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浮野のブログ一覧

2008年07月17日 イイね!

日記 ⑪

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、十一冊目。

 日記          


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.11.4(火)

 ほぼ三万文字。日記帳がいっぱいになった。


 20.11.3(月)

 「生」と「死」は対義語とされているが、厳密には違う。
 「生」は生きること、生きていることそのものを指し、
 「死」は生命を喪うことを指す。
 「生」は線、「死」は点。とすると、
 「生」の対義は「生きていないこと」、
 「死」の対義は「誕生」であろうか。


 20.11.2(日)

 「おうとつ」は「凹凸」と書くが、「でこぼこ」は「凸凹」と書く。


 20.11.1(土)

 武士道は日本人全体が持つべき規範・心構えのようにいう向きがある。(戦時における大和魂も、武士道を下敷きにしている?)
 ブシ/モノノフ/サムライを家業にした人間は、日本人の御先祖の一部に過ぎない。
 武士に限らず農民も土地にしがみつき一所懸命に生きてきた面はあるだろうが、武士道や士魂というものは、士族の末裔を自認する者だけが持っていればそれで良い。
 様々な時代の武士たちの物語に感動し、あるいは涙することとは、また別の話である。


 20.10.31(金)

 エレベーターの声の「五階でございます」が、申し開きをしているように思えてならない。

 「 誤 解 で ご ざ い ま す 」


 20.10.30(木)

 PCに少し昔のケータイの写真が残っていた。データには、071209とある。
 確か、県立三木総合防災公園に併設されている県消防学校の前の遊具(?)の上。
 アスレチックみたいなのが大好きだからスルスルッと登り、直後に相方に盗撮された一枚。

 高いところは、コワイけど好き。だって、バ力だから。\(^o^)/


 20.10.29(水)

 戦国時代の薩摩と土佐は、似ている。

 北を山で隔絶され、南に荒波をかぶる、半ば独立の地。
 死を怖れぬ屈強の兵。薩摩隼人、一領具足。
 戦国最末期に島の統一に乗り出し、それは実現直前までいった。
 しかし、豊臣秀吉に征伐され、山地より南に押し込まれた。
 かつて勇敢に戦った侍たちは、のちに郷士として根付いた。ボッケモン、イゴッソウ。
 関ヶ原の合戦の折、徳川に味方しようとして、不測の事態により西軍に味方することを余儀なくされるところまで似ている。
 ただ、関ヶ原の戦後処理で、土佐の方だけ余所者の主を頂くことになる。


 20.10.28(火)

 10/20に「なぜマタモノが大河ドラマの主役になるかが未だにわからん~」と書いたけれども、少し前の風林火山、あの主人公もマタモノだったか。山本勘助。
 当然、山本勘助が討死にする川中島の合戦で話は終わってしまった。
 これは、武田三代の視点から見れば、中盤で終わってしまうので、中途半端すぎる。
 信玄一代で見ても、せいぜい三分の二しか描けない。
 どうせマタモノでドラマをつくるなら、主家の栄枯盛衰が俯瞰できる立場の人物を取り上げねばならない。
 その意味においては、上杉景勝の世継争いの頃から最後の動乱の関ヶ原の合戦や大坂の役まで景勝の側近であった直江兼続は、主役として描き易い方かもしれない。


 20.10.27(月)

 もののけ姫のアシタカは片腕に呪いを受け旅に出るが、即刻その腕を切り落とせば、死ぬかもしれない当てのない旅に出る必要もなかっただろうに。


 20.10.26(日)

 F.F.6のセリス(レオ葬送時)を落書きしてみた。
 日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9、日記⑩8/30、9/6、9/14、日記⑪ 10/11参照。

 剣の据えられたレオ将軍の墓前で、残された戦士たちは憮然とした面持ちで立っていた。
 つい前日、レオ将軍は狂気の魔導師ケフカに殺され、サマサの村は火をかけられたのだった。
 ティナは、焼け残った花を一輪摘み、墓前に添えた。

 ティナ「レオ将軍……。人はみな力が欲しいのね…私みたいになりたいのかしら…。もっと…あなたからいろんな事を教えてもらいたかった……」

   クゥゥ…

 シャドウの猟犬・インターセプターが、びっこを引きながら茂みからあらわれた。

 ロック「インターセプター、大丈夫か!? レオ将軍だけでなく味方のはずのシャドウまでも……帝国め!」

 ロックは腰の袋から包帯を取り出し、インターセプターの手当てをした。
 「やさしいのね」
 ロック「これでよし」
 セリス「やさしいのね」
 リルム「リルムがついていてあげる」
 ロック「しかし、こうなると帝国に残るエドガーたちが心配だ」
 ティナ「無事だといいけれど……。あ、飛空艇の音が…!」

 ブラックジャック号だった。
 帝国の監視のためにベクタにいた戦士たちが、機外へ降りてきた。

 セッツァー「帝国が裏切った。あやうく罠にはめられるとこだった」
 カイエン「事前に脱出でき申した。エドガー殿の情報のおかげでござる」
 ロック「さすが一国の王」
 エドガー「お茶を運んで来てくれたレディにごあいさつしたら、丁寧に教えてくれたよ」
 マッシュ「……便利な特技だな」
 エドガー「女性がいるのに口説かない。そんな失礼な事ができると思うかね? 礼儀だよ、れ・い・ぎ」

 そんなことはどうでもいい、とばかりに、ロックはエドガーに向き合って言った。

 ロック「レオ将軍が殺された。ケフカにな!」
 カイエン「レオ殿が!? 無念……帝国にいる数少ない理解者が…」
 エドガー「とにかく作戦のたて直しだ。飛空挺に戻ろう」

 老ストラゴスが、ロックやティナたちの陰から身を乗り出した。

 ストラゴス「わしも行ってもいいのかの?」
 エドガー「あなたは?」
 ロック「この村の人だ」
 ティナ「魔導士の血を引く人なの。力になってくれるわ」
 ストラゴス「力の使いかたを誤った帝国を放っておくわけにはゆかんしの」
 エドガー「…うむ、心強い同志だ」

 リルム「リルムも!」
 ストラゴス「だめじゃ」
 マッシュ「子供は足手まといだしな」
 リルム「なにをー、このキンニク男!」
 マッシュ「はっ! 口だけは達者だな、お嬢ちゃん」
 リルム「くーっ、似顔絵かくぞ!」

 リルムが魔力を込めて宙に描く敵の似顔絵は、その敵を攻撃する。
 ベクタに残っていた戦士たちは、それを知らない。

 ロック「わー! やめ ヤメ!」
 ストラゴス「わかったわかった。しょうがないやつじゃ」
 リルム「やったー!」
 マッシュ「じゃあ、行くぜ!」

 エドガーだけが動かず、考え込んでいた。

 リルム「どうしたの? 色男」
 エドガー「君、いくつだい?」
 リルム「10才よ。―――変なの、先行ってるよ」
 エドガー「さすがに犯罪か……やめとこう」

 一国の王は肩を落とし、溜め息をついた。


 憮然(ぶぜん)という熟語は、かなりの割合で意味を間違えて覚えられているらしい。
 不満気・怒っていると誤解されるのは、ブーたれている―――という連想からか。
 字義は、「リッシンベン」に「無」だから、心が無い―――ぼんやり・がっかりする意。

 ぶ‐ぜん【憮然】
 失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。「―としてため息をつく」「―たる面持ちで成り行きを見る」


 リルムがなんだか花井君みたいになった。
 ティナのポニーテールの括ってる部分が、前過ぎた。
 中腰の格好の資料がないモンで、セリスの質感(!?)が少し不自然になった。


 20.10.25(土)

 月夜野と夜久野は、語感が似ている。


 20.10.24(金)

 死んだふり そのまま喰われる オポッサム

 一世一代の奇手を、しくじることもあるだろう。
 同じ天敵にやられて喰われるというシチュエーションでも、仮死のまま死ぬ方が幸せか…。


 20.10.23(木)

 先々々月中旬の話。
 播州小野のひまわりの丘公園へ行った。

 ひまわりの季節に行ったのは、実は初めて。
 隙間には、ナデシコか何かが咲いていた。
 小さめのひまわりが、乱雑に並ぶひまわりの丘。


 あまりに暑かったので、吉川の西山牧場へ行って、ジェラートを食べた。
 西山牧場の狭い駐車場は溢れかえっていて、農道の脇にずらっと車が停められていた。
 マツダのロードスターが7台。
 「これは、オフ会というやつやね」
 「おふかい?」
 「ネットで知り合ったモン同士が示し合わせて、人数ぎょうさん集まったりすること」
 ジェラートを買って、外に向いているカウンター席に座った。
 外の仔牛がいる柵の脇に、8人の男(平均年齢20代後半?)が立ちながら雑談していた。
 「あ、きっとあの人らやわ」
 「オフ会、やね。うわぁ~」   うわぁ~ って…。
 それから十数分、すっかりオフ会批評会になった。
 内 容 は 自 粛 す る 。 相方が私以上の毒舌であることを、改めて認識した。orz


 20.10.22(水)

 PCに古いWordのデータが入っていたので、恐る恐る開いてみた。

 クレスタを
 くれただなんて
 びっくれすた

 カローラに
 乗って疲れた
 過労だな

 ホンダ車の
 売れ筋 筆頭
 フィットなり

 マークⅡ
 名前が変わり
 まあ、苦痛

 備中の
 ヴィッツと ミラは
 見られない

 ハリアーと 張り合い
 セリカに 競り勝つ
 赤穂の アコードと
 それがしの レガシィ

 チャーリーのチャリは
 けたたましいケッタマシーンだ

 つい太る
 水夫と スイフト
 シビックに
 私 びっくり
 イプサムは
 一風 寒い
 やだ! セレナ
 ヤラセ 出ないで!
 椅子とイスト
 キューブが休部
 セールしよ
 高いセルシオ
 クラウンは
 ガソリン喰らうん?
 アテンザに
 当てんじゃないよ!
 浮野さん(この行のみ改変)

 デミオ乗り
 カミオカンデ
 見ようかな

 ファンカーゴ
 とっても不安
 加護よ あれ

 何、地震?
 早速 支援だ
 シエンタで

 僕 知ってる
 牧師のクルマは
 ヴォクシーさ

 エスティマで
 何やってるの?
 「エステ!今!」

 ウィッシュは
 ストリームの一種

 ランサー 要らんさ

 きっと有り余る
 フィットアリア ◎

 織枝のエリオの
 ええ利用法

 あたしのアイシス
 愛に死す


 ……。オヤジじゃないのに。年齢詐称してないのに。。(ノ_・。)


 20.10.21(火)

 ヴァイオリンのアレンジが秀逸。サマンサ・ガーデラス。



 20.10.20(月)

 先々々月下旬の話。
 かねたん(山形新聞)なる新手のマスコットキャラクターを知った。

>大阪市在住のイラストレーター岡野亜記さんの作品。
>生涯にわたって上杉景勝を支えた兼続を主君に忠誠を尽くすイメージがあるイヌで表現した。
>また、兼続が「美男子」だったと伝わることから、りりしいまゆ毛を描き、兼続の代名詞ともいえる「愛」の前立てが付いた兜(かぶと)をかぶった武者姿とした。


 犬…。愛の前立て…。直江兼続ね。。

 個人的には、直江兼続は好きも嫌いもない。
 直江兼続は蜀漢の諸葛孔明に似てるかも、と思うことがある。
 法に厳格なところとか、
 劇的な書状を書いた(?)ところとか、
 攻めながら攻めきれず軍を退くところとか。

 なぜマタモノが大河ドラマの主役になるかが未だにわからんのだが、人物の器量からいえば功名が辻の夫の方より上であることは間違いあるまい。


 20.10.19(日)

 なぜだか急に、高校のときのジャンプの読み切り漫画を思い出した。

 実在の人物、バロン西こと西竹一を主人公にした漫画。
 西竹一はロス五輪の馬術の金メダリストで、軍人ゆえに硫黄島で戦死した。
 映画「硫黄島からの手紙」にも登場していた。

 漫画とは話が変わるのだが、ずっと昔にTVをつけたとき、古い映画が放送されていた。
 男が泣きじゃくり、電話の向こうの女(たぶん若い頃の中村玉緒)に話しかけていた。
 「ウラヌスが…ウラヌスが死んじまった~~」
 ウラヌスは西竹一の愛馬の名であり、何らかの関連はあると思うのだが…。

 この漫画/映画を知っているぞ、という猛者がおられたなら、ぜひ詳細をご教授願いたい。


 20.10.18(土)

 なぜだか急に、高校のときのジャンプの読み切り漫画を思い出した。

 江戸初期のある藩の話。
 その藩は、老臣連中と小姓連中の二派に分かれ、権力を争っていた。
 その藩には、くろがね某(字は失念…)という気骨ある武士がいた。
 くろがね某は、かの大坂の役(?)にて、味方である寄せ手のために自分の片足を犠牲にしたことで、両派から敬意を受けていた。
 くろがね某は、それぞれの首謀者のもとへ出向いて、事情を訊いた。
 それぞれの首魁は、それぞれの立場から事情を語った。
 両派は争いながらも、主君(あるいは、お家)のことは大事に考えている。
 熟考したくろがね某は、行動に出た。
 甲冑を身につけ軍支度を整えたくろがねは、「くろがね殿ご乱心!」と何度も叫びながら両首謀者の屋敷を襲撃した。
 反目する両派の首魁を斬り、藩の分裂を未然に防いだくろがね某は、その場で切腹した。
 ―――だいたい、こんな筋。

 この漫画を知っているぞ、という猛者がおられたなら、ぜひ詳細をご教授願いたい。


 20.10.17(金)

 英雄ポロネーズとキューピーマヨネーズは、響きが似ている。


 20.10.16(木)

 エアーマンが倒せないの替え歌考えてみた。日記③ H19.13/14参照。
 サルーインが倒せない。あんまり出来は良くない。動画をつくる技術もない。

 気がついたらパーティ壊滅寸前
 そしてクローディアにアニメート
 あきらめずに不動剣繰り出しまくるけど
 クローディアに背中射られる

 もしもベホマラーがあれば
 全員回復できるけど
 何回やっても何回やっても
 サルーインが倒せないよ
 あの撃剣波何回やっても避けれない
 後列に下がって距離をとっても
 全体攻撃逃げられない
 腕力法の重ねがけ試してみたけど
 先に殺られたら意味がない
 だから次は絶対勝つために
 僕は雷撃衝は最後までとっておく

 気がついたらひとり生き残った僕
 そしてシフにアニメート
 あきらめずに不動剣繰り出しまくるけど
 シフに頭割られる

 もしもザオリクとかあれば
 仲間復帰できるけど
 何回やっても何回やっても
 サルーインが倒せないよ
 サルーインソード何回やっても避けれない
 後列に下がって距離をとっても
 前列倒れりゃ無駄骨
 力の水の重ねがけ試してみたけど
 防御効果で意味薄い
 だから次は絶対勝つために
 シムラクラムだけは最後までとっておく


 (注)僕 → 貴族のドラ息子


 20.10.15(水)

 ここを見ると、
 かっつんがスライムに、
 デミーちゃんがスライムベスに見えた。


 20.10.14(火)

 多可郡多可町加美区へ行ったときの話。10/7参照。

 その一。
 はりこ工房 葉紙屋で、方言の話題になった。
 例えば、「~なさった」という言葉。
 私の住む摂津では、「~しはった」といい、
 相方の住む東播では、「~したった」といい、
 北播の多可郡では、「~しちゃった」というらしい。

 その二。
 加美の杉原谷を気分良く走り抜けていたとき。
 「← かみ高地」の看板が見えた。
 …確かに、ここは「かみ」で、「高地」であるには違いない…が、一抹のセコさを感じた。

 その三。
 加美の杉原谷を気分良く走り抜けて、中区に至ったとき。
 「← 託老所ろまん」の看板が見えた。
 そ、そんな「託児所」みたいな…しかも「ろまん」て…。
 実際、預けられた高齢者同士でろまんすがあったら、家族は困惑するだろうなぁ…。

 その四。
 中区だったか、「セシルラーメン 聖詩留」というラーメン屋を見た。プッ ウププ
 そういえば、道の駅 R427かみのレストランは、「シャルマン 車留満」といった。
 いったい何なの、そのセンス!?

 おすすめスポット タグ 多可郡


 20.10.13(月)

 ムスリムは、猪も食べられないのだろうか。


 20.10.12(日)

 先々々月の話。
 夜道の帰り、右前の学生らしき者を歩いて抜かしかけたときのこと。
 学生が突然鼻歌を歌い始めた。それも、かなりの大音量で。

 私は動揺しながらも表に出さず、そのまま抜かし切った。
 それでもまだ、歌っている。結局、道がそれるまで歌っていた。

 たぶん、学生は夜道に自分独りきりだと思ったのだろう。
 私の足音も感じ取れなかったのは、携帯オーディオで歌を聴いていたからに違いない。
 しかし、そこに私があらわれた。向こうも焦っただろう。
 そこは敵もさる者、途中で鼻歌を止めるという選択はせず、あえて歌いきった。 
 さぞかし恥ずかしかっただろう。だが、……しかし、ソレを想像するだけで恥ずかしい!

 私 の 方 が 犠 牲 者 な の に 私 の 方 が 恥 ず か し い だなんて、理不尽だ!


 20.10.11(土)

 F.F.6のセリス(レオ討死時)を落書きしてみた。
 日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9、日記⑩8/30、9/6、9/14 参照。

 レオやユラたちが幻獣と人間の和解が成ったと喜んでいるとき、すでにサマサの村は囲まれていた。

 ケフカ「ひょっ ひょっ ひょっ ぼくちんの魔導アーマー隊の力を見せてやるぞ!」

   ゴゥン ガシャン ガシャン ガシャン

 不意の襲撃に、戦士たちはあっという間に蹴散らされた。

 レオ「ケフカ、何をする!」
 ケフカ「ヒヒヒ…皇帝の命令です。幻獣達を魔石化して持ってこいとね。見よ、幻獣を魔石化させる秘技を!」

 ケフカが手を伸ばすと、その先の幻獣がたちまち魔石となってケフカの手に吸い込まれた。

 ケフカ「ヒィーーヒッヒ! ……つまらん。面白くないから、こんな村なんて焼きはらっちゃいな!」
 レオ「ケフカ、おまえの行い、もう許すわけにはいかぬ!」

   ズバン   ギャーーーッ

 レオ将軍は、剛剣を一閃した。切っ先が音速を超え、衝撃波が村の外まで震わした。

 ケフカ「さすがは、レオ……。私をこのような目に遭わすとは……」

 手負いのケフカは、霧のように姿を消した。

 レオ「どこだ……。ケフカ、姿を見せろ!」
 ガストラ皇帝「レオよ……」
 レオ「皇帝! 今までどちらに!?」
 ガストラ皇帝「レオ、おまえまで騙してすまなかった。これも、魔石を手に入れるため。わしの真意、わかってくれるであろうな」
 レオ「しかし……」
 ガストラ皇帝「言うな、レオ。お前の気持ち、解らぬでもない」

 再び、どこからともなくケフカがあらわれた。

 ケフカ「ヒッヒッヒッ、皇帝のおっしゃる通り! 今は、魔石を集めるのが先決なのだよ」
 レオ「皇帝、では、私はいったい……」
 ガストラ皇帝「レオ、お前には、少し休んでいてもらおう。それも、ずーっと長くだ!」

   ヒッヒッヒッ   ザクッ
 ← 右は俊夫さんではなくケフカ
 レオ「うっ!」
 ケフカ「お前が倒した私……それは私の幻影なのだよ! そして、意気地なしののガストラ皇帝も、もちろん幻影! それくらいの違いがわからないヤツが将軍だなんて、それも、いつもいつも……いつもいつも、いいこぶりやがって!」
 レオ「ケ、ケフカ……お前というやつは……」
 ケフカ「ヒッヒッヒ…皇帝には、レオは本心で裏切ったと報告しておくよ。死ね 死ね 死ねー!」
 レオ「ぐあぁーーっ!」

 ケフカの凶刃にかかり、レオ将軍は死んだ。

   ゴゴゴゴゴゴゴ…

 ケフカ「な、なんですか? すさまじい魔力を感じますね。と、とってもはげしい魔力の波動なんだな」

 数分後、サマサの空に新手の幻獣があらわれた。

 ケフカ「これは、これは。突然のお越しで驚きましたが歓迎いたしますよ。ぼくちんに、もっと魔石プレゼントしてくれるというのですから。お望みどおり、魔石と化してあげましょう!」

 ケフカの魔石化の秘術によって、幻獣たちが何十と魔石にされた。

 ケフカ「そのようなものでは、この私を倒すことなどできませんよ! さあ、魔石となって、私とともに魔導帝国『ケフカ』を造ろうではありませんか!」

 最後の一体も魔石となり、封魔壁を出た幻獣は全滅した。

 ケフカ「ヒョッヒョッヒョ、魔石はこれでもう充分ですね。あとは、封魔壁の奥にある最後の宝を手に入れるだけです。シンジラレナーイ!」

   ヒィーーーヒッヒッヒ

 炎に巻かれる村に、ケフカの笑い声が響いた。


 今回に限っては、セリスというよりレオを描きたかった。(四つん這いだけど。影絵だけど。)
 なんだか人造人間16号的なガイスガイで、まことにおかしい惜しい男だったから。
 でも、ケフカに突っ込まれている通り、ニセ皇帝も見破れないあたりは確かにオマヌケ。


 20.10.10(金)

 能煩野とボノボは、響きが似ている。


 20.10.9(木)

 先々々月は、但馬と北播多可郡を中心に周った。
 写真や資料を整理してるうちに、どうまとめたら良いかわからなくなってきた。
 テーマは大きくわけると、日本神話と山名氏の興亡。
 その日本神話も、アメノヒボコ関連とコウノトリ関連にわかれる。そこでここでは、どちらの神話にも少しずつかかわってくるイクメイリビコの大君のエピソードをまとめて列挙する。

【サホビコとサホビメ】
 サホビメは、時の大君・イクメイリビコ(垂仁天皇)の后であった。
 あるとき、兄(いろせ、同腹の兄)のサホビコがサホビメに尋ねた。

 「兄と夫、いずれを愛しいと思っているのか?」
 「……兄様を愛しいと思っております」
 「妹よ、まことに私のことを愛しいと思うなら、私とそなたとで、この天の下(あめのした)を治めようではないか」

 そう言って、サホビコは妹に紐の飾りの付いた小刀を手渡した。

 「大君が眠っているところをねらって、刺し殺せ」

   グガ~~ グゴ~~ スゥーーー

 大君は無防備のまま、后の膝を枕に、昼寝している。
 サホビメは、兄の言いつけの通り小刀を出し、膝の上の大君の喉元に、切っ先を振り下ろそうとした。
 …が、出来なかった。
 三度ためらっているうちに、涙がこぼれ落ちた。

   ポタ ポタッ

 雫を顔に受けた大君は、驚いて跳ね起きた。

 「われはあやしい夢を見た。沙本(さほ、地名)から叢雨が降ってきて、いきなりわが面を濡らしたのだ。また、錦色の小さな蛇が、わが首にまとわりついていたのだ。一体この夢は何のあらわれであろうか?」

 大君の夢見に、サホビメはすべてを告白した。

 「―――そして小刀を取り出だしたのですが……たちまち悲しい気持ちが起こり、御首をどうしても刺すことができず、あふれ出た涙が流れ落ちて、御顔を濡らしてしまったのです」
 「……われは、今少しで欺かれるところであったのか」

 激怒した大君は、サホビコを討つ兵を挙げた。
 サホビコも、稲城(いなき、稲束を干す木組みを利用した防柵?)をつくり、迎え撃った。
 サホビメは宮を抜け出し、兄の立て篭もる稲城へ駆け込んだ。
 このときサホビメは大君の子を腹に宿しており、また大君もそれを知るため、一気に攻め落とすこともできない。
 こうして、双方のいくさびとがにらみ合う中、サホビメは子を産んだ。
 サホビメは、その子を稲城の外に置いて言った。

 「大君が、この御子を御自分の御子と思うなら、どうかお育てくださいませ」
 「その兄は恨みに思えども、なおそなたが愛しゅうてならぬ」

 大君は、その場でその子を受け取ることをせず、一計を案じた。
 あとで受け取りに行く旨を稲城に伝え、屈強の兵を選んで言った。

 「御子を受け取るときに、后の髪であろうと手であろうと、手当たり次第に掴んで引っ張り出してくるのだ」

 大君の考えを見通したサホビメは、髪を剃り、その剃った髪(カツラ?)を頭にのせ、玉の緒を腐らせたものを三重にして手に巻きつけ、さらには酒を使い腐らせた服を身にまとった。
 そして御子を抱いて、稲城の外に出てきた。
 屈強な男たちは御子を受け取るやいなや、サホビメを捕らえようとした。
 しかし、髪を掴むと髪は取れ、手を掴むと手に巻いた玉の緒が切れ、服を掴むと服は簡単に破れてしまい、どうしても捕らえることが叶わなかった。
 最後の機会でもしくじった大君は、大いに悔しがり、なおも稲城に問うた。

 「子に名を付けるのは、母である。この子の名は、何とするのか?」
 「今はまさに、稲城が火に焼かれんとき。御子はそのような中で生まれました。ですから、その御名はホムチワケとしましょう」
 「いかにして養い育てればよいのだ?」
 「乳母を選び、産湯を使わせる者を定めて、養い育ててくださいませ」
 「そなたが締めてくれたわれの下紐は、誰に解かせればよいのか?」
 「旦波(たには=丹波)のヒコタタスミチノウシの娘・エヒメとオトヒメは心根の優しい者たちですから、この二人をお使いになるのがよろしいでしょう」

 未練は残れどももはや問うことも尽きた大君は、ついにサホビコの稲城に火を放ち、攻め殺した。
 妹のサホビメも、兄に従って死んだ。


 コノハナサクヤヒメで有名な火中出産の、もうひとつの話。日記⑧ 7/13参照。
 昔は異母兄妹なら、恋愛や結婚は普通にできたが、母を同じくする兄妹はダメだった。
 のちに不具の子が生まれたのは、その子がサホビコ・サホビメの近親婚ゆえという説もあるらしいが、はてさて、どうなのか。この話は、さすがにイクメイリビコに同情する…。
 記紀ともに記述あり。大差なし。古事記に従った。

【もの言わぬ皇子】
 母もともに立て籠もる稲城にて生れ落ちた皇子(みこ)・ホムチワケは、生まれつきものを言うことができなかった。
 イクメイリビコの大君は、ホムチワケの病を癒そうとして、丸木船を池に浮かべ親子で舟遊びをした。しかし、皇子は喋らない。
 皇子は齢三十になり髭が長く伸びてしまっても、泣くときは幼児のようで、言葉を話すことはなかった。

 ある冬、大君は皇子をそばにおいて宮殿の前に立っていた。
 そのとき、鵠(くぐい)が大空を飛びわたった。
 皇子は鵠を見上げて口を開いた。

 「あれ……あれ…なに?」

 大君は、皇子は鵠を見たゆえに喋ることができたと喜び、「誰かあの鳥を捕らえよ」と左右に命じた。
 直ちにアメノユカワタナが進み出て、鵠を追ってゆき、出雲に到ってようやく捕らえた。一説には、但馬で捕らえたともいう。
 アメノユカワタナは捕らえた鵠を献上した。ホムチワケは鵠と遊び戯れ、ついに言乃葉を得た。
 大君はアメノユカワタナを篤く賞し、鳥取造(ととりのみやつこ)の姓(かばね)を与えた。


 くぐい【鵠】《「くくい」とも》
 白鳥(はくちょう)の古名。

 こう【鵠】
 ハクチョウの古名。

 こうのとり【鸛】
 コウノトリ科の鳥。全長約1.1メートル。全身白色で、風切り羽とくちばしが黒い。松などの樹上に巣を作り、姿がタンチョウに似るため「松上の鶴」として誤って描かれた。東アジアに分布。日本では特別天然記念物に指定されたが絶滅した。中国から冬鳥としてまれに渡来。こうづる。


 鵠(くぐい)とは、記紀の注記や辞書を見る限り、ハクチョウを指す。
 しかし、但馬豊岡の郊外にあった久久比神社では、コウノトリと解釈されていた。
 コウノトリとツルは昔からよく混同されていたそうだが、ハクチョウもまた「大きな白い鳥」で括って、区別する気も必要もなかったのではないか。
 記紀ともに記述あり。
 古事記では、鵠を捕らえても言葉話さず、出雲大社のオオクニヌシの祟りゆえと判明し、これを祀り鎮めてようやく話せるようになった。話としては、日本書紀の方がまとまりが良いか。
 なお、日本書紀に記述されるホムチワケが鵠を見たときの一言は「是何物ぞ(これなにものぞ)」。唐突過ぎて不自然なので、たどたどしくした。
 池の舟遊びについては古事記の記述、後段は日本書紀に従った。

【ノミノスクネとタイマノケハヤ】
 イクメイリビコ(垂仁天皇)の御世、七年の七月七日―――。

 臣下たち「當麻の邑にタイマノケハヤという勇敢な士がおります。この者は『われの力に並ぶ者はおらぬのか。何としても力強き者に遇って、生き死には問わない、ひたすらに力比べをしたいものだ』と言っております」
 イクメイリビコ「タイマノケハヤは天下之力士(あめのしたのちからびと)だと聞いたが、誰か、これに並ぶ者はおらぬのか」
 臣の一人「わたくしは、出雲国にノミノスクネという勇士(いさみびと)あり、と聞いたことがあります。試しにこの者を召し、ケハヤに当てようと思います」

 即日使いを出し、やがてノミノスクネが出雲から到着した。
 そして、タイマノケハヤとノミノスクネと二人相対し、各々足をあげて相蹴った。
 ノミノスクネはタイマノケハヤのあばら骨を蹴り折り、また、腰を踏み折って殺した。
 ゆえに、タイマノケハヤの土地はことごとくノミノスクネに与えられた―――。


 後年、野見宿禰は出雲へ帰る途中、揖保川河畔に倒れた。
 その墓をつくる折、石を担いだ人夫が野を行きかった。
 それを見て、誰言うとなく、そこは立つ野と呼ばれるようになった。
 人々の並び立つ野、立野。現在は、龍野の地名が残り、丘の上に野見宿禰の墓がある。
 日本書紀のみの記述。

【埴輪のことのはじめ】
 イクメイリビコの御世、妃のヒバスヒメが亡くなった。

 イクメイリビコ「死人に従う道(殉死)は良からず、ということを、前に知った。この度はどうすればよいか」
 ノミノスクネ「陵墓(みささぎ)に生きたる人を埋めるのは良くありませぬ。わたくしに考えがあります」

 ノミノスクネは出雲の土部(はじべ)百人を呼び、人や馬や種々の埴(はにつち)をつくらせ、大君に献上した。

 ノミノスクネ「今よりのちは、この土物(はに)をもって生きたる人に代えて陵墓に立て、後世の見本としましょう」

 大君は大いに気に入り、ヒバスヒメの陵に初めて土物が立てられた。
 よって、この土物を名付けて埴輪(はにわ)という。


 野見宿禰の子孫に菅原道真がいるが、もちろん格闘技をすることはなかった。
 漫画「修羅の刻」の源平編の冒頭にて、蹴りを使う闘技者の例えとして野見宿禰と当摩蹶速の名が挙げられていた。
 日本書紀のみの記述。

<トキジクノカクの木の実>
 あるときイクメイリビコの大君は、タヂマモリにそれを食べれば永久の命が得られるというトキジクノカクの木の実を探させた。
 タヂマモリは艱難の末に常世の国(とこよのくに、海の彼方の不老不死の国)にたどり着き、トキジクノカクの木の実を持ち帰った。
 ところが、せっかく不老不死の木の実を持って帰ったというのに、当のイクメイリビコは既に亡くなっていたのだった。
 タヂマモリは木の実の半分を大君の后に奉ると、残りの半分を持って大君の御陵(みささぎ、墓所)に捧げた。

 「常世の国のトキジクノカクの木の実を持ち帰って参りました!」

 タヂマモリは叫び哭き、そのまま息絶えた。
 そのトキジクノカクの木の実とは、今でいうところの橘である―――是今橘也(コレ今ノ橘ナリ)―――。


 日本書紀では、非時の香菓(ときじくのかくのみ)と表現されている。
 タヂマモリは、三宅連(みやけのむらじ)の始祖(はじめのおや)で、アメノヒボコの子孫。
 記紀ともに記述あり。大差なし。古事記に従った。


 20.10.8(水)

 本屋で、真面目そうな五十男が黙々と立ち読みをしている。
 その隣で、普通然とした学生も黙々と立ち読みをしている。
 彼らが手にしているのは、官能小説。まばたきもせず、一心不乱に読んでいる。

 人 は 見 か け じ ゃ な い 、と納得すると同時に、
 どうして歴史物コーナー官能小説コーナーの隣なのだ、と思った。


 20.10.7(火)

 先々々月上旬の話。
 播磨多可郡の杉原と岩座神へ行った。


 空が今より低かった頃、ひとまたぎ三町の巨人あまんじゃこは、しゃがまなければ天に頭がつっかえ、歩くこともままならなかった。
 明石のとある里から北へ行く途中、急に空が高くなり、思う存分背を伸ばすことができた。
 「ここは空が高い。たかじゃ、たかじゃ!」と、あまんじゃこは快哉を叫んだ。

 多可郡の由来は、空の高い意。
 多可郡は本来、加美町、中町、八千代町、黒田庄町、西脇市をあわせた地域だった。
 そのうち、黒田庄町と西脇市は多可郡の名を冠せず、黒田庄町は西脇市に合併された。
 残る加美町、中町、八千代町は多可郡であり続け、先の合併で、多可郡多可町となった。
 加美町、中町、八千代町はそれぞれ、多可町のうちの加美区、中区、八千代区となった。
 だから、本来はともかく、今日の多可郡の範囲は、加美、中、八千代である。
 加古川の支流の杉原川というのがある。
 西脇でYの字に分かれ、北東に加古川、北西に杉原川が遡り、杉原川は下流を中区、中流より北はずっと加美区を流れる。加美は、杉原川をかかえる、北へ10km以上続く谷筋。
 東西に700~1000mの山々が連なり、東西の連絡がほとんど絶たれている。
 以上、多可郡と杉原川の説明。

