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2014年11月18日 イイね!

【紹介記事】カイコ吐き出す「クモの糸」切れにくさ鋼鉄の20倍w

今回は、記事の紹介だけですので、お時間の有る方は読んでみて下さいませ。



切れにくさ、鋼鉄の20倍 カイコ吐き出す「クモの糸」
2014/11/18 7:00日本経済新聞 電子版

カイコにクモの糸の遺伝子を組み込んで頑丈な素材を作る技術が実用化の時期を迎えている。化粧品や医薬品の成分もカイコから取り出せる。コストを抑えたエコ素材の可能性が開けてきた。

 クモの糸のタンパク質を作る遺伝子をカイコに組み込んで糸を吐かせ、その頑丈な糸を衣服に利用する。カイコにヒト型コラーゲンの遺伝子を入れて、繭(まゆ)に含まれるコラーゲンから化粧品を作る──。遺伝子組み換えカイコを使って新しい素材や原料を作る技術の実用が始まっている。この分野の研究開発で日本は世界をリードしている。

 茨城県つくば市にある農業生物資源研究所(以下、生物研)は2014年8月、クモの糸の遺伝子を組み込んだカイコを用いて「クモ糸シルク」を生産することに成功し、このシルクでベストやスカーフを製作した。

 クモ糸は高強度で伸縮性に富むという優れた性質があり、新素材として注目されてきた。しかし、共食いするクモを大量飼育して糸を取り出すことは現実的でなく、量とコストの面から工業生産は難しかった。

■機械加工に耐える強度を確保

 この壁を打破したのが、カイコの利用である。生物研は2000年にカイコの遺伝子組み換え技術を開発。2007年にはカイコにオニグモの糸の遺伝子を組み込んで糸を取り出した。ただ、糸の量は少なく切れやすかったため実用化はできなかった。

 生物研は遺伝子の導入技術の改良を重ね、シルク生産のための機械加工に耐えられる糸を取り出すことに成功した。製作した生糸は、切れにくさを示す「タフネス」がナイロンの1.5倍、炭素繊維の約5倍、鋼鉄の約20倍に相当する。こうした繊維素材は強くて伸びる繊維としてアパレルに利用できるほか、医療素材への利用が見込まれている。

 生物研はクモの糸以外にも、オワンクラゲの緑色蛍光遺伝子やサンゴの発光遺伝子をカイコに組み込んで光る糸も取り出した。光る糸で織ったドレスはシルクならではの光沢や柔らかさをかもし出している。

 「化学繊維のように石油を原料としないことに加え、色付きの糸では染色工程が不要になり、化学物質の使用や排水汚染を抑えられる。またカイコは無農薬栽培の桑を食べるため農薬を使用しない」と、生物研の飯塚哲也主任研究員は環境への負荷が少ないことを強調する。

■野外飼育を日本で初承認

 遺伝子組み換えカイコはこれまで隔離された実験室で飼育していたが、2014年7月からは野外の限定エリアでも飼育を始めた。遺伝子組み換え生物に関するカルタヘナ法に基づく野外での試験飼育の承認を、農林水産省から得たからだ。野外飼育の動物の承認は日本では初めてのことになる。

 いずれ幅広く産業利用される際に、養蚕農家が飼育することを想定して申請した。試験飼育で、遺伝子組み換えカイコが生態系に悪影響を及ぼさないかなどをチェックする。

 「2016年から農家による試験飼育を目指している。そこで安全性が確認されれば本格的な生産に入ることになる」と飯塚研究員は期待する。

■クモ糸新素材で自動車部品も

 カイコではなく、微生物にクモの糸の遺伝子を組み込み、クモ糸タンパク質を作らせて新素材として生産しているのが、山形県鶴岡市のベンチャー企業、スパイバーだ。トヨタ自動車に自動車部品を納入している小島プレス工業(愛知県豊田市)と共同で、クモ糸の新素材を使った自動車部品を試作している。

実は遺伝子組み換え技術で遺伝子を組み込む対象には、カイコなどの昆虫の他にも、微生物(バクテリア)や細胞、植物などが使われる。微生物への組み込みは、医薬品開発では一般的な技術になっている。遺伝子を組み込んだ微生物が、糖尿病治療のインスリンを大量に安価に作り、医薬品として実用化されている。

 遺伝子組み込みの微生物で、工業材料になるようなタンパク質の量産化に成功したのはスパイバーが世界で初めてだ。同社はクモ糸の遺伝子を組み込んだ微生物に、栄養素を与えて発酵させ、クモ糸のタンパク質を生産させている。

 難しかったのはクモ糸のタンパク質を大量に取り出すこと。微生物の種類や発酵の条件、クモ糸の遺伝子を何通りも変えて試作し、タンパク質を大量に作る条件を見いだした。そのタンパク質から紡糸するのにも苦労したという。発酵タンクの中で作られたタンパク質を精製し、溶媒に溶かすが、溶解性や粘度の最適解を見つけるのが大変だった。

 現在は約10種類のクモ糸の遺伝子を利用している。紡糸加工設備も独自開発し、生産能力は月産数十~100kgである。

■省エネやコスト低減効果も

 こうして作ったクモ糸の新素材を「Qmonos」(クモノス)と名付け、繊維、フィルム、パウダー、ナノファイバーなどの形で供給している。高強度で伸縮性がある性質を利用して、衝撃を吸収する用途への応用を期待しているという。例えば自動車などの乗り物や、スポーツ用プロテクター、防弾チョッキなどだ。

 「炭素繊維に比べると高強度であるため、この繊維を使えば製品を軽量化できる。また、化学繊維と違って、生産工程で高温高圧にする必要がないためエネルギー消費量が少なくて済み、環境への負荷が少ない」と、スパイバーの東憲児・取締役兼執行役は言う。

