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浮野のブログ一覧

2008年03月19日 イイね!

日記 ⑥

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、六冊目。

 日記     


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.5.8(木)

 日記帳がいっぱいになった。orz
 北播多可郡の日記の文字数が、あまりに多かったようだ。。5/10参照。


 20.5.7(水)

 小学生か中学生の頃、歴史の用語に関して、ややこしいと思った語があった。
 ずばり、連合艦隊連合軍
 連合艦隊は日本軍で、連合軍は外国軍。同じ「連合」なのに、なぜ敵味方分かれるのか。
 それで、ゴチャゴチャになってたわけ。
 
 れんごう‐かんたい【聯合艦隊】
 2個以上の艦隊をもって編制した艦隊。特に、旧日本海軍の主力艦隊をいう。

 れんごう‐ぐん【連合軍】
 2国以上の軍隊を共通目的のために編制した軍隊。


 今ではもちろんハッキリ区別が付いているのだが、要するに、後者の方が一般的な意味での連合であって、前者が日本国の中における艦隊の連合だったわけ。

 連合艦隊といえば、昔に読んでいた船の図鑑の巻末には世界の船のエピソード集(見開き2ページが10作ほど)があり、手元にないから記憶だけなのだが、
 サーモピレーとカティ・サーク
 シリウスとグレート・ウエスタン
 咸臨丸
 畿内丸
 三笠
 クィーン・エリザベス
 エムデン
 デアフリンガー
 赤城
 大和

 順番までははっきりしないが、大和のエピソードが最後だったのはよく覚えてる。
 三笠のときは完璧な勝利を収め、連合艦隊は栄光に満ち満ちていたのに、赤城と大和が力を出せないままアメリカの飛行機に沈められて、…子供心に無性に悔しかった記憶がある。

 おすすめスポット 記念艦 三笠 大和ミュージアム


 20.5.6(火)

 小学生の頃、まんが 日本の歴史(学研)を読んでいて、ずっとわからないことがあった。
 日本の歴史上に登場する“なんだかお役所っぽい組織の名称”が、複数あったからだ。
 ずばり、朝廷幕府政府。これらが、ゴチャゴチャになってたわけ。

 ちょう‐てい【朝廷】
 天子(天皇)が政治を行う所。廟堂(びょうどう)。朝堂。また、天子が政治を行う機関。

 ばく‐ふ【幕府】
 《古く陣中にいる将軍が幕を張った中で軍務を処理したところから》武家政権の政庁。また、その権力組織。源頼朝が建久元年(1190)に右近衛大将に任ぜられたことからその居館を幕府と称するようになった。

 せい‐ふ【政府】
 政治を行う所。立法・司法・行政のすべての作用を包含する、国家の統治機構の総称。日本では、内閣および内閣の統轄する行政機構をさす。


 今ではもちろんハッキリ区別が付いているのだが、この点で?マークが出てる子供がいたら、この違いをきっちり整理つくように教えたら、助けになるかもしれない。


 20.5.5(月)

 おやすみタイマーの付いた電気スタンドが欲しい。
 どこか、開発してくれるメーカーはないだろうか。


 20.5.4(日)

 水産省の公式サイトに調査捕鯨の結果(昨年度)が載っている。
 調査捕鯨は名前だけでなく、実際に調査していたわけね。
 しかも、捕獲数を計画・管理して得た標本は、お肉としてスーパーに出回る、と。
 おお、なんと海の恵みを余すことなく受けていることよ。

 生息数の統計がどれだけ正確かは、(推定が多そうなので)はっきり言ってあやしいモンだと思うが、現在の規模のまま、管理された捕鯨をずっと続けてほしい。そして市場に届けておくれ。
                         ↓(かぶった…)↓



 20.5.3(土)

 ずっと前にみんカラで11人いる!ネタを扱った気がしたのだが、やっと思い出した。
 リーダー。氏の昨年のブログへのコメントだった。


 20.5.2(金)

 4/12の給油記録。
 ① 美作:290.0km(うち、高速道路270km)
 ② 播磨・丹波:173.6km
 …を含む。

 519.0km 14.2km/l(燃費計) 38.39L(レギュラー)給油 @122
 519.0÷38.39=13.519… → 13.5km/l(満タン法)
 13.5-14.2=△0.7

 ∴燃費計は、満タン法より、0.7km/l前後良く測定される。

 さらに、4/12の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②を遠出、残りを ③街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.7km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  290.0km 17.0km/l → 16.3km/l 17.791…L
 ②  173.6km 14.0km/l → 13.3km/l 13.052…L
 ③  55.4km       →       7.545…L
 計 519.0km 14.2km/l → 13.5km/l 38.39L

 ①  290.0km 17.0km/l → 16.3km/l 17.791…L
 ②  173.6km 14.0km/l → 13.3km/l 13.052…L
 ③  55.4km       → 7.3km/l 7.545…L
 計 519.0km 14.2km/l → 13.5km/l 38.39L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、55.4km走って 7.3km/l。ついに来た、春のめざめ。


 20.5.1(木)

 SFアニメ11人いる!のフロルを、シャーペンで落書きしてみた。4/27参照。

 中学か高校の夏休みに放送していて、初見で うおぉぉ、コレすげぇぇ!! と思った。
 フロルいいよフロル。


 20.4.30(水)

 今月上旬の話。
 播磨のやしろ桃園、千鳥川桜堤公園、播州清水寺、丹波のDONO、篠山城へ行った。

 やしろ桃園は、旧社町にある桃園。(そのままだ)
 6haの丘陵一面に、かわいい桃色の桃の花が咲いている。

 千鳥川桜堤公園は、旧社町の千鳥川にある堤防道の公園。
 嵯峨野譲りの枝垂桜の並木が、明るい光と、透明のせせらぎと混じって、いい感じ。

 播州清水寺は、西国三十三番のうち、第二十五番。
 標高552mの山上にある。山麓には、平木の集落がある。(楠木の隠れ里? 4/6参照)
 南朝方の赤松氏範が攻め滅ぼされた地でもあるので、南朝という点で符合するが…。
 この日、麓では桜は満開だったのに、山上はまだ蕾だった。また出直すことにした。

 篠山城は、徳川家康が西国諸大名に築かせた城。
 家康の実子ともいわれる松平康重が入城し、康重は大坂の役において出陣した。
 篠山城の東南東4km先には高城山があり、戦国時代には波多野氏が高城山の八上城に拠って、織田勢力に激しく抵抗した。
 さらに東の籾井城、細工所城の位置を大正ロマン館で訊いたので、おいおい訪ねたい。


