「大仏開眼~
一三〇〇年を見つめた瞳~」
2010年4月放送予定(制作:NHK大阪放送局)
平城遷都1300年を迎える2010年の4月、古代の奈良を舞台にしたドラマが全2回各90分で
放送される予定です。
去る2009年9月17日に、東大寺にてドラマの出演者発表が行われました。
上の写真(提供:NHK大阪放送局)は、主な出演者の方々で、
左から阿倍内親王役の石原さとみさん、主人公吉備真備役の吉岡秀隆さん、
藤原仲麻呂役の高橋克典さんです。
主人公の
吉備真備は・・・・
現在の倉敷市真備町出身で、父は右衛士少尉下道圀勝(しもつみちのくにかつ)、
母は楊貴(八木)氏(大和国(後の奈良県)の豪族)。
下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族です。
権威・象徴としての天皇を支配し権力を握る
藤原氏・・・・
それに対し、聖武天皇の側近である吉備真備。
時は奈良時代前半の天平年間・・・・
藤原不比等の子で朝堂において絶対的な権力を揮っていた
武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟が相次ぎ急死し(長屋王の祟り説あり・・・)
権力の空白が生じました。
その権力の空白の間隙をぬって、橘諸兄、吉備真備、玄昉といった反・藤原氏勢力が朝堂内で台頭し大きな力を持ち始めます。
宇合の嫡男で藤原氏による政治の継承を、理想としていたであろう広嗣にとって、これは耐え難い政治状況であったに違いありません。
政権奪回に燃える広嗣の動きは突出し、(ただし、他の藤原一族からの支持を得ることはなかったようです。)やがて天平10(738)年に、広嗣は橘諸兄らによって大宰府に左遷され、中央政治の場から追いやられてしまいます。
天平12(740)年の上表文の中で、広嗣は「時政の得失」「天地の災異」を指摘しています。
これはとりもなおさず吉備真備・玄昉たちが、疫病などで地方が苦しむ現実を顧みることなく、
ひたすら重い負担のみを強いる失政を行っていることを糾弾しているとも言われていますが・・・
そしてこの上表文の返事が到着しないうちに叛乱の兵を挙げます。
即ちコレが・・・・奈良時代最大級の争乱
『藤原広嗣の乱』です。
『壬申の乱』以来初めてとなる、広嗣軍、朝廷軍合わせて数万という大軍が衝突した叛乱も、
叛乱軍の首謀者である広嗣の捕縛斬首で幕を下ろし終結します。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、
天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出し、これに加えてたびたび遷都を行っています・・・。
しかし・・・官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄が執り仕切っていましたが・・・
ここに・・・・・朝廷で台頭したのが、広嗣の従兄弟である
あの・・・
藤原仲麻呂・・・・・藤原不比等の孫で・・
後の名を
『恵美押勝』
光明皇后の覚えがめでたく、そのことにより異例の昇進をしたと言われ・・・・
仲麻呂と光明皇后の間に男女の関係があったと考えられています・・・。

藤原仲麻呂の絶対的な最高権力者になります・・・
しかし、天平宝字4年(760年)6月に光明が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめます。
その後、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとした「恵美押勝の乱」が起きます・・。
その仲麻呂誅伐を命じられたのが・・・吉備真備です。
この時、既に真備は70歳でした。
仲麻呂軍は敗れ・・・仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとすますが・・・軍士石村石楯に斬られ、その一家も皆殺しにされました。
仲麻呂の勢力は政界から一掃され・・・・、
淳仁は廃位され淡路国に流されます\(◎o◎)/!
代わって
孝謙が重祚する(称徳天皇)に・・・。
以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになって行きます・・・。
そうです・・・次に登場が!!
『弓削道鏡』です(ー_ー)!!
「道鏡座れば膝三つ」・・・と言われる
後に「宇佐八幡宮神託事件」を起こします・・・。
面白いかな・・・・歴史は・・・・次から次と個性的な人物を・・・
登場させますね!!(^_-)-☆
Posted at 2010/03/12 17:22:22 |
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