前の日記帳のページ数が尽きたようなので、十冊目。
日記
① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
〔日記〕
20.9.20(土)
日記帳がいっぱいになった。。
20.9.19(金)
数ヶ月前の話。
丹波立杭のドーノでのこと。
隣には、上品な感じの五十代半ばの夫婦が座っていた。
「まだか…」という声がかすかに聞こえたかと思うと、
「 も う い い ! 」
隣席の夫婦の旦那は、立ち上がって店を出た。
「不愉快だ」と、捨て台詞を残して。
店内、呆気にとられていた。
隣席の奥さんが店の人におわびして、その数分後に焼け上がったピザを持ち帰り用にしてもらって、支払いを終えて帰っていった。
こんな郊外の田舎の店に来ていながらピザの焼け上がるのも待てないようでは、残念ながらこの手の店を楽しむ適性は無い。
否、飲食店に限らず、その土地の文化・空間を、時間を忘れて愉しむ余裕があるかどうか。
大変なのは、尻拭いをする奥さんだ。
いい大人が、なんと大人気ないことか。
だから近頃の団塊は(以下省略)
ドーノの公式サイトが、いつの間にか完成してた。
20.9.18(木)
コウノトリは赤子を運んで来る前に
赤子を攫っているという噂。
20.9.17(水)
なんかもう止まらないので、ハトについても言及する。
ハトがどうして平和の象徴なの?
よく見ればグロテスクじゃない? …だなんて、もう突っ込まないから、
お願い、 も う 増 え な い で 。
フン害がひどいし、ビニール袋をガサガサするだけで完全包囲されるし、空を曇らせて飛び立つし、よく見ればグロテスクだし、もう大変。
…といっても、消えて欲しい、というわけではなく、
(これはカラスも含めてほとんどの生き物にいえることだが)
人間がエサを与えないで維持できる生息数で充分、ということ。
20.9.16(火)
♪烏なぜ啼くの 烏は山に
可愛い 七つの子があるからよ
可愛 可愛と 烏は啼くの
可愛 可愛と 啼くんだよ
山の古巣に 行つて見て御覧
丸い眼をした いい子だよ ♪
思えばカラスも哀れである。
カラスの色が白ならば、現在ほど人々に嫌われただろうか。
黒い生き物が不吉とされるのは洋の東西を問わないのか、黒猫も似たような扱いだ。
黒色が、人間の本能に根ざした
闇への恐怖を想起させるのだろうか。
もっと、カラスの良いところを見つめ直そうではないか。
【カラスの良いところ】
○ 賢い … 人間の罠なんてお見通し
○ 強い … 猛禽のトンビにも負けないぞ
○ 遊び心 … キラキラ、コロコロ、宝物あつめ
○ 可愛い … 集団の人間臭さは、サル山のサルに通じるかも
○ 鳴き声が美しい …
カー カー、
アーハー アーハー、
クァ クァ クァ、多彩な音色
ちょっとこじつけっぽいが、魅力たっぷりだ。
とにかく、イヌが賢けりゃ「お利口さん☆」といわれるのに、カラスだと「ズル賢い」と「ズル」を冠していわれるのは、あまりにかわいそうだと思うのだ。外してみよう、色眼鏡。
20.9.15(月)
頭より口の大きな燕の子
先々月の話。
ツバメ団地のひとつが、カラスの襲撃を受けて空き家になった。
チョッピリ寂しくなったが、カラスもまた山で待つ子のためなのだろう。
20.9.14(日)
F.F.6のセリス(縒り戻し時)を落書きしてみた。
日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9、日記⑩8/30、9/6参照。
ティナとロックは、シャドウとともに大三角島のサマサの村に立ち寄った。
ストラゴス老人に幻獣の情報を聞き出そうとしても、まるで手応えがない。
いや、それどころか、言動が不自然である。
訝しがっているところに、突然、孫娘らしき少女が飛び込んできた。
シャドウの番犬のインターセプターは、シャドウ以外に対して容易に心を許さない。
しかし、この少女―――リルムは、子犬に対するようにインターセプターとじゃれ合って遊びだした。
この村には何かある、と睨んだロックたちは、とりあえず一泊することにした。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
その晩、火事が起きた。老ストラゴスが助けを求めて駆け込んできたのだ。
ストラゴス「リルムが! あの家の中にいるんじゃ!」
現場に集まった村人たちは、なんと魔法を唱えて火を消そうとした。
本来魔法が使えるのは、幻獣か幻獣の血を引く者、あるいは帝国の人造魔導士だけだというのに。
村人総がかりの魔法でも火勢は衰えず、ストラゴスとティナとロックの三人で家屋に踏み込み、別口から侵入したシャドウに助けられ、リルムを救い出した。
ストラゴスが言うには、サマサは魔導士達の村であるという。
昔、魔石から魔導の力をとり出し魔法を使えるようになった魔導士。
普通の人間たちは魔導士の力を恐れ、魔導士狩りをした。
そのときに逃げ出した魔導士が、サマサの村をつくった。
代を重ね魔導の力は衰えているが、なんらかの形でまだ残っている―――と。
ストラゴスは、リルムを救ってもらった恩義から、ロックたちへの協力を申し出た。
ティナとロック、ストラゴスの三人は、幻獣の聖地といわれる西の山を目指して出発した。
シャドウは、自分のやり方でやる、と言い残し、一行から離れた。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
幻獣の聖地の山頂近い洞窟で、ロックたちは奇妙な像を見つけた。
ストラゴス「三闘神とは、はるか昔この世界に魔法という力を生み出した伝説の神のことじゃ。三闘神は魔法の神。ということは、幻獣の作り主とも言えるわけじゃ。幻獣達は、三闘神の像を作って聖地にまつったという伝説があるが、ここがその場所なのじゃろう。三闘神は幻獣を生んだ後、戦いに疲れ、己の体を石化させて永遠の眠りについたという。その場所が、封魔壁の奥であると伝説は伝えとる」
さらに奥へ行こうとしたとき、村に置いてきたはずのリルムが付いて来ているのを見つけた。
ストラゴスは、眉をしかめながらも、やむなく同行を許した。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
洞窟の奥には、大勢の幻獣たちがいた。
幻獣の視線は、入り込んだ四人に注がれ、四方囲まれてしまった。
ティナは自ら幻獣化し、若き幻獣たちの頭目のユラと交渉した。
ユラ「幻獣界には、こちらの世界に来てはならぬと言うおきてがあります。でも魔石化された仲間を助けるために若者達が扉の前に集結したのです。その時にティナの姿が…」
ティナ「私も感じました。あなた達の想いが、扉の中から…」
ユラ「ティナが扉を開けてくれた事で外に出ることができました。しかしこちらの世界に出たとたんに自分の力をコントロールできなくなってしまったのです。そのために、一つの都市をメチャメチャに破壊してしまい、罪の無い人達まで…」
ティナ「私と同じだわ…突然手に入れた力をコントロールできなくて…」
ストラゴス「おそらく幻獣はあちらの世界では力がある程度おさえられる傾向があるのじゃろう。それが突然開放されたために…」
ユラ「幻獣によっては精神に失調をきたし人に危害を加える者も…本当に申し訳ない」
ロック「帝国も幻獣達との和解を望んでいる。どうだ? 俺達と来ては」
ユラ「……我々を、許してくれるのか?」
ロック「ああ。…サマサの村へ行って、レオ将軍たちと合流しよう」
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
サマサの村に、シャドウを除く全員が集まった。
ロック「レオ将軍」
レオ「おお、ロックか。幻獣達に会えたようだな。手間をかけた。さて、私は、帝国の将軍、レオ。あなたの名前をうかがいたい」
ユラ「私は、ユラ。我々はあなた方にとんでもない事をしてしまった。許してくれなどと言えた立場では無いかもしれないが……」
レオ「わかっている。おかした過ちを責める気はない。逆にあなた方の戦争のための力としてしか考えてなかった自分を恥じる。魔大戦の過ちを再び引きおこうそうとしていた自分達を……」
ユラ「そう言ってくれるとありがたい」
「なにも言わないで」
ロック「これで俺達の役目も終わる。本当の平和が訪れるかもしれないな」
セリス「戻りましょう、ベクタへ」
ロック「セリス……」
セリス「なにも言わないで」
リルム「おあついね…」
ストラゴス「若さ、じゃのお」
結局縒りを戻したロックとセリスなのでした。チャンチャン。
前回とほぼ左右対称なだけの構図になってしまった。。背後のは、蛇括神憑分ではない。
リルムとセットでストラゴス翁も描き込むはずだったのに、描く前に萎えた。orz
リルムは作中10歳の幼女で、
宙に敵の似顔絵を描いて、その生きてるかのような絵に敵を攻撃させる、というピクトマンサー。意訳すれば、絵描き魔導士?
