1639年(
寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(寛永7年)
日米和親条約締結までの期間200年を「
鎖国」 と呼ぶ
1853年(嘉永6)年7月8日(太陰暦6月3日)ペリー艦隊(米国)4隻は浦賀に入港した
翌1854年(嘉永7)年2月13日(太陰暦1月16日)ペリー再び来航7隻~9隻乗組員2000人
日米和親条約締結
大日本帝国陸軍 × 大日本帝国海軍 (空軍はない)
1871年(明治4年創設) 1872年(明治5年創設)
陸軍においては陸軍大臣(陸相)・参謀総長(総長)・教育総監(総監)
が天皇を除く最高位にあり、海軍においては軍政を掌握する海軍大臣(海相)と
軍令を掌握する軍令部総長の二人が最高位となっていました。
日清戦争 1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日
日清戦争(1894年-1895年)においては、戦争準備や軍備増強のための費用、兵士の給与、装備品、弾薬、軍艦の建造などを国内予算と借金や国債の発行によって賄い、個人や企業からの寄付金も活用された。開戦時の日本のGDP(当時はGNP)は13.4億円であり、日清戦争の戦費は、2億3,340万円(現在の価値に換算して約2兆3,340億円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した。(日本戦略研究フォーラム)より引用
日露戦争 1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月
日露戦争(1904年-1905年)の戦費総額は、日本政府の一般・特別会計によると18億2,629万円とされている。このうち、14億7,329万円は国債で補われた。つまり 日露戦争の費用の4分の3は借金によって補われたことになる。開戦当事のGDPは約30億円であり、日露戦争の戦費を現在の価値に換算すると約2兆6,000億円程度とされる。当時の日本の財政を考慮すれば非常に重い負担となっており、政府は所得税等を上げ、タバコ(1904年)・塩(1905年)を専売制にして歳入増加を図っていた。
大日本帝国海軍 大日本帝国陸軍
ハワイでのクーデターに際して ウィキペディアより引用
明治26年(1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した 女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜したといわれる また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。
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大東亜戦争 1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日
大東亜戦争は、上記2つの戦争とはけた違いの戦争だった。日中戦争開戦時のGDPは228億円であり、大東亜戦争(日中戦争を含む)における名目上の戦費総額(一般会計と特別会計)は約7,600億円となっている。日本が太平洋戦争に費やした戦費は、国家予算の約280倍で、現代の通貨価値に置き換えれば、4,400兆円という巨大な数値となる。戦時中の日本では、国民の生活は窮乏し、物資が不足したため、砂糖、マッチ、木炭、米穀などが切符制、配給制となり、塩や味噌、醤油、衣類などあらゆる生活物資が点数切符による総合配給制となった。学生や女性は工員として軍需工場で生産に当たるなど国家総力戦となった。
日本海軍零式艦上戦闘機(零戦)1936年~三菱重工業開発
日本陸軍一式戦「隼」1937年(昭和12年)12月~中島飛行機開発(現SUBARU )
↑大日本帝国海軍 大行進 軍艦行進曲
↑大日本帝国海軍(いじめのルーツ?)
↑日本陸軍 点呼
山本五十六は生きていたより引用
↑ 日本海軍1918年~1921年、
横須賀鎮守府付、
英仏留学
↑
日本海軍
指揮官は愛知県出身(1997年に81歳で死去)
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A級戦犯
殉国七士墓より引用
大日本帝国陸軍 東條英機
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍
大日本帝国陸軍
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Posted at
2023/09/13 13:11:10