続きです。
第6回:何で今さら…(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/15 00:00
出典:日経ものづくり、2005年11月号 、pp.153~155 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
外堀は埋まった
記念モデルの成功を境に,機械式腕時計に対する風向きははっきりと変わり始めた。逆風から順風へ。その証拠に,セイコー電子工業の中にも,実際に時計を販売する服部セイコーの中にも,田中の理解者が次々に現れた。
その1人が,新しい事業部長の森田克彦。機械式腕時計の事業化に向け手を替え品を替え説得を試みたが,ついぞ首を縦に振ることのなかった伊藤潔が本部長に昇進し,その後任として事業部長のポストに就いた。機械式腕時計の設計に携わってきた森田は田中の計画に理解を示し,一緒になって伊藤の説得に当たってくれた。
一方,服部セイコーの中でも,田中が企画を相談する窓口の担当者が機械式腕時計の事業展開に前向きな見方を示すようになった。セイコー電子工業はあくまでメーカー。服部セイコーの販売戦略に合致した商品を提供しない限り,市場に投入されることはない。服部セイコーの担当者は当初,機械式腕時計に対し厳しい見方を示していたが,ここにきて販売に大まかな承認を与えるまでに至っていた。
こうして社内外において,機械式腕時計の事業化に対する賛同の声が渦巻き始める。さらに,時計市場ではスイスの高級機械式腕時計が確かな足取りで伸び始めていた。外堀は埋まった。ついに,あの伊藤が重い腰を上げる。
「KT準備室」。伊藤はベテランの技術者数人を招集し,機械式腕時計の量産化を前提に,技術的検証を積み上げる特別チームを設置したのである。田中はKT準備室には入らなかったものの,企画部門の立場から同準備室と連携し機械式腕時計の事業化を推進していくことになった。
KT準備室でまず課題となったのが,機械式腕時計の心臓部であるムーブメントの選定。田中は機械式腕時計の復活を華々しく飾るために,最先端のムーブメントを新規に設計し,できればセイコーのフラッグシップ・モデル「グランドセイコー」に搭載したいと提案した。しかしこの意見はKT準備室の面々に反対される。てんぷ,アングル,がんぎといった特有の動力伝達機構を採用する機械式腕時計の設計ノウハウを持っている技術者がほとんどいない,新規設計はできないというのだ。無論,田中に返す言葉はなかった。
記念モデルに採用した6810も,年間数千個の需要を想定した場合,組み立ての難しさから量産に適さないと判断された。結局,KT準備室が選んだのは,1970年代まで国内で生産されていた52系ムーブメント。量産機種に採用されていた中では,最も精度に優れるムーブメントの一つで,当時若者に人気だった「キングセイコー」などに搭載されていたものだった。
当初の思惑とは多少異なるもののムーブメントが決定し,機械式腕時計復活に向けての準備が本格始動する。
新人に与えられた仕事
時計技術部生産設計課に真新しい作業着に身を包んだ1人の新卒社員が配属された。高橋岳。大学で機械工学を学んだ彼の会社での夢は,メカとエレクトロニクスを融合させた最先端の製品の開発設計に携わること。大志を胸に配属先に初めて顔を出した高橋。緊張の第1日目がスタートした。
「以上,生産設計課の業務内容から各種書類の手続きの仕方まで一通り説明したけど,何か質問は」
「はい,大丈夫です」
「まあ分からないことがあったら,誰でもいいから遠慮なく聞くように。じゃあ早速だけど,君にやってもらいたい仕事があるんだ」
「はい」
大きく,そして歯切れの良い返事は,初々しい新人らしい。
「高橋君は,研修で今の時計の製造過程について習ってきたんだよね」
「はい,大まかに」
「もう一度説明するけど,今の時計製造ではCAD/CAMは欠かせないんだ。CADで設計し,そのデータを利用して金型も造れば部品も製造する。その肝心要のCADについては知識あるよね」
「はい,大学の授業で使いました」
「それなら話が早い。要は,CADできちんと設計できないと,今や高品質の時計を低コストで量産することは難しい。手描きの図面を基に設計者と製造現場で加工方法を打ち合わせるなんてことは,もう昔の話なんだよ」
「つまり私は,CADを利用して設計業務に当たるんですね」
「正解。で,手始めに,あの図面をCADに落としてほしいんだ」
教育係の先輩設計者が,高橋がこれから使うコンピュータの前に積まれた書類の束を指さす。そこから1枚を取り出してきて,高橋に見せる。図面のタイトルには「5216」とある。
「これは何ですか」
「1970年代まで生産していた機械式腕時計のムーブメント」
「機械式腕時計?」
「クオーツとか電池とかは一切使わずに,機械部品だけで純メカ的に動く時計のこと。実は,近く機械式腕時計を復活することになってね,そこにこの5216ムーブメントを搭載することが決まったんだ」
「そうなんですか」
「だけどご覧の通り,昔の手書きの図面しか残ってなくてね。でも,今の時計の製造にはCADデータが欠かせないだろ。で,君にはこの手描き図面をCADで電子化してほしいんだ」
マジかよ。
「何か言った?」
「いえ何も」
「しかし,君も運のいいやつだ」
「はっ?」
「初仕事で,機械式腕時計の復活っていう歴史的事業に立ち会えるんだから。まあそんなわけで,図面はたくさんあるけど頑張ってよ」
運がいい? 冗談だろ。なんで今さらメカなんだ。エレクトロニクス全盛のこの時代に。志と対極にある仕事を与えられたことに,高橋はすっかり落ち込んだ。

マイクロフィルム
機械式腕時計の図面を収めてある。

CAD図面(右)と手描き図面(左)
手描き図面を参考にしながら,不足している情報を付け加えてCAD図面を新規に作成した。
簡単な作業のはずが…
セイコー電子工業では,生産を中止していた機械式腕時計に関する大量の図面を,マイクロフィルムに焼き付けて保管していた。高橋の目の前に用意された図面は,そのマイクロフィルムを再度紙に転写したもの。紙の状態の時に保管状態が悪かった図面については,線や寸法が消えたりかすれたりしたままだった。電子化するに当たり,そこは想像を働かせるしかない。
今は与えられた仕事をこなすだけ。気持ちを切り替えた高橋は,簡単な図面を引っ張り出しCADに向かう。分厚いマニュアルを手に,線を引き,円を描き,公差を記入していく。確かに,CADの操作を覚える教材として,純メカ的な機械式腕時計は悪くない。
順調に1枚目が出来上がり,2枚目に手を付ける。これは少し手ごわそう。寸法は辛うじて読み取れるが,公差が丸っきり分からない。どうしよう。この部品に合わせる相手部品の寸法公差を参考にすれば,見当が付くかもしれない。だけど,その部品の図面はどこだろう。高橋は図面のぶ厚い束の中からようやく見つけ出し,それを参考に推理を働かせながら完成させた。