 杉原紙の歴史は飛鳥時代まで遡るといわれており、その頃は律令国家の租(コメ)、庸(都での労働又は布)、調(地方の特産物)の調として、播磨の国府・御着、そして藤原京まで紙を運んでいたという。

 杉原紙の作り方は、
  ① 原料の楮(こうぞ)を刈り取り、切りそろえ、煮る
  ② 皮を剥ぎ取り、日に干す
  ③ その皮を川でさらし、外側の黒い皮を削り落とし、日に干す
  ④ 白い皮を水でふやかし、灰汁で溶かして繊維だけにする
  ⑤ その繊維を流れる水にひたして、ゴミを取り除く
  ⑥ 白くなった繊維を棒で叩き潰す
  ⑦ 細かくなった繊維を水槽に入れ、ネリ(ノリウツギ、トロロアオイなどの粘液)を加え混ぜる
  ⑧ 枠のついたスノコで漉(す)く
  ⑨ 水を切る
  ⑩ 板に張り付け、日に干す

 杉原は、平安時代の中頃、藤原師実(藤原道長の孫)の荘園となった。
 同時期、播磨多可郡の土地は、ほとんどが荘園となっていた。
 杉原庄の他、大山庄、大幡庄、松井庄、黒田庄、安田庄、富田庄、比延庄、這田庄。
 黒田庄は、つい最近まで黒田庄町として残り、また、黒田官兵衛孝高で有名な黒田氏(日記⑨ 8/12参照)は、家伝では近江佐々木氏の庶流と謳っているが、黒田庄から出た生粋の土豪だという説もある。(個人的には、こっちであってほしい)
 1116年、「杉原庄紙(すぎはらのしょうのかみ)」の名が、初めて文献にあわられた。
 藤原忠実(藤原師実の孫)の日記の、息子と娘に馬の鞍・調度・杉原庄紙百帖(1帖=50枚)を送った旨の内容。のち、藤原氏は分裂し、杉原庄は近衛氏のものとなった。
 1165年頃の平氏関連の書状に、「杉原紙」の名が初めてあらわれた。
 1429年、播磨全域で一揆が起こったが、播磨守護の赤松満祐はこれを鎮めた。
 1441年、中央の力を強める政策を採っていた足利義教を、赤松満祐は京の自邸に招いてこれを暗殺した。ただちに山名持豊を主力とする幕府の追討軍が遣られ、赤松氏は滅び、杉原庄のある播磨は山名氏のものとなった。
 1467年、幕府内の権勢を競った山名持豊(宗全)と細川勝元が軍事衝突した。応仁の乱である。
 一度は滅んだ赤松氏であったが、南朝の残党が北朝の三種の神器を盗み出した際(三代将軍・足利義満によって、既に南北朝の合一は果たされていた)に、赤松氏の旧臣(そのひとつが、戦国時代の御着城主の小寺氏)が神器を取り戻し、南朝の皇統を殺す手柄を立て、さらに応仁の乱では細川勝元に味方をして働いたので、赤松政則(赤松満祐の甥の子)は播磨・美作・備前の旧領をすべて回復したのだった。
 1483年、山名政豊(山名宗全の孫、山名宗全の後継者)は、真弓峠から播磨に侵入し、播磨を再び占領し、赤松政則がやっとのことで追い返したのは、1488年のことだった。この結果、赤松氏の求心力は低下し、播磨は分裂の様相を呈した。
 一方、当時の杉原紙は、神社の御幣などに使われており、播磨の廣峯神社(日記⑧ 7/13参照)の御札も杉原紙だった。
 姫路に定住した黒田氏(黒田官兵衛孝高の祖父以来)は目薬をつくり、廣峯神社におさめ、廣峯神社の御師(おし、布教者)が御札を配り歩くとともに目薬を売り、黒田氏にも利が還る―――という仕組みをつくり、黒田氏発展の最初の土台になったのだが、杉原紙はこんなところにも絡んでいる。
 やがて戦国の果てに播磨は羽柴秀吉のものとなり、本能寺の変後に勢いに乗った秀吉は豊臣姓を賜り、日本を統一した。
 秀吉は検地を行い、ここに土地の多重構造(公地、荘園、地頭、守護 etc…)は消えた。
 しかし豊臣氏は、二代目になった途端に支配者の座を徳川家康に奪われた。
 江戸時代、杉原紙の消費量が全国で増え、それに応じて全国各地で杉原紙がつくられるようになった。
 那須杉原、越後杉原、信州杉原、美濃杉原、加賀杉原、越前杉原、丹後杉原、佐治杉原、吉野杉原、但馬杉原、因幡杉原、出雲杉原、足守杉原、備後杉原、三次杉原、広島杉原、周防杉原、阿波杉原、伊予杉原、土佐杉原、豊前杉原、豊後杉原…もはや、「杉原」は紙の代名詞となっていた。
 本場の播磨杉原谷は天領であり、その杉原紙は「はりまおん上り杉原」といい、運び手まで優遇を受けた。
 幕末になると幕府の財政は苦しくなり、杉原谷の楮に代えて杉が植えられ、徐々に紙漉きが衰えてきた。
 そして明治維新、地租改正。租税はカネで納めねばならず、原料の楮を買い入れねばならない紙漉きは、明治時代の終わり頃に途絶えた。(ミツマタで漉いた半紙も、大正時代に終わった)
 英文学者・書誌学者の寿岳文章(じゅがく ぶんしょう)は、1937年から1940年にかけて全国の紙漉き村を巡り、紙漉村旅日記を著した。さらに1940年の夏には、言語学者の新村出(しんむら いずる)とともに杉原谷を訪れ、この地こそ天下の名紙「杉原紙」の発祥の地であることを明らかにした。(元々、播磨の杉原谷か美濃杉原かまでは絞っていたようだ)
 苦しい戦争が敗戦に終わり、高度成長を経て、1966年、杉原谷には両博士が揮毫した記念碑がつくられた。しかし杉原紙は、もう無い。
 1970年、半世紀ぶりに紙を漉くという宇高弥之助氏により、楮を用いた杉原紙が復元され、1972年に杉原紙研究所が開所。記念碑も、杉原谷小学校から研究所前に移された。
 1994年には、「こうぞの一戸一株運動」が始まり、地域としての杉原紙保存の高まりを見せている。
 現在、杉原谷の杉原紙は宮内庁御用達となっており、その最上の品は歌会始(うたかいはじめ)に使われている。


 ↑ 紙匠庵でんでん

 杉原杉原紙の初見は、ジェラテリアの土産物売り場(日記⑦ 5/10参照)だった。
 「日本最古の紙」と書いてあるのを見ても、そのときは何の感慨も持たなかった。
 しかし、実際に杉原の土地に立ち、歴史を知ると、いっぺんに好きになってしまった。
 杉原の文化、歴史、空間すべてが―――。
 なんでも、50kgの楮の枝から1.5kgの杉原紙ができ、現在は年間700kgを生産しているそうだ。
 中心地には、道の駅 R427かみ、西の山手に青玉神社、さらに杉原川を挟んで東に杉原紙研究所紙匠庵でんでん和紙博物館が並んでいる。道の駅のほんの200mほど南に、はりこ工房 葉紙屋もある。


 青玉神社は元々北西2.5kmの三国岳(標高855m)に鍛冶の神として祀られていた。
 祭神はアメノトマミ。別名をアメノマヒトツといい、天目一箇の字の通り、目を傷めるのを職業病とする製鉄業の神なのだ。ただ、アメノトマミという名は、初めて聞いた。
 ともあれ、山頂の播磨踊場(池のある平坦地らしい)で祀られていたところをふもとの地に遷し、現在に到る。
 現在は製鉄の名残りなどちっとも感じさせないが、三国岳の西10kmの生野銀山と関連があるのかどうか。(やはり、鉱山業と製鉄業は別か…)
 現在の青玉神社の境内には、樹齢千年ともいわれる二俣の杉、夫婦杉がそびえる。
 また、これまた大きなイチョウがあり、垂れ下がった気根ゆえに乳の木と呼ばれ、乳に模した縫い物を奉げている。K乳願望などとは次元の違う、子を想う母の切なる願いである。
 大和葛城の一言主神社にも乳銀杏があり、乳の縫い物は紀伊九度山の慈尊院にもあった。
 「九度山の方が、もっと…こう…ディティールが…」
 …と言ったところで、後ろからゴツンされた。(:;)

 ↑(左)一言主神社、(右)慈尊院

 多可郡の加美という10kmを越える悠然とした谷のひとつ西側に、4kmほどの谷がある。
 杉原川は加古川の支流であるが、その杉原川のさらに支流の多田川沿いの谷だ。
 その行き着く先が、岩座神―――いさりがみ―――棚田で有名な集落である。

 「いさりがみ」とは変わった読みだ。「いわ すわり かみ」から転訛したのだろう。
 「岩座」は通常は別の読み方をするのだが、「いわすわりかみ」でも意味するところは同じ。

 いわ‐くら【岩座/磐座】
 《「いわ」は堅固な意》神の御座所。いわさか。


 より原始的な祭祀の有り方。磐は神の依り代、そこに神が降りてくる―――。
 播州の雌岡山も、あれはひとつの磐座だ。日記⑧ 6/17参照。
 青玉神社の古い信仰場である三国岳山頂も、おそらく磐座だったのではないか。
 岩座神(いさりがみ)の場合は、ここから見上げる千ヶ峯(標高1,005m)に磐座があるという。
 岩座神の郷は、その千ヶ峯の中腹。地図を見る限り、標高は400~500mである。

 ↑ 播州雌岡山の磐座の例。この磐座のみをもって、姫石神社という。

 このように、多可郡の加美は、神の降りる磐座の山々に抱かれるようにして在り、その山々からあつめた清流で紙をつくってきた。
 この加美の地にじかに降りて訪ねたとき、加美の語源は「紙」…いや、さらに古く遡り「神」なのではないか―――と感じるのは、私だけではあるまい。

 加美町は神の坐ます紙の谷 磐座の天は高く遠くに

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 さて、実は次の場所は、後日の但馬の帰りに少しだけ寄ったのだが、あえてこの稿に入れる。
 多可郡の加美区轟のラベンダーパーク多可。杉原谷の東の山腹にある。

 う…ああ…うぅ……。orz

 痛々しい…。これほど気の毒になる花公園も他にない。
 ラベンダー園なのに、小さな小さな花が僅かに咲いているだけで、密度もない。
 北海道でのイメージでは一面紫に染まるわけだが、ここは見渡す限り土の色。
 紫の色の要素が、0.1%もないのだ…。
 平成17年から四年目にして開園してこの惨状、播州の気候に合わないのでは…?(><)

 ↑ 眺望はこの上なく良い。向かいは千ヶ峯。磐座の山。

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 走行距離 約166km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.10.6(月)

 柏原から篠山方面へ丹波の森街道を走っていたときのこと。
 長安寺付近で「→ 池尻神社」と書かれた看板を見つけ、ふと思った。
 「尻」とつく地名(転じて、人名)は、たくさんある。
 帰宅してから、思いつくまま挙げてみた。

   池尻 川尻 河尻 江尻 沢尻 沼尻 田尻 ……

 池、川(=河、=江)、沢、沼、田…すべて、「水」に関係する!?
 「尻」は、おそらく「端っこ、突き当たり」くらいの意だろうか。
 「尻」は、「水」にまつわる地形についてのみ、その特徴をあらわす語なのか。

 早速、相方に尻と水関連仮説を発表した。
 野尻は?」

 …。仮説崩壊。orz


 20.10.5(日)

 海音寺潮五郎の武将列伝悪人列伝日本名城伝の9冊を読破した。日記⑧ 7/16参照。
 面白いなぁこの人…と思ってたら、既に故人だということを知って衝撃を受けた。(:;)


 20.10.4(土)

 路上に小動物の死骸やその他小さめの障害物があった場合、完全に回避する(①)こともあるし、障害物と相対して真下を通す(②)こともある。

 私はたぶん②の方が多い。対向車が連続すれば①は無理だし、障害物が小さいと見切った以上、②で何の問題も無いからだ。(見切りに失敗してつっかえるのが一番悲惨かもしれない)

 こうなると疑問に思ってしまうのだが、エアロパーツをつける・車高を下げるやらで、下のスペースがなんぼもない車のことだ。
 まず、②はできない。撥ねるか、巻き込むか、ズルズル押し続けることになる。
 こうなれば①しかないが、対向車が連続してくれば、徐行か停止するしかない。

 通常の車高であることは、それだけで車の一機能ということか。


 20.10.3(金)

 楳図かずおの邸宅について景観どうこう言うなら、PLの塔の方がよほどアレでナニだと思う。


 20.10.2(木)

 先々々月の話。
 スタジオジブリの映画崖の上のポニョを、封切の日に観に行った。

 事前に主題歌だけ聞いていたので、ついつい「ポーニョ ポーニョ ポニョ ♪」と口ずさみながら、ちょっとウキウキな感じで手を動かしていたら、

   ペシッ!

 「あかんー! 捕まるでホンマ」

 …。ぎゅっぱ ぎゅっぱ…してただけなのに……。(ノ_・。)テノコウ ヒリヒリ…

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 ネタバレは一切したくないので、ふと思った要点だけ。

 フリーハンドで描いたようなホンワカとした風景。水やしぶきの表現。素朴なタッチがいい。
 母親のドライビング。思いもよらぬ痴話喧嘩。魔法使いとポニョの本名。随所にちりばめた笑い。
 やはり久石譲はいい。音楽は大事だ。(ゲド戦記も久石譲なら、印象が違っただろうに…)

 決して、スペクタクルな大作ではない。
 高めの絵本でも買った気持ちで観てみよう。

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 最近はゆるキャラが流行りだが、ポニョも相当ゆるい。タガなど最初から無いかのように。
 映画の帰り、車の中で口ずさんだ。

♪生真面目すぎた 真っ直ぐな愛に
 不器用者と 笑いますか
 もう少し時が たおやかに過ぎたなら
 愛しき日々の 儚さは 消え残る夢 青春の影 ♪


 「なんで白虎隊なん?」
 「(わかるんかい!?) い、いや…ポニョのゆるさと中和できへんかな~、思て」

 くっ、ウチの姪よりかわいいか!?
↑【中和】↓
 日記④ 1/22、日記⑩ 8/20 参照

 嗚呼…飯盛山のあの時にポニョがあらわれ、
 「ポニョ、ギサブロー、すきーー」
 …と言えば、運命は変わったであろうか―――。(どんなifだ!)


 20.10.1(水)

 昔、我が家は朝日小学生新聞なるものを何年間かとっていた。
 尼子騒兵衛の忍たま乱太郎が連載されていた子供向けの新聞だ。一日一面(1ページ)の歴史漫画もあった。他にも四コマ漫画や色んなコラムがあったが、私が毎日楽しみにしていたのは、忍たま乱太郎と歴史漫画だった。
 忍たま乱太郎は説明不要だと思うので、歴史漫画について。
 これは日本史上の偉人を扱うもので、例えば聖徳太子や豊臣秀吉などが主人公になった。
 そして、どういうわけか「あや」という名のヒロインがいずれの主人公の場合にも登場し、時代を超える幾人もの「あや」は、必ず主人公の前で悲劇の死を遂げていた。。(:;)


 20.9.30(火)

 封切前に聞いた、スタジオジブリの新作崖の上のポニョの噂。

 「 人 の 顔 し た 、 毛 の 生 え た 、 謎 の 水 棲 生 物 」

 …。…転生前に描いた絵を思い出した。

 ありえないアリエル


 20.9.29(月)

 先々月半ばの話。
 野茂秀雄投手が現役を引退した。(:;)
 名将・仰木監督のもとで、おっきなオシリをくるりと回し、バッタバッタと三振に討ち取る姿が、つい先日のことのように脳裏の浮かぶ…。

 イチローや松坂など、現在進行形で神話を創っている選手もいるが、野茂もまた伝説だった。
 メジャーへ行ったとき、最初は反体制の悪役だった。無愛想で、ファンサービスも良いとはいえない野茂は、実力だけで人を惹きつけ、雑音を黙らせた。
 調子の悪いときはどうにもならずにメロメロになったが、調子のよいときの野茂のピッチングの爽快感ときたら…!
 その姿はファンに印象を深く刻んだし、大記録も残した。
 日本通算 78勝 46敗、メジャー通算 123勝 109敗、日米通算 201勝 155敗。
 メジャーリーグ日本人初の新人王、奪三振王、本塁打、
 そして、両リーグでのノーヒット・ノーラン―――。
 その偉業は計り知れない…。

 はじめてドジャースのユニフォームを見たとき、「なんや、中日のパクリやん」と思った。
 違った。中日がドジャースをパクっていたのだった。そんなことも知らなかった。
 そんな遠いメジャーの世界を野茂は、日常まで近づけてくれた。
 野茂は自身は、のちにメジャーを目指す後輩たちやファンの心も関係無しに、単純に上の舞台で豪腕を振るいたかっただけかもしれない。
 でも、それでいい。それが野茂らしい。不言実行が似合う男よ…。
 ありがとう、お疲れさま。さしあたっては、クールな解説を期待。


 20.9.28(日)

 3.5Lの白っぽいフーガ神戸323ふ1○-○○、
 どうして方向指示器を出さないのか。踏み切りで停止どころか減速すらすらしないのか。
 機械の故障か、中の人の故障かわからないが、不思議でならない。


 20.9.27(土)

 日記⑩ 9/12で扱った城崎での話。もうひとつのエピソード。
 (ちなみに、城崎は「きのさき」と読む。「しろさき」

 夕暮れに城崎についた。宿の予約はとっていない。
 とってなくとも、必ず、案内所でなんとかなってしまうのだ。
 その日は空き部屋が少なかったのか、設備の少なめの宿しかなかった。
 そして、そういう宿は、駐車場が街並の外れにあるのだ。
 ロープウェイ駅の裏の墓場、そのまた奥の駐車場に車を入れ、宿へ入り、汗を流した。
 その後、あちこち店をぶらぶらして、忘れ物を取りに車へ戻ったとき。

 …!?

 墓場に、墓石に、ぽんわり光が見える。
 私は動きを止め、目をみはった。
 少し動く。すると、光も動く。
 ゆらゆら歩くと、ゆらゆら光る。

 『ちょっとコレしゃれならんって!?』
 動揺を精一杯抑えて、逃げ……いや、確かめてみよう!
 一歩一歩、ゆっくり近づいた。
 それに応じて、ゆらゆら光る。
 そして、十数m進んだところで―――ガックリと、一気に息を吐いた。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花

 墓石だ。墓石の表面に、街中の家屋の光が反射していたのである。
 だから、こちらが止まれば、むこうも止まる。動けば、動く。
 それだけの現象だったのだ。
 脱力しきった後、それまで全身に異様に力が入っていたのが、初めてわかった。

 おすすめスポット タグ 城崎


 20.9.26(金)

 なぜだか急に、小学校のときに親戚のオッサンがカラオケで歌っていた歌を思い出した。

   ♪ま~ちこ~~ ま~ちこ~~ ま~ちこ~~ まちこ~~ぉ~~
     ま~ちこ~~ ま~ちこ~~ ま~ちこ~~ まちこ~~~ ♪


 前奏は、こんな感じの歌詞。
 この歌を知っているぞ、という猛者がおられたなら、ぜひ曲名をご教授願いたい。


 20.9.25(木)

 史跡系のおすすめスポットの強者たちのスポットを見て周るのには、ひとつの不便が伴う。

 何百件もアップしている場合、最初の1ページ目以外は、「次へ」をクリックしなければ見られない。ということは、南の地方になるほど、5回も6回も7回も、もっと「次へ」をクリックしなければならないのだ。これは非常に面倒くさい。

 スポットをアップするときは、最初に都道府県別の入力画面が表示される。
 閲覧するときも、都道府県別の選択画面が出てくれれば、巡覧も楽になるのにと思う。

 あ、こりゃみんカラに言うべきことか。


 20.9.24(水)

 史跡系のおすすめスポット…先に挙げたピズモ氏がたぶんみんカラで最たる達人だと思う(今までみんカラを徘徊した中では)のだが、他にも強者は何名かいる。
 交流はないけれど、例えば、犬出没注意氏はいろいろ細かく周ってる。
 私は地図見るのが好きな人だけど、強者たちのスポットを見て周るのも、面白かったりする。


 20.9.23(火)

 私は自分でも彼方此方周っている方だと思うし、史跡系のおすすめスポットの多さでは、みんカラの十指に入ると思う。
 しかし、私などまだまだヒヨッコである。
 知っているところでは―――みんカラのピズモ氏は、達人である。
 周った先の多さで私の10倍以上、訪問の密度でも3倍以上、質量勘案すれば私の30倍は、日本のいろんな土地・文化・歴史に接しているのではないか。

 そんな史跡めぐりの達人にも、山城攻めにおいて悩みがあった!
 【ピズモ氏のブログとコメントより】
  >夏の山城巡りは草や虫との戦い
  >クモの糸が苦手
  >アレルギーなので草も苦手

 おおお、やはり人の子だ!

 私の場合、スズメバチが最大最凶の天敵である。
 あの羽音を聞くだけで、背筋に悪寒が走る。
 住宅地にも巣をつくり得るくらいだから、少し山に入ったら、スズメバチの巣のある可能性はいくらでもあるのだ。

 他の虫は、やっぱり毛虫はイヤ。
 毛虫は、意外かもしれないが、頭上の樹木の枝からぶら下がっていることが多い。
 ちょうど顔の前あたりに、糸一本でぶら下がってブラブラしているのだ。
 こういうのは、前さえよく見ていれば事前に発見できる。
 毛虫より上の糸を持って、遠くにポイッ。おしまい。

 虫といえば、たまに少し開けた道で、ミチオシエに会うことがある。
 近づいたら数m先へ飛び、こちらを向いて着地する。それを繰り返す。
 それが、道を教えているようだから、ミチオシエ。
 一人ぽっちの山登りのときは、会うとなんだか和むことも。

 最近、但馬出石の有子山城へ登ったとき、眼前の毛虫はことごとく取り払ったのに、蜘蛛の巣にことごとく引っ掛かった。なぜに計算し尽くしたかのように顔の高さに…。
 草は長ズボンでかなり防ぐことができるし、毛虫や蜘蛛も注意すればだいたい見つかる。
 でもやはり、スズメバチだけはこれといって有効な策がない…。
 アシナガバチは知り尽くしてるから怖くないのだが、やつらだけは…。

 有子山城のあとに此隅山城へ登ろうとしたが、一本道でスズメバチに遭い、何分様子を窺っても退いてくれないので、攻略自体あきらめた。(:;)キライダ


 20.9.22(月)

 カマンベールとカマンベイベは、響きが似ている。


 20.9.21(日)

 日記⑩ 9/2に載せた2001年の落書きを、色塗りし直してみた。
 環境は、PCが違う(10年前のFMV → 2年前のDELL)が、ソフトと小道具はまったく同じ、フォトショップ5.0 リミテッドエディション(機能制限版)と、ワコムのタブレット(1万円未満のやつ)

【19】

 「さざきチャン、動物園で……よかったかなぁ? …っていうか、楽し…い?」
 「うん。さっきのフレーメン、巨人の上原選手にそっくりで…おかしかったよ」
 「え、フレーメン? 音楽隊? そんなのいたっけ…
 「ねえ、こっちのコーナーに入ろ」
 「え、『よるのどうぶつ』!? う…薄暗い…。…もしかして?」(ドキドキ)
 「こっちこっち、アルマジロだって。かわいい。でも、センザンコウの方が優美かなぁ?」
 「セイザンコウ? ああ、それ聞いたことあるよ。似たような鎧の動物だっけ」
 「セイザンコウじゃなくて、 セ ン ・ ザ ン ・ コ ウ ! 」
 「あっ、ごめ…」
 「こっちはフクロウ。シマフクロウは、アイヌでは『コタン・コロ・カムイ』っていう村の守り神なんだって」
 「ふぅん…」(イライラ)
 「隣がミミズク。耳みたいな眉毛みたいなのがピョンと出てるのが、ミミズクっていうんだよ。ミミズクもフクロウの仲間なんだけど、ナントカズクって名前のがミミズクの仲間」
 「へぇ~、そうなんだ…」(ドックン ドックン)
 「フクロウもいいけど、ミミズクの方が耳毛(?)がある分、もっとかわいいよね」
 「さざきチャン!」(プチン)

   がばーーっ

 「やーーっ、チカラズクは嫌っ!」


 テキトーに書いてたら、なんやようわからんオチになった。orz
 これまたテキトーにつけた「さざき」とは、ミソサザイという小鳥(野暮ったいスズメみたいなの)の古い呼び名。
 古事記の伝説中の人物には、鳥の名前がつけられることも多く、例えば、仁徳天皇の名はオオサザキ。その弟はハヤブサワケ、二人の腹違いの妹がメドリ。そして、オオサザキの臣・ヘグリノツク。
 オオサザキとヘグリノツクは、同日に生まれた。
 大君の子の方の産屋に木菟(ミミズク)が入り、また武内宿禰の子の方の産屋に鷦鷯(サザキ/ミソサザイ)が入ってきた。
 これを瑞兆と見て、主従の縁が深まるよう願い、験を交換して、皇子を大鷦鷯(オオサザキ)、武内の子を木菟(ツク)と名付けた。



 光の向きを左から右向き(→)に変えたが、服だけ右から左向き(←)のまま。致命的ミス。
 でもそのマヌケさが浮野の浮野たる所以なので、あえてそのまま。
 髪の表現は、今でもムズカシイ。どう描けば自然に見えるんだろう、と四苦八苦してる。

 右利きの者は、無意識に落書きすると、どうしても左向きの顔ばかりになる。
 プロの描く漫画ですら、正面以外はほとんど左向きばかり…ってのがある。
 だから、私は落書きするとき、意図的に右向きの顔も描くようにしてる。
 …とか、それっぽいこと言いながら、今まで描いてるのが頭部ばかりで、体の部分を描いた絶対量が少ないから、体を描くのを苦手にしてる。orz

 最近はイラストレーター使ってないから、使い方も忘れてるかも…。
 たぶん、専門的に絵を描く人は、イラストレーターやペインター使ってるんだろうなー…と思いつつ、やっぱりベジェ曲線に馴染めないのであった…。
 フォトショップは素人にわかりやすいドット絵で、修正は不便だけど、なんだか性に合う。

 なお、最近モノクロ画が多いのは、カラーで描くより圧倒的にラクチンだから。
Posted at 2008/07/17 20:24:17 | 日記
2008年07月05日 イイね!

日記 ⑩

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、十冊目。

 日記         


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.9.20(土)

 日記帳がいっぱいになった。。


 20.9.19(金)

 数ヶ月前の話。
 丹波立杭のドーノでのこと。

 隣には、上品な感じの五十代半ばの夫婦が座っていた。
 「まだか…」という声がかすかに聞こえたかと思うと、
 「 も う い い ! 」
 隣席の夫婦の旦那は、立ち上がって店を出た。
 「不愉快だ」と、捨て台詞を残して。
 
 店内、呆気にとられていた。
 隣席の奥さんが店の人におわびして、その数分後に焼け上がったピザを持ち帰り用にしてもらって、支払いを終えて帰っていった。

 こんな郊外の田舎の店に来ていながらピザの焼け上がるのも待てないようでは、残念ながらこの手の店を楽しむ適性は無い。
 否、飲食店に限らず、その土地の文化・空間を、時間を忘れて愉しむ余裕があるかどうか。

 大変なのは、尻拭いをする奥さんだ。
 いい大人が、なんと大人気ないことか。
 だから近頃の団塊は(以下省略)


 ドーノの公式サイトが、いつの間にか完成してた。


 20.9.18(木)

 コウノトリは赤子を運んで来る前に赤子を攫っているという噂。


 20.9.17(水)

 なんかもう止まらないので、ハトについても言及する。
 
  ハトがどうして平和の象徴なの?
  よく見ればグロテスクじゃない? …だなんて、もう突っ込まないから、

 お願い、 も う 増 え な い で 。

 フン害がひどいし、ビニール袋をガサガサするだけで完全包囲されるし、空を曇らせて飛び立つし、よく見ればグロテスクだし、もう大変。

 …といっても、消えて欲しい、というわけではなく、
 (これはカラスも含めてほとんどの生き物にいえることだが)
 人間がエサを与えないで維持できる生息数で充分、ということ。


 20.9.16(火)

♪烏なぜ啼くの 烏は山に
 可愛い 七つの子があるからよ
 可愛 可愛と 烏は啼くの
 可愛 可愛と 啼くんだよ
 山の古巣に 行つて見て御覧
 丸い眼をした いい子だよ ♪


 思えばカラスも哀れである。
 カラスの色が白ならば、現在ほど人々に嫌われただろうか。
 黒い生き物が不吉とされるのは洋の東西を問わないのか、黒猫も似たような扱いだ。
 黒色が、人間の本能に根ざした闇への恐怖を想起させるのだろうか。
 もっと、カラスの良いところを見つめ直そうではないか。

 【カラスの良いところ】
 ○ 賢い … 人間の罠なんてお見通し
 ○ 強い … 猛禽のトンビにも負けないぞ
 ○ 遊び心 … キラキラ、コロコロ、宝物あつめ
 ○ 可愛い … 集団の人間臭さは、サル山のサルに通じるかも
 ○ 鳴き声が美しい … カー カーアーハー アーハークァ クァ クァ、多彩な音色

 ちょっとこじつけっぽいが、魅力たっぷりだ。
 とにかく、イヌが賢けりゃ「お利口さん☆」といわれるのに、カラスだと「ズル賢い」と「ズル」を冠していわれるのは、あまりにかわいそうだと思うのだ。外してみよう、色眼鏡。


 20.9.15(月)

 頭より口の大きな燕の子

 先々月の話。
 ツバメ団地のひとつが、カラスの襲撃を受けて空き家になった。
 チョッピリ寂しくなったが、カラスもまた山で待つ子のためなのだろう。


 20.9.14(日)

 F.F.6のセリス(縒り戻し時)を落書きしてみた。
 日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9、日記⑩8/30、9/6参照。

 ティナとロックは、シャドウとともに大三角島のサマサの村に立ち寄った。
 ストラゴス老人に幻獣の情報を聞き出そうとしても、まるで手応えがない。
 いや、それどころか、言動が不自然である。
 訝しがっているところに、突然、孫娘らしき少女が飛び込んできた。
 シャドウの番犬のインターセプターは、シャドウ以外に対して容易に心を許さない。
 しかし、この少女―――リルムは、子犬に対するようにインターセプターとじゃれ合って遊びだした。
 この村には何かある、と睨んだロックたちは、とりあえず一泊することにした。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 その晩、火事が起きた。老ストラゴスが助けを求めて駆け込んできたのだ。

 ストラゴス「リルムが! あの家の中にいるんじゃ!」

 現場に集まった村人たちは、なんと魔法を唱えて火を消そうとした。
 本来魔法が使えるのは、幻獣か幻獣の血を引く者、あるいは帝国の人造魔導士だけだというのに。
 村人総がかりの魔法でも火勢は衰えず、ストラゴスとティナとロックの三人で家屋に踏み込み、別口から侵入したシャドウに助けられ、リルムを救い出した。

 ストラゴスが言うには、サマサは魔導士達の村であるという。
 昔、魔石から魔導の力をとり出し魔法を使えるようになった魔導士。
 普通の人間たちは魔導士の力を恐れ、魔導士狩りをした。
 そのときに逃げ出した魔導士が、サマサの村をつくった。
 代を重ね魔導の力は衰えているが、なんらかの形でまだ残っている―――と。

 ストラゴスは、リルムを救ってもらった恩義から、ロックたちへの協力を申し出た。
 ティナとロック、ストラゴスの三人は、幻獣の聖地といわれる西の山を目指して出発した。
 シャドウは、自分のやり方でやる、と言い残し、一行から離れた。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 幻獣の聖地の山頂近い洞窟で、ロックたちは奇妙な像を見つけた。

 ストラゴス「三闘神とは、はるか昔この世界に魔法という力を生み出した伝説の神のことじゃ。三闘神は魔法の神。ということは、幻獣の作り主とも言えるわけじゃ。幻獣達は、三闘神の像を作って聖地にまつったという伝説があるが、ここがその場所なのじゃろう。三闘神は幻獣を生んだ後、戦いに疲れ、己の体を石化させて永遠の眠りについたという。その場所が、封魔壁の奥であると伝説は伝えとる」

 さらに奥へ行こうとしたとき、村に置いてきたはずのリルムが付いて来ているのを見つけた。
 ストラゴスは、眉をしかめながらも、やむなく同行を許した。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 洞窟の奥には、大勢の幻獣たちがいた。
 幻獣の視線は、入り込んだ四人に注がれ、四方囲まれてしまった。
 ティナは自ら幻獣化し、若き幻獣たちの頭目のユラと交渉した。

 ユラ「幻獣界には、こちらの世界に来てはならぬと言うおきてがあります。でも魔石化された仲間を助けるために若者達が扉の前に集結したのです。その時にティナの姿が…」
 ティナ「私も感じました。あなた達の想いが、扉の中から…」
 ユラ「ティナが扉を開けてくれた事で外に出ることができました。しかしこちらの世界に出たとたんに自分の力をコントロールできなくなってしまったのです。そのために、一つの都市をメチャメチャに破壊してしまい、罪の無い人達まで…」
 ティナ「私と同じだわ…突然手に入れた力をコントロールできなくて…」
 ストラゴス「おそらく幻獣はあちらの世界では力がある程度おさえられる傾向があるのじゃろう。それが突然開放されたために…」
 ユラ「幻獣によっては精神に失調をきたし人に危害を加える者も…本当に申し訳ない」
 ロック「帝国も幻獣達との和解を望んでいる。どうだ? 俺達と来ては」
 ユラ「……我々を、許してくれるのか?」
 ロック「ああ。…サマサの村へ行って、レオ将軍たちと合流しよう」

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 サマサの村に、シャドウを除く全員が集まった。

 ロック「レオ将軍」
 レオ「おお、ロックか。幻獣達に会えたようだな。手間をかけた。さて、私は、帝国の将軍、レオ。あなたの名前をうかがいたい」
 ユラ「私は、ユラ。我々はあなた方にとんでもない事をしてしまった。許してくれなどと言えた立場では無いかもしれないが……」
 レオ「わかっている。おかした過ちを責める気はない。逆にあなた方の戦争のための力としてしか考えてなかった自分を恥じる。魔大戦の過ちを再び引きおこうそうとしていた自分達を……」
 ユラ「そう言ってくれるとありがたい」
 「なにも言わないで」
 ロック「これで俺達の役目も終わる。本当の平和が訪れるかもしれないな」
 セリス「戻りましょう、ベクタへ」
 ロック「セリス……」
 セリス「なにも言わないで」
 リルム「おあついね…」
 ストラゴス「若さ、じゃのお」


 結局縒りを戻したロックとセリスなのでした。チャンチャン。
 前回とほぼ左右対称なだけの構図になってしまった。。背後のは、蛇括神憑分ではない。
 リルムとセットでストラゴス翁も描き込むはずだったのに、描く前に萎えた。orz
 リルムは作中10歳の幼女で、宙に敵の似顔絵を描いて、その生きてるかのような絵に敵を攻撃させる、というピクトマンサー。意訳すれば、絵描き魔導士?