同社は組み込む遺伝子を変えることで、クモ糸のような特性の材料だけでなく、昆虫の体にあるゴムのように伸びるタンパク質など様々なタンパク質を工業的に作ることを狙っている。「石油由来の素材を代替できるバイオマス素材の開発が目的。化学繊維のように種類ごとにプラント設備が必要なく、1つの発酵生産プラントがあれば様々なタンパク質が作れる。結果、コストや環境負荷も抑えられる」と東取締役は話す。

 群馬県藤岡市の株式会社、免疫生物研究所は、遺伝子組み換えカイコの繭から化粧品を製品化した。同社の子会社であるネオシルク化粧品が2014年7月、ヒト型コラーゲンの遺伝子を組み込んだカイコの繭を利用、コラーゲンを含む乳液やクリームなどの化粧品を発売した。ヒト型コラーゲンは保湿成分が高く、“プルプル”の肌を作ってくれる。化粧品用途に生産しているのは同社が初めてだ。

■環境負荷の小さい化粧品

 コラーゲン入りの化粧品といえば、魚や豚など動物由来のコラーゲンを使うケースが多く、アレルギー反応を起こす人もいた。ヒト型コラーゲンならリスクは下がるという。

 カイコを利用したのは、化粧品は工業製品より純度の高い成分が求められる上、コストは医薬品ほど高くできないからだ。「微生物でタンパク質を精製して純度の高いものを作るのは工程的にも大変でコストもかかるが、カイコを利用すれば、比較的容易に純度を高められ、設備費が圧倒的に安く、精製の工程が半分以下になる」と免疫生物研究所の清藤勉社長は理由を話す。

 群馬県は富岡製糸場が世界遺産に登録されたように養蚕の歴史がある地域。同社は自社でカイコを10万匹飼育するとともに、群馬県蚕糸技術センターなどにも実験室でカイコを飼育してもらっている。ヒト型コラーゲンを繭に発現させ、繭を溶液や試薬に溶かすことで取り出している。組み込んだ遺伝子はカイコの体に残るが、抽出したコラーゲンには含まれない。

 こうして生産したコラーゲンを2012年から販売していたが、2014年からは化粧品メーカーにコラーゲンを提供し、化粧水、美容液、クリーム、洗顔剤のラインアップをOEM(相手先ブランドによる生産)によって商品化した。

 化粧品は昨今、化学合成で作るのが一般的だ。だが、カイコを使えば、石油系由来成分や化学合成成分を使用する場合に比べて環境への負荷を減らせる。

 ネオシルク化粧品は2014年7月からインターネットで販売を始めた。「2015年に化粧品で1億円の売り上げを目指している。ヒト型コラーゲンの市場は160億円程度とみており、今後3年間で5~10%のシェアを握りたい」と、免疫生物研究所の清藤社長は意気込む。

 製薬会社も遺伝子組み換えカイコから医薬品を作る試作段階に入った。カイコが新素材や新原料の可能性を広げようとしている。

(日経エコロジー 藤田香)

[日経エコロジー2014年11月号の記事を基に再構成]





転載おしまい




こうして日夜努力し続けている、日本のものづくりは素直に素晴らしいと思います。

ではまた。
Posted at 2014/11/18 13:01:52 | トラックバック(0) | 情報 | 日記
2014年10月20日 イイね!

【紹介記事】日本製を愛するインド人起業家の貴重な話から思うことなど

先ずは、全文転載します。

また、特に重要と思った部分を朱色で記しています。






日本製を愛するインド人起業家
魂のものづくりに期待


パンカジ・ガルグ(アイ・ティ・イー代表取締役社長)
2014年10月20日(Mon)  Wedge編集部


 無電源でも最長160時間、任意の温度を保つ温度記憶保冷剤「アイスバッテリー」を開発し、
医薬品や生鮮食品などの定温物流に革命を起こすアイ・ティ・イー(東京都千代田区)。

インド人社長のパンカジ・ガルグさん(49)は、日本のものづくりに憧れて1988年に神戸製鋼所
のエンジニアとして来日した。

 「メイド・イン・ジャパンは、世界一ですよ。子供の頃からものづくりが好きだったので、
日本に来ました。日本は、戦争で大変な目に遭ったのに、ものすごい努力で立ち上がり、
経済大国になった。インド人は、そうした日本人の精神性を尊敬しています」

 インテル時代に取り組んだ半導体の冷却技術に「アイスバッテリー」のヒントを得て、2007年に
起業したガルグさん。
ビジネスの拠点を東京に置いたのは、東京の町工場での生産を望んだからだった。

 「日本の技術者は、完璧主義で細かいところまでこだわる。だから、欠陥が少なく長持ちする
ので、親から子へ代々、ものを大切にする習慣が日本にはあった」
と信頼を寄せる。
今でも26年前の来日時に買ったソニーのラジオを愛用し、スポーツ中継を聴いているという。

 しかし、最近の日本のものづくりには不満もある。




 「今の日本企業は、中国に生産拠点を移して、ものづくりへの愛情を失っている。

技術者出身の経営者も少なくなって、コストのことばかり考えている。

経済は、お金だけが全てじゃないんですよ。

日本のものづくりが世界一になったのは、ラグビーのような技術者たちの

『ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン』の精神があったから。

ものづくりは『魂』ですよ。

今の日本には、心の経済が足りない。

情熱、元気、やりがい。

私は、アベノミクスを 
『 ココロノミクス 』 に変えたいと思っています




神戸製鋼所時代、元ラグビー日本代表の山口良治さんと出会い、仲間と共に挑戦する
心構えを学んだ。自分の会社を立ち上げると、真っ先に山口さんを自社の顧問に迎えた。

 4歳の時、兄を病気で亡くしているガルグさん。
当時のインドの電力などの社会インフラ事情でワクチン輸送が難しかったことが原因だった。
だからこそ、無電源で世界中どこへでも運んでいける、CO2も排出しない冷却技術に注目。
そして、医療用医薬品に求められる厳しい品質管理を実現すべく日本製にこだわった。
東京での起業から約7年。日本航空やアルフレッサと提携し、今年は世界市場へと大きく
羽ばたく年になる。
日本企業と共に『ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン』のチームプレイで
「定温物流の業界に革命を起こしたい」と大きな目標を掲げる。