CADの操作にも慣れ始め,枚数を順調に重ねていく高橋。そんな新人を困らせたのは線や寸法の消え,かすれとともに,図面の不備だった。例えば,曲率の違う二つの曲線がつながり合う部分。図面にある通り,二つの曲線の曲率を設定し描かせてみると,つながらない。図面の解読ミスか。かすれた文字をもう一度読み取る。間違ってない。CADの操作ミスか。マニュアルを見直す。問題はなさそうだ。結局,図面の不備としか考えられず,試行錯誤で新たに曲率を設定し直すことになった。
「手書きで書いた図面なら,曲率などの数値が多少違っていても適当にデフォルメすれば問題ありませんが,CADではうそをつけません。そんなこんなで苦労しましたけど,機械式腕時計の構造が頭に入ってくるようになると,その巧妙さ,美しさ,そして動きの面白さにだんだん興味がわいてきました。今となれば,最初の仕事がこれで,本当に運が良かったと思いますよ」
こうして高橋が52系ムーブメントの復刻に向けて図面のCAD化を進めれば進めるほど,焦りを感じる男がいた。順調な進ちょく状況を最も歓迎すべきはずの田中,その人だった。
第7回:苦難の船出(上)
木村 知史=Tech-On!2012/03/20 00:00
出典:日経ものづくり、2005年12月号 、pp.136~137 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
1992年初夏。東京・京橋の上空には灰色の梅雨雲が低く垂れ込み,雨がぽつりぽつりと落ちてきた。その中を,服部セイコー(現セイコー)本社に1人の男が飛び込んで行く。セイコー電子工業(現セイコーインスツル)の田中淳。今日こそは。不退転の決意を胸に訪問先の商品企画部門へと向かった。
田中がこうして訪れるのは,幾度目のことだろう。110周年記念モデルに続く機械式腕時計の次期発売モデルを検討する会議。機械式腕時計の復活に積極的なセイコー電子工業と,慎重な姿勢を崩さない服部セイコー。「造る側」と「売る側」の溝は埋まらず,議論は毎回平行線をたどっていた。
「繰り返しになりますが,110周年記念モデルは機械式が売れました。機械式は腕時計の原点。その歴史の再現を市場は望んでいます。時計メーカーの老舗として,機械式時計を本格的に復活させることは,文化的な責任を果たす意味でも大きいと思うのです。さらに,スイス勢の高級機械式腕時計の売り上げは年々伸びています。その様子を見ているだけでなく,一刻も早く市場に参戦する必要があります」
「ただ見ているわけじゃない。田中さんの企画書はリスクが大きすぎます。うちの経営陣が首を縦に振るとは到底思えない」
「リスク?」
田中の企画書には,セイコー電子工業で機械式腕時計復活の命を受けた「KT準備室」が選んだ52系ムーブメントをベースに,仕様に応じてグレード展開する旨が記されていた。
「セイコーは機械式腕時計を捨て,クオーツで世界一に上り詰めました。なのに今さら,機械式腕時計を大々的に展開するなんて,できっこないですよ」
「でも,あの110周年記念モデルはすごく評判が良くて,あっという間に売り切れたじゃありませんか。市場は待っているんです。あの熱が冷め切らないうちに,もっと広い層の顧客にセイコーの歴史を訴えていきましょうよ」
「数百個の記念時計ならいざ知らず,田中さんの言うようにグレード展開して本格的に数をこなすとなると,我々販売サイドにはそれなりの準備が要ります。特に,機械式腕時計の場合には修理はもちろん,定期的なメンテナンスを必要とするから,我々や販売店にはその知識が求められる。だけど,機械式腕時計を捨てた今となっては,そこが一朝一夕にはいかないんですよ。少なくとも数年はかけて準備しないと」
セイコーブランドの現在の位置付け,仮に商品化したときのセイコーブランドの名に恥じないアフターサービス体制の構築。その2点が,服部セイコーにとって機械式腕時計復活の大きな障害だった。会議室には,窓越しの厚い梅雨雲のような暗雲が立ちこめる。
「もちろんそのことは理解しています。だけど,我々には時間がないんです」
「何度も言うように,もう少し時間をかけて考えたい。しかし分からないなあ,田中さんが何でそんなに急ぐのか」
「今がラストチャンスなんです」
「ラストチャンス? 何が?」
「これまでお話ししてきませんでしたが,人の事情です。機械式腕時計の復活には設計でも製造でも,かつてそれに携わった熟練技術者の力が絶対に必要です。ところが,その熟練技術者たちは新たな事業の枠組みに再編されようとしていますし,おまけに定年でどんどん退職し始めています。だから今すぐ,彼らが一人でも多く残っているうちにプロジェクトをスタートしたいんです。今の技術者は機械式腕時計のことを全く知りませんから」
「発売時期を延ばしてると,熟練技術者の技能が絶えてしまうってこと?」
「はい。ここ1年がギリギリのタイミングなんです。セイコーブランドの名にふさわしい品質の高い機械式腕時計を世に送り出すためには,彼らが残っている今,動き出すしかないんです。アフターサービスの問題は,走りながら解決させてください」
沈黙は,外が土砂降りに変わっていることを気付かせる。大粒の雨が窓を激しくたたいている。まるで,服部セイコーに最後の決断を迫るかのように。
「人の問題ねぇ…。分かりました,少し前向きに検討してみましょう。ただし,条件がありますけど」
後日,田中に次期機械式腕時計の発売が1992年末に決まったことが伝えられた。併せて,グレード展開を唱えた彼の企画が変更されたことも。発売されるのは,52系ムーブメントを搭載したものと,110周年記念モデルに利用した薄型ムーブメント6810を搭載したものの2モデルのみということだった。機械式腕時計の本格的な復活を華々しく飾りたかった田中の思惑とは隔たりがあったが,そこが服部セイコーの条件,セイコーブランドを守るためのギリギリの妥協点だったのである。
莫大な設備投資
発売モデルの決定を受け,セイコー電子工業のKT準備室は組み立て作業に携わる技術者を増員し「マイスターKT」と名称を変更して,総勢約50人で再スタートを切った。早速,機械式腕時計の組み立て作業の練習を始める。指導するのは,桜田守をはじめとする熟練技術者たち。吸収の早い若手技術者たちは,めきめきと腕を上げていく。
一方,時計技術部生産設計課では高橋岳らを中心に進めてきた,52系ムーブメントの手書き図面のCAD化が終了。これを基に,一部新しい部品を取り入れた新型ムーブメント「4S35」が次期機械式腕時計向けに設計された。
