2019年12月29日
保険業界に限らず今は仕事をする上でコンプライアンスという言葉と意味や意識は当たり前以前の常識の話ですが、今こういう意識が自分自身に染みついているのは、かつてアリコジャパンに在籍していた経験のおかげと思います。それだけ外資系のコンプライアンスに対する意識は静岡トヨペットのそれと(今はどうだか知りませんが、少なくとも当時は)隔絶していました。
その後、代理店研修生として日本社の日本興亜損保に出戻りしているのですが、アリコと比べてどうよ?と聞かれると正直アリコの方が一枚も二枚も上手の存在だったと思います。結局、コンプライアンスという意識自体が従来の日本企業からすると輸入物でしかないという現実はあるのでしょうけど、私的にはまだまだ30代前半の余力の残っている時期にそうした外資系の空気を肌で感じる事が出来たのは良い経験だったと思います。
じゃあ当時を振り返って何が日本社と違ったか?あくまで当時の話ですが。
アリコはねえ、というか外資というものはそういうモノかと思ったのですが、先ず第一に何かやらかすと問答無用でクビでした。何人かそういう人(元銀行員出身者も含む)を見ています。成績に関しては3ヶ月の査定期間で一定以上の挙績が無ければ降格、それとは別に2ヶ月挙績(営業成績のこと)が無ければクビでした。はっきりしてます。アリコでは成績優秀者のことを優績者と呼んでいましたが、いくら優績者でも問題が発覚すれば問答無用に処分対象です。
問題とは第一にコンプライアンスに沿っていない事が発覚したとき。例えば分かり易いところで保険業法禁止事項300条への抵触・違反に始まり顧客情報の管理から保険料の授受、募集資料の取り扱いに至るまで、保険募集人として相応しくない指摘事項が見つかれば管理職であろうが優績者だろうが厳しく追及され、チーム内で無かった事になんて事無しに直ぐにマネージャーに報告が行きます。コンプライアンスというモノはそれだけ身近で、自分を守る防衛ラインでもありました。
2ヶ月に一回はオフィス内で所持品・保管品の定期点検が行われていましたが、それとは全く別に本社の監査部も全国のオフィスを巡り巡って、どこかの国のマルサのように突如現れ早朝に入り口で待ち構えるという検査が独自に行われていました。実際に在籍時、浜松にもやってきていました。
その一方で日本社ではどういう事が行われていたかというと平成ヒト桁の頃、同じ営業所内で、飲酒運転で免停になった営業が居ましたがトヨペットをクビになる事はありませんでした。また、スピードオーバーで免停になった営業も他店で居ましたが欠格期間中クルマに乗らなくても出来る仕事として登録業務に配置転換されたりしていたものです。ずいぶん優しい(=甘い)会社・時代です。さすがに今の社会情勢でそれは許されない事だとは思いますが、当時はそういうものだったのです。ちなみに免停になった営業は今もあそこに居ますけどね。
日○興○でもアリコのように自主点検は行われていましたが、雲泥の差で甘かったです。しかも対象は研修生だけで、社員には行われないという体たらく。
で、あるとき代理店研修生の一人(卒業時の成績が歴代でもかなり上位だった人)がコクヨの領収書を鞄の中に持っていた事がありました。でも結局支店の中での注意に留まり、それ以上のお咎めを受ける事はなかったようです。アリコじゃ切手や印紙、はがきの類いまで追及を受けるのにね。
もちろんアリコにもだらしない人は居るには居ましたが、優績者だからといって見逃してはくれませんでした。まあ色々と怪しい性癖な人は居たらしいですが、保険料に係わる金銭面でのだらしなさに対して外資系は容赦ありません。
ここも日本社の損保代理店主だとピーーーーーーーーーーー(一応自主規制しておきます)。代理店規模が大きいからといってコンプライアンス意識が徹底しているかどうかはあまり関係が無いと思うのですが、保険会社は大規模代理店がお客様だと思っているフシが濃厚にあるので庇うんですよね。でも、だらしない人は、いくら注意しても変わりません。
もっともアリコで目にした範囲では、そうした金銭面でだらしない人に一時的な優績はあっても、維持し続けられる人は居なかったように思います。その辺り一線級のトッププレーヤーであり続ける人は正々堂々としてました。でもアリコにいた人(というか生保営業者)が聖人君子ばかりだった、というつもりもありません。その逆で清々しいくらいに変わった人が多かったです。
話は逸れますが、アリコの職制にちょっと触れておきたいと思います。日本社と一線を画すところだと思うので。
