• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

silver☆foxのブログ一覧

2011年03月22日 イイね!

【関東大震災】を教訓にして復興を!

日経ビジネスオンラインに掲載されていたのを読んでちょっと紹介したかったので貼付てみました。
以下、少し長いですが時間の有る方は読んでみてください。

関東大震災時に登場した「コトバ」が教える教訓
「帝都復興」を合言葉に立ち上がった日本人
もりひろし著

 2011年3月11日。この日は、日本人にとって忘れがたい日になってしまいました。東日本巨大地震が発生した日です。
 まずはこの震災で被害に遭われた皆様にお見舞いを申し上げます。また残念ながら犠牲となったしまった皆様に、謹んでお悔やみを申し上げます。みなさんの生活が一刻も早く復旧することをお祈りしております。
 今回は「過去の震災で、日本人がどのように復興に取り組んできたのか」について分析します。
 改めてこの連載の趣旨を説明させてください。本連載『社会を映し出すコトバたち』の目的は、言葉(新語・流行語)の背景にある社会の動きを分析することにあります。
 つまり震災当時に流行した言葉を分析することは、その当時の人たちがどのように復興に取り組んだのかを知ることにつながります。このような情報は、現在の日本人が持つべき指針の「ヒント」になるかもしれません。
 筆者がテーマとして選んだのは「関東大震災」当時の新語・流行語です。

大正デモクラシーの中で起こった大震災
 話は1923年(大正12年)にさかのぼります。当時の日本は「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義的、自由主義的な思想が普及した時期に当たります。東京では丸ビル(現在の丸ノ内ビルディング)がオープン。作家の菊池寛が、雑誌『文藝春秋』を創刊しました。
 この年の9月1日午前11時58分に起こったのが、あの「関東大震災」でした。震源は神奈川県相模湾沖、マグニチュードは7.9。地震に続く火事など一連の災害により、死者・行方不明者の総数は14万人を超えてしまいました。
 この震災の特徴は「首都を直接襲った災害」であったことです。まず浅草のランドマークである「凌雲閣」(通称、浅草十二階)の倒壊など、建物の倒壊が相次ぎました。大規模な火災も発生。当時、台風の影響で強風が吹いていたことから、火災旋風が広がりました(火災旋風とは、広範囲の火災のため炎を伴う旋風が発生し、火災の範囲がさらに広がる現象のこと)。この火災は約2日間続いたと言います。その結果、東京市(当時)では区内における全面積の43.6%が消失しました。

バラックで立ち上がり、鉄筋コンクリートで復興した
 ここからが本題です。震災当時の日本では、一体どんな言葉が流行していたのでしょうか。まず挙げるべき注目分野は「建築」でしょう。関東大震災は「住む場所や働く場所を失った震災」だったとも言えます。それゆえ、建築に関連する言葉が幾つか流行しました。
 例えば「バラック」という流行語もその一つ。簡易で安価に作った小屋を意味する言葉です。ただ当時のバラックは、もうすこし異なる意味を持っていたようです。つまり「建築基準を満たさない簡易な構造の建築物」という意味です。当時、特別立法によって市街地建築物法(現在の建築基準法)を満たさない建物でも建築が可能になりました。震災直後の東京では、公共機関、民間組織、個人が立てた簡易住宅が多数建ち並ぶことになりました。
 当時流行したはやり唄「復興節」(詳細は後述します)に次のような一節も登場します。「たちまち並んだバラックに/夜は寝ながらお月さま眺めてエーゾエーゾ/帝都復興エーゾエーゾ」。当時の人が、復興に向けてたくましく活動をしていた様子が分かります。
 またこの震災を契機に普及したのが「鉄筋コンクリート」でした。当時、東京では既に米国式の(耐震性を重視しない)鉄骨造のビルや、地震のある日本で独自に発展した鉄骨鉄筋コンクリート造のビルが存在しました。このうち鉄骨鉄筋コンクリート造のビルの被害が軽微だったため、この方式が主流になりました。
 鉄筋コンクリートによる代表的建築物は、日本初の完全洋風住宅である「御茶ノ水文化アパート」(1925年)や、財団法人同潤会が東京・横浜で建築を進めた「同潤会アパート」(1926年~1934年)でした。同潤会青山アパートの跡地は、現在の「表参道ヒルズ」(東京都渋谷区)に当たります。
ちなみに御茶ノ水文化アパートの名前に登場する「文化」という語も、当時のモダンな言葉の一つでした。震災前の1922年、東京・上野で行われた平和記念東京博覧会において「文化村」という展示企画が登場。このころから、洋風の応接間などを取り入れた住宅を「文化住宅」と呼ぶ習慣ができました(注:高度経済成長期に大阪などで登場した「文化住宅」は別概念)。
 このように関東大震災は、日本の都市部における建築事情を大きく変える転換点となりました。当初は「バラック」によって被災者の受け皿を確保。その後「鉄筋コンクリート」の手法により耐震性を高めた建築物が増えることになります。住宅分野では「文化住宅」という言葉も登場しました。震災が建築分野の新しい潮流を生み出したことは間違いありません。

