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2020年12月21日 イイね!

【紹介記事】全財産を使って外車買ったら、えらいことになった ~私見など

何はともあれ、まずは転載した記事をお読みください。



全財産を使って外車買ったら、えらいことになった


全財産の内訳は、大学生の時からベンチャー企業で10年間働いて、したたり落ちるスズメの涙を貯め込んだお金と。

こんなもん、もう一生書けへんわと思うくらいの熱量を打ち込んで書いた本の印税だ。

それらが一瞬にして、なくなった。


外車を買ったからだ。
運転免許もないのに。


「調子乗ってんなよお前」と思った人も、「どうせ“わたしのマネをすれば秒速で車が買えるんですよ”ってやばいビジネスに誘うんだろ」と思った人も、一旦、聞いてほしい。


わたしは、わたしなりに、誇らしい使い方をしたのだ。

あまりにも誇らしいので、一連の流れを12月6日放送の「サンデーステーション(テレビ朝日)」で取材してもらうことになったけど、時間が限られているTVでは、わたしの本当の思いが3分の1も伝わらず、ただ壊れるほど散財した女に見えるのではと心配している。


だから、一旦、聞いてほしい。



そもそも、誰のために外車を買ったかと言うと。



うちの母・岸田ひろ実のためだ。

12年前に大動脈解離というやばい病気にかかり、医龍みたいなやばい手術の後遺症で、下半身麻痺になった。

足がまったく動かないこと以外は、二度見されるほど元気だ。

しかし、手術直後は「歩けないならもう死にたい」と、病室のベッドでひたすら泣いている日々もあった。わたしも泣いた。

そんな母を元気にさせたのが「手だけで運転できる車」だった。そんな車があったんかいな、と二人で顔を見あわせた。

母は永遠(とわ)のように長いローンを組んで、ホンダの赤いフィットを手に入れた。

ブレーキとアクセルを、足で踏むんじゃなく、手で操作できるように改造してもらって。

車いすを一人で持ち上げ、後部座席に放り込むというゴリラのような所業を一ヶ月練習したのち、母はどこでもビュンビュンと車を走らせられるようになった。

だれかに手伝ってもらってばかりの母が、わたしや弟を学校や職場へ車で送ってくれたとき「ようやくわたしも、役に立てた」と嬉しそうだった。

ちなみに、ドヤ顔で運転する母の映像は、なぜか中国やタイやミャンマーで引くほど話題になった。ウケる。

さて。

車というのは、10年も乗っていれば、どこかしらガタが出る。

「そろそろ、乗り換える車を探さんとね」

母が言った。

「またフィットにする?」

「どうせやったら、一生に一度は、乗りたい車に乗りたいなあ」



乗りたい車に、乗りたい。


車いすに乗っている母と、知的障害のある弟がいる我が家は、たぶん他の家族より「選択肢の少ない生活」をしてきたと思う。

行けるお店も、通える学校も、着れる服も、少ないのだ。

車もそうだ。

裕福ではないわたしたちの予算で買えて(弟にいたっては稼ぎすらない)、改造ができ、駐車場におさまり、車いすを積み込め、乗り移りやすい高さの車を選んできた。

乗りたい車ではなく、消去法で、乗れる車を。



「乗りたい車といえば、あれしかないねえ」



わたしと母の脳裏に浮かぶのは、同じ車だった。

死んだ父・岸田浩二が、こよなく愛した、ボルボだ。


まだ足で立ってる母の隣で、ドヤりながら立っているように、ボルボは浩二のすべてだった。

父は、古いアパートの歴史や郷愁をうまく残しながら、リノベーションをするのが仕事だった。ドイツや北欧の建築に惚れ込んでいた。ボルボは、北欧生まれの外車だ。

阪神大震災で、みんなの家や車がバッキバキに壊れていくのを見て、「いざという時も、クソ頑丈で、乗っている家族を守れる車を選んだ」と、クソ頑丈なボルボに全信頼を寄せていた。

