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2026年01月15日 イイね!

パンダ使用感

パンダは普段使いで運転しています。
自転車積んでカーサイクリングにも活躍しています。2台積み、2人で十分対応できます。
同クラス国産車と比べると電気、電子仕掛けはかなり貧弱?です。ボトム車なので初代パンダから徹底したコストダウンを引き継いるのでしょうか?それでも日本仕様はフル装備なのでしょうけど...
1.イグニッションキー:OFFとACCの2ポジションのみ。
2.ライト:オン、オフのみでスモールライト位置無し
3.バックミラー:手動折りたたみ 電動作動無し
4.ワイパー:間欠、通常、高速の3ポジションのみ 無段階調整なし
5.エアコン:手動のみ オートなし
6.パワーウインドウ:前部座席のみ 後部は回しハンドル手動操作
上記仕様では一般ユーザーから敬遠されてしまうでしょう。まぁ設計思想を理解して慣れてしまえば特に不便は感じません。前車2代目プリウスは電気、電子仕掛けてんこ盛りだけど使い方が分からなくて、各種機能使い熟せませんでした。

優れた部分
1.制動装置:制動力は十分で、ペダル踏み力により制動状態が把握できるE46M3に似た感覚です。2代目プリウスはスポンジブレーキで、リアブレーキはドラムだし...日本は概ね低速走行で理解はできますが、目立たない箇所でコストダウンを図るトヨタ戦略です。
2.発進加速:小排気量エンジンでしかも2気筒なので非力と想像してしまいます。信号待ちからの発進加速は良好で、ターボ効果なのか容易に交通の流れに乗ることができます。
3.走行装置:通常はFFですが、車速センサー、ハンドル角エンコーダ、アクセルアクチュエタ等の信号から自動的に4WDへ切り替えます。プログラミングは、どの様なイベントで4WDに切り替わるか不明ですが、都内&高速走行で切り替わることはほとんどないです。切り替わった場合ビープ音で知らせます。(たまに鳴るのでそう思います)同時期同クラスの国産車は、全て機械式ビスカスカップリングでした。電子制御オンデマンド4WDを100%良しとはしませんが、予知で切り替わるので採用したのでしょう。好感が持てます。
4.懸架装置:路面状態が把握し易い。好みによると思いますがプリウスより足回り、車体剛性もしっかりしていると思います。パンダ4X4と方向性が異なりますが、プリウスはフワフワして地路面状況が把握し難いと思います。

100%使い勝手が良好だとは言いませんが、お客様神様で色々な装置てんこ盛りにして至れり尽くせりの国産車より、使い方を特定して不必要と判断した個所をスッパと断捨離し、必要な個所は妥協しないコンセプトは気持ちが良いと思います。設計思想が明快で、納得できる人には良い車と思います。
使い古しの毛布が自転車の緩衝材です。
Posted at 2025/03/05 13:38:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2025年12月18日 イイね!

Era Biturbo terza parte

パート3
イヴァルディさん:もちろん、顧客の期待は非常に高かったが、何よりもマゼラティがこれまでに経験したことのないほど幅広く多様な顧客リストがあった。これは商業的な観点からは大きな利点となるだろう。しかし別の観点からは大きな問題でもあった。
顧客の一部は、自動車の観点からは依然として複雑なメカニズムを持ち、部分的に繊細で、確かに注意深い配慮と有能なワークショップでの専門的なメンテナンスを必要とするスーパーカーの取り扱いに慣れていなかったため、残念ながらデトマーゾはマゼラティの販売ネットワークを期待し、ほぼすべてのイタリア全州に広めるために従来のマゼラティディーラーに加えて、マゼラティのメンテナンスをインノチェンティディーラーに委託することを決定した。
これにより確かにマゼラティネットワークは広まったが、ある時点では客観的に見て、一部のインノチェンティディーラーはスポーツカーの整備を扱うのに必要なスキルを持っていなかった。

越湖さん:1989年、いや、1987年にマゼラティは米国への輸出を停止しました。大きなトラブルがあり、ごく数台の販売で深刻なリコール(多分火災)と言っていました。また米国の安全基準を満たしていなかったのです。そのため、1980年代後半に米国への輸出は停止されました。その一方で日本は、経済が好調な時期もありました。また日本人は小型車、ツインターボ車が非常に好きで、ツインターボで高出力、豪華な内装は日本市場にとても好評でした。そのため、1980年代後半から1990年、1991年にかけては、全世界よりも日本でマゼラティが多数販売されました。そのたびに輸入元の社長がアレハンドロ デトマーゾの隣に座っていました。そうです!そのため日本には、今でも多くのビトゥルボ愛好家が存在しています。そしてギブリGT、ギブリ2もまだまだたくさん日本に存在しています。また一部のマニアックな人が、初期ビトゥルボのキャブレターをレストアしています。 228とシャマルも。日本には沢山のシャマルが存在しています。

ベルガミー二さん:とにかくマセラティはずっと私の心の中にありました。特に2008年は。
私はずっと228のファンでした。当時モデナにいた頃、これらの車がラインを流れていくのを見ていたのを覚えているからです。
当時は2800ccの車がすべて生産されていたからです。228、カリフ、スパイダー、これらはすべてモデナで生産されていました。ミラノから完成したボディが運び込まれ、ラインに入り、各機械部が組み付けられ、テストと仕上げを経てディーラーへと出荷されました。
ですから昼休みに完成した車を見ることができたのです。工場で228を本当に大切に思っていた私は、2008年に自分でレストア、修理、整備したこの228を購入しました。今でも大きな満足感を持って所有しています。この車に乗るたびに当時の思い出が蘇り、良い思い出だと感じます。素晴らしい経験でした! だから私の心にはいつもトライデント(三叉槍)があり、もう何も言えません!それがすべてなのです。

