エチュードの頃。
投稿日 : 2012年09月08日
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我が家初の自家用車にして、のちに私の初の愛車となったマツダエチュード。このクルマが納車されたのは1988年、4年に一度の「2月29日」のことでした。
グレードは最上機種のGi、エンジンはファミリア譲りのB6型1600DOHC。メーカーOp.で14インチアルミ&ピレリP600タイヤを選択。白/グレーの2トーンカラーで、ロアカラーのグレーがショルダー周りをグルっと取り囲む演出がオシャレでした。
リアゲートのJAFマークは・・・納車1週間目、私がドライブ先の駐車場で看板にぶつけた時のキズ隠し(笑)。
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納車から1年経過した1989年春、晴れて自分のマイカーとなり、一人暮らしをしていた東京へ帯同。暇さえあれば洗車かドライブをしていた愛車1年目、最大のモディファイはというと、なんといってもBBS鍛造ホイール(RG)の導入。足回りの挙動が純正アルミから一変したことは今でも強烈に記憶に残っています。プラチナポリッシュの上品な色合いも大のお気に入りでした。
私がちょうどモータースポーツに目覚めた時期で、JSPCレース観戦のFISCO通いが始まったのもこの頃。
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これは珍しいコクピットShotで、込み上げてくる懐かしさもひとしお(^o^)。エチュードは、インパネの基本デザインをファミリアと共通としながらも、素材や表面の処理で差別化を実施。ダッシュボードはクロス張り調、ドアトリムや天井は布製で、スペシャリティーカーっぽい雰囲気や質感がありました。
イタルボランテのステアリングと、2DINサイズの三連メーターはディーラーオプション。ペダルセットはカー用品店で購入したものですね(あぁ、それにしても懐かしい)。
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そして、愛車2年目に訪れた運命の日。マツダスピードクラブ主催の「筑波ナイトラン」に勇躍参加したものの、初めてのサーキット&ヘルメット装着ですっかり平常心を失い、1ヘアピン立ち上がりでタックインから挙動を乱し、イン側のガードレールへ無残にクラッシュ。
自分の腕の未熟さを嫌というほど思い知らされたものの、これが私の向上心を奮い立たせる結果となり、以降、サーキット走行会の世界へ没頭。また、現場の応急処置でお世話になった㈱マツダスピードのスタッフとは今でも親交が続くという、私にとって人生の転機ともいえるクラッシュでした。
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筑波クラッシュからの復活を遂げた1991年は、いよいよ本格的な走り志向のモディファイに着手。マツダ787Bのル・マン総合優勝に沸いたこの年、夏のシーズンは富士のJSPC観戦で忙しかったので、リベンジマッチとなったのは11月のエビスサーキット走行会。RSSTのスポーツスプリングに、ダンロップの「フォーミュラ・D40/M2」を装着して臨むという気合いの入りようでした(^^)。向こうに見えるMRT(E)カラーのBFMRファミリアが時代を感じさせますね(ターボは速かった・・・)。
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エチュードはマイナー車ゆえ、専用のアフターパーツは皆無。スポーツパッドや強化ショックなどはファミリア用を流用できたものの、最後までマッチングに苦労したのがRrスプリング。バネレート云々以前に、既製品では純正の車高比で極端に上下するものしかなく、最終的にはRSST(トヨシマさん)にワンオフで用意してもらい、やっとベストバランスに。
ディーラーオプションの「リアスポイラー」を装着し、高速巡航時のリアのグリップ感が見違えるほど改善したのも、運転席にRECAROシートを導入したのもこの頃(1992年)のことでした。
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そして1993年。就職を機にホームタウン・徳山へと舞い戻り、社会人として愛車5年目に突入。2回目の車検を終え、ナンバーは「練馬」から再び「山口」へ。東京在住時代、長期休みの帰省の足はいつもマイカーだったので、そのたびに往復2,000kmを加算。総走行距離は早7万キロを突破していました。
山口への移住に伴い、それまで関東圏中心だったサーキット走行の舞台も、MINEやオートポリス、TIサーキット英田へと移ることになると思われたのですが・・・
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8月の猛暑の中で開催された、マツダスピードクラブ主催のオートポリス走行会。社会人初のサーキット走行で張り切り過ぎてエンジンに無理をさせてしまった上に、走行後の適切なケアを怠ったことから、B6エンジンに致命的なダメージが及び、修復不能の状態に・・・。オートポリス外周路で撮影したこのショットが最後の雄姿となってしまいました。
納車から5年半、行動半径を無限に広げてくれるクルマの素晴らしさや、自分の個性を演出するモディファイの楽しみを理解させてくれたのがこのエチュードでした。このクルマとの蜜月の日々は、今でも若かりし頃の思い出として忘れ難いものがありますね。
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