2012年02月19日
何気にみていたネット上の記事。ふと目に留まったのがテレビの価格が暴落しているという記事です。そこには「40インチで4万円台」とか我が目を疑います。
おいおいと思って価格コムとかアマゾンのページを繰るとたしかに安い。
エコポイント狙いで売られていたときの事を考えても、更にまだ安いように感じます。
私がパソコンのモニターを買い換えたのが数年前になりますが、当時で24.1インチというサイズはかなり大きめの部類でした。それでもアマゾンでこの三菱(サムスンやLGなどは購入検討の候補にすら入れるつもりが無いので)のモニターが4万円くらいだったかな、確か。うちに商品が届いたときには「でかいなあ」と感心したものです。
それでも安いと当時は思っていましたが、今は更に安いじゃん。これならサブモニターとしてメインの横に置いてある19インチをやめて今のメインをサブにし、新たに30インチくらいの奴を新調してもいいかも?とか思っちゃいます。
ただ、丁度30インチというのはあんまり見かけなくって、その下の27インチか32インチか、という状態なんですよね。
もう一つ、27インチクラスだとLEDバックライトがあったりするので今の24インチよりも消費電力が小さい(90W→46W)のがいいところです。
そういうのを見ていると、どうせなら30インチ以上の大きさでLEDバックライトの消費電力が小さい奴が良いなあ、とか。キリがありませんが。
でも、こんな価格でこういうサイズの商品を売ってたら、そりゃ電気屋さんもメーカーも利益が出ないわけだよなあ、とは思いますねえ。大きい事は良い事だ、という売り方をしてきてしまったツケとも言えなくもありませんが、日本からメーカーが逃げ出す訳だよと妙に納得してしまいます。こういうのを見てると。
Posted at 2012/02/19 12:46:19 | |
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2012年02月18日
クルマの電子化が止まりません。
つい先日レッカー作業があったのですが、そこでレッカー屋さんと話をしていて話題に上ったのが「充電制御」です。そういえば何となくの感覚で、近頃バッテリーの寿命が何となく短いような気がしていました。
以前ならば「使用後4年くらい経ちはじめた頃から、ちらほら寿命の尽きるバッテリーが出始める」という感覚でした。ところが今は4年どころか2年程度でダメになるバッテリーが出始めているような感じなんです。何か短いかなあ、と。
レッカー屋さんと話をしていた中でふとそんな話題になるとレッカー屋さんも「私も同じ感覚です」と言っていました。「多分それ、充電制御が理由じゃあないでしょうか?」と。
ああ、なるほどね、と思い当たったわけです。たしかに従来よりもクルマは大量の電気を使うようにはなりました。でも平成10年ごろの傾向としてはバッテリーを小さくする風潮にあったわけです。
もちろんコストの事もあるでしょうけど、それに加えて軽量化の要請が強くなった事。プラス、従来に較べてオルタネーターの性能が上がってきたこともあり、その程度のサイズでいいのだろうと勝手に思っていました。ナビに代表される電子機器も増えてきたにもかかわらずバッテリーは小さくなってきていましたので。
この辺の時期でトヨペットを辞めてしまったので、私自身のそれ以降のバッテリー観察は散漫になってしまいました。
ただ、燃費改善の要望は日増しに強くなってきていましたから、メーカーとしても考えうる対策は総当りで手をつけていたであろうとは推察します。その中の一つにオルタネーターの制御もあったでしょう。
つまり、必要が無い時はなるべくオルタネーターも回さないようにしてエンジン負荷を減らし、結果、燃費の向上を図る、というものです。
こうなるとなるべく体力のあるバッテリーの方が充電・放電の幅が大きく取れることにもなりますから、今度は徐々にバッテリーが大きくなってきたのかな?以前に較べれば。もちろんメーカーからしたら「大きさ(値段)を変えずに充放電に対する耐性を改善してくれ」ともなるでしょうねえ。
つまり、燃費数値改善のためにバッテリーが犠牲になっている、という事もあるだろうなあ、と。
対策としてはなるべく大き目の容量のバッテリーを手配するか、元々深放電に強いディープサイクルのバッテリーの方が良いんだろうなあ、と。以前悪く言ってしまいましたがデルコのものとか。
以前パルス充電方式の充電器を揃えた事は書きました。
でも、ちょっと深放電してしまうと国産バッテリーは回復不能なダメージを負うことが多いような感じです。どうもパルス充電方式で充電しても回復率があまり高くありません。
また、充電そのものは完了したとしても、これまた以前ご報告した事のあるCCAテスターでチェックをするとCCA値そのものは回復していない事が少なくありません。もちろん充電直後ですから、そのときの電圧だけはいいんですが。
