
舞台を多摩湖道から他のステージへ移してやる必要性がある。
そこで、一応、「(私と)多摩湖道」の「第一部」を、編年体的にまとめていってやる必要性があるということは前に書いた。
まず、多摩湖(村山貯水池)が建造されたのが、
大正13年(1924年)。
「ハチロク物語」の作者が、ギャラリーしに行って、「こわっ」と感じたのは、
昭和63年(1988年)。
従って、ストリートファイターの全盛期も
1988年とみてよいだろう。
また、多摩湖道が夜間閉鎖されたのも
1988年。
計算上、私はこの年、5才くらいであったわけで、
この道は、昼間に、家族の車の後部座席で見ていたに過ぎなかったはずであったろうし、
また、この年齢のとき、私はここをそうそう頻繁には通っていなかったと思われる。
平成初頭、1990年代の私と多摩湖のお話(蛇足だが)。
小学生になると、学校行事で「歩け歩け大会」なるものが存在した。
この多摩湖まで、高学年になると13キロほどを、途中、水分補給を原則禁じられて歩き通す、というものだった。
(今から考えると、このときの教師たちが恐ろしい「技術的誤認」をしていたことに気づく)
ゴール地点がこの場所であるわけだが、それは1990年代のことであるため、「ストリートファイター」なるものには、時間帯的にも、時期的にも、重なるところはない。
とはいえ、毎年、脱水状態になってゴールし、湖面を見渡す堤防の場所に到着したときの記憶は今も鮮明である。
この時期の「多摩湖の記憶」が、私の深層心理を形成しているかもしれないが、それは、「走りの技術論」には直接は関係してこないだろう。多分。
また、家族でもよく来た気がする。
2002年くらいであった気がしているが、
どの年だったろうか、桜がひときわ盛大に咲いた年があった。
このときに堤体から見た村山下貯水池の湖面は、未だに記憶に鮮明だ。
私が、ここで「ドライビングトレーニング」を始めた、書き出し(走り出し)は、
平成18年(2006年)のことである。
したがって、ここまで書いてきた「トレーニング」の話は、殆んどが
2006年の話と思ってもらって構わない。
この時期の「私」と「クルマ」について書き記すと、両者共に「フルノーマル仕様」であった。
だから、タイヤもホイルも新車装着時と同じ、ノーマル仕様である。
これは、グリップが少ない分、「許容性」に富んでいるといってよい。
つまり、ノーマルタイヤであった時分には、キャッツアイを踏んだところで、ガタンと衝撃が襲うだけで、その他には「何も起こらなかった」。
つまり、タイヤが壊れてしまうことはなかった。
また、キャッツアイに触れる=タイヤ破損という速域までもっていくには相当の度胸が必要だろう。
すぐにコーナリング不能になるのだから。
少なくとも私には、それほどの度胸はなかったし、「走り屋」という意識自体がなかった。
今は、ハイグリップタイヤであるため、その点では比較的高い速度でも、コントロールが可能だ。
しかし、そのしっぺ返しとして、コーナリングミス→キャッツアイにヒット→タイヤ破損となってしまう。
そのため、履いているタイヤは純正で、しかも速域もまだ低かったため、キャッツアイにもただ「乗り上げる」だけで、「側面ヒット」のようなことはなかったのである。
再記だが、「夜間閉鎖」は解除されている。
ただ、それは、ハンプ、センターポール、キャッツアイといった「走り屋潰しアイテム」が設けられたことと引き換えであり、「ストリートファイターお断り」という、「条件付」の夜間閉鎖解除だといえよう。
だからして、確実なコントロールがもとめられるわけであり、
自分がここで行うことが「(神の目からみても)許容されている」のは、コントロールトレーニングだけであって、スピードトレーニングではないようだ。
反するときは・・・、制裁が下る(笑)。(9/30のブログ参照)
時折「奥地の峠」のように霧が出やすい、という気象条件は、このワインディングに「峠」としての気分を演出させるものである。
こうした雰囲気論・感情論以外、
走りに対するこの道の特徴は、「ABSがとにかく介入しやすい」ということだ。
ここから発生する、さらなる技術論は明日に「延期(?)」。
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多摩湖道 | 日記
Posted at
2009/10/09 01:42:01