その4S35の構成部品の製造に関しては事前に,機械式腕時計の事業化を決めた本部長の伊藤潔から,田中ら企画部門に宿題が出されていた。「新しい機械式腕時計にふさわしい新しい製法を考案せよ」。大きな販売数量を見込めないことから,少量生産でもコストの掛からない製法が求められたのだ。

新型ムーブメント「4S35」
1992年11月11日に,服部セイコーに送品された。
一番のやり玉に挙がったのは「受け」の製法。受けは,各種歯車などを固定するため歯車同士の軸間距離などに高い精度が求められ,従来は精密プレスで加工していた。しかし,高価な金型が必要になるため,多額の投資を回収するには大きな販売量が条件となる。
そこで浮上したのがNC切削。必要なときに必要な量だけ加工でき,プレスほど初期投資が掛からない。田中らは精度,コストなどあらゆる角度から検討を積み重ねた。しかし伊藤には「現在のNC切削の技術では,我々が求める品質は確保できません。プレスでいかせてください」と答えたのだ。
「そりゃ怒られましたよ,伊藤本部長には。説得は最後までできなかったと思います。販売数量は順調に増えます,金型代は必ず回収しますと,やっとの思いで了承をもらいました」
この結果,4S35の部品製造に必要な金型代などに多大な投資をして製造がスタート。部品が完成すると,それをマイスターKTの面々がムーブメントとして命を吹き込んでいった。
1992年11月11日。高塚事業所では,4S35を初めて服部セイコーに出荷する朝を迎えていた。その夏,副社長に昇格した伊藤らのテープカットに続き,4S35を積み込んだトラックが事業所を後にした。それを見送る田中に,しかし笑顔はなかった。
第8回:苦難の船出(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/22 00:00
出典:日経ものづくり、2005年12月号 、pp.137~139 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
名前に恥じない魅力
田中の企画書では,全世界で年間3万個以上の売り上げを目標としていた。これは多大な設備投資を回収するための最低限の数字だ。
「厳しいとは思っていましたが,案の定1993年の数字は見るも無残でした。全く宣伝販促が行われないとか販売の努力が足りないとか,いろいろ不満はありましたが,社内に説明できる数字ではありませんでした。針のむしろとは,まさにこのときのこと。社内の進捗と服部セイコーの実情を調整しきれなかった責任を強く感じました。とにかく,販売量を確保する努力を続けるしかありませんでした」
1994年,大市場を求め米国に進出。しかし,米国におけるセイコーブランドの腕時計の価格帯は,高級品でも200~300米ドル。機械式腕時計とはいえ,ここを大きく逸脱する価格は提示できない。結果,販売量はそこそこ確保できたものの,利益は薄かった。
国内では依然,苦戦が続いていた。そんな中,服部セイコーからある提案が持ち上がる。1913年に国産初の腕時計として発売した,同社の原点「ローレル」ブランドの使用。この提案を田中は歓迎し,かつてのローレルをほうふつとさせるデザインを追求した。
市場に投入した機械式腕時計のローレルは,3針式や3針カレンダー付き,小秒針付きなど計6モデル。販売価格は5万~7万5000円と比較的安く抑えた。結果は大成功。販売数量が急増したのである。機械式腕時計事業はピンチを脱し,ようやく軌道に乗り始めた。
この勢いを駆って,セイコーの高級ブランド「クレドール」のラインアップも大幅に拡充。電池の巻き残量を表示する機構など,高級ブランドにふさわしい機能を新たに付加し好評を博した。当時,設計部門で汗をかいた中尾秀幸はこう振り返る。
「それまでは,本当に機械式腕時計でいいのかと,疑心暗鬼な気持ちがぬぐい切れませんでしたが,売れ行きが良くなると一転,我々のやり方に間違いはなかったと自信が持てました。すると不思議なもので,次はやれ複雑時計の代表格であるクロノグラフだの,やれフラッグシップ・モデルの『グランドセイコー』への展開だの,設計部門全体に欲が出てくるんですね」
実は,クロノグラフとグランドセイコーこそ,機械式腕時計の復活を目指したときからの田中の悲願だった。彼は事あるごとに,服部セイコーに提案していたが,その都度「時期尚早」とはねつけられてきた。
ところが1996年秋,ついに服部セイコーから企画が切り出される。ローレルに展開以降,クロノグラフやグランドセイコーの機械式腕時計を望む声が市場からわき起こり,背中を押された服部セイコーがついに決断を下したのである。そして商品化の時期は,クロノグラフが1998年初め,グランドセイコーが1998年末と決まった。
同期2人のチャレンジ
設計製造するセイコー電子工業で設計担当に指名されたのは,クロノグラフが,入社直後に52系ムーブメントの手書き図面をCAD化した高橋,グランドセイコーが,高橋と同期入社の重城幸一郎。統括は,滝沢勝由だった。
各ムーブメントは,4Sシリーズをベースに設計されることになった。無論,新規設計という選択もあるが,対象は複雑時計とフラッグシップ・モデル。経験の浅い若手設計者2人には,新規設計はハードルが高すぎると思われた。
スケジュールがよりタイトな高橋は残業もいとわずに設計に没頭した。彼が担当するクロノグラフは通常の時間表示とは別に,ストップウオッチ表示のための針を備える。この動力も,主ゼンマイから取り出さなければならない。既存の部品を避けるように大きく迂回しながら,動力を伝える。そのためにレバーの形状を工夫するなど,部品も機構自体も必然的に複雑となる。
入り組む部品をCAD上で巧みに配置していく高橋。その間に,季節は秋から冬へと移り変わる。1996年暮れ。一通りの設計が終わった。
図面を確認した滝沢は,高橋にそれを検図に投入しておくように言い残し,一人シンガポールに飛んだ。かの地には,海外向けの廉価版機械式腕時計の量産工場がある。高橋の設計したムーブメントの部品が,そこでどれだけ製造できるのか。滝沢は現地を視察し,想像以上の手応えをつかんだ。
現地から,滝沢は日本の本社に電話をかけ,高橋を呼び出す。
「そっちの検図の結果はどうだった?」
「それがぁ…」
どことなく声にハリがない。
「検図メンバーから,あの設計では無理があるという声が挙がっています」
「どうして? 動力がちゃんと伝わるのは俺も確認したし,外形寸法だって要求の枠内にきちんと収まっている」
「動力の伝達効率が問題だと…」
「伝達効率?」
「はい,この設計だとゼンマイの動力がてんぷまで十分に伝わらず,クロノグラフ作動時に精度が悪くなると」
「精度かぁ。それはまずいなあ。で,解決策は」
「今はまだ。ただ,滝沢さんがお帰りになるまでには何か考えておきます」