フルフラットになるシートに、弟とわたしを放り込み、神戸の田舎町からディズニーランドまで爆走してくれた。

「絶対にいらんて」と母から反対されながら別注で取り付けたサンルーフは、やはり一度も開けることがなかった。



そんな父は、15年前に、心筋梗塞で突然死した。

父の愛がこもったものを、そばに置いておきたかった。人生に迷ったとき、父が愛したものを見つめれば、背中を押されるような気がするからだ。



しかし、わたしたちは、ボルボを手放した。


父が設立した、建築会社をたたむための費用。高校受験をひかえたわたし。障害のある弟。専業主婦で、アルバイトの働き口しか見つからなかった母。

保険金でなんとか生活はできるが、余裕なんてない。



外車を車検に出し、維持するだけのお金がなかった。


ボルボより、優先すべき生活があった。仕方がないことだ。

だけど、ボルボを下取りに送り出すとき。
父との大切なものさえ、お金に買えてしまった気がして、苦しかった。

「いつかまた、ボルボに乗れるようになろうね」

母とわたしは、約束した。

いつか、立派な大人になって。お金を稼いで。ボルボを取り戻そうと。



ただし、それからすぐ、今度は母が病気でブッ倒れたので、正直言ってボルボどころではなく、生きているだけで精一杯の日々が続いた。



「それでも生きているうちに、一回は乗れたらいいな」と、ぼんやり思っていた。宝くじとか当たらんかな、って。



ボルボ V40が、生産中止になったと聞くまでは。


これは大事件である。

ボルボといえど車種はたくさんあるが、車いすの母が運転できるボルボは、一種類しかない。

人気のSUV型は座席が高く、車いすから乗り移れない。

セダン型なら乗れるが、V60とV90は、横幅がデカすぎて、普通の駐車場の幅では、車いすを横づけするだけのスペースがとれない。


つまり、岸田家の選択肢は、V40だけ!
そのV40が!
生産……中止……!??!?!?!?!?!


限りなく、サザエさんのエンディングテーマのフォーメーションで、近場のボルボ屋さんに駆け込んだ。

車いすの母、ノーメイクボッサボサの童顔娘、ダウン症の息子。

この三人がボロボロのフィットで店に乗り付け「V40まだありますか」と、食い気味に話すので、最初はあんまり相手にされなかった。お茶とか、なかなか出してもらえんかった。冷やかしだと思われてたはず。いやわたしかて、そう思うわ。

やがて必死のわれわれに気づいたのか、山内さんという店員さんが、親身になって話をしてくれた。

「V40が生産中止って本当ですか!?」

「はい、V40はもう残ってるだけしかなくて……うちはあと1台だけですね」

「ほ、本当にもう作らないんですか?」

「うーん、最近はこの大きさの車があまり売れないので……作らないと思います。他のメーカーも、続々と中止してますから」



生きてるうちにいつか、やない。
もう一生、ボルボに乗れんかもしれん。


「中古屋さんを探せば、まだあるかもしれませんが……」

「それが、前に一度、中古屋さんで買おうとしたら、車いすのための改造をするのがすごく大変で。部品の取り寄せとか、工場との連絡とか、正規のディーラーさんの方が安心ですよね」

母が渋い顔を見せた。
もちろん、ちゃんとやってくれる中古屋さんも、あるはずだ。
しかし、近くにたまたま信頼できるお店がなかった。



ちらっと、展示されている白いV40の値段を見た。

420万円と書いてあった。



買えんわ。




「V40はもうこの一台限りなので、399万円までお値下げしますよ!」



いや買えんわ。


貯金をかき集めても、足りない。

母は年収や他の支払いとの兼ね合いで、399万円のローンは組めない。

わたしはフリーランスになったばかりで、奨学金の返済もあり、東京で10万円の家賃すら保証会社の審査を通らなかった。



終わりやんけ。


なにか、なにかないのか。
一攫千金を狙えないか。

石油、温泉、埋蔵金、レアメタル、天然ガス。



「はっ!」


本の印税や。


9月末に、本を出版したじゃないか。車代全額に満たないが、人生ではじめて手にした、まとまったお金だ。



まだ振り込まれてないけど!!!!!!!!



