前の日記帳のページ数が尽きたようなので、五冊目。
日記
① ② ③ ④
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
〔日記〕
20.4.4(金)
日記帳がいっぱいになった。。
20.4.3(木)
太陽から地球までの距離:149,597,870 km
地球の直径(赤道面):12,756.3 km → 地球の半径(赤道面):6,378.15 km
太陽の光を浴びる最も近い点と最も遠い点の距離は、およそ0.004%の範囲内。
この範囲内で、水は固体として液体として気体として存在し、生命を受け入れる。
今さらながら奇跡的なことだが、広い宇宙、この程度の偶然は他にないのかな。。
20.4.2(水)
野菜・果物ジュースと牛乳を飲んだときの後味は、苺のショートケーキの後味と似ている。
20.4.1(火)
うぁ。
予約は発売日前日でいいや、と思ってたら、速攻売り切れ。orz
さすが、彦根市が
勢いだけで刊行しちゃっただけのことはある。
小説
彦根ひこにゃん殺人事件、初版はダメだったけど、第二版は必ず手に入れる!
【彦根ひこにゃん殺人事件】
20.3.31(月)
三週間ほど前の話。
京都の賀茂御祖神社と賀茂別雷神社へ行った。
その前フリとして、転生前H18.10/15に行った大和の高鴨神社の話から。
高鴨神社は、かも一族の発祥の地とされ、祭神は
迦毛之大御神(カモノオオミカミ)。
これは、古事記に登場する
アヂスキタカヒコネのこと。
アマテラスは、高天原から葦原中つ国を見下ろし、これを欲した。
そこで、何度か遣いをやったが、梨の礫。アメノワカヒコに至っては、オオクニヌシの娘・シタテルヒメを娶り籠絡(?)される有様。
高天原の神々はこれを糺すため雉のナキメを遣わしたが、アメノワカヒコはナキメを弓で射殺し、矢はそのまま高天原まで届いた。
「アメノワカヒコに邪心無ければ当たるな、邪心あらば必ず当たれ」
言霊をのせて同じ矢を射返すと、矢は一直線に下界へ向かい、アメノワカヒコの胸に刺さった。
アメノワカヒコは死んだ。シタテルヒメは夫の死を嘆いて泣き、集まった者もみな沈んでいた。
そのとき、シタテルヒメの兄のアヂスキタカヒコネが弔問に訪れた。
アヂスキタカヒコネとアメノワカヒコは、それほど似ていたのだろうか。錯覚され、次々に抱きつかれた。
「アメノワカヒコが黄泉帰った!」
「友の死を聞いたから駆けつけたというのに、何故穢らわしい死者と間違えるのか!」
腹を立てたアヂスキタカヒコネは、十拳の剣を抜いて死者を納める喪屋を切り倒し、喪屋を蹴り飛ばした。
喪屋は遥か遠くまで飛んでゆき、それが美濃の喪山になったという。
ずいぶんと乱暴な神だが、彼がかもの始祖とされている。
ゆえに、息子のアヂスキハヤオ、兄弟のコトシロヌシ、妹のシタテルヒメ、妹婿のアメノワカヒコまで一緒に祀られている。さて、本題へ。
賀茂御祖神社は、「かもみおやじんじゃ」と読み、通称は下鴨神社。
かもの始祖(!)とされる
カモタケツノミを祀る。
オオクニヌシの国造りによって葦原中つ国は繁栄し、それに嫉妬した高天原のアマテラスはタケミカヅチその他の神を遣わした。
タケミカヅチはオオクニヌシに国譲りを迫り、屈したオオクニヌシは高くそびえる出雲大社に祀られることとなった。
オオクニヌシの息子のタケミナカタは激しく抵抗したが、敗走を重ね、信濃の諏訪にて降伏し、以来その土地を出ていない。
その後、天孫ホノニニギが高千穂に降臨し、数代かけて筑紫に根をはり、サヌヒコの代になって東へ進んだ。
美々津から諸所立ち寄りながら何年もかけて瀬戸内を進み、浪速から大和へ入ろうとしたが、トミノナガスネ(生駒周辺の豪族?)の前に敗れ去った。
生駒越えをあきらめたサヌヒコは、紀伊半島を大きく迂回し、熊野川を遡った。
山深い熊野行は困難を極めたが、地元の豪族タカクラジが差し出してきた剣(フツノミタマ、H19.12/13参照)を得、また天より遣わされたヤタガラスの先導を得て、ようやく大和入りを果たし、橿原に宮をひらいた。カムヤマトイワレビコ、神武東征の物語である。
古事記で有名な八咫烏―――ヤタガラス(日本書紀では、金鵄がこれに相当する)は、このカモタケツノミの化身だという。
賀茂別雷神社は、「かもわけいかづちじんじゃ」と読み、通称は上賀茂神社。
カモタケツノミの娘・タマヨリビメの子、カモワケイカヅチを祀る。
京を流れる鴨川と高野川の合流地点の内側に賀茂御祖神社(下鴨神社)があり、その3km上流に賀茂別雷神社(上賀茂神社)がある。
両神社は、
公式サイトが相互リンクされているが、
高鴨神社へのリンクは無い。
この不自然なまでの繋がりの無さはどうだ。そこで、大和と京のかもを対比を表にしてみた。

かも一族の祖である、ということ以外、何ら類似すらしていない。
ところが、高鴨神社の説明板では―――。
アヂスキタカヒコネ=カモタケツノミ(=ヤタガラス)
…と、京のカモ神社のカミ(カミの語源もカモである、という説もある)と同一神格とみなしている。
もちろん、オレンジ色の部分がアヂスキタカヒコネとしての事績、水色の部分がカモタケツノミ(ヤタガラス)としての事績である。
なんだか、取って付けたような感があり、しっくりこない。
さりとて、京のカモ神社側にも、「ヤタガラスとして神武を導いたカモタケツノミは、大和の葛城山から木津川あたりを経て山代の現在の下鴨に鎮まった」という伝えがあるらしい。
① 同一のかもの一統が、大和から山代へ流れたのかも。
② いくつかの系統のかもが同時に興ったのかも。
①の場合なら、アヂスキタカヒコネとカモタケツノミは、別の時代のかもの長だったのか。片や真の始祖で、片や数代後の中興の祖、といったふうに。
②の場合なら、その複数のかもは、血の濃淡を問わず血統のつながりがあったのか。あったとすれば、複数の系統に分かれる前の真の始祖は名が伝わらず、後代の世の動きが活発になったときのかもの長たちの名が残ったのか。
真実はいかなるものだったのだろう。気になって夜も寝られないかも。
