私も昔 子供頃に両親に連れていってもらった「羽田空港」。
今、紅の豚と名乗る理由の一つは「パイロットになりたかった」と言う夢があったからです。
(紅の豚 ポルコ ロッソ)
そんな飛行機好きな私が 以前、テレビ番組のドラマ「東京エアポート」で、ある機長が病院に入院する子供たちを飛行機に乗せてあげたいと言う番組に感動した話をご紹介致します。
その番組の名は「小島メモリアルフライト」
今回はその感動の実話を私なりの解釈を入れてご紹介します。
[実話では]
この番組でご紹介していた小島機長は実際には麻田機長と言い、宮城県の「西多賀ベットスクール(寝たきりの子供たちの学習する学校)」に入所する子供たちに夢を与える為に伝書鳩の競技を通して大空を飛びたいと言う気持ちが飛んだを実現させた麻田機長とボランティアの仲間たちのお話し。
昭和38年4月29日に夢が実現したのです。
因みにこの夢のフライトが実現される為に5年の月日を会社を含めスタッフの皆さんを説得、交渉を重ねた結果でした。
またこの以前の5年間の月日に何があったのか?
それは昭和33年8月12日、静岡県下田沖(初島近く)を全日空25便:羽田発~名古屋空港着(小牧空港)のマクダネルダグラスDC-3型機が墜落事故です。
(マグダネルダグラス社のDC3型機)
乗員3名、乗客30名が犠牲になった痛ましい事故があり、当時 日本の航空の安全に疑問の声があがった年でもありました。
この当時の日本の旅客機は第二次世界対戦中の軍用機の払い下げが多く、同一機種でも仕様はバラバラで整備性も良くありませんでした。
そこで日本政府は全日空に対して当時のお金で5,000万円で飛行機の仕様の統一化を指示。
また日本航空は全日空に対して整備と整備教育を受け持つことで安全性に対する信頼をアピールする目的も、このフライトが実現する原動力になったと思います。
[飛行機乗りの気持ち]
飛行機乗りと言う職業は人の命を預かると言う使命感とプライドの高い職業です。
この麻田機長も中国の「逓信省(旧、直近まで郵政省)航空員養成所」を出てパイロットになった人で、戦時末期には陸軍航空隊に志願して入隊。
飛行機の操縦は同僚のパイロットから「神業」と言われる程の操縦技術を持ちながら、信念を曲げない性格からまんねん「伍長」(軍隊の階級)として日々を送ったそうです。
またこの時代、日本は戦争も泥沼化する中、学徒動員により国の行く末を暗示て、神風特別攻撃隊に行き、敵に体当たり攻撃をする時代。
(神風特別攻撃隊)
アメリカの空母に体当りした特攻隊。
年若い特攻隊員達。
若者の死の旅路を見送る女学生
この頃のパイロットは同僚や部下を戦争で失い、命の大切さを一番に思う操縦士も多かったと聞きます。
そんな麻田機長だから、子供たちに夢を与えてあげたいと言う思いが強かったのかも知れません。
最後にこの時の子供たちの日記をご紹介致します。
題名:飛行機
(中2 女子生徒)
大きいからだをして毎日空を飛ぶ
色は白か銀色をして光をあびて飛ぶ
彼は大きいプロペラを持ち人間三十人をすっぽりその腹にしまいこむ
そして休みなく空を飛び回る
空から下を見ると目まいしないかな
私も彼のように
大きい希望を持ってぐんぐん進もう
彼を思うと
悲しいこともさびしいことも忘れる
勇気を与えてくれる彼よ飛行機よ
ありがとう!
題名:招待飛行の一日
(小5 男子児童)
仙台空港は広い。白いかっ走路がどこまでも長く続いている。その先に松林があった。飛行機はダグラスDC三型だ。にぶい銀色の巨体が太陽の光をあびてまばゆい。
町子ちゃんが、花たばを麻田機長さんにさしあげた。タラップをのぼってうすぐらい座席についた。そうじゅう席の後のかべにランプがついた。ベルトをしめてくださいと書いてある。みんなはベルトをしめてだまっていた。
エンジンの音がぐんと高くなったかと思うと飛行機はゆるゆると走り出した。やがてぐんぐんとスピードを出し空港のたてものは見えなくなった。飛行機はしぜんにふわりとうきあがって海上へ出た。海はどこまでも青く、波は白くあわだっていた。たくさんの島がぽつぽつと海にうかんでとてもきれいだ。白い雪におおわれたざおう山がゆくてに見えたころ、飛行機は大きく左にまがりはじめた。三十センチ四方の小さな窓からのぞくと、田んぼがマッチばこみたいだ。だれかが「ベッドスクールが見えるぞ」といったが、どの建物が療養所なのかはっきりしなかった。みやぎ球場が見え、やがて遠くに飛行場が見えてきた。人や自動車や家がぐんぐん大きくなってくる。飛行機はいつ着陸したのかわからない中に、かっ走路の上を長く走り続けていた。
以上2作品を原文にて掲載致しました。
[その後の麻田機長]
この遊覧飛行のあと、麻田機長さんは当時の最新鋭ジェット旅客機であったボーイング727型機の操縦を勉強するためアメリカに渡り、猛勉強をして帰国しましたが、その後体調を崩し、昭和42年に46歳で亡くなりました。
このような偉大なパイロットに敬意を評すると共に、ご冥福を捧げたいと思います。
[最後に]
このような時代背景や忌まわしい航空機事故 これらの逆境から会社や社員達が一丸となり、事にあたり、全日空は再生しました。
その感謝の気持ちがあのフライトとなったと感じるさーぱぱなのです。
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2017/11/22 06:14:27