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2015年11月10日 イイね!

【紹介記事】グランドセイコーの真価を知らない日本人へ~思うことなど

本日も前日と引き続き、腕時計のお話です。

しかもGSグランドセイコーの。

決して回し者ではないですが、知らないというのが一番いけない事だと思うので。

というか個人的には、“雄弁は銀、沈黙は金”を座右の銘にして来たという美徳感覚は

非常に日本人の琴線には響くのですが、あまりにも説明というか宣伝をし無さ過ぎで

歯痒く感じます。

とても素晴らしい技術を有していますので、是非興味が有れば一度手に取って

実際に一人でも多くの人に観てみてもらいたいです。





では以下に転載します。





〝グランドセイコー〟——残念ながらヨーロッパでは知られざる傑作

グランドセイコーの真価を知らない日本人へ
 
 
ギズベルト・L・ブルーナー:文
Text by Gisbert L.Brunner
岡本美枝:翻訳
Translation by Yoshie Okamoto

今回の論考に先立ち、ヨーロッパ人の視点から敢えて言わせていただこう。
セイコーは、非凡さ、神秘、そして一見矛盾しているように思える要素を同時に内包するブランドである。

ヨーロッパから遠く離れた日本で、この冒頭陳述を瞬時に理解してもらうのは難しいかもしれない。
なぜなら、セイコーは、1881年の創業以来、多くの雇用を生み出したばかりか、時を計測するという分野で数多くのパイオニア的業績を成し遂げた機関として、日本では高い知名度を誇っているからである。

〝古いヨーロッパ〟とは大いに異なる認識だ。
ヨーロッパの時計愛好家がセイコーと聞いてまず想起するのは、電子機器である。
この見解もまた、完全に間違っているとは言い切れない。
それを裏付けるのが、〝セイコー クオーツ アストロン〟だ。

マニュファクチュールであるセイコーが1969年にリリースした世界初のクオーツ腕時計であり、セイコーの歴史の中で煌めきを放つ金字塔のひとつでもある。
これに反して、地方都市・諏訪で67年に始動したプロジェクト、つまり自社製自動巻きクロノグラフの開発については、社史の中ではほとんど言及されていない。
日本のエンジニアと技術者たちは、彼らのお家芸である能率の高さをもって、このプロジェクトに着手する。

その結果、キャリバー6139の完成までには2年しかかからなかった。
直径わずか27㎜と、スイスのライバル、〝エル・プリメロ〟よりもさらに小型なキャリバー6139は、厚さは逆に0.15㎜厚い。

その代わり、早送り機能を備えた日付表示と2カ国語曜日表示を搭載していた。
一度、希望する言語に設定すれば、文字盤の表示窓には選んだ言語のみが表示される。
動力ゼンマイを巻き上げるのは、両方向に回転するセンターローターである。
〝マジックレバー方式〟によって、運動エネルギーを両方向で効率よく利用することが可能になった。

 3㎐というテンプの振動数により、6分の1秒の計時精度が実現した。
クロノグラフの特徴としては、コラムホイールや30分積算計が挙げられるが、当時、この上なく革新的だったのが、動力伝達時のエネルギーロスが少ない垂直クラッチ方式(摩擦車方式)を採用したことである。

垂直クラッチは、近年ではクロノグラフの工業規格と呼べるまでに成長している。
量産が軌道に乗るまで、さほど時間はかからなかった。
69年5月には、すでに〝61ファイブスポーツ・スピードタイマー〟の初回ロットが時計専門店に納入されている。

12時間積算計を追加したモデル6138は、70年に発売された。
ここまではよい。

しかし、〝世界初〟とも言うべき業績とは裏腹に、プロモーションは必ずしも積極的ではなかった。
パブリックリレーションズの欠如はさらに、今世紀初頭まで続いたのである。
ここで、セイコーの企業理念における根本的な問題に辿り着く。
スイスのある老舗時計ブランドは、〝牡蠣のように堅い〟と長年、陰口の対象となっていたものだが、セイコーの対外姿勢もどことなくこれに似ていた。
何年もの間、ヨーロッパのジャーナリストとして詳細な情報について東京に問い合わせても、決定的な答えは得ることができなかった。

理由は数年前にやっと明らかになった。
セイコー時計資料館には、自社製品や関連文献はもちろんのこと、ヨーロッパの展示品も数多く陳列されている。

だが、広範囲にわたる収蔵品とは対照的に、社史に関するアーカイブは必ずしも十分ではない。
数十年以上、セイコーの歴史は詳細に記録されていなかったのである。
その上、言葉の壁も軽視できなかった。
セイコーでは当時、社員の多くが英語の問題を抱えていた。

ヨーロッパ支社の広報部でも、状況はあまり変わらなかった。
それどころか、支社自体が日本からの情報が乏しいことに悩まされていたのである。

ただし、こうした事情はここ数年の間で著しく好転しており、セイコーの現経営陣が迅速で正確なパブリックリレーションズを重視していることは、セイコーの名誉のために言っておかなければならない。

 とはいえ、先述の情報不足が故に、セイコーの年代記における単に 〝重要〟というだけでは済まされない輝かしい一時代が、ヨーロッパの人々にほとんど知らされずにいるのは事実である。
この時期、セイコーは最高レベルの時計製造技術と公式認定を得られる高い精度を実現すべく努力を続けていた。

手巻きキャリバーの品質を徹底して絶え間なく向上させた結果、50年代にはセイコーが国内の精度比較審査の数々を制覇したことはよく知られている。
56年製の〝セイコーマーベル〟が、日本中央計量検定所 (訳注:現・計量標準総合センター) で58年に行われた審査で1位から9位までを難なく独占したのはその一例である。

ここで使用された手巻きキャリバーはセンターセコンドで、技術的にはオメガ30T2やプゾー260、またはゼニス135に引けを取らないものだった。

並外れたクォリティを備えるこのキャリバーは、やがてキャリバー3180へと昇華され、残念ながら日本の精度コンクールが廃止された60年にこの世に生を受けた〝グランドセイコー クロノメーター〟のファーストモデルに搭載されることになる。

 高精度時計の製造に取り組む諏訪精工舎(現セイコーエプソン)の社員の多くは当時、今後いかにしてスイス製時計に対抗すべきか、試行錯誤を重ねていた。
卓越した精度を誇る腕時計、 〝マーベル〟と〝グランドセイコー〟の生みの親である中村恒也氏も同じだった。

後にセイコーエプソンの社長となる中村氏は、幸運にも非常に世故に長けた人物で、ヌーシャテル天文台で毎年開催されるクロノメーターコンクールこそ、国際舞台としてセイコーが世界に向けて発信する場に相応しいと考えたのである。

中村氏は、コンクール規定を入念に研究し、ヨーロッパの有力メゾンに対して真のコンペティターとなるべく、諏訪製の候補機を送り込んだ。

だが、64年の成績は最高で144位と、期待を大きく裏切るものであった。
しかし、中村氏は手を緩めることはしなかった。
氏は不退転の決意をもって、磁気の影響を受けてしまったヒゲゼンマイなど、問題の原因を追求し、解決しようと試みた。

セイコーの時計師たちも、テンプの振動数を4〜5㎐にアップした。
この措置は、ヌーシャテルだけでなく、ジュネーブの天文台コンクールでも素晴らしい結果を出すことになる。

この頃、高精度化の一環として、諏訪精工舎と第二精工舎(現セイコーインスツル)亀戸工場を対象にセイコー社内のコンクールが行われた。

両精工舎はそれぞれ、特殊な構造を持つ独自の時計を開発していたが、受賞の栄光を勝ち取ったのは、その独特なフォルムから当時、社内で〝じゃがいも〟ムーブメントと呼ばれていた、第二精工舎の菅原修氏の設計したキャリバーだった。

セイコーはスイスのクロノメーターコンクールに積極的に参加し続けることで、わずか5年の間に144位から首位へと、大きく躍進する。

セイコーというブランドと高精度を実現した業績について、大掛かりな新聞広告で人々の注意を喚起するのに、天文台コンクールでの快挙は十分すぎるほどの説得力を持っていた。

だが、グランドセイコーのような傑出した時計であっても、日本国外での売り上げは伸び悩んだままであった (訳注:正確には当時、グランドセイコーはヨーロッパでの販売は意図されていなかった)。

 今こそ、その理由を解き明かしてみるべきではないだろうか。
なぜなら、これは60年代や70年代だけではなく、今世紀初頭まである程度はつながりのある現象だからである。

答えを出すにはさまざまな視点から検証しなければならない。

さらに、数ドルで手に入る最もシンプルなタイムピースからグランドセイコー、または74年にリリースされた〝クレドール〟のような最高級モデルに至るまでの、セイコーの極端なラインナップを避けて通っては、答えを導き出すことはできない。

ヨーロッパでは多くの人々が今でも、年間3億5000万個のムーブメントと1300万本の時計を大量生産する時計メーカーというイメージをセイコーに対して持っており、ヨーロッパの時計愛好家の大部分は、セイコーが繊細なヒゲゼンマイから針、文字盤、ケース、サファイアクリスタルに至るまで、必要とされる構成部品を自社製造しているという事実をあまり知らないのだ。

ヨーロッパと日本という地理的な理由もあるが、すでに述べたように、〝雄弁は銀、沈黙は金〟を座右の銘に、数十年以上も口を閉ざしてきたことも、こうしたイメージの源となっている。

89年に、筆者が個人的にセイコー時計資料館と両精工舎 (訳注:当時はセイコーエプソンとセイコー電子工業)を初めて訪れた時も、驚きを隠すことができなかった。

ドイツで特集記事を書くために詳細な情報を懇請したが、何も手に入れることができなかったのである。

 グランドセイコーという最高級モデルは、ヨーロッパのライバルと同様に、由緒ある日本のマニュファクチュール・セイコーが伝統的なメカニズムを放棄したことで、苦しい時代を迎えることになる。

クオーツ革命の到来とともに、セイコーはまったく別の路線を歩むことになったのだ。
当時、高級機械式時計の存在価値は下がる一方であった。

日本では少なくともロレックスと同等の価値を認められていたグランドセイコーも、75年には一時的に生産停止に追い込まれてしまった。

こうした状況下において、グランドセイコーを熱望するヨーロッパの時計愛好家は、日本に旅行した際に購入するしかなかったのだ。

セイコーのクオーツ路線は、グランドセイコーの人気が復活し、ルネサンスを迎えた88年以降も変わらなかった。

その後、10年はクオーツの時代が続き、機械式の内部機構が復活したのは98年になってからである。

 ヨーロッパへの販売網の拡充については、東京本社では誰も考えなかったようだ。
年間生産数がセイコーの全生産本数の1000分の1にも満たないというグランドセイコーは、日本国内の需要をカバーするだけで手一杯だったのだろう。

 グランドセイコーの最新世代に至って、日本の伝統メゾン、セイコーはようやくヨーロッパ市場にも打って出た。
しかし、セイコーにとっては残念ながら、先述の理由で厳しい道のりとなるだろう。
高額モデルの価格設定が正当であっても、メディアや時計専門店とのコミュニケーションがスムーズになっても、廉価品と高額品との間に極端な開きがあることは、販売部門の責任者にとって頭の痛い問題なのである。

セイコーが十分すぎるほどの実力を備えているにもかかわらず、ヨーロッパの顧客は、マニュファクチュール・セイコーと〝オート・オルロジュリ〟(高級時計製造)という枕詞をなかなか結び付けて考えないのだ。

 今日、セイコーが所有する、東京から東北へ約500㎞離れた盛岡にある雫石高級時計工房も、名機を生み出す隠れた名工房である。
ここでは、スペシャリストによって集中的に訓練された職人たちが、最高峰のメカニズムを搭載した高級時計を日々製造している。

約60人の社員のうち、約20人の熟練時計師が時計作りに打ち込む雫石高級時計工房は、日本の時計産業が提供し得る最も洗練された時計を世に送り出しており、そのムーブメントの大部分が手作業で製作されていることは驚きに値する。

スイスでは、多くの工房で久しく行われていないことである。
ケースに手作業で入念に施された〝ザラツ研磨〟は、贅沢な仕上がりが魅力的だ。
また、グランドセイコーの新作に搭載されたムーブメントは、スイスのC.O.S.C認定クロノメーター規格さえ上回る優れた精度を備える。

 時計蒐集家であり、愛好家である筆者の視点から言うと、時計通にとってグランドセイコーは、まさに〝マスト〟といっても過言ではないアイテムである。

いつの日か、製品に込められた愛情、卓越した加工品質、そして、その高精度が広く知れ渡れば、ヨーロッパにおいてセイコーの成功を妨げるものは何もないはずだ。

〝グランドセイコー〟は、支払う価格に対して得られる価値が並外れて高い時計なのである。




ギズベルト・L・ブルーナー
ジャーナリスト。1947年ドイツ生まれ。67年、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン入学。法学、心理学、教育科学を研究し、72年と77年に学位を取得。70年代半ば以降、腕時計に強い関心を持ち、蒐集を始める。81年より時計誌『Alte Uhren』の編集者、83年には共著『Wristwatches』を上梓。現在はドイツの『Chronos』『Klassik Uhren』を中心に、時計誌や経済誌などに幅広く寄稿。83年以降、今日まで著作は約20冊を数える。




転載おしまい





如何でしたか?

ココまで読めば、奥ゆかしいと云えばいいのか、呆れるくらいに“沈黙”過ぎですよね。

もし興味があれば某有名ブランドの製品を手に取る前に、一度は手に取って確かめて

もらいたいです。





で、いま手に入るグランドセイコーの中で特にお勧めが

最大巻上時間72時間の自動巻モデル Cal.9S65 を採用した時計です。

写真を ↓ に貼りつけておきますので観てみて下さいませ。














それではまた。
Posted at 2015/11/10 13:12:40 | トラックバック(0) | 時計 | 日記
2015年11月09日 イイね!