「あのう、これからまとまったお金が手に入るんですけど」

わたしは、山内さんに伝えた。

「まとまったお金……?」

「はい。それと、貯金とあわせたら、ギリギリ足りそうです」

「えっ、まさか、キャッシュ一括ですか?」


「キャッシュ一括です」


店内の一角が、静かな騒然で満ちた。本当に大丈夫なのか、と母と山内さんに何度も聞き返されたけど、もうあとには引けなかった。

「無理したらあかんて。これからなにがあるかわからんねんから、大切に貯金してた方が……」

母がおろおろしながら言った。

「399万円を、くるかわからん非常事態のために置いとくより、いますぐ399万円分、家族が思いっきり楽しめる方がええ!今まで我慢してきてんから!お金はまた貯める!」



啖呵を切ったものの、いまだ手元にお金がないのに、気が大きくなっている一番あぶない人間のパターンである。
(実際、印税が振り込まれるまでにボルボが売れる可能性が高いので、とりあえず最小限のローンを組んでもらい、一括繰越返済するという手を打ってもらった)



わたしが家族からもらった愛や経験をエッセイにして、手に入れた印税だ。それならば、父の愛したボルボを買い戻す(つもりで新型を買い)、父のかわりに母を思い切り楽しませ、大好きな車で、胸をはって人生を謳歌できるほうが。

絶対にいい。

ほんまにやばくなっても、どうにかなる。そのためにいま、一生懸命、だれかを喜ばせることだけ考えて仕事をしとる。たぶん。知らんけど。



大喜びする母と弟を横目に、後日。

山内さんからこんな連絡があった。



「あのう、岸田さん。お母さまが運転できるように、ボルボを改造する件ですが」

「工場が決まりました?」

「いえ、それが……ボルボの運転席を、障害のある人用に改造するという実績が、国内でほとんどないらしく……工場で断られまして」



えっっっっっ。


「ボルボは運転席の配線系統が国産車と違うので、それがネックみたいです」

「嘘やろ……」

やっぱり、選択肢が少ない人生なんか。それは仕方ないんか。
そう思ったとき、山内さんが言った。

「でも、僕、車いすのお客様と取引させてもらうのが、初めてなんです。どうしても、岸田さんたちにV40を乗ってもらいたい。どうにかします」



どうにかしますとは。


えらいことになってしまった。

しかしその3日後、彼は本当にどうにかしてくれた。

「一社だけ、改造してくれる工場さんが見つかりました!」



なんと、ボルボを縦横無尽に運転して持っていき、わざわざ工場に直談判しに行ってくれたらしい。

山内……お前ってやつは……!


「うわあ〜っ!ありがとうございます!」

「それで、改造の費用が少し高くなるみたいなんですけど」

「いたしかたなし!(行政から10万円くらい補助もらえるし、余裕やろ)」



「52万円です!」


「ごっ……」

これが、貯金と印税と日銭を入れている、岸田の全財産口座だ!
一本、めずらしく雑誌にコラムを寄稿させてもらったおかげで、7万円残った……命拾いした……!(一週間後に家賃で消えた)



しかし、そんなお金への不安も、実際に工場を見学させてもらったら、吹っ飛んでいた。



唯一、改造を引き受けてくれた「ニッシン自動車工業関西」で、ボルボとご対面。

母が嬉しさのあまり「祈り」のポーズをとっている。





これ!!!!!

この板を取り付けるのが、大変だったらしいの!!!!

たかが板、されど板。

この板がないと、母は車いすから乗り移るときに、地面へスッテンコロリンしてしまう。つまり終わる。

配線が邪魔で、普通は取り付けられないこれを!
取り付けてくれたの!!!!!!



手で操作する、アクセルとブレーキも!ちゃんとある!



座席を倒せば、ゴリラみたいに、車いすも乗せられる!



母、感涙。


浩二、見とるか〜〜〜〜〜!!!!!!
あんたの代わりに、やったったぞ〜!!!!!!
みんなが味方してくれてるぞ〜〜!!!!!
浩二〜〜〜!!!!!!!
ボルボ売って、ごめんな〜〜〜!!!!!!!



改造を引き受けてくれた、山本雅尋社長が、またいい人で。

「改造って、大変じゃないですか?ボルボみたいに、車ごとにつくりも違うし」

って聞いてみたら。

「大変です。家に帰って、ご飯食べてるときも、お風呂に入ってるときも、ず〜っとどう改造したらいいかを考えています」

「そんなに大変なのに、どうして引き受けてくださったんですか?」

「ぼくも、父親の足が悪くてね。車に乗れるだけで、行動できる範囲もグッと広がるし、本人の楽しみも増えるじゃないですか。だから、こういう改造を引き受けてるんです」

大切な人を思ってひねり出した新しい仕事が、また別の、大切なだれかを幸せにしているのだ。すべては、人を思う気持ちから、はじまっている。

泣きそうになった。
この人がいなければ、わたしたちは、一生ずっと、夢を叶えられないままだった。

「一番改造が大変だった車ってなんですか?」

「フェラーリですね。あれは……すごかった…どこに器具つけるかめちゃくちゃ難しいのに、ちょっとでも傷つけると何千万円だし……怖かったなあ……」

そりゃ怖いわ。




改造を引き受けてくれた、ニッシン自動車工業関西さん。
工場を探して走り回ってくれた、ボルボの山内さん。
わたしの本やnoteを買ってくれたみなさん。
これを読んで、本当のことを知ってくれたみなさん。

