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りがとみ~ぬのブログ一覧

2018年11月19日 イイね!

小国町の片洞門とめがね橋


国道113号線の飯豊町と小国町のあいだに廃道が残っているらしいので、現場に向かってみた。
東から来たとき、宇津峠の先にトンネルが3~4つ連続で並んでいるところがある。本当に短い間隔でトンネルが並んでいるので、一度点けたランプを消す気にはならない。全て通り抜けてから消す習慣がついている。その部分に廃道が残っているのだ。

結論から言うと、これはジグザグに蛇行した渓谷をくり抜いたものである。
● 自作おすすめスポットのページ(下の方に地図あり)

この渓谷をぶち抜くトンネルや橋が建設される前、渓谷に合わせてジグザグに蛇行する沿道があった。今回はそれを徒歩で辿った。
日時:2018年11月18日


トンネルとトンネルの間に、このような広場がある。背中側には片洞門休憩所というカフェもある。


シボクルちゃんの脇に廃道が伸びている。ここを歩いてゆく。


すぐに文明の面影は消え、剥き出しの露岩が現れた。つまり、右手のトンネルはこの巨大な岩盤をくり抜いたものなのか?


左手の渓谷を写したもの。分かりづらいかもだが、落ちると死ぬ高さに感じた。仮に生きていたとしても、這いあがれるポイントがない。濡れた状態で探しまわる内に低体温症で死ぬと思った。日の光が当たらないため、辺りはヒンヤリしている。


露岩の先端部分に達した。道が右方向へとカーブしている。渓流も同じくカーブしている。


この先端部分を真下から撮った。岩のミートボールみたいな、丸くて巨大な岩盤なのである。前の写真から分かるとおり、対岸も巨大な岩盤である。なんていう所なんだ!?


不意に一つめの片洞門が現れた。奥には私が今まで当たり前に通ってきた113号線のトンネル入り口が見える。


切り落とした部分がよく分かる構図でもう一枚。奥には崩落した箇所もあるようだ。


案内板は腐食して読めなくなっていた。難工事であったため観音様が祀られている。1959年(昭和34年)までここは車が通る道路だった。ここで転落事故があったけど、運転手は偶然樹に引っかかって助かったという。

ここで歴史を振り返る。
この難工事を断行したのは、前回記事の栗子隧道と同じ、三島通庸・初代県令である。明治14~19年にかけて越後と山形を結ぶ新しい道路が建設された。この片洞門の部分は明治16年に完成したという。
明治より前は、ここよりも南方の十三もの峠を越える越後街道が使われていた。三島が建設し、いま我々が歩いているのは小国新道と呼ばれる。
小国新道は戦後になって自動車の通行用に少し改修され、高度経済成長期の少し前に国道113号線の開通によって廃道になった。この順番・時期も、前回の栗子隧道とだいたい重なる。


片洞門を過ぎると、その113号線の橋とトンネル入り口が見えてきた。今日の今日まで、こんな険しい渓谷をくり抜いたものだとは全く気付かなかった…。


道が最も崩落した箇所に出くわした。ブルーシートで覆ってある。最も狭いところで40cmくらいの幅だった。左手は相変わらず「落ちると死ぬ」感じの崖である。

道は草が生い茂っている。夏場ここを通過するときは特に足元に注意したい。岩盤にツタが通っていて、そのツタに足が絡まって少しよろめくこともあった。


国道113号線の橋の下に立つと、奥に米坂線の橋とトンネルのセットが現れた。


相変わらず渓谷沿いに道が続いていて、線路まで行けるようだ。

以下の小国町のページに、トラックが当にこの部分を走っている往時の写真が残っている。線路の脇に小さく踏切もあったようだ。
● 小国町の近代の歩み 昭和30年(1955)~
● 片洞門を通行する車(昭和34年)


米坂線の線路に辿りついた。ウワサでは道中にめがね橋があるはずなのだが、まだ現れない。まさか、この線路を渡るのか…!?