越湖さん:多くの人がビトゥルボは世界最悪の車だと言っていますが...各部の部品がすぐに壊れて...私の意見ですが。ヨーロッパやアメリカで作られた古い車はどれも同じでした。
私はこれまでに何台か車を所有してきましたが、ビトゥルボと同じように壊れます。唯一の例外は日本製車なので、1980年代から1990年代にかけては日本製車がブームで、世界的に見ても非常に珍しい車でした。BMW、メルセデス、ポルシェなどは、故障が多すぎた時期もありました。これは私の個人的意見です。

ギドーニさん:ビトゥルボは、適切なメンテナンスと初期トラブルの解消さえあれば、信頼性の高い車であるため、歴史的な車とも言えるでしょう。自動車の分野において決定的な足跡を残した車として、レースや歴史的なパレードにも、もちろん参加できます。当初この車を考案した人は誰であれ、あまり目立たない車を望んでいたのでしょう。当時は赤い旅団(イタリアの極左テロ組織)が膝を打つような時代で、正面から見た第一印象はランチア デルタでしたが、実際に乗ってみるとマセラティブランドが足跡を残していることに気づきます。それは常にシャープな印象を与えます。

イヴァルディさん:ビトゥルボについては、様々なことが言われてきました。確かに当初はいくつかの問題を抱えていましたが、残念ながらある時点から誤解が真実に勝り、人々は容赦なく場合によっては、専門メディアでさえも過度に批判するようになりました。これは残念なことです。なぜなら今日のビトゥルボは正確な車であり、仕事で使う人や、この種の車の扱いに慣れていない人によって毎日酷使されていた当時と比べると、想像するほど繊細で信頼性の低い車ではないからです。
今日のビトゥルボは、コレクターや愛好家の手に渡り、大切に扱われ専門的で有能なメンテナンスを受けています。今日のビトゥルボは、良好な状態で機能していることが実証されています。新車時よりも優れた性能を発揮するのは、より敬意を持って扱われ、より丁寧に扱われ、その見返りとして良好な状態で機能しているからです。
今日、ビトゥルボは決して信頼性の低い車ではないと言えるでしょう。少なくとも、他の多くの現代のスポーツカーと比べて信頼性が劣るというわけではありません。実際今日では、80年代初頭の最初のオーナーが本来与えるべきだった丁寧な扱いと配慮が払われているのです。

越湖さん:それと重要なことが1つあります。アレハンドロ デトマーゾはチュバスコを発売したかったのです。ご存知のように、チュバスコはミッドマウントエンジンです。マルチェロ ガンディーニはとてもシャープで魅力的なデザインに仕上げましたが、生産されなかったのはなぜでしょうか。問題は価格でした。フェラーリF40に比べて価格が非常に高く、また当時米国市場がなく、欧州市場も非常に低迷していました。
そこでアレハンドロ デトマーゾは日本の輸入業者の社長にチュバスコを何台販売できるか尋ねましたが、社長は価格が高すぎるので販売は不可能だと言いました。多くの人がF40を購入しています...つまりアレハンドロ デトマーゾはチュバスコプロジェクトを中止したことになります。しかし残念ですが合理的な決断だったと思います。
チュバスコのエンジンは、ご存知のようにシャマルV8と同じでした。しかし当時としてはそれほど洗練されていませんでした。またチュバスコは古典的なバックボーンフレームを使用しており、米国の安全基準を満たすのが非常に困難でした。それで消えてしまったプロジェクトになりました。

ベルガミー二さん:これはデトマーゾ氏の構想で実現していたら、すばらしいプロジェクトでした。彼は8気筒が誕生したので12気筒エンジンを作りたかったのです。そうです!8気筒の後に12気筒エンジンを作りたいと考えていましたが、この12気筒は、アウトデルタで働いていた実力のあるジャンカルロ レベッキ氏に託されました。彼は、引退後モデナに住んでいました。引退後に彼はデトマーゾから3バルブから4バルブのヘッドを開発するために呼ばれました。彼はこのヘッドを設計し、最終的に12気筒のシリンダーの仕事を任されました。これは4つのヘッドが有ったため非常に短く、ボクサーヘッドが2つと、もう覚えていませんが60度か90度の2つで各バンクに3つのシリンダーがありました。それはNA3500ccでした。
すべてこの人物によって製図台上で設計され、すべて手で線引きされましたが、残念ながらそれは紙の上のプロジェクトのままで開発されることはありませんでした。残念ながらそのような進捗でした。確かに実現すれば、大成功を収めていたはずなので残念です。

越湖さん:私がマゼラティのオーナークラブを組織した理由。本当に単純な話で申し訳ないのですが30年ほど前、私は映画の仕事に携わっていて、よくイタリアに来ていました。当時、俳優であり映画プロデューサーでもある私の親友がマゼラティに夢中でした。彼は新車のビトゥルボやインディなど、素晴らしいマゼラティ グランツーリスモを所有していました。
正直に言うと、以前はマゼラティにそれほど興味がありませんでした。日本ではポルシェを何台か購入していましたが、友人がアレハンドロ デトマーゾを紹介してくれて、何度かお会いしたのですが、彼はとても変わっていてとてもユニークな人でした。こんな人に出会ったのは初めてでした。最初は少し怖かったのですが、次第に彼に共感するようになりました。理由は分かりません。デトマーゾ氏が「マセラティを持っているの?」と尋ねてきたのを覚えています。結局、彼に「はいビトゥルボを!」と返事をしました。それから数年後、彼は私に「日本でマゼラティのオーナーズクラブを組織してくれ」と言ってくれました。そして、彼の言う通り組織しました。なぜ私が徐々にマゼラティとデトマーゾのコミュニティに関わるようになったのかは分かりません。