 おすすめスポット やしろ桃園 千鳥川桜堤公園 播州清水寺 篠山城

 走行距離173.6km 燃費計14.0km/l 高速道路不使用


 20.4.29(火)

 映画 靖国 YASUKUNIの上映中止問題について。4/18、4/21参照。
 最初のゴタゴタも沈静化して、上映する映画館がポツポツ出てきたと思ったら、まだ問題が残ってたらしい。
 本作に出演した刀匠の刈谷直治氏(90歳・高知県)が、「自らの映像の使用を承諾しておらず、削除を望んでいる」のだという。
 これに対し、映画監督の李纓氏は、「了解を得ていた」という。
 両者の言い分が食い違っているが、ごく最近のインタビューでの刈谷氏のコメントは、「刀匠の半生を撮るドキュメンタリーという趣旨で取材を受けた。使われ方に納得できなかったため助監督に削除してほしいと頼んでいた」。
 刀匠の半生を撮るドキュメンタリーのはずが、靖国神社を刀と刀匠を絡めて読み解くドキュメンタリーになった―――。
 監督の刈谷氏に対する説明が不足していた、あるいは説明が誤っていたならば、刈谷氏の主張にも正当性があるだろうし、仮に刈谷氏の映像のみを除いて編集すると、(映画の内容の詳細は知らないが)本作は骨抜きになるだろう。
 ただ、いわゆる保守派の(器の小さい)議員などの勢力が、先走って刈谷氏を含む出演者に説得工作を行った可能性も否めまい。
 上映の決定にどんな影響があるかはまだわからないが、個人的には…見るだけは見てみたいなぁ。。ちなみに…

【公式サイト イントロダクション より抜粋、下線は浮野】
 (前略)そして知られざる事実がある。靖国神社のご神体は日本刀であり、昭和8年から敗戦までの12年間、 靖国神社の境内において8100振りの日本刀が作られていたのだ。「靖国刀」の鋳造を黙々と再現してみせる現役最後の刀匠。その映像を象徴的に構成しながら、映画は「靖国刀」がもたらした意味を次第に明らかにしていく。


 下線部については、軍国主義だとかそういうつながりでは一切ない。
 剣や刀がご神体だったり、刀や甲冑が奉納されたり、ということは、日本の神社では昔から行われている、ごくありふれたことであるから。


 20.4.28(月)

 4/20の日記にオキナガタラシヒメの話を採り上げたのだが、ビッグコミックをパラパラ立ち読みしていると、宗像教授異考録(H19.9/15、H20.3/2参照)でまさにこの話を取り扱っていた!


 20.4.27(日)

 みがまえるがまがえるがまえにいる
(字足らず)
 カエルがド下手なのにも程があるが、あえてそのまま。
 手前の後頭部は、某SFアニメのヒロインを思い出したので、ソレになった。


 20.4.26(土)

 スプリガンとスガモプリズンは、字面が似ている。


 20.4.25(金)

 知らんうちに、体重が激増していた。orz アリエン…
 ベスト体重は61kgなのに、5kgも超過。過去最大である。
 相当な危機感を持って、早いうちにベストに戻そう。。
 手始めに、間食はことごとくカット。大盛りおかわりも一切捨て去る。
 特別な方法にしがみつくことはせず、控えめな分量の三食だけを、味わって食べようと思う。


 20.4.24(木)

 相方から土佐土産に文旦をもらった。
 文旦…ほの甘くておいしいなぁ。柑橘類の王様だわ。
 名前から、なんとなく周の文王周公旦を連想するのだが、まず関連はなかろう。
 文旦の別名はザボンだが、醜く変身などしない。


 20.4.23(水)

 阿新館(スーパー/レストラン?)の阿新(あしん)とは何だろう、と思い調べてみたら、たぶん、岡山県北部の哲郡(あてつぐん)と見市を含む地域名。


 20.4.22(火)

 今月上旬の話。
 美作の津山へ、花見に行った。たぶん、四度目の津山行き。
 その前日に、津山観光振興課(TEL 0868-32-2082) に電話で確認し、「七分咲き」だと聞いたので、姫路・篠山などの候補地の中から津山を選んだのだった。

 津山城は、関ヶ原の合戦後に美作に封じられた森忠政が築いた城。
 元来、津山城のあった地は、鶴山と呼ばれていた。
 現に、津山城址の正式名称は、鶴山公園(かくざん/つるやま こうえん)である。
 忠政は、鶴山(つるやま)を津山(つやま)に名を変え、18万6千石の総力を挙げて豪壮な城を築いた。普請には、足掛け十三年も要した。
 明治の廃城令で、構造物のすべてが破却されたのは残念だが、本丸の一角の備中櫓(私はテトリス櫓と呼んでいる)のみ、当時の技法により復元している。
 なお、B'zの稲葉浩志の実家のイナバ化粧品店も、さくらまつりに協賛していた。



 おすすめスポット 津山城 衆楽園 作楽神社

 走行距離290.0km(うち、高速道路270km) 燃費計17.0km/l

 九割以上が高速道路とはいえ、燃費がかなり伸びた。
 復路のICを降りたときは、17.2km/lだった。
 走行条件は、4名乗車、エアコン使用、80~90km/h。
 4名乗車としては、覚えている限り、過去最高の好燃費♪


 20.4.21(月)

 4/18に映画 靖国 YASUKUNIの上映中止が相次いでいる、と書いたが、上映する動きが出ているとのこと。そうだ、そうこなくてはならない。
 度量を見せた映画館は、大阪市淀川区の第七藝術劇場、京都市下京区の京都シネマ など。
 5月10日(土)からの上映、楽しみなり。


 20.4.20(日)

 先月下旬の話。
 摂津の住吉大社、阿部野神社、大坂城へ、電車に揺られて行った。

 住吉大社は、ソコツツノオ、ナカツツノオ、ウワツツノオの住吉三神と、オキナガタラシヒメ(神宮皇后)を祀る神社。
 住吉三神は、黄泉の国から還ってきたイザナギのみそぎ(H19.12/18、H20.3/2参照)によりうまれた神々で、海を司る。海の神・航海の神としては、他に、タギリヒメ、イチキシマヒメ、タギツヒメの宗像三女神(宗像大社・厳島神社などで祀られる)が有名。
 オキナガタラシヒメは、タラシナカツヒコ(ヤマトタケルの子、仲哀天皇)の女房。
 タラシナカツヒコの二年、熊襲(クマソ、球磨・曽於の部族?)が叛き、貢物を献上しなくなったため、これを討つことにした。
 八年に筑紫(ツクシ、九州を指す)に渡るや、筑紫の豪族は一斉に大和になびき、大君は香椎宮に居した。
 大君は熊襲征討を占った。夜更けに琴を弾いて神を招き、そして神はオキナガタラシヒメに憑依した。闇の中でオキナガタラシヒメは痙攣し、その口でしゃべり始めた。