大好きです。
みなさんのおかげで、ボルボがうちへ来ました。

いつか、あなたの街を走ります。
父の愛したボルボで。

そして、手に入れて、ようやくわかった。

父は、ボルボがほしかったんじゃなくて。

家族を楽しませたかったのだ。

そのためなら、お金なんて、いくら使っても惜しくはなかったのだ。
こだわることを、やめなかったのだ。


たぶん。



転載おしまい



タイトルだけ見た印象と、実際の文章では印象が随分と違いますよね。

いや、感動しましたし、最近、涙腺が弱いのでもう泣きそうになっています。

本当にイイ娘さんで、お母さんも幸せ者ですよね。



で、良い話の紹介はここまで。



あと、私が最近読んだ本のリストを列挙します。

・藤井 厳喜 翻訳(監修) 『 トランプの真実 』
・西野 亮廣 著     『 ゴミ人間 』
・北野 幸伯 著     『 日本の地政学 』



ま、どれも面白い内容ですのでオススメですが、色々な意味でいまは
キンコンの西野氏の本が速読できる人なら半時間掛からないくらいで
読めるので、一押しです。


皆さま大切な貴重な時間を費やすのですから、マイナスな面だけで
捉えてどうこうではなく、やはり大事なのは前を向くことではない
でしょうかね。


あと読んだ本のことで、何か書いても良いのですが、結局のところ
ポジショントークも面倒ですし、止しておきますね。


ではでは、寒さに負けず年末までがんばっていきましょう。
Posted at 2020/12/21 18:33:37 | トラックバック(0) | 感動 | 日記
2016年04月04日 イイね!

【紹介記事】多くのポーランド人が日本に救われた!(転載のみ)

こんにちは。

今回も手抜きで転載のみとなりますが、感動しましたのでご紹介!








多くのポーランド人が日本に救われた。
  知られざる1920年の感動秘話






◆日本のみなさん、ありがとう


平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。
合唱団はヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。
親切にしてくれたことを忘れません。
……(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。
日本のみなさん、ありがとう。
サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡して」と救出当時の写真を託した。
「孤児収容所を慰問した皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」
と話したという。

20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったのだろうか?


◆せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい

シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の
流刑の地だった。
1919年、ポーランドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革命勢力が
争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を
含めて、十数万人のポーランド人がいたといわれる。

その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。
とくに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク
在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織された。

しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道
で送り返すことは不可能となった。
救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否され、窮余の一策として日本政府に
援助を要請することを決定した。


◆日本赤十字社の決断

救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児
の惨状を訴えて、援助を懇請した。

女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、シベリア孤児
救済が決定された。
独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていないことを考えれば、驚くべき即断
であった。

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、
56名の孤児第1陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。
それから、翌21年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏には第2次救済事業
として、3回にわけて、390名の児童が来日した。

合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第1次はアメリカ
経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに送り返された。
習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけるのがよいと考え、
日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い
配慮までしている。


◆手厚い保護

日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を受けた。孤児たちの回想では、
特に印象に残っていることとして以下を挙げている。

ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣
の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、
日本人の医者が心配して、毎日1錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかった
ので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと…。

到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。
無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会
は子供達を慰安会に招待。
慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかった。

腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若い看護婦は、病の伝染から
殉職している。

1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)
も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、
ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾度も撫でながら、健やかに
育つように、と話された。


◆「アリガトウ」と「君が代」斉唱

このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア
孤児たちは、急速に元気を取り戻した。

日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが
支給された。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の
保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。
埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを表した。

神戸港からの出発も同様で、児童1人1人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの
人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人1人毛布を
首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
その手の温かさを忘れない、と1人の孤児は回想している。


◆シベリア孤児の組織「極東青年会」

こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいた。
イエジが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長
となった。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設けられ、30年代後半の
最盛期には会員数640余名を数えたという。