 20.9.13(土)

 先々月のニュースの話。

4か月のチワワ「怖い」とけり殺す、44歳男を逮捕
>散歩中の他人の愛犬をけり殺したとして、愛知県警は15日、名古屋市千種区清住町、会社員田中善行容疑者(44)を器物損壊の疑いで現行犯逮捕し、名古屋地検に送検したと発表した。
>発表によると、田中容疑者は今月13日午後4時45分ごろ、同区覚王山通の歩道で、男性会社員(40)が連れていた飼い犬を右足でけり、死亡させた疑い。犬は生後4か月の雄のチワワで、動物病院に運ばれたが、内臓破裂のため間もなく死亡が確認された。
>田中容疑者は右足で思い切りけった後、歩いて立ち去ろうとしたが、目撃していた男性会社員(47)に取り押さえられた。調べに対し、「犬が怖かった」などと話しているという。


 このニュースの見出しが、さも意味有り気に―――4か月のチワワ「怖い」―――とある。
 どんなイヌでもネコも、たとえ手のひらサイズの小ささでも、怖いものは怖い。
 「もし争っても必ず人間が勝てるから、小型犬が怖いだなんて有り得ない。虚言に決まっている」…と思う人もいるかもしれないが、私は「有り得る」と断言する。
 そりゃあ、いざとなればねじ伏せることができても、そんな乱暴ことや殺生なことは好き好んでしたくないし、第一、先ず最初に噛まれたり引っかかれたりするのが嫌なのだ。

 こんなとき、たいていの飼い主が無神経に言う言葉―――「ウチのイヌは大丈夫」
 いや、あなたのお墨付きなど、当人にとってはなんの保証にもならないから。
 噛む“かもしれない”という予感だけで、果てしなく恐怖なのである。
 傍目には「小型犬にじゃれつかれた」だけでも、「噛まれる、襲われる! 痛いのは嫌だ!」と瞬間的に考え振り払おうとする―――それは決して異常な反応ではない。生物として当然の反応ですらある。それが足許にいたなら、足をバタバタしているうちに蹴飛ばしたり、踏んづけたり、巻き込んでしまうこともあろう。

 ただ、この44歳男が本当に「犬が怖かった」かというと、ウソだと思う。
 なぜなら、恐怖心に駆られての行為なら、もっと動揺してしかるべきだからだ。
 かなりの力を込めて右足で蹴った後、歩いて立ち去ろうとしている。
 証言が限定的だから断定までできないが、態度が落ち着いている。
 正当防衛とは言えぬ無闇な殺生は、非難されてしかるべきだろう。

 チワワの飼い主の男性に、もし非があったとすれば、
  ① リードを外している場合(本来は、自邸の庭ですら外すべきではない)
  ② 人が近づいてもリードを伸ばしっぱなしの場合
 …だと思う。
 ①は、論外。イヌの大きさにかかわらず、町を混乱に陥れる行為と言っていい。
 ②でも、充分無神経と言える。小型犬がじゃれるだけでも怖いものは怖い、というのは既に上で述べた通りだ。
 この点をキッチリしてこの事件に巻き込まれたのなら、まことに気の毒と言うしかない。

 私はイヌやネコの存在そのものが憎いわけではない。
 親戚の気心の知れたイヌなら思い切り撫でてやって可愛がる。
 それに見目愛らしいから、写真とか、遠目で見る分はいい。
 しかし、自分自身が意図せぬ接触は、御免蒙りたい
 そういう人間もいることを、動物の飼い主は知るべきだろう。


 20.9.12(金)

 PCの中にケータイの写真データがあった。
 そのうちのひとつ、数年前の城崎にて。

 ← 健忘症で自問自答という設定

 城崎に一体いつ来た 昨日? さっき?

 入選等したなら、何らかの発送をもって判明するはずなのだが。
 今日に至るまで、何のいらえも無い。

 おすすめスポット タグ 城崎


 20.9.11(木)

 先々月の話。
 デカンショ街道(国道372号線)の今田~三草間で、窓から右腕を出したパトカーとすれ違った。職務中に運転する姿勢ではないだろう、と思った。


 20.9.10(水)

 おすすめスポットを更新した。

 摂津の宝塚は、阪急電鉄の宝塚線と今津線がつながる要所で、宝塚歌劇団で有名。
 地形的には、山の渓流から平野部に現れた武庫川の扇状地
 北の山地―――長尾山系は、隣市川西の猪名川まで続き、
 西の山地―――六甲山系の余波(?)の山々が続き、最後に甲山(西宮市)で終わる。
 宝塚の山地や甲山からは、天気次第で生駒山、二上山、葛城山、金剛山まで見渡せる。

 ↑ 中央やや右の山が、生駒山。二上山は、枝が邪魔して見えない。


 摂津の多田を本拠としていた多田源氏にとって、宝塚の山奥にあった波豆(はず)庄は重要な後背地だった。源満仲の武勇伝として、普明寺の龍馬神という伝承がある。
 波豆の里は摂津多田源氏の所領で、 山の幸豊かな土地。
 多田に住まう源満仲は、いつも決まった時間に巡視の馬を走らせていた。
 その日、多田を離れ、渓流に沿って山から谷へと馬を走らせているうちに、ふと気づくと家来とはぐれ、ただ一人、山の奥深く迷い込んでしまった。やがて日が暮れ、満仲は大木の根元に馬の鞍を降ろし、野宿した。
 昼の疲れでぐっすりと寝込んでいた満仲は、 女の声で目を覚ました。
 「私はこのあたりに住む千年の齢を経た龍女でございます。あなた様は武勇の誉れ高い源満仲様とお見受けし、お願いがございます。この山の麓にある大沼に大蛇が住みついているのですが、この大蛇は獣は手あたり次第に飲み込んでしまうわ、暴れまわるわで、ホトホト困っております。どうぞ大蛇を退治していただけませぬか。そのために、どうぞ私の馬をお使い下さい」
 言い終わるや女は、姿を消した。
 跳ねおきた満仲が目を凝らして見ると、闇の中に一頭の立派な馬が立っていた。
 長い尾を持ち、二本の角を持った、宙を駆けることもできる馬だった。

 大蛇が住むという大沼の上に来た満仲は、水面を見すえ、弓を引き絞るや、沼の中央をめがけ、ヒュッと矢を放った。
 瞬間、沼がパッと赤く染まり、大木のような大蛇が、しぶきと共に舞い上がった。
 大蛇は爛々とと目を見開き、大きく裂けた口から火炎を吐いた。満仲は身をひるがえすやいなや、右の目をめがけて矢を放ち、続けざまに左の目をも射抜いた。
 満仲は、とどめに頭上をめがけて力いっぱいに太刀を振り降ろし、大蛇は断末魔の叫びをあげ、 沼の底に沈んでいった。

 源満仲は、84歳で世を去った。
 家臣たちは、主人を亡くした龍馬を、昔住んでいたといわれる多田の聖山に放った。しばらくして様子を見に来た家臣は、長い尾をなびかせ、木々の間をかけ抜けていく龍馬を見て、尾を束ね、短くしてやった。
 すると、あれほど強くすばやかった龍馬は、いとも簡単に野生の馬に食い殺されてしまった。
 家臣たちは、龍馬の亡骸を、滝の落ちる美しい場所に丁重に葬り、その場所に 塚を建て。その塚を「駒塚」と呼び、近くに落ちる滝を「駒が滝」という。

 それから500年ほどの後の世。
 波豆の普明寺の住職に、玉岩和尚という人がいた。
 ある晩のこと、異様なほどの風が吹き荒れ、寺の見回りをしていた和尚は駒塚のある山の方で、一筋の不思議な光を見た。
 和尚は光を求めて山中に入り、駒塚の前に来ると、 供養のための経を唱えた。
 すると、大粒の雨が降り始め、またたく間に大地を叩きつけるような激しい雨に変わった。
 和尚は、経を唱え続けた。すると突然、馬の嘶きにも似た落雷とともに駒塚が真っ二つに割れ、龍馬の首が飛び出したのだ。
 「この馬の首は、満仲公の武伝、大蛇退治の際の龍馬の首に相違ない。雲を呼び、嵐を起こして天に昇ろうとしたのであろう」
 …と、寺に持ち帰り丁寧に弔った。そして、龍馬の首を本堂に祀った。

 その翌年、波豆の里はひどい旱魃に見舞われた。
 「雷雨の中から飛び出した龍馬が、普明寺にある。雨乞いをしてみよう」
 …と、里人はすがる思いで普明寺に行き、雨乞いの呪文を唱えた。
 すると、たちまち雲が湧き、大粒の雨が降り出し、枯れていた田畑は潤ったのだった。
 「これぞまさしく、八大龍王の使いと言われた雨を呼ぶ 龍馬神に違いない」

 この龍馬神の霊験はあらたかで、その後、雨乞いの神事にもしばしば使われ、 近年では昭和13年と23年の旱魃にも行われ、必ず雨が降り村を救ったという。
 その雨乞いの呪文とは、トジト ソロソロ シュリシュリ スリョスリョ ナギャナン ジャバジャバ ジビジビ ジョブジョブ ……

 波豆ばかりでなく、丘から平野部にかけての中筋、山本の郷も、多田源氏の被官の領地。
 郷土史の資料によると、中筋は渡辺氏(渡辺綱で有名)、山本は坂上氏の所領だったという。
 渡辺綱(わたなべのつな)は、源頼光の四天王。鬼の腕斬りや大江山の鬼退治で名高い。
 山本には、坂上氏が祖先の坂上田村麻呂を祀った松尾神社がある。(奥州三春の田村氏も、坂上田村麻呂の子孫を自称する。坂上田村麻呂も伝説が多くある)
 この社を創建したのが、浦辺太郎坂上季猛(うらべたろう さかうえのすえたけ?)。
 もし、浦辺太郎坂上季猛が卜部季武(うらべのすえたけ)と同一人物だとするなら、山本もまた源頼光の四天王の治めた郷ということになる。
 もっとも、伝説は飽くまで伝説であって、荒唐無稽なフィクションも多いのだが、それだけに話が面白く、そしてそういう伝説のモデルとなった人物が同じ摂津の平野に住んでいた事実が、いっそう面白い。

 丹波の柏原は、多紀郡の篠山の北西の盆地で、氷上郡に属し、「かいばら」と読む。
 柏原の字は他にも多くの読み方があり、かしわら、かしはら、かしわばら…とややこしい。
 有名なところでは、大阪府の柏原市の柏原(かしわら)が知られ、その大阪府柏原市の15kmほど東の奈良県橿原市の橿原が「かしはら」なのだから、ごっちゃにするな、と言う方が無茶。
 なお、丹波の柏原は、昔は「栢原」の字を書いた。柏も栢も、「かしわ」の意味は同じ。

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 20.9.9(火)

 日中は冷房ガンガンの生活の中、健康に留意するには…発汗機能を休ませないことが大事。

 帰宅してから23時頃にお風呂に入るまで、エアコンや扇風機は一切つけない
 水やお茶を飲むも良し、パンツ一丁になるも良し、ほとんどサウナ状態。
 本当のサウナなら、90℃もあれば15分くらいしか持たないが、タダサウナはせいぜい35℃程度なので、その気になれば何時間でも持つのだ。
 23時になれば、部屋のエアコンを入れてから、お風呂で汗を流す。
 もちろん、23時から電気代が安くなることも考慮している。
 風呂あがり…エアコンが29~28℃の設定でも、極楽かと思うほど涼しい。
 なお、この夏の夜、市販のアイスの類は食べていない
 暑いときは、普通の製氷機の氷をほおばる。なに、味がないだけだ。
 これに慣れると、アイスを買うのがアホらしくなる。

 体は暑さに慣れ、電気代も安上がり。アイス代も丸々浮く。我ながら素晴らしい一石三鳥。


 20.9.8(月)

 先々月、多可郡多可町の喫茶兼洋食屋の古時計へ行ったときの帰り道の話。

 古時計の近くのAコープ(←ちょっとFSS思い出した)の駐車場には焼き鳥屋があり、その焼き鳥屋が鶏肉(脂身の使わない部分?)を駐車場の隅に放り出していた。(常のことだろう)
 たちまちトンビ勢力カラス勢力が召集をかけ、交互に舞い降り、死肉をむさぼった。
 そして、それをネコ勢力が虎視眈々と狙っていた。う~む、鶏肉三国志

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 20.9.7(日)

 トンビとカラスは、空の覇権を争っている。


 20.9.6(土)

 F.F.6のセリス(大三角島突き放され時)を落書きしてみた。
 日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9、日記⑩8/30参照。

 朝、準備万端整った一行は、大三角島へ出航した。
 航海は順調に進み、夜―――。

 レオ「寝つけないのか? 感情が戻ったそうだな…」
 ティナ「……不思議なものね。帝国に利用され、思考までをもコントロールされていた私が、こうしてまた帝国の人間とともに行動しているなんて」
 レオ「帝国の人間とて、同じ人間。全てがケフカのようなヤツばかりではない」
 ティナ「あなたは……どうなの?」
 レオ「お前が幻獣とのハーフであり魔導の実験台として苦しめられているのを知りながら…それを止められなかった俺も、ケフカと同罪さ…」
 ティナ「幻獣と人間が愛し合えるのなら…その子である私と人間とは…愛し合えるのかしら?」
 レオ「もちろんだとも」
 ティナ「でも…私はまだ愛という感情を知らない」
 レオ「お前はまだ若い。……いずれ、わかるようになる」

 レオ将軍は、ティナの肩をたたき、部屋に下がった。

 ティナ「でも…。私は、今知りたい……。…誰!?」
 シャドウ「星を見ながら寝ようと思ってな」
 ティナ「今の話……聞いていたの?」
 シャドウ「聞くつもりはなかった」
 ティナ「あの…」
 シャドウ「俺は、何も教えてやれん。答えは自分で見つけるものだ。ティナ、世の中には、自ら感情を捨てて生きようとする人間もいるのだ。それを、忘れるな」

   バタン

 ロック「うぅ、ぐるぢひ~……ウッ」
   ゲパァーーーッ!
 ロック「なんてこったい…世界一のトレジャーハンターともあろうものが……ウッ」

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 明朝―――。
 「あの、私……」
 レオ「もうすぐ大三角島だ。上陸したら二手に別れよう。私とセリスが組むから、ティナはロックとシャドウと組んでくれ。幻獣の手がかりを見つける事ができたなら、すぐ報告をするように。…ティナ、昨日の話の続きは、また再会の時に…」
 ロック「俺達も行くか」
 セリス「あ、ロック…あの、私……」
 ロック「ティナ、シャドウ、行くぞ」

 セリスは言葉を失って崩れ落ちた。ティナは途惑うばかりだった。


 波のように寄せては引き…。おそるべしロックの駆け引き(?)。
 毎回セリスの表情が異なるのは、気のせい。いや、気のせいではない。
 セリスに対する解釈を毎回変えているから。いや、ちょっとそれらしく言ってしまった。うそ。
 実際は、浮野の落書きなんざ所詮その程度、というだけの話である。orz


 20.9.5(金)

 一たび外出すると23%くらいの確率で社会の窓が開いている自分に絶望する。


 20.9.4(木)

 昨夏、和歌山へ行ったときの話。
 和歌山城の石碑のひとつに、童謡(?)の詩が書かれたものがあった。↓

 相方に「アレ、何て書いてあるの?」と言ったら、三秒ほど眺めた後、ウッと手を口に当てて、口をつぐんだ。
 「どうしたん? 何て書いてあるん?」
 「てんてん手鞠は、殿さまに……」
 「ふ~ん。で、なんでスグ言えなかったん? 最初、何て思ったん?」
 「……」
 「なーなー、何て思ったん?」
 「もー!」   バシッ

 しまった、ほとんどセクハラだったか。しつこすぎたようだ。
 本題のこの詩は、「♪ てんてん手鞠(てんまり) てん手鞠(てまり)♪」という出だしの鞠と殿さま
 手鞠がポーンと飛んでって、紀州の殿さまの籠の上に乗って東海道を旅し、紀の国へ行った―――という内容。ぶっちゃけて言えば、手鞠の大冒険

 ところかわって、根来寺(ねごろじ)。
 根来寺の駐車場には、にゃんこがたくさん住みついて、車の周りをニャーニャーたむろ。
 あるにゃんこは、先代レガシィのホイールハウスの中に立って、ガリガリ。爪とぎ。

 あ~あ、私は知らないっと。車を出すときは、下を確認して轢かないようにしないと。。

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 20.9.3(水)

 蚊に刺された場合に最も有効な対処は、掻かない(刺激しない)こと。


 20.9.2(火)

 PCの奥にあった古い落書きを見つけた。
 日付けは2001年3月、データ名は「ちょい描き」(←?)。
 たぶん水性ボールペンの落書きをスキャナーで取り込み後、フォトショで色塗り。


 使用ソフトは、今もこのときもずっと一緒。
 スキャナーか何かに添付してた、フォトショップ5.0 リミテッドエディション(機能制限版)。
 この頃は、髪の表現に一番苦労してた。今もなお課題だけど。


 20.9/1(月)

 先々月のニュースの話。

遅刻83人にゲンコツ、宇和島の中学教諭…行き過ぎと謝罪
>愛媛県宇和島市の市立中学校の男性教諭(41)が、学年集会に遅刻した2年生の男女83人全員の頭をゲンコツで殴っていたことがわかった。うち生徒7人の頭にコブができ、男性教諭は「行き過ぎた指導だった」と、保護者らに謝罪したという。
>学校側によると、男性教諭は今月3日、2年生の生活態度について指導するための学年集会で、生徒が集合時間に7分遅れたことに腹を立て、全員を正座させたうえ、一人ずつ順番に殴ったという。ほかの教諭6人が制止しようとしたが、止められなかったという。
>同中学の校長は「情熱的な指導の教諭だが、生徒に痛い思いをさせてしまい申し訳ない。再発防止に努めたい」と話している。


 笑ってしまった。
 学年集会―――団体行動は時間厳守、常に5分前に行動して然るべきを、7分遅れ。
 頭にコブくらいは、常識一つ学んだ代償として、ちょうど見合うのではないか。
 生徒に痛い思い…再発防止…、これは生徒の少しの意識付けで、完全に解決ですね、ハイ。


 20.8/31(日)

 PCから、普段はしない変な音が出てる。orz
 ハードディスクかな? まだ丸二年なのに。。


 20.8.30(土)

 F.F.6のセリス(アウブルク再会時)を落書きしてみた。
 日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9参照。

 リターナー一行は、ティナの眠るゾゾに集まった。
 そして、ロックたちが持ち帰った魔石のひとつに反応に、目覚めた。
 ティナ「お父…さん…? 思い出したわ。私は幻獣界で育った」

 ティナの父は幻獣のマディン。
 かつてマディンは、幻獣界の入口付近に倒れていた人間の女・マドリーヌを助けた。
 人間と幻獣は相いれない生き物―――そういわれる中、二人は惹かれあい、結ばれた。
 その愛の結晶が、ティナだったのだ。

 二年後、幻獣界に再び人間が訪れた。魔導の力を狙うガストラ皇帝とその軍隊だった。
 幻獣たちはガストラの侵入を防ぐため、一切の異物を追い出すという封魔壁を発動させた。
 しかし、侵入者ばかりか赤ん坊のティナが放り出され、それを追ってマドリーヌも幻獣界を飛び出した。
 幻獣界から排除されたガストラ皇帝であったが、マドリーヌの腕に抱かれた赤子が幻獣との混血であることを察し、マドリーヌを殺してティナを奪った。そして、ティナは生来魔法の使える魔導戦士として、ガストラ帝国の洗脳を受けて育ったのだった。

 ティナは自分の出生をはっきりと悟り、幻獣としての力を制御できるようになった。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 一行は、ナルシェに置かれていたリターナーの本部に戻った。
 ナルシェとフィガロの連合だけではガストラ帝国に抗し得ないと結論したリターナーは、幻獣の力を借りることを発案した。

 バナン「帝国の東にある封魔壁を開き、幻獣達がそこから帝国に攻撃をしかけるのと同時に、我々が北から攻める。そのためには、幻獣を説得しなければならん。…幻獣と人間の間にもう一度、絆をつくる…。その役目ができるのは―――」
 ティナ「人と幻獣…相いれぬものならば、私は生まれなかった……。 私がやる、私にしかできない!」

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 飛空挺で帝国の東の峻険な山に辿り着いたティナたちは、溶岩の煮えたぎる長い洞窟を抜け、封魔壁の前に立った。

   ヒーーーッヒッヒッヒ!

 なんとしたことか、ケフカにつけられていた。

 ケフカ「ガストラ皇帝のおっしゃっていた通りだ! ティナを帝国に刃向かう者に渡し、泳がせれば封魔壁を必ず開く…。つまり、我々の手の内で踊っていたに過ぎないのだよ!」
 ティナ「幻獣たちよ…私を受け入れて……」

   ゴゴゴゴゴゴ…

 幻獣の群れは封魔壁を開き、猛り狂って帝国を襲った。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 帝国の首都ベクタは幻獣の襲撃を受け、炎上していた。
 戦意を喪失したガストラ皇帝にシド博士が説得を試み、リターナーとの和平会談が催された。
 長い会談の末、皇帝が戦いの終わりを誓うと同時に、幻獣たちが飛び去ったという大三角島へ、幻獣の血を引くティナが和解しに行くこととなった。
 帝国の魔導士・ケフカは、ドマ国攻略時に毒を用いた罪で、牢獄に入れられていた…。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 大三角島の幻獣との説得のため、リターナーからティナとロックが選ばれ、港町アルブルクに向かった。
 帝国から出された人員は、人格者で知られるレオ将軍と―――。
 「………」
 レオ「私と同行するのは帝国の将軍一人と、街で雇った男一人だ。紹介しよう、セリス将軍とシャドウだ」
 ロック「!」
 レオ「どうかしたのか?」
 ロック「いえ…」
 レオ「さて、出港は明日だ。宿の手配はしているから、今日はゆっくり休んでくれ」

 ティナ「セリス……」
 セリス「……」

 ロックはセリスに話し掛けようとしたが、セリスはその場を早足で立ち去った。

△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 深夜、宿屋から出る影があった。港町の石畳に、ふたつの影が映った。

 ロック「セリス…。どうして、どうして何も話してくれない? 少しでも…疑ってしまって…。だが、まだ仲間として…」

 セリスは目をそらし、背を向けた。。

 ロック「セリス!」

 一瞬瞳を閉じたセリスは、何も言わず去った。


 考証はしてないので、レオ将軍とシャドウは、ゲーム画面のドット絵を思い出して描いた。
 レオ将軍の服はローブっぽいのかな。やはりあの髪型はモヒカンにしか見えない。
 それにしても、セリスはなんてけしからんコスチュームなのだ。うむ、けしからん。
 相変わらず、野郎は描く気が起こらない…。その分、 セリスの臀部に情熱の八割をそs
 

 20.8.29(金)

 フィギュアスケートに使用されたことで一躍有名になったユー レイズ ミー アップは、もともとロンドンデリーの歌という民謡だそうだ。日記① H19.7/19参照。
 確かに、ほとんど一緒……僅かに編曲した程度。

 【試聴】ロンドンデリーの歌(Londonderry Air) 怨霊注意

 ついでに、英語の歌詞をヤフーので翻訳してみた。
 なにせ、私の英語力は0なのだ。日記③ H19.12/27参照。

 私がひねくれた大枝Toから優しいリンゴ花Thatフロートと滝であった神が、あって、そして、それとしてのあなたの絹の胸が現在するあなたの絹の胸Withinの中で気絶します。
 あるいは、私は少しのburnish'dリンゴForでした、あなたが芝生のローブを着させる太陽と陰が芝生のYourローブをまだらにするように冷たいWhileとあなたによって髪の引き伸ばした金をすべらせて、私を選び出すあなた。

 然り‖私がThatがあなたが芽が開ける最も低い枝の上でWhileの間で浮いて、あなたにキスするためにたてかけるバラの内の一った神に、A芽は、あなたに触れるために、女王を開けます。
 あなたが好きでない時から否、私はA幸せなヒナギクを栽培していました、あなたの銀の足が私を押すかもしれないように、庭園の経路Thatにおいて、行っているMightは死にさえ行って私を押します。


 なんという電波な恋歌(?)であることか。


 20.8.28(木)

 おすすめスポットをアップした。
 播磨の小野&加西&多可郡、摂津の伊丹。日記⑨ 8/12参照。
 まあ、なんというか……本当に、播州が庭って感じだ。。
 イチオシは、長明寺。源頼政の鵺退治。ここの鵺の像の躍動感が大好き。

 あわせて20件消化したのだが、新たなスポット用の写真を21件編集し終えた。
 なかなか減らない…。orz

 次の紀行は、但馬の方。こまめに書いておこう。
 ちなみに、私はおすすめスポットや長文を書くときは、PCのメモ帳を使う。
 wordなどは、機能過剰だ。フォントもへったくれもなく、とにかく書く。
 ふと思いついたことがあれば、ケータイにメモる。
 場合によっては、それを自宅のPCに送信後、PCのメモ帳に転記。
 だいたい書きたいことをメモ帳に書き出したと思ったら、あとは推敲。
 ボチボチできたところで、アップする。
 でも実際は誤植が多いので、アップ後に通読して校正してる。(:;)

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 20.8.27(水)

 何年も前の話。
 ラジオで流れてた歌の歌詞に、

   外国で飛行機が墜ち
   アナウンサーは嬉しそうに
   「乗客に日本人はいませんでした」と言いました


 って意味のがあった。
 しかしこれは、日本人の安否の報道の意味を取り違えている。

 日本のどの世帯に、その地へ家族が行っているという世帯があるかもしれない。
 そういう残された家族は、直接連絡がとられない限り、この手の報道でしか旅先の家族の安否を知り得ない。
 「乗客に日本人はいませんでした」の報に、家族は無事だったと安堵し、また、
 「名簿にはウキノウキオという日本人名が…」の報に、浮野一家は覚悟を決める。

 日本の家族の単位を重視している(心当たりのある家族のため)とは言えようが、
 日本人と他国人の命の軽重の問題ではない。
 わざわざこういう意味に捉える作詞者を、哀れに思った。


 20.8.26(火)

 何年も前の話。
 ラジオで流れてた歌の歌詞に、

   何十年 何百年 何千年 何万年 何億年 何光年

 ってのがあった。
 しかし、「光年」だけは、時間ではなく距離の単位なのだが。。


 20.8.25(月)

 カマキリだ、と思ったら大阪ガスだった。


 20.8.24(日)

 以前、志方から姫路方面を周ったときの話。日記⑧ 7/13参照。
 志方(しかた)と平荘(へいそう)の間に、投松という地名があった。
 読みは、「ねじまつ」。妙に印象に残った。

 後日、相方の情報が入った。(情報源は、たいてい神戸新聞の地方欄らしい)
 内容は、投松の地名の由来。ずばり、

 一乗寺から法道仙人が放り投げた枝が松になった―――という伝説。

 法道仙人とは、天竺から紫雲に乗ってやって来た仙人
 もちろん、実在性は限りなくあやしい。これが播州では幅を利かせていて、法道仙人がひらいたと伝わる寺が播州中にあるのだ。
 私が行った中で思い出せるだけでも、これだけある。↓
  花山院(兵庫県三田市):西国三十三番の番外、日記⑨ 8/3参照
  光明寺(兵庫県加東市):足利尊氏・直義兄弟の対峙した古戦場 
  播州清水寺(兵庫県加東市):西国三十三番の第二十五番、日記⑦ 5/10参照
  一乗寺(兵庫県加西市):西国三十三番の第二十六番


 摂播には、聖徳太子伝説や行基伝説が多いから、これくらい突き抜けた人物(仙人)が加わっても別に不都合はないかもしれない。心おおらかでありたいものだ。


 20.8.23(土)

 何ヶ月も前の話。
 私学のやんちゃそうな小学生の男の子が、同じ学校の女の子に向かって叫んだ。

 「 お ま え の お っ ぱ い 、 何 セ ン チ ー ー ! ? 」

 素直に聞ける素晴らしさ―――ああ、うらやましいな、と思った。


 20.8.22(金)

 相方が、前を走る車を見て、
 「なんであんな取っ手つけてるんやろ?」

 どうやら、リアウイングのことを言っているらしい。
 「ヒョイって、持ち上げられそうやなぁ」
 まだ言っている。 

 「それがカッコイイ思て付けてる人もいはるんやから、あんまりそんなこと言わない」
 …と無難に返答したが、内心は、自由な発想に舌を巻いてたりする。日記② H19.10/20参照。


 20.8.21(木)

 オニバスとオムニバスは、字面が似ている。


 20.8.20(水)

 先々月下旬の話。
 京都の松尾大社、八坂神社、京都国立近代美術館(ルノワール+ルノワール展)、平安神宮、金戒光明寺、会津墓地へ行った。

 松尾大社は、京都盆地の西の山のふもとにあり、オオヤマクイとナカツシマヒメを祀り、大神神社(8/18参照)とともにお酒を司る神社として有名。
 オオヤマクイは、スサノオの子のオオトシ(大歳/大年神社に祀られる)の子で、古事記に「近淡海の国の日枝の山に坐して、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用いる神」とある。
 鳴鏑を用いる神―――。
 賀茂神社にまつわる話で、こういうのがある。日記⑤ 3/31参照。
 カモタケツノミの娘のタマヨリビメが川遊びの最中に流れてきた丹塗りの矢(丹は、丹生。つまり、朱。朱塗りの矢)を拾い持ち帰り、そばに置いて寝ると、なんと懐妊してしまった。子はのちのカモワケイカヅチ、上賀茂神社の祭神である。
 また、日向から大和の東征に成功したカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の妃のイスケヨリヒメが神の子である由来として、こんな話がある。
 三島(茨木周辺)のセヤダタラヒメは、姿かたちのうるわしい乙女だった。
 その乙女を、三輪山のオオモノヌシが一目惚れしてしまった。
 美しいセヤダタラヒメが厠に入ったとき、オオモノヌシは丹塗りの矢に姿を変え、厠に伝わる溝を走り、まさに大便をしようする乙女のホトに突き刺さった。
 慌てふためいた乙女は落ち着きを取り戻し、矢を持ち帰って床のそばに置くと、矢はうるわしい男の姿となって、二人は契りを交わした。そして生まれた子が、ホトタタライススキヒメ。
 しかしヒメは、名にホトとつくのを嫌がって、ヒメタタライスケヨリヒメと名を改めた。

 丹塗りの矢の話は、“神が人間の娘に子を孕ます”というひとつの類型だが、オオヤマクイも同類の話があるのだろうか。
 ナカツシマヒメとは、社伝によればイチキシマヒメの別名らしい。
 イチキシマヒメは、タキツ、タギリとともに宗像三女神の一で、海上の安全を司る。
 言い忘れていたが、松尾大社の松尾は「まつのお」を読む。


 八坂神社は、スサノオを祀る神社であり、そのスサノオに習合される前の神の姿―――牛頭天王(ごずてんのう、祇園精舎の守護神、疫除の神)から祇園さんとも呼ばれる。
 蘇民将来の話にちなんだ疫除の八角木守を販売しているが、牛頭天王の信仰については、先ず播州の廣峯神社から分祀されたのだろう。日記⑧ 7/13参照。

 京都国立近代美術館で開催されていたルノワール+ルノワール展を見た。
 画家の父が描いたモチーフを、映画監督の息子が映画の場面々々で採り入れていたとか。
 まあ、オマージュというやつだろうが、親子だからこそ可能なことかもしれない。
 ルノワール(父)のブランコに乗った女性の画をモデルにしたリカちゃんが販売されていた…。

 京都国立近代美術館の最上階(?)から、東の方面がよく見えた。
 平安神宮の鳥居と、その左遠方の丘に黒谷の金戒光明寺が見える。


 平安神宮は、平安京を拓いた桓武天皇と平安京最後の孝明天皇を祀る。
 維新後に明治政府によって大規模につくられた神社のひとつで、個人的には惹かれるものはない。(他に、橿原神宮など)
 平安神宮は、時代祭で有名で、京都の三大祭として他に賀茂神社の葵祭(賀茂神社の紋は、立葵)、八坂神社の祇園祭がある。
 時代祭は、室町時代の行列は吉野時代(楠公その他)のみで、室町幕府関連の行列が加えられたのは昨年のことである。どうせ、足利は逆賊だから、という発想だろうが、料簡の狭いことこの上ない。

 金戒光明寺は、「こんかいこうみょうじ」と読む。
 浄土宗の大本山であるが、歴史の表舞台に出てくるのは、幕末のことである。
 京都の治安は急激に悪化していた。
 尊皇や攘夷、倒幕を叫ぶ者どもが、見境なく強盗や殺人などのテロルを起こしていたからだ。
 この現実を前に京都町奉行は無力であり、幕府は京都守護職という新たな役職を設け、会津松平家の松平容保(かたもり)に就任を強く請うた。既にこのとき、さらに二つの職を設けられており、政治総裁職に福井藩主・松平春嶽、将軍後見職に一橋慶喜が就いていた。
 容保は、断固辞退した。会津藩は、それ以前に浦賀や蝦夷地の警備にあたり、既に財政は逼迫していたのだ。
 幕府は、奥の手を出した。「確か、尊藩には―――」
 結局、容保は請けた。