 「大君よ、なぜ熊襲のまつろわざることを憂う? 熊襲など、不毛の国。それより、西のかたの国、宝あふれる新羅を攻めよ。われを祀れば刃を血塗らすことなく新羅はまつろい、また熊襲もまつろうことになろう」

 「海の向こうに国など見えぬわ。どこの何という神がわれをあざむくのか?」

 大君は不機嫌に言い放つと、琴を弾くのをやめた。
 闇の向こうの神懸りの后が、さらに激しく震えるのが感じられた。

 「およそこの天の下は、汝の統べ治める国ではないわ! 汝は、ただひとつの道に向かうがよい!」

 「大君、なりませぬ。さ、御琴をお弾きあそばしたまえ」

 傍に控えていたタケウチノスクネの諫言で、大君はしぶしぶ琴を弾いた。

   ♪ ポロン ポロン ポロン―――――

 突如、琴の音が途切れ、静まり返った。ただ、闇が広がっている。
 すぐさまスクネが火を灯して見てみると、大君はすでにこと切れていた―――。

 ほとんどホラーである。
 大君を黄泉への道におくり込んだ(?)この神が、住吉の三神であり、そのときオキナガタラシヒメが身ごもっていた子が新羅を統べるであろう、と予言された。
 オキナガタラシヒメは、謎の死を遂げた夫に取って代わり、新羅を降した―――という伝承。
 ちなみに、オキナガタラシヒメが身ごもっていたという子は、ホムダワケ(応神天皇)といい、ホムダワケは八幡の神で有名である。

 阿部野神社は、南北朝時代の吉野方の公家であり武将の北畠顕家を祀る。4/6参照。
 1333年、鎌倉幕府を滅ぼし、建武の中興成る。
 1335年、中先代の乱。幕府の残党が北条の遺児を奉り、鎌倉を奪還した。足利尊氏は鎌倉を落とし乱を鎮めた後も鎌倉に居座り、やがて、建武の政権に叛逆した。足利尊氏はひたすら西進し、年も変わり1336年に入京した。

 後醍醐天皇の忠臣・北畠親房の長男の顕家は、建武元年に多賀城に下向し国司として奥州を抑えていた。
 足利尊氏の叛乱に際し綸旨を受けた顕家は、1335年の暮れ、二万の兵を率いて尊氏の後を追い、新田義貞ら朝廷各将と協力し、近江大津、京、摂津豊島にて足利勢と大激戦を繰り広げ、なんとか尊氏を追い落とすことに成功した。1336年初頭のこと。大きな功績を立てた顕家は、鎮守府将軍に任ぜられ、再び奥州に下向した。

 船で落ち延びた尊氏は自害まで覚悟するほど痛めつけられていたが、九州多々良浜の戦いで菊池氏を倒し、尊氏の西国における求心力が一気に高まった。
 1336年、足利尊氏を九州へ追い落としたのち、朝廷主力の新田義貞は、尊氏に味方した赤松円心(則村)の籠もる白旗城を包囲していた。しかし城は容易に落ちず日数ばかり費やし、そして尊氏の反攻が始まった。
 同年5月、楠木正成が兵庫の湊川にて戦死し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れた。その後、足利方に引き渡した三種の神器(ヤタノカガミ、ヤサカニノマガタマ、クサナギノツルギ。日嗣の権威を裏付けるとされる宝物)は贋物である、として、京を脱し、吉野に朝廷を開いた。これが吉野朝/南朝の起こりである。
 同年10月、難局を打開すべく、新田義貞・義顕父子は、恒良親王と尊良親王(後醍醐天皇の皇子たち)を奉じて越前の金ヶ崎に入り、越前を舞台に足利の幕府軍と争った。
 幕府の大軍に包囲された新田義顕は、愛馬も殺して食糧にする凄惨な籠城戦によく耐えたが、先に脱した父・義貞の後詰もかなわず、ついに最期のときを迎えた。

 「戦ももはやこれまで。今より自害致しますが、親王は賊軍に降ろうと御命まで奪われることはありますまい。さあ、行かれませ」

 「越前に向かい発ったときのことを思い返してみよ。あのとき帝は、こなたを大将とし、そなたをわが手足のような臣下とされた。その手足を失くして、どうして大将が務まろうか。そなたのみ死なせるわけにはゆかぬ、こなたもともに自害して果てようぞ。…そもそも、自害とはどのようにすればよいのか」

 「このように致すものでございます!」

 義顕は刀を抜くやいなや逆手に持ち替え、左脇に突き立て、右脇のあばら骨二、三本まで掻き破り、刀を親王の前に置いて崩れ落ちた。その頬には、確かに涙が光っていた。
 これを見た尊良親王は、義顕の刀を手に取りじっと見つめ、胸に突き立て見事果て、義顕の上に伏し倒れた。
 周りの数百の兵も一斉に自害し、金ヶ崎の城は落ちた。1337年3月のこと。

 一方、義良親王を奉じて奥州に再び戻った北畠顕家は、伊達郡霊山(りょうぜん)に立て籠もり、苦境に陥っていた。
 京を失ったことや、金ヶ崎が落城したことなどを受けて、奥州の豪族が幕府に靡いてしまったためだった。
 ところが、新田義貞がまた越前を回復したことが伝わり、吉野方の味方につく豪族も増えてきた。
 1337年8月、これに意を得た顕家は、奥州の諸豪族を従え、京回復の軍を興した。
 三万余名の奥州勢は白河関を越え、関東の諸将が加わり、数倍の軍勢に膨れ上がった。
 利根川で敵を破り、鎌倉を落とし、美濃の青野ヶ原(関ヶ原の10km東)の決戦で足利勢に勝利を収めた。
 しかし、その後に繰り出してきた幕府の新手と戦う余力は、疲弊した奥州兵には残っていなかった。
 顕家は南に転進し、伊勢から吉野へ向かったが、途中、大和の般若坂(奈良市般若寺町?)にて、数万の奥州勢は少数の幕府の討手に敗れ去った。
 顕家は河内、和泉へ転じ立て直しを図ったが、幕府側は高師直を大将とする追討軍を遣わした。
 和泉の石津にて、顕家と奥州兵は最後の力を振り絞り戦い、なんとしても吉野へ参内しようと包囲の突破を試みたが、いつしか兵は二十余名を数えるのみとなり、ついに討ち取られてしまった。1338年5月のこと。
 はるばる奥州の軍を興すこと二度、1337年8月に霊山を発って以来十月、幾山河を越え、数多の敵を破った公家の将軍も、その最期は首を掻かれ、鎧も太刀も剥がれ、無残に散ったのだった。享年二十一歳―――。