おすすめスポット
賀茂御祖神社 賀茂別雷神社 高鴨神社 一言主神社
20.3.30(日)
前日の続き。鷲林寺と甲山と神呪寺へ行った話。3/29参照。
その前フリとして、転生前H19.3/11に行った播州光明寺の話から。
播州の加東市(旧滝野町)の川筋に屹立する要衝の
光明寺は、古戦場でもある。
新たに天皇を戴き、湊川の戦いで後醍醐天皇方を破った足利尊氏は、京に幕府を開いた。
しかし、後醍醐天皇に三種の神器ごと逃げられてもう一つの朝廷(南朝)をつくられるわ、幕府内において弟・直義と有力家臣の高師直が大きく力を持つわ、散々の有様。
ついには、直義と高師直が衝突し、政争を経て、兄・尊氏も巻き込む
観応の擾乱となった。
尊氏の遠征中に、監禁されていた直義が逃げ出して、挙兵した。
北朝から追討令が出されると、直義は、こともあろうか南朝方についてしまった。(ずっと将軍を支えてきた将軍の弟が、である)
翌年の1351年(観応2年)1月、直義は尊氏の嫡男・義詮を追い出して京を制した。
2月4日、高師直、赤松則祐らをはじめ一万の兵を率いる尊氏は、直義方の将・石塔頼房と五千の兵の籠もる光明寺を囲んだ。
各所で攻撃が行われたが、寄せ手はことごとく敗れ、対峙は十日間に及んだ。やがて、直義方の石塔義基・畠山国清ら兵七千余が後詰にやってきたため、反対に囲まれることを恐れた尊氏は、光明寺の包囲を解いて摂津に退いた。
2月15日、守り手はこれを追撃。後詰の畠山国清は、有馬温泉を経て芦屋の打出浜に回った。
2月17日、打出浜の合戦で直義方は尊氏方を破り、高師直とその弟の出家を条件に和睦した。(南朝に味方しても、兄と戦っても、このときの目的は飽くまで高一族の排除にあった)
高兄弟は、西宮の鷲林寺で、直義方の手により謀殺された。
その足利直義も、翌年に尊氏との戦いに敗れ、幽閉され、死んだ。毒殺ともいわれる。
鷲林寺は、六甲山の東端にある真言宗の寺。向かいに、甲山の全景が見える。
光明寺の寺伝や滝野町史(?)で、この寺が高師直・師泰兄弟の終焉の地として紹介されていたことから、この寺に興味を持ったのだった。
長い長い坂を上って、境内に入り、そこで目にしたのは……
信玄公之墓。パチクリ
鷲林寺の寺伝によると、
武田晴信公が僧侶になるため得度をし、その頭髪を埋めた、という伝説のある七重の石塔だとか。
それはそうと、高師直、高師直……。
首塚を探し回ったが、境内どこにも無かった。orz
受付でお寺の人に聞いても、「そうですか、よそでそんな伝えがあったんですか」。
ギャフン!
寺社や民間の伝えの曖昧・適当さと大らかさを思い知った次第。
摂津猪名野周りの寺社は、1578~79年の荒木村重の乱で、織田信長の手によりほとんど燃やされ(泣)、清澄寺のように元と少し離れたところに再建する例もある。
ところが鷲林寺には、七重の石塔がある。
これは、信玄公の墓という伝説を抜きにしても、1300年前後、鎌倉後期のものだそうだ。
つまりこの寺は、
1300年以降、(もちろん南北朝時代も)場所は遷っていない。
ということは、正真正銘、高兄弟にまつわる碑や伝えが遺っていないのだ。
ちょっぴり寂しい気持ちで、鷲林寺をあとにした。
甲山は、六甲山の東にある山。標高309.4m。
ぽっこりきれいな△のカタチだから、兜(かぶと)。甲山(かぶとやま)と呼ばれる所以。
鷲林寺から細長い鞍部を歩いて、西から登った。
頂上はひらけ、空が高い。
ふと、
七夕の国の丸神山みたいだな、と思った。
おそらくあの作品の舞台は、秋田県雄勝郡あたりなのだろうが。1/4参照。
さて、東から降りてしばらくすると、墓碑があった。
わきに彫られているには、……
頼朝之塚。!?
日本史上、頼朝といえば一人しか思い浮かばないが、あの征夷大将軍は関東で死んだ。
うぐぐ、謎だ。。
神呪寺は、「かんのうじ」と読む。別名、
甲山大師。
甲山の南麓(むしろ中腹)にある真言宗の寺。
甲山の頂上を仰ぐようにつくられ、三輪山の大神神社のような
山を祀る原始的な神社を思わせるが、その割には人が立ち入りまくってる。(甲山はハイキングコースになっている。三輪山は、無許可で入山してはならないし、入山しても 何も持ち出してはならない)
この寺は、なんと言っても景色が良い。
標高はおそらく250m程度(?)。北摂の山々から生駒山、金剛山まで一望できる。
おすすめスポット
光明寺 鷲林寺 甲山 神呪寺
20.3.29(土)
三週間前の話。
摂津の湊川神社と湊川公園と会下山公園、鷲林寺と甲山と神呪寺へ行った。
1333年、新田義貞は、由比ガ浜の西の岬から駆け抜け、鎌倉を陥落させた。ここに幕府は滅び、後醍醐天皇は中興を果たした。
日本の歴史は怨霊の歴史とは井沢元彦の言であるが、日本の歴史は土地の所有権争いの歴史でもある。
1334年、元号改まり「建武」。建武の新政府は、土地の保証・調整の能力にひどく欠けた。また、恩賞が不公平で、充分報われたのは足利尊氏・新田義貞・楠木正成など数えるほどで、功臣の赤松則村ですら播磨の守護職を没収される有様だった。所領問題や訴訟が大混乱に陥り、武士の不満は高まるばかりだった。
1335年、中先代の乱。幕府の残党が北条の遺児を奉り、鎌倉を奪還した。足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を求めたが、与えられたのは征東将軍だった。尊氏は鎌倉を落とし乱を鎮めた後も鎌倉に居座り、やがて、建武の政権に叛逆した。
足利尊氏はひたすら西進し、年も変わり1336年に入京。しかし、北畠顕家や楠木正成、新田義貞らの朝廷軍に袋叩きにされ、九州へ都落ちを余儀なくされた。
九州へ渡った頃には手勢は数百しか残っておらず、自害まで覚悟したが、多々良浜の戦いで菊池氏を倒し、尊氏の西国における求心力が一気に高まった。
1336年、朝廷軍が足利尊氏を九州へ追い落としたのち、朝廷主力の新田義貞は、尊氏に味方した赤松則村の籠もる白旗城を包囲していた。しかし城は容易に落ちず日数ばかり費やし、そして西から反攻の足音が近づいていた。