洋装化の象徴だった「アッパッパ」
 関東大震災は服飾文化にも多大な影響を与えました。それを象徴する言葉は、おそらく「アッパッパ」(簡単服・改良服とも)ではないかと思われます。広辞苑の説明には「夏に婦人が着る、だぶだぶの簡単服。関西地方で言い始めた俗語で、大正末期以降広まる」とあります。現代でいうチュニックやキャミソールに近いワンピースの婦人服です。
 実は関東大震災は「日本女性の洋装化」も進めました。「多くの和装女性が逃げ遅れて焼死する」という大変痛ましい出来事が起きたからです。これに加えて、欧米から届いた救援物資に洋装が含まれていたことで、女性の洋装化に拍車がかかりました。ちなみに当時最先端の職業であった電話交換手や看護婦などの分野では、震災以前から洋装化が進んでいたようです。
 そのような背景の中で登場したのが「アッパッパ」でした。語源は「歩くと裾がパッパと広がることから」とする説がありますが、はっきりとしたことは分かりません。
 ただアッパッパの流行や普及を快く思わない人は多かったようです。例えば、永井荷風が1937年(昭和12年)に発表した小説『濹東綺譚』には、「女子がアッパッパと称する下着一枚で戸外に出歩く奇風」という一節が登場します。
 ともあれ、関東大震災は女性の服飾文化を変化させる大きな転機になったのです。

震災を天罰ととらえる「天譴論」
 「天譴」(てんけん)という言葉があります。儒教で「天によるとがめ」を意味する言葉です。古くは平安時代の文献にも登場するこの熟語。元々は「王道に背いた為政者を、天がいさめる」という意味の言葉だったようです。
 この言葉が関東大震災の発生に伴い、再び注目される概念となりました。一部知識人の間で「震災が起こったのは、堕落した社会を天がとがめているせいだ」「労働運動などの危険な思想に染まっている人がいるからだ」という主張が巻き起こったのです。このような主張を「天譴論」と言います。
 当時天譴論を展開したのは、内村鑑三や渋沢栄一といった識者でした。また漫画家の北澤楽天も「女性が着ている派手な着物を、ナマズ(地震の象徴)が剥ぎ取る」という風刺画を発表しています。当時の享楽的な社会風俗を、日本社会の「堕落」としてとらえた風刺画でした。
 震災の2カ月後である1923年11月10日、政府は天皇の詔(みことのり)という形で「国民精神作興に関する詔書」を発表します。「国家が栄えるためには、国民の精神が剛健であることが必要だ」という趣旨の文章でした。これは、当時盛んになっていた民衆運動をけん制する発表でもありました。
 この詔書の中で、世間の浮ついた雰囲気をいさめようとする表現が登場します。つまり浮華放縦(ふかほうしょう:うわべだけの華やかさや自分勝手)を排して、質実剛健の精神を確立しようと呼びかけたのです。天譴論に直接は言及していないものの、天譴論に共通する価値観を持った文書であるようにも見えます。

「地震は天罰?」に対する88年前の答
 さてここまで読んだ皆さんの中には、もうお気づきの方もいることでしょう。天譴論は残念ながら、東日本巨大地震が起こっている現在も登場しています。米国のあるスポーツ選手はツイッター上で「震災は真珠湾攻撃の報い」と発言。また日本でも石原都知事が「震災は天罰だと思う」と発言して、両者とも謝罪する騒ぎとなりました。これらは「現代版の天譴論」と言える発言でしょう。

実は「天譴論」への反論は、関東大震災の直後にも登場しています。例えば小説家の芥川龍之介は「大正十二年九月一日の大震に際して」と題する文章内で、次の趣旨の主張を述べています。「地震はブルジョア(資産家階級)もプロレタリア(労働者階級)も区別しないで被害を与えた。地震が天罰ならば、資産家階級で天譴論者の渋沢栄一がまず罰せられるべきではないか」。
 ここからは筆者の主張です。自然災害の有無に関係なく「社会システムをどう設計していくのか」を議論することは重要なことです。またその議論が自然災害を教訓とすることには、大きな意義があるとも考えます。しかし「自然災害を因果応報」に結び付ける考え方は合理的ではありません。筆者は、88年前に芥川龍之介が主張した反論が、天譴論に対する答なのだと思っています。
 もっとも震災とは不条理なもの。この不条理を因果応報で理解しようとする「人間の弱さ」は、時代や地域を問わずに存在するのかもしれません。