落石止めのコンクリ・シェードの説明を読む。昭和38(1963)年9月2日に完成とある。電車が来てないことを耳でよ~く確認して、、、


線路をピョンコと渡った。そして振り返る。米坂線と113号線が写っている。今まで乗り物に乗って一直線だった場所に、こんな道があるとは夢にも思わなかった…。


線路の先を辿ると、ふいにレトロな雰囲気を醸し出すめがね橋(アーチ橋)が現れた。


生い茂った樹木に邪魔されて上手く写せない。樹木に遮られずに全体を写せるポイントはない。私が落葉後の時期に訪れたのはこのためである。


全体をパノラマで撮る。ジグザグに蛇行した渓谷と、それを真っ直ぐにくり抜いた国道と線路の橋(とトンネル)。捨てられた明治期の橋と奇妙な形の岩盤という構図…。


橋の上流側の図。渓谷は相変わらず「落ちたら死ぬ」高さを保っている。よろめくと大変なので、這いつくばって撮った。赤い国道の橋はよく見えるけど、米坂線の橋は樹木でよく見えない。


橋の下流側。向かいの谷から小さな滝が流れ落ちている。片洞門を続けずに橋をかけたのには、どんな理由があったのだろうか。このまま渓谷の北側を通ってもよかったのではと思ってしまう。


橋を渡り切った。軽自動車同士でもすれ違えない幅だった。この片洞門の沿道は、だいたい一台のクルマしか通れない(今のだと)。どこかですれ違い用の待避所があったに違いない。

この石橋は薩摩から設計士を呼んで造られたという(石工は置賜の人)。三島通庸もその次官も薩摩の人なので、その繋がりであろう。
調べてみると、薩摩は江戸時代後期からこのような石橋建設の技術に秀でていたのだとか。明治維新によって薩摩の人物が官僚として我が県にやってきて、このような道ができて、越後・山形間の通行が容易になったという流れが想像できる。


どうやって石を積んでったんだろうか???足場が特に大変そう。 2年の工事のあいだに、事故によって1名が亡くなり、3名が重傷を負ったと伝え残っている。


橋を後にすると、2つめの片洞門が現れた。「落ちたら死ぬ」渓谷は右手側に移った。


片洞門の真下に立つ。この高さをトラックやバスが通っていたとは信じられない…。


蛇行する渓谷に合わせて、道が南西方向を向いた。役目を終えた車止め用の石がコケシのようにちょこんと並んでいる。


続いて、苔むしてラピュタっぽくなった米坂線用のスノーシェードが見えてきた。


これは遺構ではなく現在も使われている。この中を米坂線の電車が通る。廃道はここで終わりっぽかったので、探索は終わりにして来た道を戻った。


入り口まで戻った。「落ちたら死ぬ」渓谷を何十分も歩いたので、シボクルちゃんの後ろ姿が見えたときはだいぶ安心した。
2018年10月28日 イイね!

平成最後の秋に栗子隧道・訪問編


(前回からの続き)

平成最後の秋に、初代・万世大路と栗子隧道の現在の様子を見に行ってきた。
前回の記事でどんな場所かを解説し、今回の記事で実際の訪問の様子を綴っていく。

訪問の様子

廃道マニアの間では割と有名な遺構なので、ネット上にたくさんのレポートが残っている。バイクで辿り着くものが多いが、今回は地元の人間として歩いて訪れてみた。


砕石場を通りすぎたあとの車止めの部分。ここから距離にして4km、標高差で400m弱を登る。1~2時間はかかると予想した。


「七曲り(方言で「ななむずり」)」と言って、ヘアピンカーブが7回ある。その度に数をカウントしていく。


「長坂」という地点を通過中。ここで道が戦前のものっぽくなった。なんというか、山道なんだけど軽トラが走った形跡がない。軽トラ特有の轍がない。


「太助茶屋跡」に着いた。昔は茶屋もあったのだ。


チシオタケという傷つけると真っ赤な乳液が出てくるキノコを見つけた。


「六の曲り」を過ぎたところで、野生動物の糞に出くわした。たぶんツキノワグマのものだと思う。標高600~800mの区間は、何らかの野生動物の生活の場という気配がして、かなり緊張した。


「切通し」を通過。「山を掘削し切り開いた道」とある。


極めつけに真新しい排泄物に出くわした(中央下のオレンジのヤツ)。ついさっきまで大型の野生動物がここにいた気がして、かなり怖くなった。


大型の野生動物の足あとなんじゃないのかな~???