【Seiko】日本が誇る機械式腕時計の復活話(下)

続きです。




第6回:何で今さら…(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/15 00:00
出典:日経ものづくり、2005年11月号 、pp.153~155 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)


外堀は埋まった

 記念モデルの成功を境に,機械式腕時計に対する風向きははっきりと変わり始めた。逆風から順風へ。その証拠に,セイコー電子工業の中にも,実際に時計を販売する服部セイコーの中にも,田中の理解者が次々に現れた。

 その1人が,新しい事業部長の森田克彦。機械式腕時計の事業化に向け手を替え品を替え説得を試みたが,ついぞ首を縦に振ることのなかった伊藤潔が本部長に昇進し,その後任として事業部長のポストに就いた。機械式腕時計の設計に携わってきた森田は田中の計画に理解を示し,一緒になって伊藤の説得に当たってくれた。

 一方,服部セイコーの中でも,田中が企画を相談する窓口の担当者が機械式腕時計の事業展開に前向きな見方を示すようになった。セイコー電子工業はあくまでメーカー。服部セイコーの販売戦略に合致した商品を提供しない限り,市場に投入されることはない。服部セイコーの担当者は当初,機械式腕時計に対し厳しい見方を示していたが,ここにきて販売に大まかな承認を与えるまでに至っていた。

 こうして社内外において,機械式腕時計の事業化に対する賛同の声が渦巻き始める。さらに,時計市場ではスイスの高級機械式腕時計が確かな足取りで伸び始めていた。外堀は埋まった。ついに,あの伊藤が重い腰を上げる。

 「KT準備室」。伊藤はベテランの技術者数人を招集し,機械式腕時計の量産化を前提に,技術的検証を積み上げる特別チームを設置したのである。田中はKT準備室には入らなかったものの,企画部門の立場から同準備室と連携し機械式腕時計の事業化を推進していくことになった。

 KT準備室でまず課題となったのが,機械式腕時計の心臓部であるムーブメントの選定。田中は機械式腕時計の復活を華々しく飾るために,最先端のムーブメントを新規に設計し,できればセイコーのフラッグシップ・モデル「グランドセイコー」に搭載したいと提案した。しかしこの意見はKT準備室の面々に反対される。てんぷ,アングル,がんぎといった特有の動力伝達機構を採用する機械式腕時計の設計ノウハウを持っている技術者がほとんどいない,新規設計はできないというのだ。無論,田中に返す言葉はなかった。

 記念モデルに採用した6810も,年間数千個の需要を想定した場合,組み立ての難しさから量産に適さないと判断された。結局,KT準備室が選んだのは,1970年代まで国内で生産されていた52系ムーブメント。量産機種に採用されていた中では,最も精度に優れるムーブメントの一つで,当時若者に人気だった「キングセイコー」などに搭載されていたものだった。

 当初の思惑とは多少異なるもののムーブメントが決定し,機械式腕時計復活に向けての準備が本格始動する。


新人に与えられた仕事

 時計技術部生産設計課に真新しい作業着に身を包んだ1人の新卒社員が配属された。高橋岳。大学で機械工学を学んだ彼の会社での夢は,メカとエレクトロニクスを融合させた最先端の製品の開発設計に携わること。大志を胸に配属先に初めて顔を出した高橋。緊張の第1日目がスタートした。

「以上,生産設計課の業務内容から各種書類の手続きの仕方まで一通り説明したけど,何か質問は」

「はい,大丈夫です」

「まあ分からないことがあったら,誰でもいいから遠慮なく聞くように。じゃあ早速だけど,君にやってもらいたい仕事があるんだ」

「はい」

大きく,そして歯切れの良い返事は,初々しい新人らしい。

「高橋君は,研修で今の時計の製造過程について習ってきたんだよね」

「はい,大まかに」

「もう一度説明するけど,今の時計製造ではCAD/CAMは欠かせないんだ。CADで設計し,そのデータを利用して金型も造れば部品も製造する。その肝心要のCADについては知識あるよね」

「はい,大学の授業で使いました」

「それなら話が早い。要は,CADできちんと設計できないと,今や高品質の時計を低コストで量産することは難しい。手描きの図面を基に設計者と製造現場で加工方法を打ち合わせるなんてことは,もう昔の話なんだよ」

「つまり私は,CADを利用して設計業務に当たるんですね」

「正解。で,手始めに,あの図面をCADに落としてほしいんだ」

 教育係の先輩設計者が,高橋がこれから使うコンピュータの前に積まれた書類の束を指さす。そこから1枚を取り出してきて,高橋に見せる。図面のタイトルには「5216」とある。

「これは何ですか」

「1970年代まで生産していた機械式腕時計のムーブメント」

「機械式腕時計?」

「クオーツとか電池とかは一切使わずに,機械部品だけで純メカ的に動く時計のこと。実は,近く機械式腕時計を復活することになってね,そこにこの5216ムーブメントを搭載することが決まったんだ」

「そうなんですか」

「だけどご覧の通り,昔の手書きの図面しか残ってなくてね。でも,今の時計の製造にはCADデータが欠かせないだろ。で,君にはこの手描き図面をCADで電子化してほしいんだ」

マジかよ。

「何か言った?」

「いえ何も」

「しかし,君も運のいいやつだ」

「はっ?」

「初仕事で,機械式腕時計の復活っていう歴史的事業に立ち会えるんだから。まあそんなわけで,図面はたくさんあるけど頑張ってよ」

 運がいい? 冗談だろ。なんで今さらメカなんだ。エレクトロニクス全盛のこの時代に。志と対極にある仕事を与えられたことに,高橋はすっかり落ち込んだ。


マイクロフィルム
機械式腕時計の図面を収めてある。


CAD図面(右)と手描き図面(左)
手描き図面を参考にしながら,不足している情報を付け加えてCAD図面を新規に作成した。


簡単な作業のはずが…

 セイコー電子工業では,生産を中止していた機械式腕時計に関する大量の図面を,マイクロフィルムに焼き付けて保管していた。高橋の目の前に用意された図面は,そのマイクロフィルムを再度紙に転写したもの。紙の状態の時に保管状態が悪かった図面については,線や寸法が消えたりかすれたりしたままだった。電子化するに当たり,そこは想像を働かせるしかない。

 今は与えられた仕事をこなすだけ。気持ちを切り替えた高橋は,簡単な図面を引っ張り出しCADに向かう。分厚いマニュアルを手に,線を引き,円を描き,公差を記入していく。確かに,CADの操作を覚える教材として,純メカ的な機械式腕時計は悪くない。

 順調に1枚目が出来上がり,2枚目に手を付ける。これは少し手ごわそう。寸法は辛うじて読み取れるが,公差が丸っきり分からない。どうしよう。この部品に合わせる相手部品の寸法公差を参考にすれば,見当が付くかもしれない。だけど,その部品の図面はどこだろう。高橋は図面のぶ厚い束の中からようやく見つけ出し,それを参考に推理を働かせながら完成させた。

 CADの操作にも慣れ始め,枚数を順調に重ねていく高橋。そんな新人を困らせたのは線や寸法の消え,かすれとともに,図面の不備だった。例えば,曲率の違う二つの曲線がつながり合う部分。図面にある通り,二つの曲線の曲率を設定し描かせてみると,つながらない。図面の解読ミスか。かすれた文字をもう一度読み取る。間違ってない。CADの操作ミスか。マニュアルを見直す。問題はなさそうだ。結局,図面の不備としか考えられず,試行錯誤で新たに曲率を設定し直すことになった。

「手書きで書いた図面なら,曲率などの数値が多少違っていても適当にデフォルメすれば問題ありませんが,CADではうそをつけません。そんなこんなで苦労しましたけど,機械式腕時計の構造が頭に入ってくるようになると,その巧妙さ,美しさ,そして動きの面白さにだんだん興味がわいてきました。今となれば,最初の仕事がこれで,本当に運が良かったと思いますよ」

 こうして高橋が52系ムーブメントの復刻に向けて図面のCAD化を進めれば進めるほど,焦りを感じる男がいた。順調な進ちょく状況を最も歓迎すべきはずの田中,その人だった。






第7回:苦難の船出(上)
木村 知史=Tech-On!2012/03/20 00:00
出典:日経ものづくり、2005年12月号 、pp.136~137 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

 1992年初夏。東京・京橋の上空には灰色の梅雨雲が低く垂れ込み,雨がぽつりぽつりと落ちてきた。その中を,服部セイコー(現セイコー)本社に1人の男が飛び込んで行く。セイコー電子工業(現セイコーインスツル)の田中淳。今日こそは。不退転の決意を胸に訪問先の商品企画部門へと向かった。

 田中がこうして訪れるのは,幾度目のことだろう。110周年記念モデルに続く機械式腕時計の次期発売モデルを検討する会議。機械式腕時計の復活に積極的なセイコー電子工業と,慎重な姿勢を崩さない服部セイコー。「造る側」と「売る側」の溝は埋まらず,議論は毎回平行線をたどっていた。

「繰り返しになりますが,110周年記念モデルは機械式が売れました。機械式は腕時計の原点。その歴史の再現を市場は望んでいます。時計メーカーの老舗として,機械式時計を本格的に復活させることは,文化的な責任を果たす意味でも大きいと思うのです。さらに,スイス勢の高級機械式腕時計の売り上げは年々伸びています。その様子を見ているだけでなく,一刻も早く市場に参戦する必要があります」

「ただ見ているわけじゃない。田中さんの企画書はリスクが大きすぎます。うちの経営陣が首を縦に振るとは到底思えない」

「リスク?」

 田中の企画書には,セイコー電子工業で機械式腕時計復活の命を受けた「KT準備室」が選んだ52系ムーブメントをベースに,仕様に応じてグレード展開する旨が記されていた。

「セイコーは機械式腕時計を捨て,クオーツで世界一に上り詰めました。なのに今さら,機械式腕時計を大々的に展開するなんて,できっこないですよ」

「でも,あの110周年記念モデルはすごく評判が良くて,あっという間に売り切れたじゃありませんか。市場は待っているんです。あの熱が冷め切らないうちに,もっと広い層の顧客にセイコーの歴史を訴えていきましょうよ」

「数百個の記念時計ならいざ知らず,田中さんの言うようにグレード展開して本格的に数をこなすとなると,我々販売サイドにはそれなりの準備が要ります。特に,機械式腕時計の場合には修理はもちろん,定期的なメンテナンスを必要とするから,我々や販売店にはその知識が求められる。だけど,機械式腕時計を捨てた今となっては,そこが一朝一夕にはいかないんですよ。少なくとも数年はかけて準備しないと」

 セイコーブランドの現在の位置付け,仮に商品化したときのセイコーブランドの名に恥じないアフターサービス体制の構築。その2点が,服部セイコーにとって機械式腕時計復活の大きな障害だった。会議室には,窓越しの厚い梅雨雲のような暗雲が立ちこめる。

「もちろんそのことは理解しています。だけど,我々には時間がないんです」

「何度も言うように,もう少し時間をかけて考えたい。しかし分からないなあ,田中さんが何でそんなに急ぐのか」

「今がラストチャンスなんです」

「ラストチャンス? 何が?」

「これまでお話ししてきませんでしたが,人の事情です。機械式腕時計の復活には設計でも製造でも,かつてそれに携わった熟練技術者の力が絶対に必要です。ところが,その熟練技術者たちは新たな事業の枠組みに再編されようとしていますし,おまけに定年でどんどん退職し始めています。だから今すぐ,彼らが一人でも多く残っているうちにプロジェクトをスタートしたいんです。今の技術者は機械式腕時計のことを全く知りませんから」

「発売時期を延ばしてると,熟練技術者の技能が絶えてしまうってこと?」

「はい。ここ1年がギリギリのタイミングなんです。セイコーブランドの名にふさわしい品質の高い機械式腕時計を世に送り出すためには,彼らが残っている今,動き出すしかないんです。アフターサービスの問題は,走りながら解決させてください」

 沈黙は,外が土砂降りに変わっていることを気付かせる。大粒の雨が窓を激しくたたいている。まるで,服部セイコーに最後の決断を迫るかのように。

「人の問題ねぇ…。分かりました,少し前向きに検討してみましょう。ただし,条件がありますけど」

 後日,田中に次期機械式腕時計の発売が1992年末に決まったことが伝えられた。併せて,グレード展開を唱えた彼の企画が変更されたことも。発売されるのは,52系ムーブメントを搭載したものと,110周年記念モデルに利用した薄型ムーブメント6810を搭載したものの2モデルのみということだった。機械式腕時計の本格的な復活を華々しく飾りたかった田中の思惑とは隔たりがあったが,そこが服部セイコーの条件,セイコーブランドを守るためのギリギリの妥協点だったのである。


莫大な設備投資

発売モデルの決定を受け,セイコー電子工業のKT準備室は組み立て作業に携わる技術者を増員し「マイスターKT」と名称を変更して,総勢約50人で再スタートを切った。早速,機械式腕時計の組み立て作業の練習を始める。指導するのは,桜田守をはじめとする熟練技術者たち。吸収の早い若手技術者たちは,めきめきと腕を上げていく。

 一方,時計技術部生産設計課では高橋岳らを中心に進めてきた,52系ムーブメントの手書き図面のCAD化が終了。これを基に,一部新しい部品を取り入れた新型ムーブメント「4S35」が次期機械式腕時計向けに設計された。

 その4S35の構成部品の製造に関しては事前に,機械式腕時計の事業化を決めた本部長の伊藤潔から,田中ら企画部門に宿題が出されていた。「新しい機械式腕時計にふさわしい新しい製法を考案せよ」。大きな販売数量を見込めないことから,少量生産でもコストの掛からない製法が求められたのだ。


新型ムーブメント「4S35」
1992年11月11日に,服部セイコーに送品された。


一番のやり玉に挙がったのは「受け」の製法。受けは,各種歯車などを固定するため歯車同士の軸間距離などに高い精度が求められ,従来は精密プレスで加工していた。しかし,高価な金型が必要になるため,多額の投資を回収するには大きな販売量が条件となる。

 そこで浮上したのがNC切削。必要なときに必要な量だけ加工でき,プレスほど初期投資が掛からない。田中らは精度,コストなどあらゆる角度から検討を積み重ねた。しかし伊藤には「現在のNC切削の技術では,我々が求める品質は確保できません。プレスでいかせてください」と答えたのだ。

「そりゃ怒られましたよ,伊藤本部長には。説得は最後までできなかったと思います。販売数量は順調に増えます,金型代は必ず回収しますと,やっとの思いで了承をもらいました」

 この結果,4S35の部品製造に必要な金型代などに多大な投資をして製造がスタート。部品が完成すると,それをマイスターKTの面々がムーブメントとして命を吹き込んでいった。