ギドーニさん:デトマーゾ氏と出会ったのは、彼が外部のテクニカルオフィスを必要としていたからです。というのも製作中のプロトタイプを知られたくなかったからです。そのため彼はデトマーゾ社内にマゼラティのテクニカルオフィスを設立しました。
つまり私たちは別会社のオフィスで仕事をすることになり、そこでビトゥルボは基本的に誕生したのです。デトマーゾ氏との関係は、まさにデトマーゾ社のテクニカルオフィスで彼が様々な解決策についてミーティングに来た時に始まりました。
そこからある種特別な関係が生まれました。デトマーゾ氏とは家族的な付き合いは全く有りませんでしたが、彼は私を「息子」と呼んでくれました。愛情、絆、共感、そしておそらくは、ある状況下での私の彼への接し方によって、この関係が生まれたと思います。
私は何度か彼と試作車に乗りました。妻にも決して話さなかった、極秘の電話をしました。インノチェンティ社にも何度か行きましたが、いくつか小さな問題があったことは言わざるを得ません。
ワークショップを回っていると、彼はこう言っていました。「あいつ、旅団のあいつは赤い旅団の一員だ!あいつは病欠の電話をしてくる。だって、その時はテロ活動に行くのだから。」そしたら…まあ、そういう状況にいる彼は気難しかった。
彼はよくバッグをシステムの中に入れていて、バッグに手を入れるとすぐにピストルのグリップを握っていた。まあ、彼はいつもピストルを持ち歩いていたからね。モデナに一緒にいた時は、私はピストルを欲しくは無かったけど、彼は私にピストルを渡した。彼は私に『ヴァルター、息子よ、それを私のために預かるか、事務所に来い!』と言ってました。彼はそれを私の机の引き出しに入れて、歩き回ったんだ。
私は、彼とブルガリの会話にも何度か立ち会った。ブルガリが考慮した何か提案を言い出すと、まあそう激しくは無かったが責め立てるような口調もあった。その場にいるのが少し恥ずかしかった。そんな事も有りました。
私が何か提案すると、彼は『ダメだ!ヴァルター!それは直球過ぎる!』と言うんです。三、四日後には彼はやって来てこう言うのです。「ヴァルター、こんな考えがあるんだ。あれとこれをやらなきゃいけない。」それは私が予想していたことを思っていただけに、いつも彼がそう言って自身で提案しなければならなかったのです。
重要なのは、彼は決して他人の前で責任をなすりつけなかったということです。いつも全力を尽くして従業員を擁護しました。一対一ならうまくいきますが...他人の前ではいつも彼らを擁護しました。デトマーゾ氏については、私が恐れ多くてそう言う資格はありませが、彼は偉大な人物でした。
彼には良いアイデアがありましたし、批判されるかもしれないアイデアもありましたが、当時彼が率いたすべての会社で、仕事は完璧に熟していたと私は信じています。

アンドレアー二さん:デトマーゾとの関係はいつも少々物議を醸していました。彼は血気盛んな一方で、誰に対しても、そして私に対しても少し冷淡なところがありました。
特に暴力的だったり攻撃的だったりすることはありませんでしたが、心の底では私を愛してくれていて、いわば息子のように思ってくれていました。
面白い逸話があるのでお話ししたいと思います。彼はいつも早起きで、皆に電話をかけてきて、私にも...おそらくデトマーゾ社にいたのでしょうが、午前8時20分に電話をかけてきました。「どこにいる?」と。私が「あっ!…今から出社します」と答えると、彼は「かわいそうな『コッコ(甘やかされてる子供)』は遅く起きるんだな」と言って、私をそう呼び始めたのです。
つまり、ある意味友好的な関係だったと言えるでしょう。それから、彼は時々う~んちょっと...ちょっとやりすぎというか、ちょっと反省しないところがありました。
例えば、金曜日の午後、重要な仕事がなければ、特に冬の時期は霧などがあるので家に帰る、という取り決めを彼としていたのですが、彼は「はい、はい、わかった!問題ない」と言ってくれました。しかし金曜日の朝になると定期的に電話がかかってきて、「14時にそちらへ行くから待っててね。14時までには着くから」と言うのです。でも普段は15時半か16時頃に到着するのですが、その時にはもう霧が出ていました。これがちょっと不愉快な点のひとつでした。
彼はスタッフなどに少し嫉妬深い人でもありましたし...この時にも言ったようにそう言わざるを得ません。
喜んで1週間ほど一緒にヴァカンスを過ごしてもよかったと思います。だって彼の人への接し方、よく冗談を言うことなどきっと楽しい時間だったでしょうから。
でも、彼のことを少し解釈する必要があるのは明らかで、これが真実です。

越湖さん:それで、アレハンドロ デトマーゾには2つの顔がありました。とてもパワフルでとても強い人です。しかしその一方で、とても親切でとても洗練されている人でもあります。それはとても奇妙で、理解するのがとても難しいことです。
そのため、ほとんどすべての記事やメディアは、アレハンドロ デ トマソについて非常に独特で同じ考えを述べています。
1つお話をします。 1964年に1人の日本人の若者がモデナにやって来て、デトマーゾ社で働き始めたいと思っていましたが、何の約束もありませんでした。到着後すぐにその男は、本社に向かって長距離を歩いていました。いえ、いえ、当時それはとても小さなファクトリーで、それがデトマーゾ社でした。そして少年は「あなたと一緒に働きたい。いいスポーツカーを作りたい。あなたの元から始めたい」と言いました。それでアレハンドロ デトマーゾはすぐに「わかった!そうだ、君は直ぐに今から働いてくれ!」と言いました。それ以来アレハンドロ デトマーゾは彼をとても大事にしました。そしてその男はマゼラティ(多分オルシ経営の時)のメカニックとして働きます。そしてアレハンドロ デ トマソに感謝します。その後、彼はコーリン・チャップマンの元に行き、最終的にはロータスF1チームのチーフメカニックになりました。1972年と73年には、彼は非常に優秀な仕事をし、その際手紙や日記も書いていたそうです。アレハンドロ デトマーゾは私の父のようにとても親切で知識豊富な人です。
そう、この話は誰も知らないでしょう。
Posted at 2025/12/19 18:42:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2025年12月15日 イイね!