「うん,頼む。俺も考えてみるけど」
数日後。設計部の窓際の打ち合わせテーブルには滝沢,高橋,重城の3人の姿があった。
「で,高橋,どうする?」
「ええ,4Sシリーズをベースに設計する限り,どの道無理なんじゃないかと」
こう言いながら,高橋はテーブルに1枚の紙を広げ始めた。そこには,滝沢がかつて一度も目にしたことのないムーブメントの原案が描かれている。
「何これ?」
「重城と2人で考えた新しいムーブメントです」
「まさか,新規に起こし直そうって言うんじゃないだろうな」
「はい,そのまさかです。自信を持って製品化するにはこれしかないというのが,我々2人の結論です」
「しかし,何でまた2人なの?」
重城が初めて口を開く。
「これを,グランドセイコーにも利用しようと思いまして」
「グランドセイコーにも…」
「そうです。グランドセイコーの精度はスイス以上。その高さたるや,尋常ではありません。実際,設計してみて分かったんですが,4Sベースでそこまでもっていくのは至難の業。いや,まず無理だと思います。で,高橋から相談を受け,じゃあ2人で一から起こすか,となったんです」
「海外出張で俺がいないことをいいことに?」
「いや,そうじゃなくて…」
「確かに,二つのモデルで共用できるのなら,その方がコスト的にも人員的にも効率的なことに間違いはない。問題は,我々にはムーブメントを一から設計した経験がないということと,時間があまりに少ないということ。それでもできるの?」
顔を見合わせる高橋と重城。2人の決意は既に固まっている。
「設計者として挑戦したいんです,新規設計に」
高橋の言葉を重城がつなぐ。
「ただ,お願いが一つあります。納期を少し延ばしてほしいんです」
「納期は俺じゃない。部長マターだ。君たちの言う方向で掛け合ってみるか」
3人はその足で部長の元に行き,新規ムーブメントを設計したい旨,そして納期を遅らせたい旨を伝えた。これに対する部長の答えは明瞭だった。
「何甘いことを言ってんだ。納期は守れ。さもなきゃ,別の方法を考えろ。もう一度言う。納期は守れ。絶対だ」
このとき,2人に残されていた時間は,高橋が1年を,重城が2年を切っていた。
第9回:気鋭の才と練達の智(上)
木村 知史=Tech-On!2012/03/27 00:00
出典:日経ものづくり、2006年1月号 、pp.144~146 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
セイコーの機械式腕時計が20年の深い眠りから覚めて5年の歳月が流れた。1997年。ついに,複雑時計の代表格であるクロノグラフと,セイコーのフラッグシップ・モデル「グランドセイコー」の商品化が決まった。片や,機械式腕時計の技の粋を集めるモデル。片や,セイコーブランドの頂点に君臨するモデル。この二つの機械式腕時計を市場に投入して初めて,機械式腕時計復活物語は最終章を迎える。ところが,その物語が今,未完の危機にさらされようとしていた。
時間がない─。セイコー電子工業設計部の若手のホープ,高橋岳と重城幸一郎が頭を抱える。彼らの提案で,新規ムーブメントを一から起こすことになったものの,設計は遅々として進まない。クロノグラフとグランドセイコーの各ムーブメントのベース部分を共通化した上で,精度を確保するための要となるてんぷ周りは重城,クロノグラフのストップウオッチなど複雑機構は高橋と,設計を分担し効率化したにもかかわらず。理由は,彼らにとって機械式腕時計の新規設計が初めてのことに加えて,クロノグラフは複雑さで,グランドセイコーは精度で従来のラインアップとは比較にならないほど高いレベルが要求されていたことだ。
2人は未開の原野をさまよい続ける。クロノグラフ,1998年初め。グランドセイコー,1998年末。この発売時期という目に見えぬ重荷を背負って。
人員増のための妙案
設計を統括する滝沢勝由もまた,厳しい現実に頭を痛めていた。高橋と重城の2人は,主に構想設計に時間を取られ,詳細な図面が描けない。自分を含めて今の3人体制では無理。発売時期に間に合わせるには,倍の人数は必要だ。しかし,増員の話は何度か課長に断られてきた。どうしたら説得できるのか。目を閉じ,思慮を巡らす滝沢。しばらくあって,目を開ける。あの手があるか。そうつぶやくと席を立ち,設計課長の中尾秀幸の元に向かった。
「中尾さん,例の増員の話なんですが」
「またその話か。君も知っているように,新規製品の設計はだいたい2人。もちろん,これまでの新規設計と全然違うことは,おれも十分承知している。だからこそ,君には高橋と重城をつけて3人でやってもらっているんだ」
「ええ,それは分かってます。だけどやっぱり間に合わないんです」
「……。仮に増やせるとしてだ,せいぜいあと1人」
「いえ,あと3人下さい」
「それはいくらなんでも無理だよ」
「じゃあ,こういうのはどうでしょう。あと3人増やす代わりに,3次元CADを利用して,今回の新しいムーブメントをすべて設計する」
「3次元CADって,この前入れたやつだろ。やっと一つのモデルの開発に使ったくらいって聞いてるけど」
当時,設計部は3次元CADを導入したばかり。先行して,あるクオーツ時計の設計に利用してみたものの,慣れない操作に苦労の連続だった。
「時間がない上に,3次元CADか」
「リスクは覚悟してます。だけど,3次元CADは視認性が良い,干渉チェックも簡単にできるなどたくさんのメリットがある。今回のムーブメントの開発でも,複雑なクロノグラフの機構などをチェックするには有効です」
「実はこの前,おれも3次元CADを触ってみたんだよ。あれが使いこなせるようになれば,確かに業務プロセスは大きく変わる」
「ええ,機械式であれクオーツ式であれ,ますます高機能化する腕時計の開発には,3次元CADは欠かせないツールになるはずです。けれど,問題は」
「2次元CADに慣れた設計者が3次元CADに尻込みしていることか」
「その通りです。だから,今回のチームですべての設計に3次元CADを活用し,導入に弾みをつける。注目度の高いプロジェクトで成功すれば,導入機運は一気に高まるはずです」
「どの道,3次元CADの導入を推進するプロジェクトチームを立ち上げる予定だったんだが,それを君たちが兼ねるというわけか。考えたなぁ」
「どうでしょうか」
畳み掛ける滝沢。
「妙案だよ,これは。きっと部長も納得してくれるだろう」
「ええ,そう願いたいものです」
願いはかなった。設計部長は滝沢の提案を了承,彼のチームはこの春入社する新人1人を含む6人に増員された。
測定できないほどのゆがみ