 貴種である美しい少年が刃を振るい征伐し、そして長征に疲れ果てて倒れる―――。
 ヤマトタケルのあわれさにも通ずる北畠顕家を、大河ドラマでは後藤久美子が演じていた。
 ちなみに、奥州の兵力を算出(4/6参照)すると、
 200×0.57×250=28,500   外征可能な人数は、せいぜい20,000~25,000名だろう。

 大坂城は、豊臣秀吉が築き、豊臣亡き後に徳川家康がさらに強大に築きあげた城。
 天守閣は、豊臣時代のものは大坂の役の落城時に焼失し、徳川時代のものは落雷で焼失。
 両時代合わせても、天守閣が存在したのは六十数年に過ぎず、江戸時代の大部分は天守閣のない城であり、しかし幕末まで不落の城塞と思われていたのだ。
 現在の天守閣は、実質、エレベーターを中心に据えた鉄筋コンクリート造りの天守閣型歴史資料館…。大阪城公園は、梅と桜の名所となっている。

 おすすめスポット 住吉大社 阿部野神社 大坂城 大阪城天守閣 豊國神社 石山本願寺跡 難波宮


 20.4.19(土)

 アイストレッチが、目薬で一番のお気に入り。


 20.4.18(金)

 今月初めの情報だが、映画 靖国 YASUKUNIの上映中止が相次いでいるそうだ。
 公開によって、近隣の劇場や商業施設などに迷惑が及ぶ可能性がある―――という理由だそうだが、右翼や国粋主義者などの妨害行為を指しているのだろうか。
 そうだとするなら、まことにはた迷惑な話である。私は、自分で見て、判断したかった。
 そもそも、己の信条と異なる考え(の作品)を、圧力をかけて封殺する、というのでは、一党支配の中共と変わらぬではないか。
 日本人は、特に他の東洋人に対して優越感情をいだきやすいのであるが、未だに何かにつけ「だから中国人/韓国人は~」と言う日本人は多く、確たる根拠の無い場合にもこの台詞を吐いているうちは、日本人の民度も低いと言わざるを得ない。
 特定の映画の上映を阻止しようとする組織・勢力があるとすれば、その者たちの民度もまた当然低い、ということになる。
 本作の詳細な内容は知らないが、内容がマトモならある程度の共感を得、おかしければ反感を買うだけのことだ。
 先ずは大度を見せ上映を受け入れてほしい。評価や反論はそれからでも遅くないのだから。


 20.4.17(木)

 3/29の給油記録。
 ① 播州:227.3km(うち、高速道路101km)
 ② 丹後:407.2km(うち、高速道路97km)
 …を含む。

 705.4km 14.1km/l(燃費計) 53.91L(レギュラー)給油 @145
 705.4÷53.91=13.084… → 13.0km/l(満タン法)
 13.0-14.1=△1.1

 ∴燃費計は、満タン法より、1.1km/l前後良く測定される。

 さらに、3/29の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②を遠出、残りを ③街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、1.1km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  227.3km 15.3km/l → 14.2km/l 16.007…L
 ②  407.2km 14.8km/l → 13.7km/l 29.722…L
 ③  70.9km       →       8.180…L
 計 705.4km 14.1km/l → 13.0km/l 53.91L

 ①  227.3km 15.3km/l → 14.2km/l 16.007…L
 ②  407.2km 14.8km/l → 13.7km/l 29.722…L
 ③  70.9km       → 8.6km/l 8.180…L
 計 705.4km 14.1km/l → 13.0km/l 53.91L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、70.9km走って 8.6km/l。山垣への買出しもあったから。。


 20.4.16(水)

 たまたま書店で見かけたドアラのひみつに、心を奪われた。
 頑張れドアラ、ともにかくさしゃかいに立ち向かおう!
 フリーダム

 荒ぶる有袋類


 20.4.15(火)

 遠出の燃費、街乗りの燃費。
 遠出の燃費にしても、高速道路を使った旅と使っていない旅の燃費。
 それぞれどれくらいの数値になるのか、調べてみた。
 3/16までの最近13回の記録を基に算出した。(H19.10/6、10/14、11/23①②、11/24、12/9、12/24、12/30、H20.1/6、1/27、2/10、2/24、3/16給油分)

 【総走行距離】
  ① 遠出:4,509.3km(うち、高速道路1,299km)
   遠出のうち、
   ①a 高速使用旅:2,225.8km(うち、高速道路1,299km)
   ①b 下道のみ旅:2,283.5km
  ② 街乗:662.0km
  ③ 合計:5,171.3km(うち、高速道路1,299km)

 【総給油量】
  ① 遠出:347.290…L
   遠出のうち、
   ①a 高速使用旅:168.799…L
   ①b 下道のみ旅:178.490…L
  ② 街乗:108.009…L
  ③ 合計:455.30L

 【燃費 満タン法ベース】
  ① 遠出:12.984… → 12.9km/l
   遠出のうち、
   ①a 高速使用旅:13.186… → 13.1km/l
   ①b 下道のみ旅:12.793… → 12.7km/l
  ② 街乗:6.129… → 6.1km/l
  ③ 合計:11.358… → 11.3km/l

 遠出なら、高速道路を使おうが使うまいが、大差は無いようだ。
 もっとも、高速道路走行のすべてを燃費最重視の90km/h平均で走ったなら、もっと燃費を引き上げただろう。(4名乗車であろうが、16km/l以上をたたき出す。2名なら、17km/l後半も可能)

 街乗りは、やはり悪い。
 私は省燃費運転に気を遣っている方だし、ある程度の自信もある。
 しかし、どうにもならない“状況”には勝てないのだ…。
 結果は無惨、遠出に倍以上も差をつけられている。

 総合では、11.3km/l。二桁を記録した。
 これは、全体の距離のうち、街乗りは7.8%に過ぎないからだ。
 仮に、遠出と街乗りの距離が半々なら、概算で、13.0km/lと6.0km/lの間をとって、9.5km/lが2.0iの公平な燃費数値といえよう。


 20.4.14(月)

 JR西日本の券売機で切符を買うときに画面に出てくるオネーサンを、記憶で描いてみた。


 券売機(けんばいき)と書いたつもりが、券販機(けんはんき?)という未知の語に…。
  面倒くさい 自戒のため、そのまま残した。


 20.4.13(日)