 1992年11月11日。高塚事業所では,4S35を初めて服部セイコーに出荷する朝を迎えていた。その夏,副社長に昇格した伊藤らのテープカットに続き,4S35を積み込んだトラックが事業所を後にした。それを見送る田中に,しかし笑顔はなかった。





第8回:苦難の船出(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/22 00:00
出典:日経ものづくり、2005年12月号 、pp.137~139 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

名前に恥じない魅力

 田中の企画書では,全世界で年間3万個以上の売り上げを目標としていた。これは多大な設備投資を回収するための最低限の数字だ。

「厳しいとは思っていましたが,案の定1993年の数字は見るも無残でした。全く宣伝販促が行われないとか販売の努力が足りないとか,いろいろ不満はありましたが,社内に説明できる数字ではありませんでした。針のむしろとは,まさにこのときのこと。社内の進捗と服部セイコーの実情を調整しきれなかった責任を強く感じました。とにかく,販売量を確保する努力を続けるしかありませんでした」

 1994年,大市場を求め米国に進出。しかし,米国におけるセイコーブランドの腕時計の価格帯は,高級品でも200~300米ドル。機械式腕時計とはいえ,ここを大きく逸脱する価格は提示できない。結果,販売量はそこそこ確保できたものの,利益は薄かった。

 国内では依然,苦戦が続いていた。そんな中,服部セイコーからある提案が持ち上がる。1913年に国産初の腕時計として発売した,同社の原点「ローレル」ブランドの使用。この提案を田中は歓迎し,かつてのローレルをほうふつとさせるデザインを追求した。

 市場に投入した機械式腕時計のローレルは,3針式や3針カレンダー付き,小秒針付きなど計6モデル。販売価格は5万~7万5000円と比較的安く抑えた。結果は大成功。販売数量が急増したのである。機械式腕時計事業はピンチを脱し,ようやく軌道に乗り始めた。

 この勢いを駆って,セイコーの高級ブランド「クレドール」のラインアップも大幅に拡充。電池の巻き残量を表示する機構など,高級ブランドにふさわしい機能を新たに付加し好評を博した。当時,設計部門で汗をかいた中尾秀幸はこう振り返る。

「それまでは,本当に機械式腕時計でいいのかと,疑心暗鬼な気持ちがぬぐい切れませんでしたが,売れ行きが良くなると一転,我々のやり方に間違いはなかったと自信が持てました。すると不思議なもので,次はやれ複雑時計の代表格であるクロノグラフだの,やれフラッグシップ・モデルの『グランドセイコー』への展開だの,設計部門全体に欲が出てくるんですね」

実は,クロノグラフとグランドセイコーこそ,機械式腕時計の復活を目指したときからの田中の悲願だった。彼は事あるごとに,服部セイコーに提案していたが,その都度「時期尚早」とはねつけられてきた。

 ところが1996年秋,ついに服部セイコーから企画が切り出される。ローレルに展開以降,クロノグラフやグランドセイコーの機械式腕時計を望む声が市場からわき起こり,背中を押された服部セイコーがついに決断を下したのである。そして商品化の時期は,クロノグラフが1998年初め,グランドセイコーが1998年末と決まった。


同期2人のチャレンジ

設計製造するセイコー電子工業で設計担当に指名されたのは,クロノグラフが,入社直後に52系ムーブメントの手書き図面をCAD化した高橋,グランドセイコーが,高橋と同期入社の重城幸一郎。統括は,滝沢勝由だった。

 各ムーブメントは,4Sシリーズをベースに設計されることになった。無論,新規設計という選択もあるが,対象は複雑時計とフラッグシップ・モデル。経験の浅い若手設計者2人には,新規設計はハードルが高すぎると思われた。

 スケジュールがよりタイトな高橋は残業もいとわずに設計に没頭した。彼が担当するクロノグラフは通常の時間表示とは別に,ストップウオッチ表示のための針を備える。この動力も,主ゼンマイから取り出さなければならない。既存の部品を避けるように大きく迂回しながら,動力を伝える。そのためにレバーの形状を工夫するなど,部品も機構自体も必然的に複雑となる。

 入り組む部品をCAD上で巧みに配置していく高橋。その間に,季節は秋から冬へと移り変わる。1996年暮れ。一通りの設計が終わった。

 図面を確認した滝沢は,高橋にそれを検図に投入しておくように言い残し,一人シンガポールに飛んだ。かの地には,海外向けの廉価版機械式腕時計の量産工場がある。高橋の設計したムーブメントの部品が,そこでどれだけ製造できるのか。滝沢は現地を視察し,想像以上の手応えをつかんだ。

 現地から,滝沢は日本の本社に電話をかけ,高橋を呼び出す。

「そっちの検図の結果はどうだった?」

「それがぁ…」

 どことなく声にハリがない。

「検図メンバーから,あの設計では無理があるという声が挙がっています」

「どうして? 動力がちゃんと伝わるのは俺も確認したし,外形寸法だって要求の枠内にきちんと収まっている」

「動力の伝達効率が問題だと…」

「伝達効率?」

「はい,この設計だとゼンマイの動力がてんぷまで十分に伝わらず,クロノグラフ作動時に精度が悪くなると」

「精度かぁ。それはまずいなあ。で,解決策は」

「今はまだ。ただ,滝沢さんがお帰りになるまでには何か考えておきます」

「うん,頼む。俺も考えてみるけど」

 数日後。設計部の窓際の打ち合わせテーブルには滝沢,高橋,重城の3人の姿があった。

「で,高橋,どうする?」

「ええ,4Sシリーズをベースに設計する限り,どの道無理なんじゃないかと」

 こう言いながら,高橋はテーブルに1枚の紙を広げ始めた。そこには,滝沢がかつて一度も目にしたことのないムーブメントの原案が描かれている。

「何これ?」

「重城と2人で考えた新しいムーブメントです」

「まさか,新規に起こし直そうって言うんじゃないだろうな」

「はい,そのまさかです。自信を持って製品化するにはこれしかないというのが,我々2人の結論です」

「しかし,何でまた2人なの?」

 重城が初めて口を開く。

「これを,グランドセイコーにも利用しようと思いまして」

「グランドセイコーにも…」

「そうです。グランドセイコーの精度はスイス以上。その高さたるや,尋常ではありません。実際,設計してみて分かったんですが,4Sベースでそこまでもっていくのは至難の業。いや,まず無理だと思います。で,高橋から相談を受け,じゃあ2人で一から起こすか,となったんです」

「海外出張で俺がいないことをいいことに?」

「いや,そうじゃなくて…」

「確かに,二つのモデルで共用できるのなら,その方がコスト的にも人員的にも効率的なことに間違いはない。問題は,我々にはムーブメントを一から設計した経験がないということと,時間があまりに少ないということ。それでもできるの?」

 顔を見合わせる高橋と重城。2人の決意は既に固まっている。

「設計者として挑戦したいんです,新規設計に」

 高橋の言葉を重城がつなぐ。

「ただ,お願いが一つあります。納期を少し延ばしてほしいんです」

「納期は俺じゃない。部長マターだ。君たちの言う方向で掛け合ってみるか」

 3人はその足で部長の元に行き,新規ムーブメントを設計したい旨,そして納期を遅らせたい旨を伝えた。これに対する部長の答えは明瞭だった。

「何甘いことを言ってんだ。納期は守れ。さもなきゃ,別の方法を考えろ。もう一度言う。納期は守れ。絶対だ」

 このとき,2人に残されていた時間は,高橋が1年を,重城が2年を切っていた。






第9回:気鋭の才と練達の智(上)
木村 知史=Tech-On!2012/03/27 00:00
出典:日経ものづくり、2006年1月号 、pp.144~146 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

 セイコーの機械式腕時計が20年の深い眠りから覚めて5年の歳月が流れた。1997年。ついに,複雑時計の代表格であるクロノグラフと,セイコーのフラッグシップ・モデル「グランドセイコー」の商品化が決まった。片や,機械式腕時計の技の粋を集めるモデル。片や,セイコーブランドの頂点に君臨するモデル。この二つの機械式腕時計を市場に投入して初めて,機械式腕時計復活物語は最終章を迎える。ところが,その物語が今,未完の危機にさらされようとしていた。

 時間がない─。セイコー電子工業設計部の若手のホープ,高橋岳と重城幸一郎が頭を抱える。彼らの提案で,新規ムーブメントを一から起こすことになったものの,設計は遅々として進まない。クロノグラフとグランドセイコーの各ムーブメントのベース部分を共通化した上で,精度を確保するための要となるてんぷ周りは重城,クロノグラフのストップウオッチなど複雑機構は高橋と,設計を分担し効率化したにもかかわらず。理由は,彼らにとって機械式腕時計の新規設計が初めてのことに加えて,クロノグラフは複雑さで,グランドセイコーは精度で従来のラインアップとは比較にならないほど高いレベルが要求されていたことだ。

 2人は未開の原野をさまよい続ける。クロノグラフ,1998年初め。グランドセイコー,1998年末。この発売時期という目に見えぬ重荷を背負って。


人員増のための妙案

 設計を統括する滝沢勝由もまた,厳しい現実に頭を痛めていた。高橋と重城の2人は,主に構想設計に時間を取られ,詳細な図面が描けない。自分を含めて今の3人体制では無理。発売時期に間に合わせるには,倍の人数は必要だ。しかし,増員の話は何度か課長に断られてきた。どうしたら説得できるのか。目を閉じ,思慮を巡らす滝沢。しばらくあって,目を開ける。あの手があるか。そうつぶやくと席を立ち,設計課長の中尾秀幸の元に向かった。

「中尾さん,例の増員の話なんですが」

「またその話か。君も知っているように,新規製品の設計はだいたい2人。もちろん,これまでの新規設計と全然違うことは,おれも十分承知している。だからこそ,君には高橋と重城をつけて3人でやってもらっているんだ」

「ええ,それは分かってます。だけどやっぱり間に合わないんです」

「……。仮に増やせるとしてだ,せいぜいあと1人」

「いえ,あと3人下さい」

「それはいくらなんでも無理だよ」

「じゃあ,こういうのはどうでしょう。あと3人増やす代わりに,3次元CADを利用して,今回の新しいムーブメントをすべて設計する」

「3次元CADって,この前入れたやつだろ。やっと一つのモデルの開発に使ったくらいって聞いてるけど」

 当時,設計部は3次元CADを導入したばかり。先行して,あるクオーツ時計の設計に利用してみたものの,慣れない操作に苦労の連続だった。

「時間がない上に,3次元CADか」

「リスクは覚悟してます。だけど,3次元CADは視認性が良い,干渉チェックも簡単にできるなどたくさんのメリットがある。今回のムーブメントの開発でも,複雑なクロノグラフの機構などをチェックするには有効です」

「実はこの前,おれも3次元CADを触ってみたんだよ。あれが使いこなせるようになれば,確かに業務プロセスは大きく変わる」

「ええ,機械式であれクオーツ式であれ,ますます高機能化する腕時計の開発には,3次元CADは欠かせないツールになるはずです。けれど,問題は」

「2次元CADに慣れた設計者が3次元CADに尻込みしていることか」

「その通りです。だから,今回のチームですべての設計に3次元CADを活用し,導入に弾みをつける。注目度の高いプロジェクトで成功すれば,導入機運は一気に高まるはずです」

「どの道,3次元CADの導入を推進するプロジェクトチームを立ち上げる予定だったんだが,それを君たちが兼ねるというわけか。考えたなぁ」

「どうでしょうか」

 畳み掛ける滝沢。

「妙案だよ,これは。きっと部長も納得してくれるだろう」

「ええ,そう願いたいものです」

 願いはかなった。設計部長は滝沢の提案を了承,彼のチームはこの春入社する新人1人を含む6人に増員された。


測定できないほどのゆがみ

 希望通り,人員は増えたものの,滝沢,高橋,重城ら開発の面々の忙しさに変わりはない。すべてを一から設計するという作業は,想像以上に困難なのだ。乏しい経験故,時にはひげぜんまいやてんぷなど機構別に解説された分厚い専門書を熟読したり,時には退職した機械式腕時計の設計者を招いて勉強会を開いたりと,数十年分に匹敵する技術・技能を数カ月で体得しようと試みる。重城いわく「これまでの人生の中で,この時期が一番勉強した」。

 予想されたこととはいえ,3次元CADにも苦戦した。乏しいノウハウ故,わずかな形状を作り上げるのにさえ時間がかかる。パソコンの性能も,3次元CADを動かすにはいまひとつで,頻繁にフリーズする。それでも,彼らはモデリングの仕方や修正の仕方など便利な機能を見つけてはメンバー同士で共有し,ノウハウをコツコツと積み上げる。高橋いわく「FEMや干渉チェックがやりやすいなど,3次元CADのメリットが次第に分かってきた」。

 クロノグラフの発売まで半年と迫った1997年夏。高橋が一足先に試作品を造り上げ,動作を確認する。竜頭を巻く。命を吹き込まれたひげぜんまいが,人間の心臓のように規則正しく躍動し始める。秒針が動く。その1/60のスピードで分針がゆったりと回りだす。基本の時計機能は良好だ。

 続いて,クロノグラフならではのストップウオッチ機構の確認。竜頭の上に設けたスタート/ストップ用プッシュボタンを押す。カチ,カチと,クロノグラフ針が1秒ずつ正確にラップを刻み始める。もう一度プッシュボタンを押し込めば,クロノグラフ針がピタリと止まる。それが,目的の計測時間。最後に,竜頭の下のリセット用プッシュボタンを押すと,クロノグラフ針が目にも留まらぬ早さで12時の位置に戻る。これが,ストップウオッチ機構の本来の動き。しかし,初めは作動していたスタート/ストップ用プッシュボタンが徐々に重くなり,最後には微動だにしなくなった。なぜだ。滝沢が,重城が,誰より高橋が落胆する。

「クロノグラフ機構を動作させる板金部品のレバーの強度が足りずに,スイッチが入らなかったんです。レバーを0.2mmから0.3mmに厚くしてもらうことにしたんですが,これがまた一苦労。0.1mm厚くするだけで,部品と部品との間隔を見直さなければならない。何より驚いたのは,測定できないほどのゆがみが発生し動作不良を起こしたこと。これを修正するには,0.01mm単位の調整が必要になりました」