湊川神社は、楠木正成こと楠公(なんこう)さんを祀る神社。
湊川の戦いに敗れた楠木の一族郎党が、もろともに自刃した地にある。
湊川公園は、湊川の昔の流れの跡につくられた高架の公園。
ひねもすご老人が将棋や碁を打ち合っている。
会下山公園の「会下山」は、「えげやま/えげさん」と読む。
湊川の戦いに際し、楠木兄弟が最初に陣した小山。
しかし楠木勢は駆け下って戦い、高所の利を捨てた。
西播に釘付けになっていた新田義貞とその軍勢は、戦に倦み疲れていた。
足利尊氏は、進軍先の安芸にて、持明院統の院宣を授かったという。尊氏は、朝廷をもうひとつつくることで、朝敵の汚名を晴らしたのだ。それに応じて新田勢でも寝返りが相次ぎ、義貞は兵庫(今の兵庫県ではなく神戸市兵庫区に相当)で立て直しを図った。
足利兄弟上洛の報を受けた後醍醐天皇は驚き、直ちに楠木正成を召した。
「急ぎ兵庫へ下り、義貞を助けよ」
「尊氏が九州の兵を率いて上洛するとなれば、これは大兵力。味方の戦い疲れた小兵力では、到底勝ち目がありません。ここは、新田勢を京へ呼び戻し、主上も再び比叡山へ赴かれるのです。この正成も、河内へ帰ったのちに淀川をふさぎますれば、入京した尊氏の兵糧は欠乏し、大軍は自滅あるのみ。そののち総力を挙げて京を攻めるならば、朝敵を一挙に滅ぼすことができましょう」
正成の献言に、一人、反対した。公家の坊門清忠であった。
「天子の御旗を賜った将軍がまだ戦をせぬうちから京を捨て、また主上が年に二回も比叡山にお逃げあそばせよとは、帝を軽んじているのか。官軍の面目もあったものではない。尊氏が九州から上洛というが、なに、昨年の関東からの上洛ほどの勢いもあるまいに。いままで顧みるに、小勢の味方が常に勝ってきたのは、わが方の武略が優れていたからではない。主上の天運によるものである。ただ、機は逸してはならぬから、正成、早う兵庫へ出陣せよ」
正成は、黙して出陣した。
途中、桜井駅(水無瀬の近く)に差し掛かったところで、嫡男・正行(まさつら)に後事を託し、河内へ帰した。
※ 湊川神社の資料を参考に作成。図の朝廷軍は楠木勢のみだが、新田勢が和田岬あたりに布陣していた。
足利軍は、北の山側から斯波勢、中央を足利直義(尊氏の弟)と少弐勢、海からは足利尊氏と大きく迂回する細川勢が上陸。
朝廷軍の主力である新田勢二万五千は、細長い兵庫の地の中央から海側、和田岬に陣した。楠木正成は、弟の正季(まさすえ)とともに、会下山に陣を構えた。総勢、七百余り。やがて足利の大軍勢が、陸から海から押し寄せてきた。
須磨から進んできた足利直義の軍勢は、山手の斯波勢、海際の少弐勢もあわせると、五万、十万にも上るのではないかと思われた。遠くの海からは、四国の細川勢は大きく回りこみ、新田勢の退路を断つ動きを見せた。
細川勢が生田の森へ上陸すると、包囲されるを恐れた新田義貞は東に壊走しはじめ、また足利尊氏が駒ヶ林に上陸し、楠木勢は敵中孤立した。
兵庫の丘と野を舞台に、六時間の間に十六回も刃を交え、数年前の河内からついて来た一族郎党は、七十三名にまでに減っていた。これまで敵を散々嫌がらせてきた菊水の旗も、倒れ、踏みにじられ、今はもう数旒しか残っていなかった。
一行は、湊川の北の民家に入った。全員、傷を負わぬ者はなく、疲労困憊である。人の限界を超えて戦ったつわものたちは、鎧を脱ぎ、座り込んだ。
「正季、人はなァ、死ぬときの一念で来世が決まるそうや。今、お前は、何を願う?」
「んなもん兄者、決まっとるわ。七度まで人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたいて思うわ」
「はっはっは、ホンマ罪深い悪念やが、実は、わしも同じや。……ほな、仲良う念願成就と逝こか」
正成・正季は差し違えて倒れた。七十余名も、思い思いに自刃して果てた。
南朝贔屓の
太平記では、湊川の戦いの足利軍が 五 十 万 と書かれているが、いくら西国の兵を催したと言っても、これは到底信じられない。もういい。自力で算定する。
ここの資料によると、関が原の合戦時(1600年)の人口が1,227万人、鎌倉開府時(1192年)の人口が682万人。1336年当時は、700万人ちょいだったろう。
安土桃山時代の太閤検地では、全国で1,850万石ちょい。1万石あたり250~300名の兵を出せた。
人口比が半分強(1.75:1≒57%)だから、米の獲れ高も同比率(57%)とみなし、兵の換算式だけそのまま使う。
石高の資料はコレを参照。なぜか豊後がないので逆算したら、34万石ちょいだった。電卓ミスがなければ。
九州の石高は、(豊後を34万石として)ざっと238万石。
四国の石高は、ざっと77万石。
中国(因幡 伯耆 出雲 石見 美作 吉備 安芸 周防 長門)の石高は、ざっと174万石。
1336年建武の当時、これら地方の勢力の8割が足利についたと仮定する。
(238+77+174)×57%×0.8×250=55,746
旗揚げ以来の一族郎党と各地の残党とを合わせて、多くて60,000名程度だろう。
こうなりゃついで。同じ推論で、楠木勢も算出。
建武の恩賞の河内・和泉の石高は、ざっと38万石。
38×57%×250=5,415
5,400名。意外と多い。
しかし、正成倒れても正行、正行倒れても正儀、と、軍勢ごと不死鳥のように復活してるので、のちの代のために兵の過半を割いて残した、と考えるべき。つまり、多くて2,000名。
ただ、上の推定はふたつとも、
潜在的に、最大限どれだけ兵力を徴し得るかの目安であって、実際にその潜在力だけ丸ごと動員できるとは限らない。戦国大名にまで時代が下れば、そのあたりの動員体制が洗練されてくるのだが。
要は、勝ち目の無い戦いの前に陣触れを出しても、兵が思うように集まらなかった可能性も大きいと思う。とにかく、楠木勢700名という数字については、信用できないではない。
たまには、電車と徒歩の史跡巡りもいい。
鷲林寺、甲山、神呪寺の記録は、長くなり過ぎたので、明日に記す。
おすすめスポット