 先月下旬の話。
 丹後の松尾寺、智恩寺、天橋立、成相寺、伊根へ行った。



 松尾寺は、「まつのおでら」と読む。西国三十三番のうち、第二十九番。
 丹後と若狭の境にある青葉山(若狭富士)の、丹後側の中腹にある。
 朝もやに古びた階段や伽藍が妙に合っていて、なんとも良い佇まいだった。
 なお、駐車料金は、400円。

 智恩寺は、天橋立の南端部に位置し、智恵に優れた文殊菩薩を信仰する。
 岸辺には、知恵の輪と呼ばれる石造物(灯籠?)があり、潜り抜けると文殊の智恵を授かるという。それを知るや速攻潜ってみたが、霊験のほどは不明。
 なお、天橋立周辺は駐車場所が限られており、智恩寺の駐車場は600円だった。
 数百mも外れならもう少し安いし、中心地なら1,000円のところもあったと思う。

 天橋立は、砂洲と呼ばれる、海辺に砂礫が細長く堆積して対岸とつながった地形。
 天橋立の他には伯耆の弓ヶ浜が有名で、弓ヶ浜の方が人の居住の地になるほど大きいが、天橋立はその景観によって知られる。
 幅は数十m、空と海が見え波の音につつまれる松の小径が2km少し続く。
 歩きながら海抜1mに満たぬ地面を見ると、人や自転車が頻繁に通る道以外は、枯れ落ちた松葉で覆われている。ひょっとして、この松葉が砂が飛散するのを留めているのかもしれない。
 景観だけでなく、根で地面をかため、幹と枝で風を防ぎ、落ち葉で砂をまもる松は偉大だ。

 成相寺は、「なりあいじ」と読む。西国三十三番のうち、第二十八番。
 ここは何といっても、頂上からの眺望が最高。
 宮津、天橋立、舞鶴、若狭富士が、一大パノラマで見られるのだ。この手のパノラマは、写真や動画では追体験できない。人の180°の視野で、その場に立って体感しないことには。
 頂上に、播州の光明寺にもあったかわらけ投げがあった。
 土でつくった小さな皿(かわらけ)を、煩悩を込めて投げ捨てるもの。
 かわらけ2枚で、100円だった。高い。光明寺は、7枚100円だったような…。
 投げる場所から7、8mのところに、知恵の輪ではないが鉄製の細く円い枠があった。
 成相寺の演出がお茶目というか、売るべきところがしっかり解っているというか…。
 横手で投げて、一投目は左50cm切れていったので、二投目で修正して、通した。
 なお、入山料と駐車あわせて500円だったと思う。
 
 伊根は、古代から名の知られた湊。
 両手で覆うようなカタチに、正面の小島が防波堤となり、水深は深く、まさに天然の良港。
 この伊根といえば、やはり舟屋
 海際にズラッと並ぶ数百軒の民家が、海側に漁船の格納庫を備えているのだ。
 多く現存する二階建ての舟屋は、1880年(明治13年)から1950年(昭和25年)のブリ景気によって立て替えられたそうだ。
 独特の旅情あふれる伊根の舟屋は、一見の価値がある。



 おすすめスポット 松尾寺 智恩寺 天橋立 成相寺 伊根の舟屋

 走行距離407.2km(うち、高速道路97km) 燃費計14.8km/l

 日帰りで、かつ、自分一人のみの運転で走った距離としては、過去最高かもしれない。
 上月城・津山城・白旗城・赤穂城・龍野城・吉川温泉よかたん を一日で回ったH19.3/10の記録が残っていたが、それでも走行距離371.4km(高速道路不使用)、燃費計14.5km/lだった。


 20.4.12(土)

 やはり、リンより おふうだと思う。


 20.4.11(金)

 先月中旬の話。
 播州の綾部山梅林へ梅見物に行った。



 綾部山梅林は、旧御津町、現たつの市の播磨灘が見える山にある。
 毎年、二万本の梅が見物できる、西国屈指(紀州を除く)の梅の名所。

 昨年は曇だったが、今年は晴れ。やはり、梅花の背景は、雲より青空だ。
 しかし、その週の水曜日と木曜日に大雨が続き(スッカラカンだった播州や北摂の貯め池やダム湖が、ほとんど満水になったほど)、ボリューム七割減。(:;)
 それでも、元が多いため、まだきれいに咲いている梅も残っていた。
 黄砂の時期と重なるためか、淡路や四国までくっきり見えないのは残念だった。

 綾部山の4km西に、室津がある。
 古来から有名な湊だから、昔の御津町の御津(みつ)は、室津の「津」のアタマに「御」をつけたのが元々のおこりだろうか、などと思った。
 例えば、しまなみの大三島は、敬意を込め、御島(みしま)ともいう。
 また龍野へ行く予定があるので、そのときに室津に寄ってみたい。



 おすすめスポット 綾部山梅林

 走行距離227.3km(うち、高速道路101km) 燃費計15.3km/l


 20.4.10(木)

 NOMOだ、と思ったら MONOだった。


 20.4.9(水)

 3/16の給油記録。
 ① 河内 第一次:161.9km(うち、高速道路93km)
 ② 河内 第二次:139.9km(うち、高速道路67km)
 …を含む。

 382.7km 12.0km/l(燃費計) 33.28L(レギュラー)給油 @145
 382.7÷33.28=11.499… → 11.4km/l(満タン法)
 11.4-12.0=△0.6

 ∴燃費計は、満タン法より、0.6km/l前後良く測定される。

 さらに、3/16の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②を遠出、残りを ③街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.6km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  161.9km 15.2km/l → 14.6km/l 11.089…L
 ②  139.9km 15.0km/l → 14.4km/l 9.715…L
 ③  80.9km       →       12.475…L
 計 382.7km 12.0km/l → 11.4km/l 33.28L

 ①  161.9km 15.2km/l → 14.6km/l 11.089…L
 ②  139.9km 15.0km/l → 14.4km/l 9.715…L
 ③  80.9km       → 6.4km/l 12.475…L
 計 382.7km 12.0km/l → 11.4km/l 33.28L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、80.9km走って 6.4km/l。もうちょっと良くならないかな。。


 20.4.8(火)

 キキララと赤裸々は、響きが似ている。


 20.4.7(月)

 先月20日放映のフィギュアスケートの世界選手権の女子シングルSPの話。

 マ イ ズ ナ ー の 点 数 が 3 点 ほ ど コ ス ト ナ ー の に 紛 れ 込 ん だ ん じ ゃ な い の ?


