
世界で、または日本でボランティアをしたことがある人、経済と自殺についての論文を少しでも読んだことがある人ならわかるであろうと思いますが、
経済で、人は本当に簡単に死んでしまいます。
私はアベノミクスが人の命をどれだけ救ってきたのかも、ウイルスでの死とともに考えたいと思う。
この平和にみえる日本で、リーマンショックのときもふくめて、失業率が5%前後になった年、経済により何人の日本人が自殺したか。
8000人以上である。
アベノミクスで失業率が2%代になったときの経済による自殺者は3000人以上となり、単純に失業率1%は1000人以上の死と考えられます。
自宅には、飲食店やホテルから、どうか来てほしいと穏やかなものから、切実なものまでSOSの手紙が届くが、それは本当に命に関わるSOSだと私は思っています。
出歩く人は殺人者という言葉まででましたが、お店は家賃や人件費を払うためになんとか来てほしいと思っているし、その人たちに救われます。出歩く人が殺人なら、来てほしいと営業するお店の人は殺人教唆なのか。
自粛を呼びかけ、出歩く人を批判するほとんどの人が、店をあけている人を批判しない。それは生活のために仕方ないと思っているからに違いないのに、店に行くな!とはいう。
私は自粛を呼びかけるなら、お店の人達にも何らかのメッセージを発しなくてはいけないと思うのですが、それは無視してもいいものになっている今の日本人を、とても怖く感じています。
自粛を呼びかけるとき、心のなかにお店で働く人への気持ちというものが少しはあるのだろうか?
自粛=お店に行くな
になっしまうのですが、
そのときの気持は頭のなかでどういう風に整理されているのでしょうか?
空気をよんで、気づけよ、店をしめろよ!と思っている人もいたりするのでしょうか?
また、緊急事態宣言を!と、たくさんの人が発していますが、これをすることで、こうして欲しいという具体的な意見が、これを望む数に全く比例しません。
不安でそれにすがりたくなる気持ち、それをしたら何か改善するのでは?という期待にすがる気持ちもわかりますが、具体的にそれをすることで、これを改善しましょう、そしてそれによって起きるデメリットはこのように対応しましょう、という意見がなくては、やはりおかしいと思うのです。
ウイルスは未知であり、確かに怖いものです。
ですが、ウイルスのように人に感染し、恐怖を与える病気の二次感染は経済なのです。
ですから私たちは、とても冷静に数字をみなくてはいけないし、あらゆる角度からこの問題を考えなくてはいけないんです。
日本は検査をなるべくさせない対応なので、今回のウイルスの感染率、致死率は参考になりませんが、毎年世界で何十万人も亡くなる、季節性インフルエンザや風邪や他の感染症と比べて、今現在の致死率はどうなのか、これからどのように増えると予想されるのか。日本の医療体制と海外の医療体制、それぞれのあらゆる詳細を比べながら。
自粛を呼びかける人のほとんどが、経済とウイルスを天秤にかけたときに経済では死なない人です。
だから、命あってのことだという言葉がでるのです。
でも、生活のために経済を優先する人は、今現在のウイルスの致死率と経済の致死率を天秤にかけたときに経済で死ぬ可能性がある人です。
ウイルス問題が落ちついてきたときに、毎日経済で人が死んでも、TVは、今のように死者数を毎日更新しないどころか報道すらしないでしょう。だっていつもそうなんだから。
ウイルスの専門家が、ウイルスの恐怖や対策を語ることは大切なことです。
でも同じくらい経済の専門家が、経済の恐怖や対策を語ることも大切なのです。
そしてそれを聞いて毎日一生懸命考えているのが今の日本政府でしょう。
今回のウイルス対策は、
経済では死なない95%以上の人のなかからの1000人の死か、
経済で死んでしまう5%のなかからの1000人の死、
同じ1000人の命が天秤にかけられているのに、95%のなかからの死を防ぐ発言は絶賛され、5%のなかからの1000人の死を防ごうとする発言は批判されている。
危機的状況に陥ったとき、どちらかを選ばなくてはいけないのだとするなら、それは同じ命として、どちらが1000人以上により増えてしまうのかという正確な数字でなくてはいけないのではないでしょうか。
私は95%の方にいるけれど、政治とはそうあるべきだと思っています。
そして、毎日変化する数字から、それを見極めるために、対応が遅いと国民に文句を言われようが、慎重にすすめているのが今の日本だと信じています。
Posted at 2020/04/06 16:48:46 | |
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