Era Biturbo seconda parte

パート2
イヴァルディさん:いずれにせよビトゥルボ中傷者に私たちはそれに沿ったデータを説明できます。その部分をマーカーフロップで示します。
多分知られていませんが、長年マゼラティベストセラーで有りました。
マーカーフロップとして商業的に1社でこんなに長年にわたり販売された車両は有りません。車両として出来が良くなければ、実質20年間に渡りラインナップされることは有りません。プロジェクトに有効な特性がなければ、長期間生産を続けることは不可能です。確かにマゼラティには、新しいものを設計するリソースがなかったかもしれないが、ビトゥルボとその派生モデルは20年間ラインナップに残り、好調な年もそうでない年もブランドを支え、とにかくビジネスの継続性を実現し、それが次の時代に引き継がれ、今日まで続いているのです。

アンドレアー二さん:プロポーション的には70年代の車としては当時の標準に比べてかなりワイドだったので今見ても良いプロポーションです。現在道路で見ると当時の車よりも幅が広く、4名の乗車が充分できる車高もそれほど低くない均整のとれた車です。
先ほども申し上げましたが、このプロジェクトは他に類を見ないユニークなプロジェクトだと思います。今日にこのような物語を再び実現するのは確かに難しいでしょう。このプロジェクトに参加できたことを嬉しく思います。

イヴァルディさん:ビトゥルボのデザインは、今日では角ばったラインのデザインで確かに時代遅れだと認識されていますが、80年代前半はそうではありませんでした。
70年代後半から80年代前半にかけては角ばったラインが流行していたからです。当時生産されていた他の車を考えてみれば、ビトゥルボのラインは、ちょっとした傑作と定義されるほどの均整と調和を備えていました。そしてこれは多くの人が知らないかもしれないデザイナーのおかげです。
彼の名前はピエランジェロ アンドレアー二で、当時マセラティのデザインセンターの責任者としてビトゥルボで素晴らしい仕事をしました。ビトゥルボが調和のとれたラインを持ち、均整のとれたデザインであったことは、それが何十年もの間生き残り​​、マルチェロ ガンディーニのような他のデザイナーが取り組んだときに、とにかくすばらしく良いものが生まれたという事実からも分かります。なぜなら、マルチェロ ガンディーニはビトゥルボを出発点として、ギブリ、シャマルや4代目クアトロポルテのような非常に魅力的で、非常にアグレッシブな車を作り出すことができたからです。
もう1つ言わなければならないことは、ビトゥルボが誕生した当時は極めて高性能な車だったということです。そのセグメントでは最速であり、実際フェラーリと対等に競争するために生まれたわけではないため、より上位セグメントの車よりも速かったのです。
ビトゥルボは、ポルシェ 924、アルファロメオ アルフェッタ GTV、BMW3シリーズ上位モデルが存在するセグメントに位置付けられていましたが、一部のフェラーリ モデルや一部のポルシェモデルなど、上位カテゴリーの車を驚愕させるほどの非常に高性能なマシンでした。
加速においては、それらはほとんど誰にも負けませんでした。ゼロから100まで驚異的な加速力を持っていました。本当に爽快な推進力のある3速を持っていました。つまり当時運転した人にかなりの満足感を与えた車であり、今日でも運転した人に満足感とアドレナリンを与えることができます。

ギドーニさん:最初の試作バージョンには外側に2つのキャリブレーターがあり、V 型エンジン中央にはパイプがあり、かなり熱くなりました。彼(デトマーゾ)が日本出張から帰国した際に、2つの小さなターボを持ってきましたが、以前にKKK製ギャレットを見ていたので特に驚きませんでした。これらはすべてはるかに大きな寸法でしたが、そこから新しいプロトタイプが作られ、キャリブレーターをボックスに収めて中央に配置し、2 つのターボを側面に配置しました。短い排気マニホールドでスロットルが即座に反応したためです。そこからさまざまなバージョンのビトゥルボ開発が続行されました。
1982年、アスカーリ氏とデトマーゾ氏の意見の不一致により、アスカーリ氏はデトマーゾの元を去り、ピエロ ラルディ(現フェラーリ副会長)の所に行きました。これはまだ機密扱いとなっているプロジェクトが漏れることを恐れて、私たちマネージャーは会社を異動することができなかったのです。その間、私はこの外部 (多分別会社)テクニカルオフィスの責任者に任命され、その標準ビトゥルボから、いくつかのプロトタイプを開発しました。いくつかの選手権で戦ったバルケッタ用に燃料供給が異なった、その後生産されなかった6バルブ、3つのインテークと3つのエキゾーストを備えた別のプロトタイプが開発されました。これがあらすじです。2800ccもデュアルイグニッションで製作しましたが、2つのイグニッション用ディストリビューターを調整するのに問題があり、そこから試作が生まれたり消滅していきました。