転載おしまい



至極、御尤もでございます。

というか、ありがたい御言葉ですよね。

お金儲けだけに走ったり、他人の事に無関心だったり、回り回って自分の身に降りかかる

なんて事を忘れがちな現代日本人には、目の覚める御指摘かと思いました。




多くは語りませんが、インド人起業家が云われた今回の件をどう考えるか、特に経営に携わる方

などが居れば、また、会社勤めの人も同様な視点を持つという意味合いで心に留めておいて

欲しいなと思います。




ま、勝ち負けでしか物事を考えられない人には到底理解出来ないとは思いますが。

それではまた。
Posted at 2014/10/20 14:31:10 | トラックバック(0) | 情報 | 日記
2014年08月21日 イイね!

【紹介記事】日本のスイカが輸入品に絶対負けない理由

今回も転載のみで、すみません。

とても面白い記事だと思いましたので、紹介致します。

それではどうぞ。







海外との価格競争とは無縁のツワモノだった!?
日本のスイカが輸入品に絶対負けない理由






農場と聞けば生産農家かなと思う。しかし、萩原農場が生産・販売しているのはタネであった。専務の萩原斗志弘さん(52歳)が説明する。

「萩原農場は農家だった祖父が大正期におこした会社です。とても変った人だったようで、田畑を売ってまでも自分のやりたい研究に没頭していたために、近所の人たちからは貧乏したけりゃ萩原を見習えと言われていたそうです」

 そんな創業者がある時、それまでになかったスイカの開発に成功した。栽培しやすく、品質も良いそのスイカは「富研号」と名付けられ、スイカ界で初めて農林省種苗名称登録された。以来、業界ではスイカのタネと言えば有名なのがこの萩原農場なのである。


市場に流通するのは
たった100分の1だった!?



スイカはもともとウリ科の食物であり、キュウリやカボチャと同類である。樹木ではなく、草になるため、園芸分野では「野菜」に分類されている。というのも、スイカの野生種はちっとも甘くない。それが果物と見まがうほどに甘くなり、日本で、「夏と言えばスイカ」というほど庶民の食べ物として浸透したのは、長年に渡る品種改良の成果だと言える。

――ホームページを拝見したら、日本で育成されているスイカは150種類以上あると書かれていたのですが、そんなにたくさんあるとは知りませんでした。

「それは市場に流通した数だけです。我々の場合、だいたい年間100品種くらいは作っています。そのうち市場に流通するのは1品種あるかないか。それでも、すぐに産地に導入という訳にはいきません。スイカは天気にも左右されやすいので、どの産地でもたいがい1年か2年試してみてから、ということになります。流通しないままお蔵入りしたものもたくさんあります」

――導入というと、販売先はJAになる訳ですか?

「そうですね。我々がJAに売ったタネを生産者さんが買う場合もあれば、JAから苗屋さんに行って、そこから生産者に渡る場合もあります」

――タネとタネをかけ合わせて新しい品種をつくる。具体的にはどのような作業をして新しいタネが生まれるのでしょうか?

「大きく分けると、販売用のタネをつくる作業とその親を開発する作業の2つがあります。販売用から先に説明しますと、まずは親となるA品種とB品種を用意します。Aを母体にするとしたら、その雌花に虫がつかないよう袋掛けをする。これは花が咲く前日にかけます。Bの雄花にも同じようにして袋掛けをしておきます。で、Aの雌花が咲いたら、Bの雄花の花粉を受粉させる。そうして採取できたタネが商品になります。ただし、それとは別に親をつくる仕事がありまして、我々にとってはこちらも同じように重要な仕事です」

――親をつくると言いますと?

「かけ合わせてできたタネをF1と呼びますが、これは一代限りなんです。子孫をつくれない。ですから、もう一方で親になる固定種をつくり続けないといけないわけです。固定種はもともとその土地の気候などに合わせて長い年月をかけて自然淘汰されたものですが、品種改良で使う固定種は、それを人間の手で選抜・淘汰しながらつくっていく。要するにメンデルが『メンデルの法則』を発見した時の作業と同じです。高いのは高いの、低いのは低いのと寄せていって固定する。

 こうなるはずだと思って選抜を繰り返しても、なかなか固定してくれない場合もあります。形や中身の色がいつまでもバラけて一定にならない。相手が植物ですから、なかなか思い通りにはいきません」



台木は「つわもの〈強者〉」、小玉は「ひとりじめ」
スイカに変わった名前をつける理由は?




――カタログを見せていただくと、台木も並んでいますね。

「それは接ぎ木用ですね」

――気になるのはそのネーミングです。「かちどき2号」「つわもの〈強者〉」「鉄壁」など、やたら強そうな名前が多いのは……。

「やはり、病気に強いのが一番ですから」

――スイカの品種も「春のだんらん」とか「夏のだんらん」とかあるんですけれども……。

「それは社内で考えた名前です。『祭りばやし』と『ひとりじめ』、『サマーキッズ』は公募しました。もう十年以上前になりますか、懸賞金をかけて、一般の人に名前を考えてもらったんです。一等の賞金はたしか10万円でした」

――10万円ですか!?