「七曲り」が終わってもまだヘアピンカーブは続く。ヘアピンカーブによって高度を稼ぐパターンなのだ。そのカーブを曲がるたびに、その先に野生動物がいて、ビビった向こうが襲い掛かって来る予想図を浮かべながら進んだ。

明治天皇が「永キニ渡リ人々ニ愛サレル」ことを願った初代・万世大路は、様々な野生動物が徘徊しては糞塊や足あとを残していく、いわばケモノのための万世大路と化していた…!


「石積み」という場所についた。昭和の大改修のときに組まれたもの。これによって土砂の崩落を防ぎ、車の通行を可能にしていた。団塊の世代の方までは、ここの光景を覚えている人も多いだろう。


高度800mを過ぎると、樹々のあいだから紅葉に染まった栗子山塊が垣間見れる地点が増えた。雲の影がゆっくりと山肌を泳いでいた。


隧道跡まで残り500m地点まで来た。真新しい糞の後は恐怖の連続だったけど、ここから見える紅葉は素晴らしくて、緊張もほぐれた。


パノラマで撮ったもの。ここから先は自分も紅葉地帯のなかに入った。


ようやく到着した。栗子山塊の山頂直下、900m地点にある明治と昭和の隧道跡…。見えているのは昭和の方の入り口。


もっと近づく。右が明治時代の入り口。左が昭和初期の大改修後の入り口。二つは奥で合流している。


明治時代の入り口。1881年開通。ノミによる手掘りと外国から持って来た掘削機によって掘り進んだらしい。長さ864m。もう自然の洞窟にしか見えない。天井部分にやや人の手に拠るものって痕跡が垣間見えるか。
工事を決断した三島県令の歌は「ぬけたりと よう一声に夢さめて 通うもうれし 穴の初風」。たぶん、福島側の穴と初めてつながったときのもの。


昭和初期の大改修後の入り口。真上のレリーフには「道隧子栗 月三年十和昭」とある。戦前だから右から左に読むのだ。


少し中に入る。天井の腐食っぷりが気持ち悪い。崩落した瓦礫の先まで行ったレポートもあるが、自分独りでは行く気になれなかった。


目的を果たすと、あっけなく何もすることが無くなる。紅葉の栗子山山頂部分(1217m)を眺めた。山頂は樹々が無く金色の野原になっている。なので見晴らしはかなりいいと思う。正式な登山道はなく、登頂するには藪こぎを強いられる。いつか登ってみたい。

感想・まとめ

「昔の人が通った道を自分の足で歩いて、文明の進歩を実感する」という目的は無事果たされた。
かつて人の通る道だった栗子隧道・万世大路は、見事なまでに野生動物の歩く道になっていた。次行くときはバイクか複数の人数でにしたい。

2009年に経済産業省の近代化遺産に登録されたため、現地の人々から全く無視されている訳ではない。倒木は取り払われて人が訪れることが常に可能な状態になっている。「隧道まで残り○○m」という標識が500mごとに建ててあって助かった。保存会のようなものがあるのだ。

もっと頻繁に人が訪れれば野生動物もビビって徘徊しなくなると思うけど、今のように「捨てられた遺構そのもの」な雰囲気も大事な気がする。完全に捨てられると、藪こぎになって誰も訪問できなくなる。自然に帰すか、どの程度人間が訪れるようにしておくか、その辺のサジ加減が何とも難しいと感じた。地元の人間の一人として、今後も様子を見守っていきたい。
2018年10月24日 イイね!

平成最後の秋に栗子隧道・資料編


私の暮らす置賜地方には、50年前に廃道となった初代・万世大路と栗子隧道という遺構がある。平成最後の秋に、これらの今の様子を拝みに行ってきた。
資料が膨大な量になったので、前半・後半に分けて綴っていく。最初は資料編。


標高約1200mの栗子山塊の直下にある。紅葉のピークに合わせて訪問した。


栗子隧道とは? 万世大路とは?