ベルガミー二さん:とにかく224Vの機械部品の設計を開始し、最初は5速その後6速になった新しいゲトラークのトランスミッションの導入を始めました。このプロジェクトで、ゲトラークのトランスミッションがシャマルに直接搭載され、その後ZFの工場在庫がなくなったため、全量産に拡大搭載されました。
とにかくこのような重要なプロジェクトに携わることは誇りであり、また設計者レベルで現場エンジニアはなく技術者は多くいましたが、経験を積むための視野を広げることができました。とにかくこのトランスミッションは実験部門のプロトタイプで開発されテストされ、最終的にシャマルに量産されました。ZFのギアボックスは1速レバー位置が後側にありました。しかしこれは1速レバー位置が前側で、リバースはさらにその左側前方にありました。
その後224Vに移行していくつかの改良を行いましたが、その後非常に重要なプロジェクトであるシャマル プロジェクトに移行し、打ち抜きプレス加工シェルからチューブラーサスペンションアームに移行してリアサスペンションを改良しました。
これは、当時テクニカルディレクターであったエンジニアのカリッリのアイデアでした。その後シャマルには搭載されなかったABSに備えてハブも変更されました。そこからギブリプロジェクトが生まれました。私たちの隣には、デトマーゾがメカニズムで絶対に何も変えたくなかった最初のシリーズであるギブリ93年型モデルもあります。その結果依然として、ツインターボの伝統と言えるこの古典的なサスペンションが搭載されており、ここでもサスペンションのこの部分は少々目新しく、少し新鮮だったと言えるこれらのリアチューブラーアームを挿入したいと思いましたが、彼の考えを変えることはできませんでした。
しかしサスペンションは改良されました。ショートタイプのステアリングボックスと改良されたステアリングリンケージが導入されたため、とにかくすべての機構にわずかな改良がもたらされました。とにかく93年型モデルギブリはABSなしで、とにかくこれらの特性なしで生まれました。306psの強力なエンジンを搭載していましたが、これも車両の路上走行を維持する為に一定のスキルが必要だったと言えます。
その後デトマーゾの病気で経営陣が変わり、フィアットが参入し、エンジニアのアルッアティ氏が参入したことでギブリは改良されましたが、このらすべての箇所で大幅な改善が見られました。フロントサスペンション全体的に作り直され、すべての箇所が変更されました。重要事項であったABSが導入され最終的にチューブラーアームを備えたリアサスペンションが導入されたため、メカニズムとロードホールディングのレベルで明らかに改善されました。

アンドレアー二さん:その状態では、すでに当初計画されていたクアトロポルテバージョンがありました。まず私が最初にやったことがルーフを取っ払った2ドアモデルで、どのショーかは覚えていませんが、発表したスパイダーを作るためのベースとしでストーラ社製の赤く塗装されたショーモデルでした。その後数年間ザガートはスパイダーを生産しましたが、ホイールベースが短い2シーターでした。
その後にデトマーゾが私に228プロジェクトを依頼しました。私はすでにモデナを去っていましたが、彼はそのために私を呼び戻しました。これはビトゥルボの特徴を取り入れながらも、より大きく快適な車でした。このプロジェクトにはクアトロポルテ版も含まれていました。これは4人乗りで快適なコンパクトカーとして誕生したものの、長距離旅行には不向きだったビトゥルボとは異なり、快適なセダンとなるはずでした。しかも39%という法外な付加価値税が課せられていました。エンジンは既に大型化されていましたが228は残念なことに少量生産でした。そのためクアトロポルテ版は残念ながら実現しませんでした。なぜなら非常に快適で、非常によくできた車だからです。その後デトマーゾがガンディーニに色々なバリエーションのデザインを依頼したため、別のバージョンから登場しました。
そしてデトマーゾがバリエーションを作るよう依頼したガンディーニがやって来まして、他のバージョンもデザインしました。その1つがシャマルと他のバージョン(多分222とか...)です。私は実質的にそれらが気に入ったというわけではありませんが、若干は好感が持てます。
ガンディーニがデザインしたクアトロポルテは、私にとってはマセラティの従来型から少し外れていました。まあそれは少し違うことをする試みでした。しかしこれは歴史であり、私は繰り返したくはありません。

ベルガミー二さん:ところで、このことについては常に何らかの見返りがあったとしましょう。クアトロポルテはフィアットのプロジェクトではなく、デトマーゾ氏がまだ指揮を執っていた頃からのデトマーゾによるプロジェクトでした。
ある夜、最終段階のシャーシが到着しましたが、それは単なるフレームで、テスト部門に置かれました。このシャーシは、誰にも見られないように金属板で囲まれており、鍵付きのドアがあり、数人の彼の取り巻きしか入れなかったので、私はそこには入れませんでした。ある日、私はデトマーゾ氏と一緒に入ることを許されました。デトマーゾ氏と数人の幹部がいて、エンジン部分についてはギドーニ氏が、冷たい機械部分(多分エンジン以外)についてはとにかく私が担当し、彼は私たちに従うべきガイドラインを少し教えてくれました。
そこでも私たちはデトマーゾ氏のところにギブリ93のすべてのメカニズム、つまり同じエンジン、同じサスペンションに戻しました。要するに何も変更せずに。このプロジェクトは、フィアットとの交代により中止されましたが結果としてギブリ94のすべてのメカニズムを備えたクアトロポルテが誕生しました。そのためリアサスペンションも格子状になり、新しいサスペンションパーツはギブリ94から持ち込まれました。これらの改良は、クアトロポルテ6気筒エンジンから8気筒エンジンの開発と進化につながりました。電子制御を備えたコニ製ショックアブソーバーは、最初のビトゥルボから考えると、94、95、96年の話です。最初のビトゥルボのメカニズムを考えると、品質の飛躍的な向上が期待できました。

ギドーニさん:いくつかのプロトタイプが作られ、そのいくつかはマセラティワンメイクレースに出場した車のように量産されました。別のプロトタイプは、当時としては極めて高い出力、つまり350、360 馬力の 6バルブで作られました。しかしこのワンメイクレースに参加するはずだった車がワンメイクレースが中断されたため熟成されませんでした。前述の3バルブは 1 つのエクゾーストと 2 つのインテークで構成されており、配分に大きな問題は発生しませんでした。ただし分割ダクト付きのインテークマニホールドでプロトタイプをテストしたときに問題が発生しました。短いダクトを使用した場合は即時反応でしたが、短いダクトから長いダクトに切り替えると、エンジンがパワーを失う瞬間があり、結果として期待した結果が得られませんでした。その後他の欠陥が見つかり、エンジンは排気量が標準2800 ccとデュアイグニッションに増加しました。デュアルイグニッションは、2つのディストリビューターを一緒に冷却することが難しいため、生産されませんでした。そのため、ウェーバーマレッリは問題が発生しないと保証しましたが、これも断念しなければなりませんでした。