 会津藩は、二代将軍・徳川秀忠の隠し子の保科正之を藩祖とする。
 会津藩とはいかなる藩、保科正之とはいかなる人物だったのか―――。
 北条牢人の娘のしずは器量が良く、江戸城に上がり、そこで秀忠の手がついた。
 しかし、秀忠の妻のお江与は嫉妬深く、将軍の子を懐妊したしずは江戸城を離れることを余儀なくされた。
 しずは見性院(武田信玄の娘、元は木曽氏の妻)と信松院(武田信玄の娘、元は織田信忠の許嫁の松姫、日記① H19.7/8参照)の庇護を受け、江戸の外れで男子を産んだ。幸松、のちの正之である。
 お江与は夫の隠し子の存在を知り、人を遣って見性院を詰ったが、「いずれは幸松にわが禄を譲り武田の家を継がせるつもりなれば、口出し無用」と反論した。こうして武田の幸松として成長していったが、6歳あたりの頃、信州高遠藩の保科正光の養子となり、母のしずとともに高遠へ移った。
 保科氏は信州の豪族で、祖父の保科正俊は武田信玄の被官となり、槍弾正として名を馳せた。また高遠は、甲州武田氏滅亡の折、仁科盛信(武田信玄の子、当時は松姫の保護者)が織田信忠の大軍に対し一戦して討死にした、奇縁の地であった。
 以後、幸松は高遠の山野で育ち、成人し、高遠藩を継いだ。そして、異母兄の三代将軍・徳川家光に見出され、国政にも携わり、四代将軍・徳川家綱に忠実に仕え、江戸前期の安定した時代をもたらした。
 この間領国は、高遠から山形を経て会津に移った。表高23万石、実質28万石。御三家に続く第四の家格であった。
 将軍は正之に松平姓に戻すよう告げたが、正之は養父の保科正光の義理から生涯保科姓を通した。会津の保科氏が松平姓を名乗るのは、三代藩主・正容(正之の子)からである。
 なお、高遠の保科氏は将軍の子に藩を譲ることで元の保科の血脈を断つこととなったが、保科家を継いだ正之の尽力により、保科正光の弟の血筋が上総飯野藩として幕末まで続いた。上総飯野藩出身の照姫(松平容保の義姉)は、会津藩の危機に際して会津入りし、籠城の辛苦を分かち合った。また同藩から非公式に数十人の藩士が会津藩へ助太刀した。
 保科正之はその晩年に十五箇条の家訓(かきん)を書き定めた。その第一条に曰く、
 「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」
 (将軍家への忠勤は、他藩の例をもって満足してはならない。もし将軍家に背く藩主があらわれたなら、それはわが子孫ではないから、家臣たちは決して従ってはならない)
 将軍の血を受け継ぐ正之は、一にも二にも、真っ先に壮絶なほどの佐幕の魂を謳ったのだった―――。

 政治総裁職の松平春嶽は、奥の手を出した。
 「会津藩には家訓があるそうな、小生泣いて申し上げる。台徳院さま(徳川秀忠、保科正之の父)、土津公(はにつこう、藩祖・保科正之の神号)がご存命であれば、必ずや京都守護職を受けられたであろうに」
 途端、容保の顔がゆがんだ。
 京都守護職要請の話を聞きつけた会津藩の家老・西郷頼母(たのも、柔道家の西郷四郎の養父)が、国許から江戸へ駆けつけた。
 「殿、なりませぬぞ! 薪を背負うて火中に入るようなものでござる!」
 頼母は口やかましく主の容保を諌めたが、容保は首を振った。
 「もはや議論は無用、宗家に殉ずるのみなのだ」

 松平容保は、会津藩兵一千名を率いて京都に入った。
 ひたすら将軍家のためにと保科正之が育んだ芸術的藩風…武を練りに練った親藩中第一の精兵たちは、黒谷の金戒光明寺を本陣とした。
 京都守護職として京都入りした容保は、言路洞開の方針を打ち出した。
 「言い分を訊いてやりさえすれば、わかりあえることもあろう」
 手ぬるい、という批判を抑えての対談路線であったが、慄然とするような血みどろのテロルがやむことはなく、容保は深刻な現実を思い知らされた。
 会津藩は壬生浪士組(のちの新撰組)や京都見廻組を配下におき、倒幕を企てる者どもを徹底的に取り締まった。

 会津藩には藩を挙げての軍事操練「追鳥狩」の伝統があるが、あるとき、孝明天皇は会津藩の馬揃えを見たいと言い出した。
 雨の降る夕方、御所の建春門前にて操練が行われた。日が没しても、篝火を焚いて続けられた。
 孝明天皇は御簾のうちより眺め、たいそう満足し、後日もう一度見たいとのたまった。
 数日後の早朝、二度目の操練が行われた。一度目は発砲を許可されなかったが、今度は空砲が許された。
 容保の采で法螺や鉦が鳴り、藩兵は整然と隊を組み、鯨波をあげ、鉄砲を打ち出し、斬り込みに移る。
 昼食をはさみ午後からもまた操練が続き、容保は先日の初参内時に賜った緋の袙(あこめ、中着)を陣羽織に仕立て直し、再登場した。(このときの陣羽織を着用した写真は有名)
 一千名が二手に分かれての模擬戦に、孝明天皇は興奮し、喜び、容保と会津藩兵の練武を愛でた。

 こうして孝明天皇の信任を得た松平容保は、幾多の政変を通じて、倒幕を目論む長州藩勢力の京都からの排除に成功した。
 松平容保は、数年の短い交流の中で、孝明天皇から宸翰(しんかん、天皇直筆の手紙)をいくつか戴いている。
 「(中略)暴論をつらね、不正の処置増長につき、心痛耐え難く、内命を下せしところ、すみやかに承知し、心配と悩みを払いのけ、朕の存念貫徹の役、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也」
 「たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこひてよめる(以下、和歌二首)
  和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄えん
  武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて」
 これらの宸翰はみな、会津藩が京都に入るまでの苦悩と、容保に対する絶対的な信頼があふれている。
 会津藩はまさに、王城の護衛者たるにふさわしかったのだ。
 しかし、その栄光も、孝明天皇の崩御とともに不吉の気配に呑み込まれてゆくのであった―――。

 …。いやはや、話を広げすぎて、収拾がつかなくなるところだった。
 このあたりは、司馬遼太郎の「王城の護衛者」(会津松平家というのは、ほんのかりそめの恋から出発している―――の冒頭が素敵)や会津作家(?)の中村彰彦の著作に詳しいので、関心のある方は一読されたい。

 金戒光明寺の三重塔周辺から西を眺める。中央奥の森が、御所。
 容保公は、ラブラブな帝をここから見守っていた!?

 会津墓地は、金戒光明寺の背後の丘の上にある。
 京都の治安回復にあたる会津藩士は原則一千名で、一年交代で国許の藩士と入れ替えていた。だから、その交代期は一瞬だけ二千名となり、この人数を圧力に政変を有利に進めたことがある。
 ともかく、会津藩の犠牲は大きく、その犠牲者は在京の足掛け六ヵ年で、二百三十七霊。病死も多かったのだろう。鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊も合祀される。
 会津墓地の会津藩たる特徴は、その墓石の七割方に「○○霊神」と彫られていること。
 会津藩祖・保科正之は、朱子学と神道に傾倒しており、自ら土津霊神(はにつれいしん)の神号を定め、磐梯山のふもとに葬られることを望んだ。
 ゆえに、会津藩の歴代藩主に戒名はなく、○○霊神の号で祀られている。
 むろん、容保公も例外ではなく、その号を忠誠霊神(まさねれいしん)という。
 この墓地を見て周る間に、二ヶ所蚊に刺された。
 入って左手の慰霊碑には、会津名産の絵蝋燭が残されていた。

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 20.8.19(火)

 アシナガバチの顎は、ビニール袋を噛み切る。


 20.8.18(月)

 先々月下旬の話。
 摂津三田の三輪神社、三輪明神窯、三田城、心月院等と、蛍池の麻田藩陣屋跡へ行った。

 三輪神社は、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の分社で、大神神社と同じくオオモノヌシを祀る。日記② 19.11/5、日記③ H19.12/11 12/22、日記⑨ H20.7/29 参照。
 オオナムヂがオオクニヌシとなり、葦原中つ国の国造りをはじめた頃、出雲の美保関に蛾の衣を纏ったちいさい神が舟に乗ってやってきた。が、誰もその神を知らない。
 タニグク(蟇蛙)「クエビコなら知っているはず」
 そこでクエビコに尋ねると、
 クエビコ「その方は、カミムスヒの子のスクナビコナです」
 クエビコとは、すなわち山田のカカシのこと。
 それからオオクニヌシとスクナビコナの国造りが進んだが、あるときスクナビコナはフッと常世の国へ消えてしまった。
 オオクニヌシ「私一人で、これからどうして国造りができるのか」
 嘆き悲しんでいると、海の向こうから光り輝く神がやってきた。
 「われの前をよく治め祀るならば、われがともに国造りを成そう」
 オオクニヌシ「どう治め祀れば良いのか」
 「ヤマトの青々とした青垣の東の山の上に祀れ」

 オオモノヌシとは、オオクニヌシ自身の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であるらしい。
 幸魂・奇魂、あるいは合わせて和魂(にぎみたま)といい、荒魂(あらみたま)と対になるもの。私もよくわかっていないのだが、ひとつの人格(神格)のうちの光と影みたいなモンだろうか。
 また、三輪山に祀られたオオモノヌシは、蛇の姿をしているといわれ、親しみを込めて巳さん(みぃさん)とも呼ばれる。
 大神神社には、社や祠があるたびにお酒と玉子が供えられている(前者は大神神社と松尾大社がお酒を司ること、後者は三輪の神が巳であることによる)が、この三田の三輪神社は「動物が汚すので玉子を供えないでください」と張り紙が出されていた…。

 三輪明神窯は、三輪神社の裏山にある窯跡。磁器を焼いていた。
 焼き物(陶磁器)は、ざっと陶器と磁器にわかれる。

 とう‐き【陶器】
 陶磁器のうち、素地(きじ)の焼き締まりが中程度で吸水性があり、釉(うわぐすり)を施した非透光性のもの。土器よりもかたいが、磁器にくらべてやわらかい。

 じ‐き【磁器】
 素地(きじ)のガラス質が磁化して半透明となり、吸水性のない硬質の焼き物。陶器より高火度で焼かれ、たたくと金属的な音がする。中国で創製され、日本では江戸初期の有田焼に始まる。


 要するに、陶器は土をこねて焼き、吸水性がある。
 磁器はガラス質の石を砕いて混ぜて焼き、吸水性がなく、薄く、硬い。
 磁器の原料の石を磁石(じせき)というが、磁石(じしゃく)や磁力とは関係ない。
 陶器と磁器を比較すれば、磁器の方が原料が限定され、数が少なく珍しい。高価でもある。
 司馬遼太郎の街道をゆく(南伊予・西土佐の道)にあった話だが、江戸中期の大洲藩主の加藤某が「わが藩は砥石しか採れぬ。なんとか砥石の削り屑から磁器がつくれぬものか」と考え、家臣の一人に相談した。その家臣は在郷の砥石業者の杉野丈助に命じた。
 杉野丈助は諸藩を周って陶工を呼び、砥石の削り屑から磁器づくりを試みたがうまくいかなかった。それからも丈助は駆け回り、なんとか磁器をつくった。さらに丈助は、大洲藩内を踏破し、釉薬・磁石などの原料を、すべて藩内で調達する道筋をつけた。
 これが砥部焼の発祥。結局、砥石の削り屑は使えなかった、とのこと。
 …話が飛んでしまったが、江戸期の藩にとって、高価な磁器づくりはそれほど魅力的だったということ。然るに、この三輪明神窯は三田藩の保護を受けず、民間の力でやってきたそうだ。

 三田城は、三田藩の城。今は、小学校と高校の敷地になっている。
 もとは車瀬城といい、武庫川近くのなだらかな丘陵につくられた城。
 山からそのまま連なり川に突き出た丘陵につくられた城(三木城、淡河城など)とは異なり、川のそばの独立した小さな丘の城だから、険阻さはない。
 荒木村重の叛乱のときは、一族の荒木某が入っていて、以後は、山崎氏、有馬氏と移って、有馬氏が久留米に移封され、松平氏を挟んだのち、九鬼氏が入封した。
 九鬼氏は志摩の海賊大名で、織田信長の傘下に入り、石山合戦において本願寺方の毛利水軍を破って名を馳せた。
 戦国から関ヶ原の合戦にかけて生きた嘉隆・守隆父子は、鳥羽藩5万6,000石を守っていたが、守隆の息子たちに家督争いが起こった。もちろん、御家騒動は天下の御法度。志摩の鳥羽藩は、摂津の三田藩3万6,000石、丹波の綾部藩2万石に分封されたのだった。
 三田、綾部は、ともに山国。海がない。ふたつに分かれ累代の志摩を喪った九鬼家は、まさに陸に上がった河童となった。

 三輪明神窯のオッチャンに聞いた話だが、三田藩の表高は3万6,000石だったけれども、実質は2万5,000石しか米が取れなかったらしい。つまり、元の石高で二分されただけでなく事実上の減封であり、幕府による懲罰だったというのだ。
 そのため、三田藩の財政は、ほぼ一貫して苦しかったようだ。
 三田城には大きな池――三田御池――があるが、三田藩士が海恋しさに船を浮かべ水練した…と伝わる。こんなに滑稽で切ない話もあるまい。

 心月院は、三田城の西の小さな丘にあり、三田藩主の九鬼家の菩提寺。
 代々藩主の墓の他、白洲次郎で有名な白洲家一族の墓もある。白洲次郎の祖父が三田藩士だったゆえであるが、次郎自身は一度も三田に来たことがないそうだ。

 麻田藩陣屋は、阪急蛍池駅の西側にあった麻田藩の陣屋。
 三輪明神窯のオッチャンに聞いた話の中で、「向こうの高平はアサダ藩の飛び地でね~」と出てきたので、気になって調べたのだった。(私を“歴史の話が通じる人”と思ったらしく、マシンガンのように話しかけてきて、だんだん内容が郷土限定ネタになってきて、結局一時間ほど話し込んだ。中盤以降は、ついていくので必死だった…)
 高平とは、三田市北部の山間部の盆地のひとつ。高売布神社がある。
 アサダとは「浅田」なのか、それとも「浅野」の聞き違えか、と思ったら、「麻田」だった。
 
 ……。………。資料が見つからへ~ん!(泣)

 ウッウッ。せっかく、豊中市の図書館で郷土史の本見つけてメモったのに…。
 そのメモと、陣屋の縄張りのコピーが見当たらない。。(ノ_・。)

 仕方ないので、ウィキペディアを基調に…。
 美濃の青木氏は、はじめ徳川家康に仕え数々の手柄を立て、のちに豊臣氏に仕えた。
 青木一重は大坂冬の陣の折、大坂方の使者として出向いたところ、駿河にて徳川の手によって捕縛され、そのうちに豊臣氏は滅んだ。一重はそれを知るや剃髪した。
 元々徳川の武士だったことが大きかったのか、一重は家康に再び見出され、摂津の豊嶋を中心に1万2,000石を与えられ、麻田藩を立藩した。
 麻田藩は1615年の成立以来、廃藩置県まで青木氏が続いた。

 おすすめスポット タグ 三田


 20.8.17(日)

 どっちだ!?
 日記⑨ 8/3参照。


 20.8.16(土)
 H19.8/27に描いた落書きを、フォトショで修正してみた。
 レイヤーは29、PSDファイル6.57MB、JPGファイル253KB。
 FF4より、リディア(7歳、カイポ宿泊時)。

 強国バロンの飛空挺部隊・赤い翼の隊長を罷免された暗黒騎士セシルは、王命により、北の隠れ里ミストのドラゴンを征伐した。
 これは図らずも、そのドラゴンの召還主の命を断つことでもあった。そう、ミストの幼い娘の母親の命を―――。
 そして、王の策略により、里は紅蓮の炎に包まれた。
 阿鼻叫喚の中、娘を救い出したセシルは、砂漠のオアシスの街カイポの宿をとり、もの言わぬ娘をベッドに座らせた。


【心の扉】


 7歳児に見えないかもしれん。
 腕がたぷたぷしてるあたり、幼児らしく描いたつもりなのだが。
 加賀言葉で言えば、「んまそ」な腕。「丸々と肥えた」くらいの意。
 なお、FF4はSFC版、SFC版イージータイプ、PS版(リメイク)をプレイしている。
Posted at 2008/07/05 01:01:34 | 日記
2008年06月24日 イイね!

日記 ⑨

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、九冊目。

 日記        


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.8.15(金)

 前の日付けの日記を編集して文章継ぎ足したら、日記帳がいっぱいになった。。


 20.8.14(木)

 みんカラのブログには、文字数の限界がある。
 これを超えると、どうやっても更新できないのだ。
 そこで、今までの日記帳の文字数を調べてみた。
 方法は、コピー&ペーストでwordに流し込み(タグも含まれる)、ツール → 文字カウント
 調べる数字は、「文字数(スペースを含める)」のみに絞った。以下、結果。
  ① 30,106
  ② 30,397
  ③ 30,691
  ④ 29,994
  ⑤ 30,006
  ⑥ 29,400
  ⑦ 30,534
  ⑧ 30,408
  ⑨ 27,053(8/14まで)
 この数字についてのみ言えば、限度は30,000字前後。
 日記帳⑨も、もうじき終わりの模様。orz


 20.8.13(水)

 ラピュタの科白検定(上級)、40点だった。(ノ_・。)


 20.8.12(火)

 先々月下旬の話。
 摂津伊丹の有岡城へ行った。電車で降り立ち、徒歩でぐるりと一周、4.5km。
 日記⑦ 6/3 備中高松城、6/11 花隈城、日記⑧ 7/4 三木合戦、7/9 三木合戦、7/13 播州姫路その他、日記⑨ 7/26 播州山崎…を参照。

 伊丹の有岡城は、街ごと囲った惣構えの城であり、本丸を東におき、北に岸の砦、西に上臈塚砦、南に鵯塚砦をバランスよく配置している。
 その城域は広大で、南北1.7km、東西0.8km、周囲4.2km、面積はおよそ550,000㎡に及び、これは740m四方に相当する。

 実際にかつての縄張りに沿ってテクテク歩くと、場所によって段差…高低差が様々だということがわかる。東に猪名川があるため、基本は東の方が段差が大きい。
 岸の砦~本丸~鵯塚砦の東側のラインは、平均して背丈の倍ほどは段差があるが、岸の砦~上臈塚砦~鵯塚砦の西側のラインは、段差があっても背丈未満で、上臈塚砦周辺のみそれ以上の段差があった。なお、本丸部分を通るJRの開削に伴い、地形がいくらか変わっている。
 ↓下図は、私が歩いて感じた高低差があるところほど、太く濃い線を引いてある。



 有岡城は元は伊丹城といい、鎌倉時代以来伊丹氏の所有にあった。
 池田氏の被官であった荒木村重は、池田氏の実権を奪い、摂津の有力な城を切り取り、織田信長に服属した。見返りは、摂津一国の支配権。
 村重は伊丹城を有岡城を改称し、街ごと堀と土塁で囲む惣構えの城に改修した。
 その姿は、ルイス・フロイスにして「甚だ壮大にして見事なる城」と言わしめるほどであった。
 しかし、村重は突如、織田氏に叛逆した。
 摂津の石山本願寺との戦が続き、丹波八上の波多野氏、播磨三木の別所氏が織田氏から離反し抗戦していた折だった。しかも、これらの背後には中国十ヶ国を束ねる毛利氏があった。
 信長は、村重に味方に戻るように必死にかき口説いたが、不調に終わった。信長は、やむなく軍を動かした。

 その頃、播磨御着の小寺氏の家老・小寺官兵衛孝高(本姓は黒田、主家から小寺姓をもらっていた)は、播州の諸勢力の意見をまとめ、羽柴秀吉を通じて織田氏に味方するところまで実現していたのだが、三木の別所氏とそれに伴う主家の小寺氏の離反により、官兵衛の構想は画餅に帰そうとしていた。
 保守的な小寺政職(官兵衛の主)は、信長とはどうしても相容れないものがあったから、織田氏に味方するように説く官兵衛が疎ましくなった。
 「わしが織田を離れるのは、荒木摂津守への義理あってこそ。荒木を説得できたなら、当家も織田に戻る」
 官兵衛は、自信満々で有岡城に乗り込んだ。が、即刻捕らえられ、村重に面会もできないまま、土牢に押し込められた。
 「荒木摂津守殿 そちらに当家の官兵衛が向かうので、これを殺してくだされ 小寺藤兵衛」
 なんと、己が主から殺しの依頼が出ていたのだ。しかし、村重は官兵衛を殺さなかった。

 官兵衛が有岡城に入ったまま戻らぬとの報を聞き、信長は激怒した。城方に寝返ったと考えたのだ。
 即座に、人質を殺せと命じた。
 小寺氏としての人質は、主家の息子ではなく、家老の官兵衛の一人息子・松寿丸(のちの黒田長政)であった。
 それを殺せという。
 「拙者が」
 織田氏の臣・竹中半兵衛重治が承った。
 半兵衛はさっさと松寿丸を連れ出すや、自分の持ち城に隠した。

 有岡城は、織田の大軍に包囲されていた。
 支城の高槻城、茨木城、三田城は、降伏するか落城し、尼崎城と花隈城を残すのみとなった。
 しかし有岡城は、織田軍の強攻を跳ね返し、持ちこたえていた。
 信長は周囲に付城(城を攻めるための砦)をつくらせ、戦は長引いた。

 苛酷な環境の中で、官兵衛は耐えた。足が萎え、皮膚がただれても、生き続けた。
 土牢の僅かな窓から、藤の木が見えた。官兵衛は、花占いを心の支えにした。
 「藤の花が咲かずば死ぬる。咲けばこの身は必ず生くる。藤の花よ、咲けや咲け―――」
 官兵衛の壮絶な祈りであった。
 藤が花咲かせ、夏が過ぎ、秋が訪れ―――。
 城主の村重は、単身尼崎城へ脱出した。ただ、有岡城は籠城を継続している。
 
 ある晩、滝川一益の手勢が上臈塚砦を落とした。
 それからひと月後、有岡城は開城した。
 官兵衛は、以前から接触に成功していた姫路衆の栗山善助に助け出された。
 官兵衛の生存(しかも裏切っていなかった)の報を聞いた信長は、思わず呻いた。
 「官兵衛に合わす顔がないわ」
 しかし、殺したはずの人質・松寿丸(官兵衛の息子)は、竹中半兵衛の機転によって助け出されていた。
 その半兵衛も、その数ヶ月前に三木の平井山で陣没した。

 尼崎城へ入った村重は、やがて花隈城に移って長く抵抗したが、とうとう毛利氏に亡命した。
 ここに、武士としての荒木村重は終わった―――。



 黒田官兵衛孝高―――。この人物は、いろんな名を持っている。
 シメオンという洗礼名もあるし、如水という号もある。如水が一番有名かもしれない。
 黒田氏は官兵衛の祖父の代に流浪し、備前福岡、さらに播州姫路に流れ着いた。
 その凛とした佇まい、清貧、子への教育に、豪農の竹村某が惚れ込み、姫路の北の廣峯神社に斡旋した。
 そして、黒田家秘伝(?)の目薬を廣峯神社の御師という布教集団が販売する、という仕組みをつくり、その儲けを元手に姫路の百姓に低利貸しを始めた。
 「担保はいらぬ、その代わり月に何回か手伝いに来い」
 そうして人数を集め、被官分にした(仮の主従関係を結んだようなもの?)。男子を持つ者をより優遇したのは、言うまでもない。
 かくして黒田氏は、のちの黒田武士の原型となる(元百姓を中核とする)姫路衆(竹森新右衛門、栗山善助、母里太兵衛、後藤又兵衛らは、のちに官兵衛の手足となって働く)を率い、ならず者豪族の首を手土産に、御着の小寺氏の被官となった。
 小寺氏は黒田氏を厚遇し小寺の姓を与えるほどだったが、官兵衛の代になって、主家の方が家来を切り捨てたのだった―――。


 黒田官兵衛といえば謀臣という腹黒いイメージが強いのだが、意外にも(?)官兵衛が主を裏切ったということは一度もない。手荒い暗殺は、のちに豊前に封じられたときに、鎌倉以来の地の名族を誅滅したのが唯一で、それが汚点にはなっているのだが。

 官兵衛が入れられた土牢は、どこにあったか?
 三つの砦のうちの一つが破られれば、中央部分の城下町は蹂躙されるだろうから、まず本丸にあったのだろう。
 現在のJR伊丹駅の周辺のどこかで―――官兵衛はうずくまって寒暖を凌ぎ、有岡衆の最低限の世話を受け、兵の喊声や鉄砲の炸裂音を聞き、藤の花に願いを託し、栗山善助の来訪を待ちわびていた。
 そういう物語が、ここ有岡にはあったのだ。

 おすすめスポット タグ 羽柴秀吉の侵掠 タグ 黒田氏 タグ 伊丹


 20.8.11(月)

 久しぶりに財布を整理したら、レシートとともに、温泉のスタンプカードが束になって出てきた。

 こんだ薬師温泉 ぬくもりの郷
 鹿之子温泉 かのこの湯
 吉川温泉 よかたん
 天然温泉 湯庵
 滝野温泉 ぽかぽ
 白雲谷温泉 ゆぴか
 加西天然温泉 根日女の湯
 加古川温泉 みとろ荘
 薬草薬樹公園 リフレッシュ館
 よふど温泉 極楽湯


 …これだけ。みんな、兵庫県のスーパー銭湯。
 分散しすぎて、ぬくもりの郷とよかたんとゆぴかしか、カードいっぱい貯まったことがない。。


 20.8.10(日)

 6/29の話。
 日本陸上の女子5,000mの種目で小林祐梨子選手が優勝し、北京五輪の出場を決めた。
 実はこの小林選手は、兵庫県小野市出身
 同市の白雲谷温泉ゆぴかのフロアにこの選手のことが貼り出されていたので、(その当時から勢い実績があったので)「そういえばこんな選手おったっけなぁ」と心の隅に留めていたのだ。
 ほんの他愛のないことでも、何かしらつながりがあったら嬉しいもの。
 北京五輪では、結果を問わず力を出し切ってもらいたい。


 20.8.9(土)

 F.F.6のセリス(魔導研究所裏切り時)を落書きしてみた。
 日記②H19.10/30、10/31、11/1、H20.8/1参照。

 ベクタ、帝国の首都。鉄と蒸気で急速に発展した街。
 住人に活力はなく、陰鬱な空気が漂っている。
 リターナー一行は、東の外れでリターナーの同志を探し当てた。

 老人「うぃ~、よっぱらっちまったぁ~い!」
 帝国兵「えぇい、邪魔だ!!」
 老人「う~、吐きそう……ウッ」
 帝国兵「おいおいおい!」
    ゲパァーーーッ
 帝国兵「きゃーーー!」

 同志が囮になっている間に、一行は魔導研究所に侵入した。


 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 途中の魔導工場で、ケフカを見つけた。

 ケフカ「ヒーッヒッヒ! 幻獣をもっと集めて、魔導の力を取り出して、そして……『三闘神』の復活だぁー! もうお前らは用無し」

 一度聴いたら忘れられない笑い声が建物中に響き、すぐに機械音にかき消される。
 ケフカは幻獣らしき二体の生物を、ベルトコンベアーに投棄した。
 一行はこっそり立ち去ると、下の階の投棄場の扉を開いた。

 先ほど棄てられ穴に落ちたのは、幻獣のイフリートとシヴァだった。
 イフリートとシヴァは、一行がラムウの魔石を持っていることに気付いた。

 イフリート「仲間達は、みなガストラによって捕らえられ、ここで魔導の力を吸い取られているのだ…。私もこの研究所のビーカーに入れられ力を吸い取られた…」
 シヴァ「魔導の力が無くなるとここに捨てられる。あとは死すのみ…私達も、もう命は長くない…。ラムウと私達は三対の力をそれぞれ持つ兄弟。ラムウが力をたくしたのならば、私達もお前達に…」

 イフリートとシヴァは、閃光とともに魔石と化した。

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 魔導工場を経て、ようやく魔導研究所の研究室に辿り着いた。
 幻獣の入った巨大な円筒の水槽が、幾つも並んでいる。

 幻獣「我々を助けようと言うのか…しかし…我々の命は長くない。イフリートと同じように…死してお前達の力となろう…」

 魔石を持つリターナー一行に悟った幻獣たちは、皆、魔石となった。

 シド「そこで何をしている!!」

 魔導研究所専属のシド博士だ。黄色いフード(?)がチャームポイントらしい。

 シド「こ…これは…!?」

 はじめての魔石に接し、声を失っている。

 シド「…幻獣は死ぬ時に力だけを残すことが出来るのか…。この石に秘められている力は、幻獣から直接とりだした力の何倍…いや、何百倍もある」

 そのとき、魔石が水槽を突き破り、一行の手中に帰した。

 セリス「シド博士…」
 シド「セ…セリス将軍! なんじゃ、この怪しいやつらは? お前さんの部下かい?」
 セリス「いいえ…そうじゃなくて、私は…」
 シド「なんでも、反乱を企てておる連中に、スパイとして潜り込んだと聞いたが…?」
 ロック「!?」
 「私を信じて」
 ケフカ「ヒィーーッヒッヒッヒ! なるほど魔石か、でかしたシド博士! そして…セリス将軍! さぁ、もう芝居はよい。そいつらの魔石を持ってこっちへ来い」
 ロック「セリス! 騙してたのか!?」
 セリス「違うわ! 私を信じて!」
 ケフカ「ヒッヒッヒ…裏切り者か…セリスにピッタリだね☆」
 セリス「ロック…信じて…」
 ロック「俺には………」
 ケフカ「今だ、皆殺しだ! 魔導アーマーゆけ~い!」

   ゴゥン ガシャン ガシャン ガシャン

 魔導アーマーの突撃で、四名のリターナー、シドまでダメージを受け、吹っ飛んでしまった。
 やがて、手負いのセリスがゆらりと起き上がった。

 セリス「ロック…今度は私があなたを守る番…。そして…これで私を信じて…!」
 ケフカ「セリス…! そ、それは! やめろ!」

 セリスは魔導の力を顕し、セリスとケフカ、帝国兵だけがこの場から消えた。

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 研究室は魔石と魔導の力で激しく振動し、セリスの去ったリターナー一行とシドは脱出を図った。

 シド「いくらケフカに脅されていたとはいえ、ワシはなんということをしてきたのか…。幻獣の命を力に…。お前達と出会ってワシも決心がついた。皇帝に話をしてみよう。この戦争の愚かさを…」

 悔悛の表情で、シドは続けて言った。

 シド「セリス…あの娘は幼い頃から知っておる。娘のように可愛がってきた。しかし同時に『魔導戦士』として教育するという、むごいこともしてきた…。だから…もう一度会えるなら謝りたい…ワシのしてきた過ちを…」

 シドは、一行をケフカから逃すため、トロッコに乗せて送り出した。

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 トロッコは轟音を立てながら暗闇を駆け抜け、見張りの帝国兵ごと吹っ飛ばし、外に投げ出された。
 魔導研究所の事故の騒ぎの中、一行はなんとかベクタを脱出し、セッツァーと再会した。
 一行はケフカの追っ手を振り切り、ようやく安全に帝国を発った。
 ゾゾに残してきたティナやリターナー、幻獣のことをセッツァーに話しながら。


 一旦守ると言ったら信じてやれよ、ロック君。ってか、男キャラを描くときは、やる気9.5割減。。
 考証はしてないので、特にケフカが適当。ケフカファンの皆様ごめんなさい。


 20.8.8(金)

 暑い。暑すぎる。
 夜になっても、余熱が逃げない。特に二階は。

 屋根のてっぺんにスプリンクラーつけて、それで打ち水すれば…、
 屋根中アルミホイルで覆えば、何度下がるだろうか。

 …そんな妄想をしてしまうほど、暑い。


 20.8.7(木)

 8/3の花山院の話で、西国三十三番が登場してので、連想したまま書く。
 西国三十三番(近畿圏でそれなりに権威がある)でも、四国八十八箇所と同様、お遍路さんの格好でスタンプラリーをして周っている人がいる。
 
 西国三十三番のうちの、ある寺へ行ったときの話。
 相方が、一人の白い装束を着たお遍路さんを見て、
 「あれ、“同行二人(どうこうふたり)”て書いてあるけど、どういう意味やろ?」
 浮野「…。あの人はな、数年前に亭主亡くしはってん。ほんで、“いつまでもふたりは一緒やで”って意味込めて、ああいうふうに書いてんねんて」
 「なるほどなー」

 …と言った途端、年配の夫婦とおぼしきお遍路さんが、続々と境内に入ってきた。
 バスツアーで、各霊場を周る企画をやっているのだろう。(あの衣装はレンタルなのか!?)
 「ちょっと、あれは何な。今言ったん、ホンマ?」
 浮野「今つくりましたごめんなさい」


   (合掌)

 帰宅してから、同行二人について調べてみた。
 …読みからして間違っていたようだ。
 どうこう ふたりではない、どうぎょう ににんだった。
 そして、己の他のもう一人とは、(配偶者ではなく)お大師さま。弘法大師の空海だったのだ。
 お大師さまと ともにゆく

 おすすめスポット タグ 西国三十三番


 20.8.6(水)

 南紀白浜のおすすめスポットをアップした。
 和歌山県のうち、紀ノ川沿いは日帰りで行ける範囲。
 潮岬~太地~那智~熊野本宮~新宮のコースは、一昨年に周った。
 白浜へ行ったのは、一昨々年の12月半ばだった。
 兵庫県は寒くなってきたけれど、白浜へ行けばいくらか和らぐだろう―――という意図。
 言ってみれば、避暑ならぬ、避寒である。いざ行ってみると、

 ホワイトアウト。白波魔恐るべし。
 
 おすすめスポット タグ 紀伊


 20.8.5(火)

 円応教と円山応挙は、字面が似ている。


 20.8.4(月)

 兵庫県の淡路のおすすめスポットをアップした。
 淡路に最後に行ったのは、おそらく一昨年のこと。
 5月の陽光うららかな季節で、とにかく花に満ち溢れた島というのが第一印象だった。

 淡路島は、日本神話に出てくる最初の島オノコロ島に比定されることでも有名だ。(淡路ワールドパーク ONOKOROは、これに由来する)
 天地(あめつち)がはじめて姿を見せてから、高天原に幾柱もの神が、現れては隠れた。
 それが繰り返されるうち、はじめての男と女――イザナギとイザナミ――の神がうまれた。
 「この漂うておるクニを、おさめ固めよ」
 天つ神はイザナギとイザナミを言い、アメノヌボコ(神々の矛)を渡した。
 イザナギとイザナミは天の浮橋に立ち、アメノヌボコを海水の中に入れ、コヲロ コヲロと掻き回し掻き鳴らして引きあげた。
 すると、矛の先から滴った塩が凝り固まり、島になった―――。


 初めて淡路島の国道を走っていたとき(高速道で通過したことは何度もあった)、何か違和感を感じたのだが、この日の晩に宿泊したときにその違和感の正体がわかった。
 この島には、鉄道が無いのだ。
 明石と鳴門の海峡に鉄道を渡して、島の南北に軌道を敷設したらどうだろう―――とも思うのだが、今さら割りに合わないのか。
 もっとも、自動車道では通り道の役割を充分に果たしている。
 今うっかり「通り道」と書いたが、淡路の土を踏んでもらえるか否かは、淡路の自助努力次第か。花に神話に海に断層、ある程度の観光資源はあるのだが。

 今度淡路へ行くときは、神話の面から訪れてみたい。
 そして、一度はホテルニューアワジに泊ってみたいものだ。兵庫モンにはわかる、アレ。

 ♪ほてる にゅ~~う あ~わ~あぁ~じ~~~♪

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 20.8.3(日)

 先々月中旬の話。
 丹波立杭の陶芸美術館「五陶地」展、ドーノ、摂津三田の母子、永沢寺、尼寺へ行った。

 母子は、「もうし」と読む。
 舒明天皇(推古天皇ののちの天皇、第三十三代)の頃。
 大君は有馬温泉に訪れ、猫間中納言を羽束山の観音に遣わせたところ、大君の病気が快復した。
 大君は、羽束とその近郷を中納言に与え、中納言は鷹原に住まいした。
 中納言は、毎年この地の黄色い花を献上し、中納言な死んでもその妻と娘は献上を続けた。
 この花は「奉公草」といい、さらに「母子草(ハハコグサ)」というようになった。
 そして、いつしか鷹原は、母子(もうし)と呼ばれるようになった。

 いかにも後世の作っぽい内容だが、三田市のサイトに載っていたため紹介した。
 この母子では、この地方では珍しく茶を栽培している。
 室町時代初めにつくられた永沢寺の僧が中国から持ち帰った―――というが、これは本当かもしれない。

 永沢寺は、地名としては「えいたくじ」と読む。同名の寺名としては「ようたくじ」。
 永沢寺と母子の郷は、摂津の北に位置し、山をひとつ越えればもう丹波。(篠山城まで6km)
 標高560mだという永沢寺は、花しょうぶ園/ぼたん園花のじゅうたんがあり、また、そばの名所。いずれも、寺としての永沢寺がかかわっているのだろうか?


