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きすけ(鬼助)のブログ一覧

2020年01月25日 イイね!

あれから25年.......



25年前の1月17日未明、阪神間を突然襲った激震は

地震計を振り切り

関西に甚大な被害をもたらしました。


大阪北部、京都南部も震度6を観測し

震度7に襲われた神戸を中心に

犠牲者は6,434人に達しました。


あの忌まわしい日から25年が過ぎ


僕が経験した阪神淡路大震災の

忘れることのない

4日間を書いてみようと思いました。



あの年は長崎から神戸に任地替えになることで

春まで何回かに分け色々と準備の休暇を取り

1月14日からは2回目の帰阪中でした。




1月16日


成人式の振替休日だったと思います。

3月から暮らす社宅を見学してから

三宮をぶらぶらして

大丸と元町ガード下で買い物を済ませたら


夕方の道路は渋滞していた。


処女塚(おとめづか)の交差点から

山幹通りを尼崎に抜けて大阪の実家に帰ろうと

山側の2号線方向に左折し

阪神電車の踏切に差し掛かかった時


夕焼けが窓越しに熱を感じるほど眩しく

一瞬捕らわれたように思えました。

三宮からカーステにノイズが入って

スピーカーのコーンが破れたのかと思いましたが

自然に直っていたことや

西の空が鳴っていたのを覚えています。





1月17日


夜半から飼い犬は何度か遠吠えし(初めて聞いた吠え方でした)

猫もギャー!シャー!フー!ニャオン!と騒いだので

寝付きも悪く何度も目が覚めました。

ウトウトしかけたその時 ゴォーオ!ドーン!

パキッピキッの音と共に

部屋全体がユサユサと大きく揺れました。


何なのか?判るはずもなく


どこかに埋まっていた不発弾が爆発したのかと思いました。



本震の揺れが長かったのかは覚えていませんが

揺り戻す余震は小さくなりながら何度もあり

家中がピキッパキッ鳴ったのが怖かった。


先代の飼い猫さんは震えてしっぽを膨らませ

犬はギャンギャン吠えてました。


父は慌てながら家族全員の点呼と

姉と叔母や叔父(父の弟妹)に電話で(地震直後は固定電話も繋がった)

無事を確認していました。


各テレビ局は震度を知らせるも兵庫県(神戸)だけ情報がなく

NHKは

神戸放送局から情報が入っていません!

ただいま確認中です!

おはよう朝日は

みなさん落ち着いて行動してください!

どうか落ち着いて!

兵庫県で大地震が発生したようです!

と伝えてました。



実家の被害は外壁に少しの亀裂が入る程度で済みましたが


大きな余震で物が倒れないよう

食器棚水屋の扉も中の物が飛び出さないようにして


家族全員がリビングのTVで報道番組を見て

震源地が淡路島で神戸が壊滅したことを知りました。



昼過ぎ京都の伯父から父に

電話があり(何度もかけ続けやっと繋がったらしい)


西宮に住む息子夫婦(僕の従兄)と連絡が取れない。

ニュースでマンションが倒壊していることを知り

名神と阪神高速道路は通行止め

国道1号と171号線は大混雑で動けない

近い我が家から

探しに行ってくれと懇願されたそうです。



父は電話を切ったあと



少し考え

自分は家を守るからオマエ西宮まで行け!

伯父(父の兄)から頼まれたことを

直ぐ行ってどうなっているか見てこい! 



僕に丸投げしたんです.......


本来なら僕は長崎にいて

大阪にはいない

でもいた訳でそうなったんでしょう。


怖いから拒絶するも

父から、オマエそんなこと言ってる場合か?

京都のおっちゃんとおばちゃんには世話になったやろ!

昨日も行ったとこやろ?  

昨日とは状況が違うわい!


再度拒絶したら


飼い主さん(嫁)さんから根性無し! と言われ


嫌々ながら行くことになりました。


小さな車で行くのがよかろうと

Vittelを2ケースと予備のガソリン他を積んだ

MINIの30thアニバーサリーを持ってきた

姉から

怖がらんと落ち着いて安全運転で行くんやで!

アカンと思ったら直ぐ引き返しや!

MINI坊を置き去りにして逃げたらアカンで!

ちゃんと持って帰るんやで!

壊したら○ロスからな! 