イヴァルディさん:しかしながら、当初ビトゥルボは非常に大きな成功を収め、初期の顧客の中には最初期ロットの車にいくつかの問題を抱えて不満を抱いていた者もいたにもかかわらず、注文は大量に届き続けました。この状態は数年間続き、その後商業的には衰退しましたが、デトマーゾとマセラティの技術者たちはビトゥルボの進化と改良に絶え間なく取り組み、長年にわたり真に大きく改良されたことは言うまでもありません。ほぼすべての設計上の誤りが修正され、キャブレターの代わりに電子制御燃料噴射装置が採用され、インタークーラーが導入され、セットアップ機構が改善され、グリーソントルセン製の新型セルフロック式デファレンシャルが採用されました。つまり彼らは車の完成度を徹底的に追求したのです。また製造品質の面でも改善が見られ、1気筒あたり4バルブなどと、最終進化型まで本革や本木製ベニヤが使用されていましたが、商業レベルではこれらの提案では、ビトゥルボをデトマーゾが望んでいたトップセールスに再び戻すことはできませんでした。正直なところ、ビトゥルボの進化型は優秀な車で、製造面でも秀逸で、パフォーマンスも非常に優れているため、これらの車はトップに立つに値しました。

ベルガミー二さん:V8は、マセラティの歴史的エンジン設計者でもあったヴァルター ギドーニ氏によって作られ、V8はシャマルからクアトロポルテに移行し、3200GTクーペの開発に進み、上部も改良され、インテークマニホールドも改良されて成功を収めました。

ギドーニさん:その後24バルブが製作られ、24バルブヘッドが設計されました。これはそれより下部分はすべて従来のビトゥルボでした。
ヘッドは、アルファロメオで働いていた紳士、レベッキによって設計されました。彼は基本的なアルファスッドエンジンを設計し、F1エンジンではキティの直接の協力者でした。
ある時点でデトマーゾは市場のニーズが何であるかを調べるために市場調査を行い、V8の時代到来でした。彼らはそれをV6を拡張したビトゥルボだと言いましたが、絶対に真実ではありません。ビトゥルボはビトゥルボでした。V8はフラットプレーンクランクシャフトからバルブトレインまで完全に新しく設計され、ヘッドの新しい冷却システムも提供されたため、多くの作業が行われました。それが強化されたビトゥルボV8だったというのは絶対に真実ではありません。テストベンチでこのビトゥルボV8エンジンは370~380馬力と非常にパワフルで、特に低回転域で実に強力でした。しかしシャマルはショートホイール車であるため、発進時に過剰なパワーが伝達され、車が横滑りするという問題が発生しました。そのためドライバーはアクセルを踏み続けなければ車はまっすぐ走らず、アクセルを離した瞬間に車が回転するコマになってしまうのです。こうした状況から出力を下げるという解決策が採用され、360~370馬力から320馬力程度にまで下げられました。当然ながら、以前のような輝きは失われましたが、エンジンに余裕が生まれ、信頼性が向上しました。

イヴァルディさん:しかし、ビトゥルボと政治の繋がりはデトマーゾにとって問題でもありました。彼に資金を提供していた政治家たちは雇用面での対応を求め、労働者に早く働くよう要求したのです。これはデトマーゾを窮地に追い込み、車の開発が完全に完了していなかったにもかかわらず、デトマーゾはほぼ強制的に生産を開始せざるを得なくなったのです。確かに当時の車は未熟でしたが、後になって一部の人々が言いたような悲惨な結果にはなりませんでした。むしろ機会を逃したと言えるでしょう。数か月のテスト(誇張すれば1年ほど長くかかったと言えるでしょう)があれば、ビトゥルボは既に大幅に改良された状態で市場に投入されていたでしょう。

ギドーニさん:標準ビトゥルボ最初のバージョンは、両外側にキャブレターを搭載し、ターボはV字管の中央に配置されていましたが、ターボのヘッドアップが大きく発生しました。第2シリーズでは、デトマーゾ氏が日本から持ち帰ったIHI製ターボという”小さなおもちゃ”を取り付け、キャブレターを中央に配置しました。これはすぐには問題を引き起こしませんでしたが、夏の暑さでは、過熱とべーパーロック現象による問題が発生しました。パワーが必要な追い越し時に、気泡が発生するとパワーが低下する小さな問題が発生しました。
その他の問題は、耐久テスト中に誰が直接報告していたら簡単に解決できたはずです。私たちは間接的にいくつかの異常を知り、それをより早く知っていれば、特定の問題や顧客からの苦情を防ぐことができたはずです。顧客は「あそこに問題がある、ここに問題がある」と言ってくるでしょう。
これらの問題は、夕方にエンジンを交換することで解決されました。例えば配送車は新しいエンジンを積み込んで出発し、夜中にローマの整備工場でエンジンを交換して、翌朝には新しいエンジンを搭載した車を引き渡すことで、顧客を失望させないよう配慮されていました。
もう一つの問題はベルトテンショナーでした。ベルトテンショナーは当初は問題を引き起こしませんでしたが、ターボ熱や外気熱などによる高温により、ボンネット下は常にかなり高温になり、当初は問題を引き起こさなかったが、このシステムの機能性が問題を引き起こしました。そこでタイミングシステム用のピレリベルトとオイルテンショナーを組み合わせた新しいシステムが開発され、これが最後まで使用され、様々な問題を解決しました。
https://www.youtube.com/watch?v=AjhV-xDO7rc&t=1505s
Posted at 2025/12/18 00:36:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2025年12月14日 イイね!