バッテリーの上がってしまった車は厄介です。
まだ挟み込み防止機能付きパワーウインドウのリセット程度の話で済むのであればどうって事はないのですが、イモビライザー付きやスマートキーのものとかになると「いつまで元の情報が保持されているのか」という事もあり、怖くてうっかりバッテリーを外せません。そうなるとメモリーセーバーも欲しいなあ、とか。
それらに加えて、近頃はエンジンのチェックランプが点灯した、という話をよく聞くようになりました。
どうも昔ならばO2センサー程度が壊れていてもいちいちチェックランプがつく事はなかったようなんですが、今はとにかく異常はすべて知らせなさい、という事のようです。他の機器が正常に作動し、エンジンも正常に動いているとしても、センサーのみの故障だけでチェックランプが点灯する。
別に原因を承知してさえいればいいんですけど、やはりチェックランプの点灯というのは心臓に悪いものです。
となると、車が何を訴えているのか聞き分ける為の翻訳機が必須かなあ、と。さしあたって乗ってわかる程度の症状は出ないけど異常警告だけは出ている、となるとね。
もちろんここまでくると営業如きが口を挟む領域ではないとも思うのですが、それでも判らないよりは判っていた方が良いのも確かです。
コードリーダーだけでよければ5000円程度からモノはあるわけですが、ある程度の診断機ともなると、やはり最低10万以上は覚悟しなくてはいけません。今はOBD2コネクターからの情報読み取りが普及してきていますから、後はどの機械で読み取っていくかという話になるんですが、ハテサテどうしたものやら。
まあ、それでも今は普及機程度のものでいいか、とは思っているんですが。
もちろん今直近で必要になる事態ではないのですが予備知識と技能・能力の獲得を考えると、ある程度の投資は必要かなあ、と。そう思ってもいるところです。見極めとしては、最終的に診断機本体が欲しくなる所までいくのか?というところなんですけどね。
こうしたツールだけに頼った整備ではいけませんが、こうした環境に対応していかなくてはならないのも本当のところです。ついてこれない業者さんはお辞めください、と言われているようなもんですからね。
先ずは手始めにスキャンツールだけでも買っておこうかなあ、と思案している最中です。
Posted at 2012/02/18 13:48:30 | |
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2012年02月16日
世の中の大抵のものには限度ってもんが存在するのが常ですし、もちろんその限度のところで一つの区切りを付けさせられるのが生活の知恵でもあります。
お金という事であれば、それは予算という事にもなるでしょう。大は国家予算から小はお小遣いの使い道まで。
バリエーションは無数にありますが、範囲を超えた散財行為は、とどのつまり借金持ちというだけのことです。返すつもりが有ろうが無かろうが「精算したらマイナス勘定」という事だけは間違いがありません。
他の例では昔は尋常小学校までだった義務教育。それが戦後中学校まで義務教育期間が延び。で、そこから先は今でも自己責任・自己資金・本人の意欲の範囲内で、環境が許すならば、という話の筈です。
高校までの学費が云々を言うならば最初に高校までを義務教育と規定する事から始めるのが本筋でしょう。
そもそもの話で「実生活で必要なこと」という規定事実を考えれば、義務教育期間内に車の免許取得課程をカリキュラムとして組み込むべき(大昔は中学校を卒業するにあたりバイクの免許を取らされたらしいし)であるのが当たり前でしょう。その辺を「交通教室」などというお茶を濁す程度で誤魔化すのはどうか?と。
そもそもで言えば、交通法規や周辺事情にそれほど詳しいとはとても思えないお巡りさんを、そうした場で講師にするのはどうよ?とかね。
また、車の改造も一応は保安基準に沿う範囲内で、となっているわけですが、実際の路上に生息しているクルマの現状は?とか。
そうした前置きはともかくとして。
近頃は何を勘違いしたか「東北の復興」という文句をそれこそ「水戸黄門のご印籠」や「錦の御旗」のように振りかざす輩が増殖しておるような印象です。で、それを前提条件として一種の徳政令じみた雰囲気をかもそうとしているやに感じて仕方ありません。
つまり「復興」と唱えれば何をやっても許される、みたいな。
国民総背番号制にしても然り、
銀行に死蔵された預金残高に対する没収案にしてもそう。
言うに事欠いて宝くじまで復興を口にする始末です。
そういやエコカー補助金の再開に関しても盛んに「閣議決定されました」とかCMで言ってます。でもちょっと待て。
閣議決定自体は「国会に法案を提出します」という前段階であるに過ぎず、それを以って既定事実になったかのような印象操作(をしているようにしか見えない)は事実誤認を誘発しているようにしか見えないんですけど?