 三田市の北部には、南北に細長い谷がいくつかある。
 東から順に、高平小野・尼寺青野藍本
 一番西の藍本の筋が、国道176号線が走っており、もっとも拓けている。
 前三つは、いずれも田舎然としている。さて、
 尼寺は「にんじ」と読む。
 字義は「尼の寺」であり、相応の由来あってのことなのだ。

 花山院菩提寺は、西国三十三番の番外霊場。
 西国三十三番霊場の巡礼を復興させた花山法皇を敬ってのことだ。
 花山院へ行くには、急傾斜の山道を登らなければならない。
 頂上にある花山院は、標高400mを超える。
 山のふもとには、こんもり茂みがあり、そこには十二妃之墓(じゅうにひのはか)がある。
 花山法皇は、冷泉天皇の長子として生まれ、17歳で皇位についた。花山天皇である。
 ときは王朝の世、花山天皇の外戚は、弘徽殿女御(藤原忯子)の外祖父・藤原伊尹(花山天皇の妃の父の異母兄)だった。
 しかし、藤原伊尹はほどなく病死し、伊尹の弟の藤原兼家が力を握ろうとした。
 自ら娘を嫁がせた、先代の円融天皇の皇子を皇位に即けるべく、策動したのである。
 そのころ、花山天皇の寵愛していた弘徽殿女御が皇子を身籠ったまま亡くなり、天皇は悲しみの淵に沈んでいた。
 世を儚んでいた天皇の御心につけ込み、藤原兼家は子の道兼とともに、出家を勧めた。
 そしてある晩、念入りに警護の武士をつけて天皇を山科の元慶寺に連れ出し、出家の既成事実をつくってしまったのだ。
 先ず天皇が剃髪し、次いで道兼も剃髪するはずだったところを、適当に理由をつけて元慶寺を抜け出し戻らなかった。
 騙されたと悟った天皇は、悔しさのあまり慟哭した。
 翌日、藤原兼家は娘の子を皇位につかせた。一条天皇、わずか7歳。
 兼家は摂政として実権を握り、摂関政治は兼家の子の道長の時代に全盛を迎えることになる。

 たった二年で退位した花山法皇は、のちに京に戻るまでの相当期間を、摂津の東光山(のちの花山院菩提寺)で過ごした。
 花山法皇が東光山へ入ったとき、最愛の弘徽殿女御の遺髪を奉じたお付きの女官十一名が、この地まで法皇を慕って来た。
 しかし、当時の山は女人禁制ゆえ、女官たちは入ることができなかった。
 女官たちはやむなくふもとに住みつき、尼となった。法皇を慰めるため、琴を弾くこともあったという。
 尼となった佳人の琴の音は、雲上まで届いたであろうか―――。

   有馬富士麓の霧は海に似て 波かと聞けば小野の松風 花山法皇御製

 十二妃之墓は、十二人の妃というより、一人の妃と十一人の女官たちだったのだ。
 茂みの中には、弘徽殿女御の供養塔を囲むように十一の墓が並んでいる。
 かつては南北の谷筋すべてを小野と称していたのだろうが、そのうち東光山付近を尼寺と呼ぶようになった。また、ふもとの坂を琴弾坂という。
 どこかしら素敵な挿話に出会ったときは、素敵な景色に出会ったときと同じくらい、心地よい。

 ↑景色も素敵な花山院。南東方面を見渡せる。左側の大きめの山が、有馬富士。

 ↑播州の雄岡山/雌岡山(おっこさん/めっこさん、南西29km先)まで見える。6/17参照。
 手前の街は、三田ウッディタウン。

 社町+東条町+滝野町=加東市、三木市+吉川町=三木市

 おすすめスポット タグ 三田 タグ 丹波

 走行距離 約97km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破

 後日談。母が「私も花菖蒲見たい!」とせがむので、また永沢寺へ、ついでに尼寺へ行った。
 走行距離79.2km 燃費計12.5km/l 高速道路不使用


 20.8.2(土)

 カラヤンだ、と思ったらカヤランだった。



 20.8.1(金)

 F.F.6のセリス(オペラ出演説得時)を落書きしてみた。日記②H19.10/30、10/31、11/1参照。

 ナルシェの幻獣と反応したティナは、人ならぬ姿に変化し、何処かへ飛び去ってしまった。
 リターナーは人数を選び、ティナ捜索の旅へ出た。

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 途中のコーリンゲンの村に立ち寄ったロックは、地下室に眠る娘の前に立つ。

 この娘レイチェルは、ロックが 盗賊 トレジャーハンター駆け出しの頃からの恋人であり、ロックの発掘行へついて行ったがために転落事故に遭い、記憶喪失となったのであった。
 二人の日々を忘れ去ったレイチェルに、ロックは何度も逢おうとするが、当然のことながらレイチェルの父親に追い出される始末。そして、レイチェルのこの言葉がとどめとなった。
 「あなた、もう来ないで! あなたが来ると家族が悲しい顔をするの」

 ロックがコーリンゲンを去って一年後、村は帝国軍の襲撃を受けた。
 襲撃の直後に息を切らせて駆けつけたロックは、レイチェルを看取ることができなかった。
 しかし、レイチェルは今わの際に、確かにロックのことを思い出したのだという。
 ロックは、村の生き残りの爺さんがつくった妙薬でレイチェルを生きたままの姿に保ち、大切に横たえさせた。
 魂を甦らせる幻の秘宝がロックの悲願となったのは、まさにこの時だった。

 「俺は―――守れなかったんだ」
 ロックは、いつの間にか背後に立ちつくしていたセリスに呟いた。

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 リターナー一行は、スラム街のゾゾで昏睡するティナを見つけた。眠れるティナは、幻獣ラムウの庇護を受けていた。
 一行は初めて、動き話をする幻獣を目の当たりにした。
 老ラムウが言うには、ティナには幻獣の血が流れており、ティナを呼び起こすには自身の由来を明らかにする必要がある。また、帝国の魔導研究所は幻獣の魔導の力を吸い出す研究をしており、大勢の幻獣たちが囚われの身となっている。そして、ラムウもその魔導研究所を逃げ出したひとりであると。
 話し終えるとラムウは、自ら魔石と化した。魔石には、その幻獣の魔導の力が凝縮されているのだ。
 ラムウは、死してリターナーたちの力となったのだった。

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 リターナーの次の目的は、「ガストラ帝国へ潜入し幻獣に会う」こととなった。
 しかし、帝国との戦争により、海を渡るにも船がない。
 一行は、帝国へ潜入する手段を探るべく、大陸南端の街・ジドールへ向かった。
 ジドールの街に着き、一番大きな屋敷に入ったときのこと。

 ダンチョー「マ、マリア…!?」
 セリス「え!? わ、私のこと?」
 ダンチョー「ああ、すまん…人違いだった。あなたが私の劇団の女優にあまりにも似てたので…あぁ困った」

 ダンチョーは、汗を拭いて広間を去った。

 ロック「セリスがマリアに似てる?」
 セリス「……??」

 ダンチョーがひらりと落とした手紙を拾うと、屋敷の主人が階段の踊り場から話しかけてきた。

 マスター「オペラ座で芝居をやっている劇団長なんですよ。皆はダンチョーって呼んでますけどね。そんな手紙がきたもんだから、酔いつぶれて…」

 “おたくのマリア。ヨメさんにするから、さらいに行くぜ。さすらいのギャンブラー”

 ロック「?…誰だこの、さすらいのなんとかは?」
 マスター「知らないのかい? 世界に一台しかない飛空挺“ブラックジャック号”を持っているセッツァーさ」
 セリス「……飛空挺があれば、空から帝国に乗り込める」
 ロック「会いに行こうか。…セッツァーに」

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
「そんなチャラチャラしたこと、できるわけないでしょ!」
 リターナー一行は、ジドールの南のオペラ劇場へ訪れ、ダンチョーにセッツァーの手紙の件を話した。

 ダンチョー「ああ~、派手好きのセッツァーのことだから…劇が盛り上がった時に来るだろうぅ~」
 ロック「じゃあその時に出て行って捕まえれば!」
 ダンチョー「やめてくれ! 芝居を台無しにしたら、劇場からクビにされる!」
 セリス「ならお手上げじゃないの!」
 ダンチョー「だから悩んでるんだ! 芝居は成功させたいし、かといってマリアをさらわれたくない…うぅ…」
   シーーーン
 ロック「―――じゃあ、さらわせればいい。」
 「?」
 ロック「オトリだよ。わざと女優をさらわせてセッツァーの後をつける。あわよくば飛空挺を横取りする」
 ダンチョー「ダメだダメだ! マリアにもしものことがあったらどうする!」
 ロック「だからオトリなんだってば! マリアには安全な場所に隠れてもらって―――」
 ダンチョー「へ?」
 ロック「マリアに似てるんだろ?」
 セリス「へ?・・・私??」
 ロック「マリアに化けたセリスをわざとさらわせて、俺達を飛空挺へ案内する」
 ダンチョー「名案だ!」
 セリス「そそそそんな! 私は元帝国の将軍よ! そんなチャラチャラしたこと、できるわけないでしょ!」
   ダダダッ バタン!
 セリス「あー あー うん、マぁ~リぃ~アぁ~♪」
 ロック「ははっ! 結構やる気だぜ、セリスは」

 盛り上がる広間の隅に、あやしい陰が動いた。

 オルトロス「ふっしっし! わいもセッツァーをマネして挑戦状送ったるけんね~」
   ひゅるる~~ ぱさっ
 ロック「さあ、作戦会議といくか。みんな、奥へ入ろう」
   バタン
 オルトロス「だ~~~っ、読まんかい!」

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 たった二日間の猛特訓で、セリスはぐんぐん上達した。さすが元将軍、身体能力は抜群だ。
 そしてついに開演。
 ロックは、控え室までセリスの様子をうかがいに行った。

 ロック「おまえ…こんなに綺麗だったっけ…」
 セリス「…ロック、なぜあの時、私を助けてくれたの?」
 ロック「好きになった女を、なにもしてやれずに失ってしまうは…もうゴメンなだけさ」
 セリス「…私は、あの人のかわりなの?」
 ロック「…。似合うぜ、そのリボン」
 セリス「―――そろそろ出番だわ。ドラクゥの安否を気遣うマリアが、自分の思いを歌にする、大事なシーンよ」

   愛しの貴方は遠い所へ? 色あせぬ永久の愛誓ったばかりに
   悲しい時にも辛い時にも 空に降るあの星を貴方と思い
   望まぬ契りを交わすのですか?
   どうすれば? ねえ貴方? 言葉を待つ


 一方その頃、オルトロスが屋根裏から岩を落とすという恐ろしい陰謀を企てていた。
 それに気付いたロックたちは阻止しようと駆けつけたが、オルトロスもろとも転げ落ち、劇中で姫君を奪い合う王子二人が気絶した。

 ダンチョー「二人がのびてしまった…! いったいマリアは誰の妃になればいいのだ~!」
 ロック「いたた…。!―――セリスをめとるのはドラクゥでもラルスでもない! 世界一の冒険家! このロックさまだぁ~~~!」
 ダンチョー「あちゃ~。…下手くそな演技しおってからに!」
 オルトロス「だまぁ~れぇ~い! われとてタコのはしくれ! お前なんかに負けはしないぞ! お前と勝負だ~~~!」
 ダンチョー「え~い、もうどうにでもなれだ! ミュージックスタート!」
 ロック「 タ コ は 引 っ 込 ん で ろ 」
   ゴツン
 オルトロス「またダメだった…タコですいません」
   グォン グォン グォン
 セッツァー「待ちな、素晴らしい舞台だったぜ! 約束どおりマリアはもらってくぜ。よっと」
 セリス「あ~~れ~~」
 ダンチョー「お~っと、意外な急展開! 次回を乞うご期待~!」

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 飛空挺に上がったセッツァーは、セリスを部屋に閉じ込め、自室に戻った。
 セリスはその隙に、手筈通りに仲間たちを飛空挺に導き入れた。

 ロック「立派な女優っぷりだったぜ!」
 セリス「ひやかさないでよ」
 ロック「でもこっからが本番だぜ。第二幕の始まりだ。セッツァーは?」
 セリス「来るわ」

 セッツァー「き…貴様ら! お…おまえマリアじゃねぇな!」
 セリス「セッツァーお願い。私達ベクタへ行きたいの。だからあなたの飛空挺が…」
 セッツァー「マリアじゃなきゃ用はない」
 セリス「待って! あなたの船が世界一と聞いて来たの!」
 ロック「世界一のギャンブラーともね!」
 エドガー「私はフィガロの王だ。もし協力してくれたなら、褒美はたくさん出すぞ」
 セッツァー「……来な」

 セッツァー「フッ、帝国のお陰で商売あがったりさ。」
 セリス「あなただけじゃないわ。たくさんの街や村が帝国によって支配されてるのよ」
 ロック「帝国は魔導の力を悪用し、世界を我がものにしようとしているんだ」
 エドガー「私の国も今までは帝国と協力関係にあったのだが、もはやこれまでだ」
 セッツァー「帝国…か」
 セリス「帝国を嫌っている点では私達と同じね。だから…」
 セッツァー「よく見ればあんた、マリアより綺麗だな」
 セリス「え!?」
 セッツァー「決めた! あんたが…セリスが俺の女になる。だったら手を貸そう。それが条件だ」
 ロック「待て!そんな勝手なこと!」
 セリス「わかった、でも条件があるわ。エドガー?」
 エドガー「!…ああ」
 セリス「このコインで勝負しましょう。もし表が出たら私達に協力する。裏が出たらあなたの女になるわ。どう、ギャンブラーさん?」
 セッツァー「ほほう、いいだろう。受けてたとう」
 ロック「いいのかセリス? もしヤツの女なんかになったら…」
   ピィーーン パスッ
 セリス「表。私の勝ちね。約束通り、手を貸してもらうわ」
   カチ
 セッツァー「貴重な品だな。両表のコインなんて初めて見たぜ」
 セリス「イカサマもギャンブルのうちよね?」
 セッツァー「ハッ、こんなせこい手を使うとはな…いいだろう、手を貸してやる。俺の命そっくりチップにして、お前らに賭けるぜ!」

 △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽

 セッツァーの説得に成功したリターナー一行は、一路南へ、帝国の首都ベクタへ向かった。



 20.7.31(木)

 ニコニコ動画でS.D.I.を検索したら、まさかとは思ったが本当にあった。ミクで。。
【ニコニコ動画】初音ミクがLOUDNESSのS.D.Iを歌います そ、空耳…。ギターソロ…。

 ギターが異常
♪今だ、産卵 過失が無い 
  総合不倫狩り 本土リリース
 シーザーサラダ マジ直さん
  鉄壁ッス フェチの極み ネコ巫女♪


 ②
 ④
①DREAM FANTASY ②CRAZY DOCTOR ③IN THE MIRROR ④SOLDIER OF FORTUNE

 高校の頃、ラウドネスやらXJAPANやらスピッツやら安全地帯やら聴いてたなあ。
 テープをクラスのみんなでまわして。
 ラウドネスは、歌詞は何言ってるのかサッパリわからなんだけど、何となく音が心地よかった。
 ちなみに、S.D.I.は一般に戦略防衛構想の意。


 20.7.30(水)

 ゲームブックはどこへ消えた?


 20.7.29(火)

 島根県のおすすめスポットをアップした。
 同県には、都合5回行っている。
 思い返すと、まだ温泉津(ゆのつ)、大根島、美保関メテオプラザ、玉造温泉が欠けている。しかし、いずれも写真が残っていない。(:;)
 今回は、取材に行った時期も違いテーマも違い、脈絡のない文章になるが、いくつか採り上げてみたい。

 出雲大社。出雲といえば、誰しもが先ず連想する。
 そして、御利益は縁結び。これもまた、自然と連想。











 このあと、オオクニヌシはコシのクニまで出向いてヌナカワヒメを(それはもう熱心に歌を歌って)ナンパしたり、嫉妬深いスセリビメはヒスを起こしたり。(安彦良和のナムジに登場するスセリは、とてつもないツンデレ)
 さすがスサノオの娘か気性の激しいスセリビメも、このときは瞳もウルウル、えらくしおらしい歌を歌って、結局仲直りしてニャンニャン。。
 しかしなお、オオクニヌシの浮気性は治らず、同時に、葦原の中つ国は肥え栄えたのだった―――。
 大国主はプレイボーイ。
 出雲大社で縁結びを願うた女性の面々は、これを忘れてはならない。後々に注意あれ。

 なお、昔の出雲大社が高い高い神殿を築いていたのは、オオナムヂに呼びかけるスサノオの言葉にもチラとあるが、別に由来がある。
 オオクニヌシの国造りによって葦原中つ国は繁栄し、高天原のアマテラスはそれに嫉妬した。
 「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに、要するに日本の美称)は、われら天つ神が統べ治める国であるのに」
 そこで何度か言向けたが、その度にオオクニヌシに懐柔され、ついに強きタケミカヅチを遣わした。
 稲佐の浜に天降ったタケミカヅチはオオクニヌシに国譲りを迫り、オオクニヌシは「わが息子たちに聞くがよい」と、返答を避けた。
 息子の一人、釣りキチのコトシロヌシは、美保関で入水して果てた。
 もう一人の息子のタケミナカタは激しく抵抗したが、敗走を重ね、信濃の諏訪にて降伏し、以来その土地を出ていない。
 結局、オオクニヌシは天つ神に屈した。
 このとき、オオクニヌシは天つ神に代償を求めた。
 「この葦原の中つ国は、ことごとく天つ神に奉ろう。ただ、わが住処だけは、土の底なる磐根に届くまで宮柱をしっかりと掘り据え、高天原にも届くほどに高々と氷木を立てて治めたまえば、われはおとなしく鎮まろう」
 こうしてオオクニヌシは、高くそびえる出雲大社に祀られることとなった。

 深く地を掘り柱を立てて高々とした宮を建てる―――この言い回しは、既に述べたとおり二ヶ所あるのだが、こういう例は、他にもある。
 有名なものでは、火に囲まれる話。
 神代のオオナムヂは、スサノオの試練により炎に捲かれ、鼠の助けにより危機を脱した。
 人代のヤマトタケル(景行天皇の息子)は、焼津にて敵豪族に火攻めに遭い、叔母から授かった剣と火打石で、草を薙ぎ火を返し、敵を殺した。

 足立美術館で見かけた河井寛次郎の詩「手考足思」を見たとき、一目でゾクゾクするほど気に入った。
 しかし、館内はもちろん撮影禁止。そこで、ペンと紙を取り出して走り書きしたのだった。

 手考足思

  私は私を形でしゃべる、土でしゃべる、火でしゃべる、
  木や石や鉄などでもしゃべる。
  形はじっとしている唄、飛んでいながらじっとしている鳥、
  そういう私をしゃべりたい。
  こんなおしゃべりがあなたに通ずるならば、
  それはそのままあなたのものだ。
  その時私はあなたにわたしの席をゆずる。
  あなたの中の私、私の中のあなた。


 土を練るのが上手なモンは言葉を練るのも上手なのかと、強く思った。

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 20.7.28(月)

 6/14の給油記録。
 ① 播州山崎:201.8km
 …を含む。

 333.5km(高速道路不使用) 10.9km/l(燃費計) 31.91L 給油 レギュラー@168円
 333.5÷31.91=10.451… → 10.4km/l(満タン法)
 10.4-10.9=△0.5

 ∴燃費計は、満タン法より、0.5km/l前後良く測定される。

 さらに、6/14の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①を遠出、残りを ②街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.5km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  201.8km 14.4km/l → 13.9km/l 14.517…L
 ②  131.7km       →       17.392…L
 計 333.5km 10.9km/l → 10.4km/l 31.91L

 ①  201.8km 14.4km/l → 13.9km/l 14.517…L
 ②  131.7km       → 7.5km/l 17.392…L
 計 333.5km 10.9km/l → 10.4km/l 31.91L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、131.7km走って 7.5km/l


 20.7.27(日)

 私はサッカーについて無知である。
 オフサイドは辛うじてわかるが、サドンデスをロックバンドか何かと思っていたくらいだ。
 リフティングも、たった十数回しかできなかった。
 そんな私が中学生の頃、体育の授業中(サッカー)サッカー部の友人が繰り出した技に、一瞬で心を奪われた。
 両足を前後にボールを挟みこみ、右足でボールを左足の踵に乗せ、2、3kmほど自分の前にボールを跳ね上げる―――いわゆるヒールリフトだ。
 それから、機会があるたびにヒールリフトの練習ばかりした。
 家に帰っても、(ドッヂボールで)狭い庭で練習した。
 そしてついに、ほぼ確実にボールを跳ね上げられるようになった。嬉しかった。
 しかしその後、体育の試合中にヒールリフトを実戦使用することはなかった…。orz


 20.7.26(土)

 先月中旬の話。
 播州宍粟郡の篠ノ丸城、山崎城、播州山崎花菖蒲園、滝野のぽかぽへ行ってきた。7/13参照。

 篠ノ丸城は、北西から山崎の盆地にニュッと突き出た山にある。
 播磨の豪族の赤松氏が築き、赤松氏の傘下の宇野氏の城だったが、羽柴秀吉の播磨攻めの軍勢の前に落ちた。
 羽柴秀吉の智恵袋的存在の黒田官兵衛孝高は、山崎の合戦(播州ではなく、京の入口。羽柴秀吉が明智光秀を破った戦い)前後に宍粟郡一郡を領地にもらった。祖父以来の姫路の地は、最初に秀吉に味方したときから、秀吉にそっくりそのまま明け渡していた。
 官兵衛は、この篠ノ丸城を手直しして領地を治めた。

 山崎城は、篠ノ丸城のすぐ南側の平地にある。黒田官兵衛のあとに山崎に入封した木下氏が、山上の城を嫌ってか、低地に府庁を置いたのだ。

 のちに山崎の主は、池田氏 → 松平氏 → 池田氏 → 本多氏 …と移り、本多氏が山崎藩一万石を二世紀近く治めている。
 山崎藩(宍粟藩)の本多氏は、徳川家康の重臣・本多忠勝の子孫であり、分家にあたる。
 宍粟歴史郷土館(図書館の二階)の本多氏ゆかりの品々に、本多氏の家紋の立ち葵を見かけた。本多忠勝の肖像画(おそらく複製)もあった。
 篠ノ丸城のふもとにある山崎八幡神社にも、立ち葵が描かれた幕が張られていた。

 播州山崎花菖蒲園は、山崎の平地の東端の丘にある。
 小山一つ越えた先なので、駐車場から入口まで100mほど坂を上らなければならない。
 ただし、体力のない人向けに、数台のカートをぐるぐる運行している。
 相方が乗りたそ~うにしていたが、ダメダメ、と意地で登った。

 入口をくぐって坂を降りると、もうそこは俗世と隔絶された別世界。
 数え切れない品種の花菖蒲が、咲き誇っていた。

 この花菖蒲園は、すべて品種名が書かれており、その名のセンスの良さに感心した。
 → 品種名データベース(newpage3~11、当園のサイトではない)
 花菖蒲には、江戸系、肥後系、伊勢系の三つの系統があるそうだ。特徴は以下の通り。
  江戸系:群生美◎、室内鑑賞△、群生美に優れる
  肥後系:群生美△、室内鑑賞◎、豪華さに優れる
  伊勢系:群生美○、室内鑑賞○、繊細美に優れる

 一周見てまわるうちに、三系統のいずれかくらいは、なんとなくわかるようになった。
 帰りの坂で、相方がカートに乗りたそ~うにしていたので、ブルンブルン乗せてもらった。
 ゴキゲンなおってヨカッタ。。

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 走行距離201.8km 燃費計14.4km/l 高速道路不使用


 20.7.25(金)

 ギター曲小麦畑と童謡クラリネットをこわしちゃったは、最後の二音が似ている。


 20.7.24(木)

 先月上旬の話。
 播州加東の日の神教団(偵察)、掎鹿寺、加西の古法華自然公園、根日女の湯、パスコロ、そしてあやしい宗教施設(偵察)へ行った。

 東条の野を走っていると、西の丘にキラキラ光るものがある。
 そこで、キラキラに向かって走ってみた。
 日の神教団 瑞宝苑。その施設の立て札には、そう書かれていた。
 正面に鳥居がある。
 神道系で「日の神」とくれば、アマテラスを崇める教団だろうか。

 となりの丘には、掎鹿寺があった。
 掎鹿寺は、「はしかじ」と読む。
 入口に、桂石寺と大書された石碑がある。
 住職の旧姓「桂」大好きな「石」をあわせた寺号を、勝手に掲げているわけ。
 これは、住職個人と石屋との癒着ゆえであり、 その境内は石碑や石の置物だらけ。
 檀家には、すさまじく不評であろう。
 なぜそんな寺をわざわざ訪れたのか?―――それは、この寺の脇に、義経道があったから。
 丹波・播磨にとっての義経道とは、一の谷の合戦に赴いた源義経が通った道。
 京を発して篠山を抜け(篠山の東に、那須与一が戦勝祈願したという寺がある)、三草山で一戦し、ここ掎鹿谷も抜けたということだ。

 古法華自然公園は、ゴツゴツとした岩肌が露わな善防山と笠松山にまたがる公園。
 車で山上の駐車場へ登る道があるのだが、これがまた峻険極まる。
 鎌倉の切り落としより酷いかもしれない。
 ちいさな古法華寺には、石仏が秘蔵されているらしいが、この日は見られなかった。

 あやしい宗教施設―――。
 私が前々から注目している、某宗教団体。
 昨秋、三草山から登ったときに、その異様な光景に唖然とした。
 三草山の北東の荷篭谷を、巨大な門、大路、本殿、集会所で埋め尽くしていたのだ。↓ 


 今年3月の二次調査。
 あまりのひと気の無さ、そして庭園の石像群から、
 「 逃 げ 出 し た 信 者 が 石 に 変 え ら れ た の だ ろ う 」と推論した。


 今年6月の三次調査。
 門周りは、完成に近づいていた。
 周囲に建設会社の人間が数人居たが、これ見よがしに近づくなオーラを放っていた。
 途中、福井ナンバーの赤いフィット石川ナンバーの白いセダンが、門を抜けて入っていった。

 引き揚げようとしたとき、荷篭谷の手前の畑という場所に、工事関係の看板を見つけた。
 H○C施設建設工事。―――○MC…きっかけをつかんだ。


 さて、帰宅してから、HM○について調べてみた。
 結論から言うと、あやしい宗教施設の正体は、念仏宗 無○寿寺。本部は京都嵐山。
 数十年前に誕生した新興宗教であり、すでに福井、金沢などに拠点があるようだ。
 そして、この加東市の社の谷あいに、新たな拠点真○の里をつくろうとしているのだ。
 HM○とは、対外活動を行いやすくするためのダミー会社に過ぎなかった。

 旧社町の元町長は、賄賂を受けて開発許可を出し、のちに逮捕された。
 総本山○如の里は、約10万坪の敷地に総予算350億円を投じてつくられているという。
 1坪は約3.3㎡だから、10万坪は330,000平方㎡。
 細長い荷篭谷を埋め尽くしてるから、その規模はざっと200m×1,500m(=300,000㎡)+α くらいだと想像すればいい。なお、施工はゼネコンの大成○設

 念仏宗 無量○寺
 ウィキペディア
 兵庫タイムス
 国民新聞

 情報化社会と言われる昨今です。念佛宗についての様々な情報が、多方面から入る方もおられると思います。
 信頼できる情報もあれば、取るに足らない信頼できない情報もあります。
 加工された言葉のかたまり達が、私達の周りで自己顕示しています。
 さて、あなたは・・・どの情報(言葉)を信じ選ばれますか?
 私自身は、私に念佛宗を紹介してくださった、お声を掛けて頂いた方のお言葉(お人柄)を信じました。
 私は、その方を信頼できる方だと、私自身の心(直感かな?)で、判断いたしました。
 あの日、私にお声を掛けて頂いた方のお人柄を信頼し、自分自身の心を信じて良かったと、いつも思っています。 
 あなたは、あなたにお声を掛けられた目の前におられる方を、どんな風に判断されますか?


 ↑これが、諸疑惑に対する念仏宗 無量○寺(信者一個人という態をとっている)のスタンス。
 あとは、各々見て、調べて、判断されたい。

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 走行距離 約127km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.7.23(水)

 7/21に描いた落書きに、フォトショで色塗りしてみた。
 レイヤーは28、PSDファイル13.2MB、JPGファイル609KB。なぜかやたら重い。
 一応、眞子内親王殿下のつもり。
 え、似てない? やっぱり不敬罪ですか、そうですか。orz


 描いた絵を見て、母方の又従姉妹に似てるかも、と思った。
 眞子様と似てる…わけではないが、この絵とは似てる。
 (ってことは、やっぱり似顔絵になってないんだね!? シクシク…)
 最後に会ったのは、又従姉妹が高校の頃。今頃は女子大生かな。
Posted at 2008/06/24 20:21:01 | 日記
2008年06月02日 イイね!

