2011年3月11日、この日、我々日本人は改めて自然の恐怖を知ることになる。
私はその時、高層ビルの16階のオフィスで仕事をしていた。
午後2時46分ごろ、それは起きた。
「あれ、なんか揺れてない?」
ゆっくり、ゆっくりと横に揺れるのを感じた。
この時、気象庁から発せられる緊急地震速報を伝えるエリアメールは発信されなかった。
エリアメールは大きな地震が起きなければ、発信されることが無い。
そのことが、我々を油断させた。
(後で分かったことだが、本来であればこの地震によるエリアメールは送られるはずだったが、設備故障により送られなかったようだ。)
しばらくすると、その揺れは徐々に激しさを増し、私は机にしがみついていなければ、自分の体を固定できないほどの揺れとなった。
その直後、ビル外への避難を促す館内放送が流れた。
これはただごとではないと思い、慌てて非常階段に向かった。
大勢の人間が一斉に階段を駆け下りた。
階段を下りている最中も、その揺れはおさまることを知らない。
出口に近づくにつれ、人の多さは増し、なかなか外に出ることが出来ない。
ようやく、ビルの外に出ることが出来た。
いったい、何が・・・
かつてない規模の地震に戸惑いはかくせない。
しかしながら、ビルが倒壊したわけでもなく、付近の車はいつも通りに走っている。
また、これまでの地震と同様、その被害はたいしたことはないだろうという思い込みが、
逆に平静を保たせてくれた。
しかしながら、尋常ではないその揺れに、都内の会社に勤める妻と、同じく都内に住む実家の両親が心配になり、まず、実家に居る両親に電話してみた。
ところが、携帯電話は一切使えなくなってしまっていた。。。
仕方ない。
まずは今何が起きているのか。それを知ることが大切だ。
私は携帯のワンセグ機能を使い、テレビからその情報を得た。
震源地は東北地方太平洋沖、震度7を観測する地震が起きたようだ。
テレビを見ていると、近辺の航空映像の中にお台場周辺で火災が発生しているのが見受けられた。
建物の損壊は見られない。
ビル周辺にはビル内で仕事をしていた人々で溢れかえっていた。
さて、いったいいつになったら、再びビルの中に入れるのだろうか?
しかし、こういう時の判断は難しい。
もしも、再び、同様あるいはそれ以上の地震に見舞われたら、それこそ大惨事だ。
あ!?
再び強い揺れを感じた。
ビルの一階ロビーにいた人々は慌てて外に出る。
また、ビルの近くにいた人々はそこから慌てて離れる。
ビルの上の方の窓ガラスを見ていると、僅かに波打つように揺れているのが分かる。
今、このビルが崩れてきたら確実に死ぬな。
その高いビルを下から眺めながら私はそう思った。
愚かしいことだが、そこまでの地震はそうそう来ることは無いだろうと私はたかをくくっていたので、
そこに恐怖は無い。
しばらくして、完全におさまったような感じがしたのと、外の寒さにトイレに行きたくなったので、ビルの一階にあるトイレに行き用をたし、一階ロビーで待機していた。
ややもすると、館内放送が流れ、安全の確認が取れた為、ビル内に戻る許可が出た。
但し、エレベーターは使用不可。
16階までの道のりを、非常階段を使って上ることにする。
階段を上っていると、高層階へ行くにつれ、壁のひび割れと壁のごく一部に崩れが見られた。
その地震の凄さを物語っている。
また、いつもの職場に戻ってきた。
中には16階までの階段の道のりに息切れしてる人も居る。(笑)
「ここまで揺れたのはたぶん生まれて初めてだと思う。」
それもそのはずだ。
この“東北地方太平洋沖地震”と名付けられた地震は、観測史上初のマグニチュード9.0もの地震。
誰もが予期しえなかったことだった。
妻はどうしたであろうか?
携帯電話は相変わらず使い物にならない。
私は妻の勤務先のメールアドレスを知っていたので、メールを出してみようと思った。
が、受信トレイには一足先に私の安否を気遣う妻からのメールが届いていた。
私は自分の妻が無事だったことに安心し、すぐに自分も無事だったことを伝えるメールを返信した。
次に気になったのは、実家に住む両親。
先にも述べたように、携帯電話が使い物にならない今、頼りは固定電話だ。
私は会社の電話から、実家への連絡を試みる。
それでも、なかなか繋がり難くなっている。
何度か掛けているうちに、ようやく実家の両親に繋がった。
どうやら無事なようだ。
家族が皆無事であることを知り、私はホッと一息をついた。
つづく
Posted at 2011/03/16 11:19:48 | |
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