希望通り,人員は増えたものの,滝沢,高橋,重城ら開発の面々の忙しさに変わりはない。すべてを一から設計するという作業は,想像以上に困難なのだ。乏しい経験故,時にはひげぜんまいやてんぷなど機構別に解説された分厚い専門書を熟読したり,時には退職した機械式腕時計の設計者を招いて勉強会を開いたりと,数十年分に匹敵する技術・技能を数カ月で体得しようと試みる。重城いわく「これまでの人生の中で,この時期が一番勉強した」。
予想されたこととはいえ,3次元CADにも苦戦した。乏しいノウハウ故,わずかな形状を作り上げるのにさえ時間がかかる。パソコンの性能も,3次元CADを動かすにはいまひとつで,頻繁にフリーズする。それでも,彼らはモデリングの仕方や修正の仕方など便利な機能を見つけてはメンバー同士で共有し,ノウハウをコツコツと積み上げる。高橋いわく「FEMや干渉チェックがやりやすいなど,3次元CADのメリットが次第に分かってきた」。
クロノグラフの発売まで半年と迫った1997年夏。高橋が一足先に試作品を造り上げ,動作を確認する。竜頭を巻く。命を吹き込まれたひげぜんまいが,人間の心臓のように規則正しく躍動し始める。秒針が動く。その1/60のスピードで分針がゆったりと回りだす。基本の時計機能は良好だ。
続いて,クロノグラフならではのストップウオッチ機構の確認。竜頭の上に設けたスタート/ストップ用プッシュボタンを押す。カチ,カチと,クロノグラフ針が1秒ずつ正確にラップを刻み始める。もう一度プッシュボタンを押し込めば,クロノグラフ針がピタリと止まる。それが,目的の計測時間。最後に,竜頭の下のリセット用プッシュボタンを押すと,クロノグラフ針が目にも留まらぬ早さで12時の位置に戻る。これが,ストップウオッチ機構の本来の動き。しかし,初めは作動していたスタート/ストップ用プッシュボタンが徐々に重くなり,最後には微動だにしなくなった。なぜだ。滝沢が,重城が,誰より高橋が落胆する。
「クロノグラフ機構を動作させる板金部品のレバーの強度が足りずに,スイッチが入らなかったんです。レバーを0.2mmから0.3mmに厚くしてもらうことにしたんですが,これがまた一苦労。0.1mm厚くするだけで,部品と部品との間隔を見直さなければならない。何より驚いたのは,測定できないほどのゆがみが発生し動作不良を起こしたこと。これを修正するには,0.01mm単位の調整が必要になりました」
正確な動作を得ることさえ難しいのに,高橋は試作部門に対してさらに高い要求を突き付けた。
「プッシュボタンの操作感です。海外のクロノグラフのそれは,往々にして固い。中には,指の腹にプッシュボタンの跡が残るものさえある。私が求めたのは,軽いけど,カチッという確かな感覚が伝わる操作感。この点に最後までこだわりました」
高橋の無理難題に,試作部門は一つひとつ地道に,そして確実に応えていく。かくして1997年10月に量産体制を確立し,翌1998年3月に発売に至った。新規ムーブメント「6S」シリーズを搭載した「セイコー・クレドール パワーリザーブ クロノグラフモデル」。日差-10~+15秒という精度の高さ,優れた操作感のストップウオッチなど,品質,機能,デザインすべてにおいて100万円という価格に恥じない,機械式クロノグラフの誕生だった。

「セイコー・クレドールパワーリザーブクロノグラフモデル」
1998年3月の発売で,価格は100万円。

キャリバー「6S74」
(後にタグホイヤーのカレラ1887クロノグラフに搭載されるキャリバーのベースにもなる名機)
※その話はココ↓を参照願います。
http://www.webchronos.net/specification/2456/
第10回:気鋭の才と練達の智(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/29 00:00
出典:日経ものづくり、2006年1月号 、pp.146~147 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
自分で自分の首を締めることに
一方,グランドセイコーを担当する重城は,CAD端末に向かい続ける。一足先に完成した6Sシリーズは,重城が考えたムーブメントをベースに設計されたもの。しかしこのムーブメントは,グランドセイコーには使えない。
流用を阻害しているのは,ほかでもない重城自身が定めたグランドセイコー規格。それは,スイスのクロノメータ検定協会が規定した,世界最高レベルの「クロノメータ規格」より厳しい精度を要求する。例えば平均日差と姿勢差は,クロノメータ規格が-4~+6秒と5方向であるのに対し,グランドセイコー規格が-3~+5秒と6方向。とりわけ,クロノメータ規格より一つ多い姿勢差は重城を苦しめ抜いた。
「姿勢差とは,腕時計の使用状況を考慮し,あらゆる姿勢で精度が保証されることを確認する検査のことです。新たに追加したのは,12時を上にした姿勢。検査して初めて分かったんですが,重力の影響で必ず遅れる姿勢があるのです。それが12持を上にした姿勢だったんです。これで理解しましたよ,クロメータ規格の姿勢が5方向であること,12時を上にした姿勢が抜けていることのワケを」
1998年も夏に近づくころ,重城は誰よりも早く出社し誰よりも遅く帰った。CAD画面には常に「9S」シリーズと名付けられたグランドセイコー向けムーブメントのてんぷ周りが映し出され,来る日も来る日も調整を続ける。
そして,「いける」と思えば,大野事業所に試作・評価を依頼する。見るのは,大平晃。セイコー電子工業が最初に復刻した4Sムーブメントのクロノメータ規格取得に尽力した男。500個限定発売のその4Sムーブメントの最終調整を一手に引き受け,すべてを合格に導いた伝説の組立師だ。そんな大平は,所定の精度が出ないと,重城を設計部のある幕張本社から大野事業所に呼び付ける。
「いくら図面上でいい設計をしたと思っても,実際に組み立ててみてきちんと動かなければ意味がない。特に重城君のような若い設計者は,かつての機械式腕時計を知らない世代。だからこそ,組み立てた実物を見て学んでもらおうと,何度も何度も大野まで足を運んでもらったんです」
大平は重城に,自ら組み立てて調整したムーブメントと,測定した精度を記入したデータシートを見せ,これまでの経験によって得た改善ポイントを指示する。重城は,この練達の智を次の設計に生かし,再び大平に試作・評価を委ねる。ここ数カ月,こうしたやりとりがずっと続いていた。
そのかいあって,精度は徐々に高まってきた。だが,グランドセイコー規格にはまだまだ及ばない。己の定めた規格を恨む重城。その一方で,グランドセイコーの発売日はクリスマス商戦をにらんで1998年11月27日と決まり,その1カ月前の10月半ばには新聞発表を行う段取りとなった。いつしか,季節は夏に終わりを告げようとしていた。
「やりたくありませんが…」