 20.4.6(日)

 先月中旬の話。
 河内の建水分神社・南木神社と上赤坂城、四條畷神社その他、摂津の桜井駅へ行った。
 3/25、3/26、3/29、3/30を参照。

 上赤坂城は、水分(みくまり)の南の山地に築かれた山城。
 楠木正成は、比較的低い位置にある下赤坂城に加え、上赤坂城、さらに奥地に千早城を築き、その周りにも数々の砦をつくった。6kmの奥行きをもつ、一大城砦群である。

 1331年、笠置山の挙兵に失敗した後醍醐天皇は、翌年に隠岐に流された。しかし、倒幕の火は消えてはいなかった。
 赤坂で戦死したとされた楠木正成が、城を奪い返し再び挙兵。住吉・天王寺に進出した。
 楠木正成はその天王寺で、不思議な書物を目にした。聖徳太子の著した未来記であった。

  人王九十五代に当たって、天下一たび乱れ、主、安からず。
  この時、東魚来たって、四海を呑む。
  日、西天に没すること、三百七十余箇日、西鳥来たって東魚を食らう。
  そののち、海内の一に帰すること三年。
  猴のごとき者、天下を掠むること三十余年。
  大凶変じて一元に帰す。云々。


  九十五代は、主上のことやろ。四海を呑む東魚は、鎌倉。日、西天に没する、は、主上が隠岐に流されたことを指してるんや。
  西鳥来たって東魚を食らう、は、鎌倉は早晩落ちる、いうことや。そやけど、天下を掠むる猴…大凶て、何やねんな…?

 正成は不安を抑え、主上が再び舞い戻るであろうことだけを、努めて考えた。

 西国では倒幕の勢力が蠢動し、これに対し幕府は関東の大軍を派した。
 幕府の追討軍の猛攻に、赤坂で必死の防戦をしていた平野将監は、降伏した。平野将監らは六波羅に送られ、全員斬首された。
 これに前後して、後醍醐天皇の皇子・護良親王が籠もる吉野も落ち、追討軍の矛先は千早城ひとつに向けられた。
 千名に満たぬ楠木勢は、大岩を落とし、あるいは熱湯・糞尿、油に松明を浴びせ、奇策をもって追討軍を翻弄した。
 水の手を断たれたが、あらかじめ樋や水槽などの貯水の仕組みを整えていたので、ちっとも堪えなかった。
 こうして幕府の主力を釘付けにして八、九十日ほど耐えるうち、後醍醐天皇は名和長年の手引きにより隠岐を脱して船上山に入り、赤松円心(則村)、千草忠顕、足利高氏などが立ち上がり、六波羅を滅ぼした。
 また、新田義貞が稲村ヶ崎にて太刀を海神に奉げ、干潮を見計らい由比ガ浜を駆け抜け、鎌倉を陥落させた。
 北条一門八百七十余名は東勝寺にて自刃し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。1333年5月のことだった。


 桜井駅は、鉄道とは関係ない。古代律令国家の制度で、ここにいう駅というものは、ただ桜井駅の挿話によってのみ人々に記憶されているのではなかろうか。

 1334年正月、改元されて世の中は「建武」の年号となった。後漢の光武帝が王莽の乱を平らげて漢を再興したときの年号にあやかったものであったが、この年は国中に疫病が広がり、病死する者が数知れず出た。その年の秋、紫宸殿の上に怪鳥があらわれた。

 いつまで
  いつまで


 嘴から電光を発し、雲に響く声で鳴く怪鳥に、人々は恐れをなした。
 かつて鵺という鳥が雲中かけて鳴いたとき、源頼政が勅命によりこれを射落とした。それに習い、隠岐広有という武者が選ばれた。
 ある晩、御所の上を飛び回る鳥は、いつまで、いつまで、と鳴きながら、火炎を吐いていた。その明かりで居場所を確認した広有は、狙いを澄まし、次に鳴いたときに矢を放った。手応えは、あった。
 衛士たちが松明で照らすと、その射落とされた鳥は、頭は人間のようで、体は蛇のようで、嘴の先は曲がり、歯は鋸のようであった。また、足には剣のように鋭い蹴爪があった。羽を広げてみると、その長さは一丈六尺(4.8m)もあった。

 怪鳥は、のちに以津真天(いつまで)と呼ばれることになる。
 その不気味な鳴き声のわけは、「いつまで、死体を放ったままにしておくのか」ということだそうだ。
 世を刷新する象徴的な建武元年にこの怪鳥があらわれたことは、新政権にとっての凶兆のように思われた。


 建水分神社は、「たけみくまり じんじゃ」と読む。楠木氏の氏神だそうだ。
 水分とは、千早川と水越川の合わさる地点のあざな。楠木氏を育んだ土地。
 建水分神社の階段の下に、摂社として南木神社がある。

 1335年、中先代の乱。幕府の残党が北条の遺児を奉り、鎌倉を奪還した。足利尊氏は鎌倉を落とし乱を鎮めた後も鎌倉に居座り、やがて、建武の政権に叛逆した。足利尊氏はひたすら西進し、年も変わり1336年に入京。しかし、北畠顕家や楠木正成、新田義貞らの朝廷軍に袋叩きにされ、九州へ都落ちを余儀なくされた。
 尊氏は自害まで覚悟するほどだったが、九州多々良浜の戦いで菊池氏を倒し、尊氏の西国における求心力が一気に高まった。
 1336年、足利尊氏を九州へ追い落としたのち、朝廷主力の新田義貞は、尊氏に味方した赤松円心(則村)の籠もる白旗城を包囲していた。しかし城は容易に落ちず日数ばかり費やし、そして西から反攻の足音が近づいていた。
 後醍醐天皇に至急召された楠木正成は、京を丸ごとおとりにして敵を枯らしてから討つ策を言上したが、頑迷な公家の言葉により、勝てぬ戦に敢えて挑むこととなった。いざ、湊川へ…。

 京を出た楠木正成は、途中、桜井駅に差し掛かったところで、十一歳の嫡男・正行(まさつら)を呼んで、言った。

 「獅子は子を千尋の谷に落とす、と聞く。まして、お前は十歳を越えとる。今から言うことは よ~う聞いて、絶対背いたらあかん。今度の戦は天下を決める戦やから、お前と顔合わすのはこれで最後やと思う。この儂が死んだら、天下は必ず尊氏のモンになる。そやから、お前は河内に帰って、武芸に励んで、ときを待つんや」

 「いやや、正行は父上と一緒に死にたい! 足利なんて、ナンも怖いことあらへん!」

 「ドアホッ! 嫡男のお前が死んだら、母や一族郎党を 誰が守んねん。それに主上はどうなるんや。お前は、金剛山あたりに籠もって、どこまでも主上に忠節尽くすんや。生きて、生き抜いて、賊を討つんや。それが、何よりの孝行やと思ってくれ」

