
定例の聖地訪問。いつもながらいろいろ見聞き&お宝を仕入れる。中でも新館長(名誉館長)のご挨拶とトークショーに感銘も・・・。
R30までミスター・スカイラインこと故)櫻井眞一郎氏が前面に出ていたが、1986年、7thスカイライン(R31)以降、その師である櫻井さんの教えに応えて、以降の製品(R31の2ドア以降)を商品化。中でも16年振りに復活させた
スカイラインGT-R(R32)は、1989年以降、魅力的なクルマを登場させる日本の自動車産業(自動車業界)のきっかけにもなった、その功績は大きいと思う。
いつかの
書籍も・・・あらためて見ておきたい。
何よりもお会いして、落ち着いた物腰と優しいお言葉には親近感。
中でも「コストを度外視してでも、いいもの(いいクルマ)を造ろう!」と言った、R32 GT-Rの陣頭指揮をとったことは、熱いクルマから想像できないお人柄には敬服してしまいます。現役時代にもし会っていれば自分も違った人生もあった??かも知れない、お人柄に感銘した日でした。
↓聖地訪問でその氏の愛車を発見(ちなみに友人にも愛車スカイラインに名前つけていた輩がいた、笑)。
↓1995年、モデル最終型(最終在庫)との話題も聞いて、自分も欲しい感(汗)。
--------wikiより---------
伊藤修令(いとうながのり)氏
「1959年(昭和34年)広島大学工学部機械工学科卒業。同年4月、プリンス自動車の前身の富士精密工業に入社。
シャーシ設計を主にスカイライン(ALSID II型~S50型系)を担当。日産自動車との合併後も、スカイライン、ローレル、レパード(F30型)の開発に参画。1982年(昭和57年)1月からはプレーリー(主管)、マーチK10型(主管)などの開発を担当。
1984年(昭和59年)には、スカイラインの初代から開発に携わり、2代目からスカイラインの開発主管を一貫して務めていた桜井眞一郎が病に倒れて入院した事により、旧・プリンス時代からの桜井の後輩で一番弟子であり共に車両開発に携わっていた伊藤が、急遽、他車種の開発主管から異動してスカイラインの開発主管を桜井から引き継ぐ事となる。
しかし、伊藤がスカイラインの開発主管として桜井から引き継いだ時は、次期型として開発中であった7代目(R31型・7th(セブンス))は前任の開発主管の桜井の下で車両開発がほぼ終盤を迎えていた状態であり、伊藤が実際に7代目(R31型・7th(セブンス))の開発主管として携わった仕事は、運輸省(当時)(現・国土交通省)に認証登録の申請をしただけであったという。
1985年(昭和60年)8月、スカイラインは7代目(R31型・7th(セブンス))にフルモデルチェンジされて発売されたものの、歴代のスカイラインユーザーやスカイラインファンや自動車評論家などの各界から不評を買ってしまう結果となってしまう。だが、実際、7代目(R31型・7th(セブンス))は前任の開発主管であった桜井の下で車両開発されており、伊藤が7代目(R31型・7th(セブンス))の車両開発に直接携っていないにもかかわらず、7代目(R31型・7th(セブンス))の新車発表時のスカイラインの開発主管として、各界から7代目(R31型・7th(セブンス))に対する不評を聞き入れた悔しさを挽回すべく、次期型となる8代目(R32型)の開発主管も伊藤が引き続き担当して車両開発の初期段階から直接携わった。
1989年(平成元年)5月、スカイラインは8代目(R32型)にフルモデルチェンジされて発売され、一般価格帯のGTSグレードをはじめとするスカイライン全般のスポーツイメージを高めて、新車発表から3ヵ月後の8月に追加発売されたGT-Rを16年ぶりに復活させて好評を得た後、オーテックジャパンに出向して常務取締役、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナルのテクニカルアドバイザーを歴任し、現在では、オーテックジャパンの顧問、長野県岡谷市の自動車博物館のプリンス&スカイラインミュージアムの顧問に就任している。
以上、画像も含め、あくまでも個人のメモ(備忘録)として記載いたします。
Posted at 2013/04/29 21:02:43 | |
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