その日も,大平は朝早く大野事業所へと向かった。途中,目の覚めるような真紅の花を咲かす,路傍の曼珠沙華を目にすると,休日も返上し残業を重ねるうちに薄れ始めていた月日の感覚がよみがえる。と突然,大平はある決断をする。
事業所に着くと,大平は重城を電話で呼び出す。重城の到着を待ち,大平の上司である「マイスターKT」の部長を前にする。
「部長,折り入ってご相談があります」
「重城君まで一緒に,何ですか」
「はい,グランドセイコーの件,重城君の設計はいいところまで来ていますが,まだグランドセイコー規格をクリアするメドが立ちません。そこで…」
「そこで?」
「あと半年,いや3カ月でいい,待ってもらえないでしょうか」
「大平さん…」
何も知らずに同席した重城。彼のために頭を下げる大平を見,言葉を失う。
「何をいうかと思えば。……。しかしいくら大平さんの頼みでも,今度ばかりはちょっと難しいですね」
「難しいことは分かってます。でも,無い袖は振れません」
「既に,セイコーさんが本格的に動きだしているんですよ。機械式グランドセイコーの復活は24年ぶりでしょ。だから大々的に宣伝するらしく,色んなイベントを計画しています」
「しかし現実問題,間に合わない」
「……。今度は逆に,私からお願いがあります。大平さん,是が非でも間に合わせてください」
懇願するはずが,逆に懇願された。天を仰ぐ大平。残りの2人は大平の次の言葉をじっと待った。
「やりたくはありませんが,奥の手がないわけではない。それは」
「まさか…」
重城がピンとくる。
「重りを足すんです」
ムーブメントごとの最終調整の段階で,駆動力を生み出すひげぜんまいに数十μmの厚さの重りを付けて所定の精度を達成しようというのだ。かつて,4Sムーブメントをクロノメータ検定に合格させる際に使った,熟練の技だ。しかし,重城がかみ付く。
「あれは禁じ手です。大平さんの腕なら,グランドセイコー規格をも通すことは可能でしょう。でも,グランドセイコーのムーブメントは,一からの新規開発。設計変更が許されなかった4Sのときとは,事情が違う。大平さんの技に頼っていては,新規開発の意味がありません」
「じゃあどうするんだ,重城君」
マイスターKTの部長が問いただす。
「何とかします」
「何とかならないから,こうして大平さんがいろいろ考えてくれてるんだろ」
「ですから,何とかします」
「何とかって,重城君…」
その後も,重城は「何とかします」の一点張り。部長もついに折れ,重城にげたを預けることになった。
重城の仕事ぶりは一層過激さを増す。しかし不思議と,彼には追い詰められた悲壮感はなかった。なぜなら,勝算があったから。精度は,ひげぜんまいの形状や長さ,厚さ,幅,取り付け位置,緩急針と呼ぶ細い棒の取り付け位置などによって決まり,その組み合わせは膨大な数に及ぶ。重城は所定の精度に最適な組み合わせを求め,大平の指導を受けつつあと一歩のところまで絞り込んできていたのだ。それ故,精度が出たという知らせが皆の元に届くまでに,さほど時間は必要なかった。
とはいえ,ギリギリのタイミング。納期までに予定の数がそろわず,熱い期待を込めて注文した販売店のうちの一部で「グランドセイコー メカニカル9Sシリーズ」が発売日に届かない状態を出してしまった。しかし,帰ってきた。24年の時を超え,セイコーの顔,機械式グランドセイコーが。

「グランドセイコーメカニカル9Sシリーズ」
1998年11月の発売で,左の18Kケースモデルが70万円,右のステンレス・スチール・ケース・モデルが35万円。

ムーブメント「9S55」(カレンダー付き)
第11回:いつかは「SHIZUKUISHI」(上)
木村 知史=Tech-On!2012/04/03 00:00
出典:日経ものづくり、2006年2月号 、pp.134~135 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
1998年の,複雑時計のクロノグラフと最高級ブランド「グランドセイコー」の商品化により,セイコーインスツルメンツ(現セイコーインスツル)の機械式腕時計事業は完全復活を果たした。看板モデルの誕生により,販売には弾みがつく。2000年は約5000個,2001年は約8000個,そして2002年には1万個の大台を突破。この間に,事業は黒字に転換した。
生産体制も改まる。部品製造は岩手県の盛岡セイコー工業,組み立ては千葉県の大野,高塚両事業所という分散体制から,盛岡セイコー工業に部品製造から組み立てまで全工程を集約する一貫体制に。雫石にある盛岡セイコー工業の,この機械式腕時計部門は2002年4月「高級時計職場」としてスタートを切った。
1カ所に全工程を集結した効率的な生産体制。最初は,このことに疑いを抱く者などいなかった。しかし,右肩上がりに増える注文に対し増員を繰り返すうちに,職場,とりわけ組み立て室は次第に手狭になっていった。気付くと,そこは「空気が薄いと感じられるほどの高い人口密度」に。劣悪な職場環境は,生産性が上がるどころか,かえって下がり兼ねないくらいだった。
組み立て室を拡張する─。2003年11月に盛岡セイコー工業の社長に就いた西郷達治は着任早々,大きな決断を下した。
「職場環境の改善に併せて,もっと上を目指すことを考えました。確かに,セイコーの機械式腕時計は順調に伸びていた。とはいえ,1990年代後半からの高級機械式腕時計ブームの再燃で,日本の10万円以上の機械式腕時計の市場規模は年間約50万個に達したのに,セイコーのシェアは3%にすら届かない。果たして,この程度で機械式腕時計は完全復活したと言えるのか。言えないでしょ。だから,私はシェア2割,年間10万個の目標を課したんです」
西郷は2003年末,組み立て室の拡張工事に伴う予算を3700万円計上する。増産を視野に,組み立て室のスペースを広げて作業台を増やす。これなら,3700万円で十分。西郷はそうそろばんをはじいた。
見栄えを良くするだけではダメ
年が明けた。2004年冒頭,西郷は体育館で盛岡セイコー工業全社員を前に,組み立て室の拡張工事など新年の抱負を語り,社長室に戻った。すると計ったように,机の電話が鳴り響く。
「西郷社長,副会長からお電話です」
「副会長? 何だろう,つないでくれ」
電話をかけてきたのは,親会社のセイコーインスツルメンツ副会長の服部純市。新年のあいさつが一通り終わると,こう切り出してきた。
「ところで,機械式腕時計の組み立て室の拡張の件,どうするつもりだね」
「はい,先日申し上げたように,まず組み立て室のフロア面積を広げます。作業台を追加するとともに,作業員一人ひとりの作業スペースを今以上に確保して生産性を高めます。そして」
「違うなあ」
「はっ? 違う,とおっしゃいますと」