20.9.13(土)
先々月の
ニュースの話。
>
4か月のチワワ「怖い」とけり殺す、44歳男を逮捕
>散歩中の他人の愛犬をけり殺したとして、愛知県警は15日、名古屋市千種区清住町、会社員田中善行容疑者(44)を器物損壊の疑いで現行犯逮捕し、名古屋地検に送検したと発表した。
>発表によると、田中容疑者は今月13日午後4時45分ごろ、同区覚王山通の歩道で、男性会社員(40)が連れていた飼い犬を右足でけり、死亡させた疑い。犬は生後4か月の雄のチワワで、動物病院に運ばれたが、内臓破裂のため間もなく死亡が確認された。
>田中容疑者は右足で思い切りけった後、歩いて立ち去ろうとしたが、目撃していた男性会社員(47)に取り押さえられた。調べに対し、「犬が怖かった」などと話しているという。
このニュースの見出しが、さも意味有り気に―――
4か月のチワワ「怖い」―――とある。
どんなイヌでもネコも、たとえ手のひらサイズの小ささでも、怖いものは怖い。
「もし争っても必ず人間が勝てるから、小型犬が怖いだなんて有り得ない。虚言に決まっている」…と思う人もいるかもしれないが、私は「有り得る」と断言する。
そりゃあ、いざとなればねじ伏せることができても、そんな乱暴ことや殺生なことは好き好んでしたくないし、第一、先ず最初に噛まれたり引っかかれたりするのが嫌なのだ。
こんなとき、たいていの飼い主が無神経に言う言葉―――
「ウチのイヌは大丈夫」
いや、あなたのお墨付きなど、当人にとってはなんの保証にもならないから。
噛む“かもしれない”という予感だけで、果てしなく恐怖なのである。
傍目には「小型犬にじゃれつかれた」だけでも、「噛まれる、襲われる! 痛いのは嫌だ!」と瞬間的に考え振り払おうとする―――それは決して異常な反応ではない。生物として当然の反応ですらある。それが足許にいたなら、足をバタバタしているうちに蹴飛ばしたり、踏んづけたり、巻き込んでしまうこともあろう。
ただ、この44歳男が本当に「犬が怖かった」かというと、ウソだと思う。
なぜなら、
恐怖心に駆られての行為なら、もっと動揺してしかるべきだからだ。
かなりの力を込めて右足で蹴った後、歩いて立ち去ろうとしている。
証言が限定的だから断定までできないが、態度が落ち着いている。
正当防衛とは言えぬ
無闇な殺生は、非難されてしかるべきだろう。
チワワの飼い主の男性に、もし非があったとすれば、
①
リードを外している場合(本来は、自邸の庭ですら外すべきではない)
②
人が近づいてもリードを伸ばしっぱなしの場合
…だと思う。
①は、論外。イヌの大きさにかかわらず、町を混乱に陥れる行為と言っていい。
②でも、充分無神経と言える。小型犬がじゃれるだけでも怖いものは怖い、というのは既に上で述べた通りだ。
この点をキッチリしてこの事件に巻き込まれたのなら、まことに気の毒と言うしかない。
私はイヌやネコの存在そのものが憎いわけではない。
親戚の気心の知れたイヌなら思い切り撫でてやって可愛がる。
それに見目愛らしいから、写真とか、遠目で見る分はいい。
しかし、
自分自身が意図せぬ接触は、御免蒙りたい。
そういう人間もいることを、動物の飼い主は知るべきだろう。
20.9.12(金)
PCの中にケータイの写真データがあった。
そのうちのひとつ、数年前の城崎にて。

← 健忘症で自問自答という設定
城崎に一体いつ来た 昨日? さっき?
入選等したなら、何らかの発送をもって判明するはずなのだが。
今日に至るまで、何のいらえも無い。
おすすめスポット
タグ 城崎
20.9.11(木)
先々月の話。
デカンショ街道(国道372号線)の今田~三草間で、
窓から右腕を出したパトカーとすれ違った。職務中に運転する姿勢ではないだろう、と思った。
20.9.10(水)
おすすめスポットを更新した。
摂津の宝塚は、阪急電鉄の宝塚線と今津線がつながる要所で、宝塚歌劇団で有名。
地形的には、山の渓流から平野部に現れた
武庫川の扇状地。
北の山地―――長尾山系は、隣市川西の猪名川まで続き、
西の山地―――六甲山系の余波(?)の山々が続き、最後に甲山(西宮市)で終わる。
宝塚の山地や甲山からは、天気次第で生駒山、二上山、葛城山、金剛山まで見渡せる。

↑ 中央やや右の山が、生駒山。二上山は、枝が邪魔して見えない。
摂津の多田を本拠としていた多田源氏にとって、宝塚の山奥にあった波豆(はず)庄は重要な後背地だった。源満仲の武勇伝として、普明寺の龍馬神という伝承がある。
波豆の里は摂津多田源氏の所領で、 山の幸豊かな土地。
多田に住まう源満仲は、いつも決まった時間に巡視の馬を走らせていた。
その日、多田を離れ、渓流に沿って山から谷へと馬を走らせているうちに、ふと気づくと家来とはぐれ、ただ一人、山の奥深く迷い込んでしまった。やがて日が暮れ、満仲は大木の根元に馬の鞍を降ろし、野宿した。
昼の疲れでぐっすりと寝込んでいた満仲は、 女の声で目を覚ました。
「私はこのあたりに住む千年の齢を経た龍女でございます。あなた様は武勇の誉れ高い源満仲様とお見受けし、お願いがございます。この山の麓にある大沼に大蛇が住みついているのですが、この大蛇は獣は手あたり次第に飲み込んでしまうわ、暴れまわるわで、ホトホト困っております。どうぞ大蛇を退治していただけませぬか。そのために、どうぞ私の馬をお使い下さい」
言い終わるや女は、姿を消した。
跳ねおきた満仲が目を凝らして見ると、闇の中に一頭の立派な馬が立っていた。
長い尾を持ち、二本の角を持った、宙を駆けることもできる馬だった。
大蛇が住むという大沼の上に来た満仲は、水面を見すえ、弓を引き絞るや、沼の中央をめがけ、ヒュッと矢を放った。
瞬間、沼がパッと赤く染まり、大木のような大蛇が、しぶきと共に舞い上がった。
大蛇は爛々とと目を見開き、大きく裂けた口から火炎を吐いた。満仲は身をひるがえすやいなや、右の目をめがけて矢を放ち、続けざまに左の目をも射抜いた。
満仲は、とどめに頭上をめがけて力いっぱいに太刀を振り降ろし、大蛇は断末魔の叫びをあげ、 沼の底に沈んでいった。
源満仲は、84歳で世を去った。
家臣たちは、主人を亡くした龍馬を、昔住んでいたといわれる多田の聖山に放った。しばらくして様子を見に来た家臣は、長い尾をなびかせ、木々の間をかけ抜けていく龍馬を見て、尾を束ね、短くしてやった。
すると、あれほど強くすばやかった龍馬は、いとも簡単に野生の馬に食い殺されてしまった。