極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時、思いがけない人に会った。
イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された時、
在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏であった。
その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在代理公使となっていたのである。

これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な交流が始まった。極東青年会の
催しものには努めて大使以下全館員が出席して応援し、また資金援助もした。


◆日本大使館が庇護したレジスタンス活動

1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を
緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。
イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。

そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で
親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の
監視の目が光り始めた。イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、
多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護して
いることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、
「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
と頼んだ。

イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは
呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。

当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には一目も二目も
置かざるを得ない。
日本大使館はこの三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく庇護したのである。


◆長年の感謝の気持ちをお伝えできれば

95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に招待した。
皆80歳以上の高齢で、1人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとの
ことで公邸にたどりついた。

私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。
そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。

しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、伺いたいと思いました。
何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。
今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。
と、その老婦人は感涙に咽んだ。
孤児たちは70年前以上の日本での出来事をよく覚えていて、別の1人は、日本の絵はがき
を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今まで肌身離さずに持っていた、
と大使に見せた。

同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが
大切な宝物としているものを見せあった。


◆われわれは何時までも恩を忘れない国民である

シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者から
たくさんの感謝状が届けられている。
そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」
と題した礼状の中で次のように述べている。

日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。
日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わして
くれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。

われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの
服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに
与えようとした。
こんなことは一度や二度ではない。
しばしばあった。

ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない
国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも
広く知られている。

ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、
最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。


◆大和心とポーランド魂

「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震災の後に、実証された。
96年夏に被災児30名がポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

世話をした1人のポーランド夫人が語った所では、1人の男の子が片時もリュックを背から
離さないのを見て、理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けに
なってしまったという。
焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、
この婦人は不憫で涙が止まらなかった、という。

震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。
歩行もままならない高齢者ばかりであるが、

「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子供たちがポーランドに来たからには、
是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」

と無理をおして、やってこられた。

4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児1人1人に手渡した時には、
会場は万雷の拍手に包まれた。
75年前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たちを慈しんだ大和心に、
恩を決して忘れないポーランド魂がお返しをしたのである。

文責:伊勢雅臣



著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』
発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。






転載おしまい


涙で字が霞んでしまいますね。 それではまた!
Posted at 2016/04/04 13:12:36 | トラックバック(0) | 感動 | 日記
2015年11月01日 イイね!

【紹介動画】なんだかちょっとイイ話

ま、とにかく動画を見て下さいませ。






興味ない様なフリして、案外みんな良い人ですよね。ほんと日本人って感じがする話でした。


ではでは、明日から仕事頑張りましょうね。
関連情報URL : http://youtu.be/EBF0PrFusHY
Posted at 2015/11/01 20:12:54 | トラックバック(0) | 感動 | 日記
2015年10月09日 イイね!

ネットで話題の虎屋さんのあいさつ文に感動

いまネットで話題の 虎屋さん の あいさつ文を読んでみたのですが、

商売の基本だけでなく、人としての基本が凝縮していると思うので

下記に転載させて頂きます。未だお読みになられていない方は

是非とも御一読くださいませ。





以下、転載




十七代 黒川光博より 赤坂本店をご愛顧くださったみなさまへ

赤坂本店、および虎屋菓寮 赤坂本店は、10月7日をもって休業いたします。
室町時代後期に京都で創業し、御所御用を勤めてきた虎屋は、明 治2年(1869)、東京という全く
新しい土地で仕事を始める決断をしました。赤坂の地に初めて店を構えたのは明治12年(1879)。
明治28年 (1895)には現在東京工場がある地に移り、製造所と店舗を設けました。

昭和7年(1932)に青山通りで新築した店舗は城郭を 思わせるデザインでしたが、昭和39年(1964)、
東京オリンピック開催に伴う道路拡張工事のため、斜向かいにあたる現在地へ移転いたしました。
「行灯 (あんどん)」をビルのモチーフとし、それを灯すように建物全体をライトアップしていた時期も
ありました。周囲にはまだ高いビルが少なかった時代で、当時 大学生だった私は、赤坂の地にぽっと
現れた大きな灯りに心をはずませたことを思い出します。