「自分たちで考えていると、同じような名前になっちゃうんですよ。だから、いっぺん、公募してみようかと。一般の方が勝手につけてくれた名前の方が、案外、おもしろいんじゃないかと思いまして。その時はものすごい数の応募がありました。たしか、何万と来たんじゃないかなあ。そのなかで、すでにあるような名前は省いて選んだのが先の3つです」

――それにしてもインパクトありますね、「ひとりじめ」とは。

「当時はちょっときつすぎるかな、という印象だったんです。それで一度はボツになりかけたんですけれども、とりあえず品種登録だけはしておきました。私はどうしても捨て難くて、ですね。

 その時の大賞は『サマーキッズ』。次の品種を売り出すことになった時に『祭りばやし』とつけた。ひとりじめはまだとっておいたんです。ここぞという時に使おう、と。で、ある時、今までとまったく違う小玉スイカができた。小玉スイカというとやはり、割れやすい、それと、どうしても大玉の方がおいしいというイメージがあったんですね。それを覆したのが『ひとりじめ』で、味もよくて割れにくい。それで一気に全国の産地に広まったんです」

――まさにひとりじめだったわけですね(笑)。

「いやいや、ひとりじめしたいくらいおいしい、と。そういう意味ですよ(笑)」

 スイカのタネにはそれぞれにキャッチコピーが付いている。たとえば、「輝く黒さが、ひときわ目立つ! 夏のワンパクフルーツ!!」や「まくら型のスター!! 楕円型・高糖度タイプ!」等々。

 気になったのは、「サマーキッズ」に「スイカ界のハンサムボーイ」というキャッチコピーが付いていたこと。考案者だという萩原専務に「どのあたりがハンサムなんでしょうか?」と質問したら、「だから、モテモテやったんですよ(笑)」と返された。

 スイカのネーミングにはこのような「ノリ」が必要なのである。


こだわりすぎる日本人の
「タネなしスイカ」基準とは?




それにしても不思議だ。これまでスイカの品種など気にしたことはなかった。せいぜい「大玉」か「小玉」かを選ぶくらいで、産地情報と言っても、それで判断して買うほどツウではなかった。それに、売り場で「ひとりじめのスイカくださ~い!」と叫ぶ客など見たことはない。

――消費者はどうしてこんなにスイカの品種に疎いんでしょうか?

「じつは、市場の担当者さん、仲卸、バイヤーさんくらいまでは品種を意識しています。ただし、売る時は『熊本産』『長野産』『山形産』のように産地名をメインに打ち出す場合が多いのです。

 理由の一つは、毎年、違う品種が次々と出るから。リンゴや桃、ブドウは木になりますから、そうそう品種を変えられない。でも、スイカは草になりますから、毎年、栽培する品種を変えられるんです。という訳で、品種名をあまり前面に打ち出してしまうと、トレンドが変わった時に「あれっ、ないぞ!」となって売り場で困ってしまう。

 それと、スイカはやはり土壌や天候、栽培方法などに左右されやすい作物ですから、品種だけでどうこうと判断しにくい。同じ品種でも、産地によって、あるいは栽培方法によって味が微妙に変わります。そのため、あまり品種名を前面には出して売り出されていないんだと思います」

――なるほど、流通側の事情もあるわけですね。

「ええ。我々、生産者さんはもちろんのこと、流通サイドの意見も取り入れながら品種改良していますから。それで言うと悩ましいのはタネなしスイカでしょうか。流通サイドからはご要望が多いのですが、作る側からすると、こんなに大変な商品はない」

――どのあたりが「悩ましい」のでしょうか?

「スイカの染色体は本来、2倍体です。タネなしスイカを作る場合、まずはそれを科学的に処理して4倍体のスイカを作ります。4倍体の雌しべに2倍体の花粉を受粉させて3倍体のタネを作る。これを育てて実にすると、遺伝学上は1024分の1の確率でタネができる。つまり、それ以外はすべてタネなしになるわけです。

 だけど、これだとタネを採取する確率も低くなってしまいますし、発芽率も悪くなります。そうすると、生産者も価格を高くしないとやっていけないわけですけれども、市場ではそれほど高い値をつけられない。それで、タネなしスイカはあまり普及しなかったんです」



――カタログにある「レアシード ひとつだね」というのも、タネなしの一種でしょうか?

「それは“運試し”をコンセプトに開発しました。というのは、タネなしと言っても、タネを完全にゼロにするのは大変なんです。通常、スイカにはひと玉あたり500粒程度のタネが入っています。この『ひとつだね』の場合、確率として2~3玉のうち1粒はタネが入る」

――なるほど、タネを見つけたらむしろラッキー、と。

「そういうことです。スイカに薄い白いタネが入っていることがありますよね? あれはうまく受精しなかったり、受精したものの中の胚芽が発育不十分だったりするとできるわけですが、タネなしといってもそういった白いタネはどうしても残ってしまいます。

 日本の場合、タネが一粒でも残っていると『これはタネなしじゃない!』と言われてしまうこともありますが、海外では必ずしもそうではありません。たとえばアメリカの場合、4分の1にカットして、その表面に熟したタネが10粒以内だったらOKという基準があります。だから、けっこう大雑把なんです」



出張先でも朝はスイカ!
スイカのタネを営業するプロの食生活


このところ、流通サイドからの要望が強いのは「真ん中と皮近くの味の差があまりないスイカが欲しい」ということだそう。カットスイカが普及すればするほど部位による味の差がないもの、中の身が詰まっていて空洞がないもの、が求められるようになっている。

 全国各地のJAでは、事前検査でそうした空洞がないかどうかを調べてから出荷しているため、昔に比べるとスイカの“ハズレ”はほとんどないそうだ。

 ところで、じつは萩原さん、富研連盟全国協議会の部会として設立された「スイカ倶楽部」の部長でもある。7月末、六本木のミッドタウンでスイカ倶楽部のイベントがあり、上京したところを掴まえてインタビューさせていただいた。前日はおつきあいで深夜まで酒を飲み、ホテルに帰ったのは午前1時を回っていたとか。

――最後にそんな萩原さんの食生活を伺いたいのですが。

「私の食生活ですか? えーと、朝ごはんは毎日、スイカです」

――毎朝スイカですか!? それだと、ホテルに泊まった時に困りませんか?



