仏壇に飾っているオリーブ(平和、勝利、知恵)とくねくねアリウム(くじけない心、ただしい主張、無限の悲しみ)ですが、
憎しみの心を持って眠った夜、
目を覚ますとアリウムが2つハートになっていたんです。
神は大きな愛を持ち、怒りで罰を与えるという。
なぜ、神の怒りは復讐や報復ではなく罰と呼ばれるんだろう。
世界平和への願いを、まるで生まれたときから持っていたように、幼少期からいつも考えて悩んできました。
だけど、争いの始まりが耐えられない悲しみや苦しみや痛みによる報復であったとき、自分自身は復讐心というものを捨てる自信は全くないというのに、他者には自分の理想である世界平和を望むことが、あまりにも狡く愚かに思えてしまうのです。
平和を奪われたものが愛する全てを失い、この世を地獄としてみているとき、そこで私はいったい誰のための願いを誰に叶えてほしいと言えるのか。
ただもうこれ以上苦しまないようにと抱きしめることしかできない。
いつも不思議なことに心が病むと、こんな偶然のハートみたいなものがどこかに現れてくれたように思います。
それはきっと私が見たいもので、だからそう見えてしまうのでしょう。
結局私は、希望を捨てたくないんだね。
そして希望があるとするなら、それはやはり「本物の共感」しか考えられない。
だってそれがいつも争いの鍵すら握っていたんだから。
ある人が言っていました。
共感は綿密な作戦をこえる。
論理は感情からつくられ、世界はそれに動かされていく。
そりゃそうだ、人間は自死する生物であり、それは人間が命より感情を優先している証明でもある。
私は、平和の中でつくられている論理の発信こそが争いを加速させてしまう場面をたくさんみてきました。
論理的思考が全く役にたたないどころか、むしろそれにより悪化させてしまうのが、悲しみや苦しみ、そのような痛みからくる怒りだったんです。
そんなことを思い出していると、
城之内ミサさんの「あの頃」という歌が頭に流れます。
城之内ミサ / Dramagic
https://www.uta-net.com/movie/102975/
いつも涙がでて、とても苦しくなるのでもう何年も聴いていないのですが、昨日思いきってかなり久しぶりに聴いてみました。
この歌の「改札口」は、私にとって出口でした。
そして「となりのホーム」にいる人の行き先を私は知っているんです。
だって見かけた「昔のままの君」は過去の私だから。
私にはこの歌の歌詞が最初から最後まで私が私に語りかける歌に聞こえてしまっていたんです。
そして「気まぐれ白書」も聴いて完全に私は過去へ。
https://www.uta-net.com/movie/103098/
この歌は、特殊な仕事から足を洗えず(笑)ズルズルと引き伸ばされていたときによく口ずさんでいた歌でした。
まだ今なら、普通の恋というものができるのでは、、と何度も逃げ出しては、ささやかな抵抗をしていた頃です。
使命感とか志しというものに、私の恋は負けたんです。
あの頃、あんなに飛んで行きたかった場所は、今の私が行きたい場所ではなくて、
私は今とても自由で、みんなが「好きなところに行きなさい、好きなところで生きなさい」と言ってくれてるのに、不思議なほどにずっと飛ぶことができません。
過去の思い出を幸せに変えたいのか。
未来を幸せに生きたいのか。
自分はこんなに悩むのに、愛するものたちには「未来」を選んでほしいと揺るぎなく思うズグロンでした。
Posted at 2024/05/09 17:01:15 | |
トラックバック(0)