「君のプランは地味なんだよ。もっと見栄えがほしいんだ。工房の存在感を感じてもらえるような」
「存在感…ですか」
「そう,重厚な存在感だよ。実はね,昨年の暮にセイコーウオッチの役員の人たちと話をしていたら,君のところの組み立て室の拡張工事の話題になってね。で,すごく期待しているって言うんだ」
「ありがたいことです」
「うん,それで済めばよかったんだが,いろいろ注文を付けられてねぇ」
「それが,重厚な存在感,ですか」
「まあそうだ。彼らが言うには,窮屈で町工場さながらの今の組み立て室は,高級機械式腕時計のイメージから程遠い。全国から訪れた見学者をがっかりさせてしまう。だから,新しい組み立て室は,見学者が見るもの触るものすべてに感動を味わえる,そんな高級機械式腕時計にふさわしい造りにしてほしい,って言うんだよ」
「要は,見栄えを良くしろ,と」
「いや,単に見栄えを良くするだけではダメだ。高級機械式腕時計にふさわしい,ってところがミソなんだ。そういうわけだから西郷さん,頼んだよ」
電話は一方的に切れた。高級機械式腕時計にふさわしいって,何だよ。新年早々,しかも社長就任初の大仕事に難しい注文を付けられた西郷。正月のおとそ気分は一気に吹き飛んだ。
最終回:いつかは「SHIZUKUISHI」(下)
木村 知史=Tech-On!2012/04/05 00:00
出典:日経ものづくり、2006年2月号 、pp.135~137 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)
一体いくら掛かるんだ
あらためて組み立て室の隅から隅までじっくり見てみると,副会長の言う通り,お世辞にも高級機械式腕時計にふさわしい職場とはいえなかった。確かに説明がなければ,誰もここが何十万円もするグランドセイコーやクロノグラフを造っている工場とは思わないだろう。副会長やセイコーウオッチが注文を出してくるのも,無理はない。
これまでずっと生産畑を歩んできた西郷。生産効率の高い工場や,作業員が働きやすい工場といった案件にはアイデアが湯水のごとくわき出てくるものの,高級機械式腕時計にふさわしい工場となるとさっぱり。自分の手に余ると,同社きっての時計通に任せることにした。
小野寺強。セイコーインスツルメンツに入社以来,30年以上にわたって腕時計のデザインに携わってきた。年に1回スイスで開催される世界最大の時計見本市「バーゼルフェア」には,既に20回以上足を運んだ。世界の洗練された高級機械式腕時計やその工房を知り尽くした彼なら,高級機械式腕時計にふさわしい工房を造り上げるはず。西郷は小野寺に協力を求めた。
「チャンスだと思いました。機械式腕時計の世界最高峰であるスイスに,追い付き追い越すためのまたとないチャンスだ,と。しかも,その舞台が岩手というのもうれしかったですね。何を隠そう,岩手は私の故郷ですから」
西郷の依頼を快諾した小野寺はプランを練るに当たり,スイスと岩手それぞれの歴史をひも解き,徹底比較。そこから,スイスと伍して戦うための一つの結論を導き出した。それは,スイスの時計造りに必然性や必要性があるように,セイコーの時計造りにも機械式腕時計を造り続ける意思を見える形にする。そこで,新しい工房には岩手固有の伝統的工芸品を移植し,その匠の歴史と伝統,必然性と必要性を受け継ぎつつ新たな志を持った「魂」に変えていくというものだった。小野寺は考えに考え抜いたこのプランを西郷に説明する。
「なるほど,コンセプトはだいたい分かったけど,結局,組み立て室はどんな感じになるの」
「歴史と伝統,そして先進テクノロジーとクラフトマンシップが融合した感じですね」
「具体的には」
「例えば,職人たちは,天皇皇后両陛下に献上したことのある『南部紬』か『南部紫根染』の作業着を着用します」
「ほお,紬の作業着とはぜいたくな。結構高いぞぉ」
「さらに,作業机には岩手県を代表する伝統的工芸品『岩谷堂箪笥』をあつらえます」
「岩谷堂って,けやきの美しい木目,重厚な漆塗り,『南部鉄器』による華麗な装飾金具を特徴とする,あの岩谷堂だろ。箪笥一つで平気で数百万円とかしちゃうあれを作業机にねぇ。しかし,誰が使うの」
「組み立て職人たち全員です」
「全員? ウソでしょ。箪笥ほどではないけど,仮に1台50万円としたら職人20人分で1000万円掛かっちゃうよ」
「そうなりますねぇ…。でも200~300年は使えます。それと,いすも世界最高のエルゴノミクスチェアにします」
「そうなりますねぇって,君…」
「まだあるんです。職人たちの手元にはCCDカメラを置き,磨き上げた部品を組み立てていく様子を液晶テレビやプロジェクタに映し出すんです」
「今度は液晶テレビか。安くなってきたとはいえ,まだまだ高い。でもまあ,1台くらいはあってもいいか」
「何をおっしゃるんですか。見学コースの行く先々に置くんです。時計造りの精緻な技や醍醐味を味わってもらったり,PR用のビデオを流したり」
「行く先々って,君…。南部紬に,岩谷堂に,液晶テレビにプロジェクタ。一体,小野寺君のプランだといくら掛かるんだね」
「ざっと1億5000万円」
「1億5000万円!」
「はい,西郷さんが『見栄え良く』っておっしゃったんで」
「『見栄え良く』とは言ったけど,派手すぎるんだよ,1億5000万円は」
西郷が計上した予算は当初3700万円。「見栄え良く」するとはいえ,1億5000万円とは開きがあまりに大きい。その後,2人は丁々発止の攻防を繰り広げ,削れるところは削り,最終的に小野寺のプランは西郷の裁量の上限である1億円で落ち着いた。
あなたは何も分かってない
予算が決まると,小野寺はすぐさま盛岡セイコーの近くにある,とある工房を訪ねた。
「実は,折り入ってお願いがありまして。時計を組み立てる職人が毎日使う作業机を造っていただきたいんです」
中千家具製作所。岩谷堂箪笥生産協同組合に所属し,社長の中村千二は岩谷堂箪笥伝統工芸士の認定を受ける。小野寺は第一印象で,中村の温厚な人柄の中に,職人の誇りを見て取った。
「職人さんの作業机ねぇ,悪くない。しかし,我々は箪笥など調度品が主で,作業机は手掛けたことないんですよ」
「そこを曲げてお願いします」
「同じ職人のためだ,何とかしましょう。で,数は」
「20台。5月の末までにお願いします」
と,突然,中村の顔が強ばった。
「お帰りください」
「はっ?」
「あなたは何も分かってない」
「と,言いますと…」
「うちの製品は大量生産品じゃない,ってことですよ。我々は,一つひとつ丹精込めて造ってる。だから,月にできるのはせいぜい1~2台。今は3月末。5月までに20台なんて,はなから無理だ。あなたは一体何を考えているんだ」
しまった。小野寺は心の中でつぶやく。しかし,中村に,声に出して返す言葉が見つからない。
「さあ,お帰りください」
