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ロードスターさーぱぱのブログ一覧

2017年11月23日 イイね!

マツダロードスターとトヨタ自動車の以外な関係に付いて語る。

マツダロードスターとトヨタ自動車が一致するキーワードは累計生産台数100万台に27年間の歳月を要した事。

(ロードスター100万台記念車)


1989年に贈り物と言う言葉「ミアータ」MX-5 日本名:ユーノス ロードスターが100万台達成したのが2016年。この間 たくさんの人々から愛されて来ました。

(ロードスター4世代モデル)


そして今回ご紹介するのが トヨタ自動車の100万台達成したのが27年間。

1935年 豊田自動織機製作所自動車部は日本純国産乗用車を作った。

そのクルマが豊田A型試作車でした。

(豊田AA型乗用車)


(戦後初のトヨタ国産乗用車 SA型乗用車 1951年製)


商用乗用車から国民乗用車になった時代。
(大ヒット車 トヨペットクラウン RS型 1955年製)


一般の家庭でも購入出来た国民大衆車
(国民大衆車 パプリカUP10型 1961年製)


そして豊田A型試作車の製作した1935年から27年目の1962年 トヨタ自動車は生産台数100万台を達成しました。


ここであなたに問いたい。

壊れるとわかっている国産乗用車を買いますか?

それとも壊れにくい海外の高いクルマを買いますか?

この質問は今から約80年前 弱小自動車メーカー「トヨタ自動車」が日本国民に問いかけた事でした。

国民は当時 純国産のトヨタ製自動車を選び そのトヨタは壊れても直ぐに対応できるサービス体制を確立し 共にクルマを育てて来た結果 自動車メーカートヨタ自動車は壊れにくく信頼のあるクルマを作りあげ 今日の日本の自動車産業を支える太い幹へと成長させて頂いたのだと思います。

その精神は各国産自動車メーカーへと波及し今日のクルマづくりの礎となったのだと思います。

クルマとは国民の生活を豊かにし より便利にし そして何より走る楽しさを教えてくれた道具です。

このクルマと言う道具は 人から愛されて愛車と変わるのです。

これからもたくさんの愛のあるクルマ作りをして欲しいと願うさーぱぱなのです。






Posted at 2017/11/25 04:34:29 | コメント(0) | トラックバック(0)
2017年11月23日 イイね!

さーぱぱを育ててくれたトヨタエンジン「4A-GE」を紹介!!


トヨタ自動車が「走りに熱い情熱」を注いだ時代があった。

軽量、コンパクトでハイスペックを求めるためのパワーユニットづくりに着手。

その後の1600ccDOHCエンジン戦国時代に勝つために。

OHV型エンジンをベースにしたT型エンジンに変わる新しいエンジンの音開発は急務で ただ燃焼効率と回るエンジンからエンジン回転域にパワフルさと乗用の使い勝手を求めるエンジンが2代目4A-G型エンジンでした。

(AE86搭載の4A-GEUエンジン)


名称:4A-GEエンジン
エンジン型式:水冷4気筒DOHC16バルブエンジン
排気量:1,587cc
ボア×ストローク:81.0×77.0
圧縮比:9.4
最高出力:130ps/6,600rpm(グロス値)
最大トルク:15.2kgm/5,200rpm(グロス値)

尚、グロス値とはエンジンを単体でスペックを計測した数値で、現在の車体搭載計測のネット換算だと10~15%ダウンしたスペックだと思われます。

[初代4A-GEエンジン紹介]

トヨタがこれまでの2T-G型エンジンに代わり、次世代GTエンジンとして、高回転(毎分7700rpmのレットゾーン)、ハイレスポンス(レットゾーンまで0.96秒)型のエンジンをヤマハ発動機と共同開発したエンジンです。

今のエンジンのようにトルク感のあるエンジンとは違い、4000rpm以上での気持ち良いレスポンス感はパワーの盛り上がりで気持ち良く走るエンジンで、操り安いエンジンでもありましたねぇ。

[初代4A-GEエンジンの写真の進化と古さ]

(インテークマニホールドにT-VISの文字)

そのこののDOHCエンジンと言うと 高回転域は気持ち良いのに中 低回転域ではもたつく!を解消するため トヨタ自動車が開発したのがトヨタ-バリアブル インダクション システム(T-VIS)です。