25年前も今と変わることないポジティブ思考な

姉と飼い主さん(嫁)に勇気づけられ



14時頃出発


北の方に向かう中環と外環も大渋滞!

曇り空は雨が降ってきそうでした。


ラジオは繰り返し々同じことを伝えてるし

何回も聞いてたら恐怖感が増してくるし


気を紛らそうと

姉のカセットを聴いたら「どうぞこのまま」が流れ



くもりガラスを~ たたく~ 雨の音をかぞえながら♪

............

さよならは~ 涙とうらはら~

.....................


どうぞ~やまないで~ぇ♪   でした。


歌詞に状況を重ねたら更に怖くなり

引き返そうにも渋滞で方向転換もできないし

普段は1時間もかからない尼崎まで大渋滞9時間強を

昨日の逆に通りぬけ

山幹通りの先まで行ったのですが

その先は通行止めになってました。

仕方がないので

車を豊中に住んでた先輩の官舎に置いて

自転車を借り西宮へ向かいました。


道はどこも大渋滞でしたが

尼崎の山幹通りから豊中の曽根まではすんなりと移動でき

軽四さんより小さいMINIで良かったと思いました。


東に歩く人たちの中

自転車を降りて押したり

西に向けなんとか道は通れましたが車は無理です。

雨で焦げた異臭が充満し

鎮火して燻ぶる家屋の傍で泣いている人がいたり



思い出したくない音が耳の奥に残っています。




1月18日


午前4時を少し過ぎた頃

やっと

従兄のマンションにたどり着きました。


建物右側半分が倒壊しているのを

目の当たりにし

住居が3階と聞いていた

従兄家族は死んだと思いました。

余震でコンクリート片が落ちてくるのを見たら

膝の力が抜け

その場でしばらく動けなかった。


気温はたぶん氷点下になっていたと思う。


近くにいたABC(朝日放送)の報道記者から

ここら辺の住人は近くの小学校に避難していると

教えてもらい

もの凄く怖かったけど真っ暗な道を小学校へ行くと

ドラム缶の焚き火を囲むように野営を張った

陸上自衛隊の方々がいて

夜明けにもかかわらず避難者名簿を確認してくれました。


なんどもなんども丁寧に探してくれたのですが

名前はなく ご遺体を確認しますか?と言われ

布にくるまれているのが遺体であると理解したら


後頭部から脳全体が痺れ

雨上がりの寒さが増し

足が震え体が固まってしまいました。



やっぱり僕はへタレだと自覚しました。



放心で立ちつくす金縛り状態の僕を見て

隊長と思われる方が

記入間違いがあるかも知れん。

避難されている方々の所へご案内しろ!

と配慮してくださり

若い隊員の方に先導され避難所の体育館と教室に行きました。


辺りは白んでいましたから7時前になっていたと思う。



体育館の廊下には布シートに包まれたご遺体が置かれ



泥だらけで包帯から血が滲んでる人もいた。


怖くなって、そこから直ぐ逃げ出したくなった。


若い隊員の方が

こちらに○○○○さんをご存じの方はおられますか?

大阪の○○さんのお身内の方はおられますか?

呼びかけてくださったのですが

体育館では応答はありません。


校舎の方へ行き同じように

呼びかけてもらうこと4教室目


かすれた声で返事がありました。

従兄が、○○ちゃん........なんでおんねん?

助けにきてくれたんか?


従兄夫婦と従姪は生きてました。





奇跡のようでしたが、

超怖かったし 寒かったし


どうしていいのかも判らなかった。


助けにきたなんて高尚な自覚なんてありません。

ただもの凄い緊張感で

喉が渇いて渇いて仕方がなかった。




避難者名簿に名前がなかったのは

極度の緊張で気が動転して

婿養子に出た従兄の姓が変わっているのを忘れ

旧姓で伝えてしまい

自衛隊の方々に大変迷惑をかけました。



旧姓では判りませんよね。




陸上自衛隊中部方面隊の自衛官の方々は

あれだけ大勢の避難者名簿を確認し

救出作業で疲れているのに

従兄家族を探し回ってくれ


ご無事で良かった!良かった! と言われ

また任務に戻って行かれました。



僕はあの時から自衛隊を日本の誇りだと思っています。



この日は避難所の小学校で休ませてもらいました。




1月19日


小2の従姪を自転車の荷台に乗せ

従兄と代わる代わる押しながら3人で豊中まで歩きました。

従兄夫婦と従姪は着の身着のまま(寝巻のスエット)で避難して

かろうじて財布だけ持ち出しただけで

他はなにもありません。


マンションは倒壊し危険なので立ち入り禁止。

ショックも大きく

ほとんど喋りませんでした。

尼崎が近づいて泣いていましたから

辛かったのでしょう。

小さかった従姪も寒いのによく頑張りました。




1月20日


朝方、姉のMINIに4人乗って

無事に帰宅できたのは自衛隊員の皆さんのおかげです。


帰宅するなり、父から

心配してたんや!