小野寺は,言われるがまま中村の工房を後にする。いや,中村に気押され後にするしかなかったのだが,これで本当にいいのか。思い返せば,西郷との予算折衝で南部紬や液晶テレビはあきらめるなど,妥協を重ねてきた。しかし,この岩谷堂だけは譲らなかった。セイコーが機械式腕時計を未来永劫造り続けるための意思の証しであるとして。それなのに,このままここで簡単にあきらめていいのか。いいわけがない。小野寺はきびすを返す。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
「また,あなたですか。お帰りくださいと言ったはず。何度,頼まれても同じことですよ」
小野寺は中村の目を正面からとらえ,静かに語り始めた。かつてセイコーが機械式腕時計の事業から撤退したこと。日本の時計産業がクオーツ時計により隆盛を極め,スイスの時計産業が凋落したこと。最近では形勢が逆転,スイスの高級機械式時計が復活し,日本が苦境に立たされる中,セイコーが再び機械式腕時計を造るようになったこと。その地が岩手であること。そして,セイコーがスイスに対抗し世界ブランドとなるためには,目の前にいる中村の,岩谷堂箪笥の伝統と職人魂が不可欠であること,を。いつしか,中村の表情にはいつもの温厚さが戻っていた。
「そういうお気持ちでしたか。分かりました。そのために岩谷堂の机を使ってもらえるのなら本望だ」
「では,協力していただけるんですか」
「ええ。ただし,5月までに20台はできません。それでいいですね」
「はい,もちろんです」
それから,中千家具製作所の工房の灯りは毎日夜遅くまで消えることがなかった。
見学者に見せたかったもの
季節は巡る。東北の長く厳しい冬が終わりを告げる。春。厚い雪が解けた大地から新しい息吹が顔を出す。夏。抜けるような青い空,深緑の林の中を涼やかな風が駆け抜けていく。そして,影が少し長くなりかけた初秋。盛岡セイコー工業に新しい組み立て室が完成した。その名も「雫石高級時計工房」。
2004年5月のプレオープンの際には5台だった岩谷堂の作業机が,9月の本オープンの今は20台並ぶ。中村がきっちりと間に合わせてきた。伝統工芸士の魂が宿る作業机に,職人たちが白い清潔な作業着を身に着けて向かう。その高さは,職人の体格に合わせて調整されている。いすは米Hermanmiller社の「アーロンチェアー」。人間工学に基づく独特の構造で,長時間にわたる作業でも腰痛や肩こりなどになりにくい。机もいすも,すべてが本物だ。
組み立て室の中は静寂に包まれている。聞こえてくるのは,職人たちの息遣いと,部品を所定の位置に配置するときなどに出るかすかな音だけ。職人たちが集中できるようにと,エアコンのコンプレッサは別室に置いた。
こうした中の様子を見学できるように,組み立て室はガラス張りとし見学通路を2本設けた。そのうちの1本は,従来のクリーンルームを二つに分断して設置したものだ。実は,クリーンルームを2カ所にすると,設備やら防火構造やら工事に多大なコストが発生する。それにもかかわらず,その見学通路にこだわったのは,あのコスト管理に厳しい西郷,その人だった。
「遠い岩手の地にわざわざ足を運んでくださる見学者の方たちに,ぜひ見ていただきたいものがありましてね」
その見学通路からは,組み立て室の中で職人たちが黙々と作業を続ける様子が見える。桜田守や大平晃といった当代一流の組立士が繰り出す神業は,彼らの手元にあるCCDカメラがとらえて見学通路に設置したプロジェクタが大きく映し出す。そしてふと遠くを見たとき,見学者の目には,ここ雫石の大自然が飛び込んでくる。
「ブナ林です。夏には広葉樹の葉が鮮やかな緑に染まり,冬には落葉した木々が真っ白な雪に覆われる。このブナ林が織り成す美しい四季は,スイスの時計の聖地,ジュラ渓谷にも決して引けを取らない。我々の真摯な時計造りと一緒に,本物の自然の醍醐味を味わってほしかったんです。たとえ,どんなにコストが掛かろうとも」
これが雫石高級時計工房だ。ここには,男たちの魂が宿る。田中淳。最初はたった1人だった。機械式腕時計の復活を来る日も来る日も唱え続けた。滝沢勝由,高橋岳,重城幸一郎。最初は右も左も分からなかった。一度は途絶えた機械式腕時計の技術を古い図面を基に復元し,今はそれを超えた。この男たちは同じ夢を見る。「雫石」から「SHIZUKUISHI」へ。この夢がかなったとき,セイコー機械式腕時計復活物語は完結する。
-終わり-
今までお読み頂いた方、ご苦労様でした。
お読み頂いて、どうでしたか? 私はいま読み返しても胸が熱くなってしまいます。
レベルは違いますが、初めて内容を話した時に「あなたは何も分かっていない」と云われた
というフレーズや、昔の手書きの図面を渡されてCAD化する話など、かなりの部分で仕事の事と
リンクしてしまい思い入れしてしまうので、思い出して涙腺が崩壊してしまいそうです。
そして、その頑張ってくれたSeikoさんのおかげで時計好きな私がその恩恵を享受出来ています。
彼らの熱い想いがなかったら、雫石高級時計工房も生まれて居ません。
故にグランドセイコーのメカニカルもそうですし、クロノグラフも復活していません。
で、私が一番気に入っている腕時計は↓の時計です。

3年前のモデルです。セイコー ブライツ アナンタ メカニカルクロノグラフモデル
品番:
SAEH009
【仕様】
・ケース素材 ステンレススチール(ベゼルは一部セラミックス)
・裏ぶた シースルー・スクリューバック
・ガラス素材 サファイアガラス(スーパークリア コーティング)
・バンド素材 ステンレススチール
・防水性能 日常生活用強化防水(10気圧防水)
・耐磁性能 耐磁時計(JIS 耐磁時計1種)
・ケースサイズ [ケース外径] 43.0mm [ 厚さ] 15.1mm
【ムーブメント仕様】
メカニカルムーブメント キャリバー 6S28
・巻上げ方式 自動巻(手巻つき)
・時間精度 日差+25秒~-15秒
・持続時間 最大巻上時約50時間
・その他機能 ストップウオッチ機能(30分計・12時間計)、タキメーターつき
・石数 34石
・サイズ [外径] 28.4mm [厚さ] 7.2mm
・部品点数 289部品
このモデルをスペック厨的に云いますと、スイスの超高額モデルを凌駕しています。
コレ以上は止しておきますが、見栄を張る為なのか実質を取るのか。
そう考えると機械式腕時計好きである私にとって、本当に有り難い事ですし同じ日本人として誇り高き事実ですね。
ものづくりの原点と云いますか、妥協せず真摯に造り結果として私たち消費者がその高い技術を高過ぎない金額で享受できるという有り難さ。
心の投資と云いましょうか、趣味嗜好には余裕と新しい活力の為に必要な物だと思えば、その意味でも非常に嬉しいですね。
それではまた。