Era Biturbo prima parte

Rosso-ItaliaというYoutubeサイトでEra Biturboというマゼラティ ビトゥルボシリーズ誕生までの話が展開されました。
3パート構成で全てイタリア語(英語字幕)で自動翻訳設定で日本語には出来ないのでパートワンを要約をしました。(間違った解釈、訳は指摘して下さい)固有名詞はなるべく発音に沿った書き方をしています。
キーパーソンは5人
クラウディオ イヴァルディさん:ビトゥルボオーナーズクラブイタリア、マゼラティオーナーズクラブイタリアの会長でマゼラティビトゥルボ時代(イタリア語)の著者でもあります。

ピエランジェロ アンドレアーニさん:言わずと知れたビトゥルボをデザインしたカーデザイナー。1947年ソンドリオ生まれ 少年期からトリノに行ってカーデザイナーを夢見ていました。1970年にフィアットに入社して1年半働き、ピニンファリーナに引き抜かれて1976年末まで勤務し経験を積みます。

越湖信一さん:ジャーナリスト。言わずと知れたマゼラティオーナーズクラブジャパンの会長さん。(私は、お見かけした事は有りますが、挨拶したり話したことは有りません。)

マルコ ベルガミー二さん:1988年2月からマゼラティコールドメカニック部の設計として勤務。その後、テクニカルテスト部でV6、V8エンジンを設計したヴァルター ギドーニ氏の下で働きます。

ヴァルター ギドーニさん:ヌヴォラーリ博物館の有るマントヴァ出身。1969年にマゼラティ入社。74年までテクニカル設計部で設計を担当。その後テクニカル部門でエンジン、ミッション、サスペンション、電気部門と全般でエンニオ アスカーリ氏の下でビトゥルボプロジェクトの特殊、重要パーツ殆どを設計します。

会話の翻訳...
越湖さん:今、私はカナルグランデホテルのロビーに居ます。モデナに来たときはいつもここに宿泊します。この場所はデトマーゾファミリーにとって重要な場所です。今座っているソファーは1992年にアレハンドロ デトマーゾが脳出血により倒れた場所でもあります。救急車で搬送されその後10年間闘病生活を強いる事となり、マゼラティ愛好家にとっても重要な場所となります。
デトマーゾグループ、マゼラティ、デトマーゾ、ベネッリ、モトグッジその他の全世界ディーラーミーティングを行った場所で有り、年末には売り上げの多かった国のディーラーはアレハンドロの隣に座り、祝福を受けました。

イヴァルディさん:ビトゥルボ誕生プロジェクトは、当時の政治的な背景と生産ロジックの結びつきからアレハンドロは、インノチェンティ工場でレイオフ寸前の作業員に仕事を与えるためエンジンをモデナで生産し、インノチェンティ ミラノ ランブラーテ工場で組み立てる構想を考えていた事によるものと思われます。

アンドレアー二さん:その後デトマーゾの元に行き仕事を始めました。最初は、モトグッジ、ベネッリのデザインを設計し、デトマーゾ氏がビトゥルボのデザインをやらないかと尋ねてきたので、壮大な冒険に挑戦しようと決めました。

イヴァルディさん:状来のマゼラティ車販売の方法からすると、ビトゥルボ販売は奇抜で特殊だったかもしれません。ハイパフォーマンス、低価格をプレゼンテーションしてオフィシャルに発表します。ディーラーには沢山の注文が入り、ウエイティングリストにたくさんの顧客が並びました。このような現象はマゼラティにとって初めてであり、イタリアンスポーツカーにとって特にエミリア地方(モデナのモーターバレーで生産される場所)では経験の無い事でした。

ギドーニさん:私が知っている限りの話ですが、エンジニアのベルトッキ氏と当時自動車分野、エンジン分野で著名なグエリーノ氏の息子さんの会話から、BMWに対抗できる車を作ろうという事でビトゥルボが生まれました。マゼラティはピニンファリーナにクアトロポルテ3のデザインをすでに依頼していましたし、デトマーゾ氏はピニンファリーナ社からアンドレアー二氏を知り、モデナに連れてきてデザインさせたという事です。

アンドレアー二さん:デトマーゾ氏の考えには、当時2000㏄以上の車は贅沢税39%が掛かる制約が有る事です。デトマーゾ氏は私に尋ねました。プロジェクトのデザイン準備はもうできているので、もし提案が有れば先行してもらいたい。私は自分の夢を実現するために快く引き受けました。私たちは白紙の状態から開始しました。デトマーゾ氏が私に要望したデザインは、BMW2000㏄2ドアを狙った、しかしあからさまに競合しない事。しかし車高はもう少し低くすること。ホイールベースが2.4mぐらいで全長4.2~4.25m位、幅の制限は有りませんでしたが経験上適度な幅の設計で、車高については低すぎると要望に沿えないので注意が必要でした。
フロントエンジンですが、エンジンはまだ製作中ですので搭載エンジンの寸法は決まっていませんでした。デトマーゾ氏に数例を1/10でスケッチしてプレゼンテーションしました。彼は非常に満足して、一つのデザインを選択してプロジェクトに取り入れました。
詳細図面を縮小でデザインして、トリノから製図作成者を呼んで1/1で図面を製作しました。それをトリノに持ち込み、いくつかの試作製作会社に縮小サイズのサンプルモデルを製作させました。私たちはCecom社という小さな会社を選択し、実物大試作を依頼しました。私たちが描いた図面から正確に製作され、それをモデナに持ち帰り、塗装しないで白いままカバーをかけ1年間ほど放置しました。その間も非常にゆっくりでしたがエンジン、足回り、技術的性格等を構築していきました。しかし私はこの車が復活できるという希望を少し失っていました。なぜなら政府から補助金が得られないのでプロジェクトは一時凍結されたのです。
政府から補助金が供給されて、政府から急いで再開する様に要請されました。マゼラティテクニカルオフィスは、急いでプロトタイプを製作しなければなりませんでした。ミラノのインノチェンティ(後にマゼラティ ミラノになるのですが)でボディーを製作し組み立てました。

イヴァルディさん:このように説明していますが、ビトゥルボは商業的に非常に成功した車です。なぜならそれが考案され設計された時、イタリアでは鉛の時代と呼ばれる政情不安な時期で、多くのイタリア人が求める控えめのデザインで、派手さはないがそれでもパフォーマンスのある小型スポーツカーだったからでした。
発表された価格から計算すると、2,000万リラ以下(500万円以下)となり、この車が当初圧倒的な成功を収め、モデナに今まで無かった多数の注文が入った理由が説明できます。販売してマゼラティに資金が舞い込んできました。

