2014年05月08日
四月の下旬からブログの更新をしていませんでしたが、今日一区切りつきました。
自分の気持ちを整理する意味を込めて書こうとおもいます。
楽しい内容ではないので辞めるなら今ですよ(笑)
我が家の家族構成ってちょっと複雑というか紛らわしくて、我々親子4人と父方の叔母と同居していました。
父方の叔母という表記が正しいのかは分かりませんが、私から見ると父方の祖父の姉と言うことです。
叔母は8人兄弟の長女で大正という時代に産まれましたが嫁に行かずに我が家を支え続けてくれました。
祖父が早くに交通事故で亡くなってしまった為、尚更嫁に行きずらかったとのことです。
私も産まれてから今日まで本当にお世話になっていて、小さい頃は両親が共働きで家を留守にすることが多く何から何まで一緒生活をしてました。
夏休みには旅行に連れて行ってもらったり…
もう思い出なんて話出したらきりがありません。
面倒みがよくて、几帳面で器用で働き者で非の打ち所がない人だったと私は思っています。そして、なにより優しくって本当に大好きでした。
昔の口癖は、『自動車の免許をとったら一緒に買い物に行きたいな。でも、そのころにはもう死んでるだろうなぁ』
でした。
バスに乗ったり歩いたりして街に買い物に行くし、80を超えても畑やら庭でガーデニングしたりホントに元気でしっかりしていた叔母でした。
そんなしっかりした叔母だったからこそ、88歳の時夏に股関節の痛みを訴え手術する決心をしました。担当医の説明だと、年齢的にオススメはできないとのことでしたが、本人の強い希望があって手術を行いました。
手術後はベットで絶対安静。
股関節にボルトを埋め込んで補強?をしたので落ち着くまでは安静なんでしょうね…
だけどこの手術が間違いだったのかな…
ベットで絶対安静の入院生活が続くにつれて、やることがなくなって今まで何でもやっていた叔母からするとかなり退屈だったし手持ち無沙汰だったことでしょう。
認知症がチラホラと発症してきたのが分かりました。
自宅に戻ってからも股関節の痛みはそれほど改善したようには見えずあちこちに掴まりながらゆっくりゆっくり歩いていました。
今まで生きがいくらいにやっていた家事やら畑仕事もできなくなっていましたし明らかに生活に笑顔は減っていたのを感じました。
こうして徐々に機能レベルって低下していくんですけど、やっぱり本人は色々やりたいんですよね。
その葛藤は切なかった。
高校卒業して念願だった運転免許証を取得したけど、買い物に行くなんて元気もなかったし、なにより私が県外に進学したこともあって月に何度かしか会う機会がありませんでした。
あの頃って県外の生活が楽しかったし実家のことなんて本当に考えたことなんてありませんでした。
いつか、いつかとは思っていても結局後回しになっちゃうんですよね。
学生を終え就職のために戻ってきてまたしても同居を始めましたが、なんだろう。あの頃の元気な面影ってなかったんですよね。
昔っから家でじっとしているような人じゃなかったのに、1日の大半をベットやらこたつで過ごす。
そんな生活叔母もしたくなかっただろうし、私も見ていて寂しかったです。
年が明けて増税前に車を買うことにした訳ですが、その事をなんとなく話すと昔の口癖を久し振りに言ってくれたんです。
『自動車の免許をとったら一緒に買い物に行きたいな。でも、そのころにはもう死んでるだろうなぁ』ってね。
昔から働き者でローン組むことが大嫌いだったことも知っていました。ここに書くと長くなるから端折りますけど、頭金を貸してくれることを提案してくれました。
正直この時、まだ金の計算できるなら大丈夫だと思ってました。金銭の管理は両親がしてましたけど、自由になるお金があるなら家族間で有効に使えばいいってしっかりとした言葉で話していました。
それから
2月14日に叔母と銀行にローンを組んで(笑)納車しましたが、両親でさえ初めて助手席に乗ったのが一ヶ月後でしたので、叔母は一度も乗っていませんでした。
病院の受診の日程も私の休みと合わないし、真冬に出かける気にさえなりませんよね。
3月25日
著しい食欲の低下、食後の嘔吐が数日目立っていました。
さすがにこんな事おかしいとたまたま休みだった私は母と病院に付き添ったのでした。一週間ほど前にも病院行ったばかりだったんですけどね。
部屋のベットから立ち上がることも困難で、尋常じゃないくらい疲れていました。