なんで連絡しなかった?


連絡?

したくてもできませんよ!


19日の朝には避難所に災害緊急電話が設置され

長い列の人ができていました。


倒壊した建物の下敷きになった人の生還も見た。




でも

1時間半ほどの距離で大阪は普通に電気も水道も使え

パチンコ屋も営業していた。



何が何でも早く家に帰って自分が安心したかった。

あの地獄から逃げ出したかった。





これが僕が経験した

25年前の阪神淡路大震災1月17日前後の出来事です。




あの地震がなければ神戸で勤務し現在は変わっていたのかも知れません。


神戸市中央区にあった職場の建物も倒壊して復旧の目処は立たず
仕事になりません。
任地は長崎市から佐世保市に変わり長崎に呼び戻されてしまいました。







運命とは不可思議なる現象です。


いつかは誰にでも訪れる最期は

寿命といえばそれまでなんでしょうが


我々は自然に逆らうことのできない

文明に生きて

もしかしたら普通に生きてることは難しいことなのかもしれません。


生かされていること

すべての皆さまからの愛(めぐみ)に感謝し




今年も



黙祷を捧げました。






きすけ(鬼助)
Posted at 2020/01/25 23:35:24 | コメント(4) | Human world | 日記
2018年11月30日 イイね!

台風21号の爪痕いまだ

台風21号の爪痕いまだ
この二ヶ月間

激務な人間の きすけ(鬼助)さんでございますが


11月末日の今日は

ガキンチョ2号の車のことで

陸運局に行ってきました。





陸事から税申告のため府税事務所まで続く通路にあるフェンスを見てビックリですワ!





見ての通り

大阪の各地は台風21号の爪痕が未だ残っていて


倒壊家屋や道路も直ってない。


我が家もリーフォム業者さんが来るのは来週らしい


しかも保険対応の見積もり段階


修理が来年の今頃までかかるのは仕方がないのでしょうね


どことも大変なようですけど、完全復興の目処がたつのは何時のことやら




ガキンチョの車は公表してはダメなんだそうです


親の金で、あれ買うてこれも着けはるんですワw


金は出世払いなんだそうです。  ええな・・・




嗚呼まともに休みたい
Posted at 2018/11/30 23:28:32 | コメント(2) | Human world | 日記
2018年06月26日 イイね!

大阪府北部地震

大阪府北部地震
あの地震から昨日で一週間が経ちました。


お亡くなりになられた方々に衷心よりご冥福をお祈りするとともに、お怪我をされた方々の一日も早い回復を祈念申し上げます。


また、避難所にて不自由な生活を余儀なくされている方々、その他の被害にあわれた方々に対し心からお見舞い申し上げます。




小学校4年生の女児が亡くなられたのを聞いた時は心を掻き乱されました。


ご両親の心中を考えると同じ親としてやり切れない気持ちです。


謹んでお悔やみ申し上げます。



我が家の♂2人も小学生の頃は毎朝「おはようございます運動」を続けてました。



いってきます!と言って元気に家を出てたら、ただいま!と帰って来る



日常のあたりまえです。



人間は自然の猛威に無力なんだと改めて思い知らされました。



突然、あたりまえの日々があたりまえじゃなくなる



あたりまえに感謝して



我々も同じ大阪府民として、一日でも早い復旧復興を願い


出来ることを続けてまいりたいと思っています。




平成30年6月26日 きすけ(鬼助)

※タイトル画像は 高速 道路 標識 からお借りしました
Posted at 2018/06/26 14:29:25 | コメント(2) | Human world | 日記
2017年08月15日 イイね!

