あの事件を追え!!
~狭山事件~
~女子高生誘拐殺人の現場と証言~
昭和38年5月1日、埼玉県狭山市の女子高生、中田善枝さん(当時16)が夕方になっても帰宅しなかった。心配した家族は、学校・知人に確認したが行方は判らなかった。その日の夜、20万円を要求する内容の脅迫状が中田家の戸に挟まっていた(善枝さんの生徒手帳も同封されていた)。脅迫状には「刑札には名知たら子供は死(警察に話したら子供は死)。明日の2日夜12時に佐野屋(酒屋)に現金を持って来い。友達が車で行く」という内容だった。
これを受けて狭山署・埼玉県警本部は佐野屋の周辺、道路を張り込み万全を期した。翌日、犯人の指定した通り20万円に見せかけた包みを善枝さんの姉が佐野屋に持参する。が、犯人は佐野屋の北側(田畑)から徒歩で善枝さんの姉に接触。その間、約10分間に渡って姉は犯人と会話をしている。警察では、脅迫状にあった「車で行く」という内容を過信し田畑側は完全にノーマークだった。一方、犯人も警察の張り込みを感知し、その後同じように田畑を抜けて逃走。警察が追いかけたが逃してしまうという大失態を犯した。
翌日の新聞・テレビの報道は「警察の失態」が大きくクローズアップされた。同年3月の吉展ちゃん誘拐事件に続く不祥事に世論の非難が大きくなる。この問題で柏村警察庁長官が4日、辞表を提出するという展開となった。
その4日、地元の協力を得て善枝さんの捜索活動を続けていた捜査班本部は付近の入間川沿いの麦畑で埋められている善枝さんの死体を発見した。死体は乱暴された後、タオルで絞殺されていた。
更に、捜査本部が調査した結果、付近に「スコップ」を発見。このスコップで死体を埋めたと見た捜査本部はスコップの出所を調査し近所の養豚場の物であると推定した。そこで、養豚場の従業員(退職者を含めて)に対して絞込み、5月23日、石川一雄(当時24歳)を別件逮捕した。
-差別-
石川は、狭山市の通称「カワダンボ」と呼ばれる未開放部落の出身で土地を持たない貧農の子供として生まれた。学歴も小学校5年生までで、在学中も子守奉公をして生計を助けていた。その後、大手菓子会社の工場で勤務したが長くは続かず退社。やがて問題となった石田養豚所に事件の年の2月まで働いた後、兄の鳶職を手伝っていた。この石田養豚所も未解放部落出身で、部落出身の青年達の溜まり場所であった。この養豚所から被害者宅まで200mという距離である。
・・・が、何故この養豚場関係者が捜査の対象になったのか?
何故、石川が嫌疑をかけられたのか?
現在でも明確な回答が無いままになっている。
第一に問題のスコップが養豚場の物であるという立証ができず曖昧な点が挙げられる。
第二に、佐野屋の北側(田畑側)に残された犯人の足跡のサイズと石川のサイズがまったく異なっていた。
第三、善枝さんの姉や近くで佐野屋に張り込んでいた刑事たちは、犯人の声は40~50歳と証言しているのに何故、石川なのか(当時24歳)。
第四、石川は貧困故に小学校にも殆ど行けず、ひらがなが書ける程度で漢字の読み書きはまったく出来なかった。その石川が脅迫状を書けるわけが無いという点である。
更に不可思議な事は、石川被告の家宅捜査は3回行われたが、第一回の家宅捜査(5月23日)で徹底的に捜査して何も事件につながるものが出てこなかったのに3回目の家宅捜査で善枝さんのピンクの万年筆が勝手口の鴨居から発見された。捜査員自らこれを取らず被告の兄に取らせて写真を撮影するなど実に不思議なことが起こっている(尚、この第三回目の家宅捜査の時間はたったの24分間で、第一回と第二回の家宅捜査では2時間以上を費やしている)。公判ではこのピンクの万年筆が物的証拠として有罪の決め手になっている。
取り調べ中も「自供したら10年で出してやる」と自白を強要したり、留置場から浦和拘置所に移された後、この留置場の床に「中田よしエさん ゆるしてください」と書かれていたとして川越警察署が証拠として提出したりしている。が、前述の通り、石川は字が書けないのである(自分の名前、住所のみ漢字で書ける程度)。
その他の状況も含めて鑑みると「真犯人は別に居る」と見た方が素直である。だから尚更、警察は「何が何でも石川」という演出に走っていったと思われる状況が多々ある。だが、一審の判決は「死刑」、二審で「無期懲役」の判決によって平成6年12月の仮釈放になるまでの実に31年7ヶ月間を獄中で過ごす事を余儀なくされた。
警察のみならず加害者が「土地の者」ではなく「よそ者=部落」と捜査員から聞いた地元の人々は急に捜査に協力的になるなど差別による偏見、それによる捜査で石川が犠牲となったのではとの見方が世論では強く、改めて部落問題の根の深さを露呈した格好となった。
-五つ墓村-
この事件では中田家を中心に不幸な出来事が続いた…。
まず、事件後に中田家の農業手伝いのAさん(当時31歳)が自分の結婚式の前日に農薬を飲んで自殺。続いて、不審な人物を見たと警察に証言したBさん(当時31歳)がナイフを突き刺して自殺。さらに捜査線上に浮かんでいた付近の養豚場勤務のCさんが自殺した。更に驚愕したのは、佐野屋で犯人と唯一会話した善枝さんの姉が石川の死刑判決直後に自殺。善枝さんの次兄も自殺した。週刊誌は「五つ墓村」と書きたてた。
-公判-
昭和39年3月11日浦和地裁は石川に死刑を言い渡した。昭和49年10月31日東京高裁は死刑を破棄して無期懲役判決。これを不服として石川は上告。昭和52年8月9日最高裁は石川の上告を棄却し石川に無期懲役が確定した。
平成6年12月21日仮釈放によって31年ぶりに狭山市に戻った石川は、無実を訴えて再審請求を続けた。平成17年3月16日最高裁は石川の特別抗告を棄却する決定をした。昭和61年8月の第2次請求から19年間を経て請求棄却の決定だった。石川及び支援団体は東京高裁に第3次請求を行う予定。

これこそが部落差別が生んだ冤罪なのかも知れない。
この事件を知れば知るほど…
納得がいかない事ばかりで、ミステリーなんです。
事件は時間経過で風化してしまうけど、
本当の意味で納得出来る終結を望むもので有ります。
狭山事件を検証する
http://sayamacase.web.fc2.com/
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あの事件を追え!! | 日記
Posted at
2012/01/14 16:34:10