「ですから、昨日もコンビニでカットスイカを買いました。だけど、夜のうちに食べちゃったんです。なので、今朝はスイカを食べていません」

 スイカの産地は全国にある。それをくまなく営業して回るのだから、必然的に出張も多くなる。そんな時、スイカにはシトルリン・リコピン・カリウムなど様々な成分が入っていると聞き、毎朝食べるようにしたら、体の調子も良くなった。「二日酔いもしにくくなりました」とのこと。さりげなくスイカアピールをされてしまったような気もするが、事実、萩原さんは元気である。

 日本のスイカは安くておいしい。海外の人が日本のスイカを食べると、まずはその甘さに驚くそうだ。だから、「スイカのタネを売って欲しい」という引き合いはけっこうある。国際比較で言うと、スイカの収穫量がダントツで多いのは中国。大きく水を開けて、トルコ、イランがそれに次ぐ。人口が多いため、中国は消費量もダントツだそう(参照:「国際連合食糧農業機関(FAO)」)。

――日本のスイカが安い海外産に押されちゃうということはないんでしょうか?

「うーん、それは考えにくいですね。スイカはかさばりますから、輸送するのにコストがかかる。一方で単価は安い。仮に海外から日本に持って来ても、日本のスイカは品質の割には安いですから、競争してもコストに見合わないんですよ」

 重くてかさばり、安いからこそ日本のスイカは守られる。そう言われるとなるほどな、と思う。欠点も、見方を変えれば外敵から身を守る手段になるのかもしれない。

 ところで、別件のリサーチのために居酒屋へ行ったら、お通しにスイカが出てきて驚いた。翌日、ランチでパスタを食べにイタリアンレストランに行ったら、お口直しにスイカのシャーベットが出てきた。

 もうすぐ夏も終わる。今のうちにスイカを食べておこう。

(写真提供:萩原農場)





転載おしまい




恥ずかしながら、スイカが体に良いとは全く知りませんでした。

日本の夏もスイカは定番ですが、昔の人は美味だからだけでなく健康にも気を遣っていたんでしょうね。

こだわり過ぎてダメなケースと、こだわってるからこそ、このような素晴らしいスイカが

当たり前の様に私たちの口に入るのですねぇ。

感謝、感激でございます。 日本の農家の皆さま頑張って下さいませ!

それではまた。
Posted at 2014/08/21 13:09:51 | トラックバック(0) | 情報 | 日記
2014年08月19日 イイね!

【紹介記事】日経記事:廃油を洗う「第二のくまモン」

冒頭から、すみません。

今回は良記事で、どうしても紹介したかったのですが時間無いのでコピペだけの手抜きです。

では以下に貼り付けますので是非お読み下さいませ。

(※無断転載のため、削除の依頼があれば応じます故、載っている間にお読み下さい)






廃油を洗う「第二のくまモン」
2014/8/19 7:00

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家庭から捨てられるてんぷら油を回収して、クルマの燃料にする──。
熊本市の女性経営者の10年に及ぶ執念が、「世界一」と言われる高品質の廃油燃料を
生み出した。
そして、熊本でこのエネルギーの利用が広まり、知事をして「第二のくまモン」と言わしめる。

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「絶対に壊れるから、やめてください」。自動車ディーラーは、そう悲鳴を上げた。

 使用済みのてんぷら油を精製して、新車に入れる──。

 「そんなことをするなら、定期点検は受けつけられない」。
そう言われても、星子文は頑として譲らなかった。
自らが経営する「自然と未来」(熊本市)が作り出す燃料は、軽油に匹敵する品質だと自負している。

 最後はディーラーが根負けした。
すると星子は、廃油から作った燃料をタンクに入れて、白い車体に大きく
「BIO DIESEL FUEL(バイオディーゼル燃料)」という文字を書き込んだ。



それから2年が過ぎ、走行距離は2万キロメートルを超えた。
その間に故障することもなく、クルマは快調に走行を続けている。
その様子を見ていた自動車ディーラーの担当者は、こう漏らした。

 「ぼくも入れてみようかな」


■環境大賞を総なめ

 地元の熊本で、星子が作り出す燃料の利用が広がっている。
熊本市のゴミ収集車や私立大学のバスが、この燃料で走っている。
大手ゼネコンの建設現場の重機にも使用される。

 そして地元のガソリンスタンドは、星子のバイオディーゼル燃料を軽油に5%混ぜた商品
を販売している。
きっかけは4年前のことだった。
創業したばかりの星子は、ガソリンスタンドを運営する東光石油の会長、石原靖也を訪ね、
バイオディーゼル燃料の効果を説いた。
家庭や飲食店で使用した食用油は、そのまま下水に流してしまう人が多い。
凝固剤を使って捨てたとしても、ゴミが出ることに変わりはない。だが、燃料に変えて使う
ことができれば、エネルギーを循環させることになる、と。

 「それはいい。軽油をやめて、ぜんぶおたくの製品に変える」。
石原は星子の理念に賛同し、担当役員に導入するように指示した。
ところが、社内から強い反発がわき起こる。

 「いらんことを会長にふき込まないでくれ」。
東光石油常務の川島博は、星子に会うなり、そう大声を上げた。
過去に、ガソリン代替燃料は多くの失敗を積み重ねてきた。
1990年代後半には、高濃度アルコール燃料「ガイアックス」が販売されて注目を集めたが、
性能面などで問題が指摘され、法規制の強化によって消えていった。