この店でお客様をお迎えした51年のあいだ、多くの素晴らしい出逢いに恵まれました。
三日にあげずご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。
毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。
ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、お母さまがこっそり隠れて
見守っていらっしゃったということもありました。
車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。
入院生活に入られてからはご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。
お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。
このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、
おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。

3年後にできる新しいビルは、ゆっくりお過ごしになる方、お急ぎの方、外国の方などあらゆるお客様に
とって、さらにお使い頂きやすいものとなるよう考えています。
新たな店でもたくさんの方々との出逢いを楽しみにしつつ、これまでのご愛顧に心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

虎屋17代
代表取締役社長 黒川光博





転載おしまい





人と人の繋がり、感謝の気持ちが伝わりますよね。

それでは、週末のお仕事頑張って下さいませ。
Posted at 2015/10/09 06:54:58 | トラックバック(0) | 感動 | 日記
2015年03月12日 イイね!

15.03.11.付【海外の反応】パンドラの憂鬱より紹介記事

とりあえず、私からは特に何も。

唯一、付け加えるとしたら


本当に世界の皆さん、どうもありがとう。


ずっと素敵だと云ってくれる様な日本を大事に継続していけたらなと、

ただただ、そんな風に感じました。

あとできれば、ノーコメントでお願いします。







海外「日本人は強い!!」被災地からの『ありがとう』に外国人が感動の涙


東日本大震災の発生から今日で4年。
警察庁によりますと、震災で亡くなった数の方は1万5891人にのぼり、
3,194人の方が、避難生活中に亡くなった、いわゆる震災関連死とされています。
そして、今なお2,584人の方の行方が分かっていません。

被災地では復興作業が続けられていますが、生活の復興はまだまだ道半ばで、
現在も岩手・宮城・福島を中心に、約8万人の方々が仮設住宅での生活を、
22万9000人の方々が避難生活を余儀なくされています。

まさに未曾有の被害をもたらした東日本大震災ですが、
震災後、多くの国々が被災地に、日本に手を差し伸べてくれたことに、
大きな感動を覚えた方も多いのではないかと思います。
映像では、その支援に対し、被災地から「ありがとう」の言葉が送られています。

被災地の方々の真心に、強さに、多くの外国人が感動の涙を流していました。










以下、外国人の反応コメント


■ 日本も俺たちが苦しい時に助けてくれた。こちらこそ、ありがとう。 フィリピン




■ 世界中がこうやって団結してるのって最高だね!
  日本、そして日本の美しい国民と文化がずっと輝き続けますように! アメリカ




■ タイラーセンセイのニュースはあまりにも悲しいね。
  どうか強さを保ち、前に歩き続けてください。 アメリカ




■ どこの国の人であろうが、どんな文化を持つ人であろうが、
  人類はみんなで助け合っていかなきゃ。
  悲劇に直面しても、混乱の最中にあっても、
  手と手を取り合って協力していかないといけないんだよ。
  この動画は、アメリカ人であることを誇りに思わせてくれた。 アメリカ




■ Douitashimashite!!!!
  いつだって日本のことが大好きだよ :D
  日本の助けになることが出来て嬉しい……。
  それが友達っていうものだから!! カナダ
    



■ 日本は偉大な国だね!
  私は天国に行く日まで日本をサポートし続けます! アメリカ




■ 震災から数年経ったけど、今も世界中の人の心が日本と共にある。 イスラエル




■ 本当に素敵な動画でした。動画を観ていっぱい泣いたけど、
  でも、日本のファンであることを誇りに思いました。 コロンビア




■ 「ありがとう」だなんてとんでもない。
  強い国であり続けた日本にこっちがサンキューだ!!! アメリカ  




■ 素敵な人達には、いつだって手を差し伸べたくなるものなんだよ……。 パキスタン




■ Arigato 日本!
  あなたたちは、私達に大切なことを教えてくれました!
  Arigato! ベトナムから愛をこめて。 ベトナム

 「日本がもっと好きになった」 被災地からの「ありがとう」にベトナム人が感動




■ 泣いちゃったじゃん!
  日本なしの世界なんて考えられないんだからね。だから頑張って。
  ノルウェーから特上の愛を♡ ノルウェー 




■ 世界が日本の為にこんなに動いてたなんて嬉しい。
  日本は強い人たちが支える、強い国。Ganbatte Nippon! フィンランド




■ Nippon AISHITERU
  強い国であり続けてください。美しい国であり続けてください。 ベトナム




■ 涙を堪えるのが大変だったよ。
  戦後日本は多くの国を助けてきた。
  今こそ日本に感謝の気持ちを示すときなんだ。
  日本のみんな、こちらこそありがとう。 ベトナム