家臣たちは、龍馬の亡骸を、滝の落ちる美しい場所に丁重に葬り、その場所に 塚を建て。その塚を「駒塚」と呼び、近くに落ちる滝を「駒が滝」という。
それから500年ほどの後の世。
波豆の普明寺の住職に、玉岩和尚という人がいた。
ある晩のこと、異様なほどの風が吹き荒れ、寺の見回りをしていた和尚は駒塚のある山の方で、一筋の不思議な光を見た。
和尚は光を求めて山中に入り、駒塚の前に来ると、 供養のための経を唱えた。
すると、大粒の雨が降り始め、またたく間に大地を叩きつけるような激しい雨に変わった。
和尚は、経を唱え続けた。すると突然、馬の嘶きにも似た落雷とともに駒塚が真っ二つに割れ、龍馬の首が飛び出したのだ。
「この馬の首は、満仲公の武伝、大蛇退治の際の龍馬の首に相違ない。雲を呼び、嵐を起こして天に昇ろうとしたのであろう」
…と、寺に持ち帰り丁寧に弔った。そして、龍馬の首を本堂に祀った。
その翌年、波豆の里はひどい旱魃に見舞われた。
「雷雨の中から飛び出した龍馬が、普明寺にある。雨乞いをしてみよう」
…と、里人はすがる思いで普明寺に行き、雨乞いの呪文を唱えた。
すると、たちまち雲が湧き、大粒の雨が降り出し、枯れていた田畑は潤ったのだった。
「これぞまさしく、八大龍王の使いと言われた雨を呼ぶ 龍馬神に違いない」
この龍馬神の霊験はあらたかで、その後、雨乞いの神事にもしばしば使われ、 近年では昭和13年と23年の旱魃にも行われ、必ず雨が降り村を救ったという。
その雨乞いの呪文とは、トジト ソロソロ シュリシュリ スリョスリョ ナギャナン ジャバジャバ ジビジビ ジョブジョブ ……
波豆ばかりでなく、丘から平野部にかけての中筋、山本の郷も、多田源氏の被官の領地。
郷土史の資料によると、中筋は渡辺氏(渡辺綱で有名)、山本は坂上氏の所領だったという。
渡辺綱(わたなべのつな)は、源頼光の四天王。鬼の腕斬りや大江山の鬼退治で名高い。
山本には、坂上氏が祖先の坂上田村麻呂を祀った松尾神社がある。(奥州三春の田村氏も、坂上田村麻呂の子孫を自称する。坂上田村麻呂も伝説が多くある)
この社を創建したのが、浦辺太郎坂上季猛(うらべたろう さかうえのすえたけ?)。
もし、浦辺太郎坂上季猛が卜部季武(うらべのすえたけ)と同一人物だとするなら、山本もまた源頼光の四天王の治めた郷ということになる。
もっとも、伝説は飽くまで伝説であって、荒唐無稽なフィクションも多いのだが、それだけに話が面白く、そしてそういう伝説のモデルとなった人物が同じ摂津の平野に住んでいた事実が、いっそう面白い。
丹波の柏原は、多紀郡の篠山の北西の盆地で、氷上郡に属し、「かいばら」と読む。
柏原の字は他にも多くの読み方があり、かしわら、かしはら、かしわばら…とややこしい。
有名なところでは、大阪府の柏原市の柏原(かしわら)が知られ、その大阪府柏原市の15kmほど東の奈良県橿原市の橿原が「かしはら」なのだから、ごっちゃにするな、と言う方が無茶。
なお、丹波の柏原は、昔は「栢原」の字を書いた。柏も栢も、「かしわ」の意味は同じ。
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20.9.9(火)
日中は冷房ガンガンの生活の中、健康に留意するには…
発汗機能を休ませないことが大事。
帰宅してから
23時頃にお風呂に入るまで、エアコンや扇風機は一切つけない。
水やお茶を飲むも良し、パンツ一丁になるも良し、ほとんどサウナ状態。
本当のサウナなら、90℃もあれば15分くらいしか持たないが、タダサウナはせいぜい
35℃程度なので、その気になれば何時間でも持つのだ。
23時になれば、部屋のエアコンを入れてから、お風呂で汗を流す。
もちろん、
23時から電気代が安くなることも考慮している。
風呂あがり…エアコンが29~28℃の設定でも、極楽かと思うほど涼しい。
なお、この夏の夜、市販の
アイスの類は食べていない。
暑いときは、普通の
製氷機の氷をほおばる。なに、味がないだけだ。
これに慣れると、アイスを買うのがアホらしくなる。
体は暑さに慣れ、電気代も安上がり。アイス代も丸々浮く。我ながら素晴らしい一石三鳥。
20.9.8(月)
先々月、多可郡多可町の喫茶兼洋食屋の
古時計へ行ったときの
帰り道の話。
古時計の近くのAコープ(←ちょっとFSS思い出した)の駐車場には焼き鳥屋があり、その焼き鳥屋が鶏肉(脂身の使わない部分?)を駐車場の隅に放り出していた。(常のことだろう)
たちまち
トンビ勢力と
カラス勢力が召集をかけ、交互に舞い降り、死肉をむさぼった。
そして、それを
ネコ勢力が虎視眈々と狙っていた。う~む、
鶏肉三国志。
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20.9.7(日)
トンビとカラスは、空の覇権を争っている。
20.9.6(土)
F.F.6のセリス(大三角島突き放され時)を落書きしてみた。
日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9、日記⑩8/30参照。
朝、準備万端整った一行は、大三角島へ出航した。
航海は順調に進み、夜―――。
レオ「寝つけないのか? 感情が戻ったそうだな…」
ティナ「……不思議なものね。帝国に利用され、思考までをもコントロールされていた私が、こうしてまた帝国の人間とともに行動しているなんて」
レオ「帝国の人間とて、同じ人間。全てがケフカのようなヤツばかりではない」
ティナ「あなたは……どうなの?」
レオ「お前が幻獣とのハーフであり魔導の実験台として苦しめられているのを知りながら…それを止められなかった俺も、ケフカと同罪さ…」
ティナ「幻獣と人間が愛し合えるのなら…その子である私と人間とは…愛し合えるのかしら?」
レオ「もちろんだとも」
ティナ「でも…私はまだ愛という感情を知らない」
レオ「お前はまだ若い。……いずれ、わかるようになる」
レオ将軍は、ティナの肩をたたき、部屋に下がった。
ティナ「でも…。私は、今知りたい……。…誰!?」
シャドウ「星を見ながら寝ようと思ってな」
ティナ「今の話……聞いていたの?」
シャドウ「聞くつもりはなかった」
ティナ「あの…」
シャドウ「俺は、何も教えてやれん。答えは自分で見つけるものだ。ティナ、世の中には、自ら感情を捨てて生きようとする人間もいるのだ。それを、忘れるな」
バタン
ロック「うぅ、ぐるぢひ~……ウッ」
ゲパァーーーッ!
