
プロ野球は、セもパもクライマックスシリーズに向けて盛りあがってきましたね。
阪神タイガースは
カーネルサンダースののろい
がとけるのか?見ものですヾ(¬_¬*)ノ
『名言の正体―大人のやり直し偉人伝』 (山口智司著・学研新書)より。
(ケンタッキー・フライド・チキンの創設者である、カーネル・サンダース(1890年9月9日生)の生涯)
【白髪に白ヒゲ、さらに白いスーツを身に着けて、優しい笑みを浮かべるカーネルおじさんの人生は、その温和な雰囲気とは裏腹に、実に波乱万丈なものだった。
農場、鉄道会社、弁護士、保険外交員、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマン……などなど、カーネルは正義感が強く、融通のきかない性格だったため、上司と対立しては退職、転職を繰り返した。
しかし、会社員生活はどうしても長続きせず、29歳でガソリンスタンドを開業。その附属施設としてカフェを開業し、飲食店を手がけることになるのだが、カーネルは店を3度も倒産させている。・・…
65歳にして店を手放すことになったカーネルは、財産も店も何もかも失った。そのうえ、年金の支給額が想定していたものよりも少ないことが判明する。お先真っ暗とは、まさにこのようなことを言うのだろう。
妻と2人で途方に暮れたカーネルだったが、ここで細々と人生を過ごす選択肢をとれば、世界的な成功などなく終わっただろう。カーネルは、最後にいちばん自分が自信を持つところで勝負しよう、と決断した。
それはカフェのメニューの一つだったフライド・チキンである。その作り方をレストランに教え、そのチキンが売れるたびに、一部をロイヤリティとしてもらうというビジネスをカーネルは思いついた。つまり、今でいうフランチャイズ契約である。
もちろん初めは、どこのレストランにもまったく相手にされず、門前払いの日が続いた。いきなり老人が訪ねてきて、「レシピを教えるのでロイヤリティをくれ」と言っても、聞いてもらえないのは当たり前だろう。
カーネルは車中泊を繰り返し、お金が尽きると、見本のフライド・チキンを食べてしのぐ生活を送った。そうしてカーネルが老体に鞭打って、飛び込み営業をかけたレストランは1000軒以上にも上ったという。営業を繰り返すうちに、客が少なく暇な時間帯なら話を聞いてもらいやすいこと、従業員の賄いとしてならフライド・チキンをその場ですぐに試食してもらえることなどを学習した。
こうした努力が身を結び、カーネルの挑戦から40年が経った1996年には、ケンタッキー・フライド・チキンは世界80ヵ国に1万店舗を構えるまでの世界的企業へと成長を遂げる。カーネルは80歳を越えても世界を飛び回って各店舗をチェックし、ルールが守られていない店では、カウンターをステッキで叩きながら指導した。
ルールを忠実に守る日本人のまじめさを、カーネルはこよなく愛したという。60歳のときのカーネルをモデルにた等身大の人形を店頭に置いたのも、日本人によるアイデアだった。80歳のカーネルは、日本に来たとき、自分の人形に話しかけた。
「おまえは、年をとらなくていいな。いつまでも60歳のままで、ケンタッキー・フライド・チキンの店に来るお客を迎えることができる」
カーネルは、90歳でこの世を去り、いつも着ていた白いスーツ姿で棺に納められた。】
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65歳でスタートして、「ケンタッキー・フライド・チキン」を世界中に広めたカーネル・サンダース。この話を読むと、「僕ももう年だから、新しいことをやるのは難しいな」なんて考えてしまうのが恥ずかしく感じます。
80歳を過ぎてまで世界中を飛び回り、ひとつひとつの店をチェックしていくような人生も、僕にはちょっときつそうではありますが。
ところで、あの「カーネル人形」はカナダのキャンペーンで使用したものが倉庫に転がっていて、日本人が視察に行ったとき持ち帰ったものが広まったそうです。天国のカーネル・サンダースは、自分の人形が日本で酔っ払いにいたずら書きされたり、川に投げ込まれたりするとは、思ってもみなかっただろうなあ。
Posted at 2009/10/01 13:49:09 | |
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Sophie(智慧) | ビジネス/学習