日記 ⑧

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、八冊目。

 日記       


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.7.22(火)

 日記帳が紙数尽きた。


 20.7.21(月)

 ああ、やってしまった。7/15参照。
 ついカッと(以下省略)

 はい、秋篠宮のおひぃさん、眞子内親王殿下のつもりでございます。
 宮内庁の方、いきなり私を消去するのだけは御勘弁を。
 その前に画像を消去する用意はございますので。

 いくつかの画像見てから、数年前の頃の画像のアングルを借用して描いてみた。
 B5の紙に、シャーペン描き。しるしのモッコウバラは適当。
 目は一重の切れ長、眉は比較的うすく、口は小さく、鼻、輪郭もととのってる。
 うん、別嬪さん。
  なお、胸のふくらみ具合は想像でk   ギャーーー  ゴボガボ   。。。    。。    。


 20.7.20(日)

 前日の続き。私は、基本に立ち返った。
 CDを石鹸あわあわ、丁寧に洗い、完全に乾燥させてから再生させた。(H19.9/22参照)

 ♪ いーまいーじょー そーれーいじょー アイされるーのにー
     あなーたはーそのー すきとおったヒトミのーままでー ♪


 CDは黄泉返った。またいつ本当に再生不能になるかわからないので、メディアプレイヤーのライブラリに取り込んでおいた。
 恋の予感、熱視線、碧い瞳のエリス、プルシアンブルーの肖像、Friend、微笑みに乾杯…村下孝蔵(リンク「永遠の歌人」参照)を知る前にハマっていた曲群に、久々に浸った。


 20.7.19(土)

 久しぶりに安全地帯を聴こうとCDをかけると、なんてことだろう、音がトんでいた。
 途中までは普通なのだが、サビに入るところで、

 ♪ いーまいーじょいーまいーじょいーまいーじょいーまいーじょいーまいーじょ…

 エンドレス。泣いた。


 20.7.18(金)

 少し前の話。
 通りすがりの方から、メッセージを頂いた。
 「楽しませて頂きました」の意の、簡潔な文面。
 いや、こちらこそこんなテキトーなページがお目汚しにならなんだかと、恐縮しきり。
 それにしても、一体どこらへんが楽しかったのかが気になったりする。
 プロフ関係かな、日記かな、おすすめスポットかな。


 20.7.17(木)

 腹筋筋肉痛になった。。
 【ニコニコ動画】リアルFF


 20.7.16(水)

 最近、今頃になって海音寺潮五郎にハマっている。
 悪人列伝を読破して、ただ今武将列伝の途中なり。


 20.7.15(火)

 世間では、眞子様佳子様人気(?)がえらいことになっている。
 ↓の動画で、えらい格好させられて、えらいセリフを言わされている。
 元ネタ知らんが、えらいこっちゃ

 高円宮が亡くなられたときは、その葬儀の娘さんの格好にビックリさせられ、「それに比べ秋篠宮のおひーさんは、なんて育ちが良いんだ~」とウルウルしていたのは私も一緒だが。
 まあ、でもアレだ。いささか歪んだ人気・興味も、無関心よりかは良いかもしれん。。
 時代は皇室萌えに向かっているのかはわからないが、とりあえず昭和天皇を描いてみた。

 一般のイメージでは、ぼんやり屋さんの風貌だけども、若い頃(新婚ホヤホヤ)の写真にものすごく男前に映っている写真がある。大正14年3月3日赤坂離宮にての写真。
 でも、写真見ながら描いたのに、あんまり似てない。(ノ_・。)ジモヘタダシ…

 国民の期待を一身に背負っていた日嗣の御子は、弱冠20歳で(大正天皇を補佐する)摂政に就き、25歳にして天皇に即位した。元号は、昭和。
 天皇とは、国家元首であり軍の最高指揮官であっても、内閣の決定を承認することしかできなかった(言うだけ言うことはできても、決定を覆す権限(拒否権など)はなかった)。この点、天皇は独裁者どころではない。
 やがて軍部が暴走し(省略)トースイケンノカンパンやらなんやら言い出されて(省略)クーデターまで起こされ天皇涙目(省略)なんやようわからんうちにイケイケな感じで戦争へ。
 大東亜戦争の直前のまでは、極力平和裏の道を探っていたが、いざ開戦すると「開戦すればどこまでも挙国一致でやりたい」とのたまい、緒戦の勝利を無邪気に喜んだ。
「戦争開始前には予告せよ」
「人類平和のためにも、いらずらに戦争の長びきて惨害の拡大しゆくは好ましからず」
「(油田地帯の占領の報を聞き)それはひじょうに結構だが、すぐ使えるか」
「(南方の快進撃が続き)あまり戦果が早くあがりすぎるよ☆」
「ミッドウェーの損害は誠に残念であるが、今後の作戦が消極退嬰にならざるようにせよ」
「なぜ飛行場をつくるのに米国の何倍の時間もかかるのだ」
「ガナルカナル島の撤退は遺憾である」
「次々に起こった戦況から見て、今度の戦争の前途は決して明るいものと思われない」
「なんとかして、どこかの正面で米軍を叩きつけることはできぬか」
「ニューギニア方面は、航空作戦も糧食弾薬の集積も少しはよくなっているか」
「海軍はいったいどうしているであろうか。なんとか叩けないかねえ」
「補給には一段と万全を期してもらいたい。補給の困難から窮地に陥るがごときことのあるのは、実に忍びないところだ」
「(特別攻撃隊の報を聞き)そのようにまでせねばならなかったか――しかしよくやった」
「ソ連が武力的に立ち上がることはないと思うか」
「(アルミ回収にあたり)家庭用品までは没収しないように」
「なるべくすみやかにこれ(戦争)を終結せしむることが得策である」
「この種の武器(原子爆弾)が使用せらるる以上、戦争継続はいよいよ不可能になった」

 実に、姑のようなこまごましさだ。その口出しは、
 ○ やる以上は、積極的にやる
 ○ なるべく国民の生活安定・兵の士気に気を遣う
 ○ 戦争の早期終結を図る
 ○ ソ連に対する恐怖

 …で筋が通っている。
 そして、降伏に向けて御前会議をひらいても、相も変らぬ小田原評定。。
 ここで天皇は、自己に与えられる権限を越えた。
 張作霖爆殺事件の甘い処分に対する首相への大叱責軍部のクーデターに対する大激怒以来、三度目の。いわゆる、終戦の聖断
 あの敗戦で日本は滅んだ、断絶した―――と、よくいわれる。ところが結局、天皇と皇室日本人がつくった法律は、未曾有の国難もなんのその。生きている。

 次々に襲いかかる苦難に立ち向かい、押し流され、這い上がった昭和天皇。
 この人こそ、立憲君主としての最高に属する君主だったと思ってる。
 血ゆえではなく、血統や立場の認識による自己鍛錬と自己制御の徹底ゆえに。

つ「昭和天皇語録」


 20.7.14(月)

 ラバウル海軍航空隊だ、と思ったら栄冠は君に輝くだった。


 20.7.13(日)

 先月上旬の話。
 播州の志方城、神吉城、御着城、廣峯神社、白國神社、ぱんだ、置塩城、櫃蔵神社、安志鴨神社、安志稲荷神社、安志姫神社、伊和神社へ行った。
 最初は、志方城、神吉城、御着城、廣峯神社、置塩城、山崎城、篠ノ丸城、伊和神社、波賀城、根日女の湯へ行く予定だったのだが、成り行きで変更した。

 志方城は、三木城から15km西にある城で、今は観音寺と志方小学校となっている。
 城主の櫛橋氏は、黒田官兵衛の妻の実家で、三木合戦の折に別所氏に味方し、落城した。 
 神吉城は、志方城から3km南にある城で、今は常楽寺となっている。
 城主の神吉氏は、三木合戦の折に別所氏に味方し、落城した。近隣の生石神社の宮司は神吉城主の弟であったため、焼き討ちに遭った。
 御着城は、志方城から7.5km西にある城で、今は姫路市東出張所となっている。
 城主の小寺氏は、播磨守護の赤松氏の庶流であり、三木合戦の折に別所氏に味方し、落城した。黒田官兵衛で知られる黒田氏は、小寺氏に重用され、小寺姓を賜っていた。
 上の三つの城は、戦国期の城ながら、周囲よりわずか数m高いだけの台地にある。

 廣峯神社は、姫路城から4km北の広峰山にある神社。
 のちにスサノオと習合されたインド渡来の神の牛頭天王を祀る。
 牛頭天王は、祇園精舎の守護神であり、ゆえに同じ神を祀る京の八坂神社は祇園さんと呼ばれる。また、悪疫を防ぐ神でもある。

 そみん‐しょうらい【蘇民将来】
 1 神に宿を貸した善行により茅(ち)の輪の法を教えられ、子孫に至るまで災厄を免れることを約束された説話上の貧者の名。→ 茅(ち)の輪 2 疫病よけの護符の名。柳の木を六角または八角の塔状に削り、「大福長者蘇民将来子孫人也」などと墨書し、小正月に諸所の社寺で分与する。

 昔、北の海の武塔神(むとうのかみ)が、南の海神の娘に夜這い(!?)をかけようと出かけ、日が暮れた。
 その土地には、蘇民将来と巨旦将来の二人の兄弟があった。
 裕福な弟の巨旦将来は、武塔神に宿を貸すのを拒んだ。
 貧しい兄の蘇民将来は、貧しいながらも精一杯のもてなしをした。
 年月を経て、武塔神は八柱の御子を連れて還ってきた。
 そして蘇民将来に妻子の有無を問い、茅の輪を腰につけさせた。
 その晩、茅の輪をつけた者を残し、すべての村人がことごとく死滅した。
 「われはハヤスサノオなり。後の世に疫病あらば、汝は蘇民将来の子孫と言うがよい。茅の輪を腰に着けたる人は免れられよう」


 この蘇民将来伝説は、続日本紀(しょくにほんぎ)に見える話らしい。
 この話ゆえに、人々は蘇民将来の子孫であることを示し、疫病から逃れるわけだ。
 前述しているが、スサノオ/ハヤスサノオはヤマタノオロチ退治で知られる出雲系の神であるが、スサノオと合わせられる前の神の有り様が、牛頭天王である。
 そもそもこの伝説自体が、武塔神、巨旦将来、蘇民将来などの見慣れぬ名のセンスからして外来の色合いが濃厚だ。
 ↓(左)は、廣峯神社で販売されている蘇民将来の札。茅の輪つき。

 それに対し、八坂神社の札(右)は、札というより八角柱の木の塊…。
 「八坂神社に し か な い お守」と、特に強調している。
 そう、廣峯神社と八坂神社は、いずれも祇園信仰の総本社と主張して譲らないのだ…。

 廣峯神社からは、姫路の街がよく見える。姫路城の天守閣は4km南。さらに奥は播磨灘か。
 ちなみに、「ひろみね」と名付くこの地であるが、当てる文字は様々だ。
  神社名:廣峯神社→「峯」、山の名:広嶺山→「嶺」、住所名:広峰→「峰」
 なお、「廣」は「広」の旧字体であるだけである。

 廣峯神社には、社務所のとなりに、かわいいイラスト入りの犬小屋がある。
 住人(犬)の白いわんこは、ひろみねやまこじろう
 おとなしくて愛らしい、雄の老犬。こじろう、長生きしなよ。

 白國神社の「白國」は、「しらくに」と読む。
 昔は、「新羅訓」の字を当てていたらしい。
 新羅(しらぎ)のクニは、言うまでもなく古代朝鮮の国。
 この神社が、廣峯神社のある広嶺山のふもとにある。
 廣峯神社と八坂神社がどちらも祇園信仰の総本社と主張している件は先に述べたが、異国の風が強い(外来の神の牛頭天王を祀っていた)廣峯神社と外国の名を冠する神社がセットで存在したことを考慮すると、おそらく平安遷都以前には遡れまい八坂神社よりも廣峯神社の方が古かったと考える方が、自然だろう。
 かつてはかつての祀る神があったのかもしれないが、今の祭神は、コノハナサクヤヒメ。
 アマテラスの孫のホノニニギの嫁であり、花と岩の説話火中出産の説話で知られる。
 高天原から日向高千穂に降臨したホノニニギは、一人の美しい娘を見初めた。
 「そなたは誰の娘なのだ。兄弟はいるか」
 「オオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメと申します。姉に、イワナガヒメがおります」
 「われはそなたを妻にしたい。如何?」
 「えっ…それは、父がお答えしましょう」
 話を聞いたオオヤマツミはとても喜び、姉のイワナガヒメも一緒にニニギに嫁がせた。
 ところが、イワナガヒメはあまりに醜かった。
 ニニギはイワナガヒメを一目見るなり親許へ送り返し、コノハナサクヤヒメのみ留めて一夜の契りを交わした。
 オオヤマツミは、イワナガヒメがつき返されたことを恥じ、怒り、ニニギを呪った。
 「われがなぜ娘二人をおくったか、おわかりか。イワナガヒメを娶らば天つ神の御子のお命は岩のごとく永久に続き、またコノハナサクヤヒメを娶らば木の花の咲くがごとく栄えるはずと、祈りを込めて二人差し出したのだ。それをかくのごとくいたしたからには、天つ神の御子のお命は、山に咲く木の花のごとく散り落ちようぞ」
 ために、今に至るまで大君たちの命は、長くなくなってしまった。

 「あの…わたくし…ニニギさまの御子を身籠ったようです」
 「!―――そなたは、あの一夜の契りで孕んだのか。それはわれの子ではなかろう、そこらの国つ神の子だろう」
 ブチキれたコノハナサクヤヒメは、戸のない宮殿をつくらせ、土で周りを塗り固めさせ、火をかけた。
 「天つ神の御子ならば、きっと何事も起こりますまい」
 女の、決死の誓いだった。
 燃え盛る炎の中、コノハナサクヤヒメは無事に出産し、潔白を証明した。


 置塩城の置塩は、「おきしお」と読む。
 播磨の名族・赤松氏の嫡流の城として長くあったが、羽柴秀吉の進出に際し早々に降った。
 実は、時間の都合により登山口のみ。登ってない。。(><)
 櫃蔵神社の櫃蔵は、「ひつくら」と読む。
 置塩城で祀っていた神を、秀吉に降った折に、城の周りの三ヶ所に分祀したらしい。
 置塩城の城山、ふもとの櫃蔵神社、足もと流れる夢前川。その河川敷で、子供連れの数家族が車で寄りあってバーベキューをしていた。ガンガン音楽をかけて。(ユーロビート?)
 BBQは大いに結構だが、川のせせらぎ、野鳥の声…自然の音楽を殺すBGMはどうだろう。。

 安志鴨神社は、上賀茂神社から分祀された神社。安志稲荷神社も一緒にある。
 ふところ深くて巨木も多い。壮大で心洗われる境内。
 中国道から見える大きな赤い提燈は、社のナイル書店のラクダ並に有名である。
 安志姫神社は、安志の郷の土着の女神を祀る神社。
 安志姫は、同じく土着の伊和大神の求婚を、キッパリ断った。
 そのため、嫌がらせを受け、この郷を流れる川の水量が減ったそうだ。

 伊和神社は、土着の神の伊和大神を祀る。
 あるとき、一晩にして杉や桧がニョキニョキ伸びて生い茂った。それはトトロの森のように。(?)
 そして大きな鶴が二羽、森の石の上に止まった。
 「われを祀れ」とのお告げを聴いた豪族・伊和恒郷は、ここに伊和大神を祀った。
 伊和大神は、出雲系の神のオオナムジに習合された。

 おすすめスポット タグ 羽柴秀吉の侵掠 タグ 黒田氏 タグ 夢前 タグ 安富 タグ 宍粟

 走行距離 約227km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.7.12(土)

 童謡うさぎとかめの一番を、軍歌戦友のメロディーにのせて歌うと、なぜかしら凹む。


 20.7.11(金)

 先々月下旬の話。
 二通の封筒が来た。同じ封筒、同じ文面。
 <ご案内>
 このたびは、「春ものがたり スタンプラリー」にご参加いただきまして有り難うございました。
 抽選の結果、あなた様がご当選されましたので、3施設(立杭陶の郷、兵庫陶芸美術館、こんだ薬師温泉ぬくもりの郷)の招待券を同封いたします。(後略)   やきものの里 プロデュース倶楽部  代表 I野 K司



 そうだ、GWに篠山市の今田へ行った折、スタンプラリーが催されていたため、親戚の分もみんな浮野様方と書いてもらって応募したのだった。5/26、29参照。
 六人中二人当選――くじ運の悪い私としては、盆と正月がいっぺんに来るくらいの大当たり。
 これがどれくらいの額かというと、
  立杭陶の郷  200円×4=800円
  陶芸美術館  700円×4=2,800円 (原則900円。700円になる割引券は、簡単に入手可)
  ぬくもりの郷  600円×4=2,400円
 都合、6,000円相当なのだ!

 「聞いて聞いて!(以下省略)」
 「…。それって、今年の運、全部使ったんちゃうん?」        orz


 20.7.10(木)

 自分の記憶を疑いたくなるほどの、曖昧な、記憶の海に澱んだ記憶。
 昔、映画子猫物語のあとだったと思うが、子犬を主人公にした映画を見た覚えがかすかにあるのだ。といっても、チャトランの相棒・プー助を主人公にしたTVドラマ子犬物語ではない。

 どんな映画だったか、整然と思い出せないので、箇条書きで書いてみよう。
 ○ 主人公は、年頃の娘(20歳前後?)に飼われる日本犬(?)の子犬。
 ○ 飼い主の娘の住む地方の町に、温泉が湧き出ることが判明する。
 ○ 温泉で町興しを図る一派と、従来の環境を守る一派(飼い主が属する)に分かれる。
 ○ 主人公が、夜中に墨と紙と前足で文字を書く。飼い主宛ての感謝の言葉か?
 ○ 主人公が、飼い主のもとを離れる。
 ○ 町中のペットの犬が大脱走する。広場(?)に集結?


 はっきりした筋は覚えていないが、流れからいって、犬の総意(?)で環境保護派が勝利したのだと思う。これが一体何という映画だったのか、いくら調べても今もって不明である。
 本当に、本当の記憶なのか―――いや、

 映画を見たとき、当時の父が(実に大人気ないことに)
 「犬が字なんて書けるわけない」
 …と意地悪を言い、それに対して姉弟で
 「そんなことないもん! かしこい犬やったら、書けるかもしれへんやん!」
 …と涙目で抗議した記憶も、セットであるのだ。

 こういう内容の映画は確かに存在したのだと、かろうじて思う。
 この作品を知っているぞ、という猛者がおられたなら、ぜひ作品名をご教授願いたい。


 20.7.9(水)

 先々月末の話。
 丹波篠山のドーノ、播州加西の県立フラワーセンターと東条の冷泉為勝・依藤太郎左衛門之墓へ行った。

 「フラワーセンターで、チューリップの球根掘りやってんねんて!」
 「それより、お城…」「球根」
 「神社…」「 球 根 」   orz コンマケ。

 兵庫県立フラワーセンターは、加西ののんびりとした丘陵の地にある。
 土地が広いのに駐車料金500円を徴収するのが、いまだに納得いかない。(><)
 さて、百均で買ったスコップ持って、いざ出陣。
 広大なお花畑でセッセコセッセコ掘るのかと思いきや、案内された場所には、枯れたチューリップの植わった植木鉢が何百何千と置かれていた。
 その植木鉢は、三段ずつ積み重ねられていて、それが一人当たりのノルマだという。
   ザック ザック
 一所懸命、丹念に掘り返す。
   ザック ザック   サクッ
 あああ球根を一刀両断…。どこが丹念なんだか。。
 …こうして、やっと植木鉢一段を全部掘りおこすと、周りのオバチャンたちは既に三段目に突入しているではないか! 手つきが明らかに違う…こいつぁリピーターだ!
 われらが二段目を相手に奮闘している頃には、周りはもうノルマの三段を終えていた。
 「(フラワーセンターの)お兄ちゃん、次の分、持ってきてやー!」
 百戦錬磨は、再び積まれた植木鉢を見るや、もうひと戦をはじめた。
 その速さと正確な動きはスタープラチナを思わせた―――。
 …かの軍団が六段+αを平らげホクホク顔で帰ろうとしていたとき、われらはやっと三段すべてを掘りおこし、掘りおこした球根の土を払っているところだった…。
 持ち帰った球根は、三品種。品種名は失念したが、ひとつは「紫雲」だったと思う。
 球根は母にあげた。(園芸は人任せ)
 来春、三種のチューリップが花咲かす。どんなカタチ、どんな色?


 冷泉為勝は、播州細川庄の冷泉氏の嫡男。藤原惺窩の兄。7/4参照。
 依藤太郎左衛門は、その昔に赤松氏の被官であり、東播において別所氏と勢力を争っていた依藤一族の長者。
 依藤氏は、嬉野(うれしの、旧社町の東南部の台地)から東条谷(旧東条町の南西部の東条川沿いの土地?)にかけて勢力を張っていた。嬉野と東条との旧町境に、依藤野(よりふじの)という地名が残っている。しかし依藤氏は、戦国時代中期に衰え、その所領は別所氏に蚕食された。どうやら、凋落した依藤氏の子孫は、旧領の南の豪族・冷泉氏の家老的存在になっていたようだ。その名が、依藤太郎左衛門。一時代前に強勢を誇った依藤氏の当主と、同じ名。
 冷泉氏は、1578年の三木合戦の手始め(?)に別所氏に一揉みに潰されたのであるが、細川庄のひとつ北の依藤氏が別所氏に駆逐される中で、たかだか数百名しか動員できない冷泉氏が、どうして戦国時代後期のこの時点まで別所氏に追いやられなかったのだろうか
 三木合戦までは、冷泉氏は別所氏に臣従していたのか。あるいは、対等な同盟関係にあったのか。それとも、歌詠みで知られる冷泉の血筋が、のんびりとした播州では畏敬の目で見られており、独立の態を保っていたのか。
 ともあれ別所氏にとっては、三木合戦――別所氏にとっての乾坤一擲の大いくさ――の前に、三木城からほんの4kmほど北東の敵勢力(冷泉氏は別所氏の誘いを断った)を放置できるわけはなかった。
   コケコッコーー! コケーーココ!
 「んん、やかましぃなあ」
   ワンワン ワン!
 「! …たれか、誰かあるッ!」
 まだ人影がやっと見えるほどの早朝、播州細川の冷泉館は敵軍に強襲された。
   わー わー  ギャーー!
 「殿、敵兵でおざります!」
 「やはり、別所かや」
 「はッ、ざっと二百。残るは塀一枚、お味方の人数では到底…」
 「…為勝は、どこや」
 「兵の踏み込む前に、ご家老さまがお連れになられました」
 「ええ判断や。そなたはおなごどもを、羽柴さまの許へ落としてくりゃれ」
 館はあっという間に落とされ、下冷泉家当主の為純は別所の兵に討たれた。
 家老の依藤太郎左衛門は、軍兵の気配、甲冑の擦れあう音にいち早く感付き、主家嫡子の為勝をさらうように連れ去り、北へ逃れたのだった。
 為勝と太郎左衛門は、冷泉館の半里北の桃坂峠にて振り返り、館から黒く立ちのぼる煙を見た。
 「太郎左衛門! ……そなたはよくも…うぅ、おもうさんが…」
 「若、うろたえ召されるなッ! 父子の討死には、お家の滅亡。殿がご武運拙く討たれようとも、若が仇を討てば宜しい!」
 「うぅう~…」
 「若、気を落とされますな。嬉野までゆけば、わが旧領。顔馴染みも多く居りますゆえ、身ひとつのわれらならば…」
 「た、た、太郎左衛門!」
 「は? ……は、はぅあッ!」
 遠く、別所の兵の一部が明らかに桃坂峠に向かって来ていた。嫡男の首がないことに気が付いたのだろう。
 為勝主従は、脱兎の如く逃げ出した。道を変え、すれ違う百姓に口止めを約させ、さらに二里も走った。しかし、血に濡れた刃を前には、よほどの義理がなければ嘘をつける訳がない。別所の兵は、確実に迫っていた。
   ゼーゼー ハーハー
 「若、この榮枝の坂を越せば、嬉野ですぞ」
 「太郎左衛門、もうよい。こなたはもう歩けぬ」
 「若!」
 「それに、もう坂の下まで来ておるわ。ほれ、見えたわ」
 「うぐッ、無念…!」
 「太郎左衛門、よう此処まで供してくれた。かくなる上は、ひと思いにやってくりゃれ」
 「しからば御免!」
 冷泉為勝と依藤太郎左衛門の主従は、嬉野を前にして自害した。

 峠の手前の墓碑を見て、こういう風景が思い浮かんだ。
 三男の藤原惺窩がこのとき18歳であったから、長男の為勝は二十代前半くらいだったろう。
 地方に下向した公家が、半世紀の間にどの程度武家化したかは、明らかでない。


 加東・加西を走っていると、時折、黄金色に輝く小麦畑があった。(減反政策の一環?)
 スペインの小麦畑とは趣が異なり、ひどく日本的な背景。そこがまた新鮮なり。

 おすすめスポット 兵庫県立フラワーセンター タグ 三木 タグ 羽柴秀吉の侵掠

 走行距離 約109km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.7.8(火)

 ブタクサと具だくさんは、響きが似ている。


 20.7.7(月)

 バックミラーとサイドミラーは、距離感が異なるので注意を要する。

 …ところで、バックミラーのことをルームミラー、サイドミラーのことをドアミラーとも聞くが、用語としてどちらが適切なのだろうか。


 20.7.6(日)

 5/30の給油記録。
 この間、レガシィを使っての遠出(行楽)は無かった。

 219.5km(高速道路不使用) 9.3km/l(燃費計) 25.47L 給油 レギュラー@152円
 219.5÷25.47=8.617… → 8.6km/l(満タン法)
 8.6-9.3=△0.7

 ∴燃費計は、満タン法より、0.7km/l前後良く測定される。
 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、219.5km走って 8.6km/l

 一見、今までより格段に街乗り燃費が良いのだが、これには理由がある。
 病院の送り迎えのため、信号が少なめの道を何度か往復しているからだ。


 20.7.5(土)

 別の話になってる。 orz イヤァァ!
 逃げてー!


 20.7.4(金)

 先々月下旬の話。
 播州三木の細川庄、湯庵、平田山などへ行った。

 細川の庄は、三木城から北東4km付近の郷。
 中世、ここは京の公卿に発する冷泉家の所領であった。
 この日の最初に、ここの藤原惺窩誕生地と大雄寺に訪れた。

 藤原惺窩は、細川庄を現地で治めていた冷泉家の三男として生まれた。
 冷泉家は、藤原の一門で、鎌倉時代に一族内の所領争いが紛糾し、南北朝時代に二流に分かれた。(藤原惺窩が「藤原」を名乗るのは、辿れば源平藤橘の藤だから。しかも、血統が確かで近しい。清和源氏の武田勝頼も、正式には源勝頼と名乗っている)
 応仁の乱で今日が荒れ果てたのち、上冷泉家は駿河の今川氏の食客となり、下冷泉家は(所領争いで勝ち取った)細川庄に下向し、そのまま留まった。
 天正年間の三木合戦(別所氏を中心とする播州の諸勢力が、中国の毛利を頼みにして、羽柴秀吉ひいては織田勢力に抵抗した戦い)において、冷泉氏は別所氏につくことをためらったため、別所氏の襲撃を受けた。1578年4月のこと。
 ゆっくり歩いても半刻もかからぬ距離、冷泉氏にとっては奇襲となった。東播一の屈強な別所の兵の攻撃に、当主の冷泉為純は討死に。嫡男の為勝は凶刃を逃れたが、のちに討手に追いつかれ自害した。

 藤原惺窩誕生地は、まさにその襲撃地、冷泉氏の館跡でもある。
 三男の惺窩は、幼い頃から龍野の景雲寺に入っていたため、このとき不在だった。(おそらく「惺窩」は僧か学者としての名と思われる。一族伝統の「為」の字の入った名があったろうが、いくら調べても資料に無い…)
 悲報を聞いた惺窩(当時18歳)は、残された一族を連れて京の相国寺に入った。
 1578年当時の中央は、織田勢力が(継続中の石山合戦を除き)地盤を固めていた。
 別所氏を含む播州や丹波の諸勢力は、以前は織田氏に協力的で、それなりの友好関係も築いていた。そこに、1578年になって一気に離反が相次いだのだ。二年先だって織田に抗していた波多野秀治(丹波八上・現篠山)、その波多野氏と姻戚関係にある別所長治(播磨三木)、織田の有力な被官にまでなっていた荒木村重(摂津有岡・現伊丹)――。
 これら反織田の勢力は、みな一様に中国の毛利氏の応援が計算にあった。
 織田氏、そして播磨方面の攻略を担う羽柴秀吉にとっての幸運は、元播磨守護の赤松氏(置塩城の嫡流、龍野城の庶流)と播磨御着の豪族の小寺氏の重臣・黒田官兵衛孝高(姫路城を保有)が自陣に留まったことだった。
 最前線は、西播の要の上月城。ここに毛利氏と宇喜多氏の三万を超える軍勢が殺到し、上月城に籠もる織田方の尼子残党(主は尼子勝久、将は山中鹿介幸盛)が孤立した。
 戦線は延びきっていた。しかも、危うい。
   上月 ←22km→ 龍野 ←14km→ 置塩/姫路 ←28km→ 三木 ←40km→ 有岡 ←40km→ 京
 しかもこれは直線距離であって、現実には摂播の山川が幾重にも並んで阻んでいるのだ。さらに背後の要所を敵勢力に脅かされては、戦ができるわけがない。
 羽柴秀吉の主君・織田信長は、三木攻めを優先するよう命じた。
 秀吉は追撃に苦しみつつ上月から撤退し、上月城は降伏、落城した。尼子勝久は切腹し、囚われた山中鹿介は、のちに謀殺された。1578年7月のこと。

 京に逃れた惺窩少年は、一族の悲劇と報復、家の再興を羽柴秀吉に熱く訴えたことだろう。
 冷泉家は弟の為将が継ぎ、さらにのち、惺窩の子の為景が継いで、公卿として再興した。
 惺窩自身は一心に学問に打ち込み、朱子学を軸とする儒学の大家となった。
 ただそれは、日本人の感覚とはかけ離れたものだった。
 簡単に言えば、学問(科挙)によって高官になることができる中華の国に憧れていたのだ。
 そのため、一度は渡海も試みたが、失敗に終わった。
 「ああ、どうして中国に生まれず、またこの国の上世に生まれずして当世に生まれたのだ!」
 論語を聴いても文字通りのチンプンカンプン、それどころか刀槍・弓箭をもちいて寸土を争う日本が、心底嫌になったのだろう。家を滅ぼされたトラウマもあったかもしれない。
 そんな惺窩は、慶長の役において捕虜として連行された朝鮮の儒者・姜沆と話が合った。
 姜沆が朝鮮に帰るときに惺窩がかけた言葉は、
 「明と朝鮮の軍で、日本を攻めとってはくれまいか?」―――だった。 orz コイツ…

 平田山は、三木城より1.8km北西の山で、三木合戦の際に羽柴秀吉の部将・谷大膳の陣があった場所。谷大膳は、ここで毛利と別所の軍勢と戦い、討死にした。平井山との区別に注意。
 羽柴秀吉は、織田信長の嫡男・織田信忠の軍勢を支援に、三木城の支城群を踏みならした。野口城、神吉城、志方城、端谷城、高砂城…有力な豪族が次々に降された。秀吉は平井山を本陣とし、三木城の周囲に幾つもの付け城(城を攻めるために城のそばに築く砦)をつくり、包囲の態勢を整えつつあった。
 しかし、別所氏もただ指をくわえて見ているだけではなかった。10月に謀叛した荒木村重と連携し、毛利氏からの海上補給を兵庫の湊で陸揚げし、花隈城から山田の郷、丹生山、淡河を抜けて山中から兵糧を運び入れる路を確立したのだった。
 村上水軍をはじめとする毛利水軍は、1578年12月に石山本願寺への兵糧搬入を企図するも、九鬼水軍をはじめとする織田水軍の鉄甲船を前に敗退し、頓挫した。これで摂津河口の制海権を失ったが、1579年3月には三木城への兵糧搬入に成功している。
 1579年2月、三木城に籠もる別所氏は、決戦を求めて北東3kmの平井山に出陣した。その兵数、三千五百。しかし、強襲もむなしく、多数の死傷者を出して退却した。この戦いで、別所長治の弟・治定が討死にした。
 1579年5月、丹生山の明要寺砦が陥落。6月、淡河城(当時の名は上山城)に攻め寄せる羽柴秀長(秀吉の弟)に対し、淡河定範は、多数の雌馬を放つ奇策で羽柴勢を撃退し、その後は城を放棄して三木城に入った。
 ここに、前述の兵糧搬入の路は閉ざされた。
 次に毛利氏は、雑賀党の門徒数千に兵糧を持たせ、数百の護衛の兵をつけて三木城に接近した。(加古川~美嚢川を遡ってか?)三木城からも兵を出し、三木城包囲網の西を破って兵糧を運び入れる策だった。1579年9月のこと。
 別所の兵三千が平田山の谷大膳衛好(たにもりよし)の砦に殺到した。谷大膳も名の知られた勇将であったから、薙刀をふるって応戦したが、別所の兵の槍にかかって討死にした。
 しかし善戦もそこまで、羽柴秀吉の援軍が駆けつけ、急を救ったのだった。(平井山~平田山間は、東西3.5kmの距離)別所の軍勢は一気に苦境に陥り、一千名近い死者を出しながら城に退いた。兵糧の大半は、羽柴勢の手中に帰した。
 結局、またもや兵糧搬入の目的は達せられなかったのだった。以後、別所方の活発な行動は失せた。
 1580年1月、別所長治は、一族の命を代償に城兵と領民の助命を羽柴秀吉に訴え、秀吉はこれを快諾した。

 今はただ恨みもあらじ 諸人の命に代わる わが身と思えば   別所長治 辞世

 当主・別所長治(23歳)、妻・照子(22歳)、子・竹姫(5歳)、虎姫(4歳)、千松丸(3歳)、竹松丸(2歳)
 弟・別所友之(21歳)、妻(17歳)
 叔父・別所吉親(38歳)、妻・於波(28歳)、子二名
 その他 家老・三宅治忠をはじめ侍大将、側室、侍女等 多数
 …が、刃をその身に喰い込ませ、命を断った。ここに、1年10ヶ月に及ぶ三木合戦は終息した。

 数十名が集団自決する様は、想像するだに無惨であるが、この死は無駄にならなかった。
 羽柴秀吉はボロボロになった三木を立て直すために租税を免除し、三木の民は徳川の世になっても秀吉の法を盾に永代免租を勝ち取ったのだから。
 普通に考えたら、秀吉の政策は戦後復興のための措置なのであって、江戸時代以降はその必要性も失ってるだろうに、三世紀近くも租税無し。
 戦乱の後代の三木の民は、非常な幸運であったといえる。

 湯庵(ゆうあん)は、三木城の西3kmの平野(三木市別所町這田)を見下ろす丘にある。
 たぶん完全に民間経営のスーパー銭湯だ。
 というのは、料金体制が小刻みでややこしく、高いからだ。
 なんと、土日祝890円。平日でも785円。
 よかたん600円、ゆぴか700円、というふうな「わかりやすさ」が無い。
 メリットは、館内着・タオルの無料貸し出し複数回入浴可
 メリットが薄い人の方が多数なような気がする。
 それでも、女性スタッフはヨカッタので(そこかい!)、一度試しに行くも良いかと思う。

 おすすめスポット タグ 三木 タグ 羽柴秀吉の侵掠 タグ 女性スタッフが良い

 走行距離 約94km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.7.3(木)

 Now And Then~失われた時を求めて~だ、と思ったらEverything (It's you)だった。


 20.7.2(水)

 謎だったイースⅢのサウンドトラックの曲名を自己解決した。6/30参照。
 歌詞を適当に検索かけたら、中国語の混ざった妙なページがかかり、ここの11月10日の項に載っていた。
 曲名は、千年 Loving(プッ)旅立ちの朝より。
 歌詞をすべて読むと、確かに覚えがある。間違いない、この歌だ。
   遥かな時 さまよう旅人は
   風の中で 優しく微笑んでいる
   燃え上がる炎 夜空を染めていた
   月日は流れて 時代は移り行く
 (一部抜粋)

 そして、検索の副産物(?)がひとつ。
 こちらのサイトこのページが検索上位に出たのだが、内容は個人的につくってネット公開している詩
 その詩の一節に、
   遥かな時さまよう旅人は 風の中で優しく微笑んでいる
 …という言葉がある。
 そう、千年 Loving(ウププ)の冒頭の歌詞と同じなのである。
 ごく小さい規模とはいえ、歌詞の盗用疑惑は濃厚だ。(もちろん、偶然の一致もあり得る)

 日本の音楽界を見渡しても、歌詞の盗用疑惑は頻々と起こる。
 盗用側は、「こんなマイナーなん、少しだけパクッっても誰もわかるわけないわ」
 …と思うのかもしれないが、ピンとくる者はくるもんだ、と思った。


 20.7.1(火)

 これは経験則だが、てるてる坊主をあまりリアルにつくってはならない


 20.6.30(月)

 なぜだか急に、中学のときに借りたゲーム音楽の歌を思い出した。
 イースⅢだったと思う。ゲームはプレイしていないが、サウンドトラックを借りたわけだ。

   ♪遥かな時 ??旅人は
    ??の中で 優しく微笑んでいる  燃え上がる炎~♪


 出だしは、こんな感じの歌詞。
 この歌を知っているぞ、という猛者がおられたなら、ぜひ曲名をご教授願いたい。


 20.6.29(日)

 今月11日の話。
 映画評論家の水野晴郎氏が亡くなったそうだ。氏の冥福を祈る。
 シベリア超特急は、なんだかんだで一作目しか見てないので、レンタルで続編が有れば借りてこようと思う。






 20.6.28(土)

 「今日、本当にコールドできると思う?」
 「で、できる…かどうかはともかく……狙います」

 私は今 第9巻のこのコマを見て、"寄生獣のような言い回しだ"と思った!