ロック「なんてこったい…世界一のトレジャーハンターともあろうものが……ウッ」
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
明朝―――。
「あの、私……」
レオ「もうすぐ大三角島だ。上陸したら二手に別れよう。私とセリスが組むから、ティナはロックとシャドウと組んでくれ。幻獣の手がかりを見つける事ができたなら、すぐ報告をするように。…ティナ、昨日の話の続きは、また再会の時に…」
ロック「俺達も行くか」
セリス「あ、ロック…あの、私……」
ロック「ティナ、シャドウ、行くぞ」
セリスは言葉を失って崩れ落ちた。ティナは途惑うばかりだった。
波のように寄せては引き…。おそるべしロックの駆け引き(?)。
毎回セリスの表情が異なるのは、気のせい。いや、気のせいではない。
セリスに対する解釈を毎回変えているから。いや、ちょっとそれらしく言ってしまった。うそ。
実際は、
浮野の落書きなんざ所詮その程度、というだけの話である。orz
20.9.5(金)
一たび外出すると23%くらいの確率で社会の窓が開いている自分に絶望する。
20.9.4(木)
昨夏、和歌山へ行ったときの話。
和歌山城の石碑のひとつに、童謡(?)の詩が書かれたものがあった。↓

相方に「アレ、何て書いてあるの?」と言ったら、三秒ほど眺めた後、ウッと手を口に当てて、口をつぐんだ。
「どうしたん? 何て書いてあるん?」
「てんてん手鞠は、殿さまに……」
「ふ~ん。で、なんでスグ言えなかったん? 最初、何て思ったん?」
「……」
「なーなー、何て思ったん?」
「もー!」 バシッ
しまった、ほとんどセクハラだったか。しつこすぎたようだ。
本題のこの詩は、「♪ てんてん手鞠(てんまり) てん手鞠(てまり)♪」という出だしの
鞠と殿さま。
手鞠がポーンと飛んでって、紀州の殿さまの籠の上に乗って東海道を旅し、紀の国へ行った―――という内容。ぶっちゃけて言えば、
手鞠の大冒険。
ところかわって、根来寺(ねごろじ)。
根来寺の駐車場には、にゃんこがたくさん住みついて、車の周りをニャーニャーたむろ。
あるにゃんこは、先代レガシィのホイールハウスの中に立って、ガリガリ。爪とぎ。

あ~あ、私は知らないっと。車を出すときは、下を確認して轢かないようにしないと。。
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タグ 紀伊
20.9.3(水)
蚊に刺された場合に最も有効な対処は、掻かない(刺激しない)こと。
20.9.2(火)
PCの奥にあった古い落書きを見つけた。
日付けは2001年3月、データ名は「ちょい描き」(←?)。
たぶん水性ボールペンの落書きをスキャナーで取り込み後、フォトショで色塗り。
使用ソフトは、今もこのときもずっと一緒。
スキャナーか何かに添付してた、
フォトショップ5.0 リミテッドエディション(機能制限版)。
この頃は、
髪の表現に一番苦労してた。今もなお課題だけど。
20.9/1(月)
先々月の
ニュースの話。
>
遅刻83人にゲンコツ、宇和島の中学教諭…行き過ぎと謝罪
>愛媛県宇和島市の市立中学校の男性教諭(41)が、学年集会に遅刻した2年生の男女83人全員の頭をゲンコツで殴っていたことがわかった。うち生徒7人の頭にコブができ、男性教諭は「行き過ぎた指導だった」と、保護者らに謝罪したという。
>学校側によると、男性教諭は今月3日、2年生の生活態度について指導するための学年集会で、生徒が集合時間に7分遅れたことに腹を立て、全員を正座させたうえ、一人ずつ順番に殴ったという。ほかの教諭6人が制止しようとしたが、止められなかったという。
>同中学の校長は「情熱的な指導の教諭だが、生徒に痛い思いをさせてしまい申し訳ない。再発防止に努めたい」と話している。
笑ってしまった。
学年集会―――団体行動は時間厳守、常に5分前に行動して然るべきを、7分遅れ。
頭にコブくらいは、常識一つ学んだ代償として、ちょうど見合うのではないか。
生徒に痛い思い…再発防止…、これは
生徒の少しの意識付けで、完全に解決ですね、ハイ。
20.8/31(日)
PCから、普段はしない変な音が出てる。orz
ハードディスクかな? まだ丸二年なのに。。
20.8.30(土)
F.F.6のセリス(アウブルク再会時)を落書きしてみた。
日記② H19.10/30、10/31、11/1、日記⑨ H20.8/1、8/9参照。
リターナー一行は、ティナの眠るゾゾに集まった。
そして、ロックたちが持ち帰った魔石のひとつに反応に、目覚めた。
ティナ「お父…さん…? 思い出したわ。私は幻獣界で育った」
ティナの父は幻獣のマディン。
かつてマディンは、幻獣界の入口付近に倒れていた人間の女・マドリーヌを助けた。
人間と幻獣は相いれない生き物―――そういわれる中、二人は惹かれあい、結ばれた。
その愛の結晶が、ティナだったのだ。
二年後、幻獣界に再び人間が訪れた。魔導の力を狙うガストラ皇帝とその軍隊だった。
幻獣たちはガストラの侵入を防ぐため、一切の異物を追い出すという封魔壁を発動させた。
しかし、侵入者ばかりか赤ん坊のティナが放り出され、それを追ってマドリーヌも幻獣界を飛び出した。
幻獣界から排除されたガストラ皇帝であったが、マドリーヌの腕に抱かれた赤子が幻獣との混血であることを察し、マドリーヌを殺してティナを奪った。そして、ティナは生来魔法の使える魔導戦士として、ガストラ帝国の洗脳を受けて育ったのだった。
ティナは自分の出生をはっきりと悟り、幻獣としての力を制御できるようになった。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
一行は、ナルシェに置かれていたリターナーの本部に戻った。
ナルシェとフィガロの連合だけではガストラ帝国に抗し得ないと結論したリターナーは、幻獣の力を借りることを発案した。
バナン「帝国の東にある封魔壁を開き、幻獣達がそこから帝国に攻撃をしかけるのと同時に、我々が北から攻める。そのためには、幻獣を説得しなければならん。…幻獣と人間の間にもう一度、絆をつくる…。その役目ができるのは―――」
ティナ「人と幻獣…相いれぬものならば、私は生まれなかった……。 私がやる、私にしかできない!」
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
飛空挺で帝国の東の峻険な山に辿り着いたティナたちは、溶岩の煮えたぎる長い洞窟を抜け、封魔壁の前に立った。
ヒーーーッヒッヒッヒ!
