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さて、神流川の戦いの最終回は、所縁の寺院を紹介します。
陽雲寺(金窪南城)
元久2年(1205)に創建され、当初は唄樹山満願寺と云ったと伝わる。
天文9年(1540)、金窪城主斉藤定盛が修築し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10年(1582)の神流川の戦いで全て消失した。
天正19年(1591)に金窪の領主となった川窪信俊が、養母である武田信玄夫人を伴って入封した際、夫人は境内に居住し、元和元年(1618)に没した。
信俊が夫人の菩提を弔う為、其の法号陽雲院をとって、現在の崇栄山陽雲寺に寺名を変えたと云う。
なお、大畠長門守昌広が築城した南城(金窪南城)に、此の寺院は建てられたと云う。
境内

神流川の戦いの縁としては、戦火にあって消失しただけですが、史跡として面白いお寺です。
併し、近所に養豚場があり、嗅覚によって先制攻撃を喰らう事でしょう。
金窪南城土塁 其の壱

陽雲寺は、金窪南城跡に建てられたそうで、東から北にかけて土塁が残ってます。
虎口から北側の土塁を見た構図。
金窪南城土塁 其の弐

東から見た所ですが、折れがよ〜く分かるでしょ。
奇麗に石が並べられていて、庭園化されてますが、立派な遺構なんです。
畑時能供養祠

畑時能(?〜1341)は新田義貞四天王の一人で、金窪城主も勤めた南北朝時代の武将。
新田義貞死後も、南朝方として戦ったが、越前で戦死。
其の首を、家臣の児玉五郎左衛門光信が持ち帰り、此の地で供養し、光信も死後此処に葬られた事から、両者の頭文字をとり「畑児塚」とも呼ばれている。
南北朝時代はあんまり知らないけど、地元にも所縁の人が居たんだあ。
陽雲院の墓

武田信玄夫人陽雲院の墓で、陽雲寺には他にも武田信玄の自筆書状6点と、狩野秀信が書いた武田信玄夫妻の画像が一幅残されてます…
が、
歴史好き、特に武田好きの方は、おや?って思いませんでしたか?
そうです、武田信玄の正室三条の方は元亀元年(1570)に亡くなっており、墓所も甲斐の円光院にあります。
陽雲院って一体何者!?
恐らく、此の地を領した川窪(武田)信俊(武田信玄の弟信実の子)の夫人も公家の三条氏から迎えているので、年月が経つうちに混乱してしまったんではないかと。
武田氏が丹波に移封になってからは、保護を失って荒れ果てていたらしいし。
併し、幕末に其の武田氏から武田正樹と云う人が住職になり、此の寺を再興したそうです。
此の人はやり手の様で、三条氏の保護を受けるのに成功し、此のお墓の横には、明治時代に太政大臣を務めた三条実美の筆による武田家遺臣招魂碑があります。
陽雲寺の住職は、武田さんと云うのは聞いた事あったんだけど、此の人の代から世襲になったんですな。
金剛寺
寛政2年(1461)に創建された陽雲寺の末寺。
天正10年(1582)の神流川の戦いで兵糧を作った場所であったと云う伝承が残る。

特に観光スポットって云う訳じゃないですけど、載せときます。
吉祥院(吉祥院館跡)
武蔵七党の一つ丹党に属した安保氏の氏寺で、大同元年(806)年に開山された真言宗智山派の寺院。
延元2年(1337)の北畠顕家と足利義詮が戦った安保ヶ原の合戦、永禄元年(1558)の安保氏と北条氏の争い、天正10年(1582)の神流川の戦い等、度重なる戦に巻き込まれ、何度も伽藍を消失した。
神流川の戦いでは、北条軍の陣が置かれ、滝川一益の夜襲にあったと伝わる。
又其の時、吉祥院の梵鐘(鉄砲の弾跡が残る)は行人軍によって、熊谷の東竹院に奪い去られたと云うが、現在は行方不明となっている。

此処も別に観光スポットじゃないんですけどね。
因みに、我が家は此のお寺の檀家なので、此処に代々のお墓があります。
土塁

「上里町史 資料編」には、何故か城館として掲載されているので、紹介しておきます。
境内の西に南北に長く土塁(分かり辛いですけど、竹が生えてる所)が残ってますが、城館として使われたと云うよりも、自衛の為に作られた気がするなあ。
外側には、北と西に川が流れており、堀を役目をしていたんでしょう。
参考文献:上里町史 通史編 上下巻、資料編、現地案内板
本日は此れ切り。
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Posted at
2010/04/07 22:35:16