 20.6.27(金)

 愛おしきは 休前日の夜
 からだもこころも弛緩させる それは
 ファミリーのメディカルチェアに似て


 20.6.26(木)

 みんカラのブログをチョコチョコ拝見していると、そこそこ誤植がある。
 大体相場は決まっていて、
  確立× → 確率○
  自身× → 自信○
  以外× → 意外○
 …などが多かったりする。
 そんな観察をしてる私自身も、自分の日記を読み返すとビックリするほどの誤表記をしていることがある。推敲してるつもりでも、あやしいものだ。
 …という訳で、この日記は後から追って訂正が入ることがしょっちゅうある。


 20.6.25(水)

 私はかなり忘れっぽい。H19.13/15参照。
 だから、思いついたことがあったらメモをつける。
 日常のこともあるし、ネタ的なものも多い。
 省略して走り書きすることも、ままある。

   スヌーピー  スクイズ   !?

 そして、速記したネタを解読できないことも。(T-T)?


 20.6.24(火)

 街角で、ペットの小型犬を抱きながら歩いている初老男性がいた。
 あれを、犬の散歩とはいうまい。人の散歩…ただの散歩でもあるまい。
 いうなれば―――犬を重しにした筋トレをしながらの散歩、であろうか。
 まったくもって、不可思議な光景である。


 20.6.23(月)

 竜の柩だ、と思ったら黒龍の柩だった。


 20.6.22(日)

 先月下旬の話。
 播州の姫路市役所、摂津三田のエス小山へ行った。

 現在、姫路市役所イーグレひめじには、春に盛況だった姫路菓子博2008の作品の一部が置かれている
 姫路菓子博は菓子博史上最大の人出となったらしいが、高い(入場料二千円)し、んな人混みの中やってられん、ということで、ついに行かず仕舞いだったのだ。
 姫路市役所の北館に展示されている白鷺の夢は、菓子博では三時間待ちの目玉だったとか。とりあえず数年は、ここで公開するそうだ。そんな白鷺の夢は、こんな感じ。↓

 これは大作だ。唸らざるを得ない。しかし、だ。
 これはすべて菓子で出来ていて、それでいて永遠に食べられることのない運命なのである。
  菓子とは何か
  食まぬも菓子か
  工芸の材に過ぎぬのか
 一抹の疑問が頭をぐるぐる巡ったが、結局、閲覧無料という事実の前に、キレイに消え去るのだった。

 ここで、相方が「あっちにひめかおるで」と言ってきた。
 ひめかとは、姫路菓子博2008の公式マスコットキャラクターである。
 「ひめか? あんなペラペラのキャラ、立体化不可能に決まってほぇああ!?

 そこには確かに、三次元のひめかがあった―――。

 イーグレひめじは、姫路城のすぐ南にあるビルで、姫路菓子博の小作品のいくつかを展示していた(すでに終了)。
 兵庫県の和菓子屋・洋菓子屋がそれぞれ力作を出品しており、特に甲陽園の津曲(つまがり)が目立った。白鷺の夢も、ほとんど津曲の製作である。
 この名に聞き覚えがあるな、と思い転生前のブログを確認すると、2006年4月8日に夙川花見のついでに行っていたようだ。シュークリームが美味しかったと記憶している。
 イーグレひめじの北側はガラス張りで、姫路城の天守閣との距離は600mある。
 城の台地と似た高さから、城の台地全体を撮った。意外に珍しいアングル。


 パティシエ エスコヤマは、三田のゆりのき台の一角を占めるケーキ屋さん。
 ケーキ販売、ジャム販売、チョコレート販売、喫茶…と、いくつも軒を並べており、駐車場は常に満車、ケーキを買うにも三十分待ちは必至という有様。
 エスコヤマの主力商品は、コヤマロール
 TVチャンピオンだか何かで賞を獲ったことがあるらしい。(されど、同様にTVチャンピオンに出場した井出商店のラーメンを味わうためだけに和歌山へ行き失望したことがあるので、この手の名声に惑わされることは無かった。)
 四十分待ちでコヤマロールとビンに入ったプリンを、別棟でキウイのジャムを買った。
   [のちに写真挿入]



 <編集中>

 おすすめスポット タグ 姫路 姫路市役所 北別館 姫路城 パティシエ エスコヤマ

 走行距離 約162km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.6.21(土)

 後退させる事前に後方を確認しないドライバーは、免許を返上すべきであろう。


 20.6.20(金)

 ちんさくん
 こやつもまた泡沫ゆるキャラのひとつなのか。

 > 特技 歌、ダンス、部屋探し 空を飛ぶ(時速3000km

 ブービーを超え、白銀聖闘士並みやがな。


 20.6.19(木)

 新機能何シテル?は、友達零人の私にとってほぼ意義の無い機能と判明した。(ノ_・。)グスン


 20.6.18(水)

 先月の話。
 植木鋏を手にして、チョチョイと剪定してみた。
 きっちりかたちをととのえ、左右対称、シンメトリカルに… フンフンフフ~ン♪ 楽勝楽勝

   パスッ パスッ     あ。

 か…刈り込みすぎた。
 こりゃシンメトリカルやのうて、新芽刈り取るやわ。orz


 20.6.17(火)

 先月中旬の話。
 播州の神出神社/裸石神社/姫石神社、たこ磯、稲爪神社、子午線交番、中崎公会堂、王塚古墳へ行った。

 兵庫県は、旧分国でいうと、五つの国からなる。
  播磨
  但馬
  淡路
  摂津
の一部
  丹波の一部
 …である。(だから、画一の「県民性」を語るのは無理な話である)
 各分国が現在の行政地区にどう当てはまるかというと、
  播磨 : 姫路市 相生市 赤穂市 たつの市 太子町 上郡町 佐用町 宍粟市
       福崎町 市川町 神河町 西脇市 多可町 加西市 加東市
       加古川市 高砂市 稲美町 播磨町 三木市 小野市 明石市

  但馬 : 豊岡市 養父市 朝来市 香美町 新温泉町
  淡路 : 淡路市 洲本市 南あわじ市
  摂津 : 神戸市 芦屋市 西宮市 尼崎市 伊丹市 宝塚市 川西市 猪名川町
  丹波 : 篠山市 丹波市
 …だいたい、こういう具合になる。ただ注意しなければならないのは、
 昔の国境と現在の行政の境とが、一致しているわけではない、ということである。
 上では、神戸市を摂津に含めた。
 しかし、神戸市であっても、摂津ではなく播磨に相当する地域がある、というわけ。

 具体例を挙げる。
 海岸沿いの播磨と摂津の国境は、須磨の鉄拐山・鉢伏山の西を流れる境川にあった。海に突き出た山が、国を隔てていたのである。(ただし、須磨も播磨で、兵庫が国境との説あり)
 また、現在の神戸市北区に山田町という郷があるが、この北には500m級の山が折り重なり、この山塊が国境となっていた。これより北にある郷は、淡河(おうご)
 要するに、現在の神戸市のうち、垂水区西区須磨区の一部多井畑厄除八幡宮より西側? )、北区の一部(淡河)は、播磨なのである。

 前置きが長くなったが、おすすめスポットをアップする際に県名と旧分国名の食い違いに気付き、これをきっかけに調べてみたので、この場に記した次第。

 この日に最初に訪れたのは、神戸市西区(つまり、播磨)の雌岡山(めっこさん)。
 三木や志染より、4.5kmほど南の土地にある、雌雄一対の山の片割れだ。
 この雌岡山に、神出神社、裸石神社、姫石神社があった。
 神出神社の神出は、「かんで」と読む。
 スサノオとその妻のクシナダヒメ、孫のオオクニヌシを祀る神社。
 播州には、伊和大神(土着の神?)や牛頭天王(渡来の神)などが祀られたりしていたが、伊和大神はオオクニヌシ(オオナムヂ)、牛頭天王はスサノオに習合されたそうだ。
 そういうわけで、一般に出雲の神とされるオオクニヌシやスサノオが、意外と播州に現れる。(浮石で有名な生石神社も、出雲系のオオクニヌシとスクナヒコナが祭神)
 とにかく、どこまで原型を留めているのか不明であるが、現在の祭神はスサノオ、クシナダヒメ、オオクニヌシなわけ。
 そして、スサノオとクシナダヒメが夫婦神である発想からか、この地から神々が生まれ出でたため「神出」という地名がついたそうだ。
 山頂の境内からは、15km南の明石海峡が、ぼんやりではあったが見えた。


 頂上から、北へ200mほど山道を降りると、裸石神社と、少し離れて姫石神社があった。
 裸石神社/姫石神社の裸石/姫石は、それぞれ「らせき/ひめいし」と読む。
 裸石神社は、陰陽石を御神体とする。
 アワビの殻に思い人の名を書き奉納すると、願いが叶う―――という、とんでもない神社。
 姫石神社に至っては、陰石である御神体「方丈磐石」とそれを囲う玉垣のみが、神社の構成物である。

 実は、ここの陰陽石信仰については、相方に対して秘匿していた。
   浮「何アレ、アレなんて言うん?」 「もー!」 バシッ
 …こんな反応を期待してのことだったのだが。(セクハラだ!)
 ところが、裸石神社の御神体が、正面が閉じっきりになっていて見えない
 姫石神社の御神体も、ただこれを見るだけでは、何を象っているかわからない
 相方は、方丈磐石の巨大さゆえに霊威は感じているようだったが、あたかも「何でこんなとこ来たんやろ?」と言っているようなはてなマークが出ている!
 いかん、今さらネタバレできん!―――と焦りつつ、適当にこの場を引き揚げたのだった。
 この仕込みのために色々調べて寄ってみたのに。。(ノ_・。)ぐすん

 帰宅してからふと思い返し、以前播州清水寺で撮った写真(5/10参照)を見てみると、知らぬうちのことながら、雄岡山(おっこさん)/雌岡山(めっこさん)が写っていた。

 播州清水寺は兵庫県加東市(旧社町)に位置し、上の写真は、38km南の明石海峡方面を望んだもの。播州清水寺~雄岡山/雌岡山間は、25km。雄岡山~雌岡山間は、東西2km。

 雌岡山から南下し、明石市街へ。時間はすっかりお昼前。
 たこ磯は、私が最高の店と推す玉子焼(明石焼)のお店。
 この日、初めてあなご入り(800円)を頼んでみた。
 …。美味しいのだが、一度味わったら充分か。素のタコの味を楽しみたい。

 稲爪神社の稲爪は、「いなづめ」と読む。稲妻(いなづま)から転訛したらしい。
 祭神は、オオヤマツミ。三嶋大明神ともいう。
 そう、鶴姫伝説で知られる大三島大山祇神社と同じなのだ。


 大山祇神社は、伊予の国土を拓いた古代豪族の越智氏ゆかりの神社で、各時代の武家から奉納された刀剣甲冑の類がきわめて多く、その様は、大三島が国宝の島と呼ばれるほど。また、古い楠の巨木も多い。オチノミコトお手植えの楠というのもある。
 越智氏の流れを汲むとされる河野氏やその傘下の村上水軍の崇敬篤く、代々の大祝(おおはふり/おおほうり、現人神とされる神職)が斎き祀っていた。
 その河野氏が中世に記した豫章記に、あやしいエピソードがある。(豫章記が手許にあらず詳細は不明なため、多少食い違う箇所もあるが、稲爪神社の社伝を交える)
 推古天皇の御世、三韓から戎人八千人が鉄人を大将として襲いかかって来た。 
 筑紫の者もこれを止める手もなく、異国の兵は瀬戸内海を東進した。
 ここに伊予の武人・越智益躬(おちのますみ)が勅命を受けて立ち上がった。
 しかし、さしもの益躬も鉄人には敵わず、後退を余儀なくされた。
 「三嶋大明神よ、力を貸し給え!」
 益躬は、故郷の神に祈願した。
 そして播磨の明石に至ったとき、突如空が曇り、稲妻が鳴り響いた。
   ピカッ   ドーーーン!!
 なんと、空を切り裂く電光の中、三嶋大明神が現れたのだった。
 「鉄人ただひとつの弱みは足裏なり。足裏を射よ」
   パシャーーーン!
 益躬は雷鳴におののいた鉄人の隙を衝き、強弓を弾き放っての足の裏から脳天まで貫き、鉄人を斃した。

 これが鉄人伝説であり、越智益躬が三嶋大明神に感謝してこの地に祀った、というのが稲爪神社の創建の由緒。

 この後、子午線沿いにテケテケ散歩。
 子午線交番中崎公会堂などの特徴ある建物のそばを通って海岸に出、たこフェリー乗り場付近をかすめて車に戻った。


 王塚古墳は、明石川流域最大の前方後円墳。
 全長70m、周濠を入れると100m。団地の中に残されている公園でもある。
 どうやら複数の呼び名があるようで、玉津王塚古墳、吉田王塚古墳、桧笠岡王塚古墳と、たいそうややこしい。
 さて、この古墳にも伝説がある。
 日本書紀の推古天皇の条に記載される、
 新羅を討つ将軍となった當摩皇子(たぎまの みこ)が難波より発船し、
 随伴していた妻の舎人姫王が赤石(明石のこと)にて亡くなった―――。

 ここにいう舎人姫王(とねりの ひめみこ/ひめのおおきみ)の墓だという。
 摂播の海のそばは、神宮皇后にせよ推古天皇にせよ、船での半島との往来にまつわる話が多い気がする。

 おすすめスポット タグ 雌岡山 タグ 玉子焼 稲爪神社 大蔵交番 中崎公会堂 王塚古墳

 走行距離 約125km 高速道路不使用 相方の軽自動車にて走破


 20.6.16(月)

 車から降りるとき、遠隔でドアを閉めてもガチャガチャ確認しなければ安心できないのは、私だけではあるまい。


 20.6.15(日)

 5/25に描いた落書きに、フォトショで色塗りしてみた。
 レイヤーは50、PSDファイル6.60MB、JPGファイル404KB。効率が一向に上がらない。。
 SFCドラゴンクエストⅤより、ビアンカ。

 宿屋ダンカンの娘・ビアンカは、主人公の幼馴染みで、幼少の頃、率先しておばけ退治を言い出した程のお転婆娘。
 主人公と別れてからは一家して山村に引越し、母を亡くしてさらに病床の父の世話をする日々を送っていたところで、すっかり逞しくなった主人公と再会した。
 主人公は、さる富豪の令嬢・フローラと婚約を交わしており、結婚の条件となる指輪を探すために奥地に来たのだという。
 ビアンカは、かつての主人公との冒険を思い出し、指輪探しに協力、いっしょに洞窟で探検する。
 主人公とビアンカが指輪を持って例の富豪の館へ入ると、婚約者のフローラは、主人公とビアンカは好き合った仲なのではないか、と直感する。
 「どんな結果になっても支援は惜しまない」と言う寛大な令嬢の父の提案で、「ビアンカとフローラと、どちらが本当に好きなのか、一晩で考えて選ぶ」こととなった。


 たかがRPGで、まさかの人生の伴侶の選択!
 これは、リアルタイムでも一晩考えた。そして、エニックスの罠と知りつつビアンカを選んだ。
 フローラには、主人公がいなくとも、フローラ一筋の幼馴染み・アンディがいる。
 なにより、山奥の村で介護と墓参りにいそしむビアンカの背中が健気で、いとo4qtИ☆?f%

 【ネッドの宿屋】 主人公の生国へ抜ける山越えを前にして


 あぁ、疲れたぁ~~。ほら、トンヌラも、靴ぬいだ方が楽よ。
 今日もたくさん歩いたけど、明日はあの山を越えなきゃいけないんだから。


 → はい

 ふぅ、それにしても、もうあれから三ヶ月経つのね…。
 あれよあれよと、あっという間に結婚しちゃったけれど。
 ……。実はね、トンヌラにプロポーズされたときのこと、覚えてないの。頭が真っ白になっちゃって。
 だから、…トンヌラ、その前にルドマンさんにプロポーズしてたでしょ?
 ルドマンさん、何て言ってたっけ。
 「なんと、この私が好きと申すか!? それはいかん、もう一度考えてみなさい」だっけ。
 そればっかり頭に残ってるの。ふふっ、あれってどうしてルドマンさんに言い寄ったの?
 私もフローラさんも心から好きじゃなかったから? 苦し紛れだったの?


 → いいえ

 じゃあ、まさか本当にルドマンさんのこと好きだったの?

 → いいえ

 でも、だってトンヌラ、「ルドマンさんっ!」って言うや、ルドマンさんの手をかたく握ってたじゃない。
 あ、ひょっとして、色々お世話になったお礼を、最初に言おうとしてただけ? で、緊張してあんなになったんだ?


 → はい

 そっか。私やフローラさんに魅力がなかったわけじゃなかったのね。あー、よかった。
 私、トンヌラよりふたつお姉さんだから、ちょっとだけ気にしてたりして。…冗談よ、冗談。
 ……じゃ、そろそろ寝ましょうか。灯り消すわよ。
 おやすみ、トンヌラ。ぐぅ。


 → いいえ

 ちょ、ちょっと! やめなさい、明日は早いんだから!
 え、歳とかそんなの関係ないって? それはいいんだけど…。
 やっぱりだめー、ゲレゲレが見てるからー!
Posted at 2008/06/02 23:02:18 | 日記
2008年04月22日 イイね!

日記 ⑦

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、七冊目。

 日記      


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.6.14(土)

 日記帳がいっぱいになった。。


 20.6.13(金)

 村治佳織だ、と思ったら村田千佳だった。


 20.6.12(木)

 播州に永福という郷がある。酒米「山田錦」の産地で、剣菱契約田になっている土地だ。
 その永福(えいふく)を通ったとき、奥村永福(ながとみ)を思い出した。
 前田家の家臣で、佐々成政の攻撃を受けた末森合戦において末森城を墨守した人物だ。
 まあ、奥村助右衛門の方が、通りが良い。

 そしてさらに思い出した。
 昔、漫画花の慶次が小説一夢庵風流記を原作としていると知った同級生がいたことを。
 彼は、読書感想文の題材に困り、これを知るや花の慶次のあらすじを書き立てた。
 あとで皆して彼に出来ばえを訊いたところ、岩兵衛やらカルロスやら竜嶽親方の名まで出てきたので、なにやら眩暈がした。
 …。カルロスとかは、小説には出てこんのよ…。orz


 20.6.11(水)

 先月中旬の話。
 摂津の花隈城、南京町、大丸の小磯良平・東山魁夷展、三宮神社、北野へ行った。

 花隈城は、織田氏の配下となった摂津の豪族の荒木村重がつくったともいわれる。
 伊丹有岡城を本拠に摂津を任せられた村重は、長引く石山合戦のさなかに謀叛を起こした。
 1578年の同時期に反織田の烽火をあげた西国の主な勢力は、石山本願寺の他、丹波八上の波多野氏、東播三木の別所氏、中国の毛利氏、備前の宇喜多氏など。
 当時、西播の上月城は織田氏の部将・羽柴秀吉の手にあり、守りに尼子残党を入れていたが、別所氏の離反により、秀吉は前線を後退せざるを得なくなった。
 この隙に、毛利氏は宇喜多氏とともに大軍を繰り出し、上月城を降伏させ、尼子残党の将・山中鹿助(しかのすけ)を謀殺した。
 縁戚同士の別所氏と波多野氏、それに最前線の荒木村重は、毛利氏の支援を受け、互いに連携もして頑強に抵抗した。
 例えば、別所氏の三木城への兵糧運搬ルートのひとつに、毛利の水軍(村上水軍)が兵庫の湊に兵糧を陸揚げし、花隈城から丹生山を通り、淡河城から山中をつたって運び込む、というルートがあった。
 しかし翌年には、これらの兵糧の路はあらかた秀吉の手によって断たれた。
 荒木村重は有岡城の籠城戦が続く中、突然家臣も親族も捨て置いて単身城を脱出し、花隈城へ落ち延びた。
 さらに花隈城まで迫られると、毛利氏のもとへ逃げた。当然、有岡城も花隈城も、すぐに落ちた。
 それから三年余り時が過ぎ、世は一変した。
 波多野氏も別所氏も絶え、宇喜多氏も毛利氏も秀吉と手を結び、なによりも、甲州武田氏を滅ぼした織田信長が暗殺され、家来筋の羽柴秀吉が主家の天下の権を奪い、天下人となりつつあった。
 かつて織田氏に叛逆した荒木村重は、堺に出て、千利休の高弟のひとりとなっていた。その名も、荒木道薫(どうくん)。
 一説には、妻子すら捨てた自らを嘲り、わしなど道端の糞だ、道糞(どうふん)だ、とも言っていたという。


 南京町は、神戸華僑の中華街。
 この一角だけ、世界が違う。お店では、中国語が飛び交う。
 北京菜館の1,200円のセットメニューで、色々味わってみた。

 小磯良平東山魁夷は、どちらも有名な画家。(東山魁夷の方が、より著名)
 前者が洋画家で、後者が日本画家。
 タイトルは忘れたが、会場の一番最後の東山魁夷の大作に引き込まれた。
 水墨画のようなタッチで、霧にけむる山峡の画。肌にじっとり、水滴がつきそうなほどだった。
 (どなたか作品名をご教授いただけたら幸いです)

 三宮神社は、神戸の大丸の北にある、小さな神社。
 ここで起こった神戸事件の方が、幾分か知られている。
 簡単に言えば、もうひとつの生麦事件。
 ただし、外国人と悶着を起こしたのは、薩摩藩ではなく備前藩(すでに新政府側として活動)であり、結果は薩英戦争のようなドンパチではなく備前藩士の公開切腹
 開国の方針を固めていた新政府は、列強諸国に圧され、やむなく六ヶ国の立会いによる切腹を受け入れたのだった。人身御供となった備前藩士・滝善三郎はすべての責を負って見事に切腹し、外国人に「ハラキリ」の強烈な印象を与えた。

 北野は三宮の山手。一番上に、北野天満神社がある。
 京の北野天満宮と名が似ているが、もちろんこの天満宮から分霊したもの。
 平清盛が、平安京から福原に遷都しようとしたときに、勧請したそうだ。
 北野天満神社の展望台(50円)からは三宮方面が一望できる。
 傍には、維新以後に居留地から移り住んだという異人館の建造物群がある。
 風見鶏の館、萌黄の館、うろこの家、みなお洒落なのだが、入館料を惜しんで入らなかった。
 「こーゆーのは、外から見てこそやで」と、無理に思い込みながら…。
 異人館のひとつに、神戸北野美術館があった。
 それは実質、永田萠美術館だった。播州人の相方は、「この人、加西の人やのに、こことか京都とかばっかりお店出してるんよ」とぼやいていた。


 おすすめスポット タグ 羽柴秀吉の侵掠 神戸南京町 北京菜館 三宮神社 タグ 神戸北野


 20.6.10(火)

 柳田國男だ、と思ったら柳田邦男だった。


 20.6.9(月)

 ユーチューブで、谷山浩子の鳥籠姫(烏龍姫ではない!)を見つけた。
 使用イラストは、きたのじゅんこ
 …ら、どういうわけだか、サガフロンティアのアセルス編を連想した。
 連想したところで、適当に落書きしてみた。考証はしてない。

 いずれも、鳥籠に収まったままでいるようなタマでは無いのだが。

 アセルス編 半妖エンド


 20.6.8(日)

 5/26の話。
 元讀賣のゴンザレスが落雷により死亡し、讀賣のゴンザレスがドーピングにより解雇された。
 前者は、ジェレミー・ゴンザレス(登録名「G.G」、H19.7/1参照)。まさか落命するとは…。
 後者は、ルイス・ゴンザレス。勝負強い、いい打者だった。本当に残念でならない…。
 これから毎年5月26日を、ゴンザレス受難日と呼ぶことにする。


 20.6.7(土)

 逢引きと粗挽きは、響きが似ている。


 20.6.6(金)

 5/11の給油記録。
 ① 吉備路:415.5km(うち、高速道路329km)
 ② 姫路 加古川:185.9km
 …を含む。

 652.8km(うち、高速道路329km) 13.9km/l(燃費計) 49.69L 給油 レギュラー@152円
 652.8÷49.69=13.137… → 13.1km/l(満タン法)
 13.1-13.9=△0.9

 ∴燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される。

 さらに、5/11の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②を遠出、残りを ③街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  415.5km 15.2km/l → 14.4km/l 28.854…L
 ②  185.9km 14.5km/l → 13.7km/l 13.569…L
 ③  51.4km       →       7.266…L
 計 652.8km 13.1km/l → 12.2km/l 49.69L

 ①  415.5km 15.2km/l → 14.4km/l 28.854…L
 ②  185.9km 14.5km/l → 13.7km/l 13.569…L
 ③  51.4km       → 7.0km/l 7.266…L
 計 652.8km 13.1km/l → 12.2km/l 49.69L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、51.4km走って 7.0km/l。うむむ、ちょっこだけ上向き。


 20.6.5(木)

 たまに、徒歩でその土地を周るときがある。ときには、10km以上。
 徒歩はせいぜい6km/hくらいのものだが、優れていることもある。

 ガソリン不要、健康に良い、など挙げられるが、私が重視するのは、きめ細やかに見て周ることができる、ということ。

 一歩一歩、少しずつ風景が変わる。遠くのものが近くなる。
 あのお堂は何だろう? この地名は~に由来するのか? ここの田植えはいつだろう?

 色んなことを思いめぐらしながら歩くから、適当に知らない道を歩いても、帰宅してから地図を引っ張り出して照合すると、すべてのルートが一々思い出せる。

 道を、道の景色を、道にあるものを記憶する、という点については、車よりも自転車、自転車より徒歩の方に軍配が上がるだろう。

 だから、たまに徒歩で周る。
 2時間も歩けばオニギリ(105円)を食べるので、実は燃費は悪いのだが。


 20.6.4(水)

 先月上旬の話。
 播州の姫路市書写の里・美術工芸館、ベーカリーぱんだ、喫茶カントリーロード、鶴林寺へ行った。

 姫路市書写の里・美術工芸館は、書写山のふもとにある工芸関連の美術館。
 この日は、宮脇綾子アプリケ展を見に行った。
 宮脇綾子は、布地を縫い合わせて表現するアプリケ作家。
 相方イチオシだったのだが、私もすっかり気に入った。
 藤城清治の影絵のように立体感があり、題材が主婦の視点で面白い。
 構成自体がしっかりしてる。と思ったら、やはり色紙に描いたイラストも巧かった…。
 藤城清治も一級の画才があるし、絵の具を使わない表現でも構想力がモノをいうのか。

 書写山のふもとを去ろうとしたとき、ふと左に ヤ ギ が 見 え た 。
 何かの見間違いかと疑いつつUターンし、確認すると、本物のヤギだった。


 ベーカリーぱんだは、書写の里から五分ほど東にあるパン屋。
 店名と看板に惹かれ、店に入った。
 クリームパンをひとつ買った。美味しかった。並以上。

 喫茶カントリーロードは、志方と加古川の間にある喫茶で、かつめしもある。
 かつめしは、カツがちょっこり薄かった気がした。orz

 鶴林寺は、聖観音立像(あいたた観音)で有名な寺。
 入口スグで入山料500円を支払うため、例え宝物拝観料込みとはいえ、敷居が高い。

 おすすめスポット タグ 書写山 タグ 加古川

 走行距離185.9km 燃費計14.5km/l 高速道路不使用


 20.6.3(火)

 岡山の話を書いているうちに、中村彰彦の豪姫夢幻を思い出して、パラパラ読み返してみた。
 前田利家と松の間に生まれ、羽柴秀吉の養女となり、同じく養子の宇喜多秀家の妻となった豪姫。秀吉とねねに愛され、最愛の夫を得、子も三人もうけ、幸福のただ中にいたはずなのに、それは夢か幻のごとく…。\(^o^)/

 そして、――ごうひめむげん――から、スーパーマリオ無限1UPを連想した。(ノ_・。)
   100   200   400   800   1000   2000   4000   5000   8000   1UP  …
 ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ …



 20.6.2(月)

 先月上旬の話。5/19参照。
 吉備の鬼ノ城、備中高松城、蛙ヶ鼻堰堤跡、吉備津神社、吉備津彦神社、倉敷美観地区、播州のよかたんへ行った。その日の午前三時半に給油(5/31参照)してから、一路吉備へ。

 「もし大和にまつろわぬ者あらば、これを討て」
 大和のミマキイリビコ(第十代 崇神天皇)は、北陸にオオビコ、東海にタケヌナカワワケ、丹波にタニハノチヌシ、山陽にイサセリヒコ、あわせて四名の将軍(いくさのきみ)を遣わした。
 オオビコとその子のタケヌナカワワケは、それぞれの道を平定後に合流し、ゆえにその地を會津という。
 さて、山陽道には、ウラという鬼(百済の王子ともいう)が吉備の鬼ノ城を根城に辺りを治めていた。
 吉備の中山に着いたイサセリヒコは、鬼ノ城のウラを狙いすまして弓弦を引き絞り、矢を放った。
 するとウラは岩を放り、矢はむなしく叩き落された。
 ならば、とイサセリヒコは、次は二本の矢を同時につがえ、放った。
 またもやウラは岩を放り、矢の一本は落ちたが、次の瞬間にもう一本の矢がウラの左眼を貫通した。
 ウラは雉に化けて逃げ、イサセリヒコは鷹に化けて追った。次にウラは鯉に化けて逃げ、鵜に化けたイサセリヒコに捕らえられた。
 イサセリヒコは、ウラの首を刎ねた。
 ところが、ウラの首は唸り声をあげ続け、犬に喰われて骨となっても唸り、釜の下深く埋めて封じてもなお、唸り声はやまなかった。
 ある日、困り果てたイサセリヒコの夢にウラが現れ、告げた。
 「妻のアソヒメに神饌(しんせん、神に奉げる供物)を炊かしめれば、われが釜を鳴らして吉凶を告げよう」
 阿曽郷の祝(はふり、神職)の娘のアソヒメが釜を炊いたところ、唸り声はついにやんだ。
 かくして吉備を平定したイサセリヒコは、キビツヒコと名乗り、281歳のとき吉備の中山に没した。


 朝一番、鬼ノ城に着いた。鬼ノ城は、「きのじょう」と読む。
 キビツヒコ伝説に登場するウラの根城ともいわれるが、その存在は長く忘れ去られていた。
 実際には、朝鮮式の山城。(ウラは百済の王子ともされるので、この点は合致する)
 山頂を含む高地一帯を2.8kmの城壁で囲み、その囲われた面積は540m四方相当の広さ。
 城郭内には池や製鉄炉まであった。城壁の尾根をまたぐところには水門をつくり、排水も整っていた。
 戦国時代の小さな山城が、広さ数十mの円形のスペースが山頂からポンポンと配置されているだけだから、規模も縄張りも構造も、まったく違う。まさに異国の風。
 日本にある古代の朝鮮式山城のうち、文献に残っていないものを、神籠石というらしい。
 神籠石(こうごいし、16ヶ所)の分布は、次の通り。

 北九州を中心に、瀬戸内沿岸と続く。
 663年、白村江の戦いにて唐・新羅に敗れた天智天皇は、百済の亡命貴族の技術により、水城や山城を築かせ、防人を配した。記紀等に記される古代山城もまた、神籠石と同様、北九州から瀬戸内沿岸にあり、ドン突きには高安城があった。
 仮に大陸と半島の勢力が侵入しても、筑紫の北で食い止め、少なくとも橋頭堡をつくらせず、瀬戸内を進んできても途中の沿岸の上陸(定住)をゆるさず、最悪難波まで寄せられても、絶対に生駒で死守する―――そういう意図がくっきり見えてくる。
 神籠石がなぜ記録から漏れたのかはわからないが、朝鮮式である点とその分布から、国家存亡の危機を感じた天智天皇がつくったとしか思えない。
 神籠石が単に各地に割拠した渡来系の豪族がつくった城だとするなら、もう少し違う土地にも分布していいはずだからだ。