なんとしたことか、ケフカにつけられていた。
ケフカ「ガストラ皇帝のおっしゃっていた通りだ! ティナを帝国に刃向かう者に渡し、泳がせれば封魔壁を必ず開く…。つまり、我々の手の内で踊っていたに過ぎないのだよ!」
ティナ「幻獣たちよ…私を受け入れて……」
ゴゴゴゴゴゴ…
幻獣の群れは封魔壁を開き、猛り狂って帝国を襲った。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
帝国の首都ベクタは幻獣の襲撃を受け、炎上していた。
戦意を喪失したガストラ皇帝にシド博士が説得を試み、リターナーとの和平会談が催された。
長い会談の末、皇帝が戦いの終わりを誓うと同時に、幻獣たちが飛び去ったという大三角島へ、幻獣の血を引くティナが和解しに行くこととなった。
帝国の魔導士・ケフカは、ドマ国攻略時に毒を用いた罪で、牢獄に入れられていた…。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
大三角島の幻獣との説得のため、リターナーからティナとロックが選ばれ、港町アルブルクに向かった。
帝国から出された人員は、人格者で知られるレオ将軍と―――。
「………」
レオ「私と同行するのは帝国の将軍一人と、街で雇った男一人だ。紹介しよう、セリス将軍とシャドウだ」
ロック「!」
レオ「どうかしたのか?」
ロック「いえ…」
レオ「さて、出港は明日だ。宿の手配はしているから、今日はゆっくり休んでくれ」
ティナ「セリス……」
セリス「……」
ロックはセリスに話し掛けようとしたが、セリスはその場を早足で立ち去った。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽ △ ▽
深夜、宿屋から出る影があった。港町の石畳に、ふたつの影が映った。
ロック「セリス…。どうして、どうして何も話してくれない? 少しでも…疑ってしまって…。だが、まだ仲間として…」
セリスは目をそらし、背を向けた。。
ロック「セリス!」
一瞬瞳を閉じたセリスは、何も言わず去った。
考証はしてないので、レオ将軍とシャドウは、ゲーム画面のドット絵を思い出して描いた。
レオ将軍の服はローブっぽいのかな。やはりあの髪型は
モヒカンにしか見えない。
それにしても、セリスはなんて
けしからんコスチュームなのだ。うむ、けしからん。
相変わらず、野郎は描く気が起こらない…。その分、
セリスの臀部に情熱の八割をそs
20.8.29(金)
フィギュアスケートに使用されたことで一躍有名になった
ユー レイズ ミー アップは、もともと
ロンドンデリーの歌という民謡だそうだ。日記① H19.7/19参照。
確かに、ほとんど一緒……僅かに編曲した程度。
【試聴】
ロンドンデリーの歌(Londonderry Air) 怨霊注意
ついでに、英語の歌詞をヤフーので翻訳してみた。
なにせ、私の英語力は0なのだ。日記③ H19.12/27参照。
私がひねくれた大枝Toから優しいリンゴ花Thatフロートと滝であった神が、あって、そして、それとしてのあなたの絹の胸が現在するあなたの絹の胸Withinの中で気絶します。
あるいは、私は少しのburnish'dリンゴForでした、あなたが芝生のローブを着させる太陽と陰が芝生のYourローブをまだらにするように冷たいWhileとあなたによって髪の引き伸ばした金をすべらせて、私を選び出すあなた。
然り‖私がThatがあなたが芽が開ける最も低い枝の上でWhileの間で浮いて、あなたにキスするためにたてかけるバラの内の一った神に、A芽は、あなたに触れるために、女王を開けます。
あなたが好きでない時から否、私はA幸せなヒナギクを栽培していました、あなたの銀の足が私を押すかもしれないように、庭園の経路Thatにおいて、行っているMightは死にさえ行って私を押します。
なんという電波な恋歌(?)であることか。
20.8.28(木)
おすすめスポットをアップした。
播磨の小野&加西&多可郡、摂津の伊丹。日記⑨ 8/12参照。
まあ、なんというか……本当に、播州が庭って感じだ。。
イチオシは、長明寺。源頼政の鵺退治。ここの鵺の像の躍動感が大好き。
あわせて20件消化したのだが、新たなスポット用の写真を21件編集し終えた。
なかなか減らない…。orz
次の紀行は、但馬の方。こまめに書いておこう。
ちなみに、私はおすすめスポットや長文を書くときは、
PCのメモ帳を使う。
wordなどは、機能過剰だ。フォントもへったくれもなく、とにかく書く。
ふと思いついたことがあれば、ケータイにメモる。
場合によっては、それを自宅のPCに送信後、
PCのメモ帳に転記。
だいたい書きたいことを
メモ帳に書き出したと思ったら、あとは推敲。
ボチボチできたところで、アップする。
でも実際は誤植が多いので、アップ後に通読して校正してる。(:;)
おすすめスポット
タグ 播磨 タグ 摂津
20.8.27(水)
何年も前の話。
ラジオで流れてた歌の歌詞に、
外国で飛行機が墜ち
アナウンサーは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」と言いました
って意味のがあった。
しかしこれは、
日本人の安否の報道の意味を取り違えている。
日本のどの世帯に、
その地へ家族が行っているという世帯があるかもしれない。
そういう
残された家族は、直接連絡がとられない限り、この手の報道でしか旅先の家族の安否を知り得ない。
「乗客に日本人はいませんでした」の報に、家族は無事だったと安堵し、また、
「名簿にはウキノウキオという日本人名が…」の報に、浮野一家は覚悟を決める。
日本の
家族の単位を重視している(心当たりのある家族のため)とは言えようが、
日本人と他国人の命の軽重の問題ではない。
わざわざこういう意味に捉える作詞者を、哀れに思った。
20.8.26(火)
何年も前の話。
ラジオで流れてた歌の歌詞に、
何十年 何百年 何千年 何万年 何億年 何光年
ってのがあった。
しかし、「光年」だけは、時間ではなく
距離の単位なのだが。。
20.8.25(月)
カマキリだ、と思ったら大阪ガスだった。
20.8.24(日)
以前、志方から姫路方面を周ったときの話。日記⑧ 7/13参照。
志方(しかた)と平荘(へいそう)の間に、
投松という地名があった。
読みは、「ねじまつ」。妙に印象に残った。
後日、相方の情報が入った。(情報源は、たいてい神戸新聞の地方欄らしい)
内容は、投松の地名の由来。ずばり、
一乗寺から法道仙人が放り投げた枝が松になった―――という伝説。
法道仙人とは、
天竺から紫雲に乗ってやって来た仙人。
もちろん、実在性は限りなくあやしい。これが播州では幅を利かせていて、
法道仙人がひらいたと伝わる寺が播州中にあるのだ。
私が行った中で思い出せるだけでも、これだけある。↓
花山院(兵庫県三田市):西国三十三番の番外、日記⑨ 8/3参照
光明寺(兵庫県加東市):足利尊氏・直義兄弟の対峙した古戦場
播州清水寺(兵庫県加東市):西国三十三番の第二十五番、日記⑦ 5/10参照