山に囲まれ大雪が降る東北地方は、廃道や廃線のメッカと言われる。文明の進歩に合わせて道が切り開かれては捨てられるのだ。山に囲まれた各地域を結ぶ道路は、雪による浸食を受けて絶えず崩壊していく。使われにくくなった道路は捨てられ、付近にまた新しく道路が切り開かれる。何十年単位の話しである。

万世大路は福島市と米沢市を結ぶ道路のことを言い、栗子隧道は明治時代に掘られた最初のトンネルである。この二市のあいだには日本の背骨である奥羽山脈(標高1000~2000m)がそびえている。置賜の人間が福島やさらに南の東京方面に向かうとき、または様々な物資を遣り取りするにも、この山脈が壁のように立ちはだかってきた。これを如何にして越えるかは、置賜地域に住む人々にとって昔からの課題だった。

栗子隧道が歴史的・地形的にどんな場所かを知るには、以降に切り開かれた道路やトンネルを含んだ鳥瞰図を眺めるのが一番である。
時代を経るにつれ、トンネルの入り口が低い方へ手前の方へと移動し、トンネルの長さも桁外れに長くなっていく様子が一発で分かる。

鳥瞰イメージ1(クリックで拡大)

トンネルの入り口が低い方へ手前の方へ、つまり山の麓、都市の方へと移動している。

奥羽山脈を壁のように見立ててもう一枚

栗子山と杭甲山の標高は1200mほど。最後の急登部分をトンネルによって省略している感じ。今のスキー場や採石場砕石場のてっぺんよりも高いところに入り口がある(あった)。

去年の秋に東北自動車道の新しいトンネルが開通し、早速何度か通ってきた。このトンネルができたことによって、例えば家族連れで東京に向かう場合、新幹線で一人ずつ切符を買うより、ミニバンをレンタルして車で行った方が安上がりだし、時間もそんなに変わらなくなった、、、とか言われる(地元では)。

また一つ世の中が便利になったのだ。…ではその便利さとはどのくらいのものなのだろう??? というわけで最初にできたトンネルまで徒歩で向かい、現代の置賜人がいかに恵まれているかを体感してみようと思い立ったのである。


各隧道・トンネルの概要



・栗子山隧道、栗子隧道
明治と昭和初期の隧道(トンネルの昔の言い方)跡。明治のは人力車や馬車、昭和初期のは自動車用。標高920m付近にあり、杭甲山(1203m)の最後の急登部分を省略する形になる。1年の半分は冬季閉鎖されていたらしい。

栗子山隧道は、1881年に明治天皇の行幸を迎えて開通した。天皇は「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて「萬世大路」と命名した。
1899年に奥羽本線が開通すると、利用者が減った。大正から昭和にかけて自動車の利用が増え始めると、改修が進められた。当初は手掘りだった壁もコンクリートに変わった。1937年に「栗子隧道」と名を変え、改修が完了した。明治期の隧道の脇にもう一つ入り口を掘り、やや進んでから合流する形になる。東側(福島側)の出入り口は変わらず一つのままである。

・西栗子トンネル、東栗子トンネル
高度経済成長期のトンネル。山形~福島間に大小7つのトンネルが掘られ、中でも西栗子トンネル(2675m)と東栗子トンネル(2376m)の2つが飛び抜けて長い。1966~1970年に随時開通していった。山形側の入り口である西栗子トンネルは標高590mの位置にある。
この新しい万世大路が開通した直後、1972年に旧・栗子隧道は落盤が発生し、閉鎖された。岩盤が脆くなっていたことは予測されていたのかもしれない。
1992年、板谷峠の方に山形新幹線が開通し、山形~福島間は鉄道による移動もより活発になった。

・東北中央自動車道の栗子トンネル
2017年11月4日開通。


その他の資料


動画:昭和の風景「栗子国道」

建設省・東北地方建設局による映像資料。1966年制作。この記事で言う3代目のトンネルまでの歴史がまとめられている。2:28辺りから、当時の初代・万世大路の様子が述べられ始める。かなり貴重。

webページ:
● 写真の中の明治・大正(国立国会図書館)より「2 栗子山隧道と三島通庸」

● 自作おすすめスポットのページ

後半に続く
2018年10月06日 イイね!