いつの世もつきまとう「流言飛語」の問題
 さて関東大震災が残した最大級の教訓に「流言飛語(当時の表記は流言蜚語)」の恐ろしさがあります。流言飛語とは今風に言えばデマ(demagogie)のことです。
 デマは震災後の混乱の中で発生しました。「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を入れている」「彼らの裏で社会主義者が糸を引いている」などの不確かな情報が飛び交ったのです。
 そこで各地で結成された自警団が、官憲とともに朝鮮人の殺害に及びました。殺害された人の数は調査や研究により議論が分かれているものの(数百~数千)、相当数の殺害があったことは事実であるようです。日韓併合(1910年)以来ぎくしゃくしていた日本人と朝鮮人の関係が引き起こした事件だったと言えます。
 このデマの大きな特徴は、警察やマスメディアが情報拡散の役割を担ったことです。警視庁はデマ情報を前提に取締命令を出しました。また新聞(とりわけ焼失を免れた関東以外の新聞)もデマを全国に拡大させました。
 これら一連のデマ騒動の反省に立って、設立が急がれたのが「ラジオ」でした。既に設立準備が進んでいたラジオ放送に対して「正確で迅速な情報伝達手段」という役割を期待する声が高まったのです。
 日本初のラジオ局・社団法人東京放送局(後のNHK)が放送を始めたのは、震災の翌々年である1925年のことでした。もっともこのラジオメディアが、皮肉なことに後の「大本営発表」の担い手に変化していくことになります。

「市民による反証・検証」という知恵
 さて今回の東日本巨大地震でも、残念ながら数々のデマが出回りました。電子メール(チェーンメール)やツイッターで、不確かな情報が出回ったのです。
 その内容は「液化石油ガスのタンクが火災を起こしているため有害物質が雨とともに飛散する」「次は○○地方に地震が来る」など多岐にわたりました。おそらく本稿の掲載時点でも新しいデマ情報が続々と登場しているでしょう。デマが出回る状況は、関東大震災の当時も、東日本巨大地震の現在もあまり変わらないように思えます。
 ただ現代社会に生きる人間にとって救いであるのは、ソーシャルメディアという武器を手に入れたことです。このメディアは残念ながらデマを簡単に拡散させる性質を持っています。しかしながら、それと同時に、情報の検証や反証なども得意としています。先の「ガスタンク火災」のデマ情報も、公式の否定情報がツイッター経由で急速に広まりました。
 いっぽう、一時は「大本営発表」の担い手となったラジオも、現在では「身近な災害情報を伝える機動力のあるメディア」として大活躍しています。この活躍ぶりも、しっかりと注記すべきでしょう。

「復興」という流行語
 最後に取り上げる言葉は「復興」です。
 関東大震災は首都圏に壊滅的な被害をもたらしました。震災直後、帝国陸軍の参謀本部では「首都を東京以外のどこかに移すべきではないか」という議論が起こったほどでした。
 そんな中、震災から11日後の1923年9月12日、大正天皇は「関東大震災直後の詔書」を発します。これにより政府は「東京を引き続き帝都(帝国の首都)とすること」及び「その帝都を復興させること」を、都市整備における基本路線として確定したのです。 「帝都復興」という言葉は、その後の復興事業を通じて幾度となく登場しました。
関東大震災の後、政府は「帝都復興計画」を掲げ、専門機関である「帝都復興院」を設立(9月27日)しました。また東京市が復興計画の一環として建設を進めた鉄筋コンクリート造の小学校のことは「復興小学校」と総称します。
 また「帝都復興」は、一般市民の間でも流行語となったようです。例えば、当時流行したはやり唄「復興節」には「帝都復興エーゾエーゾ」という一節が登場します。演歌師の添田さつき(知道)が作った、明るい曲調の歌です(動画共有サイトでカバー曲を見付けることができますので、興味のある方は覧ください)。彼の自伝には「被災地でこの曲を恐る恐る披露したところ、意外にも喜んでもらえてほっとした」という趣旨の回顧が登場します。
 「復興節」は、ほかの演歌師たちによる街頭パフォーマンス(彼らは唄本の販売を収入としていた)や、複数のレコード会社による競作などを通じて、関東のみならず全国でも流行したといいます。「復興節」はこうやって、被災後の日本を元気づけたのです。
 現代では、東日本巨大地震の被災者に宛てて国内外から寄せられている無数の応援メッセージが「復興節」と同じ役割を果たしているかもしれません。ツイッター上にハッシュタグ「#prayforjapan」(日本のために祈りを)が登場したのは、記憶に新しい出来事です。
 東日本巨大地震における「復興」への道のりは、おそらく、かなりの長期戦になるものと思われます。しかしながら「復興節」や「#prayforjapan」のようなモラルサポート(精神的な支え)があれば、幾多の困難を乗り越える力もわいてくるように思っています。