 だが、星子はこれまでの代替燃料とはまったく違うと強調する。
ガイアックスは天然ガスという化石燃料を原料としていたが、バイオディーゼル燃料は菜種
や大豆などの植物を原料としたエタノールを利用している。
植物は生育段階で二酸化炭素(CO2)を吸収する。そのため、星子の作り出す燃料は、
環境省のカーボン・オフセットのクレジット制度にも認証されている。

 製品の品質検査でも、驚異的な数値を叩き出している。JIS(日本工業規格)が定める
バイオディーゼル燃料の要求品質は26項目あるが、自然と未来の製品はすべての項目を軽く
クリアしている。
最も難しいとされるエステル分(燃焼効率を表すガソリンのオクタン価に相当)は、
基準の「96.5%以上」を達成するのに苦しむ企業が多い。
だが、星子は独自の精製ラインを進化させていき、99.8%という驚異的な数字を叩き出した。

 そして、環境関連の受賞が続いている。
昨年7月、熊本県の「くまもと循環型社会賞」を受賞、続いて昨年12月には環境省から
地球温暖化防止活動で「環境大臣表彰」を受けた。

 熊本県知事の蒲島郁夫は、星子に最初に会った時、不思議な印象を持ったという。
バリバリの企業家タイプではないが、美しい自然を残したいという思いで、周囲を巻き込んでいく。

 「前例にとらわれずチャレンジしている。だから、“第二のくまモン”と呼んでいる」(蒲島)


 東光石油の川島の考え方も、星子と接しているうちに正反対に振れた。
「若い人ほど、環境に対する意識が高い。クルマ離れが進む中で、従来の製品を売り続ける
よりも、バイオディーゼル燃料に切り替えた方が差別化を図れる」

 そして昨年12月、東光石油はバイオディーゼル燃料の販売を開始した。
軽油販売をやめて、すべてバイオディーゼル燃料に切り替えることまで検討している。




星子がこの技術に出合ったのは、2002年、運送会社に勤務していた時のことだった。
燃料費の高騰によって、会社の収益が圧迫されていた。
そんな時、取引先が燃料を自社で作っていることを知った。
その業者が乗っていたクルマに近づくと、不思議な臭いが漂う。
それが、てんぷら油を精製したバイオディーゼル燃料だった。

 「自然から作られたものが、循環して使われている。自分がやるべきことは、これだと思った」

 早速、同じ機械を購入した。
そして、自社の運送用トラックを使って廃油を回収する。
だが、集まった廃油を、うまく精製できない。食用油といっても、菜種油やゴマ油など、様々な
種類がある。
しかも、天かすが残っていたり、水や調味料などの残留物が含まれていることもある。

 結局、集めた廃油の状態を見極めて、必要な処理方法を考えていくしかなかった。
だから、星子の会社では、社員が機械につきっきりで、製品の状態を確認している。
集めた廃油は、まずタンクで寝かして物質の比重の違いで分離させる。その後、三価アルコール
のグリセリンを投入して汚れを落とす。
油の状況を見極めながら、多くの機械を組み合わせて、澱(おり)や残留物を少しずつ取り除いて
いくわけだ。

 「人の手をかけて作り上げるしかない。菓子作りのようなもの」(星子)


■企業倒産の中で

 だが、ようやく精製技術が確立されてきた2009年、思わぬ事態に見舞われる。
経営トップが道路交通法違反を起こしてしまう。
優良顧客が次々と去って、あっという間に倒産に追い込まれた。

 取締役だった星子は、社員50人の再就職先を探す一方で、バイオディーゼル燃料の事業を
引き継ぐ会社を探して回った。
だが、「そんなビジネスで儲かるはずがない」と断られてしまう。
結局、自分で続けるしか道がなかった。
星子は運送会社の破綻処理を進める傍らで、企業を立ち上げることになる。



 いざ本業として取り組むと、ライバル業者からの妨害に遭った。
10時間にわたって産業廃棄物業者に軟禁され、事業から手を引くように迫られたこともあった。
回収するドラム缶が、何度も盗まれる。
目の前で、廃油をポンプで抜き取られることもあった。
詰め寄ると、逆にこうすごまれた。

「油のどこに、おたくの名前が書いてあるんや」

「こういう荒くれ者がいる業界だとは思わなかった」

 当初、星子は妨害行為を繰り返すライバルと正面から対峙した。
だが、話し合いで解決するような相手ではない。


■「油田」を作る

 そこで星子は、同業者との対立にエネルギーを費やすことを止める。
そして、地域の住民や企業家に、自社の取り組みを説いて、味方を増やしていった。
町の小さな会合にも出向き、バイオディーゼル燃料について解説する。
そうして少しずつ賛同者を増やし、地域の廃油を1カ所に集めてもらい、回収していく。

 「油田を作る」。
星子はそう表現する。
地域のエネルギーを、自分たちで作り出すことができるという意味を込めた言葉だ。
すると、妨害行為をする同業者から、地域の人々が守ってくれる。
ある時、廃油を盗もうとした業者を、地元の人たちが犬を連れて集まって、追い払った。

 取り組みを知った地元の大学生たちが、自転車で訪ねてきたこともあった。
その学生が大学側に提案して、大学のバスにバイオディーゼル燃料が使用されるようになった。
今では、県内の多くの大学が、学食から出る廃油を提供している。

 意義を語り、廃油回収と利用のネットワークを作り上げていく。
その広がりが、思わぬ効果を生み出した。人から人へ紹介されるうちに、熊本県最大級の
産廃業者、石坂グループ理事長の石坂孝光に会うことになる。



「なんでうちの重機にてんぷら油なんか入れて、実験台にされなあかんの」。
石坂はそう言って星子の要請を断った。それでも、何度も足を運ぶ。

 「話を聞いているうちに、この取り組みが国益になるかもしれないと思うようになった」。
石坂はそう振り返る。
もの作りの中心地が中国などの新興国に移ろうとしている中で、日本は「高くても売れる製品」
を創り出していかなければならない。
そのためには、「環境」がキーワードになる。

