愛車紹介が、なんだか自分の終活ノートみたいになってますが、ご容赦くださいませ。
ホンダバラード・セダン初代。
二代目シビックの姉妹車。
超マイナー激レア車です。
たしか、購入した車は、ヨーロッパなんちゃら特別仕様車で、外装はサイドストライプとエンブレムが追加され、内装はシートの背もたれに刺繍が施されていました。英国ブリティッシュレイランドとの提携記念のクルマだったかと思います。
私が見る限り、ベースのクルマ自体にヨーロッパの香りは皆無で、特別装備もさほど特別感やヨーロッパ感は演出されていなくて、100%ドメスティック・オッサングルマでした。
エンジンは1.5L SOHC CVCC 85ps。
トランスミッションはホンダマチック。Dじゃなくて、星印がドライブモード。
非力でしたが、普通に乗る分には必要十分でした。
あとは個人的な思い出話、備忘録です。お暇でしたらどうぞ…。
ウチのバラードは、1982年春、銀行員の父が海外駐在から6年ぶりに帰国し、家族の足として新車で購入したものです。
ホンダは海外でも評判良かったから、が購入理由だそうな。でも、なぜボディ色が茶色?
確か9年間、1991年に二代目パジェロを買うまでは保有していました。ティーンエイジのほとんどを共に過ごした事になります。
自分としては1989年に運転免許を取って初めて運転した車で、記念すべき、愛車遍歴の始まりの車です。
レンタルレコード友&愛で借りてカセットにダビングしたサザンや山下達郎を聴きながら、三浦半島から茅ヶ崎界隈で運転の練習をしました。
父がメンテナンスをまるでしないので、自分でオイル交換やら錆びたマフラー交換したり、洗車したり、ほぼマイカー状態でした。
時代は前後しますが、1983年、中学一年の1年間は学校の寮に住んでいたのですが、運動会で親が遠路はるばる学校までバラードでやってくることがありました。
周りはセレブが多く、外車でやってくる親が多い中、ウチは国産バラード…。だいたいなんで茶色?ダサくて、貧乏くさくて、ちょっと恥ずかしい気持ちになりました。「北の国から」で、初めてボロ小屋を見たジュンのような。
何かと人と比べて羨んだり、人目を気にするお年頃だし、ブランドで趣味の良さをひけらかす、そういう時代でしたね。今もたいして変わらんか。
クルマを所有するだけでもすごい事だし、寮に入れてもらって、わざわざ遠くから来てもらっていながら、そんなことを思った昔の自分を叱りたい。こんの、馬鹿タレ、親不孝モンがぁ〜(金八風に)
ついでに金八の名言ググりました。
「私達は死ぬために生きているんじゃない。
私達はこの世の中に生まれてきたのは、生きるためです。
私たちが生まれてきたのは、生きているだけで十分に値打ちがあるものとして、生まれてきたんです。」
良いこと言うなぁ。
ホンダバラードは、1983年にバラードスポーツCR-Xが出てきましたが、これは憧れました〜。欲しかった!タミヤのプラモデルを作って、360度舐め回して見て、悶々としていました。
しかし全く違うクルマなのに、本田もよくバラードの名前を与えましたね。
バラードは、バラードスポーツCR-X、(サイバースポーツ)CR-XからCR-Xデルソル、CR-Zへ、名と形を変え、シビック派生のセダンパッケージとしてはクイントインテグラ、コンチェルト、ドマーニに変わっていったのでしょうか。
ホンダとしての歴史的な価値はよくわかりませんが、個人的にはバラードから安全運転やメンテナンスを教わったこともあり、こんなオッサン車でも「生きているだけで十分に値打ちがあるものとして生まれてきた」と思えてなりません。
バラードとお別れして30年経ち、ひょんなことから、至高のオッサン車、メルセデスベンツCクラスセダン、黒、ベースグレードの220dに乗るようになりました。
これがきっかけで、私の愛車遍歴の原点、私の元祖オッサン車と、10代のホロニガエピソードがよみがえった訳ですが、ノスタルジックに浸ると、ようやくバラードが愛おしく思え、また感謝の気持ちが芽生えてきました。よく走ってくれました。多謝。
でも、生まれ変わってやり直すなら、やっぱりデュエットクルーザーかサイバースポーツ欲しい…。