一乗寺(兵庫県加西市):西国三十三番の第二十六番
摂播には、聖徳太子伝説や行基伝説が多いから、これくらい突き抜けた人物(仙人)が加わっても別に不都合はないかもしれない。心おおらかでありたいものだ。
20.8.23(土)
何ヶ月も前の話。
私学のやんちゃそうな小学生の男の子が、同じ学校の女の子に向かって叫んだ。
「 お ま え の お っ ぱ い 、 何 セ ン チ ー ー ! ? 」
素直に聞ける素晴らしさ―――ああ、うらやましいな、と思った。
20.8.22(金)
相方が、前を走る車を見て、
「なんであんな
取っ手つけてるんやろ?」
どうやら、リアウイングのことを言っているらしい。
「ヒョイって、持ち上げられそうやなぁ」
まだ言っている。
「それがカッコイイ思て付けてる人もいはるんやから、あんまりそんなこと言わない」
…と無難に返答したが、内心は、自由な発想に舌を巻いてたりする。日記② H19.10/20参照。
20.8.21(木)
オニバスとオムニバスは、字面が似ている。
20.8.20(水)
先々月下旬の話。
京都の松尾大社、八坂神社、京都国立近代美術館(ルノワール+ルノワール展)、平安神宮、金戒光明寺、会津墓地へ行った。
松尾大社は、京都盆地の西の山のふもとにあり、オオヤマクイとナカツシマヒメを祀り、大神神社(8/18参照)とともにお酒を司る神社として有名。
オオヤマクイは、スサノオの子のオオトシ(大歳/大年神社に祀られる)の子で、古事記に「近淡海の国の日枝の山に坐して、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用いる神」とある。
鳴鏑を用いる神―――。
賀茂神社にまつわる話で、こういうのがある。日記⑤ 3/31参照。
カモタケツノミの娘のタマヨリビメが川遊びの最中に流れてきた丹塗りの矢(丹は、丹生。つまり、朱。朱塗りの矢)を拾い持ち帰り、そばに置いて寝ると、なんと懐妊してしまった。子はのちのカモワケイカヅチ、上賀茂神社の祭神である。
また、日向から大和の東征に成功したカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の妃のイスケヨリヒメが神の子である由来として、こんな話がある。
三島(茨木周辺)のセヤダタラヒメは、姿かたちのうるわしい乙女だった。
その乙女を、三輪山のオオモノヌシが一目惚れしてしまった。
美しいセヤダタラヒメが厠に入ったとき、オオモノヌシは丹塗りの矢に姿を変え、厠に伝わる溝を走り、まさに大便をしようする乙女のホトに突き刺さった。
慌てふためいた乙女は落ち着きを取り戻し、矢を持ち帰って床のそばに置くと、矢はうるわしい男の姿となって、二人は契りを交わした。そして生まれた子が、ホトタタライススキヒメ。
しかしヒメは、名にホトとつくのを嫌がって、ヒメタタライスケヨリヒメと名を改めた。
丹塗りの矢の話は、“神が人間の娘に子を孕ます”というひとつの類型だが、オオヤマクイも同類の話があるのだろうか。
ナカツシマヒメとは、社伝によればイチキシマヒメの別名らしい。
イチキシマヒメは、タキツ、タギリとともに宗像三女神の一で、海上の安全を司る。
言い忘れていたが、松尾大社の松尾は「まつのお」を読む。
八坂神社は、スサノオを祀る神社であり、そのスサノオに習合される前の神の姿―――牛頭天王(ごずてんのう、祇園精舎の守護神、疫除の神)から祇園さんとも呼ばれる。
蘇民将来の話にちなんだ疫除の八角木守を販売しているが、牛頭天王の信仰については、先ず播州の廣峯神社から分祀されたのだろう。日記⑧ 7/13参照。
京都国立近代美術館で開催されていた
ルノワール+ルノワール展を見た。
画家の父が描いたモチーフを、映画監督の息子が映画の場面々々で採り入れていたとか。
まあ、オマージュというやつだろうが、親子だからこそ可能なことかもしれない。
ルノワール(父)のブランコに乗った女性の画をモデルにしたリカちゃんが販売されていた…。
京都国立近代美術館の最上階(?)から、東の方面がよく見えた。
平安神宮の鳥居と、その左遠方の丘に黒谷の金戒光明寺が見える。
平安神宮は、平安京を拓いた桓武天皇と平安京最後の孝明天皇を祀る。
維新後に
明治政府によって大規模につくられた神社のひとつで、個人的には惹かれるものはない。(他に、橿原神宮など)
平安神宮は、
時代祭で有名で、京都の三大祭として他に賀茂神社の
葵祭(賀茂神社の紋は、立葵)、八坂神社の
祇園祭がある。
時代祭は、室町時代の行列は
吉野時代(楠公その他)のみで、
室町幕府関連の行列が加えられたのは昨年のことである。どうせ、足利は逆賊だから、という発想だろうが、料簡の狭いことこの上ない。
金戒光明寺は、「こんかいこうみょうじ」と読む。
浄土宗の大本山であるが、歴史の表舞台に出てくるのは、幕末のことである。
京都の治安は急激に悪化していた。
尊皇や攘夷、倒幕を叫ぶ者どもが、見境なく強盗や殺人などのテロルを起こしていたからだ。
この現実を前に京都町奉行は無力であり、幕府は京都守護職という新たな役職を設け、会津松平家の松平容保(かたもり)に就任を強く請うた。既にこのとき、さらに二つの職を設けられており、政治総裁職に福井藩主・松平春嶽、将軍後見職に一橋慶喜が就いていた。
容保は、断固辞退した。会津藩は、それ以前に浦賀や蝦夷地の警備にあたり、既に財政は逼迫していたのだ。
幕府は、奥の手を出した。「確か、尊藩には―――」
結局、容保は請けた。
会津藩は、二代将軍・徳川秀忠の隠し子の保科正之を藩祖とする。
会津藩とはいかなる藩、保科正之とはいかなる人物だったのか―――。
北条牢人の娘のしずは器量が良く、江戸城に上がり、そこで秀忠の手がついた。
しかし、秀忠の妻のお江与は嫉妬深く、将軍の子を懐妊したしずは江戸城を離れることを余儀なくされた。
しずは見性院(武田信玄の娘、元は木曽氏の妻)と信松院(武田信玄の娘、元は織田信忠の許嫁の松姫、日記① H19.7/8参照)の庇護を受け、江戸の外れで男子を産んだ。幸松、のちの正之である。
お江与は夫の隠し子の存在を知り、人を遣って見性院を詰ったが、「いずれは幸松にわが禄を譲り武田の家を継がせるつもりなれば、口出し無用」と反論した。こうして武田の幸松として成長していったが、6歳あたりの頃、信州高遠藩の保科正光の養子となり、母のしずとともに高遠へ移った。
保科氏は信州の豪族で、祖父の保科正俊は武田信玄の被官となり、槍弾正として名を馳せた。また高遠は、甲州武田氏滅亡の折、仁科盛信(武田信玄の子、当時は松姫の保護者)が織田信忠の大軍に対し一戦して討死にした、奇縁の地であった。
以後、幸松は高遠の山野で育ち、成人し、高遠藩を継いだ。そして、異母兄の三代将軍・徳川家光に見出され、国政にも携わり、四代将軍・徳川家綱に忠実に仕え、江戸前期の安定した時代をもたらした。
この間領国は、高遠から山形を経て会津に移った。表高23万石、実質28万石。御三家に続く第四の家格であった。