 石坂は星子の作るバイオディーゼル燃料を、産廃の現場で使うことを決めた。
「業界の大物」が味方につくと、ドラム缶の盗難がぴたりと止んだ。


 会社設立から4年、すべてが順調に回り出したように見える。
売上高こそ、まだ1億円にも届かないが、この1年間、破竹の勢いで拡大を続けている。
昨年末にガソリンスタンドでの販売が始まり、今年5月には熊本市のゴミ処理場(クリーンセンター)
からも廃油を回収できるようになった。

 品質もこの1年で飛躍的に向上している。
昨年、不純物を確実に取り除くために、製造ラインの最後に減圧蒸留装置を設置した。
減圧して沸点を下げることによって、不純物が気化せず、分別できる。
6時間近くかけて、データを取りながらゆっくりと蒸留していく。



 廃油を処理して、正確に物質を分別することで、リサイクルの可能性が広がる。
減圧蒸留装置から出てくるどす黒い液体は「A重油代替燃料」として販売している。
廃油から取り出した天かすは、ドラム缶で回収して肥料にする。
グリセリンは今後、液体洗剤に加工して販売する計画だ。界面活性剤が入っていないことから、
そのまま下水に流しても環境負荷が少ない。

 こうした施策を次々と実現し、環境大臣表彰まで受けた。
それでも星子は、何かに追われているように先を急ぐ。

 「やりたいことが多すぎる。もっと時間がほしい」

 星子を動かすもの。それを辿っていくと、幼少期の体験に突き当たる。


■失われた風景を求めて

 1975年、熊本市で生まれた。
祖父は熊本市長を4期16年勤めた星子敏雄。
曽祖父の星子勇は日野重工業(現日野自動車)の専務としてディーゼル車の開発に携わった。

 星子は生まれながらにして、骨がもろい難病を抱えていた。
小学校に通うこともままならず、病院で過ごす日々が続いた。
体調が悪化した日、看護婦のささやく声が聞こえた。

 「あしたまで持つかしら」

 このまま眠りにつくと、もう目が覚めないかもしれない。常に、死と隣り合わせの生活を送る。

 体調が少し回復すると、祖父母が暮らす熊本県鹿本町の山村で養生生活を送った。
友だちもいない中、遊び相手は自然だった。

 夏の夜、藁葺き屋根の家は、開け放たれたまま更けていく。
月明かりが、畑を緑色に照らし出す。川からホタルが集まり、蚊帳に泊まる。

 その風景が、中学に入る頃、急速に色あせていった。
農薬散布の時間になると、町にサイレンが鳴り響き、
「窓を閉めるように」と放送が流れる。ガラス越しに外をながめると、真っ白い霧が田畑を覆っていく。

 そして、セミの鳴き声が消えていった。

 中学から学校に戻った星子は、短期大学を卒業すると大手飲料メーカーに就職した。
工場立ち上げに関わり、1カ月の残業時間は300時間を超えた。
そんな生活を長くは続けられず、2年半で退職した。
その直後、星子は久しぶりに祖父母と暮らした家に戻っている。
その時、町の風景はすっかり様変わりしていた。

 それから、環境問題が世間で騒がれるたびに、気にかかっていた。
「でも、自分が何かできるとは思っていなかった。経済の中心にいる人たちが何とかしてくれる、と」。
しかし、いつまで経っても、良くなる兆しはない。

 そんな時、バイオディーゼル燃料に出合う。

 「これは偶然ではない。運命だと思う」。
星子は自分に言い聞かせるように、そう何度も繰り返す。だからだろう、考え得るすべてのことに
取り組み、達成しようとする。

 今でも体に痛みが走ることがある。
すると、不安が頭をよぎる。
クルマをゆっくりと止めて、ハンドルを握ったまま呟く。

「時間がほしい」。

(編集委員 金田信一郎)





転載おしまい

こういう人が世の中を変えて行くのですねぇ。

今回の家庭用食用油もですが、世の中にある廃油を有効活用する意義は、とても素晴らしいし

『もったいない』精神で最も日本らしい良い技術だと思いました。

では感想短いですが、またの機会に。
Posted at 2014/08/19 13:00:58 | トラックバック(0) | 情報 | 日記
2014年06月04日 イイね!

【紹介記事】スティーブ・ジョブズ氏が嘗て相談した日本人の話など

先ずは、記事を全文転載します。




スティーブ・ジョブズ氏がアドバイスを求めた日本人


ヒッピーのような姿をした一人の外国人が東京のJR市ヶ谷駅前にあるシャープ東京支社
(現東京市ヶ谷ビル)へ入って行った。
背広姿を見慣れている受付嬢は一瞬驚いたが、笑顔を作って要件を聞くと
「ドクターササキに会いたい」という。
ドクターササキとは、当時シャープの副社長で東京支社長の佐々木正博士であることは
すぐにわかった。

アポイントメントを取っているかどうかを確認すると「ない」という。
受付嬢としては、すぐに取り次いでよいものかどうか判断できず、佐々木氏の秘書に連絡を入れた。
秘書はすぐ受付のところまで降りてきてその外国人に応対すると、スティーブ・ジョブズ
(Steven Paul Jobs)と名乗り、以前にドクターササキに会ったことがあると言う。
面会の予約はなかったが、幸い佐々木氏が社内にいたこともあり、秘書が佐々木氏本人の意向を
直接確認したところ、会うという返事が返ってきた。
秘書はジョブズ氏を4階の応接室へ案内した。