 正確な動作を得ることさえ難しいのに,高橋は試作部門に対してさらに高い要求を突き付けた。

「プッシュボタンの操作感です。海外のクロノグラフのそれは,往々にして固い。中には,指の腹にプッシュボタンの跡が残るものさえある。私が求めたのは,軽いけど,カチッという確かな感覚が伝わる操作感。この点に最後までこだわりました」

 高橋の無理難題に,試作部門は一つひとつ地道に,そして確実に応えていく。かくして1997年10月に量産体制を確立し,翌1998年3月に発売に至った。新規ムーブメント「6S」シリーズを搭載した「セイコー・クレドール パワーリザーブ クロノグラフモデル」。日差-10~+15秒という精度の高さ,優れた操作感のストップウオッチなど,品質,機能,デザインすべてにおいて100万円という価格に恥じない,機械式クロノグラフの誕生だった。


「セイコー・クレドールパワーリザーブクロノグラフモデル」
1998年3月の発売で,価格は100万円。


キャリバー「6S74」
(後にタグホイヤーのカレラ1887クロノグラフに搭載されるキャリバーのベースにもなる名機)
※その話はココ↓を参照願います。
http://www.webchronos.net/specification/2456/






第10回:気鋭の才と練達の智(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/29 00:00
出典:日経ものづくり、2006年1月号 、pp.146~147 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

自分で自分の首を締めることに

一方,グランドセイコーを担当する重城は,CAD端末に向かい続ける。一足先に完成した6Sシリーズは,重城が考えたムーブメントをベースに設計されたもの。しかしこのムーブメントは,グランドセイコーには使えない。

 流用を阻害しているのは,ほかでもない重城自身が定めたグランドセイコー規格。それは,スイスのクロノメータ検定協会が規定した,世界最高レベルの「クロノメータ規格」より厳しい精度を要求する。例えば平均日差と姿勢差は,クロノメータ規格が-4~+6秒と5方向であるのに対し,グランドセイコー規格が-3~+5秒と6方向。とりわけ,クロノメータ規格より一つ多い姿勢差は重城を苦しめ抜いた。

「姿勢差とは,腕時計の使用状況を考慮し,あらゆる姿勢で精度が保証されることを確認する検査のことです。新たに追加したのは,12時を上にした姿勢。検査して初めて分かったんですが,重力の影響で必ず遅れる姿勢があるのです。それが12持を上にした姿勢だったんです。これで理解しましたよ,クロメータ規格の姿勢が5方向であること,12時を上にした姿勢が抜けていることのワケを」

 1998年も夏に近づくころ,重城は誰よりも早く出社し誰よりも遅く帰った。CAD画面には常に「9S」シリーズと名付けられたグランドセイコー向けムーブメントのてんぷ周りが映し出され,来る日も来る日も調整を続ける。

 そして,「いける」と思えば,大野事業所に試作・評価を依頼する。見るのは,大平晃。セイコー電子工業が最初に復刻した4Sムーブメントのクロノメータ規格取得に尽力した男。500個限定発売のその4Sムーブメントの最終調整を一手に引き受け,すべてを合格に導いた伝説の組立師だ。そんな大平は,所定の精度が出ないと,重城を設計部のある幕張本社から大野事業所に呼び付ける。

「いくら図面上でいい設計をしたと思っても,実際に組み立ててみてきちんと動かなければ意味がない。特に重城君のような若い設計者は,かつての機械式腕時計を知らない世代。だからこそ,組み立てた実物を見て学んでもらおうと,何度も何度も大野まで足を運んでもらったんです」

 大平は重城に,自ら組み立てて調整したムーブメントと,測定した精度を記入したデータシートを見せ,これまでの経験によって得た改善ポイントを指示する。重城は,この練達の智を次の設計に生かし,再び大平に試作・評価を委ねる。ここ数カ月,こうしたやりとりがずっと続いていた。

 そのかいあって,精度は徐々に高まってきた。だが,グランドセイコー規格にはまだまだ及ばない。己の定めた規格を恨む重城。その一方で,グランドセイコーの発売日はクリスマス商戦をにらんで1998年11月27日と決まり,その1カ月前の10月半ばには新聞発表を行う段取りとなった。いつしか,季節は夏に終わりを告げようとしていた。


「やりたくありませんが…」

 その日も,大平は朝早く大野事業所へと向かった。途中,目の覚めるような真紅の花を咲かす,路傍の曼珠沙華を目にすると,休日も返上し残業を重ねるうちに薄れ始めていた月日の感覚がよみがえる。と突然,大平はある決断をする。

 事業所に着くと,大平は重城を電話で呼び出す。重城の到着を待ち,大平の上司である「マイスターKT」の部長を前にする。

「部長,折り入ってご相談があります」

「重城君まで一緒に,何ですか」

「はい,グランドセイコーの件,重城君の設計はいいところまで来ていますが,まだグランドセイコー規格をクリアするメドが立ちません。そこで…」

「そこで?」

「あと半年,いや3カ月でいい,待ってもらえないでしょうか」

「大平さん…」

 何も知らずに同席した重城。彼のために頭を下げる大平を見,言葉を失う。

「何をいうかと思えば。……。しかしいくら大平さんの頼みでも,今度ばかりはちょっと難しいですね」

「難しいことは分かってます。でも,無い袖は振れません」

「既に,セイコーさんが本格的に動きだしているんですよ。機械式グランドセイコーの復活は24年ぶりでしょ。だから大々的に宣伝するらしく,色んなイベントを計画しています」

「しかし現実問題,間に合わない」

「……。今度は逆に,私からお願いがあります。大平さん,是が非でも間に合わせてください」

 懇願するはずが,逆に懇願された。天を仰ぐ大平。残りの2人は大平の次の言葉をじっと待った。

「やりたくはありませんが,奥の手がないわけではない。それは」

「まさか…」

 重城がピンとくる。

「重りを足すんです」

 ムーブメントごとの最終調整の段階で,駆動力を生み出すひげぜんまいに数十μmの厚さの重りを付けて所定の精度を達成しようというのだ。かつて,4Sムーブメントをクロノメータ検定に合格させる際に使った,熟練の技だ。しかし,重城がかみ付く。

「あれは禁じ手です。大平さんの腕なら,グランドセイコー規格をも通すことは可能でしょう。でも,グランドセイコーのムーブメントは,一からの新規開発。設計変更が許されなかった4Sのときとは,事情が違う。大平さんの技に頼っていては,新規開発の意味がありません」

「じゃあどうするんだ,重城君」

 マイスターKTの部長が問いただす。

「何とかします」

「何とかならないから,こうして大平さんがいろいろ考えてくれてるんだろ」

「ですから,何とかします」

「何とかって,重城君…」

 その後も,重城は「何とかします」の一点張り。部長もついに折れ,重城にげたを預けることになった。

 重城の仕事ぶりは一層過激さを増す。しかし不思議と,彼には追い詰められた悲壮感はなかった。なぜなら,勝算があったから。精度は,ひげぜんまいの形状や長さ,厚さ,幅,取り付け位置,緩急針と呼ぶ細い棒の取り付け位置などによって決まり,その組み合わせは膨大な数に及ぶ。重城は所定の精度に最適な組み合わせを求め,大平の指導を受けつつあと一歩のところまで絞り込んできていたのだ。それ故,精度が出たという知らせが皆の元に届くまでに,さほど時間は必要なかった。

 とはいえ,ギリギリのタイミング。納期までに予定の数がそろわず,熱い期待を込めて注文した販売店のうちの一部で「グランドセイコー メカニカル9Sシリーズ」が発売日に届かない状態を出してしまった。しかし,帰ってきた。24年の時を超え,セイコーの顔,機械式グランドセイコーが。


「グランドセイコーメカニカル9Sシリーズ」
1998年11月の発売で,左の18Kケースモデルが70万円,右のステンレス・スチール・ケース・モデルが35万円。


ムーブメント「9S55」(カレンダー付き)






第11回:いつかは「SHIZUKUISHI」(上)
木村 知史=Tech-On!2012/04/03 00:00
出典:日経ものづくり、2006年2月号 、pp.134~135 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

 1998年の,複雑時計のクロノグラフと最高級ブランド「グランドセイコー」の商品化により,セイコーインスツルメンツ(現セイコーインスツル)の機械式腕時計事業は完全復活を果たした。看板モデルの誕生により,販売には弾みがつく。2000年は約5000個,2001年は約8000個,そして2002年には1万個の大台を突破。この間に,事業は黒字に転換した。

 生産体制も改まる。部品製造は岩手県の盛岡セイコー工業,組み立ては千葉県の大野,高塚両事業所という分散体制から,盛岡セイコー工業に部品製造から組み立てまで全工程を集約する一貫体制に。雫石にある盛岡セイコー工業の,この機械式腕時計部門は2002年4月「高級時計職場」としてスタートを切った。

 1カ所に全工程を集結した効率的な生産体制。最初は,このことに疑いを抱く者などいなかった。しかし,右肩上がりに増える注文に対し増員を繰り返すうちに,職場,とりわけ組み立て室は次第に手狭になっていった。気付くと,そこは「空気が薄いと感じられるほどの高い人口密度」に。劣悪な職場環境は,生産性が上がるどころか,かえって下がり兼ねないくらいだった。

 組み立て室を拡張する─。2003年11月に盛岡セイコー工業の社長に就いた西郷達治は着任早々,大きな決断を下した。

「職場環境の改善に併せて,もっと上を目指すことを考えました。確かに,セイコーの機械式腕時計は順調に伸びていた。とはいえ,1990年代後半からの高級機械式腕時計ブームの再燃で,日本の10万円以上の機械式腕時計の市場規模は年間約50万個に達したのに,セイコーのシェアは3%にすら届かない。果たして,この程度で機械式腕時計は完全復活したと言えるのか。言えないでしょ。だから,私はシェア2割,年間10万個の目標を課したんです」

 西郷は2003年末,組み立て室の拡張工事に伴う予算を3700万円計上する。増産を視野に,組み立て室のスペースを広げて作業台を増やす。これなら,3700万円で十分。西郷はそうそろばんをはじいた。


見栄えを良くするだけではダメ

年が明けた。2004年冒頭,西郷は体育館で盛岡セイコー工業全社員を前に,組み立て室の拡張工事など新年の抱負を語り,社長室に戻った。すると計ったように,机の電話が鳴り響く。

「西郷社長,副会長からお電話です」

「副会長? 何だろう,つないでくれ」

 電話をかけてきたのは,親会社のセイコーインスツルメンツ副会長の服部純市。新年のあいさつが一通り終わると,こう切り出してきた。

「ところで,機械式腕時計の組み立て室の拡張の件,どうするつもりだね」

「はい,先日申し上げたように,まず組み立て室のフロア面積を広げます。作業台を追加するとともに,作業員一人ひとりの作業スペースを今以上に確保して生産性を高めます。そして」

「違うなあ」

「はっ? 違う,とおっしゃいますと」

「君のプランは地味なんだよ。もっと見栄えがほしいんだ。工房の存在感を感じてもらえるような」

「存在感…ですか」

「そう,重厚な存在感だよ。実はね,昨年の暮にセイコーウオッチの役員の人たちと話をしていたら,君のところの組み立て室の拡張工事の話題になってね。で,すごく期待しているって言うんだ」

「ありがたいことです」

「うん,それで済めばよかったんだが,いろいろ注文を付けられてねぇ」

「それが,重厚な存在感,ですか」

「まあそうだ。彼らが言うには,窮屈で町工場さながらの今の組み立て室は,高級機械式腕時計のイメージから程遠い。全国から訪れた見学者をがっかりさせてしまう。だから,新しい組み立て室は,見学者が見るもの触るものすべてに感動を味わえる,そんな高級機械式腕時計にふさわしい造りにしてほしい,って言うんだよ」

「要は,見栄えを良くしろ,と」

「いや,単に見栄えを良くするだけではダメだ。高級機械式腕時計にふさわしい,ってところがミソなんだ。そういうわけだから西郷さん,頼んだよ」

 電話は一方的に切れた。高級機械式腕時計にふさわしいって,何だよ。新年早々,しかも社長就任初の大仕事に難しい注文を付けられた西郷。正月のおとそ気分は一気に吹き飛んだ。





最終回:いつかは「SHIZUKUISHI」(下)
木村 知史=Tech-On!2012/04/05 00:00
出典:日経ものづくり、2006年2月号 、pp.135~137 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

一体いくら掛かるんだ

 あらためて組み立て室の隅から隅までじっくり見てみると,副会長の言う通り,お世辞にも高級機械式腕時計にふさわしい職場とはいえなかった。確かに説明がなければ,誰もここが何十万円もするグランドセイコーやクロノグラフを造っている工場とは思わないだろう。副会長やセイコーウオッチが注文を出してくるのも,無理はない。

 これまでずっと生産畑を歩んできた西郷。生産効率の高い工場や,作業員が働きやすい工場といった案件にはアイデアが湯水のごとくわき出てくるものの,高級機械式腕時計にふさわしい工場となるとさっぱり。自分の手に余ると,同社きっての時計通に任せることにした。

 小野寺強。セイコーインスツルメンツに入社以来,30年以上にわたって腕時計のデザインに携わってきた。年に1回スイスで開催される世界最大の時計見本市「バーゼルフェア」には,既に20回以上足を運んだ。世界の洗練された高級機械式腕時計やその工房を知り尽くした彼なら,高級機械式腕時計にふさわしい工房を造り上げるはず。西郷は小野寺に協力を求めた。

「チャンスだと思いました。機械式腕時計の世界最高峰であるスイスに,追い付き追い越すためのまたとないチャンスだ,と。しかも,その舞台が岩手というのもうれしかったですね。何を隠そう,岩手は私の故郷ですから」

 西郷の依頼を快諾した小野寺はプランを練るに当たり,スイスと岩手それぞれの歴史をひも解き,徹底比較。そこから,スイスと伍して戦うための一つの結論を導き出した。それは,スイスの時計造りに必然性や必要性があるように,セイコーの時計造りにも機械式腕時計を造り続ける意思を見える形にする。そこで,新しい工房には岩手固有の伝統的工芸品を移植し,その匠の歴史と伝統,必然性と必要性を受け継ぎつつ新たな志を持った「魂」に変えていくというものだった。小野寺は考えに考え抜いたこのプランを西郷に説明する。