アリコの職制は志願制です。営業で稼ぎたければずっと営業のままで居続ける事も出来ます。その一方で管理者になりたければ営業で一定基準以上の挙績を挙げる必要はありますが、本人の意思で管理者になる事が出来ます。ただし日本社と違うのはエスカレーター式に既に存在するチームに鉢植え管理職として着任するのではなく、所属していたチームの管理職になるのでもありません。管理するチームは自分で作らないと管理者になれないのです。営業のかたわら、部下も自分で余所からスカウトしてきて、自分でチームを作る。これが日本社と全く違うところです。
アリコの一般営業職はCT(コンサルタントの意味)、基本そのまま「シーティー」と呼ばれます。そのCTは挙績によって下からCT補、CT1級(最初はここから)、CT2級に分かれます。CT2級は更に挙績額で所属するランクと襟に付ける社章の色(緑から始まって赤や紫があった)や材質(上位になると地色が金になる)が変わり一目でその違いが認識できる様になっていました。薄ら寒い横一線はそこにはありません。
またかなりの挙績上位者はフロア内にパーティション付きの個人専用ブース(専用の書類キャビネット付)を構える事が出来る様になります。もちろんこれにも在籍期間や年齢は関係ありません。あくまでも実力のあるCTには相応の処遇がされる、というだけです。もちろん同じCT同士ですから、挙げる挙績やランクに差はあっても個人間の付き合いに差はありません。でも一方で待遇や給料には歴然の差ありました。貰う人は200万以上の月給を手にする人もいた(これは実際に貰っている本人から聞いた)一方で、基本給の10万円だけという人もいる世界でした。全ては実力主義のマージン次第の世界です。支給されるパソコンですら新しい機種はCT2級からと、なにかと優績者が優先されます。ああなりたかったら挙績を挙げなさい、という訳です。そこには変な下駄など無く、あくまで営業・CTとして横一線の同じ土俵で勝負です。営業先や営業方法も個人の自由。チームを跨いで誰を師匠に選ぶのも良し、誰とチームを組んで営業をするのもCT個人の判断です。
アリコの各オフィスには複数のチームが存在していましたが、そのチームリーダーはASM(エージェンシー・セールス・マネージャー)と呼ばれていました。日本社だと課長さん的な立ち位置の人ですが、違うのは管理職は志願制だという事。自分からASMになりたい人は一定以上の挙績を挙げつつ、なおかつアリコにCTを3人以上スカウトしてくなくてはなりません。これが当時ASMになれる条件だったと思います。在籍年数や年齢は全く関係なし。
当時入社1年半で自分のユニットを立ち上げてASMになる人がいました。夜遅くにずいぶんと面接の人を連れてきていた事は覚えています。ちなみに土日祝日休みの定時は午後5:30だったので挙績があろうがなかろうが直帰するのも本人の自由でした。逆に夜遅くまで、どういう仕事をしてくるのかも自由だっただけの事です。
管理職の最終目標はASMに留まる事ではなく、マネージャーになって自分のオフィスを立ち上げる事です。その第一歩であるASMには一定期間中にアリコにCTをスカウトしてくる最低人数(もちろんその人がCTとしてアリコに入社しなきゃ人数カウントはされない)という足切りラインがありました。更にその先には自分のチーム(「ユニット」と呼ばれていたと思います)内から新たな次のASMを複数育成し、また更にそのASM候補に自分のユニットを持たせ、最終的にはアリコが求める予算と規模を満たす人員になると自前の城(AO=エージェント・オフィスだったかな?)を経営する経営者(AM=エージェンシー・マネージャー)になることが出来る道が用意されていました。豊臣秀吉とかの戦国武将をイメージすると分かり易いかもしれません。
AMになると一度はアリコを退職し、退職金を受け取ります。今度は改めて、自分の育てたオフィスの経営者としてアリコと運営契約を結ぶわけです。
こうしてみると、もちろん常に目の前にニンジンぶら下げられて際限なく追い続け、殖やす(人も予算も)事は要求されるわけですが、日本社と違うのはあくまで管理・トップに立つという事は口を開けて待っているのではなく、自ら望んで進んで執りに(捕りに)行っているという事です。
狩猟民族らしい経営形態といえばそうですが、こういうオープンさはもっと日本社も見習うべきだと思います。と同時に、だから日本の管理職はリストラ対象にされる、のかなあ?とも思わないでもありません。
Posted at 2019/12/30 10:14:29 | |
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