「たまひよ」にもよくでてきていた病院でした。
帝王切開率が低い医師は、それだけ患者に寄り添っていると言われていて、その医師はまさにそれでもありました。
順調に検診をおえていき、出産まであと一ヶ月となり、
病院と入院の打ち合わせに入ったときでした。
ボディガードを必ずつけるように!つけれないなら嫌でもこちらでやらせてもらいます!と言われていた私は、また変に異常な警戒みたいにされるのが嫌で、日本で前にお世話になった会社に地味に頼むことにしました。
その会社が前もって病院をみていたいというので、病院とその会社が打ち合わせをすることになりました。
ですが、その打ち合わせが終わった後の検診の日に、
院長先生に困ったように優しく言われてしまいます。
「なんか言えない事情があるのですよね?うちの病院では、そういう設備対応がないんです。一番広い部屋でも、直ぐに隣に別の患者さんの部屋があって、ボディガードなんかがいると他の患者さんが怖がってしまうんです。
それで〇〇病院←婦人科御三家のひとつ
に頼んだら、引き受けてくれるというんです。
〇〇病院はそういう対応になれています。そちらにしたらどうかと、、」
私「でも〇〇病院は、最初に検討しましたが、完全無痛分娩はやっていないと言われました。」
「それが特別にやってくれるとまで言ってくれてるんです」
この病院を信頼し、ずっと通いつづけ、この医師を尊敬していた私はとてもショックをうけて、
泣きそうになりながら、
「でも、今の日本で、最高レベルの完全無痛分娩ができる医師は多分先生しかいません。私はできるならここで出産したいんです。院内に入るボディガードはもうつけません、つけなくていいです」
と、言ってしまいます。
それで先生は引受けてくれました。
日本のボディガードを断り、
事情を説明して、海外のボディガードがかわることに。それなら、外のビルや施設で、要するに院内に入らなず、病院関係者に気づかせない警護を得意とするチームがあり、病院に迷惑をかけずにできるんです。
ことわってしまいましたが、そのとき、私を受け入れ、その頃はまだやっていなかった完全無痛分娩をやってくれると言ってくれた病院は、後にドクターTが院長になる病院でした。
その頃ドクターTはいませんでしたが、私が初めて病気で〇〇病院で手術をすることになったとき、入院中にそれを思い出し、運命というものを感じずにはいられませんでした。
そして、この私の選択のせいで、いろんな問題が起きてしまいます。
先生は私のために、通常の病室ではなく、退院した親子がイベントやお茶会をするサロンを、私に良かれと思って、病室として改装してしまいます。中に家族が泊まれるようにベッドも入れさせてくれました。
病院内とは繋がりながらも独立して離れていますから、外にいるボディガード達は警護しやすくなりました、、
が、毎日世話をする看護師は大変です。
きっと改装も手伝わされたりしたのでしょう。
無事に出産をおえてからの、入院生活は悲しい悲しい入院になりました。
看護師にたくさんいじわるされてしまうんです。
聞こえるように、たくさん悪口や不満も言われました。
体が思うように動かない中、子供を意地悪な看護師さんが連れてきたりするたびに、不安で怖くて、誰にも言えなかった私は精神的に参ってしまうんです。
毎日夜泣いていました。
「食事を運ぶことが大変だ!やってられない!約束とちがう!」と運ぶたびに看護師に言われていた私は、
院長先生に、それは言わずに、好き嫌いがあるから、自分の食べたいものを持ってくるので食事はもう運ばなくていいです、すみません、と伝えました。
でも、とにかく一人の看護師が本当に冷たくて怖くて、そのことを誰にも、家族にも言えなかった私は、精神面がどんどんやられていきました。
そして入院予定より3日も早く、退院したい、家に帰りたいと先生に伝えました。
院長先生、本当にごめんなさい。
先生は、出産の日、友人であるという○○大学病院の医師も呼んで、たかが私なんかの出産のために、そのときに出来ること以上のことをしてくれていました。
先生のもとで働く、先生や病院を誇りに思っていた看護師たちにとって、先生にそこまでさせている私に不満を持つのは当然のこと。
先生を好きな人ほど私が許せないだろうと考え、本当のことが言えませんでした。
まだ若かった私には病院を出ていく以外の解決策が思いつきませんでした。
先生はずっと考えていたかもしれません。あそこまでしたのに、まるで病院が気に入らなかったみたいに早く退院してしまった私のことを。
退院の日の心と体の痛みはいまでも忘れられません。
ずっと、大切な人には迷惑をかけない人生をなるべく選んできたはずなのに、結局最後はこうなる運命、
寒気とともに、とにかくお腹がとても痛くて痛くて、この状態で赤ちゃんを抱えて退院する不安。
出産さえも普通にできなかった自分が、これからどうやってこの赤ちゃんを守り育てて幸せにしていけるのか、、不安で不安で悲しくて。
先生には、落ち着いたころに、どうかお礼に行ってください、と人に頼みましたが、それはちゃんとしてくれたんだろうか?
後に、随分前の話ですが、先生が腰痛で苦しんでいるブログをみつけたときは心配しました。
ズグロンは今年、過去とのつながりというものを、ずっと考えさせられています。
ずっと苦しく悲しい思い出として封印していたこの出来事も、今病室のアルバムをみると、こんなにも先生に大切にしてもらった素敵な思い出だったんだと気づきました。
Posted at 2022/10/20 11:17:26 | |
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