「なるほど,コンセプトはだいたい分かったけど,結局,組み立て室はどんな感じになるの」

「歴史と伝統,そして先進テクノロジーとクラフトマンシップが融合した感じですね」

「具体的には」

「例えば,職人たちは,天皇皇后両陛下に献上したことのある『南部紬』か『南部紫根染』の作業着を着用します」

「ほお,紬の作業着とはぜいたくな。結構高いぞぉ」

「さらに,作業机には岩手県を代表する伝統的工芸品『岩谷堂箪笥』をあつらえます」

「岩谷堂って,けやきの美しい木目,重厚な漆塗り,『南部鉄器』による華麗な装飾金具を特徴とする,あの岩谷堂だろ。箪笥一つで平気で数百万円とかしちゃうあれを作業机にねぇ。しかし,誰が使うの」

「組み立て職人たち全員です」

「全員? ウソでしょ。箪笥ほどではないけど,仮に1台50万円としたら職人20人分で1000万円掛かっちゃうよ」

「そうなりますねぇ…。でも200~300年は使えます。それと,いすも世界最高のエルゴノミクスチェアにします」

「そうなりますねぇって,君…」



「まだあるんです。職人たちの手元にはCCDカメラを置き,磨き上げた部品を組み立てていく様子を液晶テレビやプロジェクタに映し出すんです」

「今度は液晶テレビか。安くなってきたとはいえ,まだまだ高い。でもまあ,1台くらいはあってもいいか」

「何をおっしゃるんですか。見学コースの行く先々に置くんです。時計造りの精緻な技や醍醐味を味わってもらったり,PR用のビデオを流したり」

「行く先々って,君…。南部紬に,岩谷堂に,液晶テレビにプロジェクタ。一体,小野寺君のプランだといくら掛かるんだね」

「ざっと1億5000万円」

「1億5000万円!」

「はい,西郷さんが『見栄え良く』っておっしゃったんで」

「『見栄え良く』とは言ったけど,派手すぎるんだよ,1億5000万円は」

 西郷が計上した予算は当初3700万円。「見栄え良く」するとはいえ,1億5000万円とは開きがあまりに大きい。その後,2人は丁々発止の攻防を繰り広げ,削れるところは削り,最終的に小野寺のプランは西郷の裁量の上限である1億円で落ち着いた。


あなたは何も分かってない

 予算が決まると,小野寺はすぐさま盛岡セイコーの近くにある,とある工房を訪ねた。

「実は,折り入ってお願いがありまして。時計を組み立てる職人が毎日使う作業机を造っていただきたいんです」

 中千家具製作所。岩谷堂箪笥生産協同組合に所属し,社長の中村千二は岩谷堂箪笥伝統工芸士の認定を受ける。小野寺は第一印象で,中村の温厚な人柄の中に,職人の誇りを見て取った。

「職人さんの作業机ねぇ,悪くない。しかし,我々は箪笥など調度品が主で,作業机は手掛けたことないんですよ」

「そこを曲げてお願いします」

「同じ職人のためだ,何とかしましょう。で,数は」

「20台。5月の末までにお願いします」

 と,突然,中村の顔が強ばった。

「お帰りください」

「はっ?」

「あなたは何も分かってない」

「と,言いますと…」

「うちの製品は大量生産品じゃない,ってことですよ。我々は,一つひとつ丹精込めて造ってる。だから,月にできるのはせいぜい1~2台。今は3月末。5月までに20台なんて,はなから無理だ。あなたは一体何を考えているんだ」

 しまった。小野寺は心の中でつぶやく。しかし,中村に,声に出して返す言葉が見つからない。

「さあ,お帰りください」

 小野寺は,言われるがまま中村の工房を後にする。いや,中村に気押され後にするしかなかったのだが,これで本当にいいのか。思い返せば,西郷との予算折衝で南部紬や液晶テレビはあきらめるなど,妥協を重ねてきた。しかし,この岩谷堂だけは譲らなかった。セイコーが機械式腕時計を未来永劫造り続けるための意思の証しであるとして。それなのに,このままここで簡単にあきらめていいのか。いいわけがない。小野寺はきびすを返す。

「先ほどは申し訳ありませんでした」

「また,あなたですか。お帰りくださいと言ったはず。何度,頼まれても同じことですよ」

 小野寺は中村の目を正面からとらえ,静かに語り始めた。かつてセイコーが機械式腕時計の事業から撤退したこと。日本の時計産業がクオーツ時計により隆盛を極め,スイスの時計産業が凋落したこと。最近では形勢が逆転,スイスの高級機械式時計が復活し,日本が苦境に立たされる中,セイコーが再び機械式腕時計を造るようになったこと。その地が岩手であること。そして,セイコーがスイスに対抗し世界ブランドとなるためには,目の前にいる中村の,岩谷堂箪笥の伝統と職人魂が不可欠であること,を。いつしか,中村の表情にはいつもの温厚さが戻っていた。

「そういうお気持ちでしたか。分かりました。そのために岩谷堂の机を使ってもらえるのなら本望だ」

「では,協力していただけるんですか」

「ええ。ただし,5月までに20台はできません。それでいいですね」

「はい,もちろんです」

 それから,中千家具製作所の工房の灯りは毎日夜遅くまで消えることがなかった。


見学者に見せたかったもの

 季節は巡る。東北の長く厳しい冬が終わりを告げる。春。厚い雪が解けた大地から新しい息吹が顔を出す。夏。抜けるような青い空,深緑の林の中を涼やかな風が駆け抜けていく。そして,影が少し長くなりかけた初秋。盛岡セイコー工業に新しい組み立て室が完成した。その名も「雫石高級時計工房」。

 2004年5月のプレオープンの際には5台だった岩谷堂の作業机が,9月の本オープンの今は20台並ぶ。中村がきっちりと間に合わせてきた。伝統工芸士の魂が宿る作業机に,職人たちが白い清潔な作業着を身に着けて向かう。その高さは,職人の体格に合わせて調整されている。いすは米Hermanmiller社の「アーロンチェアー」。人間工学に基づく独特の構造で,長時間にわたる作業でも腰痛や肩こりなどになりにくい。机もいすも,すべてが本物だ。

 組み立て室の中は静寂に包まれている。聞こえてくるのは,職人たちの息遣いと,部品を所定の位置に配置するときなどに出るかすかな音だけ。職人たちが集中できるようにと,エアコンのコンプレッサは別室に置いた。

 こうした中の様子を見学できるように,組み立て室はガラス張りとし見学通路を2本設けた。そのうちの1本は,従来のクリーンルームを二つに分断して設置したものだ。実は,クリーンルームを2カ所にすると,設備やら防火構造やら工事に多大なコストが発生する。それにもかかわらず,その見学通路にこだわったのは,あのコスト管理に厳しい西郷,その人だった。

「遠い岩手の地にわざわざ足を運んでくださる見学者の方たちに,ぜひ見ていただきたいものがありましてね」

 その見学通路からは,組み立て室の中で職人たちが黙々と作業を続ける様子が見える。桜田守や大平晃といった当代一流の組立士が繰り出す神業は,彼らの手元にあるCCDカメラがとらえて見学通路に設置したプロジェクタが大きく映し出す。そしてふと遠くを見たとき,見学者の目には,ここ雫石の大自然が飛び込んでくる。

「ブナ林です。夏には広葉樹の葉が鮮やかな緑に染まり,冬には落葉した木々が真っ白な雪に覆われる。このブナ林が織り成す美しい四季は,スイスの時計の聖地,ジュラ渓谷にも決して引けを取らない。我々の真摯な時計造りと一緒に,本物の自然の醍醐味を味わってほしかったんです。たとえ,どんなにコストが掛かろうとも」

 これが雫石高級時計工房だ。ここには,男たちの魂が宿る。田中淳。最初はたった1人だった。機械式腕時計の復活を来る日も来る日も唱え続けた。滝沢勝由,高橋岳,重城幸一郎。最初は右も左も分からなかった。一度は途絶えた機械式腕時計の技術を古い図面を基に復元し,今はそれを超えた。この男たちは同じ夢を見る。「雫石」から「SHIZUKUISHI」へ。この夢がかなったとき,セイコー機械式腕時計復活物語は完結する。

-終わり-








今までお読み頂いた方、ご苦労様でした。

お読み頂いて、どうでしたか? 私はいま読み返しても胸が熱くなってしまいます。

レベルは違いますが、初めて内容を話した時に「あなたは何も分かっていない」と云われた

というフレーズや、昔の手書きの図面を渡されてCAD化する話など、かなりの部分で仕事の事と

リンクしてしまい思い入れしてしまうので、思い出して涙腺が崩壊してしまいそうです。


そして、その頑張ってくれたSeikoさんのおかげで時計好きな私がその恩恵を享受出来ています。

彼らの熱い想いがなかったら、雫石高級時計工房も生まれて居ません。

故にグランドセイコーのメカニカルもそうですし、クロノグラフも復活していません。

で、私が一番気に入っている腕時計は↓の時計です。




3年前のモデルです。セイコー ブライツ アナンタ メカニカルクロノグラフモデル

品番: SAEH009

【仕様】
・ケース素材 ステンレススチール(ベゼルは一部セラミックス)
・裏ぶた シースルー・スクリューバック
・ガラス素材 サファイアガラス(スーパークリア コーティング)
・バンド素材 ステンレススチール
・防水性能 日常生活用強化防水(10気圧防水)
・耐磁性能 耐磁時計(JIS 耐磁時計1種)
・ケースサイズ [ケース外径] 43.0mm [ 厚さ] 15.1mm

【ムーブメント仕様】
メカニカルムーブメント キャリバー 6S28
・巻上げ方式 自動巻(手巻つき)
・時間精度 日差+25秒~-15秒
・持続時間 最大巻上時約50時間
・その他機能 ストップウオッチ機能(30分計・12時間計)、タキメーターつき
・石数 34石
・サイズ [外径] 28.4mm [厚さ] 7.2mm
・部品点数 289部品



このモデルをスペック厨的に云いますと、スイスの超高額モデルを凌駕しています。

コレ以上は止しておきますが、見栄を張る為なのか実質を取るのか。

そう考えると機械式腕時計好きである私にとって、本当に有り難い事ですし同じ日本人として誇り高き事実ですね。

ものづくりの原点と云いますか、妥協せず真摯に造り結果として私たち消費者がその高い技術を高過ぎない金額で享受できるという有り難さ。

心の投資と云いましょうか、趣味嗜好には余裕と新しい活力の為に必要な物だと思えば、その意味でも非常に嬉しいですね。


それではまた。
Posted at 2015/11/09 17:36:19 | トラックバック(0) | 時計 | 日記
2015年11月09日 イイね!

【Seiko】日本が誇る機械式腕時計の復活話(上)

皆さん、この頃急に朝晩寒くなって来ましたが体調など崩して居りませんか?

さて今回は久々に時計の話を書かせて頂きます。

前回が2012年でしたので、もう本当に久々もイイところですが「ものづくり」という

大事な部分で忘れないで欲しいというか、多くの皆さんに知っておいて欲しい

とても良い話なので、本来は転載してはいけないのだと思いますが、このままでは

読まずに通り過ごしてしまう人の方が多い様で非常にもったいない気がしたので

とにかく転載をします。



心が揺さぶられたりした人が一人でも居たら、私は嬉しいです。

削除する可能性もあるので、お時間許す方は早めに読んでみて下さいね。

では転載します。(ほぼ全文なので長文です)



第1回:ある歴史の終わり(上)
木村 知史=Tech-On!2012/02/28 00:00
出典:日経ものづくり、2005年9月号 、pp.128~130 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

東京・亀戸の第二精工舎(現セイコーインスツル)の設計課。ドラフターの上を縦横無尽に滑る定規の音と白い設計用紙の上をはう鉛筆の音が支配するこの部屋に,突然1人の男の声が響き渡った。

「そんなばかな。あと一歩というところまで来ていたのに」

「我々は必ず勝てます」

「納得できません」

 受話器を手に声を荒げるのは,設計課の課長,久保田浩司。温厚な性格の彼が,大きな声を張り上げることなどめったにない。それだけに,周囲はただならぬ事態が発生したことを察知する。その断片的な会話の中身から,それが「ニューシャテル天文台コンクール」に関連したことらしい,と。

 ニューシャテル天文台コンクールとは,時計の聖地,スイスで毎年開催される,時計の精度を競う世界最高峰の舞台。第二精工舎は1964年,諏訪精工舎(現セイコーエプソン)と一緒に機械式腕時計部門に初めて参加した。翌1965年,出品した時計の平均成績で競うシリーズ賞で第6位に入賞すると,1966年に第3位に,1967年には第2位にまで順位を押し上げた。そして,迎えた1968年。狙いはただ一つ,あこがれのスイス勢を破り「世界一」の称号を手にすること。設計陣の中に組織した,久保田率いる専門チームは,その唯一無二の目標に向け日々腕を磨き,確かな自信を得るまでに技術を極めてきたのだった。

 久保田が忌ま忌ましげに電話を切る。彼を心配そうに見守る専門チームをはじめ設計課の面々。設計課は水を打ったような静けさに包まれた。

「残念だが…」

 久保田が静寂を破る。

「ニューシャテル天文台コンクールは中止になった」

 無情の知らせに,設計課が落胆の色に染まる。日本に世界の頂点の座を奪われることをスイスの主催者側が恐れた。これが,後になって分かった中止の理由だった。



ニューシャテル天文台コンクールに出展したムーブ メント
コンクールに挑戦するために,完全に新規設計した。


最高の褒め言葉

 スイスに負けない機械式腕時計を造る。服部時計店(現セイコー)社長の服部正次の掛け声の下,その目標に向けグループ全体でまい進してきた。1964年の東京五輪で,それまでスイス勢の独壇場だった公式計時装置を担当し,世界にその実力を示した。同じ1964年から参加したニューシャテル天文台コンクールでは,日本の技術力の高さを世界にアピールできた。

 1947年の入社以来,そのただ中を走り続けてきた第二精工舎の久保田。スイスを追い越す絶好の機会が奪われた今,彼ら設計陣にできることはスイス製品に負けない精度の高い機械式腕時計を造ること。今となっては,彼らの実力を世界に誇示する手段はほかに残されていなかった。