会下山公園 湊川公園 湊川神社 白旗城
20.3.28(金)
明石家さんまだ、と思ったら(ナンバープレートを上向き斜めに取り付けている)カマロだった。
20.3.27(木)
ライラの冒険の公式サイトで、自分のダイモンを調べてみた。3/24参照。
診断によると浮野は、受身的、はきはきした、探究心旺盛、控えめ、柔らかい口調。
従って浮野のダイモンは、
蜘蛛(♀)のAthenestia(アスェネスティア??)だそうだ。(ダイモンの全人口1,082,510人中の蜘蛛21,409の1つ)
ところで、ダイモンとは何か? …という疑問が、当然出よう。
ダイモンについては様々な定義があろうが、私はあえて言う。
ダ イ モ ン と は 、 ス タ ン ド で あ る 。
スタンドとは、その人を守ってくれる守護霊のようなものである。
スタンドは、一人の人間に一体である。
スタンドを傷つけられると、スタンド使いも傷つく。
実は、コールター夫人のダイモンがライラのダイモンに襲いかかったとき、浮野は(心の中で)叫んでいた。
ゴゴゴゴゴゴ ゴゴゴゴゴゴ
「 ス タ ン ド 攻 撃 だ ァ ー ー ー !!」
20.3.26(水)
転生前、昨年4/7の話。
津山城へ、桜見物へ行ったときのこと。
たまたま、催し物で、演奏や演劇などをやっていた。
最初、何の演目かわからなくて、「台座にすわる物言わぬ貴人は、誰なんだ!?」と思った。
ナレーションを何度か聴くに従って、少しずつわかってきた。
鎌倉倒幕の兵を挙げて失敗し、隠岐へ流されることとなった後醍醐天皇一行なのだそうだ。
舞台へ挙がってから降りるまで、後醍醐天皇は ついに一言も発しなかった。
ただ、ただ、哀しみを帯びた目をしていた。
それは、無想転生を極めたケンシロウの目にも似ていた。

① 津山さくらまつり 2007。

② そのプログラムのひとつ。後醍醐天皇、遠流せらる事(仮称)。

③ お付きの女御(?)たち。
こんな島流しなら、いいな。

④ 後醍醐天皇。終始、虚ろに宙を見つめていた…。
鎌倉後期、皇統の継承が混迷し、鎌倉幕府の調停により、対立する持明院統・大覚寺統が交互に天皇となることとなった。
1318年に即位した後醍醐天皇は、このままでは子は天皇になれないし、後醍醐天皇自身も治天の君(ちてんのきみ、実権のある上皇)になれない。それゆえ後醍醐天皇は、両統迭立を取り決めた幕府の打倒を画策した。
1324年、正中の変。事前に察知した六波羅探題に鎮圧される。天皇は咎め無し。
1331年、元弘の乱。計画が漏れるも六波羅探題の追手をかわし、笠置山から各地に倒幕を呼びかけるが、鎮圧される。
1332年、天皇は流刑、隠岐へ。
そのころ備前に児島高徳という武士がいた。(元は、瀬戸大橋の架かるあの児島の出?)
児島は、後醍醐天皇の身柄の奪還を企て、仲間を集めて待ち伏せた。
しかし、通り路の予想を外して行き違いになり、さらに後ろから追いかけたが、幕府のものに警固された天皇一行は、すでに美作の府・院庄に入ってしまった。
計画が空しくなり仲間も散ってしまった児島は、せめて後醍醐天皇に己の志を知ってもらおうと考え院庄の館に近づいたが、警固が厳しく隙がなかった。そこで児島は、その庭の桜の幹を削って、次の詩句を書きつけた。
天莫空勾践 時非無范蠡 (天、勾践を空しゅうする莫れ 時、范蠡 無きにしも非ず)
天は、帝の志を空しくすることは無い。越王勾践が忠臣范蠡を得たように、帝にもまた数多の忠臣がいるのだから。と。
翌朝、警固の武士が十字の詩を見つけたが、後醍醐天皇のみがその意味を解し、励ましとした。
翌年の1333年、後醍醐天皇のもとに、かれの范蠡が綺羅星の如くあらわれた。
河内の楠木正成、播磨の赤松則村、隠岐から帰る手引きをした名和長年、そして関東の新田義貞と足利高氏―――。
おすすめスポット
美作 院庄(いんのしょう)
20.3.25(火)
今月初頭の話。
河内の観心寺、楠妣庵観音寺、楠木正成誕生地、下赤坂城、千早城その他へ行った。
観心寺は、楠木氏と南朝ゆかりの寺。今は、花の寺で有名。
ここの賓頭廬尊者は、木像だが、ハタキは無かった。3/20参照。
楠妣庵 観音寺の「楠妣庵」は、「なんぴあん」と読む。
楠木正成夫人が長男・正行(まさつら)戦死後に庵を結んだところ。
夫人は元々、ここ甘南備(かんなび)の出とも言われているようだ。
楠木正成誕生地は、左右を川が流れ正面で合流する間の高台の地にある。
平野から徐々に山に入り始める場所に位置し、館跡もあるようだ。
今は、道の駅や村のホールなど、ハコモノが集中している。
下赤坂城は、楠木正成誕生地から川を越えた東の尾根にあり、南北に長い。
しかし今は、千早赤阪中学校の背後の裏山に碑が立つのみとなっている。
そこからは、棚田(8、9月ならさぞ美しいだろうに!)と富田林方面が見える。
美しい日本の国土に
PLの悪趣味な塔がぶっ刺さってる光景は、甚だシュールであった。
千早城は、下赤坂城から8km(直線距離で6km)南にある。
登山口から10分でたどり着けたのに、下の案内板の所要時間は30分と書かれていた…。
楠木正成は、鎌倉末期~建武の新政に生きた武士。
河内の悪党とも言われ、悪党を大雑把に言えば、律令や幕府の体制外の勢力を指す。
1331年、鎌倉幕府の打倒を胸に笠置山に籠もる後醍醐天皇は、夢を見た。
紫宸殿とおぼしき庭に橘の木があり、特に南の方の枝がよく繁り、その下に畳と玉座があった。
後醍醐天皇は、夢から覚め、自ら夢解きを考えた。「南」と「木」、組み合わせると「楠」…。
「このあたりに、楠と名乗る武士はいるのか」
「この近くにはいませんが、河内国金剛山の西に楠木多聞兵衛正成という武名高い者がいます。遡ると橘諸兄公の子孫でありますが、野に下って長年月を経ております。その母が若い頃、信貴山の毘沙門天に百日詣でをして神仏から授かった子であるから多聞と名付けられたとか」
かくて楠木正成は、後醍醐天皇のもとに召された。
「いかな謀があれば、勝ちを得、天下を泰平にすることができるであろうか」