雰囲気とすれば、「支援」の看板にケチをつけるのは勇気の要る事です。困っている人を助けるのは当たり前の事と教育され続け、弱きを助け強気を挫く、とか散々聞かされましたからね。
で、たしかに「ステップ・ジャンプ」をする為の前段階である「ホップ」の部分。つまり「資本金の注入」位の所までは国でも手を付けるべきだと思います。
ただね。
「自らを助く」者に手を差し伸べる必要はあると思うのですが、そこまでだと思うんですよね。
これは復興支援に限らず、生活保護にしてもそうだし、年金や医療にしてもそう。だって必ず悪乗りする奴は居るもの。だから制度上、過保護でありすぎる事はイコール納税者に対する詐欺行為に等しいと思います。
で、そこに相乗りして詐欺行為を働くに等しい行為は、それこそ「市中引き回しの上、磔・獄門」に処しても飽き足らない極悪人の行為でしょう、と。
「支援の暴走」は結局そこに行き着いてしまうように思えます。やりすぎは双方(支援者と被支援者)にとってあまり良い事になるような気がしません。
Posted at 2012/02/16 12:06:13 | |
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2012年02月13日
ネットでトマトの件は見ていました。
「あいも変わらずバ○じゃあねーの」とか思って黙殺していたんですが今朝、テレビのワイドショーでもトマトの話題を取り上げていました。近頃のワイドショーネタは、その内容の殆どが前日の2ちゃんねるやネット上でのネタの焼き直し(もっとも意図してどうでもいいネタしか取り上げないのはご承知の通りですが)が殆どですから、ある程度そういう展開が予想できなくもないんですが。
さて。それを見ていた嫁。
こともあろうに先ほど台所のテーブルを見たとき。
性懲りもなくトマトジュースが買ってあるのを発見いたしました。
これを指摘した所、うれしそうな顔をして一言「最後の残り一個が買えた」と満面の笑みでした。そういえばこーゆー奴でした、うちの嫁は。............はあ。
昔は、ふくよかでいられる事が珍しい事この上ないというか、太れるほどたらふく食えること自体が羨望の対象でしたから、希少であればあるほどありがたく感じられた、というのは今も昔も代わりがないのでしょう。
とはいえ「目鼻立ちが美しい」のと「ふくよかである事」が等価であったとは思えません。
あくまでも「綺麗な子には何を着せてもよく似合う」の言葉通りで「目鼻立ちが整っていること」がまず第一であり、あくまでも「ふくよかな事」は「花を添える」程度の意味であったろう、とは想像します。つまり「太っていても綺麗な子」という事ですね。
その辺が都合よく勘違いをされ、多少は太っても大丈夫(?)なはずだ、と迫られた日にはたまったものではありません。まあ、ご想像通りうちの嫁さんの事ですが。
たしかに付き合っていた頃に、おだても含めて「多少くらいはふくよかな方が良い」位のニュアンスの事は言った様な言わなかった様な記憶が無いわけでもありませんが、モノには限度ってもんもあるはずです。
まあ、それはともかくとして。
さてさて、時代は下り現代では適度に痩せていることが「美しく見える・見せる」為の必須条件となってきたような感があります。
ぶっちゃけ食事に「手間ひま・お金」を掛けない食生活が慢性化すると、脂っこくて甘いもの(所謂ジャンクフードですね、要は)を大量に摂取する食習慣がはびこる事となり、大昔とはなぜか体型の傾向が逆転してしまっているのが現状のようです。
つまり言葉は悪いですが「貧乏人(精神の貧乏な人、としてもいいかもしれません)ほどブクブクと太り、高収入の人(気持ちと金銭にゆとりのある人)ほど食生活に気を配り、高価な野菜類も摂取し、料理にも手間と気配りをした結果、必要以上には太らない」という感じになっているような?