このシステムはDOHCエンジンの2つのバルブポートの内 中 低速回転域では片側のポートを閉じる働きをするシステム。

これにより中低速域での吸入速度を上げ 当時まだ未発達の電子燃料噴射のノズルを補うシステムでした。

(古いと思わせるところは点火方式)

エンジンヘッドの写真下部に4本のプラグコードの束ねる部が通称 ディスビ(ディストロビューター)です。

ではこのディスビはエンジンのどんな事を行なっているかと言うと 点火プラグに適正回転時期に圧送電気を送り 点火プラグを放電させる役割をしています。

しかしこの頃 ディスビに変わりダイレクトイグニッションシステムに変わり始めた時期で トヨタやマツダはこのシステムの使用が遅かったのです。


またこのエンジンを搭載したクルマ達をご紹介致します。

[カローラFX1600GTツインカム16]




私が初めて所有したクルマで、コンセプトは「2ボックス上級生」のキャッチが私の心をつかんではなさなかったクルマ。

当時国産2ボックスのベンチマークだった「ワーゲンゴルフGTI」に追いつけ、追い越せと言うことで、ベースの80型カローラのデザインはデロリアンを担当した「ジュジアロー」が監修、2ボックス初のDOHCエンジンと当時の私の評価は二重丸でした。

購入後のテストでも時速180㎞・1時間継続運転にも耐え、満足ゆくクルマだと今でも思っています。


・フロントエンジン、リアドライブ(FR車)
[86式カローラ・レビン、スプリンター・トレノ]


私がこのクルマを初めてテストした印象は一言で今言うと(当時もあせあせ)少し古臭い印象を持つ車でした。

足回りがフロント、マクファーソンストラッドは良いのですが、リアが車軸式にコイルスプリング式に伴うラテラルロッド・コントロールアームを併設した5リンク式は この時代の後輪駆動のリアサスはセミトレーリングアーム式が時流になっていました。また、デフを車体に固定したドディオン式車軸サスでも良いのではと言う事と、ボディーが先代カローラの70式をベースにしているためにボディーのよじれに不安があるクルマと感じました。

しかし、その後改造を施し、ドリキン土屋選手やイニシャルDで脚光を浴びると、トレノを買っておけば良かったと後悔してしまうさーぱぱなのです。

・ミッドシップマウントエンジン、リアドライブ
[トヨタ・MR2]


このクルマは本来、ラリー用4WDとして開発されたクルマで、ミッドシップマウント&フルタイム式フォー・ウィル・ドライブ車をテスト車としてカローラFXのシャシを前後反対にして四駆を作成していましたが、ホイールベースが短すぎて、とてもピーキーな動きをすると言うことでお蔵入り寸前での販売モデルとして陽の目をみたクルマでした。

私もテスト車のレース用のクルマを乗りましたが、エンジンのバイブと爆音でいらないと感じたクルマでもありました。

また、操ると言う意味では0カウンター領域での姿勢維持コントロールがシビアだったのも今となれば善き思い出でしたねぇ~。

今、ロータス・エキシージを操ると当時のミッドシップスポーツカーの完成度と現代の完成度の違いを感じますねぇ~。

総括
さーぱぱのクルマ人生でこの4A-GEエンジンで3タイプ(FF、FR、MR)の車両をテスト出来たのは最高の思い出であり、その後の3種類のクルマ(FF:流面系セリカ、FR:AE86の再来 トヨタ86、MR:2代目MR2)に受け継がれ、MR-Sの生産中で幕を閉じたトヨタスポーツカー。

その後、トヨタ86でスポーツカーを復活させたように見えますが、本当の熱いトヨタ自動車はこれからだと期待してしまいたいさーぱぱなのです。
Posted at 2017/11/23 07:54:42 | コメント(1) | トラックバック(0)
2017年11月22日 イイね!

茨城県牛久市 とんかつ かさま

本日 無性にとんかつが食べたくなったので ここに行ってきました。

特選ロースかつ


特選エビフライ


とても美味しかったですね。☺️



Posted at 2017/11/22 22:11:24 | コメント(0) | トラックバック(0)
2017年11月22日 イイね!