「幕府を倒すためには、武略と智謀のふたつが肝要で、武力だけでは鎌倉には敵いますまい。しかし智謀をもって戦うならば、鎌倉これ恐るるに足りません。ただし、合戦は勝ちもすれば負けもするもの。一ときの勝敗にとらわれてはなりません。この正成一人生きている限り、帝の御運は必ず開けるものと思し召しくだされ」
そして正成は赤坂に帰り倒幕の兵を挙げたが、準備が不足で、一ヶ月で落城した。後醍醐天皇も、隠岐へ流された。
美原北ICを降りた時点では、燃費計で
17.8km/l(!)を記録していたのだが、赤坂と千早の山中を走り回るうちに
13.0km/lに…。orz
気を取り直して帰路も省燃費を積み重ね、15.2km/lまで回復した。
高速道路は、80~90km/hに徹した。
空気を敵に回さないためだ。
燃費は、1km/lさげるのは容易いが、0.1km/lあげるには多大な努力を要する。
おすすめスポット
観心寺 楠妣庵 観音寺 楠公誕生地 下赤坂城 千早城
走行距離161.9km(うち、高速道路93km) 燃費計15.2km/l
20.3.24(月)
今月初日の話。
映画
ライラの冒険 黄金の羅針盤を観に行った。
ここ数年、なぜか映画界でホッキョクグマが大人気。
ちょっと思い出すだけで、
ナルニア国物語の橇クマ、
北極のナヌー、
アースのはぐれクマ、そして本作のよろいクマ。
犬の次に人気があるのでは、思えるほどだ。
そして、よろいクマ族の戦士
イオレク・バーニソンの強さに惚れた。
ナルニア国の
アスラン(←ライオン)なんぞ、 腕 の 一 振 り で 首 が 抜 け る に違いない。
…長々とクマの話になったが、黄金の羅針盤はクマの物語ではない。
選ばれし少女ライラと真理計をめぐる話である。
ライラが舌先三寸でよろいクマ族の敵王を姦計に陥れるくだりは、思わず舌を巻いた。
随何や蒯通、あるいは侯公のごとき縦横家の弁を見ているようだった。
まこと末恐ろしいライラを演じる
ダコタ・ブルー・リチャーズは、15,000人の中からオーディションで選ばれたとか。だが、浮野は、
ダコタ・ファニングの方が良かったりする。
もはや自分でも何を書いてるのかわからなくなってきたが、これだけは言える。
この日、もっとも感動したのは、 映 画 を 1 , 0 0 0 円 で 観 ら れ た ことだった。
20.3.23(日)
本屋に並んでいた
常陸・秋田 佐竹一族(3/10参照)を、結局買ってしまった。
風土記関係の本も合わせて、四千円の出費。。
20.3.22(土)
シャーペンで和服少女を適当に落書きしてみた。…ら、いつの間にか、松姫になってた。orz
線がグチャグチャだとか、前に描いた絵と顔が違うだとかは、気にしたら負け。(←?)
なにぶん資料が無いので、この時代の髪型も着物も、よくわからない。ナデガタ?
大河ドラマでもレンタルして調べるのも、いいかもしれない。

戦国一のブラコン娘
武田の松姫は、武田信玄の娘。H19.7/8参照。
母は、甲州一の美女(らしい)の油川夫人。同腹の兄に、仁科五郎盛信がいた。
幼少の頃に、織田信長の息子の奇妙丸との縁談が決まり、結納を交わし、未来の夫婦どうし手紙のやり取りさえしていたが、松姫11歳のとき両家が対立し、破談となった。さらに、翌年には父・信玄が病没。四郎勝頼が武田家を継ぐ。
泣き明かしていたであろう松姫に、母を同じくする兄の五郎は、屋敷を新築して住まわせた。
【甲斐 古府中の一角にて】
ブラコン 松姫「兄上さま~、兄上さま」
シスコン 五郎「どうした、お松」
「あ、こちらでしたか。兄上さま、此の度はわたくしのために新館を建てていただき…」
「よい、よい。礼なら棟梁にでも言っておけ。あれの腕はいい」
「もう言いました。松は、 兄 上 さ ま に 、御礼申し上げたいのでござります」
「そ、そうか、いや、気に入ったのなら儂も嬉しい」
「はい。陽あたりよく、檜の薫りも……なにより躑躅ヶ崎の館から離れらるるのが…」
「うむ……心ゆくまで此処におればよい」
「ずっと兄上さまのおそばにおりまする。武田の家にとどまるうちは」
□ みんカラタグ
高遠 松姫峠 信松院 しず 松姫萌え
20.3.21(金)
2/24の給油記録。
① 丹波/古市 今田:95.7km
② 北摂/箕面 多田:62.1km
③ 丹波/今田、東播/吉川:83.6km
④ 紀州/粉河 九度山:263.2km(うち、高速道路155km)
…を含む。
556.1km 12.6km/l(燃費計) 46.82L(レギュラー)給油 @145
556.1÷46.82=11.877… → 11.8km/l(満タン法)
11.8-12.6=△0.8
∴燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される。
さらに、2/24の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
全体の距離を、①②③④を遠出、残りを ⑤街乗り…と別ける。
燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される…と想定。
① 95.7km 13.5km/l → 12.7km/l 7.535…L
② 62.1km 11.1km/l → 10.3km/l 6.029…L
③ 83.6km 12.9km/l → 12.1km/l 6.909…L
④ 263.2km 15.0km/l → 14.2km/l 18.535…L
⑤ 51.5km → 7.811…L
計 556.1km 12.6km/l → 11.8km/l 46.82L
① 95.7km 13.5km/l → 12.7km/l 7.535…L
② 62.1km 11.1km/l → 10.3km/l 6.029…L
③ 83.6km 12.9km/l → 12.1km/l 6.909…L
④ 263.2km 15.0km/l → 14.2km/l 18.535…L
⑤ 51.5km → 6.5km/l 7.811…L
