
今日の東京は、未明から午前にかけては台風18号が襲来していたが、午後は台風一過。
久しぶりに太陽の姿を目にする。
写真のような雰囲気の、秋の夕暮れに久しぶりにお目にかかる。
多摩湖道の木々が写真の景色ぐらいに色づくのは、まだもう少しだけ先のことである。
(何ゆえにニュルブルの写真を用いているのかは、今日のところは触れずにおく)
缶コーヒーを飲み終わると、俺は叫んだ。
「オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!」
自分の心の中に。
自分の心の中だけで。
自分の心の中だけで叫んでいる点が、平成元年頃の大阪環状族との大きな違いであろう。
だが、坂の上の周回路に上がる前、自分は心の中に、平成元年頃の大阪環状族に劣らぬ程度の気合を入れることにしている。
自分は、実に「感情的な魂」の持ち主だ。
私の「魂」は、実に「雄叫びを上げることが多い魂」といえよう。
しかし、「走り屋」とは、「ドライビングスキル」という、「機械的技術」を追い求める者だ。
特に「スピード」の分野の住人である私は、「速さ」「数」を追い求める者であるから、
特に「感情的な魂」を度外視して、機械的に活動しなければならない。
相当な懐古趣味人間で、伝統主義者で、カタブツな、「走り屋としての私」の、「感情的な魂」が、
多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「正統的順序」をいくら叫ぼうが、
現実の走り屋としての、現実の技術的活動の前に、
嘲笑われ、否定されるのみである。
現実の、特にスピードを求めるグリップ派の走り屋の活動とステージ選択は、極めて散発的、かつランダムなものであって、非感情的なものである。
時間の都合がついたとき、自分のコンディションの良いとき、車のいない曜日・時間帯を見つけて繰り出す。走り屋の活動というのは、常に、現実の技術的要素と相談しながら行われる、「業」なのである。
ここに、「感情」が介入する余地はない。
具体的にいえば、
「飛ばしすぎじゃない?」
「ごめん、そういう気分なの」
とか、
「RX-7乗ったら~(中略)スピード出したくなっちゃってー♪」
とか、
一時の感情でスピードを追求するわけでは、決してない。
業として、
ある意味では仕事として、
物理的要素と相談しながら、夜の峠道の闇の中を、黙々と走るのである。
そのことは反面、刹那的快楽から、もっといえば、思想信条や個人的信念から逸脱してゆくわけであって、しまいには「死んだような目の人」になってしまう危険性をもつ。
しかし、この状態こそが「解脱した状態」なわけである。
私もまた、「解脱した状態」になれることを望んでいる者である。
だが同時に、「魂の叫び」を大切にしたい。
つまり、自己の魂が完全に「矛盾した状態」になっており、その解決を未だつけられないでいる。
このブログは、そうした矛盾状態に関する吐露でもある。
とりあえず、数の世界を求める走り屋として、ステージの選択についても、多摩湖道→奥多摩→群馬という、走り屋としての「美学」・「感情論」からは離れなければならない。
自分の技術を向上させるために、空き時間を見つけて、せっせと峠に繰り出す。
せっせと練習する。
だから、繰り出す峠も、テンでバラバラ。
いろいろな場所にそのときごとに繰り出す。
それだけだ。
しかし、これでは、回想していく上で、不都合が出る。
記憶が、話しが、つながらない。
そのため、ステージは一箇所にある程度固定させておく必要性がある。
それなら、回想においては「走り屋の美学の順序」に配列したい、という欲が出ている。
だが、数の世界に生きる者として、その欲に従うことさえも許されない。
走り屋の世界、しかも、私が志す、スピード(数)の世界では、
極力、感傷的・文学的な表現はあえて避けるべきで、構成や話の運び方においてこそ、それは避けるべきとなろう。
だから、話の運び方は、技術的なつながりをベースとして舞台が移動してゆく必然性がある。
舞台を多摩湖道から他のステージへ移してやる必要性がある。
そこで、一応、「(私と)多摩湖道」の「第一部」をまとめていってやる必要性があろう。
しかし、これも、技術的な話を放り出して、文芸的な話をするわけにはいかない。
まず、多摩湖道が私に与えたドライビングに関する影響からだ。
端的には、「アクセルを抜かない」ことと「左足ブレーキ」である。
この話の続きは次回。
また、「オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!」については、あくまで、気合を入れる→集中力が増す→さしずめ、「安全対策」に過ぎないのである。
なんとも虚しい思いがするが、それが、数理的技術に生きる者の悲しい性(さが)なのである。
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多摩湖道 | 日記
Posted at
2009/10/08 23:31:00