特にアメリカではそういう点できっちりと足元を見てくるようですから、「太っているほど自己管理が出来ない人」というように見做されるやに聞きます。「出来る人ならば、体調の維持に人一倍気を使うのが当然」という風潮もあるようですから結果、朝のジョギングや早朝のジムトレーニングに精を出す人も絶えないとか。
もちろん、あまりにも杓子定規にそうした色眼鏡で人を見るのもどうかとは思いますが、一面の真理が無い訳でも無い様な気もします。
そういえばこないだの平日の昼間。取引業者のところで、お隣に出来た某○ックの駐車場の方を見ながら話をしていた時のこと。視線の先にはワゴンRが停まっていたんですね。
で、そこの社長と二人で話をしていると、そのうちでっぷりと太ったアメリカーンな体型のスウェット姿のアンちゃんが、マッ○の紙袋を両手で大事そうに抱え込んでやって来て、そのワゴンRに乗り込んだわけです。
そのときは「デケえ紙袋だなあ」くらいに思っていたわけですが、考えてみたらそのアンちゃん、座ったのは助手席でした。
で、その後マックから出てきた同じくスウェット姿(色違い)のこれまたアメリカーンな体型のネエチャンがこれまた同じくらいの巨大な紙袋を両手で抱え、またしてもワゴンRに乗り込んで行きました。
「え?あれ一つが一人分かよ」とポカーンとしている私たち二人を尻目に、巨大な荷物を飲み込んだ可哀想なワゴンRは健気にも「ブイーン」とマッ○を後にしたわけですが、まあ、ああいう人たちが本当にいるんだなあ、と。日本も変わったもんです。
そういえばペットボトルのコーラ(2リットル)をカートいっぱいに詰め込んである人も見た事あったなあ。まあいいけど。
てな感じで「トマトに対メタボ効果が云々」と聞いて一斉に飛びつくような衆とは....?っていう風にも思っちゃうんですよねえ。これ以上言わせんなウチの嫁、みたいな。
そんなもんに「ここぞ」とばかりに飛びつくような奴は、それこそ「貧困なる精神の持ち主」の見本と思われて恥ずかしいだろうが、とかさ。
それより何より、いつもの食事量に加え更にトマトを食べる(飲む)くらいなら、食事量そのものを減らした方が遥かに効果的だと思うんだけどなあ。もしくは摂取カロリー量に見合う肉体労働をするとかさ。
人間様だと肝脂肪が付くといって大騒ぎする一方で、肝肥大した肝臓を作るためだけに涙を流しつつ強制給餌をされるガチョウが一方では大量飼育されてもいるわけです。で、人為的に病気状態にされ、脂肪がびっしりと付いた肝臓が珍重されるという光景。
まあね。生きるためには仕方が無い、というならともかくさ。何かおかしくね?色々と。
Posted at 2012/02/13 22:17:55 | |
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2012年02月13日
いつもの如くタイトルは大げさですが、中身は大したことありません。すみません。一応タイトルでは水戸黄門を例に挙げていますがそれはそれとして、でもわりと広範囲に亘って言える事があるのではないかなあ、と。そう勝手に思っています。
テレビ番組を例に取れば、何時も「何か新しい、違った面白さ」を魅せてくれるものに目が行きがちではあります。
もちろんそれはそれで尤もな話なんですが、その一方で「これって本当に受け入れられるもんなのかなあ?」という葛藤は、演る側も観る側にとってもそれ相応のストレスになります。
言葉を代えれば冒険といってもいいのかもしれません。
となると観客側としては、やはり安心して見る事のできる。興行側としては安心して打つ事のできるモノがどうしても必要にもなってくる、というのは理解のできるところです。
話の筋はとうに知れている。落ちも判っている。主な演技者も既に名の知れた、安心して見る事のできる演技者たち。しかも撮影場所まで毎回同じときたもんです。
一応、舞台設定としては諸国行脚ですから「今回は舞阪で来週は磐田」といった感じの移動はあったにしても、地元の人間が見たところで「ここはどこの設定だ?」といった感じで。
加えて水戸黄門などでは「この紋所が目に入らぬか!?」とくる例のシーンが午後8時45分(この辺の時間は記憶に定かではありませんが)に挿入される、というところまで半ば法則のように決まっていたとかいないとか。
まさに「様式美の世界」なわけですが、実際そういう事を繰り返していた画面構成で40年も続いてしまっていたのもこれまた事実です。
水戸黄門の視聴率が低迷してきたら番組を打ち切ったというのが公式の見解だとは思います。もちろんそれはそれで妥当な判断なのかもしれません。もちろん、打ち切りを惜しむ声も内外にあったことでしょう。
じゃあ、何で視聴率が低迷していったのか?という事に対する原因究明があったのか?
