人類史上、最悪の出来事。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島上空で閃光を放った爆弾の炸裂の瞬間。
広島市内は時間と言う時を止めた。
その三日後に広島赤十字病院の地下に保管されていたレントゲン写真がすべて感光して初めて日本がわかった。
原子爆弾。
約14万人を一瞬にして死に追いやった爆弾です。
しかし奇跡的に比治山が盾となり被害を免れた会社があった。
広島の東洋工業です。
この東洋工業は弱小の3輪トラックを生産するメーカーで、この工場が広島復興の鍵を握る場所になりました。
県庁や病院、避難場所に提供されながら原爆投下後 4ヶ月後から3輪トラックの生産を開始し、広島復興のシンボルとなりました。
[東洋工業の危機]
戦後復興の日本に自動車産業会に激震が走る。
同時、通産省が日本の自動車メーカーを統合し、国際競争力を付けるとの事で東洋工業はトヨタ自動車に吸収されるとささやかれる時代が…。
時の東洋工業(マツダ)は今後、国際競争力に勝っためには独走的な商品力を持たなければならない。
そこで有力な商品であったヴァンケルエンジン(後にロータリーエンジン)開発に着手。
小型、軽量、コンパクトなこのエンジンは世界の名だたる自動車メーカーが開発に着手した。
[ロータリーエンジンの問題点]
電気モーターのようにスムーズに回るエンジンと言う話しを聞いていたのが、低速回転になるとガタガタと振動する「電気アンマー」、オイル漏れからくる「カチカチ山の狸」、ローターハウジング内をえぐる「悪魔の爪跡」など課題山積の代物に開発者たちも落胆をしたそうです。
総責任者の山本 健一氏は、開発の心労から髪は抜け落ち、歯は総入れ歯になるほどで胃にも穴があいた。
しかし、山本氏はネバーギブアップと開発スタッフ、皆に言いながら開発を続行。
他の国産自動車メーカーや雑誌社からは実現不可能なエンジンを開発して、世間を惑わしているまでの悪評をされても諦めない。
そしてロータリーエンジン初の「マツダコスモスポーツ」完成。
世界中の自動車メーカーからマツダの技術力を称賛されました。
1991年ル・マンで総合優勝した、そして国産初優勝の快挙にあのマツダ787B55号車に込められていると思うのです。
あのロータリーソプラノサウンドを聞くたびに涙を流してしまうさーぱぱなのです。
頑張れ日本
頑張れ自動車メーカー。
その牽引役的なマツダに期待するさーぱぱなのです。
Posted at 2017/12/12 02:34:22 | |
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