 クマバチがブンブン飛び回る(←ウラの怨霊!?)鬼ノ城を降りた後、備中高松城と堰堤跡へ行き、次に吉備の中山へ行ったのだが、テーマ毎に書きたいので順を入れ替えて書く。

 吉備津神社吉備津彦神社は、いずれもキビツヒコ(吉備を制圧したイサセリヒコの尊称、カルタゴを倒したスキピオが「アフリカヌス」の尊称で呼ばれたようなものか?)を祀る神社であり、前者は吉備の中山の西、後者は東にある。
 吉備は遥か昔に備前、備中、備後、美作に分かたれたのだが、吉備の中山は、備前と備中の国境(くにざかい)であり、従って吉備津神社は備中、吉備津彦神社は備前にあることになる。

 吉備津神社には、鳴釜神事が今も残っており、受付で頼むと執り行ってもらえるそうだ。
 私が御釜殿に入ったとき、偶然にも神事が終わった直後で、湯気の沸き立つ蒸籠を乗せた釜が据えられていた。でっぷりとした貫禄のある巫女さん(鳴釜神事を執る巫女、阿曽女(アソメ)?)に、色々教えていただいた。
 蒸篭を乗せた釜に水を張ってボンボン焚いて、沸騰して湯気が出ると、釜が鳴り響くときがある。その釜の唸りを聞いて、自分で感じたままに吉兆を判断するのだという。
 吉備津神社には、キビツヒコがここから弓矢を射てウラを征伐したことから、弓道が盛んであり弓道場もあった。この日も弓道の大会があったようで、高校生(?)の弓道部員が大勢集まっていた。弓道着姿は、男も女も凛々しいものだ。

 吉備津彦神社へ入ると、その駐車場の上空に鯉のぼりが泳いでいた。
 大きな灯篭のある一段上に、本殿があった。
 吉備津神社と比べると人も少なかったり、珍しい神事やエピソードは無かったが。
 社務所でパンフレットと買おうとしたとき、奥のポスターに「神宮大麻」の文字を見かけ、「うわ、タイマやって。カンナビスかいな、アブな~」とか言い合っていると、お釣りを持ってきた若い巫女さん(☆☆☆☆☆)が、私の手にお釣りをのせながら「これは、伊勢神宮のお札のことなんですよ」と丁寧に教えてくれたのだった。赤っ恥。だけど、イイ。

 古代吉備篇からテーマは一転、戦国備中兵乱篇。
 備中松山城と岡山城と後楽園は、今回の取材以前に行った場所。

 戦国時代、旧態依然とした小戦を繰り返していた備中が、大きな流れに飲み込まれるときが来た。
 備中の豪族・三村家親は、毛利氏を後援を得て備中を統一。
 備中松山城を本拠として戦国大名に脱却し、そして備前への侵入を試みた。
 備前の浦上氏の家臣・宇喜多直家は、三村家親の軍勢に対抗する兵力を持たず、藁にもすがる思いで鉄砲名人の遠藤兄弟を刺客として送り込み、結果、家親暗殺に成功した。1566年のこと。
 家親の後を継いだ三村元親は、翌年に弔い合戦を宇喜多氏に仕掛けるも敗北した。
 それから数年、毛利氏を頼む三村氏と浦上氏に属する宇喜多氏との間で、一進一退の戦いが繰り広げられた。
 1574年、毛利氏は、主家の浦上氏と対立した宇喜多氏と同盟し、ために、宇喜多氏を仇とする三村氏は織田氏と結んだ。
 毛利氏は中国の兵を催し備中を攻め、三村氏の諸城は次々落とされ、1575年、毛利勢に包囲されていた備中松山城の三村元親は切腹して落城、三村氏は滅びた。
 毛利氏は備中を掌中に収め、宇喜多氏は主家の浦上氏に取って代わって備前の主となった。
 しかし、1578年から、織田氏の臣・羽柴秀吉の侵掠が本格化したのだった。

 1577年   赤松広秀(斎村政広)の龍野城/太田垣氏の竹田城、開城
 1578年3月 羽柴秀吉、別所氏の三木城を攻撃する
 1578年7月 毛利氏の攻撃により、織田方の尼子残党が籠城する上月城、落城
 1579年   織田氏の攻撃により、波多野秀治が籠城する八上城、落城
 1579年5月 織田氏の攻撃により、淡河城、落城
 1579年10月 備前の宇喜多直家が、毛利氏から離れ、織田氏に服属する
 1579年11月 織田氏の攻撃により、荒木村重が籠城する有岡城、落城
 1580年1月 三木の干殺し 毛利氏に与する別所長治が切腹し、三木城開城
 1581年   鳥取の渇え殺し 毛利方の吉川経家が切腹し、鳥取城開城
 1582年   高松城の水攻め 毛利方の清水宗治が切腹し、高松城開城

 羽柴勢の攻撃の矢面に立たされた宇喜多氏は織田氏に味方し、羽柴秀吉の我慢強い城攻めと調略を前に、毛利氏の勢力はじりじり圧されていた。
 1582年、羽柴秀吉は、毛利氏の家臣・清水宗治が籠もる備中高松城を包囲した。
 平城であっても沼に囲まれ攻めにくい高松城を見て秀吉は、長大な堰堤をつくり、川から水を引き入れ、水攻めにした。
 毛利氏の後詰、小早川隆景と吉川元春の大軍は、湖に浮かぶ島となった高松城を救う手立てもなく、高松城の西側の山に陣して、羽柴勢と睨み合いが続いた。
 秀吉の陣で、一人の男が捕らえられた。歴史上無名の男であるが、毛利の陣に伝えようとしたその情報は、驚くべきものだった。
 「信長、信忠、本能寺ニテ討チ取リ申シ候」
 羽柴秀吉の主君の織田信長と嫡男の信忠が、家臣の明智光秀に討たれたのだった。
 秀吉は情報が毛利方に伝わらぬうちに有利に和議を調え、高松城の兵の助命の代償として、城将・清水宗治は見事に湖上の切腹を遂げた。
 毛利氏と和睦し後顧の憂いを断った秀吉は、山崎にて明智光秀を破り、抜群の軍略と知略で織田氏の権力を簒奪し、豊臣の姓を賜り天下人となった。
 毛利氏の当主の毛利輝元とその家臣の小早川隆景は、豊臣政権の中で重きをなした。
 豊臣氏が徳川氏に天下の権を奪われた関ヶ原の合戦に際しては、毛利輝元は大坂方の大将に担がれたものの何を為すでもなく、小早川秀秋(豊臣秀吉の甥、小早川隆景の養子)は関ヶ原の戦場で返り忠を図り大坂方に仇なした。
 宇喜多直家は備中高松城攻めの前に幼い嫡男を秀吉に託して病死し、子は長じて秀家と名乗って秀吉の女婿となり、関ヶ原の合戦では大坂方の先鋒として獅子奮迅の働きを見せた。


 備中高松城は、羽柴秀吉の中国攻めのクライマックスとなった舞台。
 讃岐にも高松城(玉藻城)があるため、区別するため「備中」をつけている。
 同様の例は、備中松山城と伊予松山城が有名で、両城ともに木造の天守閣が現存する。
 城跡の駐車場に停めて周りを見渡すと、広々とした田園風景が広がり、南には汽車が走っていた。(JR吉備線)
 城跡は、水辺の花が咲き誇る公園として整備されていた。
 本丸の周囲の堀には、枯れた蓮が沈んでいた。蓮の季節なら、さぞ綺麗だったろう。
 この城跡の蓮は、宗治蓮という。
 戦国の世も過ぎ去り廃城となった高松城には、「蓮池」の地名が残っていた。
 昭和57年に岡山市が歴史公園として沼を復元したところ、四百年間眠っていた蓮が目覚め、花を咲かせたという。二千年の大賀ハスとまではいかないが、悠久な話である。

 蛙ヶ鼻堰堤跡は、高松城水攻堰堤跡のうち、最も東の山と接する部分にある。
 堰堤から東を羽柴勢三万名が守り、後詰の毛利勢四万名は川を挟んで西の山々に布陣した。両軍勢の間には、五千名が籠もる高松城が、湖上に浮かんでいた。
 毛利方とすれば堰堤の一部さえ毀せば良いではないか、と思うが、敵前の渡河をしなければならないし、土木の達者な秀吉のことだから、物理的に有効な備えは抜かり無かったろう。

 さて、ここでまた兵力について検討してみたい。3/29、4/6参照。
 安土桃山時代の太閤検地(石高の資料)では、全国で1,850万石ちょい。1万石あたり250~300名の兵を出せた。
 周防・長門・安芸・石見・出雲・隠岐・備後・備中・伯耆・因幡、これらすべて合計すると、およそ135万石。意外と少ない。
 毛利氏中国十ヶ国の潜在動員兵力は、
 135×250=33,750   外征可能な兵力は、どう頑張っても三万名。
 備中兵乱記における「八万」の記述は、あり得ない。
 備中高松城の清水宗治の五千という数字も疑問だ。
 備中は、一国で18万石。
 18×250=4,500
 しかし、備中にはもちろん高松城だけでなく、他にいくつも城はある。
 例え高松の地が備中の他地域に比べ優秀な米どころだったとしても、せいぜい一国の三分の一程度ではないか。(数字に根拠は無い)
 すると、高松城には千名前後の、多くても千五百名の兵が籠もっていたのだと考える。
 他の人数は、武士たちの妻子や領民だろう。兵糧攻めが堪えるわけだ。
 攻め手の羽柴秀吉の兵力について。秀吉の領地は江北の長浜12万石だから、
 秀吉の直属の兵の潜在動員兵力は、
 12×250=3,000   三千名。こんなもの。
 しかし、織田氏にとって当時最大の敵であった毛利氏を攻めるため、大勢の与力(直接の家来ではないが、指揮下には入る)がつけられたのだろう。備前の宇喜多氏も従属させている。
 本能寺の変後の山崎の合戦においても、一万数千名の明智光秀の軍勢を一気に屠っているから、羽柴秀吉三万名のくだりは、納得ゆく。

 鬼ノ城 → 備中高松城 → 水攻堰堤跡 → 吉備津神社 → 吉備津彦神社
 これだけ周ったところで、十時半になった。
 最後の目的地、倉敷美観地区へ向かったが、倉敷市街に入るや、渋滞に巻き込まれた。
 てくてく歩いて美観地区に着いたのは、ちょうど正午だった。

 倉敷美観地区は、近代前の景観を保存している地区。掘割に柳の並木が特徴的。
 実は、この美観地区に限っては、三回目の訪問。
 真っ先に、お昼のざる蕎麦を食べてから、ぶらぶらと色んなお店を見て回った。
 通りはたくさんの人、大繁盛だ。狭い界隈に、ごった返している。
 犬猫屋敷に、ねこ耳をつけた店員さんがいた。 け し か ら ん !

 おすすめスポット 備中松山城 岡山城 後楽園 備中高松城 蛙ヶ鼻堰堤跡 倉敷美観地区 鬼ノ城 吉備津神社 吉備津彦神社

 走行距離415.5km(うち、高速道路329km) 燃費計15.2km/l


 20.6.1(日)

 温家宝と宝塚温泉は、字面が似ている。


 20.5.31(土)

 5/4(未明)の給油記録。
 ① 今田(ドーノ):121.4km(うち、高速道路28km)
 ② 明石 吉川:126.3km(うち、高速道路43km)
 ③ 今田(一眞坊):99.2km
 …を含む。

 357.6km(うち、高速道路71km) 13.8km/l(燃費計) 27.60L 給油 レギュラー@149円
 357.6÷27.60=12.956… → 12.9km/l(満タン法)
 12.9-13.8=△0.9

 ∴燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される。

 さらに、5/4(未明)の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②③を遠出、残りを ④街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  121.4km 13.8km/l → 12.9km/l 9.410…L
 ②  126.3km 15.3km/l → 14.4km/l 8.770…L
 ③  99.2km 13.1km/l → 12.2km/l 8.131…L
 ④  10.7km       →       1.287…L
 計 357.6km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L

 ①  121.4km 13.8km/l → 12.9km/l 9.410…L
 ②  126.3km 15.3km/l → 14.4km/l 8.770…L
 ③  99.2km 13.1km/l → 12.2km/l 8.131…L
 ④  10.7km       → 8.3km/l 1.287…L
 計 357.6km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、10.7km走って 8.3km/l。あまり参考にならないかも。
 さて、この日の未明に給油したのは、吉備路への出撃に備えるため…。


 20.5.30(金)

 わきげだ、と思ったら わけぎだった。


 20.5.29(木)

 今月上旬の話。5/19参照。
 一眞坊、ぬくもりの郷、ブリランテへ行った。
 GW真っ只中だったので、高速道路は回避。しかし、志手原手前で渋滞した。orz イヤァァ

 一眞坊は、美味しいそば屋さん。「いっしんぼう」と読む。
 外観も内部も古い民家、かざりの水車まである。
 ここの鴨南蛮のかもは、やわらかいレアで、絶品だった。
 お店の奥に水鳥(かも?)が二羽いたが、これはどうやらペットのようだ。

 おすすめスポット 一眞坊 ぬくもりの郷 ブリランテ

 走行距離99.2km 燃費計13.1km/l 高速道路不使用


 20.5.28(水)

 今月上旬の話。5/19参照。
 明石市立天文科学館、たこ磯、五色塚古墳、豊助饅頭、よかたん、西山牧場へ行った。

 明石市立天文科学館は、日本標準時子午線の上にある科学館。3/3参照。
 プラネタリウムもある。展望塔からは数十km先までパノラマで見渡せる。

 親戚の子を連れてプラネタリウムを見た後、たこ磯で玉子焼きを平らげ、山陽電鉄に乗って霞ヶ丘駅にて下車、五色塚まで歩いた。

 五色塚古墳は、石葺きを再現したことで有名で、教科書にも乗っている。
 兵庫県最大の前方後円墳で、全長は194m。
 まるで、海からの使者を迎え入れる、あるいは、古墳の主を海へ送り出す…ような配置。
 瀬戸内海の急所の明石海峡付近だけに、海運を握っていた豪族だったのだろう。

 温泉に入ろう、ということになりよかたんへ向かい、途中、お土産用に豊助饅頭を買った。
 温泉の帰り、西山牧場に寄ってジェラートを食べた。空はすっかり薄暗くなっていた。



 おすすめスポット 明石市立天文科学館 柿本神社 明石城 タグ 玉子焼 五色塚古墳 豊助饅頭 よかたん 西山牧場

 走行距離126.3km(うち、高速道路43km) 燃費計15.3km/l


 20.5.27(火)

 みんカラの画面で、何か見慣れないものがあった。 → みんカラびより
 クリックすると、オークション紹介の漫画だった。
 ふと、漫画だけ読んでほかした進研ゼミの勧誘を思い出した。


 20.5.26(月)

 先月下旬の話。5/19参照。
 ドーノ、陶の郷、兵庫陶芸美術館、ぬくもりの郷、ブリランテへ行った。

 陶の郷は「すえのさと」と読み、丹波立杭焼で有名な篠山今田町の施設。
 南北5kmほどの谷あいに、5、60の窯元が並ぶ立杭。
 その窯元が小さなブースに作品を出展している窯元横丁は、見ていて時間を忘れる。
 また、陶芸教室では、手ひねりで陶器をつくることができる。焼き上がりは、数週間後。

 兵庫陶芸美術館は、丹波立杭焼で有名な篠山今(以下省略)
 陶の郷の、ほんの数百m北にある。
 この日、縄文-いにしえの造形と意匠-展(3/15~6/1)が催されていた。
 火焔土器やら遮光器土偶(シャコちゃん)やら、一万年に及ぶ縄文時代の土器の数々を、惜しみなく借り集めていた。
 現代の前衛芸術家が束になっても敵わない、奇想天外なカタチ
 しかし、ヒビ割れの補修跡がある通り、縄文人にとっては芸術でなく実用品(中には祭祀具もあろう)だったのだ。ヒビ割れの両側にそれぞれ穴を穿ってあった。紐で両方の穴を括り、ヒビが広がらぬようにするためだろう。
 遮光器土偶を初めとする土偶は、ある部分を毀してから埋められる例も多かったそうだ。
 身体の治したいところを毀して回復を願った、という説もある。
 現代よりも死が身近な縄文人は、人知外のすべてを祈りに賭けたのだ。

 縄文展は、浮野一押しである。丹波や阪神圏内なら、わりと近い。
 入館料は900円と高いが、ドーノその他周辺の店等に割引券(→700円)が置いてある。
 さらに、讀賣主催のため、讀賣の販売店にねだれば招待券(→0円)がもらえる可能性もなきにしにあらず、だ。 

 おすすめスポット ドーノ 陶の郷 兵庫陶芸美術館 ぬくもりの郷 ブリランテ

 走行距離121.4km(うち、高速道路28km) 燃費計13.8km/l


 20.5.25(日)

 ドラゴンクエストⅤのビアンカを思い出した(5/23参照)ので、落書きしてみた。

 いつも頭部しか描いてないから、全身のバランスがうまく描けない。orz チメイテキ…
 というか、デッサンとかそういうのがよくわからんので、デッサン力とか構想力とかも無い。
 うまく描きたいなら、姿勢・角度・体の部分部分を意識して描きまくるしかないのかな。。

 デッサン力といえば、森薫のソレは素晴らしいと思う。


 20.5.24(土)

 先月下旬の話。5/19参照。
 北摂の有馬富士公園へ行った。親戚のチビッ子を半日 放し飼い 遊ばせて、帰った。

 走行距離54.0km 燃費計14.1km/l 高速道路不使用

 4/28の給油記録。
 ① 北播多可郡:194.0km
 ② 播州播磨町:127.2km
 ③ 加東郡 篠山:150.6km(うち、高速道路28km)
 ④ 有馬富士公園:54.0km
 …を含む。

 577.4km(うち、高速道路28km) 13.1km/l(燃費計) 47.31L(レギュラー)給油 @124
 577.4÷47.31=12.204… → 12.2km/l(満タン法)
 12.2-13.1=△0.9

 ∴燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される。

 さらに、4/28の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②③④を遠出、残りを ⑤街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  194.0km 14.5km/l → 13.6km/l 14.264…L
 ②  127.2km 14.1km/l → 13.2km/l 9.636…L
 ③  150.6km 14.7km/l → 13.8km/l 10.913…L
 ④  54.0km 14.1km/l → 13.2km/l 4.090…L
 ⑤  51.6km       →       8.404…L
 計 577.4km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L

 ①  194.0km 14.5km/l → 13.6km/l 14.264…L
 ②  127.2km 14.1km/l → 13.2km/l 9.636…L
 ③  150.6km 14.7km/l → 13.8km/l 10.913…L
 ④  54.0km 14.1km/l → 13.2km/l 4.090…L
 ⑤  51.6km       → 6.1km/l 8.404…L
 計 577.4km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、51.6km走って 6.1km/l。元の木阿弥。。


 20.5.23(金)

 ビアンカだ、と思ったらビアンテだった。


 20.5.22(木)

 今月上旬の話。
 金スマという番組で、村下孝蔵が紹介されていた。(リンク「ウキウキ動画-永遠の歌人」参照)
 代表曲初恋ばかりが注目されていたが、他にも名曲はたくさんある。
 私はTVで踊り子に聴き惚れてアルバム林檎と檸檬を買ったが、収録曲のうち真っ先に気に入ったのは、春雨いいなずけだった。(初恋は、それ以前に聴いたことがなく、正直パッとしなかった。最初のうちは…)
 最近は、ニコニコ動画というサイトで視聴でき、ありがたい限りだ。以下、こちらより引用。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「いいなずけ」 メロディーと詞の美しさに、ふるえた。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「終わらない君の夏」 浮かびあがる情景。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「北斗七星」 けしからんほど艶っぽい。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「だめですか?」 なんだか泣きそうになる。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「すみれ香水」 おくれ‐げ【後れ毛】女性が髪を結い上げたとき、襟元に残って垂れた短い毛。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「この国に生まれてよかった」 国歌。


 う~ん、やっぱりアレだ。
 村下孝蔵の歌の世界と、二階堂のCMの世界(4/5参照)と、相通じるものがあるなぁ…。
 この前、どこぞの誰かにカヴァーされた初恋を、一度ラジオで聴いた。胸に迫るモノがちっとも感じられなかったが、村下孝蔵と村下孝蔵の歌が普及するなら、あえて許容したい。


 20.5.21(水)

 先月下旬の話。5/19参照。
 播州清水寺、ドーノ、雲部車塚古墳、ぬくもりの郷へ行った。

 播州清水寺については、5/10参照のこと。
 シャクナゲが満開になったり、数々の変種のサクラが咲いたりして、綺麗だった。


 雲部車塚古墳は、丹波地方最大の前方後円墳で、記紀に登場するタニハノチヌシ(キビツヒコと同様、四道将軍のひとり)の墳墓だという説もある。1/21参照。
 兵庫県立考古博物館で復元展示されていたように、古代の鉄製の黒い甲冑が五領、その他の武具が多数石室に収蔵されていたのが、この車塚古墳だったのだ。
 とにかく、この地方最大級の武力と民を持っていた豪族、ということに間違いは無い。
 濠をぐるりまわってみると、しげみにヘビがいた。(伸ばすと、1mはありそうだった)
 驚いて後ずさると、ヘビは濠に飛び込み、器用に泳いで古墳に上陸した。
 アレはこの古墳の主の怨念だったのか、古墳島にどれだけの生物が生息しているのか、そんなどうでもいいことを考えながらぬくもりの郷へ向かった。


 おすすめスポット 播州清水寺 ドーノ 雲部車塚古墳 ぬくもりの郷

 走行距離150.6km(うち、高速道路28km) 燃費計14.7km/l


 20.5.20(火)

 先月下旬の話。5/19参照。
 加古郡播磨町の兵庫県立考古博物館その他へ行ってきた。

 最初に、通り道の三木の志染にて、志染の岩室へ寄り、志染の金水を見た。H19.13/2参照。
 ヒカリモの残骸…。
 ちなみに、今年の初め1/6に確認した金水は、以下のように輝いていた。
 朝の陽を浴びて。

 次に、通り道の加古川河畔の喫茶スゥイングにて、加古川名物かつめしを食んだ。
 …以前立ち寄った喫茶ニュースの方が美味しいかも、いやいや、好みの範囲内か。

 兵庫県立考古博物館は、体験モノが豊富な歴史博物館。
 親戚の子と、組み紐勾玉をつくってみた。懸命に取り組んで、満足気だった。
 展示物に、古代船ヒボコがあった。
 白村江の戦いでは、日本は唐・新羅を超える数百艘もの船を揃えた。
 しかし、敢えなく敗れ去り、四百艘が海の藻屑となった。
 おそらく、このヒボコ程度の小さな船ばかりだったのではあるまいか。
 もっとも、戦国期の村上水軍は、小さな小早船の群れで敵を翻弄したのだが。(瀬戸内限定)
 篠山市の雲部車塚古墳で出土した黒い甲冑を復元した武将の人形が格好良かった。
 錣や大袖などは黒塗りの鉄板を重ね合わせ、兜からは鳥の尾羽が三本伸び、当世具足に負けない素敵さだ。
 古代の甲冑と源平の頃の大鎧とは、そのデザインに大きな開きがありすぎる。
 大君の時代から律令国家の時代、武器や甲冑がどう変化したのかも気になるところ。

 おすすめスポット 志染の岩室 喫茶 スゥイング 喫茶 ニュース 兵庫県立考古博物館

 走行距離127.2km 燃費計14.1km/l 高速道路不使用


 20.5.19(月)

 4/25~5/6のGWの話。
 この間、都合七度、すべて日帰りで出撃した。
 ほとんどが近場で、県外に出たのは、吉備路の一度だけだった。

 GWの走行距離合計 1094.2km(うち、高速道路428km)


 20.5.18(日)

 船団だ、と思ったら ICの料金所だった。


 20.5.17(土)

 以前、みんカラで不審なユーザーを見たので、カービューに改善依頼したことがある。
 その処分は即刻削除だったようだが、例の件と同一の登録者をまた見かけた。

 なぜそんなに目に入るのかというと、ブログ本文の下にキーワードを羅列して、何らかの語で検索かけた者を呼び込んでいるから。私は燃費で引っかかった。
 愛車登録はしておらず、内容は意味不明。
 そして、似たような内容のブログを定期的にアップし続けている。
 意図、目的の一切が謎である。また依頼しても、結局はムダなのか。。


 20.5.16(金)

 先月中旬の話。
 播州の室津と龍野へ行ってきた。龍野については、後日に書くので措いておく。

 龍野から10km南下すると、岩見に突き当たる。岩見の東は、あの綾部山梅林である。
 ここを西へ右折し、海岸沿いの斜面七曲りをくねくね走り、3、4kmで室津だ。

 室津は、奈良時代の行基により整備された摂播五泊(せっぱんごはく)のひとつ。
 摂播五泊とは、河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、室。
 室の由来は、「此泊 防風如室」―――部屋の中のように波が穏やかなミナトであったこと。
  津 ツ
  江 エ
  泊 トマリ
  浦 ウラ
  済 ワタリ
  湊 ミナト
 …などの字は、みな要するに船着場やそれに適した地形を意味する。
 ちなみに、ミは水、トは門、ミナトとは水の門の意。

 さて、七曲りから続く海岸沿いの道は、数十mの高いところを通っており、室津の地へ降りるには、大きなスロープのような道を降りる。
 降りる前にすでに室津を一望できるのだが、パッと見たその視野の中に簡単に納まるほど、小ぢんまりしている。
 青い空。白い雲。ふりそそぐ光。きらめく水面。
 小船が寄り合い、湾いっぱいにある種の雰囲気を湛えている。
 「湾は、意外に小さい。湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている」
 司馬遼太郎の言葉が、すべてを言いあらわしていた。


 岸壁沿いに歩いたとしても800mほどだったので、スロープ(?)下の駐車場から、歩いて探索することにした。
 先ずはここ歴史なりを予習してから、ということで、真っ先に室津海駅館に入った。
 室津海駅館は、江戸期の商家「嶋屋」の建物を改装してつくったもので、100mほど南にある室津民俗館と、両館共通300円で出入りできる。
 上代におこり、源平の戦いがあり、足利義満が立ち寄り、赤松氏と浦上氏が争い、また、参勤交代の大名たちや朝鮮通信史、オランダのシーボルトなどが宿をとった室津。
 想像以上に歴史の舞台に顔を出しているのに驚いた。
 江戸期には、狭い界隈だというのに本陣が六つもあった。(姫路は三つ)
 商家の嶋屋も、蝦夷のニシンの回漕でおおいに儲けた。
 ただしこの嶋屋は、明治以後の商売替えに失敗し、没落したという…。


 賀茂神社は、京の上賀茂神社(3/31参照)から分祀した神社。そもそも室津が、京の賀茂神社の御厨(みくりや、神への供物を賄うための社領)だったことによるそうだ。
 湾の南の突出部の丘へ登ると、右手にソテツの大群が見えた。
 野生のソテツとしては、これが最北端とのこと。
 ここの参籠所からの眺めを見てシーボルトは、
 「私が日本で見た最もすばらしい風景のひとつ」
 …と、感嘆したという。
 参籠所は閉まっていた(涙)ので、数十m外れから、播磨灘を眺めた。


 あまりに深い青に心うたれたのだった。。ええわぁ、室津。

 おすすめスポット 室津 室津海駅館/民俗館 賀茂神社 お好み焼 小嶋

 走行距離 約246km(うち、高速道路118km) 相方の軽自動車にて走破


 20.5.15(木)

 花見好き 桜が散れば 花水木

 ハナミズキ
 四月も半ば過ぎ去ると、桜もひらひら散り急ぎ、街はすっかりハナミズキにジャックされた。

 実は街に咲いているハナミズキは、アメリカハナミズキといって、北米大陸原産らしい。
 北米原産ということを知れば、なんだか悔しくなってきた。
 アメリカザリガニはどうして強くて大きいの?
 ミシシッピアカミミガメがどうして神社でふんぞり返ってるの?
 ブルーギ(以下省略)

 うぐぐ、書いてるうちにもっと悔しくなってきた。
 国産の誇り高きニホンミツバチよ、昆虫界最凶のオオスズメバチを熱殺するんだ!
 そしてセイヨウミツバチめ、ガジガジ噛まれて絶えるがよ(以下自粛)
 

 20.5.14(水)

 先々月中旬の話。
 京の北野天満宮と宝鏡寺へ行った。

 北野天満宮は、菅原道真を祀る神社。
 菅原氏は、イクメイリヒコ(垂仁天皇、H19.9/21参照)の御世にタイマノケハヤとの勝負に勝ち朝廷に仕えたノミノスクネの裔。H19.10/16参照。
 学者・政治家の菅原道真は、宇多天皇の信頼を得て朝廷の中に重きを成していたが、それを嫉む藤原時平の陰謀により、筑紫の大宰府に左遷された。すでに皇位を醍醐天皇に譲っていた宇多上皇さえ、これを止めることができなかった。

   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

 自邸を去る前に、名残惜しんで詠んだ歌は、あまりに有名である。数年後、道真は失意のうちに没した。
 道真の遺骸を牽いていた牛が足を突っ張り動かなくなったので、その場所を彼の墓とした、ともいう。
 さて、道真没後、京は次々に災厄に見舞われていた。日照り、疫病、皇子たちの相次ぐ病死、そして清涼殿を襲った雷―――。
 道真が怨霊となって祟っているのだ、と考えた朝廷は、道真の名誉を回復し、京の北野と墓所のある大宰府に祀ったのだった。

 今では、天神さんと親しまれ、学問の神様として受験生に大人気。
 境内に入ってみると、道真にゆかりの梅と牛がたくさんあった。
 突然、小鳥が梅の枝に止まり、次々と花をつつきはじめた。(蜜を食べてる?)
 一斉に、「わー、ウグイスや、ウグイスやで!」「ウグイスかわいー!」という声が上がった。
 しかしあれは、どう見ても、鶯色をしたメジロだった…。


 宝鏡寺は、別名人形寺ともいう尼寺。
 幾人もの皇女がこの寺に入っており、あの和宮も、幼少の頃この寺で遊んでいたとか。
 「ほうきょうじ、か~」
 …と言いながら、相方の鼻の頭の八尺下に目をやると、「もー!」と怒りはじめた。
 はてさて、なぜだろう。そうだ、天神さんの牛に憑かれたに違いない。


 コトコト揺られ、トコトコ歩いた古都めぐり。

 おすすめスポット 嵐電 野見宿禰神社 北野天満宮 宝鏡寺 湯たく山 茶くれん寺


 20.5.13(火)

 月刊ガンガンのザ・ドリフトガールを読んではじめてユーノス・ロードスターを知った者は、私だけではあるまい。


 20.5.12(月)

 燃費タグでいろんなページを覗いてたら、

 彦根ひこにゃん殺人事件なるタグが目にとまった。
 わー、面白そ♪ …と思ってクリックしたら―――自分の日記だった。orz


 20.5.11(日)

 先月の話。
 僅かな庭の草むしりをしていたら、ワラワラといろんな虫が活動していた。
 あまりに小さな彼らを眺めていると、一本の草さえ何やら巨木に思えてきた。
 僅かな庭の、大森林。
 向かいの壁は、世界の果て。


 20.5.10(土)

 先月中旬の話。
 播州の清水寺、ドーノ、北播多可郡のハーモニーパーク、ジェラテリアへ行った。

 播州清水寺は、西国三十三番のうち、第二十五番。
 その前の週のリベンジで行ったのだが、見事に満開だった。4/30参照。
 大講堂からは、38km以上先の明石海峡大橋と淡路島が見えた。ような気がした。

 ↑桜、石楠花、菫 etc…

 ↑播州清水寺の大講堂より、南南西、印南野方面。

 ↑南寄りを、拡大。

 ↑さらに解析。明石海峡大橋の主塔が見える。奥の島影は、淡路島。右手前の建造物群は、西神ニュータウンか。


 同じ県にありながら、今まで多可郡(現在郡は消え多可町)を意識したことがなかった。
 空が今より低かった頃、ひとまたぎ3町の巨人あまんじゃこは、しゃがまなければ天に頭がつっかえ、歩くこともままならなかった。
 明石のとある里から北へ行く途中、急に空が高くなり、思う存分背を伸ばすことができた。
 「ここは空が高い。たかじゃ、たかじゃ!」と、あまんじゃこは快哉を叫んだ。

 その語源説話がすんなり納得いくほどの、悠然とした広い谷。
 見上げると、上に落ちてしまいそうな高い空。はじめての多可の地が、気に入った。

 ハーモニーパークは、標高1,005mの千ヶ峰の中腹にある果樹園&キャンプ場。
 この日は、林檎の花が満開だった。とても可憐な、白い花。
 発電のための風車が一基、そびえていた。
 「風太」、スバル製である。→ SUBARU 15/40
 風がやむと、風を探して首を左右にふり、また羽根が回る仕組み。

 ジェラテリア ふれっしゅあぐり館は、ジェラートその他なんでもアリの、道の駅的存在。
 ここから風太が見えるし、風太のところからもここが見える。
 季節限定さくら味を味わって、多可の空をあとにした。


 おすすめスポット 播州清水寺 ハーモニーパーク ジェラテリア ふれっしゅあぐり館

 走行距離194.0km 燃費計14.5km/l 高速道路不使用


 20.5.9(金)

 転生前に描いた落書きに、簡単に色塗りしてみた。
 ああ無情(原作でなく、小学生向け伝記)より、コゼット成人後のマリウスとの出会い。

 

Posted at 2008/04/22 01:17:52 | 日記

プロフィール

「加賀の従姉妹が旦那の実家への帰省中に被災してビニールハウスや小学校で過ごしていたこと、クルマで4日の晩に無事帰ってこられたことが、母経由で伝わってきた。ホッとした。

播州もいつ山崎断層が動くかと言われているので、わが家庭も備えをもっと見直さないといけない。」
何シテル?   01/08 16:46
当ページの内容の無断転載はやめてください。 主な内容は、燃費記録と おすすめスポット。 未掲載スポットが、500件超。ズーン 省燃費と航続距離に拘ってま...
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