
もちろんこれを記している現時点で、我々は「日産GT-R」を知った後ということになるから、ここから振り返った場合には、かつて国産スポーツカーの性能をジャンプアップさせた大きな功績を持つR32スカイラインGT-Rもまた、単に速いだけの優れた機械ではなくなっている。現在の日産GT-Rを基準としてモノを語る場合、R32スカイラインGT-Rはむしろ、速いだけの優れた機械ではなくなり、そこにドライバーの介在する領域を持った味わいのある1台ということもできるだろう。
しかし当時、R32スカイラインGT-Rは現在の日産GT-Rのように、それまでのスポーツカーの常識を覆していた。例えば同じ年にマツダからユーノス・ロードスターが登場していることを考えれば、最もベーシックな部類に入るロードスターと比べると、R32スカイラインGT-Rはモンスターのようなマシンだったともいえる。そして僕を始め多くの人が、リアのスタビリティの低いFRのロードスターを操って楽しさ気持ち良さを覚えたり、それを操ろうとドラテクを磨いていた時、R32スカイラインGT-Rは普通に走らせても圧倒的にロードスターよりも速い上に、ある程度の領域までならば特別なことをせずとも当時としては信じられないほどの速さを生んでくれたわけだ。
僕はその部分が嫌だった。スカイラインGT-Rというのは人間の持つ能力を何十倍、何百倍にも高めてくれた上で、さらにある程度ドライバーの腕をカバーしてくれる部分もあった(もっとも今からすれば本当に速く走らせるにはそれなりの操作が求められたともいえるのだが)。僕はそうした点に違和感を覚えたのだ。つまり僕の中には、自動車というのはあくまでドライバーが主役であり、主役の操作によって速くも遅くもなるもの、という考えがあったわけだ(もっともそんなことを言うほど腕があったわけでもないのだけれど)。しかしある程度のところまでは、主役の操作に頼らずともスカイラインGT-Rは相応のパフォーマンスを提供してくれるわけで、これが当時の僕には相当の違和感だったわけだ。
例えばその後僕はサーキット走行会などにも参加するようになり、ビートやロードスターで一生懸命ドラテクを勉強し、何とかそれなりに走れるようになっていくのだけれど、そうして自分なりに苦労して積み上げた腕や速さなどは、スカイラインGT-Rに乗り換えれば涼しい顔でそれ以上の走りがこなせてしまうのだということを嫌というほど教えられた。もちろんそこにはスカイラインGT-Rを買えないからこそのコンプレックスがあったことは間違いないし、クルマの速さと運転の上手さという本来比較することができないものを勝手に比べていたのだともいえる。つまり今思えばそれは、買えないし乗りこなせないからこそのヒガミでもあったわけだ。ただ当時の気分としては「見事だな。しかし小僧、自分の力で勝ったのではないぞ。そのモビルスーツの性能のおかげだということを忘れるな」という、知ってる人は知っているTVアニメのセリフと同じ感覚をドライビングにおいても持ちたいと思った(ってホント分かる人にしか分からない表現ですが)わけで、クルマの力に頼るでなく自身の腕で速くなりたい、という気持ちがあっただけに、余計にスカイラインGT-Rを嫌だと思っていたように思える。ま、ようは腕もなければスカイラインGT-Rを買うこともできなかった、ひとりの若者のかわいい心の叫びだったのだ。
しかし若い頃の想いはとても純粋で、その後の自分の自動車観に長らく影響を及ぼしたことは疑いようのない事実でもある。加えて当時、自分が触れて親しむことのできたビートやロードスターといったコンパクトなオープンスポーツは現代の目から見ても、スカイラインGT-Rにはないスポーツカーとしての価値が備わっていたのも事実。それこそが、ロードスターが後に謳う「人馬一体」という感覚。つまりクルマとドライバーとの対話性ともいえるもので、これはクルマの動力性能や速さとは無関係に存在する上に、クルマを走らせた時に感じる楽しさや気持ち良さに直結する、実に価値のあるものに出会ったのだった。
そしてこの頃から僕は仕事を本格的に始めるわけだが、この頃から自分の大好きなスポーツカー(の走り)において、最も価値があるものは人馬一体であり、クルマとの対話性であるという風に考えるようになった。そしてクルマとの対話性を究極的に味わうためには、クルマももちろんそうした要素を大切にするものが良く、それを操るドライバーのスキルも高くなければならない、と考えたのだった。
そしてその後、仕事ではスカイラインGT-Rに触れられるようになった。もちろんまだ、このクルマを操ることはできなかった。そうした自身の腕のなさは棚に上げつつ、僕は小型軽量な後輪駆動こそがクルマとの対話性が高いものである(という考え自体は今考えてみても間違ってはいないはずだ)と同時にスポーツカーとして高い価値を持つと認識し、大きく重く4輪駆動のスカイラインGT-Rは好きになれずにいた。しかも大きく重く4輪駆動なのに恐ろしく速いという常識を覆すような事実もまた好きになれない要因だった。
それからさらに時間が進み、スカイラインGT-RがR34にまで進化してもなお、僕は好きになれずにいた。今思うとR34スカイラインGT-Rは、4WDであるにも関わらず優れたステアリングフィールを持っていたし、ドライビングにおいても意のままに操れる感覚が相当に増した1台だったと思う。しかし当時はまだ僕に乗り切れるクルマでもなく、R32に比べればクルマとの対話性もより高まっていたにも関わらず、このクルマの主役はやはり「速さ」だったのも事実。よって僕はその部分に限りなく抵抗を示した。事実当時の僕が良く記していたのは「速さにはすぐに慣れ時間の経過とともに価値が薄れてゆくが、クルマとの対話性の高さとそこから感じる気持ち良さは永遠に価値が薄れることがない」ということ。今でもこれは間違っていない考え方だと思うが、当時はこれが、僕のスカイラインGT-Rに対するささやかな抵抗でもあったわけだ。もっともこの頃になるとスカイラインGT-Rは嫌いだったが、その性能の高さや実現する走りのレベルの高さに対してはしっかりと素晴らしいものだという風にも認識していた。といった具合で僕はスカイラインGT-Rを嫌いだと言い続けていたのだった。ようは嫌いのもとは、自分に対するコンプレックスが大きなものを占めていたのだ。
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GT-R論 | 日記
Posted at
2008/05/01 03:37:48