アンドレアー二さん:デトマーゾ氏とのこの冒険は、私はまだ若かったしモーターサイクルのデザインをしていたマンデッロから引越ししなければならなかったのにも関わらず、私にとってファンタスティックな事でした。彼はマンデッロの試作部、モデル部を閉鎖して、それをモデナに持ってくることを望んでいました。そこで私はモデナに引っ越しましたが、直ぐに慣れ何の問題も有りませんでした。

イヴァルディさん:しかし同時にビトゥルボに関して少なくとも当初は、設計上の未熟さが認められました。それはおそらく試行錯誤によるもので、また状況がまだ準備できていなかった為でもあります。
例としてキャブレター選定でした。それは80年代初頭の同系統車には旧式過ぎました。特にターボとの相性が悪かったのは、加熱によるオーバーヒートで、同時にサスペンション選定は洗練されていなく、インタークーラーは装備されていなかった。これらの繊細なコンポーネントの設計に注意を図るべきだった。そうすれば、ビトゥルボは問題を減らすことができるはずだった。

アンドレアー二さん:ビトゥルボプロジェクトを始めてから彼(デトマーゾ)から内装の各部デザインも任されました。明らかに大きな制約が有って、他の車両の部品を使わなければなりません。例えばベンチレーターはミニの物です。私はそれを広げたり狭めたりして設計しました。初期のメータークラスターに付いていたボタン類は、ランチャデルタの物とか。実際の所、悪条件で最良の物を試作してコストも抑える。それらは不可欠で、政府はこのプロジェクトに補助金を出資していたからです。しかも早急に進めて、余計な出費がないようにすることも不可欠でした。
機械的な個所を見渡せば、いくつかの作業部分で不確実部分もありました。私の意見では、デトマーゾはこのプロジェクトを早く終わらせて、市場に車両を供給し資金を得たい思惑が有ったと思います。なぜなら彼はその様な説明をいつもしていました。その様な説明をするだけで、今後車両に対する評価が残ることを考慮しなかった事が悔やまれます。

イヴァルディさん:残念なことに先ほど説明した慌ただしい状況により、ビトゥルボのライフワークが少々複雑になり、同時に急がせた状況が経済性を少し低下させました。デトマーゾは競争力のある価格設定をしましたが、それを維持するために残念ながら誤った選定をしました。人口皮革と人口木材の内装でした。
マゼラティの顧客は彼を許さなかった。なぜなら高級ブランドの車両で、本物ではなく合成素材が使われていることはたとえ派手であっても、絶対に値段に見合っていないからでした。

ベルガミーニさん:私がマゼラティ社に入った頃、一台のプロトタイプがファクトリーに有りまして、彼らはそれを”ドラッグスター”と呼んでいました。このドラッグスターの正式名は皆さんが知っているカリフでして、2800㏄でショートホイールベース、285psエンジン、それはプロトタイプで癖が有って走行性に問題が有りました。それがビトゥルボシリーズのアキレス腱でした。当時のBMWが採用していたこれらのサスペンションは、サスペンションとショックアブソーバーの両方のレベルで問題を引き起こします。
解決されなかった問題は、デトマソ氏がこれらの車に絶対に取り付けたいと思っていなかったリアのアンチロックバーの問題です。なぜなら彼には独自の理論があり、それに反論する人には禁じられていたからです。92年のギブリで普及するまで、アンチロックバーは取り付けられませんでした。

越湖さん:多くの人々がビトゥルボは欠陥車両と言います。彼らは、地球上No1の最悪車両と言いますが、私はそうは思いません。幸運にも私には非常に腕の良いメカニックがいますし、イタリアのスペアパーツ供給者ともいくつかのコネを持っています。メカニックの為にスペアパーツ供給ノウハウが有ります。
また私のメカニックは私のビトゥルボの為にとても一生懸命取り組んでくれます。一概には言えませんが、私のビトゥルボはとても良い状態です。まれに小さなトラブルが有りますが、大きなトラブルは有りません。非常に良い状態で、まれに問題が有ります。例えばパワーウインドウが作動しなかったり、内装の部品が壊れたりします。

イヴァルディさん:このように言っていますが、一方ビトゥルボエンジンは、チームの設計で絶対的な傑作であったことは認めなければなりません。理由は2つあります。なぜなら市販車で最初のツインターボエンジンという事。ヨーロッパ製で最初の各気筒辺り3バルブエンジンでした。高出力とエンジン自体は車両に取り付けられた状態でオイル消費がほとんどなく、非常に頑丈であることが証明されました。
エンジンの観点から見るとメカニズムは非常に優れていた。

越湖さん:一方でエンジンレスポンスは非常に良いし、エンジンサウンドも完璧だった。室内からのこんな良いサウンドは今まで聞いたことが無かった。それは本当に完璧でした。

何時になるか分かりませんがパート2に続く...


Posted at 2025/12/15 13:38:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2025年11月20日 イイね!

Ferrarina 275GTB/C 納車

Ferrarina 275GTB/C 納車250LMの出来があまりにも良かったので、275GTBも購入しました。実際は完全なるオーダーなので、色々なバリエーションがあるよです。
国産車は2000年代になってやっと採用したトランスアクスルを1960年代に実現していた!
ピニンファリーナデザインでスカリエティ製のアルミボディ。ボディーは職人がたたき出しで製作しているので、個体差が有るようです。
フェアレディZのデザインに影響を与えたと思われます

ウエーバー6連キャブ

ドライサンプオイルキャッチタンクが付いています、

スペアタイヤが付きます。

トランスアクスル式
Posted at 2025/11/20 20:34:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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「[整備] #ギブリ ボディーコーティング https://minkara.carview.co.jp/userid/3687419/car/3674254/8504948/note.aspx
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マセラティ ギブリ マセラティ ギブリ
90年代、良くも悪くもイタリアの車。インテリアデザインは、ピニンファリーナから引き抜かれ ...

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