将軍は正之に松平姓に戻すよう告げたが、正之は養父の保科正光の義理から生涯保科姓を通した。会津の保科氏が松平姓を名乗るのは、三代藩主・正容(正之の子)からである。
なお、高遠の保科氏は将軍の子に藩を譲ることで元の保科の血脈を断つこととなったが、保科家を継いだ正之の尽力により、保科正光の弟の血筋が上総飯野藩として幕末まで続いた。上総飯野藩出身の照姫(松平容保の義姉)は、会津藩の危機に際して会津入りし、籠城の辛苦を分かち合った。また同藩から非公式に数十人の藩士が会津藩へ助太刀した。
保科正之はその晩年に十五箇条の家訓(かきん)を書き定めた。その第一条に曰く、
「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」
(将軍家への忠勤は、他藩の例をもって満足してはならない。もし将軍家に背く藩主があらわれたなら、それはわが子孫ではないから、家臣たちは決して従ってはならない)
将軍の血を受け継ぐ正之は、一にも二にも、真っ先に壮絶なほどの佐幕の魂を謳ったのだった―――。
政治総裁職の松平春嶽は、奥の手を出した。
「会津藩には家訓があるそうな、小生泣いて申し上げる。台徳院さま(徳川秀忠、保科正之の父)、土津公(はにつこう、藩祖・保科正之の神号)がご存命であれば、必ずや京都守護職を受けられたであろうに」
途端、容保の顔がゆがんだ。
京都守護職要請の話を聞きつけた会津藩の家老・西郷頼母(たのも、柔道家の西郷四郎の養父)が、国許から江戸へ駆けつけた。
「殿、なりませぬぞ! 薪を背負うて火中に入るようなものでござる!」
頼母は口やかましく主の容保を諌めたが、容保は首を振った。
「もはや議論は無用、宗家に殉ずるのみなのだ」
松平容保は、会津藩兵一千名を率いて京都に入った。
ひたすら将軍家のためにと保科正之が育んだ芸術的藩風…武を練りに練った親藩中第一の精兵たちは、黒谷の金戒光明寺を本陣とした。
京都守護職として京都入りした容保は、言路洞開の方針を打ち出した。
「言い分を訊いてやりさえすれば、わかりあえることもあろう」
手ぬるい、という批判を抑えての対談路線であったが、慄然とするような血みどろのテロルがやむことはなく、容保は深刻な現実を思い知らされた。
会津藩は壬生浪士組(のちの新撰組)や京都見廻組を配下におき、倒幕を企てる者どもを徹底的に取り締まった。
会津藩には藩を挙げての軍事操練「追鳥狩」の伝統があるが、あるとき、孝明天皇は会津藩の馬揃えを見たいと言い出した。
雨の降る夕方、御所の建春門前にて操練が行われた。日が没しても、篝火を焚いて続けられた。
孝明天皇は御簾のうちより眺め、たいそう満足し、後日もう一度見たいとのたまった。
数日後の早朝、二度目の操練が行われた。一度目は発砲を許可されなかったが、今度は空砲が許された。
容保の采で法螺や鉦が鳴り、藩兵は整然と隊を組み、鯨波をあげ、鉄砲を打ち出し、斬り込みに移る。
昼食をはさみ午後からもまた操練が続き、容保は先日の初参内時に賜った緋の袙(あこめ、中着)を陣羽織に仕立て直し、再登場した。(このときの陣羽織を着用した写真は有名)
一千名が二手に分かれての模擬戦に、孝明天皇は興奮し、喜び、容保と会津藩兵の練武を愛でた。
こうして孝明天皇の信任を得た松平容保は、幾多の政変を通じて、倒幕を目論む長州藩勢力の京都からの排除に成功した。
松平容保は、数年の短い交流の中で、孝明天皇から宸翰(しんかん、天皇直筆の手紙)をいくつか戴いている。
「(中略)暴論をつらね、不正の処置増長につき、心痛耐え難く、内命を下せしところ、すみやかに承知し、心配と悩みを払いのけ、朕の存念貫徹の役、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也」
「たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこひてよめる(以下、和歌二首)
和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄えん
武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて」
これらの宸翰はみな、会津藩が京都に入るまでの苦悩と、容保に対する絶対的な信頼があふれている。
会津藩はまさに、王城の護衛者たるにふさわしかったのだ。
しかし、その栄光も、孝明天皇の崩御とともに不吉の気配に呑み込まれてゆくのであった―――。
…。いやはや、話を広げすぎて、収拾がつかなくなるところだった。
このあたりは、司馬遼太郎の「王城の護衛者」(
会津松平家というのは、ほんのかりそめの恋から出発している―――の冒頭が素敵)や会津作家(?)の中村彰彦の著作に詳しいので、関心のある方は一読されたい。

金戒光明寺の三重塔周辺から西を眺める。中央奥の森が、御所。
容保公は、ラブラブな帝をここから見守っていた!?
会津墓地は、金戒光明寺の背後の丘の上にある。
京都の治安回復にあたる会津藩士は原則一千名で、一年交代で国許の藩士と入れ替えていた。だから、その交代期は一瞬だけ二千名となり、この人数を圧力に政変を有利に進めたことがある。
ともかく、会津藩の犠牲は大きく、その犠牲者は在京の足掛け六ヵ年で、二百三十七霊。病死も多かったのだろう。鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊も合祀される。
会津墓地の会津藩たる特徴は、その墓石の七割方に「○○霊神」と彫られていること。
会津藩祖・保科正之は、朱子学と神道に傾倒しており、自ら土津霊神(はにつれいしん)の神号を定め、磐梯山のふもとに葬られることを望んだ。
ゆえに、会津藩の歴代藩主に戒名はなく、○○霊神の号で祀られている。
むろん、容保公も例外ではなく、その号を
忠誠霊神(まさねれいしん)という。
この墓地を見て周る間に、二ヶ所蚊に刺された。
入って左手の慰霊碑には、会津名産の絵蝋燭が残されていた。
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20.8.19(火)
アシナガバチの顎は、ビニール袋を噛み切る。
20.8.18(月)
先々月下旬の話。
摂津三田の三輪神社、三輪明神窯、三田城、心月院等と、蛍池の麻田藩陣屋跡へ行った。
三輪神社は、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の分社で、大神神社と同じくオオモノヌシを祀る。日記② 19.11/5、日記③ H19.12/11 12/22、日記⑨ H20.7/29 参照。
オオナムヂがオオクニヌシとなり、葦原中つ国の国造りをはじめた頃、出雲の美保関に蛾の衣を纏ったちいさい神が舟に乗ってやってきた。が、誰もその神を知らない。
タニグク(蟇蛙)「クエビコなら知っているはず」
そこでクエビコに尋ねると、
クエビコ「その方は、カミムスヒの子のスクナビコナです」
クエビコとは、すなわち山田のカカシのこと。
それからオオクニヌシとスクナビコナの国造りが進んだが、あるときスクナビコナはフッと常世の国へ消えてしまった。