計 556.1km 12.6km/l → 11.8km/l 46.82L
∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、51.5km走って
6.5km/l。やっと回復した。(T-T)
20.3.20(木)
賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)。多くの寺院の脇に、安置されている。
その像のある部分を撫でると、撫でた人のその部分も治る、といわれることから、撫仏とも。
先日訪ねた紀三井寺と粉河寺にも、賓頭廬さんがあった。
撫でようと近づいたら、ハタキがあった。紀三井寺にも、粉河寺にも、だ。
撫でるかわりに、ハタキではたけ、ということだろう。
両寺院の賓頭廬さんは、木像だった。少し、ささくれ立っているところもある。
今まで見た賓頭廬さんは、銅像で、よく撫でられる部分がピカピカに光っていた。
賓頭廬さんをハタキではたくのが、
① 木像と銅像の違いゆえ …なのか、
② 独自の土地の慣習ゆえ …なのか、
これまで注視してなかっただけに、これからは気をつけて観察したい。
20.3.19(水)
先月の話。
紀州の紀三井寺、粉河寺、慈尊院、丹生官省符神社、真田庵へ行ってきた。
紀三井寺は、「きみいでら」と読む。西国三十三番札所の第二番。
ここへ行ったのは、二回目。H19.12/3参照。
粉河寺は、「こかわでら」と読む。西国三十三番札所の第三番。
落ち着いた佇まいが、情緒たっぷり。それでいて、迫力ある石庭が見もの。
300円を納め本堂の奥を見物。木彫りの
野荒しの虎も見た。
撮影禁止だったので、簡単に描いてみた。右が浮野。。(・・;)

ガオー
慈尊院は、高野山の表玄関にあたる寺院。階段ひとつでつながる
丹生官省符神社とセット。
慈尊院のお堂の前には、布でつくった(実物大の?)お乳が、供えられている。
「健康に育ちますように」「乳がたくさん出ますように」…そんな母の願いが込められている。
チは、
霊/霊力(ち)であり、
血(ち)であり、
乳(ち)。
丹生官省符神社の
丹生は、「にう/にゅう」と読み、赤い鉱石
辰砂を意味する。
音読みのつながりから丹生と乳を符合さすのは、強引かもしれない。
真田庵は、真田父子配流の地。
真田昌幸と次男・信繁(幸村)は、関ヶ原の合戦において大坂方に与し、本来なら死罪のところ、関東方についた長男・信幸の助命嘆願により、高野山に流罪となった。
高野山は女人禁制のため、妻連れの真田父子は、高野山の山麓の九度山に蟄居した。
昌幸は大坂の役を前に病死。
信繁は息子ともども九度山を脱して大坂城へ入り、夏の陣で討死にした。
思うに、
豊臣恩顧の武略に優れた武将を
大坂に程近い高野山へ流したのが、徳川家康の失策以外の何ものでもない。(もし大坂城に入ったのが昌幸だったら!?)
九度山と大坂城は、和泉山脈を越えて50km少しの道のりだ。回り道しても、100kmいかない。
隠岐なり佐渡なり、島流しにすれば良かったのだ。それはそうとして…
大らかな紀ノ川の流れのためか、九度山に語感ほどの閉塞感を感じることは無かった。
紀ノ川中流域 九度山にて。左右の道路は、撮影地点を横に走る、一本の道路。
180度の視野、8枚の写真をつなげた結果、強いゆがみを生じている。
この日は、高速道路を90~100km/hで走行。和歌山IC時点では、16.0km/l(燃費計)を計測。
折り返しの大半がシタ道だったが、大きく落ちることなく省燃費。エライぞ、2.0i♪
おすすめスポット
紀三井寺 粉河寺 慈尊院 丹生官省符神社 真田庵
走行距離263.2km(うち、高速道路155km) 燃費計15.0km/l
20.3.18(火)
先月の話。
丹波今田のDONO、東播吉川のよかたんへ行った。
DONOは、とてもおいしいピザ屋さん。もはや、常連になりつつある。
よかたんは、旧吉川町がつくったスーパー銭湯。
ぽかぽやら
ゆぴかやら
ぬくもりの郷などが周りにあらわれ競争激化していたが、リニューアルして力をとり戻している。
どことなくのんびりした、ここの雰囲気が一番好き。
走行距離83.6km 燃費計12.9km/l 高速道路不使用
20.3.17(月)
2007年、中国車。全席クラッシャブルゾーン。
これを
国策とみるのは、チト穿ちすぎか。
20.3.16(日)
幕末の日本に来たスイス時計業組合会長のエメェ・アンベールの手記を挿絵付きで載せている
絵で見る幕末日本(講談社学術文庫)から、興味深い記述をひとつ。2/5、2/21参照。
私は、半ダースほどの男の子が、師匠の周囲に坐って、授業を受けているのを見たことがある。
彼らは、文字の意味を知ろうとして、何度もそれを口に出して唱えていた。
(中略)
それはそれとして、日本のアルファベットは、次のように聞こえた。
イウォラ ニウォウェド ツィリヌル ウオ
ウァガヨ ダレツォ ツゥネ ナラム
ウイイ ノ オクヤマ キョフゥ コエテ
アサキ イュメミシエヴィモ セズ ウン
この東半球の端において、われわれと全く同じ不死の創造物である人類の幾百万という少年たちが、毎日繰り返している詩に私は興味を感じた。そして、そこには、次のような意味があることを知り、驚かされた。
色も匂いも、消えて行く
われわれの世界において、何か永久的なものがあり得るだろうか?
今日の日は、虚無の深淵の中に消滅していき、そのはかなさは、夢のようである
それは、微細な不安すら残さなかった
正直なところをいうと、この民族的なアルファベットは、最も浩瀚な書物よりも、より多くの日本人の基礎的性格に関する真実を私に語った。
「いろは」が「民族的アルファベット」って発想が無かったね。
言われれば、なるほどその通りだけど。
同著のネタは、とりあえずはこれで最後。
20.3.15(土)
リンク
ウキウキ掲示板のIDとパスワードを、失念した。orz モウ ヨメニイケナイ
20.3.14(金)
村治嬢のチケットきたーーーーー!!