平成21年11月15日沖縄~羽田へ向かうコックピットでの様子!! 紹介


この日、仕事の達成祝いに会社のプライベートジェットで沖縄旅行の帰りのフライトで貴重な体験をさせて頂いた事をお話致します。

那覇空港を離陸した飛行機は約30分で屋久島上空(沖縄は嘉手納基地があるため、離陸してしばらく低空飛行して迂回しなければならない為、高高度に達するまで時間がかかるのです。)を高度13000m上空に達していました。

それは成層圏を超えた瞬間でした。



成層圏は約高度10000mでそこからは空気が極端に薄くなる所です。

そこは宮崎アニメの「紅の豚」で言っている「雲の平原」みたいで地上を見れば雲海、上空は真っ青な宇宙って感じです。

紅の豚と死闘を繰り返したカーチス氏


また地平線も高高度なのではっきり見え、わかっていることですが「地球が円い」事が見れたのも感動でした。

私は多少、飛行機の知識があったので、機長(会社の社員さん。)さんのご厚意でコックピットに入ることに。(本当は違法行為なので、内緒ですよぉ。)

フライト中のコックピットは初めての体験で少し緊張しました。

飛行計器をみるとこの時期の高度13000mは外気温:マイナス50℃、機体温度:マイナス41℃、速度は時速約680㎞、エンジン燃焼室温度:600℃、オイル温度:56℃、この日のジェット気流は時速約200㎞で西から東に吹いていました。

プライベートジェットのように小型機は低空を飛ぶより高高度を飛んだほうが揺れないのはわかっていましたが、自動操縦なしで飛ぼうとすると相当揺れるそうで、機体の各所に付いているカナード羽を調整して安定性を保っているそうです。(ここでも電子制御の素晴らしさを実感させられました。)

浜名湖、海上上空から徐々に高度を下げ、以前つぶやきでご紹介した写真は伊豆半島の下田の町で陸地に近づき、房総半島から九十九里をかすめ千葉マリンスタジアム、ディズニーランドから羽田に無事着陸しこの旅も終わりました。

尚、今はGPSやビーコン(飛行機の標識)等や自動操縦技術が発達しているから安全に航行出来ますが、昔の飛行機乗りは有視界飛行と言う、目視だけで数千キロも飛ぶのですから経験や地理能力、度胸、気象学、操縦技術が桁違いだったと思います。

ですから私もパイロットと言う職業に憧れた事もありました。

冒険飛行家:ポルコ・ロッソことさーぱぱなのです。




Posted at 2017/11/22 06:55:10 | コメント(0) | トラックバック(0)
2017年11月22日 イイね!

テレビ番組:東京エアポート、大空の絆「小島フライト」紹介


私も昔 子供頃に両親に連れていってもらった「羽田空港」。



今、紅の豚と名乗る理由の一つは「パイロットになりたかった」と言う夢があったからです。

(紅の豚 ポルコ ロッソ)


そんな飛行機好きな私が 以前、テレビ番組のドラマ「東京エアポート」で、ある機長が病院に入院する子供たちを飛行機に乗せてあげたいと言う番組に感動した話をご紹介致します。

その番組の名は「小島メモリアルフライト」

今回はその感動の実話を私なりの解釈を入れてご紹介します。

[実話では]
この番組でご紹介していた小島機長は実際には麻田機長と言い、宮城県の「西多賀ベットスクール(寝たきりの子供たちの学習する学校)」に入所する子供たちに夢を与える為に伝書鳩の競技を通して大空を飛びたいと言う気持ちが飛んだを実現させた麻田機長とボランティアの仲間たちのお話し。

昭和38年4月29日に夢が実現したのです。

因みにこの夢のフライトが実現される為に5年の月日を会社を含めスタッフの皆さんを説得、交渉を重ねた結果でした。

またこの以前の5年間の月日に何があったのか?