その成果が,コンクールの中止が決まった翌年の1969年に発表された機械式腕時計「45グランドセイコー V.F.A」だ。精度は,1カ月で1分と狂わない日差±2秒。さまざまな気温や姿勢の下でも常に正確に時を刻めるかを見る「ニューシャテル天文台のクロノメータ検定」に合格し,スイス式の品質検査ではスイスレベルの高い評価を得たのである。

「機械式腕時計の精度を決めるひげぜんまいは生き物のようなもの。温度が少し違ったり姿勢が少し変わったりすれば,動きが変化する。そうした誤差を踏まえた上で,精度を向上させるのは簡単なことではありませんでしたが,権威あるニューシャテル天文台の検定に合格することにより,我々の実力がスイスに決して負けていないことが証明されました」

 スイスを追い越すという夢はニューシャテル天文台コンクールの中止とともに消えてしまったものの,スイスに追い付くという目標は精度の高い機械式腕時計により果たせた。振り返れば入社以来20年,機械式腕時計の開発に自身の人生をささげてきた。歯車で動く機械式腕時計。その精度を高めるためには眠る間さえ惜しくなかった。親しい友人たちは「スイスを超えた」とたたえてくれた。機械式腕時計に懸けた己の人生の中で,それは最高の褒め言葉だった。


名門,第二精工舎のプライド

1969年暮れ。久保田は,自宅の茶の間のテーブルに朝刊を広げ,いつものようにニュースに目を通し始めた。

 年も押し詰まると,紙面には1年を回顧する記事が目立つ。全共闘による東大安田講堂占拠,アポロ11号の月面着陸,1972年の沖縄返還が決まった佐藤・ニクソン会談…。1年間に起きたさまざまな出来事に時の重みを感じつつ,久保田は紙面の先を急ぐ。ニュースの中心は,やはり年の瀬の話題。斜め読みする彼の視線が突然釘付けになった。そして,幾度となく読み返し,一人つぶやいた。先を越されたか。

 久保田が目を留めたその記事は,服部時計店が世界で初めてクオーツ式腕時計「クオーツアストロン35SQ」を発売したというニュースだった。開発したのは,同じグループ内で腕時計開発・製造にしのぎを削る諏訪精工舎。時計技術者として先を越されたことは確かに悔しい。けれど,第二精工舎は機械式腕時計に力を入れている。会社の方針を考えれば,クオーツ時計の開発競争において諏訪精工舎が第二精工舎に先行する結果は当然といえた。


「クオーツアストロン35SQ」
1969年12月25日に発売された世界で初めてのクオーツ式腕時計。諏訪精工舎製で,当時の価格は45万円。


 この記事が出てから程なく,久保田は専務の井上三郎に呼び出された。


「久保田君,君には今日からクオーツ式腕時計の開発を担当してもらう」

「クオーツですか」

「そうだ。君も承知の通り,うちは諏訪精工舎の後塵を拝した。しかし,このまま彼らの独走を許すわけにはいかない。第二精工舎の誇りに懸けて巻き返しを図りたいんだ」

「お言葉ですけど,クオーツ式腕時計が既に発売されてしまった今の時点で,どのように巻き返せばいいのでしょう」

「そこなんだが,クオーツ式腕時計と機械式腕時計の最も大きな違いは,電気回路のあるなしだ。アストロンの場合は手作業で100点以上の部品をはんだ付けした電気回路を利用しているが,それでは電力を食うから電池の寿命は短いし構造は大型化する。うちとしては低電力で駆動するCMOS-ICを搭載する。諏訪精工舎はもちろん,世界中のどの時計メーカーよりも先に,だ」

「なるほど,分かりました。しかし,うちにはCMOS-ICを含めクオーツ時計や音叉おんさ時計を研究している部隊が別にあります。それなのに,なぜ機械式腕時計の私がクオーツ式腕時計を担当するんですか」

「時計のことを一番よく知っているのは,久保田君,君だからだよ」

 久保田の陣頭指揮の下,第二精工舎では開発陣が一丸となって猛烈な巻き返しに転じる。慣れないクオーツ式腕時計に戸惑いながらも,彼らは朝も昼もなく時計造りに没頭した。名門,第二精工舎のプライドが彼らを突き動かしていたのだった。

アストロンの発売からちょうど1年後の1970年12月,ついにクオーツ式腕時計「36SQC」が完成する。そこにはCMOS-ICが搭載されていた。無論,世界で初めて。


大胆な提案

勢いづくクオーツ式腕時計と,開発リーダーを失い失速する機械式腕時計。これを,久保田は時代の流れと受け取めた。

「外しておいても止まらないこと,精度が圧倒的に高いことは,機械式腕時計にはないクオーツ式腕時計の新しい魅力。クオーツの時代は必ずやって来ると思いました。機械式腕時計に未練? 正直ありませんでした。やれることはすべてやりましたから」

 クオーツ式腕時計の仕事にまい進する久保田。機械式腕時計に代わる,第二精工舎の収益事業として立ち上げるために,役員にある提案を諮る。




第2回:ある歴史の終わり(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/01 00:00
出典:日経ものづくり、2005年9月号 、pp.130~131 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

「で,久保田君,そのクオーツ式腕時計を収益源にするための提案っていうのは何だね」

「はい,CMOS-IC,水晶振動子,電池といったデバイスを我々が自ら製造するんです」

「おいおい,冗談だろ。莫大な投資が必要になるじゃないか。特に,半導体工場なんて造ったら大変なことだ。我々はあくまで時計メーカー。デバイスは半導体メーカーなどに任せておけばいいんだよ」

「いえ,CMOS-ICこそクオーツ式時計の心臓部ですから,時計メーカーとして自らの手で製造する必要があると思います。腕時計用のICを専門で造っているメーカーもありませんし。それに,半導体メーカーはそもそも開発項目として演算用など高性能化を重視していますから,時計用の低電力化の要求には積極的ではありません」

「しかし,だ。うちは半導体を量産した経験がないんだよ」

「おっしゃる通りですが,半導体メーカーと組めば開発の主導権は完全に握られてしまいます。プロトタイプの開発だって,彼らと波長を合わせなくてはならない。そうなれば,どこまでスピードを上げてもらえるか,甚だ疑問です」

 投資金額の大きさとその効果を測りかね,なかなか首を縦に振ろうとしない役員たち。そんな彼らの説得に当たってくれたのは,久保田にクオーツ式腕時計の開発を任せた専務の井上,その人だった。最後には,経営陣の前で頭を下げ,デバイス内製化の了承を取り付けたのである。

 こうして第二精工舎は1970年代半ばから,CMOS-ICをはじめ,水晶振動子,デジタルクオーツ用液晶などデバイス工場を次々と立ち上げていく。最初は当然赤字だったが,クオーツ式腕時計の需要が急伸するのに伴い,次第に事業として成立するようになっていった。

 その陰で,機械式腕時計は坂道を転げ落ちるように業績を悪化させていく。1980年代に入ると,国内における高級機械式腕時計の生産はほぼ終了し,低価格機種向けの量産ラインだけがシンガポールに残った。もはや,機械式腕時計は死に体となった。


一生懸命デザインした結果…

 こうした機械式腕時計とクオーツ式腕時計の優勝劣敗が決した1980年,デザイン部門に元気なデザイナーが中途入社した。田中淳。家庭雑貨メーカーから時計メーカーへ。第二精工舎のデザイン事務所が東京・銀座にあったことが気に入ったという田中は,天性のセンスで次第に頭角を現していく。

「アナログ時計の機能デザインは,12分割されている時点でほぼ終わっています。それに対しデジタル時計には,決められたデザインがない。機能も増やせるしデザインも自由に変えられるから,面白いんです」

 田中はクオーツ式腕時計の高機能化・多機能化の波に乗り,主にデジタルクオーツ式腕時計やデジタルとアナログのハイブリッド式腕時計で斬新なコンセプトを世に送り出していく。代表作は1984年1月に発売した腕コンピュータ。腕時計がリストタイプのコンピュータの役目を果たし,コントローラとの間で情報をやりとりする。時代を先取りした,近未来的な時計だった。



腕コンピュータ 「UC-2000 + UC-2200」
1984 年発売。腕時計をコントローラとドッキングすることで,約2 0 0 0 文字までの情報を時計に記憶できた。


 そんな田中は百貨店の時計売場を好んで回る。ディスプレイに奇麗に並ぶ自分がデザインした時計,それをあこがれのまなざしで見つめる若者たちを見ていると,次のデザインのアイデアがわいてきた。その日も,ある百貨店の時計売場に足を運び,所狭しと並ぶ商品の中から自分がデザインした時計を見つけ出しては手に取っていた。

あれ? 田中は時計売場の隅にある特売コーナーに,自分がデザインした時計があることに気付く。その時計には「半額」のシール。発売から半年もたってないのに,こんなに値崩れしてしまうのか。田中はがくぜんとした。

 確かに,クオーツ式腕時計は機械式腕時計と異なり,機構の多くをデバイスに頼るから大量生産に向いている。機構部を全く持たないデジタルクオーツ式腕時計などはその典型だ。加えて,1980年代に入ると,香港などの海外メーカーがこぞって参入してきた。クオーツ式腕時計はあれよあれよという間に価格戦争に突入し,田中がデザインするような多機能・高機能な高い時計は売れなくなってきていたのだ。

 もちろん田中は,そのことを知っている。しかし,まさか自分が精魂込めてデザインした時計が,こんなに安い値段で売られているとまでは夢にも思っていなかった。一生懸命デザインした結果がこれか。おれは,一体何のために時計を造っているんだ。

「お客さん」

 虚無感に襲われた田中は,近づく店員にも気付かず,自らデザインした「半額」の時計を握り締めていた。


バーゼルで見たもの

 田中の苦悩が始まったのはそれからだった。デザインとは何か,時計とは何か。なかなか答えが見つからない田中は1988年4月,スイスで開催される「バーゼルフェア」を視察する機会を得る。世界各地から2000社以上が集結する世界最大の時計見本市だ。そこには答えのヒントが何かしらあるかもしれない。田中は淡い期待を胸に,バーゼルへと旅立った。

 初参加の田中。ブースというブースを目を皿のようにして見て回る。とりわけ目を奪われたのが,スイス勢のブースだった。クオーツ式腕時計が世界の市場を席巻するのに伴い,かたくなに機械式時計を造り続けてきたスイスの時計産業はどん底の状態に追い込まれていった。ところが1980年代半ばになると,その機械式腕時計が復活の兆しを見せ始めたのである。田中はそれを肌で感じ取った。

 圧倒的な存在感を示す機械式腕時計。時計職人が一つひとつ丁寧に仕上げた部品は,時針でも分針でも文字盤でもすべてに彼らの息遣いを感じる。照明を跳ね返すきらびやかな光はあまりにまぶしい。裏ぶたが透けているシースルーバックからのぞくムーブメントを見れば,μm単位で仕上げられたメカ部品が,金属光沢を放ちながら整然と収まっている。精緻な美には目を奪われる。

 見ていて楽しい。それは,工芸品のように美しいからか。デザインが洗練されているからか。職人の温かみが感じられるからか。レトロの魅力か。それとも…。どれも正しい。けれど,どれもズバリ正解ではない。ただ,これだけは確実に言えた。一度は機械式時計を身に着けてみたい。

 田中はホテルに戻ると,すぐにノートを取り出し鉛筆を走らせた。着替えもせず食事も取らずに机に向かったまま数時間が過ぎる。できた。時計を見ると,既に日付が変わっている。こんな時間か。ノートを閉じ,ようやく机から離れる。スタンドの柔らかい光の中に浮かび上がるノートの表書きには「機械式腕時計復活のシナリオ」の文字がつづられていた。 




第3回:目覚める職人魂(上) 
木村 知史=Tech-On!2012/03/06 00:00
出典:日経ものづくり、2005年10月号 、pp.150~152 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

陽春の穏やかな日差しが降り注ぎ,草木が一斉に芽吹き始める。景色はすっかり春。たった1週間離れただけなのに,ここ日本の季節はその何倍もの時が流れたよう。スイスで開催された世界最大の時計見本市「バーゼルフェア1988」の視察を終えた田中淳は柔らかな風を感じつつ,久しぶりのオフィスへと向かった。

 セイコー電子工業(現セイコーインスツル)デザイン室。そこが,彼のオフィスだ。上司に帰国報告を済ませ席に着くなり,仕事が次々と降ってくる。時差ボケも春ののどかな気分も瞬く間に吹き飛んでいく。

「例の新製品の件ですけど,新しいデバイスの量産が本格的に始まるので大胆な価格設定になるそうです。で,そのデザインなんですが…」

「今度の液晶は,明るさが格段に増してます。その特徴を何か新しい機能として生かせませんかねぇ」

 丁寧に対応していくものの,何か満たされない。それは,クオーツ時計に関するものだから。以前から感じていた虚無感は,バーゼルフェアから帰ってきてからより一層強くなった。

 机の引き出しを開ける。そこには,オフィスに着くなりしまい込んだ1冊のノート。スイスのホテルで,深夜につづったあのノートだ。虚無感を埋められるか否かは,そこに書き留められた機械式腕時計の復活にかかっている。実現に向けて早く動きださなければ…。けれど,この提案は会社の方針に逆行する。慎重にタイミングを見計らわなければならない。田中は,引き出しをそっと閉めた。

 帰国から数日後,田中は出張報告を社内報に2ページで執筆することになった。まず,腕時計のデザインや機能など,今年のトレンドを要領よくまとめていく。

 次に,図を描き始める。太い線を描き,両端に矢印を付ける。一方の矢印の先に「低価格化」「画一化」「一般化」という文字を入れる。これが「セイコーが現在置かれているポジション」。そしてもう一方の矢印の先には「高価格化」「多様化」「希少化」という言葉を並べる。これが「セイコーが将来進むべきポジション」だ。そして「時計の価値観は精度や合理性といった工業製品的価値から,味わいや伝統といった工芸品的価値に変わっている」という説明を添えた。完成。書き終えたばかりの原稿の傍らには,例のノートが置かれていた。

「社内報は,多くの社員が目にするから,例のシナリオを披露する絶好のチャンスだと思いました。ただ,それを露骨に表現すると,余計な摩擦を生みかねない。だから,あえてオブラートにくるんで表現しました」