終戦の日に思い出すこと



8月15日は終戦の日です。



大東亜戦争(太平洋戦争)終結から72年目になりました。



僕はガキンチョの頃、祖父(故人)から戦争の話をよく聴かされました。


その内容が強烈過ぎて現在でも覚えています。  トラウマもんやで。



米兵と至近距離で撃ち合いバキバキにやられたこと。


軍艦が撃沈されフィリピンの海を船の残骸につかまって漂流したこと。


真っ暗な夜の海で仲間と軍歌を歌って励ましあい声を掛け必死で耐えたこと。


夜明け近くには大半が力尽きて海中へと消え


救助艇に発見され生き残ったのは祖父を含め5人だったこと


数奇な運命を辿り、特攻隊員に志願し


出撃するも生き残ったこと


終戦を長崎県佐世保市の海軍病院で迎え


正午にラジオで天皇陛下の玉音放送を聴いたこと



陛下のお言葉が終わって放心状態が続いたこと



「立派に死ぬことだけを考えた」と思い続けていたこと



他、心霊恐怖体験にもまさる話の数々・・・・・・・・・・・・。








祖父はフィリピンの海で助かったあと特攻隊で2回出撃したらしいのですが、



1回目はエンジンの整備不良で戻されて助かったらしい



祖父に一度「死なんと帰って来れて良かったやんけ」と言ったら

とたんに、シバきまわされました。 

その時の目はメッチャ恐ろしく赤く  

       
そして泣いてたような・・・・




祖父にシバきまわされているのを助けてくれた祖母の話によれば・・・・・・



2回目の出撃は爆弾抱いて敵艦に突っ込めど

何故か破裂せず、浸水し溺死寸前で救助されたそうです。


怪我も酷かったので佐世保で入院してたら戦争が終わって


祖父はその後 GHQに3年もの間を捕らわれて、

昭和23年9月に解員してきたそうです。


「お国のために戦って死ぬのが誉れ」「生きて虜囚の辱めを受けず」が当たり前の時代

戦友が死んで逝った日々の中「己は3回も死に損なったんや・・・」



それは辛いことだったのかと思います。



夜中に汗びっしょりで飛び起きることが10年ほど続いたそうです。


でも自分の子供(僕の母親)には、晩年になるまでそんな話はしなかったそうです。


今で言う PTSDで苦しんでいたんだと思います。




死ぬのを承知して爆弾と共に敵艦に突っ込んで爆死するとか、


死を覚悟するとか言う次元が違い過ぎる。 お祖父ちゃん  やわ!


死に損ないなんて一度も思ったことはありません。





生前の祖父は戦争の話なると  


「あの戦いは西洋諸国から侵略されたアジアを開放し

 大東亜共栄圏建設を確立する正義の戦いやった!」


そんなことを真剣に言って酒呑んで泣いて戦友の名前を呼び寝てしまうのです。

戦争は馬鹿げているなんて言ったら、

祖父やで亡くなった英霊達に失礼なんでしょうけど、


当時の日本のイデオロギーはそうだったんですから、


戦争に参加した祖父にとっては正しい戦争だったんでしょう。





 



天国のお祖父ちゃん



この国の未来に期待して戦ってくれたことは

もの凄い勇気が要ったと思います。


あらためて生きて帰って来てくれたことに感謝します。


でも正しい戦争なんかありません。 


死んだら全部が終わりです。





それと二つ謝罪することがあります。




お祖父ちゃんが亡くなってから僕の娘、あなたの曾孫は米国で学んだあと

そのまま就職して暮らしています。 



僕はアメ車のHUMMERも買ってしまいました。



たぶん、親父が逝った時に謝ってくれていると思いますが、


いずれ僕にも時間が来て、

そちらでお会いする時には土下座して謝罪するのでお許しください・・・・・。


その時には面相の変わる覚悟でシバかれます。




たぶん、まだまだ先と思いますが ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。



今年も正午に天皇陛下のお言葉に併せて

東京九段の靖国神社の方角に向かって合掌します。
Posted at 2017/08/15 09:39:19 | コメント(0) | Human world | 日記

プロフィール

「2018 WEC Le Mans 24 Hours race.
Toyota's first victory is the honor of Japanese cars.
Thank you for the impression.」
何シテル?   06/17 22:07
きすけ(鬼助)です。 飼い主さん(嫁)に従順な一姫二太郎三茄子の♂親ですが、その自覚はありません。 少し時間の余裕もできたので主にメイン・サ...
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