社、伊丹以来、三度目のリサイタルだわ。待ち遠しくて、身もよじれんばかり。
20.3.13(木)
書店の本棚に並ぶ
ソフトバンク新書に、はじめて気付いた。今後に期待したい。
20.3.12(水)
先月中旬の話。
北摂の勝尾寺と多田神社へ行った。
勝尾寺は、「かつおうじ」と読む。
西国三十三番のうち、第二十三番。
名の通り、勝運祈願で知られ、境内には、だるまさんがビッシリだ。
もののけ姫の
こだまみたいに、あんなところにもこんなところにも、いる。
最初は吹雪かれたが、鐘を突く頃には、晴れ間が見えた。
多田神社は、源氏の発祥の地にして、聖地。
新田源氏の子孫を名乗る徳川将軍家にとっては、ここに肩入れせざるを得なかっただろう。
徳川家によって、立派に再建されたそうだ。
源満仲は、
普明寺の龍馬神、
美女丸と幸寿丸。源頼光は、
大江山の鬼退治。
源満仲の子の美女丸は、僧になるべく摂津の中山寺に入れられたが、悪戯が過ぎ、父・満仲の怒りを買った。
「かような役立たずは源家に要らぬ、首を刎ねよ!」
郎党の藤原仲光は、主君の命とはいえ、思い悩んだ。そして、子の幸寿丸に話した。
「父上、私の首を刎ねてください」
仲光はハッと幸寿丸を見上げたが、眼には確かな意志がこもっていた。
仲光は、わが子の首を打ち落とした。
「美女丸さまの首、ご披見くだされ」
「もうよい……さがれ」
仲光は首を差し出したが、満仲もさすがに気が咎めたか、顔をよく見なかった。
そして仲光に庇護された美女丸は、仲光からすべてを聞き、衝撃を受けた。
身代わりとなった幸寿丸のいのちを背負った美女丸は、その後 修行に励み、源賢という立派な僧となった。
虚実入り混じった伝説も、また魅力。
おすすめスポット
勝尾寺 多田神社
走行距離62.1km 燃費計11.1km/l 高速道路不使用
20.3.11(火)
先月中旬の話。
神戸まで、映画
L チェンジ ザ ワールドと
星野道夫展を観に行った。
L チェンジ ザ ワールド は、まあまあの出来。
せっかくの設定と伏線を生かしきれてないかも。
もう一頑張りといったところ。といっても、続編のつくりようも無いのだが。
星野道夫展は、写真家(冒険家?)の星野道夫がアラスカで記録した、ホッキョクグマやアザラシやカリブーやムースやグリズリーや…(略)…オーロラや氷河等の写真の展示。
星野道夫の写真は、誰しもが、一度くらいは目にしているかもしれない。
同氏は、某番組の取材中、カムチャッカにてヒグマの襲撃を受け、死亡した。(TT)サンケベツ
その「事故」については、いろいろと黒い噂が…。いや、やめておこう。
20.3.10(月)
本屋に並んでいた
常陸・秋田 佐竹一族に一目惚れしたのだが、なんと2,800円!
普通なら、1,800円前後が相場なのに。ひとまず、あきらめた。(ノ_・。)
20.3.9(日)
最近クセになってるセリフ、 「 悪 い ネ コ チ ャ ン め ~ ! 」
ワーナーマイカル系の映画冒頭の注意喚起のやつね。
【用例】
相方「ひこにゃん、いっぱいチョコもろたみたいやで」
浮野「悪いネコチャンめ~!」(><)
20.3.8(土)
フォトショップと
アウトルック エクスプレスの相性は、最悪だ。プンスカ
20.3.7(金)
【浮野さんのハート】

………。まぁ、妄想家ってとこだけは合ってる。
20.3.6(木)
先月の話。
宙を舞う雪(1cmくらい)が、眼球に直撃した。(:;)イタイヨ
20.3.5(水)
三週間ほど前の話。
丹波古市の一眞坊と今田のぬくもりの郷へ行ってきた。
一眞坊は、古い木造住宅を利用した蕎麦屋。19.11/29参照。
私がDONOと並んでよく行く店。鴨南蛮の鴨が絶品だ。
こんだ薬師温泉 ぬくもりの郷は、立杭焼の立杭から、和田寺山を迂回して北西5kmにある。
高低差があり雄大な露天風呂は、北摂・丹波・東播のスーパー銭湯の中でも随一。
所在地
一眞坊 こんだ薬師温泉 ぬくもりの郷
走行距離95.7km 燃費計13.5km/l 高速道路不使用
20.3.4(火)
2/10の給油記録。
① 春日 柏原:156.8km
② 明石:150.4km(うち、高速道路38km)
…を含む。
360.3km 11.7km/l(燃費計) 32.99L(レギュラー)給油 @145
360.3÷32.99=10.921… → 10.9km/l(満タン法)
10.9-11.7=△0.8
∴燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される。
さらに、2/10の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
全体の距離を、①②を遠出、残りを ③街乗り…と別ける。
燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される…と想定。
① 156.8km 13.5km/l → 12.7km/l 12.346…L
② 150.4km 13.9km/l → 13.1km/l 11.480…L
③ 53.1km → 9.162…L
計 360.3km 11.7km/l → 10.9km/l 32.99L
① 156.8km 13.5km/l → 12.7km/l 12.346…L
② 150.4km 13.9km/l → 13.1km/l 11.480…L
③ 53.1km → 5.7km/l 9.162…L
計 360.3km 11.7km/l → 10.9km/l 32.99L
∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、53.1km走って
5.7km/l。チョッピリ涙でた。
20.3.3(月)
三週間ほど前の話。
明石の市立天文科学館と魚の棚へ行ってきた。
明石市立天文科学館は、東経135度の子午線上にある科学館。
この日は、
プラネタリウムを目的で訪れた。昴の在り処を知りたかったから。19.12/16参照。
薄暗く、寝そべって、睡眠には最適の環境であることに耐え抜いて、冬の星空を学んだ。
オリオン座の三ツ星の少し右にある昴は、意外と光り加減がおとなしく、地味な趣。
清少納言の枕草子に「星は すばる」とあるくらいなのに、少しガッカリ。
「知識をひけらかすためにマニアックな星を紹介した」という説があるらしいが、さもありなん、といったところか。
魚の棚は、「うおんたな」と読む。
尉と姥を「じょうとんば」と読むのと、同類の転訛か。12/9参照。
魚の棚は、明石の海にほど近い海鮮市場。海の幸に満ち、観光客も多い。
この日は、
玉子焼(明石焼の地元名)を目的で訪れた。…が、どの店も行列ずらり。。
やむなく、ちっとも並んでいなかった店、
よこ井に入った。
出汁が冷たく、とてつもなく薄い。彦根の
朴以来の衝撃(12/18参照)を受けた。10個500円。
口直しに、お気に入りの店、
たこ磯に入った。
ふわふわ、あつあつ、うま味たっぷりのたこ磯の玉子焼は、やっぱり最高だ。15個600円。
【浮野的評価】
たこ磯 ☆☆☆☆☆
よし川 ☆☆☆☆
とり居 ☆☆☆☆
きむらや ☆☆
よこ井 ☆
所在地
明石市立天文科学館 明石 魚の棚
走行距離150.4km(うち、高速道路38km) 燃費計13.9km/l
20.3.2(日)
2/28に書いた
ROMEのテーマ曲を聴いていたら、クセになって頭の中を無限リピート。。
なぜだか、
ファイナルファンタジーⅤのBGM
封印されしものを連想した。
転生前に何かFF5ネタを扱ったような気がしたので、探したら、あった。
15年前のスクウェア系のサウンドトラックがたくさん残ってる惨状、
われながら こ れ は ど う か 、と思った。orz
20.3.1(土)
三週間前の話。
相方に、拉致も同然にジブリ推薦映画
雪の女王/
鉛の兵隊を観に連れていかれた。
雪の女王にさらわれた親愛のカイ(♂)を、すべてを捧げてさがし求めるゲルダ(♀)のひたむきな姿は、後の宮崎駿作品のヒロイン像の元になったのだとか。
ジブリ美術館のクリアファイルを貰えたのが、唯一の収穫。。
20.2.29(金)
カエサルで、第二部のシーザーを思い出し、一句。
蓋開けりゃ シャボンカッター しょぼかった
20.2.28(木)
こ い つ ぁ ヤ ク イ ぜ !!
