
物を選ぶとき…たとえば、フライパンを選ぶときであったり、ペンを一本買うときでもよい、その時に全く無作為に商品を買う人は何人いるのだろうか?
少なくともニーズにあう形状、機能を有していて、こっちのほうが見た目が好みかな?いやでもこちらの方が丈夫そうだとか、ちょっと振ってみたり、書いてみたりして、納得する商品を選ぶのではないかと思う。
しかしながら、車や商品を選ぶとき、「よくわからないから」「みんなが選んでいるから」「嫁が言うから」「ショールームで見たから」という極めて曖昧な判断基準で商品を選んでいないだろうか。
300円の缶ビールを選ぶときですら真剣にラベルを熟読しどのような味かを吟味するのにもかかわらず、300万円をはるかに超える商品を、しっかり考えて選ばないというのは投資として正しいのだろうか。
定常性バイアスや集団心理、空気感に日本人が流されやすいのはわかっているが、「子供がいるからスライドドアのついたミニバンでなければ使い勝手が悪い」というのは本当なのか?みんなが選んでいるアクアやプリウスは運転しにくいことはないのか?カタログでスペック比較して選ぶだけで自分が求める運転フィール・体験は得られるのか?などなど
どれだけの人が考えたことはあるのだろうか。
「なんとなくみんながそういうからそうなんだろう」という思い込みをベースに話をしていないだろうか?
ボクは日本人でよかったと思うし、日本の文化、食、安全性、居住環境、雇用の安定性など、とても好きなところが多いが、なんとなくの雰囲気や感情論にながされやすい国民性がどうにも好きになれない。
その辺、「みんなと同じ」ことを強要していたり、「先生が言うことが絶対」であったりする教育の問題が大きいのではないかと個人的にはおもっている。
例えばもともと髪の毛が茶色い生徒に「黒に染めてこい」というのは「みんなと同じ」である事を強要している。(むしろ「髪の毛は染めてよいものである」という認識を子供に埋め込んでいるともいえるわけだけれどもね…。)この考え方の根本は「髪の毛は黒色が正常であり、それ以外は異常」ということでありそれを校則で取り締まっているだけ…すなわち誰かの中の「常識」(←個人的には万人共通の常識など存在しないとおもうので大嫌いな言葉)と「同じ」であるという事に価値を置いているといえる。
またもや話がとっ散らかり始めたのでこの話はこれくらいにしておくけれど、「みんなが選んでいる」というところや「みんながそういっている」という事に大きな価値を感じていて、商品がもつ価値の大半をそこに置いているならば、「同じ」を選ぶことはそれはそれで良い選択なのであろう。
だが、使用する環境において90%程度の確率で必要な場所に必要な人数が快適に楽しく移動でき、眺めれば自分の美意識が満たされ、運転すれば充足感や心地よさを感じられ、一人ドライブでエキサイトすることもでき、明日も頑張ろうと思える車と出会える可能性を、「みんなが」という価値だけで排除するのは勿体ないとボクは思う。
よく考えてみてほしい、6人以上乗れないと祖父母を乗せたときに困る…とか、子供がスライドドアじゃないと乗せおろしが困るし、ドアパンチしそそう…とか、そういう不安があるのはわかるが「かもしれない」なのである。
前者の不安は、年数回ジジババが遊びに来るのであれば、セカンドカーに分乗すればよいし、最悪レンタカーを借りれば解決する。
後者の不安は、スライドドアでなくても、愛車がハマーでもない限り、駐車の仕方に気を付ければ乗せおろしはできるし、子供には自分でドアを開けされなければよい。
すなわち「みんながいうこと」は確かに一理あるが、自分の価値観の中でそれが許せるのか許せないのかは別の話なのである。
なのであるからして、よく考えて体感せずに「みんなが」で意思を決定するのは、誤解を恐れずにいうならば、意思決定権を他人に譲渡していることに等しいと思うのだ。
人はリスクを大きく見積もりがちであるし「みんなが」が安心するのもわかる。
気持ちはわからなくいもないのだけれど…そういう他に合わせる生き方は苦しくないだろうか?
それを周りに強要していないだろうか?出る釘は打たれるという事は、周りに合わせることにストレスを感じている表れなのではないの?と感じてしまう。
車に興味がない?それは結構、趣味嗜好は人それぞれなので、それでいい。
でも、興味があろうがなかろうが、300万円以上もする商品を、自分の価値観とすり合わせずに買うのは投資として頂けない。
年収が一億円以上あって500万なんてはした金だよ、溝に捨てても痛くもかゆくもない、という人でなければ車は高価格商品であり、使用する時間軸すべてを考慮したうえで、最も価値があると思われる選択をするのが正しい購買行動だとボクは思う。
ボクは、そこまで興味がない商品であっても、自分がどこに価値を置くのか明確にして商品選びをしようと努力しているし、趣味性が少しでも挟まってくるならば、この商品を買ったらどんな幸せな生活ができそうなのか?を考えてモノを買うようにしている。
商品、車に触れて乗ってみて…ああ、この車に乗って、どこに行こう、何をしよう、どういう時に使おう…と空想し、
心風景に商品を重ねて、心に沸き立つものがあるならば、その商品はその人にとって購入する価値のあるものであるといえると信じている。
え?車は消耗品?物がたくさん載って乗れればいい?ならプロボックスのベースグレードでも買えばいいのでは?
安くて壊れないし物も人もたくさん載るし、オラつけば周りもよけてくれるし、最高の消耗品だとおもいますよ。
ボクは仕事以外では乗りたくないけれどw 物がのって走りゃいいっていうなら、物も人も中途半端にしかのらず、走らず、止まらず、衝突安全性も低くて、値段が糞高いミニバンを新車で買う意味はあるの?
そこにこだわりがあるなら、良いんだけれど…妥協点で金をだしてない??なんか腑に落ちない。
何となくとか嫁さんのご機嫌取りのために車を選んでおきながら、自己の正当性を補完するために、スポーツカーやセダンはあーじゃない、こうじゃない…と批判したり、僻みやストレス発散のために外車に絡んでみたり、走行中の妨害工作とかしていて阿保らしくないの???っておもう。
堂々と偉そうに、もしくは、ガンガンスピードに乗って走りたいなら、そういう車を買えばいいじゃないか。
だって「ミニバン売り上げNo1」といううたい文句は、あなたの人生にとって何の付加価値もないのだ。
Posted at 2019/07/26 21:56:26 | |
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