 田中の出張報告が載った社内報が配布された。しばらくすると,田中の下には,機械式腕時計を是とする同志からさまざまな声が届くようになった。

「私も,今のクオーツ時計には物足りなさを感じてる一人。田中さん,機械式腕時計をもう一度やろうよ」

 ベテラン設計者が田中と同様の心情を吐露すれば,若手営業マンは自らの気持ちを素直に語った。

「僕は,初めてのボーナスで機械式高級腕時計を買いました。買ってよかったと思っています。そして,この同じ喜びをできるだけ多くの人に味わってほしい。だから,高級機械式腕時計を売りたいんです。自からの手で」

 これなら,ひょっとする…。勇気付けられた田中は,時計事業を統括する事業部長の伊藤潔に秘めた考えを伝える決心をようやく固めた。


時代は逆戻りしない

「事業部長,ご相談があります」

「新しい時計の企画なら,大歓迎だ」

「はい,今までにない新しい企画。高級機械式腕時計の復活です」

「何を言いだすかと思えば…。バーゼルフェアですっかり機械式腕時計に魅せられて帰ってきたとは聞いてたけど,そこまで考えていたとはねぇ」

「スイス勢の復活は本物でした。このままだと,うち,いや日本の時計産業全体が危ないと思います」

「そのスイス勢の復活の理由は?」

「それは,腕時計を身に着ける目的が変わってきたからだと思います。昔は時間を知ることが目的だった。だから,正確に時を刻むことが求められ,クオーツ時計が爆発的に売れた。ところが今は,時間の情報が至る所にあふれてる。時間を知るという腕時計本来の目的が希薄になってきたんです」

「じゃあ,人はなぜ腕時計をするの」

「装飾のためだったり,個性を主張するためだったり。だからこそ」

「田中君,君の言うことは一理ある。だけど,うちには高級機械式腕時計に対応した生産設備はないし,半導体工場などクオーツ時計の方に莫大ばくだいな投資をしてきたんだ。そんなことくらい,君ならすぐに理解できるだろ」

「ええ,もちろん。しかし,ひたすら低価格化路線を歩むクオーツ時計を見てると,将来に不安を覚えるんです」

「じゃあ,仮にうちが高級機械式腕時計に参入したとして,スイス勢に勝てる? 事業として成立する?」

「市場はあると思います」

「答えになってないなぁ。いいかい,君の思い込みだけで事業はできないんだ。我々は機械式腕時計からクオーツ時計に軸足を移し,ここまで突っ走ってきた。時代は逆戻りしないんだよ」

「……」

 同志の声に淡い期待を抱いただけに,最後の一言はこたえた。けれど,これであきらめるわけにはいかない。腕時計へのニーズは,確実に変化している。スイス勢の復活がそれを証明している。田中は手を替え品を替え,伊藤の説得工作を試みる。

 事業部長,女性のスカート丈,気にしたことありますか。短くなったり長くなったり,周期的に変化します。時計だって同じ。クオーツのときもあれば機械式のときもあるんです。伊藤いわく,スカート丈は短いが一番。冗談でかわされた。

 事業部長,オートバイが登場しても,自転車はなくなりませんでしたよね。時計だって同じ。どこにでも,駆逐されずに生き延びる技術というのはあるんです。伊藤いわく,今度ツーリングに行くか。うまくはぐらかされた。

 田中は,何度も伊藤の元に足を運ぶ。話は聞いてくれるものの決定打に欠け,なかなかまともに取り合ってもらえない。行っては砕け,また行っては砕ける。岩に散る波しぶきのように。


これで世に問える

スイスで描かれたシナリオはいまだ実現しないまま,時は過ぎていく。1990年。入社以来斬新なデザインを手掛けてきた田中がデザイン部門を離れ,企画部門に移ることになった。

異動早々,大きな仕事が舞い込む。服部セイコー(現セイコー)が翌1991年に創立110周年を迎え,記念事業の一環として限定時計を発売することが決まった。その企画はグループ各社から募集する。セイコー電子工業では田中が担当することになった。

 この話が来たときから,田中は決めていた。迷いはみじんもなかった。目玉は,機械式腕時計の復活。それ以外には考えられなかったのである。

 記念モデルにふさわしい高級感を演出するために薄さにこだわる。それを左右するのは,機械式腕時計の心臓部であるムーブメント。これまで先輩たちが開発してきた,あまたのムーブメントの中で「6810」と呼ぶタイプが最も薄いことが分かった。その薄さ,実に1.98mm。これを使いたい。

 田中は,時計技術課で実現性を聞いてみた。すると,6810は高級品故に大量生産には至らず,試作職場が部品のすべてを製造していたこと,6810の部品がサービスセンターにまだ保管されている確率が高いこと,6810の組み立てを担当した組立師が現役で残っていることが明らかになった。田中は確信する。6810搭載の高級機械式腕時計が生産できることを。

 かくして田中の企画がまとまる。「極薄6810ムーブメントを採用した最高級の機械式腕時計」と「世界最高レベルの精度である年差±5秒以内を実現する最高級のクオーツ式腕時計」の2本立て。外観は統一し,色はそれぞれイエローゴールドとホワイトゴールドの2種類を用意するというものだった。

 この企画は見事コンペを通過し,各時計は110周年にちなんでそれぞれ110本ずつの限定生産とすることが決定した。つまり,機械式腕時計の製造本数は計220本。シナリオ通りにはいかなかったが,これが機械式腕時計復活の第一歩であることに間違いはなかった。



第4回:目覚める職人魂(下)
木村 知史=Tech-On!2012/03/08 00:00
出典:日経ものづくり、2005年10月号 、pp.152~153 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

始動する田中。まずサービスセンターに行き,残されているという6810の部品を確認する。そこで見たものは,赤くさび付いたり折れたり曲がったりした部品。全く使えそうにない。部品はあらためて製造するしかない。田中は,その足で試作職場に向かい,責任者の桑原敬に協力を求めた。

「6810が開発されたのが1973年。それから約5年間,6810の部品製造を担当しました。各部品は,厚さ1.98mmを実現するためにギリギリまで薄く小さく,そして高精度に設計されていました。それが10数年ぶりに復活する。220本分も。腕が鳴りましたよ,久しぶりにね」

 桑原の職人魂に火が付く。それが職場の若い職人たち一人ひとりに伝わっていく。わずかな変形も許されないため材料を厳しく吟味する。神経をピンピンに張り詰めた状態で,専用機械を操作して精密歯車を仕上げる。どれもこれも久しく忘れていた感覚。そこには精密機械を造り上げる喜び,職人だけに許されたものづくりの喜びがある。

 その喜びは,困難の数が多ければ多いほど大きい。6810の部品はまさにそれ。製造が始まってから数日後のことだった。問題が発覚し,若い職人に桑原の厳しい声が飛んだ。

「この二つを見比べてみろ。模様の見え方が違うじゃないか」

「ほんのわずかです。同じ時計を2本買う人はいないんですから,これくらいの違いは気にならないと思います」

「じゃあ,こっちのねじ穴の縁は何だ。崩れてるじゃないか」

「崩れてる?」

 桑原が指す顕微鏡をのぞく。

「確かに,こうやって拡大すれば分かりますけど,顕微鏡で見る人なんていませんよ。言っておきますけど,手を抜いているわけじゃありませんから」

 問題となっている部品は,精密歯車などの部品を固定する「受け」と呼ぶ薄い板。桑原は,その出来栄えがいまひとつ気に入らないのだ。

「誰も,手を抜いているなんていってない。おれは,職人としてプライドのある仕事をしてほしいだけだ」

「プライド…」

「そうだ。見比べないからいいとか,見えないからいいとかではなく,自分自身が納得する仕事,誰にも負けないと胸を張っていえる仕事をしてほしいんだよ。それに,今回の記念モデルでは,裏ぶたはサファイアガラスのシースルーバックだ。部品一つひとつが,そして我々の仕事ぶりが鑑賞の目にさらされる。逆に言えば,これほど職人冥利に尽きる仕事はない。だからこそ,指の先から足の先まで神経の行き届いた仕事をしようじゃないか」

 受けの加工が難しいのは,その薄さ故。専用の切削機を駆使してμm単位で表面を仕上げていくが,受けを周囲からクランプするとたわんで切削時にびびりを引き起こす。そのため,模様が安定しなかったり,ねじ穴の縁が崩れてしまったりするのだ。

「何か,打つ手はないかなあ」

「板がたわまないようにするんだったら,剛性を上げたらどうですか」

「ダメ,ダメ。厚くすることはスペース的に絶対許されない」

「材質を変えるとか…」

「今の真ちゅうをほかの材質に変えるのは,加工上の制約から難しい」

 八方ふさがりの状況に,天を仰ぐ桑原。視線をゆっくり下げてきた先に,誰かが置き忘れていった修繕用の道具が落ちていた。桑原の視線は止まったまま動かない。もしかしたら…。

 早速,それを使って受けをチャックに固定する。恐る恐る工具を回し,切り込みを与える。工具の先端が受けに接触する。糸状の切り粉が出てくる。びびらない。切り込みを深くする。安定している。びびる様子がまるでない。

「納得のいく仕上がりになりますね」

 こう口を開いたのは,桑原に諭されたばかりの若い職人。その彼に,桑原は「頼むぞ」と声を掛け,窮地をすくった瞬間接着剤を手渡した。


細心の注意を払ったのに…

それから数カ月がたち,試作職場が納期通りに製造した220本分の6810の部品が,組み立て職場に届いた。組立師は3人。ベテラン組立師2人の中に,6810を手掛けたことのない組立師が交じっていた。

 桜田守。1965年の入社以来15年,機械式腕時計の組み立て一筋に生きてきた。1980年に機械式腕時計の生産を海外に絞ってからは,高級クオーツ腕時計の組み立てに。時代の流れと割り切ってはいたが,機械式腕時計より簡単なクオーツ式腕時計の組み立てに腕を持て余していた。

 さすがに6810の部品はヤワだな。ベテラン組立師と並んで,桜田が1本目のムーブメントを組み立て始める。一つひとつの部品のゆがみを修正しながら,丁寧に組み付けていく。極端に薄い分,ゆがみは徹底的に排除しなければならない。これまで手掛けてきたムーブメントなら楽々合格だったものが,この6810では許されない。思ったより修正に手間がかかる。



そして,部品を組み立てては,動作を確認する。そこでもし正常に動かなければ,再度組み立て直す。3人の息遣いだけがかすかに聞こえる作業場。時が静かに流れていく。

 次の部品,また次の部品…。ムーブメントが次第に組み上がっていく。また次の部品。これだな,試作職場が苦労したという受けは。確かに,これほど奇麗な模様を映し出す受けは見たことない。なるほど,苦労したわけだ。

 それをピンセットに挟み,本体に組み付け,動作を確認する。正しく動く。OKだ。今度は,キズ見というルーペを使って目視で検査する。あれ? 桜田は受けの模様にわずかな乱れがあるのを発見した。傷付けてしまったのか。しかし,細心の注意を払っていたはずなのに,なぜ?

 桜田が顔を上げると,2人のベテラン組立師がやはり作業を中断していた。3人が3人とも,同じトラブルにぶち当たっていたのである。




第5回:何で今さら…(上)
木村 知史=Tech-On!2012/03/13 00:00
出典:日経ものづくり、2005年11月号 、pp.152~153 (記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

 セイコー電子工業(現セイコーインスツル)の組立室は重苦しい雰囲気に包まれていた。桜田守ら3人の組立師の前に,同じ形まで組み立てられた超薄型ムーブメント「6810」が並ぶ。まるで,3人が示し合わせたかのように。実は,セイコー電子工業きっての組立師をもって,この先に進めないのだ。

 問題となっているのは,工芸品と見まがうばかりの見事な文様を映し出す「受け」と呼ぶ部品。その薄さ,柔らかさ,繊細さ故,傷が付きやすく目立ちやすい。事実,3人の目の前にある受けには,わずかだが同じような傷が付き,美しい文様を台無しにしている。3人は目を疑っていた。

 傷をよく見ると,それがステンレス製のピンセットの先端部分が転写されてできたことに気付く。腕利きの彼らが細心の注意を払いつつ部品を優しく挟むのに傷が付くのなら,部品を変えるか道具を変えるかしかない。とはいえ,この期に及んで部品の材質などを変更する選択はあり得ない。時間がないのだ。ベテラン組立師の1人が道具箱を開け,めったに使うことのないピンセットを取り出した。

「なるほど,プラスチックね。それなら確かに傷は付かないけど,剛性が足りないから,μmレベルの組立作業には向かないんじゃないかなぁ」

「いや,このピンセットの世話にならなければならない部品はほんのわずか。集中すればできるよ,きっと」

「そうだけど,おれたちが220個のムーブメントを組み立てるのに与えられた期間はたった3カ月。やっぱり作業効率は落としたくないな」

 万事休すか。再び,沈黙が組立室を覆う。2人のベテラン組立師が頭を抱える中,桜田が突然手を動かし始めた。

「桜田,何してるんだ」

「ツルツルにしたらどうかなあ,と」

「ツルツル?」

「ええ,ツルツルです」

 黙々と手を動かす桜田。2人のベテラン組立師も,彼の動きを注視する。

「できた」

 桜田が,先ほどと全く変わらない動作で受けを優しく挟む。しばらく保持してから傷を確認する。と,傷の程度は明らかに軽くなっていた。

「ツルツルというのは,ピンセット先端の内側をバフで磨いて鏡面仕上げにしたという意味なんです。もちろん,つかみにくくなりますが,効率は慣れたステンレスの方がプラスチックよりはるかに上。そう考えたんです」

 桜田の機転によりピンチを脱出。3人には,先端の内側がツルツルに磨かれたステンレス製のピンセットが用意された。それから約3カ月,3人は一心不乱に6810ムーブメントを組み立て続ける。最初のころはベテラン組立師のペースに付いていけなかった桜田も,終わりころには組立師としての天賦の才能を開花させ,彼らを追い抜くほどの見事な腕前を披露するまでに成長していた。

 かくして6810ムーブメント,220本が完成する。


事業化への突破口

 1992年2月。機械式腕時計復活の夢を乗せて服部セイコー(現セイコー)誕生110周年記念モデルが発売された。厚さ1.98mmの極薄機械式腕時計「U.T.D(Ultra Thin Dress)」と,年差±5秒以内を実現するクオーツ式腕時計「V.F.A(Very Fine Adjust)」の2モデル。外観は同じで,色はイエローゴールドとホワイトゴールドのそれぞれ2種類。各110本ずつ限定生産された。

