2025年10月23日
明日でももっぴが死んでしまってから11年になります。
昨日は空気圧の警告灯がつくくらい気温が下がったので、
寒さを感じながらももっぴのお花を探していると、
死というものを解明できていないなか、暖かい場所を好むインコがどんどん気温が下がる外のお墓にいることが耐えられず心配で、夜中に抜け出してはお墓のそばで泣いていたことを思い出してしまいます。
11年たっても失った悲しみを忘れることができないなんて、生物には必ず死が訪れるのに、生きているだけでどんどん愛するものが増えていく人間のシステムにはやはり残酷さを感じてしまいます。
数年前に中国のドラマ如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜を観たとき、主人公の女性が思ってきたことと決断していたことが自分とそっくりでかなり驚いたのですが、本当に亡くなったものは帰ってこないんですよね。
このドラマはあまりにも残酷すぎて観続けることができず、途中からかなり飛ばして、続きは最後から数話を観ることにしたのですが、それだけでもこの主人公の気持ちがよくわかるんです。
この頃、すごく思うんです。
人間は小学生のいじめの教室のままのバランスでただ大人になってるだけなんだなーと。
いじめるもの、いじめられるもの、いじめに喜んで加担するもの、いじめにいやいや加担するもの、騙されて正しい事をしてると信じて加担するもの、見て見ぬふりをするもの、いじめから助けるもの、助けるものを攻撃するもの、それで諦めるもの、それでも助けて苦しむもの。
いろんなことが詰まっている脳は、新しい情報だけに埋め尽くされることはないけど、空っぽな脳は最初に入った情報で埋め尽くされるから、先手を打って正反対の情報を流すだけで、その脳の前ではいじめをしながらヒーローにもなれちゃいますしね。
ほとんどの人が、子供の頃は自分に起きることに怯えて、それを悔やみ、生まれ変わろうと誓っても、こんどは愛するものという人質をとられる。
それが子供の集団から大人の集団へ、大人の集団から国へ、そしていつか世界中へと、このバランスのまま保たれるのかな。
昔、アリの巣のアリの生態を観察していた私みたいに、偉大な何かがそんな私達を観察していたりするんだろうか。
小6の頃、友人たちの間でちょっとした仲間はずれが始まりそうになりました。
一人の友達が誰々が嫌だから皆でそうしよう!と持ちかけてきたんです。
「それじゃあまるで仕返しじゃない、私はしないよ」と言ったとき、みんなが私に怒ったのがわかりました。
そのとき一人の女の子が急にポロポロ泣き出して言ってくれたんです。
「そうだね、私も嫌だよ」って。
あんまり泣くんで私はびっくりして、だってその子は優等生でいつも明るくニコニコしていて私の憧れの子だったから、
こんなふうに感情的に人前で泣くことに驚いたんです。
それでみんな無言になって、仲間はずれ計画はなくなりました。
それからしばらくして、その子から私と数人が誕生日パーティーに招待されて、初めて自宅にあげてもらってケーキを囲みながら、テーブルのそばにある仏壇が目に入って私は涙がポロポロ。
若いお父さんの大きな写真があって、警察官の制服をきていたんです。
あの頃の警察官は街の正義の味方です。この子にはずっと正義の味方がそばにいて、この子はこれからもずっとこんなふうに優しく正しく生きることが決まっているんだと思ったんです。
中学も同じだったのに、中学では一度も同じクラスになれないまま、遠くからずっと憧れ続けて、2年生のとき私はバレンタインデーにその子にチョコレートを渡したんです。
「ずっと憧れていました」ってメッセージを書いて。
「えーっ嬉しいな、ありがとう、えー、嬉しい〜」って笑って言ってくれました。
(あ、恋はいつもそのときも男の子にしていましたよ。)
この頃、やけに思い出し、
私は、あのチョコレートを渡せて本当に良かった!といつも思うんです。
私の人生のドラマのなかに彼女みたいな優しい人が一瞬でも入ってくれたから。
この年になって、たくさんのものをみてきて、
「それでも助けて苦しむもの」
を見つけられたとき、どれほど恋しい気持ちにさせられることか。
その人だけをみつめながら生きて、いつかその腕のなかで死ねるなら、この世を支配する王に優遇され生きて死ぬよりはるかにずっと幸せだろうな。
Posted at 2025/10/23 16:11:26 | |
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