オオクニヌシ「私一人で、これからどうして国造りができるのか」
嘆き悲しんでいると、海の向こうから光り輝く神がやってきた。
「われの前をよく治め祀るならば、われがともに国造りを成そう」
オオクニヌシ「どう治め祀れば良いのか」
「ヤマトの青々とした青垣の東の山の上に祀れ」
オオモノヌシとは、オオクニヌシ自身の
幸魂(さきみたま)・
奇魂(くしみたま)であるらしい。
幸魂・奇魂、あるいは合わせて
和魂(にぎみたま)といい、
荒魂(あらみたま)と対になるもの。私もよくわかっていないのだが、ひとつの人格(神格)のうちの光と影みたいなモンだろうか。
また、三輪山に祀られたオオモノヌシは、
蛇の姿をしているといわれ、親しみを込めて
巳さん(みぃさん)とも呼ばれる。
大神神社には、社や祠があるたびにお酒と玉子が供えられている(前者は大神神社と松尾大社がお酒を司ること、後者は三輪の神が巳であることによる)が、この三田の三輪神社は「動物が汚すので玉子を供えないでください」と張り紙が出されていた…。
三輪明神窯は、三輪神社の裏山にある窯跡。磁器を焼いていた。
焼き物(陶磁器)は、ざっと陶器と磁器にわかれる。
とう‐き【陶器】
陶磁器のうち、素地(きじ)の焼き締まりが中程度で吸水性があり、釉(うわぐすり)を施した非透光性のもの。土器よりもかたいが、磁器にくらべてやわらかい。
じ‐き【磁器】
素地(きじ)のガラス質が磁化して半透明となり、吸水性のない硬質の焼き物。陶器より高火度で焼かれ、たたくと金属的な音がする。中国で創製され、日本では江戸初期の有田焼に始まる。
要するに、陶器は土をこねて焼き、吸水性がある。
磁器はガラス質の石を砕いて混ぜて焼き、吸水性がなく、薄く、硬い。
磁器の原料の石を磁石(じせき)というが、磁石(じしゃく)や磁力とは関係ない。
陶器と磁器を比較すれば、磁器の方が原料が限定され、数が少なく珍しい。高価でもある。
司馬遼太郎の街道をゆく(南伊予・西土佐の道)にあった話だが、江戸中期の大洲藩主の加藤某が「わが藩は砥石しか採れぬ。なんとか砥石の削り屑から磁器がつくれぬものか」と考え、家臣の一人に相談した。その家臣は在郷の砥石業者の杉野丈助に命じた。
杉野丈助は諸藩を周って陶工を呼び、砥石の削り屑から磁器づくりを試みたがうまくいかなかった。それからも丈助は駆け回り、なんとか磁器をつくった。さらに丈助は、大洲藩内を踏破し、釉薬・磁石などの原料を、すべて藩内で調達する道筋をつけた。
これが砥部焼の発祥。結局、砥石の削り屑は使えなかった、とのこと。
…話が飛んでしまったが、江戸期の藩にとって、高価な磁器づくりはそれほど魅力的だったということ。然るに、この
三輪明神窯は三田藩の保護を受けず、民間の力でやってきたそうだ。
三田城は、三田藩の城。今は、小学校と高校の敷地になっている。
もとは車瀬城といい、武庫川近くのなだらかな丘陵につくられた城。
山からそのまま連なり川に突き出た丘陵につくられた城(三木城、淡河城など)とは異なり、川のそばの独立した小さな丘の城だから、険阻さはない。
荒木村重の叛乱のときは、一族の荒木某が入っていて、以後は、山崎氏、有馬氏と移って、有馬氏が久留米に移封され、松平氏を挟んだのち、九鬼氏が入封した。
九鬼氏は志摩の海賊大名で、織田信長の傘下に入り、石山合戦において本願寺方の毛利水軍を破って名を馳せた。
戦国から関ヶ原の合戦にかけて生きた嘉隆・守隆父子は、鳥羽藩5万6,000石を守っていたが、守隆の息子たちに家督争いが起こった。もちろん、御家騒動は天下の御法度。志摩の鳥羽藩は、摂津の三田藩3万6,000石、丹波の綾部藩2万石に分封されたのだった。
三田、綾部は、ともに山国。海がない。ふたつに分かれ累代の志摩を喪った九鬼家は、まさに陸に上がった河童となった。
三輪明神窯のオッチャンに聞いた話だが、三田藩の表高は3万6,000石だったけれども、
実質は2万5,000石しか米が取れなかったらしい。つまり、元の石高で二分されただけでなく事実上の減封であり、幕府による懲罰だったというのだ。
そのため、三田藩の財政は、ほぼ一貫して苦しかったようだ。
三田城には大きな池――三田御池――があるが、三田藩士が海恋しさに船を浮かべ水練した…と伝わる。こんなに滑稽で切ない話もあるまい。
心月院は、三田城の西の小さな丘にあり、三田藩主の九鬼家の菩提寺。
代々藩主の墓の他、白洲次郎で有名な白洲家一族の墓もある。白洲次郎の祖父が三田藩士だったゆえであるが、次郎自身は一度も三田に来たことがないそうだ。
麻田藩陣屋は、阪急蛍池駅の西側にあった麻田藩の陣屋。
三輪明神窯のオッチャンに聞いた話の中で、「向こうの高平はアサダ藩の飛び地でね~」と出てきたので、気になって調べたのだった。(私を“歴史の話が通じる人”と思ったらしく、マシンガンのように話しかけてきて、だんだん内容が郷土限定ネタになってきて、結局一時間ほど話し込んだ。中盤以降は、ついていくので必死だった…)
高平とは、三田市北部の山間部の盆地のひとつ。高売布神社がある。
アサダとは「浅田」なのか、それとも「浅野」の聞き違えか、と思ったら、「麻田」だった。
……。………。
資料が見つからへ~ん!(泣)
ウッウッ。せっかく、豊中市の図書館で郷土史の本見つけてメモったのに…。
そのメモと、陣屋の縄張りのコピーが見当たらない。。(ノ_・。)
仕方ないので、ウィキペディアを基調に…。
美濃の青木氏は、はじめ徳川家康に仕え数々の手柄を立て、のちに豊臣氏に仕えた。
青木一重は大坂冬の陣の折、大坂方の使者として出向いたところ、駿河にて徳川の手によって捕縛され、そのうちに豊臣氏は滅んだ。一重はそれを知るや剃髪した。
元々徳川の武士だったことが大きかったのか、一重は家康に再び見出され、摂津の豊嶋を中心に1万2,000石を与えられ、麻田藩を立藩した。
麻田藩は1615年の成立以来、廃藩置県まで青木氏が続いた。
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タグ 三田
20.8.17(日)
どっちだ!?

日記⑨ 8/3参照。
20.8.16(土)
H19.8/27に描いた落書きを、フォトショで修正してみた。
レイヤーは29、PSDファイル6.57MB、JPGファイル253KB。
FF4より、リディア(7歳、カイポ宿泊時)。
強国バロンの飛空挺部隊・赤い翼の隊長を罷免された暗黒騎士セシルは、王命により、北の隠れ里ミストのドラゴンを征伐した。
これは図らずも、そのドラゴンの召還主の命を断つことでもあった。そう、ミストの幼い娘の母親の命を―――。
そして、王の策略により、里は紅蓮の炎に包まれた。
阿鼻叫喚の中、娘を救い出したセシルは、砂漠のオアシスの街カイポの宿をとり、もの言わぬ娘をベッドに座らせた。
【心の扉】

7歳児に見えないかもしれん。
腕がたぷたぷしてるあたり、幼児らしく描いたつもりなのだが。
加賀言葉で言えば、「んまそ」な腕。「丸々と肥えた」くらいの意。
なお、FF4は
SFC版、SFC版イージータイプ、PS版(リメイク)をプレイしている。