登山系のブログ


登山系のブログを始めたので、ここでもご紹介する。

ポルピュリオスの樹の下で・自然館
http://blog.livedoor.jp/porphyriantree/

タイトルは小さく変更するかもしれない。
シボクルちゃんのことと登山のことを一緒にこのSNSで記すのが大変だったので、分離させた形になる。
日記がだいぶ空いてしまったのは、デザインを様々考えていたため。

夏のあいだ、、、


山形神室・仙台神室という奇怪な形の稜線に挑み、、、(記事はこちら


朝日連峰の最高峰、大朝日岳(1870m)の登頂にも成功した。(真ん中の山:記事はこちら


先日は錦秋の月山にも登ってきた。


記事はこれから。


朝早くに出発して、クルマでの登山口への移動が重要なんだけど、シボクルちゃんのおかげで、今のところ上手く登山ができている。

思えば、雪国で暮らし、山岳地帯をよく走る自分には、シボレー・クルーズはピッタリのクルマだった。軽自動車だと、坂道で「う~ん、チョット苦しいよね~! ごめんね~」という動きになる車種もある。
かといって余りにも大きなSUVだと、細い山道で苦労することもある。最小回転半径が大きくてカーブが曲がりにくいとか、すれ違いが大変だとか。

シボレー・クルーズは、その中間にあるしっかりした造りの車種なのを実感する。
とりあえず、自分独りで山に挑むって範囲では、この世で一番のクルマに出会えたと思える。

もうしばらくはシボクルちゃんと一緒の登山に集中したい。
2018年08月19日 イイね!

蔵王温泉の足湯とドッコ沼


蔵王温泉の足湯


麓が36℃を超える猛暑の休日、蔵王温泉街にやって来た。正面に見える赤茶けた山は瀧山(1362m)。


フツ~に流れている川から硫黄の匂いがする。


私は実は水虫に10年以上も悩まされており、この蔵王の湯が水虫に効くと聞いてやって来たのである(オッサンの足です)。


理由はこのとおり、酸性の硫黄泉だからである。殺菌効果があるのだ。このような温泉は全国的にもめずらしいらしい。自分の暮らしている近くにあってよかった。

「俺の足の皮膚の裏に潜む白癬菌め~、死ね! …死ね!」とか言い聞かせながら、40分ほどじっくりつかった。炎天下、足湯効果で自分ものぼせ上がってしまい、こちらの方が熱でやられてしまいそうだった。


この無料の足湯は中央ロープウェイ駅のすぐ向かいにある。無料とはいえ茶屋で何か買ってから利用するようにしたい。
画像左が中央ロープウェイ。右は蔵王ロープウェイ山麓線(名前がややこしい)。間にこんもりした山が垣間見えるけど、これが蔵王・地蔵山(1736m)で、この一帯の主峰。


ドッコ沼を見に行く

まだ麓は猛暑の時間なので、ドッコ沼までドライブした。温泉街から蔵王エコーラインに向かう道の途中、山の中に突っ込んでいく細い道路がある。そこを往く。


展望の効くところで朝日連峰を眺める。主峰の大朝日岳(1870m)が、槍ヶ岳っぽく尖がってそびえている。先月に熊野岳から眺めたときは、標高がほぼ同じなためか、ここまで尖がって見えなかった。大朝日岳は東から眺めても尖がっているのだ。その右下は白鷹山(994m)。


途中、三宝荒神山(さんぽうこうじんさん:1703m)の切り立った斜面をチェックする。数本の岩塔が不気味に飛び出している。山寺なんかがそうだが、蔵王から北側はこのように切り立った岩壁の景勝に事欠かない。


ドッコ沼に到着した。エメラルド色の水面が美しいところ。


広さは小さな学校の敷地分くらい。奥にスキーのリフト場が見える。ロッジ軒レストランなどもあり、実際は人がいっぱいだった。

このドッコ沼にはロープウェイで来るのが通常らしいが、車でもこうして目の前まで来ることができた。ただし道中はすれ違い困難な悪路だった。


ここは標高1400mにしては涼しい。Tシャツでちょうどいいくらいだった。画像のキノコは、触ると乳液が出てきたのでチチタケの幼菌で間違いない。

本題の水虫だが、翌日から確かに症状が軽減した。そして一週間経ってぶり返し始めた気がする。
この病気は生活習慣に拠るところが大きいっぽい。卵がある風呂場のマットレスを頻繁に踏むとか、湿度が高い状況で靴下を長時間履くとかである。完治のためには生活自体を見直す必要がありそうだ。
症状が気になるときは、またこの酸性硫黄泉に通いたい。

プロフィール

「ハスラー搭乗日記3~4週目 http://cvw.jp/b/2925090/48491529/
何シテル?   06/17 21:12
りがとみ~ぬです。車には20年近く無関心だったけど、突然変わりました。よろしくお願いします。 その他の出没場所: ツイッター(音楽関連)→ https:...
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