この時レガシィで行けばよかったと今でも思うんですよ。
この時はなんでか父のスカイラインで受診へ行きました。
結局その日のうちに総合病院への入院が決まりそれから45日間の入院生活が始まりました。
手術したり検査したり仕事終わってから見舞いに行くんですけど無力さしかないんですよね。
ただ声掛けて、ちょこっと話するだけ。
それでも帰る時には、必ず気をつけて帰れな。って声を掛けてくれるんです。
あんた人の心配してる場合かよって、私は思ってました。
叔母の優しさってどこまでも続いているんですよ。
いよいよ余命宣告される日がきました。
意識もしっかりしてるし、話だってできるし、バイタルだって変わりない。
死なないじゃね?って見舞いに行くたびに思ってました。
亡くなる少し前に仕事前に寄った時、まだレガシィに乗ってないんだから。って話をしたことがありました。
体力は衰えても、頭はしっかりしてるからこそ、
帰れるか帰れないんだか分からないな。
ってボソッと言ったんです。
もうね、涙が止まりませんでした。
借りた物は返さなきゃいけないって叔母に教えてもらったこの一言を、叔母に言うのが精一杯でした。
返済が終わるまでは死ぬんじゃねぇよ。
それでも叔母は、もうこんなんになっちゃったんだから金なんてあったも仕方ないよ。家族間でいいように使えばいいって。
もう返す言葉もなくて、どうしたらいいのかわからなかった。
それから少し経って5月5日。
昼間行ったら呼吸荒いし、痰が絡んでセキはしてるし。もうその場にいるのが辛くて辛くて。
何もできない無力さってのは…
21時31分
もう駆けつけた時には機械の数値は0でした。
大正、昭和と激動の時代を生き抜いてただただ家の為にと働いて結婚もせずに働いた。と生前によく話してくれていました。
病院から自宅への移動はレガシィでしたいと思っていました。
だって1度も乗らないなんて納得いきませんから…
しかしセダンのレガシィB4にはサイズ的に不可能なんですよね。
昨日、親戚が東京や横浜からお客様が新幹線で来られたので駅まで迎えに行きました。
先日の雨のせいかレガシィのボディは斑点模様になっていました。
綺麗好きな叔母ならきっと、こんな汚い状態でお客様を乗せないだろうとその日感じたんです。
短時間ではありますが、洗車をしてから迎えに行きました。
そして今日は火葬。
行きは霊柩車で運び、帰りは遺骨となり親戚のクルマ
親族ってマイクロバスで移動なんですよ。
もうレガシィに乗ってもらう事って不可能だと思っていたんです。
私一人がワガママ言う訳にはいきませんしね。
だけど、ちょっとずつ風向きが変わったんですよ
葬儀屋から、バスの定員がカツカツだと出発前に聞きました。
補助席使えば可能との事でしたが、ゆとりをもって姉と私はレガシィで行くことを伝えました。
姉が助手席に座ったのも初めてでした。
火葬後に股関節辺りに無造作に置かれるボルトは衝撃的でした。
この手術である意味人生が変わったんですから。
それが、いいか悪いかは私には判断出来ませんけどね。
告別式会場へ帰る時は親戚のクルマを使用してお骨を運び、親子バラバラで戻る予定でしたが、葬儀屋の図らいもあってレガシィで運べることになりました。
しかも家族全員乗車です。
親子四人で同じクルマに乗ることすらここ数年ありませんでした。
病院への見舞いも仕事終わりでそれぞれのクルマだったし、出掛けることもありませんでしたから。
そんな中、遺骨になってしまったとはいえこうしてか家族全員で最後に乗車することができたんです!
最初で最後の家族フル乗車です。
愛車のレガシィB4は私の大好きな叔母との最後の思い出なんです
共同所有なんです
30キロの道のり、バカみたいに丁寧にクラッチを繋ぎました
おそろしく丁寧にギアを入れました
うちの家族って昔っから酔いやすかったよね。
家族旅行だって行った記憶ないし、最近は外食もなかったし。
私はあなたに乗っていただけて本当に満足です。
オレの運転どうだった?
もう免許とって3年経つんだけど、やっと昔の約束果たせた気がする。買い物はできなかったけどさ。
それは勘弁。
いつでもいいからさ、もう夢でしか会えないんだから感想聞かせてよ。
21年間ありがとう。
Posted at 2014/05/08 21:37:29 | |
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