■ 感動的だった。
  日本人に対する敬意と愛情が呼び起こされたよ。 アメリカ



 
■ 学校の授業でこの動画を観ました……。
  クラスのほとんどの子が泣いてた。あまりにも悲しい。 アメリカ  




■ 日本と日本人の素養の高さを心から尊敬してる。
  彼らは賞賛に値する人たちだ!
  勇敢な日本の人たちに、神の祝福がありますように! ブラジル 




■ 日本と日本の人々を愛してます。
  あなた達が世界に示してくれたことを、私達は絶対に忘れない。 オーストラリア




■ これは…………。
  この動画を観たあと、数時間何もする気が起きなかった……。 カナダ




■ 良いね。本当に良い映像だ……。何回観ても泣いてしまう。
  なんて、なんて素晴らしい国民なんだろうか。 アメリカ




■ 感動的で素晴らしい動画でした。
  映像に映ってる姿こそ、俺が知ってる真の優しさを持った、
  そして尊敬すべき日本の人たちなんだ。
  全ての日本人に神の祝福がありますように。 ポルトガル 




■ 感動が抑えられない。涙なしに観るのは不可能だ。 イタリア




■ オーッ……涙で顔がグチャグチャだよ :'(
  いつもこうやってお互いに助け合えたらどんなに素晴らしいか。
  "頑張って" 日本。(""部原文ママ) スペイン    




■ こちらこそ日本人に感謝したい。
  勇気を、前向きな気持ちを僕らに示してくれてありがとう。 インドネシア
 


 
■ 嗚呼っ、涙が溢れてきて仕方がない……! ='( +6 チェコ




■ 泣いた。俺はいつだって日本の為に駆けつけるぞ。 +21 日本在住




■ gambare nihon
  俺は日本を、アジアの真のリーダーだと思ってる。
  日本は素敵な人達がいる、とても強い国だ……。 +15 韓国




■ 今日日本語の授業でこの動画を観た……。泣けた。 +2 オーストラリア




■ 日本人は強い人たちだ!!!!! arigato アメリカ




■ 多くの人、そして多くの国が日本をサポートした理由。
  それは、僕らが助けを必要としていたときに、
  君たちも同じように手を差し伸べてくれたからだ。
  すべての国が日本を、そこに住む人々を愛してる。
  「まさかの時の友こそ真の友」! ドイツより! +2 ドイツ




■ 人類が互いに助けあう。
  私はこれ以上に素敵なことはこの世界にないと思う。
  震災が起きてしまったのは悲しいこと。
  だけど、私達の兄弟や姉妹たちの力になれた事が嬉しい。
  そしてこの動画、泣くなって言う方が無理 :'3 オランダ

 オランダ「日本が大好きだから」 5万人による日本への祈りが物凄い




■ 俺は日系アメリカ人。この春に米海軍に入隊する。
  俺の祖国や他の国を守ってくれたことに対して恩返しがしたいから。
  震災の時、手を差し伸べてくれた人たちに、心から感謝しています。
  日本は、このことを絶対に忘れません。ピース。 +13 アメリカ




■ 日本人は世界で一番といえる国民だと思うんだ。
  生産的で賢い彼らを尊敬してるし、愛してる……。
  神よ、世界の美しい未来の為に、日本の人々を守り給え。 +31 トルコ




■ 私達は、この日のことを絶対に忘れない。 アメリカ




■ こんなに泣いたのは本当に久しぶりだった。
  きっと素晴らしい未来があなた達を待っている。そう信じています。 スペイン





◆管理人のコメント◆


本当に、何度観ても涙がこぼれてしまう。
そして、この動画を観て、「こちらこそありがとう」と口にする方たち、
他国と他国の国民を素直に賞賛できる方たち、本当に素敵ですね。
「たとえ今すぐは互いの相違点を克服できないにしても、
少なくとも多様性を認められるような世界を作る努力はできるはずだ」
記事を作っている時、時折何となく、ケネディのそんな言葉を思い出す。


                               
                               [ 2015/03/11 23:00 ]



           ―  転載おしまい  ―




Posted at 2015/03/12 15:05:27 | トラックバック(0) | 感動 | 日記

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