私の暮らす置賜地方には、50年前に廃道となった初代・万世大路と栗子隧道という遺構がある。平成最後の秋に、これらの今の様子を拝みに行ってきた。
資料が膨大な量になったので、前半・後半に分けて綴っていく。最初は資料編。

標高約1200mの栗子山塊の直下にある。紅葉のピークに合わせて訪問した。
栗子隧道とは? 万世大路とは?
山に囲まれ大雪が降る東北地方は、廃道や廃線のメッカと言われる。文明の進歩に合わせて道が切り開かれては捨てられるのだ。山に囲まれた各地域を結ぶ道路は、雪による浸食を受けて絶えず崩壊していく。使われにくくなった道路は捨てられ、付近にまた新しく道路が切り開かれる。何十年単位の話しである。
万世大路は福島市と米沢市を結ぶ道路のことを言い、栗子隧道は明治時代に掘られた最初のトンネルである。この二市のあいだには日本の背骨である奥羽山脈(標高1000~2000m)がそびえている。置賜の人間が福島やさらに南の東京方面に向かうとき、または様々な物資を遣り取りするにも、この山脈が壁のように立ちはだかってきた。これを如何にして越えるかは、置賜地域に住む人々にとって昔からの課題だった。
栗子隧道が歴史的・地形的にどんな場所かを知るには、以降に切り開かれた道路やトンネルを含んだ鳥瞰図を眺めるのが一番である。
時代を経るにつれ、トンネルの入り口が低い方へ手前の方へと移動し、トンネルの長さも桁外れに長くなっていく様子が一発で分かる。
鳥瞰イメージ1(クリックで拡大)

トンネルの入り口が低い方へ手前の方へ、つまり山の麓、都市の方へと移動している。
奥羽山脈を壁のように見立ててもう一枚

栗子山と杭甲山の標高は1200mほど。最後の急登部分をトンネルによって省略している感じ。今のスキー場や採石場砕石場のてっぺんよりも高いところに入り口がある(あった)。
去年の秋に東北自動車道の新しいトンネルが開通し、早速何度か通ってきた。このトンネルができたことによって、例えば家族連れで東京に向かう場合、新幹線で一人ずつ切符を買うより、ミニバンをレンタルして車で行った方が安上がりだし、時間もそんなに変わらなくなった、、、とか言われる(地元では)。
また一つ世の中が便利になったのだ。…ではその便利さとはどのくらいのものなのだろう??? というわけで最初にできたトンネルまで徒歩で向かい、現代の置賜人がいかに恵まれているかを体感してみようと思い立ったのである。
各隧道・トンネルの概要
・栗子山隧道、栗子隧道
明治と昭和初期の隧道(トンネルの昔の言い方)跡。明治のは人力車や馬車、昭和初期のは自動車用。標高920m付近にあり、杭甲山(1203m)の最後の急登部分を省略する形になる。1年の半分は冬季閉鎖されていたらしい。
栗子山隧道は、1881年に明治天皇の行幸を迎えて開通した。天皇は「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて「萬世大路」と命名した。
1899年に奥羽本線が開通すると、利用者が減った。大正から昭和にかけて自動車の利用が増え始めると、改修が進められた。当初は手掘りだった壁もコンクリートに変わった。1937年に「栗子隧道」と名を変え、改修が完了した。明治期の隧道の脇にもう一つ入り口を掘り、やや進んでから合流する形になる。東側(福島側)の出入り口は変わらず一つのままである。
・西栗子トンネル、東栗子トンネル
高度経済成長期のトンネル。山形~福島間に大小7つのトンネルが掘られ、中でも西栗子トンネル(2675m)と東栗子トンネル(2376m)の2つが飛び抜けて長い。1966~1970年に随時開通していった。山形側の入り口である西栗子トンネルは標高590mの位置にある。
この新しい万世大路が開通した直後、1972年に旧・栗子隧道は落盤が発生し、閉鎖された。岩盤が脆くなっていたことは予測されていたのかもしれない。
1992年、板谷峠の方に山形新幹線が開通し、山形~福島間は鉄道による移動もより活発になった。
・東北中央自動車道の栗子トンネル
2017年11月4日開通。
その他の資料
動画:
昭和の風景「栗子国道」
建設省・東北地方建設局による映像資料。1966年制作。この記事で言う3代目のトンネルまでの歴史がまとめられている。2:28辺りから、当時の初代・万世大路の様子が述べられ始める。かなり貴重。
webページ:
● 写真の中の明治・大正(国立国会図書館)より「2 栗子山隧道と三島通庸」
● 自作おすすめスポットのページ
(
後半に続く)
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Posted at
2018/10/27 20:25:00