 「父上……」

 少年は、目に涙をためて、桜井をあとにした。


 南木神社は、「なぎ じんじゃ」と読む。
 楠木正成の湊川での戦死後、後醍醐天皇はその死を悼み、翌年の1337年に正成像をつくり、建水分神社にて祀ったという。のち、後醍醐天皇の子の後村上天皇から、南木明神(なぎ みょうじん)の神号を賜った。

 おそらく年長者を主に選ばれていたであろう楠木正成・正季兄弟以下 楠木一党七百余名は、兵庫の湊川にて、文字通り全滅した。
 足利尊氏は、楠木正成といっときは同志であったし、武略や人柄に感じ入ってもいたのだろう。もとから徹底した非情さに欠けていたのかもしれない。正成の首を、みせしめにはせず、水分へ送り返した。

 水分の館で、父と子は再会した。

 「アグッ…フグッ……うぁぁ~、今 正行も父上のお供しますよってに」

 「アホンダラ!」   パァン

 「グエッ、……は、母上!?」

 「情けない、もう父の訓えを忘れたんか!? 生きて、武芸磨いて、一族守るよう、主上を奉るよう言われたんちゃうんか? 口惜しかったら、父を越える武士になれ!」

 そして十数年―――かつて父との別れに涙した少年は、凛々しく逞しい武士となっていた。


 四條畷神社は、四條畷の戦いで討死にした楠木正行(まさつら)を祀る。
 正行も「楠公さん」と呼ばれ、父の正成と区別するため、父が「大楠公(だいなんこう)」、子が「小楠公(しょうなんこう)」と、特に呼ばれる。

 1336年5月、楠木正成、兵庫の湊川にて戦死。
 1338年5月、北畠顕家、和泉の石津にて戦死。
 1338年8月、新田義貞、越前の藤島にて戦死。
 1339年9月、後醍醐天皇、大和の吉野にて崩御。「魂魄は常に北闕の天を望まん」
 
 後醍醐天皇には皇子が大勢いた。激しい後醍醐に似て、激しい皇子が多かった。
 護良親王:元弘の乱の立役者。1335年7月、中先代の乱の際に足利直義に殺された。
 尊良親王:新田義貞とともに北陸へ行き、1337年3月、金ヶ崎城にて義貞の子・義顕とともに自害した。
 恒良親王:新田義貞とともに北陸へ行き、尊良親王自害のとき、捕らえられた。京で幽閉され、のちに殺された。
 宗良親王:1338年、北畠親房とともに陸奥を目指したが、座礁。遠江の井伊谷にて信濃の勢力をまとめ三十余年活動した。
 義良親王:1338年、北畠親房とともに陸奥を目指したが、座礁。吉野に戻り、のちに皇位を継いだ。後村上天皇。
 懐良親王:1336年、征西大将軍として九州へ下向。1372年に今川了俊に追われるまで、一大勢力を築いた。

 南朝勢力は、九州と信濃にある程度の地盤をつくりあげたものの、名高い武将はことごとく戦死し、中央においてはまともに北朝と戦えないほどに衰えていた。
 そういう時代に、長らく雌伏していた楠木正行は、世に出でた。

 1347年、菊水の旗は再び戦場に翻った。楠木正成の遺児である正行が、弟の正時や楠木正季(正成の弟)の子の和田賢秀(にぎたかたひで/けんしゅう、正行の従兄弟)ら一族郎党五百余名とともに挙兵したのだ。
 正行はたびたび住吉や天王寺あたりに進出し、幕府からの討手三千余名を藤井寺にて破り、また、二ヶ月後にはさらなる討手六千余名を瓜生野(うりゅうの)にて破った。その際、浮き足立った敵の後陣を渡辺(現天満橋付近)に追い落としたのだが、正行はその川に流された兵を五百名ほど引き上げ、傷の手当をし、敵陣へ送り返そうとした。
 助けられた兵は感動し、そのまま楠木勢に身を投じ、のちの四條畷にて正行と命運をともにした。


 楠木正行之墓は、四條畷神社の参道の突き当たりにある。というより、橿原神宮や南朝関係の神社などは、明治に入って急速に整備されたであろうから、正行の墓のぴったり正面の麓に四條畷神社を創設したのかもしれない。
 墓の隣の大楠の根元には、小さな石が半ば埋もれている。
 正行が戦死して百年余りのち、石碑のわきに二本の楠を植えた者がいた。この楠がやがて生長し、ふたつがひとつに合わさり、さらには間にあった石をも合わせたそうだ。
 どこかしら素敵な挿話に出会ったときは、素敵な景色に出会ったときと同じくらい、心地よい。

 諸国のかり集めの軍勢では楠木を止められぬ、と見た幕府は、執事の高師直・師泰自ら総勢八万名を率いて、淀に集結させた。
 それを聞いて楠木正行は、吉野の後村上天皇のもとに参内した。

 「このたびは、師直、師泰に戦いを挑み、身命を投げ打ち合戦いたしますれば、彼らの首を私が手にするか、私の首を彼らが手にするかのいずれかで勝敗がつくことでしょう。ですから、この世で主上のご尊顔を拝するために参内したのでございます」

 「汝は、先の二度のいくさに勝ちをおさめた。朝敵に対する朕の怒りを鎮めたのは、父以来続く手柄であり、まことに感心である。大軍が総力を挙げて向かってくるというから、今度のいくさが天下の分け目となるであろう。良将は、好機を見逃さず進み、潮時をつかんで退くという。朕は、汝を股肱の臣と思う。どうか、命をおろそかにしないでほしい」

 直々の言葉に感激した正行は退出し、一族郎党のうち同じところで死のうと誓い合った者たちで先帝後醍醐の御廟に詣で、如意輪堂の壁に名を書き連ねた。

 返らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる

 梓弓で射た矢が戻らぬようにわれらも再びこの地に戻ることはあるまいから、ここに名を記してゆくのだ――辞世の和歌も添えて。


 和田賢秀之墓は、楠木正行の従兄弟で、楠木一族の中でも武勇に優れていた和田賢秀(にぎたかたひで/けんしゅう)の墓。正行の墓から、北東600mの場所にある。
 この時代は、ともに育った武家の兄弟は、ともに戦い運命を共にすることも多かったようだ。
 西国で復活を遂げ京に幕府をひらいた足利尊氏・直義(観応の擾乱を除く)、足利家の執事の高師直・師泰、湊川で自害した楠木正成・正季、四条畷で自害した楠木正行・正時。
 楠木正行と和田賢秀は、それぞれの父と同じように、同じ戦場で死んだ。