ジョブズ氏は佐々木氏に会うためにわざわざ米国から東京まで来たのである。
この正確な日を確認しようとしたが詳しいことはわからなかった。
ただ、佐々木氏が東京支社長に就任したのが昭和60年 (1985年) 9月で、それから1年間は
東京支社長として市ヶ谷に勤務していたので、この期間であることは確かである。

一方のジョブズ氏は、ジョブズ氏自身がペプシコーラの事業担当社長から引き抜いてアップル社
の社長に据えたジョン・スカリーとの間で権力争いが起こり、昭和60年(1985年)5月にアップル社
の取締役会において、会長職とアップル社での全ての仕事をはく奪されている。
結果的に同年(1985年)9月にジョブズ氏は辞表をスカリーに送付してアップル社を去った。

時期としては昭和60年(1985年)9月以降であることは間違いない。
しかし、ジョブズ氏がアップル社を辞職して直ぐなのか少し時間が経ってからなのかは
残念ながらわからない。
佐々木氏がジョブズ氏を案内した応接室へ入って行くと、場違いとも思えるジョブズ氏の姿を見ること
になる。
佐々木氏によると、ジョブズ氏はジーンズとTシャツ姿でビーチサンダルのようなものを履いていた
という。
この服装からすると、その年の冬になる前か翌昭和61年(1986年)の春以降のことと思われるが、
ジョブズ氏が冬でもTシャツ姿であるならばこの推察はあまりあてにはならない。

話は佐々木氏とジョブズ氏との会談に戻る。ジョブズ氏が最初に切り出した話は、
「その後の電卓はどうなっているか?」であったという。

佐々木氏はシャープで一貫して電卓の開発を主導し、電卓の父と呼ばれている。
個人店主でも自由に使える「計算機 in ポケット」を目指して電子卓上計算機の開発に乗り出し、
昭和39年(1964年)に世界初の全半導体電卓(「CS-10A」)を開発した。
重さは25kg、価格は53万5千円であった。
その当時に「計算機 in ポケット」といわれても冗談とさえ思えるほど飛び越えた発想であるが、
現在から振り返ってみれば、まさにその言葉通りの製品ができている。
米IEEE(電気電子技術者学会)はシャープが開発した電卓と太陽電池の2件を、世界の電子技術に
貢献した歴史的業績をたたえる「IEEE マイルストーン」として認定している。
国内ではシャープの2件を含めて17件が認定されている。

さてジョブズ氏であるが、自分が創業したアップル社を追い出され、これから何をすればよいのか
自分でもわからない状態にいた。この失意のどん底にあってジョブズ氏は佐々木氏からアドバイス
が欲しかったのであろう。


そのジョブズ氏に対して佐々木氏は

「これからは間違いなくネットワークの時代になるから、
      ポータブル性を持たせたIT機器が重要になる」


と言い、


『「IT in ポケット」の時代になるよ』


とアドバイスした。何と、これが昭和60年(1985年)頃の話である。



この話し合いの中で、佐々木氏はソニーが昭和54年(1979年)に発売した再生機能だけの
ヘッドホンステレオ「ウォークマン」を紹介している。
その時、ジョブズ氏は「ウォークマン」を知らなかったようなので、佐々木氏は「ウォークマン」
を買って一度自分自身で試してみるように勧めたという。
この時点では、ジョブズ氏の頭の中に携帯型音楽プレーヤー「iPod」のようなイメージはまだなかった
ものと推察される。

二人の会話の中で、佐々木氏の持論である「モノゴトづくり」の話も出たと思われる。
佐々木氏がいう「モノゴトづくり」とは世間でよくいわれる「モノづくり」とは全く別の考え方である。
非常に重要なので少し説明しておきたい。
「モノづくり」とはハードウエアを作ることが最終目標となるが、佐々木氏の提唱する「モノゴトづくり」
というのは物つまりハードウエアを作るのが目的ではなく、仕組みを作ることが重要であるとする
考え方である。
そこではハードウエアは仕組み作りのための単なる手段にすぎないので、両者の言葉は似ている
が内容的には全く違うものである。

ジョブズ氏が開発した商品系列を眺めてみると、佐々木氏の「モノゴトづくり」の考え方がジョブズ氏
に影響を与えていることが読み取れる。
ジョブズ氏が佐々木氏に会った昭和60年(1985年)頃までは「Apple II」や「Macintosh」を、アップル社
がNeXT社を買収してジョブズ氏がアップル社に復帰した後の1998年に「iMac」を、
それぞれ発表している。
ジョブズ氏といえども、「Apple II」、「Macintosh」や「iMac」といったハードウエアを最終商品と
位置付けた商品開発を行っていた。
つまり「モノづくり」に徹していたわけである。

しかし、ジョブズ氏が2000年に正式にCEOに就任すると、それまで温めていた構想が溢れ出る
ように「iPod」、「iTunes Music Store」、「iPhone」、「iPad」を次々と世に送り出している。
これら「iPod」、「iPhone」、「iPad」の製造はアップル社の自社工場ではなく全て外注して行われて
いることをみても、サービスや仕組みの提供に力点が置かれていることは明らかである。

特に「iPod」と「iTunes Music Store」にその特徴を顕著に見ることができる。
「iTunes Music Store」は、99セントで著作権のある音楽の購入を可能にしたのである。
まさに仕組みを作ったのである。
したがって使用するパソコンはアップル社製品だけではなくウインドウズ搭載機であっても問題は
なかった。
ハードウエアは単なる手段なのだから。






転載おしまい





色々と言いたい(書きたい)ことは有るのですが、一つだけ書きます。

自分たちがジリ貧なのは、自分自身にも帰結しています。

ですから




政治家ガーとか、



経済ガーとか、



アベノミクスがー



などと 誰かの所為にしてませんかね?




と、生意気な事を思いましたので、つい・・・

ではまた。
Posted at 2014/06/04 13:06:07 | トラックバック(1) | 情報 | 日記

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