「暗く怖い場所の追想」THEME-SONG
【
ここまでのあらすじ】
真夜中に鳴り響く、玄関のチャイム。
どうやら私は、ストーカーをやり過ごすことに失敗したらしい。
正体不明、神出鬼没のストーカー。
私はこの謎の女を「ユビキタス」と呼ぶことにした。
全く別の人物が訪ねて来たと思いたかったが、どう考えても無理があった。
こんな時間に予告もなく訪問を受けたことなど、それまでの人生で一度もなかったのだから。
玄関へと向かいながら、私は考えていた。
「刃物でも持たれていたら、無事では済まないかもな。」
女性としては間違いなく強い部類に属する腕力。
更にユビキタスには、私の予想を裏切る能力があるとしか思えない。
一瞬でも油断すれば、いや、油断せずとも命の保証は無いだろう。
「ままよ。」
覚悟を決めた私は、こう呟くとドアに手をかけた。
ドアの向こうには、予想どおりの人物が予想を超える態度で待っていた。
満面の笑みで、息を切らしながら。
そして、物騒な物を手にしていないか確認する間もなく言われた。
「やっぱりww車があったからwww」
第一声から痛いところを突かれ、返す言葉もない私。
「車があって在宅中だったら、お前は夜中でも人の家に押しかけるのか。」
こうも思ったが、声にならない。
鏡で自分の顔を見たら、たぶんツンデレ風に赤くなっていたと思う。
危険性に気付いていながら隠蔽を怠った、面倒くさがりな自分を呪った。
ここまで来て明かりを点けてしまった、詰めの甘い自分を呪った。
ユビキタスが続けて何か言うかと思ったが、その気配は無かった。
能面のように張り付いた笑顔を絶やさず、ひたすら息を切らすばかりだ。
階下のどこかで私の部屋の明かりを確認、大急ぎで向かってきたというところだろうか。
「ま、とりあえず上がろうか。」
耐え難い「間」に折れた私から提案する。
言ってから、溜め息がこぼれた。
数秒後、部屋には言いようのないシュールな絵が出現していた。
スペースが限られているから仕方が無いのだが、中央の万年床を挟むように、向き合って座る男女。
男の背後のTV画面では、マスターを失ったネットゲームのキャラクターがポリゴンの身体で立ち尽くしている。
「いいんです解ってるんです。駄目って解ってるんです。」
女は、途切れることなくこんな台詞を言い続ける。
部屋に上がるよう勧めた直後の、短い廊下から既に始まっていた。
対する男はと言えば、上下が不揃いなスウェット姿で、呆けたように固まっている。
後は寝るだけだと思っていたので気にせず組み合わせたが、人に見られると分かっていれば流石にしない格好だった。
自称デリケートな私からは、この時点で中央の空間を使ってどうこうという選択肢は消えていた。
いや、もともと無かったが。
「チョコを受け取ってからそうすることでしか収拾が付かないのであれば、あるいは。」
こんな覚悟だけはしていた。
ところがどうだろう。
ユビキタスの奴と来たら、手ぶらなのである。
いや、やたらと気合いの入った品を持って来られても、それはそれで困るのだが。
それなら一体、こいつはここに何しに来たのだろう。
駄目と解っていながら夜中に突撃訪問し、躊躇なく上がり込み・・・・そして?
今なら何となく解るが、この時の私には全く理解出来なかった。
そして言葉を失っていた。
呆れて物も言えない、という状態に近かった気もするが、そればかりではなかった。
こんな場面で断る側に回った経験が無かったせいもあるかもしれないが、仮にあっても難しい状況だったと思っている。
なにしろこの相手の、見事に自己完結しているリフレインには僅かの切れ目も無かったのだから。
それでもやがて、この場から逃れたいという気持ちが勝る。
正直、タイミングは計りかねたが。
「うん・・。じゃあ明日もあるし、そろそろ帰った方がいいよ。」
なんとかこれだけ口にすると、穏やかに、それでいて有無を言わさぬ雰囲気でユビキタスを玄関に案内する。
幸い、抵抗せずに従ってくれた。
ひとしきり言いたいことを言って気分が晴れたのだろうか。
ドアが閉まる直前まで、一般的な別れの挨拶か何かを口にしていた。
来た時と少しも変わらない、凍り付いたような笑顔で。
部屋に戻った私を、猛烈な疲れが襲う。
「さすがに今夜は、もうゲームをする気にはなれない。」
こう思った私は、すぐに明かりを消すと布団に入った。
これで全てが終わり、平穏な日々が戻ってくれるよう祈りながら。
それから数日間は、ユビキタスに遭わなかったと記憶している。
遭わない日がないほどに遭遇率の上がっていた社内で、それがピタリと止んだのだ。
もともと一部を除き、同じフロアの人間以外とは顔を合わせる機会の少ない会社だった。
そういった意味では正常に戻っただけなのだが。
劇的な変化に感動した私は、この平和が続くことを願った。
しかし事態は、ある日を境に急変する。
私は朝が苦手である。
そんな苦手な朝に、どうでもいい会話をするのも苦手である。
それを避けるため、私は一部の上司がやっていたように、多くの社員が利用する駅とは異なる駅で降りていた。
会社はその2つの駅のほぼ中間にあったが、私の使う駅からはやや遠く、その場合は裏門から職場にアプローチすることになった。
そんなある朝の出勤時のことである。
細い路地を抜け、会社の裏門に面する道路に出ようかというタイミングでそれは起こった。
ある人物が私の眼前で路地の出口を横切り、裏門から会社の敷地に入って行く。
数日ぶりに見る、ユビキタスだった。
後から敷地に入った私だが、彼女が自転車を置き場に駐めているところに追いついてしまう。
置き場はビルの裏口に向かう経路にあるため、脇を通過しないわけにはいかないのだ。
とは言え、こちらに気付いている様子もなく、たまたまタイミングが合っただけにも見える。
「おはよう。」
偶然ならば無視するのも不自然だと思った私は、背中を向けている彼女に向かって声をかけた。
振り向いたユビキタスは、ただ事では無い喜び方で挨拶を返して来た。
私は咄嗟に、何年も前に別れた恋人の仕草を模倣してしまった。
何事も無かったように振る舞いながらも微かに困ったような笑顔を浮かべ、2人の間には一定の距離があることをアピール。
あの仕草のおかげで、私はその後ストーカーにならずに済んだ気がする。
だがあの仕草のおかげで、その時まだ引きずっていたのではなかったか。
翌日から毎朝、同じタイミングでユビキタスとニアミスするようになった。
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