もちろん、視聴者の高齢化に伴なうメインの視聴者層の移り変わりなんて理由ももちろんあったでしょう。車でいえば「メインユーザー層の高齢化」とかいう奴ですね。
私が思う水戸黄門の凋落の原因は、答えは簡単。定番商品であるはずの番組なのに、視聴者の期待するモノになっていなかった。これです。
製作者側にとっては屈辱であり、あるいは枷でもあるでしょうけど、視聴者はここに変化を求めていません。「水戸黄門はかくあるべし」という視聴者のイメージに如何に沿うものであるかが生命線だったはずです。
別に私は水戸黄門の熱烈なファンでもありませんが、たまーに映る水戸黄門のテレビ画面がいつもどおりの安心のクオリティーであれば安心して、観てはいないにしてもそのまま水戸黄門が映っている、という事はあり得ただろうと思います。
ただ、あまりにも最終期の黄門様の画面は違和感がありすぎでした。「え?これが水戸黄門なの?」みたいな。
別に里見浩太郎が何処かしらに出てきて欲しい、という要望はあったにせよ、あの人に水戸黄門を演じてもらいたかった人ってどれくらいいるのかなあ?とかさ。
同じような事でいえば、ドリフターズの「8時だよ全員集合」もそうですよね。内容は同じ出し物のヘビーローテーションでありながら、それでも観てしまっていた。
もちろん、お笑い番組ではありますから、さすがにあそこまで続くといい加減飽きてしまった、という事はあったにしても、その後のスポット番組はよく観ていたものです。結局「安心のクオリティ」がそこにはあった、という事なんだろうなあ、と。
一時、セダンの凋落が盛んに言われたことがありました。RVなどは流行りモノであって、車屋たる俺たちの飯の種はセダンだ、と。セダンを売らなくちゃあイカン、という掛け声です。時期的には210系のコロナの発表時期だったですかね。コロナの車名の後ろに「プレミオ」というサブネームを付けたモデルのときです。
もっとも掛け声ばかりで、その後は何にも言わなくなりましたけど。
車屋にとっては「セダンが飯の種」とは勇ましい掛け声ではあります。確かにバブル期位までは主力販売車種ではありました。
同時に販売店としてのトヨペットは当時「コロナ」「マークⅡ」「セルシオ」といった所謂セダンタイプが売れまくりヒートアップした時期を過ごしていますから、あの頃を知っている人たちからすれば「セダンがあの頃のように売れてくれれば....」という思いはあっただろうなあ、とは思います。
ただね。
クルマを買う人たちが求めているのは、やはり雰囲気なんですよね。「これが売れている」という雰囲気。「これが良いらしい」というムード、と言っても良いかもしれません。
そして何でもかんでも一つの商品に殺到し、プリウスが街中に溢れる様にもなる。当時どの家庭でも見かけた「ぶら下がり健康器」のように、と言ったら言い過ぎでしょうか?
かつては「いつかはクラウン」というムードであったし、「マークⅡに乗っていればとにかく安心」みたいな。もちろん、安心のクオリティでもあったのも事実ではありましたが、新機軸は殆ど無しとも言えたように思います。
そしてもちろん、クルマを買う、車を買い替えていく、という行為自体が世の中のムードとして肯定されていた、という事が一番大きいのかな。
もう少し続きを書こうと思っていたのですが、お仕事に行かなくてはなりません。また続きは今度書くように致しましょう。
Posted at 2012/02/13 12:55:02 | |
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