今、アメリカ(?)のTVドラマシリーズ
ROME(ローマ)が熱すぎる!!
古代ローマのカエサルが起こした内乱からカエサル暗殺、その後継者のオクタヴィアヌス(カエサルの姪の子)がローマを統べるまでを、架空のローマ兵二人を絡めて描き出している。
古代ローマについては、ほとんど塩野七生の
ローマ人の物語でしか読んだことがないので、受け売りに過ぎないのだが、とりあえずまとめてみる。2/2参照。
ガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前100年に生まれたローマの政治家。混迷を極める元老院主導の政治(共和政)を見限っていたカエサルは、赴任先のガリア(現フランス)を征服して手なずけ、精鋭の軍隊を育て上げた。
元老院は、カエサルの失脚をあからさまに狙い、ついにはカエサルに「元老院最終勧告」を突き付け、これに従わぬなら「国家の敵」とみなす、と宣言した。(元老院による超法規的措置が可能となり、例えば、裁判無しの即刻死刑も可、となる)
法は、ローマ兵がイタリア本国に武装したまま入ることを禁じている。これを犯せば叛逆、そして血みどろの内戦は必至。
「越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅―――」
北の国境のルビコン川を前に、カエサルは悩んだが、手勢の第13軍団(一個軍団の定数は六千名だが、ガリア戦役で四千五百名程度に減っていた)に向かい、
「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」
カエサルの軍勢はルビコン川を渡り、迅速に進軍し、対抗する元老院派の常勝将軍ポンペイウスは利あらずとみて首都ローマから戦略的撤退。カエサルは無血入城を果たす。その後、ローマで足元を固めたカエサルは、スペイン、北アフリカのポンペイウス派の各将を撃破、後顧の憂いを断って、ポンペイウスの待つギリシャへ向かう。
海際のドゥラキウムで、カエサルは三万の兵で倍以上優勢のポンペイウスを包囲するが失敗、一転カエサルは東へ退却して決戦を誘い、ファルサルスの地にてポンペイウスをも倒した。残敵掃討を終えたカエサルの元老院への報告は、たった三語だった。
「来た、見た、勝った」
残る政敵をすべて倒してローマに凱旋したカエサルを、ローマ市民は熱烈な歓声をあげて迎え入れた。ローマ軍団兵は、敬愛する彼らのインペラトール(最高軍事司令官、すなわちカエサル)への愛着を込めて、こう叫んだ。
「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」
カエサルの小さな抗議は、却下された。
こうしてカエサルは、たった一人に権力を集中させる政治(帝政)への道を切り拓こうとした―――が、その中途で暗殺された。
カエサルは、たとえかつて敵対した者であっても、従えば赦した。
カエサルはその寛容ゆえに、自らが赦した共和主義者によって殺されたのだった―――。
ここまでで、全22話中の第12話みたい。まだ第4話までしか見てないけれど。。
20.2.27(水)
ドラゴンクエストⅣより、ロザリーにまつわる小話。2/18参照。
辺境の町ロザリーヒルに、男が現れた。
漆黒の衣に長い銀髪が際立つその男は、町の中央にそびえる塔の前に立ち、懐から取り出した横笛に唇をあてた。
カッ カッ カッ ギギィ
「大人しくしてたか、ロザリー」
「はい…ピサロさま」
「聞いてくれ、ロザリー。私は人間をみな滅ぼすことにした。私はそのために進化の秘法を使い、さらに巨大な存在になる! 間もなく世界は裁きの炎に焼かれるであろう。それまでロザリー、お前はここに隠れているのだよ…」
「えっ!?」
カッ カッ カッ
「お…お待ちください! ピサロさま!」
塔の窓際に佇む乙女は、紅く澄んだ瞳を翳らせ、二人の出会いを想いかえした。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
ダダダッ
「はあっ はあっ」
盗賊「へへ、もう逃げられんぜ。お前の涙で、オレは大もうけできるんだって」
「い…いやぁああ」
ゴオォォ
盗賊「ぎゃああぁぁあ~~!!」
「ひっ、……今のは、あなたが?」
「そうだ。人間の欲深さが目に余ったのでな」
「ひどい…殺さなくても……」
「ひどい? 私はお前を助けたというのに」
「私も人間も、魔族であろうと、みな生きとし生ける者ではありませんか」
「……ふっ、はっはっはっ! 面白い、気に入ったぞ! エルフの娘、名は何という?」
「? 私たちに、名前というものはありません」
「ふむ、しかし“エルフの娘”では何かと不便だな。よし、ならばお前を“ロザリー”と呼ぼう」
「ロザリー?」
「私が世話になっている村からとった名だ。ロザリー、いつかお前をその村に招こう。私の名はピサロ、また会おう」
「ピサロ…さま…」
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
誰か、誰か…。ピサロさまを止めて…。このままでは世界は滅んでしまう…。
お願い…誰か受け止めて! 私の願いを…。届いて、私のこの想い…。
睫毛を濡らす乙女の瞳から、涙が零れ落ちては消えた。
【他力本願】

その涙は紅玉の如く、また、けして触れることが出来ぬ。
魔王と娘の純愛は、あまりに儚かった―――。