
最近、漫画『日本沈没』を一気に読んだわけですが、まあ・・・ボリュームたっぷりなモノでした。
(「日本が沈没して日本としての未来が無い」という特殊状況を加味してもなお、首脳陣の思考回路や、話の思考の巡らせ方が?なトコロはあったり、その他の感性・認定に違和感があるところは差し引いても、)ボリュームたっぷりで、「効用」は高いものであるかな? と。
では、リメイク映画版との関連の話。
コミック版では、AからDまでの四つの「計画」が登場するのですが、
草彅氏主演のリメイク映画はA計画を「あたりさわりなく描いたもの」で、A計画が成功し、日本は継続します。めでたしめでたし。
一方でコミック版は、
「A計画」(≒映画)は作品登場人物の一部にすぎません。
そしてそして、七巻末尾、安倍首相は叫んだ。(←役名は緒形首相)
「みなさんっ!!
熊本城からコンニチハっ!!
(中略)
にっ!!
ぽん!
わっ!!
一年を
待たずしてっ
日本の国土はっ
ほとんど全て
海にしじゅむぅ!!
おおおおおおおおおおおおお
という強烈な首相の雄叫びを合図に、
痛烈なギャグ漫画へと変貌する。
しかもこの史上最強クラスの痛烈なギャグ展開を収拾するには、漫画作者の一色氏は、
現帝の御力を、お借りするほか無かったようです。
(にもかかわらず、最後にはやっぱりエヴァに重ね合わせながら、ギャグ締めするという、ギャグへのコダワリには凄まじいものがある。)
という、形式上の論評はさておくとして・・・、
このブログとしてのスタンス、
特に「有形力の行使を以って、自らの技術とプライドを追及する世界に生きる者」としてのスタンスで、
この話のキャラクター、特に首脳陣の思考形態を見るに、
「何ゆえに、“有形力の行使”にそこまでのアレルギーを持っているのか?」と。
そういう疑問を抱かざるを得ない。
緒方首相(←モデルは安倍首相)にせよ、
(終盤の)中田総司令(←終盤、湯浅誠氏のような風貌?、と感じたのは私だけだろうか?)にせよ。
「有形力の行使」を以って、集団の存立・ヒトの生命を守ろうとする者なのに、
何故に、
「これ以上日本が恥をかかないように」とか、
「やりたくてガマンするのに必死だった」とか、
何故に「感性・感情のフィルター」を第一段階に通すのだろうか? と。
「有形力の世界に生きる者」は、
まず、効果・必要性・可否を機械的に検討することが第一段階となる、それが思考形態でなければ困難な局面で、「有形力の限りを尽くすこと」はできないのではなかろうか?
言い換えれば、「そこに有形力が存在する意味がなくなる」と。
さらに言い換えるなら、レゾンデートルを失いかねない・・・と。
そうそう、
「核は語ること自体がタブー」との話がこの作品でも強調されていたから、あえて書くけれども、
「現在の核兵器保有国で、この作中の日本ほどに“核武装を正当化”する“高尚な理由”を本当に満たした国など、唯のひとつも・・・、ない!!
(ってゆーか、現核保有国の「核兵器による追い込まれ度」でさえ、現在の日本より軽微な国が殆んどだ。)」
それで、昨日は建国記念日だったから、それに関連して言いますが、
『日本沈没』というフィクションの作品があって、その中で日本は沈没するわけで、
また、
現実にも、生命群の“シナジー”の低下、がみられる気配は、ある。
とはいえ、日本人として、ファイターとして、叫んでおきたい。
「日本が滅んで、アメリカだの、中国だの、ロシアだのが生き残っているという状況は、まっぴらゴメンだ。仮に全世界が滅ぶとしたら、日本は一番最後か、少なくとも最後の方であるべきだ!と。そうでなければ、道義的・道徳的に示しがつかん!」と。
(↑なんと無茶苦茶な奴だ。米中露のような強い方々をボロクソ言うなんて!と言われかねないけど、これは率直に書かなければ、溜飲が下がらない。個人的に)
悪口言って終わるんじゃ、あまりに性格悪いですね。
だから、みんなで叫ぼう。
「日本は、永遠です!!」(←ニコニコと。鬱憤が晴れてニコヤカな表情で)
あっ、そうそう。
『日本沈没』のマンガ本で、このみんカラ的に、すごーく関係のある描写。
潜水艇ケルマディックのシートには、sparco(スパルコ)の四点ハーネスが装着されていまーす♪(←マンガ読むと、いつも、結局ソコかーーーーっ!汗。)
漫画『日本沈没』1~15巻 BIG・COMICS 小学館
原作 小松左京 漫画 一色登希彦
さて、
ここまで耳にタコが出来るほど「つづら折り」「つづら折れ」「九十九曲がり」と語ってきたが、
残念ながら私は「九十九曲がりフェチ」ではない。
敢えて私の走行の趣向の中にフェチシズムを求めるなら、それは「タイヤ鳴かせフェチ」であろうか?
タイヤの限界が近づくと、タイヤはスキール音を生ずる。
しかし、曲がりの浅い・Rの大きいカーブだと、その速域は想像以上に高い。
環状系の道路を走行する中で、R200以上のかなりの急カーブを100km/h超で走行することに、「確実なる生命の危機」に恐怖を覚えた私は、
「先生方からの指導」もあり、「転戦」することとなる。
そこで改めて認識することとなるのが、九十九曲がりという形状のカーブである。
ここは低い速度域でしか曲がれない。
場所によっては、標識に掲げられている速度では、とても曲がれなかったり。
「コレを早く、上手く曲がれるコトが上達への早道だ!」と気づかされた私は九十九曲がりを志すことになる。
しかしながら、「上には上がいる」。
それは世の常。
しかも、その「上のヒト」は、たぶん「走り屋ではない」としたら、どうだろう?
ここで、「超絶!つづら折突破術」を現有している方々は、走り屋ではない。
ひょっとすると走り屋かもしれないが、車両と走り方は、それらしくない。
上野原近辺。
この辺りは、様々な道が、甲州街道の現道、国道20号にアクセスしている。
しかしながら、国道20号本線は山の下あるいは崖の下であったり、巨大な河岸段丘の向こう側であったりして、単純ではない。
そのため、国道20号本線に合流しようと、20号本線に高さをあわせようとして、至るところに、九十九曲がりのコーナーが発生している。
この近辺の人々の生活速度は高い。
ワゴンRなどの軽自動車で、90キロくらいで走ることが多い。
通常、「走り屋が“修行”をしている」場合、対向車のライトが近づいてくると法定速度以下に落すことが多い。
山岳域で速く走っているからといって、それが走り屋であるとは限らない。
しかしながら、対向車のライトが近づいたときの対応によって、「判別」することも可能だ。
単に、地元のドライバーの場合、対向車が来たからと言って、速度を落とすことは、まずない。
そんなコトをしていたら、それこそ余計なブレーキングが増えるから、それこそ「エコドライブ」ではない。地元の方々はそういう考え方の運転方法だ。
「速さ」の求め方が違う。
だから、90キロくらいでの等速走行。
ワゴンRのような、燃費のイイ軽自動車で。
90キロくらいで等速走行。
どんなときでも。
大概は。
90キロくらいで等速走行。
どんなときでも。
九十九曲がりのカーブに入っていくときでも!!!