 これを誰よりも喜んだのは,この企画を立案した企画部門の田中淳。思い返せば,初めて訪れた世界最大の時計見本市「バーゼルフェア」で機械式腕時計を目にし,その圧倒的な存在感にすっかり魅了された。あれから4年。記念モデルとはいえ,あの存在感に負けない輝きを放つ機械式腕時計を世の中に送り出すことができた。機械式腕時計の本格的な事業化については,いまだ事業部長から色よい返事がもらえない。でも,この記念モデルの機械式腕時計が話題を呼べば,事業部長の心もさすがに揺らぐかもしれない。世間の反応が気になる。

 田中は,東京・銀座のデパートの時計売り場に足を運ぶ。このころは,スイス製を中心に機械式腕時計のコーナーが徐々に広くなってきていた。その中に,田中が記念モデルを見つけると,客の1人が機械式腕時計とクオーツ式腕時計を見比べていた。どっちを手にするんだろう。その客は機械式腕時計を選んだ。やっぱり。田中は1人うなずいた。

 同じころ,試作職場の桑原敬は東京・日本橋のデパートを訪れていた。自分たちが苦労して造った機械式腕時計をこの目にしっかりと焼き付けておこう,と考えたのだ。記念モデルを手に取ると,すぐに裏を見る。サファイアガラスでできた裏ぶたの奥では,桑原たちが正確に加工し桜田たちが正確に組み立てた部品たちが規則正しい動きを繰り返す。μm単位の技術の粋を集めた精緻な美しさと,受けに見る工芸品のような美しさ。桑原は「これは俺たちが造ったんだ」,そう叫びたい衝動に駆られていた。

 発売から程なく,記念モデルのうち機械式腕時計だけがあちこちの売り場から姿を消しているという情報が田中の耳に飛び込んできた。



「機械式もクオーツ式も両方売れてもらわないと困るんですけど,正直うれしかったな,機械式の方が先行していたというのは。自分の信念が間違っていなかったことが証明されたようなものですから。でも,これが機械式腕時計の事業化に直ちにつながるとは考えませんでした。上司を説得するための突破口になるとは思いましたけど」

 機械式腕時計の事業化をめぐり,その提案を何度も何度も跳ね返されてきた田中。しかし彼は,彷徨続けた深い闇の奥に燭光が灯るのを感じていた。





※未だ途中で気になっている方、申し訳ありません。
あまりにも転載が長すぎたので、続きは(下)をご覧下さいませ。
Posted at 2015/11/09 17:26:54 | トラックバック(0) | 時計 | 日記
2012年05月06日 イイね!

【記事紹介】一流なローテク「セイコー」編

【記事紹介】一流なローテク「セイコー」編GW連休中ですが渋滞に巻き込まれたりしませんでしたか?
私はと云えば毎度おなじみの「連休修理」だったのですが、今回はいつもと違ってずっと誰かしらお客さんも出て来なければいけない程の多忙ぶりで、既にフルではありませんが、今来ているお客様は操業に入っておられます。

んで、本来ならば今夜は帰る前の日で来てくれた皆さんと「一杯」飲むハズだったんですけど…
ま、深残業にはならなかったんですけど、もう一日延期になったのも有って、で、前々から紹介したいなと思っていた本と記事をと思って一応ネット検索したんですけど、記事が見当たらないので「セイコー」さんが機械式腕時計の復活した頃に「赤池学」さんがウェッジというJR東海さんが月刊で出している99年6月掲載分(ちょっと旧いですが)で、今の時代にも当てはまる日本の製造業のこれからを見つめるのに良い内容だと思いましたので、もしかしたら誤字脱字が有るかも知れませんが「丸写し」しましたので、お時間許す方は読んでみて下さい。

尚、この本には36社の当時の「最先端」が乗っていて知らない分野の話もたくさん有り、なかなか良い本ですよ。まだ新幹線内にネットでどうのこうのしていなかったのでウェッジ読みながらというのが多かったんですけどね。

※「赤池学」さんは「メルセデスベンツに乗るという事」を書いた人です。
(コレは偏向というか対比が無いので私はオススメではないです。勉強にはなりましたが)



以下、丸写しですw




セイコー…【高級メカ時計製造】
1000分の1ミリ精度で削り取るゼンマイ調整の秘技


◆ロングライフな本物志向で名品グランドセイコー復活
 あらゆるモノづくりの世界でいま、エコデザイン開発への取り組みが積極的に行われ始めた。法的、国際的な環境規制、ISO14001に代表される環境認証の取得、市場サイドからはグリーンコンシュマリズムの台頭と、環境対応を図らざるを得ない社会的要請がその背景にある。大量生産、大量消費、大量廃棄という20世紀型製造業の反省に立ち返り、
ロングライフな製品開発やモデルチェンジ抑制、リユース、フルユースを意図したモノづくりが徐々にではあるが形になり始めている。
 だれもが数個はもっている腕時計の世界でも、こうした胎動が確実に起こっている。過去5年間を振り返っても、スウォッチに代表されるデザイン時計ブーム、Gショックに代表される限定モデル購入ブームが終焉したなかで、ロレックスに象徴される高級メカ時計の再評価がここにきて急速に高まり始めている。
 1881年に創業した服部時計店、現セイコーは、1913年に国産初の腕時計を形にして以来、1969年までメカ時計のみをつくってきた。しかし、翌70年からクォーツ時計への転換を図り、メカ時計の製造を縮小したのである。確かに、メカ時計はゼンマイを巻かないと動かないという煩わしさがあるが、同時に希少性とあわせて、そこに愛着を感じる根強いファンが存在する。かねてから、ユーザーのなかからメカ時計復活を求める声が高まっていたが、社内的にもその必然が認識され始めたのである。
 その理由は技能伝承であった。92年当時、すでにスイスメーカーを凌駕していた熟練技能者たちは退職していた。しかし、その教え子たちはかろうじて健在で、いまをおいてメカ時計の製造技能を伝承するチャンスはないと判断されたのである。かくして同年からメカ時計の製造が復活。クレドールシリーズの発表を経て、98年、往年の名品「グランドセイコー」の復刻に結実した。

◆時を刻む精度は熟練技能者の手仕事次第
 すべての腕時計は、基本的に動力源、時計信号源、そして伝達転換機構と表示機構から成り立っている。クォーツ時計でいえば、それは電池、水晶振動子、電子回路、液晶パネル及び文字盤に相当する。メカ時計では、電池代わりのゼンマイに始まり、ムーブメントに組み込まれた振動源となる調速機を中心に、その微小な機構部品の点数は、実に二百数十点にのぼる。
 こうしたチリのようにしか見えない大きさの高精度な部品は、最新技術を搭載したNCマシンなどで製造されるが、それを組んだだけでは実はメカ時計は動かない。そこには、調整と呼ばれる複雑な熟練技能者の手仕事が不可欠なのである。実際の製造を担当するグループ会社である盛岡セイコー工業・高級時計工房班長(当時)の桜田守さんは語る。
「高級メカ時計に求められる精度は、調整によるつくり込みに掛かっています。腕時計はあらゆる使用条件や作業姿勢に対して、正確に時を刻むことが求められます。専門的には、『姿勢差の短縮』と呼んでいますが、要は机上作業でも屋外の土木作業中でも、進んだり、遅れたりすることのない精度を調整段階で制御するのです。
 メカ時計の心臓部は、振動源となる調速機です。調速機は、らせん状のヒゲゼンマイとテンプと呼ばれる微小ホイールから成り立っていますが、これが表、裏、そして12時、3時、6時、9時という傾きを持っても、ゼンマイトルクが下がらず、パワーがダウンすることのないよう調整するのです。テンプは、高精度のマシンで真円に加工され、工場でも粗調整を受けていますが、一点一点微妙な歪みが存在します。テンプの一部分がほんのわずかでもバランス的に重いと、その傾きの時に遅れが生じます。ならば、その重いところをさらってやることで、歩度(ほど)と呼ばれる姿勢差を縮めてあげるんですね」
 桜田さんが覗く顕微鏡下のテンプの直径は、9ミリの大きさだ。その外周幅0.8ミリ部分を、先端がキリになっている手作りのドライバーでネジを回すように、何と1000分の1ミリの精度でかき削っていくのである。何時部分を何回転で削るのか。すべては経験と勘に基づく手作業である。
 同様の微調整作業は、ヒゲゼンマイに対しても行われている。「ヒゲふれ取り」と呼ばれる調整だ。ゼンマイの巻き方に上下のブレがないか、らせんの巻き方がスムーズな波紋を描くように縮んだり、戻ったりするか。こうした曲がり、歪みをピンセットで直したり、カーブづけをしながら、ずれていた重心を調整し、なめらかなゼンマイ形状になるよう微調整しているのである。
 ちなみにヒゲゼンマイの幅は0.1ミリ、厚みは32ミクロンである。現在、グランドセイコーなどの高級メカ時計に求められるこうした調整とメンテナンスは、桜田さんを含めたわずか3名しかできないことを教えられた。

◆経験と勘だけではどうにもならない部分
 同社は、こうした熟練技能を継承するために、国内の系列製造拠点である盛岡セイコー工業に、そのためのシステムを計32名体制で集結されつつある。地の利を考慮し、高級メカ時計の製造とメンテナンス部門を兼ねた千葉県大野工場の高級時計工房は、同社のブランチであると同時に、高度な技能教授者の養成工房でもある。
 再び桜田さんが語る。
「クォーツ時計の製造は、比較的簡単な電気理論で読み切れますが、メカ時計の場合は複雑な物理理論が前提になります。伝承教育に際しては、まず舶来メカ時計にも共通する理論教育から入り、次に教材を用いた課題教育に移ります。これを何秒以内の姿勢差で調整せよ、といった具合です」
 現在、同社ではメカ時計に従事する作業者から順次人選して、部品製造から外装、精度調整からメンテナンスに至る一連の技能を習熟させるために、部門ごとの継承プランを構築している。桜田さんが担当するムーブメント部門では、まず組み立てに従事する各作業者の技能検証を行い、何ができて何ができないかという技術練磨表作成する。そのうえで個人別の技能育成計画書に基づき、理論教育と実践教育に入るのである。
 なぜ理論教育が必要なのか。桜田さんによれば、「調整によるメカ時計のつくり込みには、経験と勘だけではどうにもならない部分がある。メカ時計のきっちりした理論が頭にたたき込まれていなければ身に着くものではない」という。そうした理論が植え付けられたうえで、グランドセイコーのような高級時計の調整技能の習熟には、通常5年から10年を要するという。
 月に2時間、メカにかかわる削りや磨きといった固有技能の理論を段階的に学び、実際の作業ラインのなかで実践していく。生産の歩留まりなどの問題はあるが、実作業のなかで体感しないと身に着かない。こうしたOJTによる技術習熟は工程別にポイント評価され、最終的には技能検定や技能競技大会への参加を目標とする。
 当然、一足飛びに技能が習熟できるわけではない。しかし、ポイント評価や技能検定という目的意識をもたせることが、技能習得への動機づけとなるのだ。
 このようにしてつくられる同社の高級メカ時計は、数十万円、なかには100万円を超えるものもある。しかし、月産30個しかできないスケルトンの限定記名モデルは発売直後に完売、製造から検定までに1カ月以上を要するグランドセイコーも受注後3カ月待ちの状態である。
 これを貴族趣味ととるか、希少性に対する投資ととるかについてはさまざまな議論があろう。しかし、セイコーは、復刻したグランドセイコー、クレドールについては、製造中止後も30年メンテナンス対応を打ち出しており、孫子の代まで使えるロングライフ製品の長期対応を戦略にしようとしていることに疑いの余地はない。同時に、同社のメカ時計には、重要なエコデザインの哲学が込められている。重厚、堅牢、そして陳腐化しない美的価値を訴求する商品デザインそのものが、長期使用の重要性という「心」そのものを伝える「エコ・メッセージ」として機能している次世代的な意味に、多くの企業は気づくべきである。(99年6月掲載)





趣味性の高い嗜好品なので、セイコーを是非皆さんで買いましょうとかは云いませんけども、もしあなたが「1個くらい高級な機械式腕時計が欲しいけど、どれにしようか迷ってる」なんて人が居ましたら、この記事を読んで、できればその志に感銘を受けて頂けたらなぁとか思ってしまいます。

時計だけではないんですが「日本製」って良い製品が多いんですよ。
ただ宣伝が下手なだけなんですよね。

ではまた~♪
Posted at 2012/05/06 00:58:53 | トラックバック(0) | 時計 | 日記
2012年04月05日 イイね!

『機械式腕時計の復活』シリーズが今日で最終回でしたw

『機械式腕時計の復活』シリーズが今日で最終回でしたwリンク先は http://techon.nikkeibp.co.jp/article/FEATURE/20120221/205355/?P=1

日経のTech-On!に掲載されていた、セイコーのお話です。
1969年、奇しくも私が生を受けた年に機械式からクォーツへと歩を進めたセイコー。

かつて80年代はクォーツで栄華を極め、スイス機械式腕時計の老舗メーカーに苦汁を飲ませたセイコーが、その以前捨てた自身の機械式腕時計『復活』に奔走した奇跡。

一社員デザイナーの先見の明といい、若き技術者の飽くなき挑戦といい、日本の底力を感じさせるお話です。

今でこそクォーツと機械式で双壁を為す完璧な腕時計メーカーのように見えたセイコーさんも、本当はギリギリの所で踏ん張って一人一人が素晴らしい力を発揮して支えていたんですね。

それも元を正せば「基礎」が有ったからこそで有り、レベルの差や職種の違いこそ有れど、ものづくり日本の底力を再認識しました。

「Tech-On!」の記事は旧い奴等は会員登録しないと読めないのが玉に傷ですが…

機会が有れば、ぜひ一読してみてくださいね。
Posted at 2012/04/05 18:38:00 | トラックバック(0) | 時計 | 日記

プロフィール

「てか、代表や候補者が口々に訴える内容が、まんまクレムリンピラミッドのプロパガンダに載せられてしまっている政党が躍進したのが一番の懸念です。全部が全部、訴えている内容が悪い訳ではないからタチが悪いですね。ま、B層が多いから仕方ないですけど。」
何シテル?   07/20 23:10
【座右の銘】 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり、 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。 是は親鸞聖人の御言葉です。 【意味】 私たちはなかな...
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