それは昭和33年8月12日、静岡県下田沖(初島近く)を全日空25便:羽田発~名古屋空港着(小牧空港)のマクダネルダグラスDC-3型機が墜落事故です。

(マグダネルダグラス社のDC3型機)


乗員3名、乗客30名が犠牲になった痛ましい事故があり、当時 日本の航空の安全に疑問の声があがった年でもありました。

この当時の日本の旅客機は第二次世界対戦中の軍用機の払い下げが多く、同一機種でも仕様はバラバラで整備性も良くありませんでした。





そこで日本政府は全日空に対して当時のお金で5,000万円で飛行機の仕様の統一化を指示。

また日本航空は全日空に対して整備と整備教育を受け持つことで安全性に対する信頼をアピールする目的も、このフライトが実現する原動力になったと思います。

[飛行機乗りの気持ち]
飛行機乗りと言う職業は人の命を預かると言う使命感とプライドの高い職業です。

この麻田機長も中国の「逓信省(旧、直近まで郵政省)航空員養成所」を出てパイロットになった人で、戦時末期には陸軍航空隊に志願して入隊。

飛行機の操縦は同僚のパイロットから「神業」と言われる程の操縦技術を持ちながら、信念を曲げない性格からまんねん「伍長」(軍隊の階級)として日々を送ったそうです。

またこの時代、日本は戦争も泥沼化する中、学徒動員により国の行く末を暗示て、神風特別攻撃隊に行き、敵に体当たり攻撃をする時代。

(神風特別攻撃隊)

アメリカの空母に体当りした特攻隊。


年若い特攻隊員達。


若者の死の旅路を見送る女学生


この頃のパイロットは同僚や部下を戦争で失い、命の大切さを一番に思う操縦士も多かったと聞きます。

そんな麻田機長だから、子供たちに夢を与えてあげたいと言う思いが強かったのかも知れません。

最後にこの時の子供たちの日記をご紹介致します。

題名:飛行機
(中2 女子生徒)

大きいからだをして毎日空を飛ぶ

色は白か銀色をして光をあびて飛ぶ

彼は大きいプロペラを持ち人間三十人をすっぽりその腹にしまいこむ

そして休みなく空を飛び回る

空から下を見ると目まいしないかな

私も彼のように

大きい希望を持ってぐんぐん進もう

彼を思うと

悲しいこともさびしいことも忘れる

勇気を与えてくれる彼よ飛行機よ

ありがとう!


題名:招待飛行の一日
(小5 男子児童)

 仙台空港は広い。白いかっ走路がどこまでも長く続いている。その先に松林があった。飛行機はダグラスDC三型だ。にぶい銀色の巨体が太陽の光をあびてまばゆい。

 町子ちゃんが、花たばを麻田機長さんにさしあげた。タラップをのぼってうすぐらい座席についた。そうじゅう席の後のかべにランプがついた。ベルトをしめてくださいと書いてある。みんなはベルトをしめてだまっていた。

 エンジンの音がぐんと高くなったかと思うと飛行機はゆるゆると走り出した。やがてぐんぐんとスピードを出し空港のたてものは見えなくなった。飛行機はしぜんにふわりとうきあがって海上へ出た。海はどこまでも青く、波は白くあわだっていた。たくさんの島がぽつぽつと海にうかんでとてもきれいだ。白い雪におおわれたざおう山がゆくてに見えたころ、飛行機は大きく左にまがりはじめた。三十センチ四方の小さな窓からのぞくと、田んぼがマッチばこみたいだ。だれかが「ベッドスクールが見えるぞ」といったが、どの建物が療養所なのかはっきりしなかった。みやぎ球場が見え、やがて遠くに飛行場が見えてきた。人や自動車や家がぐんぐん大きくなってくる。飛行機はいつ着陸したのかわからない中に、かっ走路の上を長く走り続けていた。

以上2作品を原文にて掲載致しました。

[その後の麻田機長] 
この遊覧飛行のあと、麻田機長さんは当時の最新鋭ジェット旅客機であったボーイング727型機の操縦を勉強するためアメリカに渡り、猛勉強をして帰国しましたが、その後体調を崩し、昭和42年に46歳で亡くなりました。

このような偉大なパイロットに敬意を評すると共に、ご冥福を捧げたいと思います。

[最後に]
このような時代背景や忌まわしい航空機事故 これらの逆境から会社や社員達が一丸となり、事にあたり、全日空は再生しました。

その感謝の気持ちがあのフライトとなったと感じるさーぱぱなのです。
Posted at 2017/11/22 06:14:27 | コメント(0) | トラックバック(0)

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「@*はる* 軽ミは不参加だったんですね。来年は参加されることを願っております。😃また機会がありましたら爆走のお供にをさせてくださいね!」
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はじめまして ロードスターさーぱぱと申します。 以前はサーパパと言う名前でみんカラをやらせて頂いておりましたが 携帯電話の機種変更によりロードスターさーぱぱ...
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