 年明けて1348年、高師直・師泰の率いる大軍勢は京を発ち、河内の北の飯盛山から生駒にかけて陣した。
 吉野勢は、四条隆資が泉州・紀州の野伏せりを率いて飯盛山の付近の峰に攻撃をしかけ、その隙に楠木一党が三千名が率いて四条畷の高師直・師泰の陣を目指して前進した。楠木勢の先陣五百名は、菊水の旗をおし立て、一直線にためらわず進んだが、峰々に布陣していたの敵勢に殺到され、ズタズタに分断された。正行は混戦のさなかに矢傷を負い、正時と刺し違えて死んだ。
 この日の合戦で、楠木・和田の兄弟四名、一族二十三名、郎党百四十三名が、その誓ったとおりに、戦死を遂げた。

 吉野朝の希望を担った武将・楠木正行は、かくして初陣からわずか四ヵ月半で散ってしまった。
 もうとどめる者はいなかった。高師直は余勢を駆って吉野に侵入し、皇居や寺社などを焼き払った。
 後村上天皇は賀名生(あのう)へ逃れ、再び忍従の日々を送ることとなった。


 3/29に湊川の戦いの兵力を算出したように、四条畷の戦いについてもやってみたい。
 ここの資料によると、関が原の合戦時(1600年)の人口が1,227万人、鎌倉開府時(1192年)の人口が682万人。1336年当時は、おそらく700万人ちょい。
 安土桃山時代の太閤検地(石高の資料)では、全国で1,850万石ちょい。1万石あたり250~300名の兵を出せた。
 人口比が半分強(1.75:1≒57%→0.57)だから、米の獲れ高も同比率(57%)とみなし、兵の換算式だけそのまま使う。(もっともこのやり方は、地域ごとの人口分布の変化を無視している)

 慶長当時の全国の潜在動員兵力は、
 1800×250=450,000   45万名を、全国で分け合ったことになる。
 建武前後の全国の潜在動員兵力は、
 1800×0.57×250=256,500   25万名を、全国で分け合ったことになる。

 ただし、潜在動員兵力を、同時にすべて動員することは、考えられない。
 例えば、文禄の役では16万名、慶長の役では14万名を半島に送り込んだ。平均して15万名。
 兵糧調達、後方確保、民力の維持などの理由があって、全国規模で見た場合、三分の一の動員になったと思われる。
 戦国時代も、ひとつの大名が毎年毎季節に大動員をかけ続ける、ということはなく、どこかに戦いがあれば必ずどこかが休止状態にあったから、民力がもったのだろう。

 建武ののちの正平年間(四条畷の戦いは、正平3年)にこの三分の一の法則を適用すると、
 250,000÷3=83,333   8万3千名が、全国の潜在動員兵力のうち、一ときに動かせた。
 
 まさに、四条畷の戦い―――幕府勢8万vs吉野勢3千―――と符合する!

 ちなみに、8万という兵力は、河内・大和以南を除く近畿、中国、四国あたりに濃尾を加えたら、充分可能だ。3千という兵力は…僻地にしがみついた政権にしては妥当か。
 四条畷の戦いにおける太平記の兵力の記述は、湊川の戦いと異なり、かなり実際に近かったのではないかと思われる。

 話は変わって、小楠公こと楠木正行は、私個人としては楠木正成ほど好きではない。
 天皇の諭しがあったのにもかかわらず、少し、死に急ぎすぎたように思うのだ。
 おかげで、正成の三男・正儀(まさのり)は、南朝のために南北朝の和解を道を探すべく、四十年にわたり苦労する。(目的のため、一時は北朝に帰参したことも)
 のちに正儀の子孫が播磨の平木にたどり着き、平木氏を称した―――という説もある。
 播磨の平木といえば、兵庫県加東市平木、ちょうど播州清水寺の南の麓の郷だ。
 相方の情報によると、加東市に楠木氏の後裔の森南(もりなみ)姓の家があるという。

 おすすめスポット タグ 太平記 上赤坂城 建水分神社 櫻井駅 飯盛山城 楠公寺 四條畷神社 楠木正行之墓 和田賢秀之墓

 走行距離139.9km(うち、高速道路67km) 燃費計15.0km/l


 20.4.5(土)



 逆らいながら 奪われて…

  流されながら 見失う。

 誰もが その戸惑いの中から学ぶのだ。

  ああ、本当の私に帰っていきます。


   (大分むぎ焼酎 二階堂 2006年「未知の力」篇より)


 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 いつの間にか、大分むぎ焼酎 二階堂のCMが新しいのに替わってた。H19.8/30参照。
 昨夏に比べ、ユーチューブで見られるCMが増えている。

 1987年「自然」篇
 1988年「水の旅」篇
 1989年「街の夢」篇
 1990年「刻のオブジェ」篇
 1991年「森のオルガン」篇
 1992年「私の道」篇
 1993年「文士」篇
 1994年「風の棲む町」篇
 1995年「天文詩人」篇
 1996年「シネマグラス」篇
 1997年「木登り」篇
 1998年 「刻の迷路」篇
 1999年「旅人の車窓」篇
 2000年「風の海峡」篇
 2001年「雨宿り」篇
 2002年「父」篇
 2003年「遠い憧れ」篇
 2004年「詩人の島」篇
 2005年「砂丘の図書館」篇
 2006年「未知の力」篇
 2007年「文字のかけら」篇


 新しく入荷(?)したのは、
  「森のオルガン」篇:この歌の節は、おおたか静流? ヨリヨリ
  「木登り」篇:するする木登り。貌のすべてを映さないところが、心にくい。
  「遠い憧れ」篇:これぞ二階堂。王道。
  「詩人の島」篇:30秒でなく15秒なのが無念。。いつか30秒モノが出ることに期待。
  「文字のかけら」篇:二階堂も、ついにCGを使用!?

 何度でも言うけれども。
 二階堂さんにはぜひ、CM集のDVDを出して欲しいな。
 お金出す人、いるはずだから。私も出すよ。
Posted at 2008/03/19 20:55:21 | 日記

プロフィール

「加賀の従姉妹が旦那の実家への帰省中に被災してビニールハウスや小学校で過ごしていたこと、クルマで4日の晩に無事帰ってこられたことが、母経由で伝わってきた。ホッとした。

播州もいつ山崎断層が動くかと言われているので、わが家庭も備えをもっと見直さないといけない。」
何シテル?   01/08 16:46
当ページの内容の無断転載はやめてください。 主な内容は、燃費記録と おすすめスポット。 未掲載スポットが、500件超。ズーン 省燃費と航続距離に拘ってま...
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