震災下で次々と誕生する「コトバ」たち
 日本を襲った未曾有の震災である東日本巨大地震。日本人にとっては、これから取り組むべき問題が山積みの状態です。
 しかしこのような状況下でも、言葉の世界では「復興を目指す新語・流行語」が続々と登場しています。
 例えば、節電呼びかけ運動である「ヤシマ作戦」という言葉が登場しました。元ネタはアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」。作品で登場した、敵を倒すために日本中の電力を一カ所に集めたエピソードに由来します(ヤシマという命名は「屋島の戦い」に由来)。比較的軽い被災で済んだ地域の人たちが、節電によって被災地の電力事情を助けようとする運動です。
 また買い占め防止運動である「ウエシマ作戦」も登場しました。元ネタはダチョウ倶楽部(肥後克広、寺門ジモン、上島竜兵)の「どうぞ、どうぞ」というギャグ。上島「おれは絶対やらないぞ!」、肥後「お前やらないの? じゃあ俺がやるよ」、寺門「いや俺がやるよ」、上島「……じゃあ俺がやるよ」、肥後&寺門「どうぞ、ぞうぞ」という、あのギャグです。ウエシマ作戦という言葉には「買い占めによる混乱を、譲り合いの精神で乗り切ろう」というメッセージが込められています。このように今回の震災では、ウィットに富みメッセージ性を持つ言葉も誕生しました。
 言葉は、人間の息づかいそのものです。関東大震災に遭った日本人が「バラック」や「文化」や「復興」などの言葉を口にしながら生き抜いたように、東日本巨大地震に遭った日本人もまた「ヤシマ作戦」や「ウエシマ作戦」などの言葉を口にしながら再起に向かおうとしています。筆者はこのような言葉が生まれてくることに、希望を感じているところです。


――――――――


改めて関東大震災での14万人という死者行方不明者の数にも驚きますし、また先日の話と被りますがやはりデマが横行していたのですね。
美談の反対側にデマや思い込みで在らぬ疑いを掛けられ不幸な差別を生まない為にも偽情報をむやみに信じこまないように致しましょう。
しかし、この記事でもわかるように何度も未曾有の災害や戦後焼け野原から立ち直ったのですから、今度も必ず立ち直ってみせましょう!
なにはともあれ少しでも出来る事からお手伝いしたいと思います。
Posted at 2011/03/22 13:23:55 | トラックバック(0) | 情報 | 日記

プロフィール

「いや、勝ったことは素直に嬉しいけど采配がやっぱり不安しかないです。あとは選手たち怪我をしないように祈ります。本番まで頑張って。」
何シテル?   10/14 22:48
【座右の銘】 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり、 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。 是は親鸞聖人の御言葉です。 【意味】 私たちはなかな...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2011/3 >>

  12345
67891011 12
131415 1617 1819
20 21 22 2324 25 26
272829 30 31  

リンク・クリップ

【私見】選択制夫婦別姓の件ですが一言だけ… 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/11/21 13:54:28
川内原発を止めないでください! 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/06/11 08:37:32
 
「保育園落ちた日本死ね」という悲痛な叫び 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/02/22 07:58:00

愛車一覧

日産 リーフ 日産 リーフ
2019年11月末に登録、納車は12月中頃。 天井も白色のXVセレクションというグレード ...
ホンダ PCX ホンダ PCX
前車(某イタリア車)はインマニが割れてしまい、しかもパーツの入荷に数ヶ月… とりあえず ...
日産 エクストレイル 日産 エクストレイル
2016年11月に登録、12月から乗り出して2019年11月まで。 自宅駐車場の兼ね合い ...
日産 スカイライン 日産 スカイライン
'11年1月31日納車。 たぶんノーマルで…今度こそ(汗)
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation