この記事は、
2015年10月06日
エベヤ号と薬売り
もう、20年くらい前のNHKのテレビ番組を思い出した。
ザイール川(コンゴ川)に、
エベヤ号(エベア号?)という船があった。
とにかく大勢の人々が乗っていて-
そこに、薬売りが乗っていたのだが、
例によって、-
に出てきた、「エベヤ号」に関する記事を、メモしています。
ザイール河を行く 2 、3、4を、メモしています。
ゴマのような高地ではなく内陸の雨林の只中に位置するキサンガニは湿度が非常に高く、すこし動いただけでも汗だくになるほどだった。以前来たことがあるプロデューサーから聞いていたホテルを見つけて部屋を取り荷物を整理すると、まずは港の下見と情報収集のために夕方の町に出かけた。
機上からの印象とはまた違って、河辺から目にするザイール河は大きかった。河口からは2000キロ以上も上流(といっても実は中流だ)で川幅は1キロ近くあった。
港には沢山の人出があり、事務所の表の広場には屋台の食べ物屋や雑貨商たちが店を開いて市の活況を見せている。河岸の船着き場はしっかりとした波止場で、やはり定期船の発着する港であると言う事が良く分かる。そこに、大きな船団が停泊していた。船団という意味は後ほど判る。
国営の船会社ONATRAの事務所に急いだ。今停泊中のキンシャサ行きの出港予定を確認し、何としてでも我々の船室を確保しなければならなかった。これを逃せば次は何週間先になるか、誰も予測できないのだ。
果たして出港は2日前に予定されていたのだったが何かの理由で遅れていて、多分明後日くらいには出るかなあ…と窓口の切符売りはのんびりしている。しかも、特等、一等二等の全ての船室の切符は売り切れで、もし乗船したいのならば甲板上の空いたスペースに雑魚寝する3等しか残っていないという。しかしこの3等というのは別に席があるわけではなく、来れば来るだけ幾らでも売るという訳で、いわば立ち席券というようなものなのだ。しかももう船上はどこもかしこも人と積み荷で満杯の状態なのだった。
先に「船団」と書いたので、まずこの意味を説明しておく必要があるだろう。
ザイール河を行く 3
テーマ:紀行
特等と一等船室は動力のある本船の二階と三階にある。本船は数十トン級の大きなもので、長さは30メートルほどもあった。このときの本船はEBEYA号といって、ONATRAの持つもののなかでは大きいほうだ。後日キンシャサから乗った他の船団の本船はEBEYA号の半分くらいしかなかった。
この本船に動力の無い平底の艀がいくつも繋がって一つの船団をなしている。幾つ繋がれるかは行く先や航路、乗客の数などで決まるようだ。このときは6つの艀がワイヤーロープで繋がれていて、そこに人は勿論のこと車から日用雑貨まで大荷物小荷物、そしてワニやサル、魚やニワトリにヤギやブタといった家畜、さらには芋虫などなどザイール人の口に入るあらゆる食材。日用品や衣類や不正輸入されたと思しき電気製品や薬剤など、とにかく商品として価値のあるものは何でもカンでもが所狭しと積み込んであるのだった。
そして艀の大部分にはキオスク状の小さな商店が店を構えている。つまり船そのものが動くデパートとなっていて、河沿いに暮らす人たちは丸木をくり抜いた手漕ぎカヌーで追い縋って来ては、畑で作った作物や漁で得たワニやカメを含む水産物、森で獲った野生動物など(生きたものも死んだものも)を持ってきては売り、その金で村では手に入らない日用雑貨を買って帰るのだ。
そうして移動して行くので、河を行くうちに人も物もどんどん増えてゆく。多分ピーク時には2千人以上の人が乗っていたんじゃないかと思う。積載許容量を越えていただろう。
この船には定員がないのだ。ちゃんと船室があるのは特等(エアコンつきの個室)一等(エアコンは無い二名部屋)二等(二段ベッドが並ぶ8人部屋)で、三等というのは甲板も通路も屋根の上も、とにかく座ったり寝ころぶことのできるスペースさえあれば、どこにでももぐり込んでいいのだ。商店を開いている人はほぼこの船に住みついているようだったし、鍋釜を持ちこみ炭火コンロで自炊している人、そうして食べ物を作って売っている人まで居た。
私たちは中央政府発行の撮影許可書を持っていたし、外国人特権とザイール人方式のゴリ押しで船会社の責任者のもとに押しかけて交渉した。とにかく一度船を見て回り、居場所を確保出来るスペースが見つかったならば乗船しても良いということになったのだった。
見てみるとそこはまさに聞きしに勝る光景だった。茣蓙を敷いて横になっている人や腰かけ持参で座り込んでいる人など、すでに甲板の端まで満杯で少しのスペースさえ見つけるのは難しそうだった。
やっぱり駄目だろうかと思っていると、私たちを案内してくれていた船会社の男が「ここはどうだろうか」とひとつの部屋に連れて行ってくれた。そこは最後尾につける小型動力船の船尾に近い一室で物置になっている所だった。入り口前の荷物を除けてドアを開けると4畳半程度の広さがあって、中の荷はそれほどの量ではない。鍵が掛るのはありがたい。そこを空ければ機材などを入れても二人は横になることができそうだった。カメラマンと音声マン、私とゴマからずっと付いている英語もスワヒリ語もできる通訳兼私のアシスタントの4名だ。とりあえず私と通訳は入り口前の甲板に茣蓙を敷いて寝ることができる。決まった。ここにベッドを二つ入れてもらうように頼み、あと二名は途中で空く予定だという二等船客に移るということで、二等4名分の運賃(食事付き)を払って乗船することになったのである。
善は急げだ。ホテルに取って返して機材を除く荷物を運び込み、誰かに乗っ取られないように通訳を一人そこに泊り込みさせて、私たちは出港を待つことにした。
予定などあって無いようなものだ。2日後が4日後になることもあれば一週間延びることもある。逆に急に早まることだってあり得るのだ。2日前だったとされる出発日も、実は本来のスケジュール上ではその一週間前だったらしい。
しかしこれまた運よく、その2日後に船は出港した。
ザイール河を行く 4
テーマ:紀行
朝、通訳がホテルへやって来て、今日の午後に出港するらしいと知らせに来た。
機材と個人の荷物を持って船に移る。船はさらに人と荷物を増やしており、ラッシュ時の電車の中にも匹敵するような込み具合だった。甲板上の狭い通路を、人を押し分け荷物を跨ぎ、生きた動物を避けながら最後尾まで進んだ。
夕方、本船から汽笛が鳴り響き、船団がゆっくりと岸を離れていった。船長に便宜を図ってもらう交渉ができていたので、操舵室から出港風景を撮影した。予定では5泊6日の、キサンガニ発キンシャサ行き定期船エベヤ号の旅の始まりだった。
動き始めると河風を受けて少しは涼しくなるのがせめてもの救いだった。雨林と河からの湿気を含む空気は重く暑かった。ただじっと座っているだけでも汗が滲んでくる。
船内の撮影はいきなり始めないことにした。こうした撮影に慣れたベテランカメラマンだ。まずは私たちの顔を知ってもらい、カメラの存在に慣れてもらうことにしようと、バッテリーを外したカメラをぶら下げて船内を歩き回ることから始めた。通りがかりに「おっ!カメラかい?」とか「日本人だね」とか声が掛ると二言三言言葉を交わす。こうして、大きなビデオカメラを持つ日本人が一緒に旅している旅仲間だという意識を刷り込んでおくのだ。
それはまた盗難防止の意味もあった。所有者が皆に知れ渡っていれば、すぐに足が付く撮影機材を盗もうなどと考える者はいなくなる。まして船の上には逃げ隠れするような場所は無い。
そうして皆が徐々にカメラの存在を意識しなくなる2日目頃から、ようやく船内撮影を開始した。河岸の風景から始めて、少しずつ乗客たちの生活臭あふれる姿をスケッチする。
私たちの部屋の近くの二等部屋に日本人旅行者が居ることもわかった。オートバイを持ってきていて、途中の港で降りた後は中央アフリカを回るのだという元自衛官だった。それに便乗している女の子も居た。大学生だという若者はこのままキンシャサまで下り、それからマリまで足を延ばしてユッスー・ンドゥールのコンサートを聞きに行くのだと言う。他にも男女4人、香港の学生たちが居た。
陽が傾きかける頃、左側に見えていた中州(というか島)がどんどん近付いてきた。どうしたんだろうと思っているうちに人々が騒ぎ出し、岸辺の木の枝が船を擦っていた。あっという間に浅瀬に乗り上げていて、丁度私たちの船室の前に太い幹を突っ込んだかたちで停まってしまった。鉈を持ちだして嬉々として枝を刈る男たちがいる。何をするのかと見ていたら、キンシャサの市場で売るために生きたヤギを持ちこんだ連中で、餌として青葉を食べさせるためだった。
船が止まると風も止み、蒸し風呂のような暑さが襲ってきた。スクリューを逆回ししたり色々と試みていたが、結局自力ではどうしようもないようだった。無駄な燃料を消費したくないから本船はエンジンを止め電気も落ちた。無線に応答した応援の船が到着したのは夜半過ぎだったが暗い中での作業は事故の元なので動きは無く、結局浅瀬を抜け出したのは夜が明けてからになった。
このような予定外の出来事はその後も避けられそうになかった。キンシャサに着くまで果たして何日掛るものかを考えると憂鬱になってくるのだった。
ザイール河を行く 5
テーマ:紀行
食事は各動力船(この場合は本船と私たちが乗っている小型船)に一つずつあるキッチンで作られるものを、各自が自前の皿やカップを持って受け取りに行くようになっていた。安物のカップや皿を手に行列を作る人々の姿は難民への炊き出しのような感じだ。メニューは毎日同じようなもので、朝は色のついただけで香りも無い紅茶とゴルフボール大の揚げたパン、というか沖縄のサーター・アンダギーのようなもの2個。昼と夜は白飯か煮豆に干し魚の切れ端が入っているシチューというか煮物がぶっかけてあるか、それらが混ぜてあるようなものだった。それも3日目位からは昼夜兼用で午後一回だけになって、スケジュールが大幅に遅れていくと、しまいには配給無しになった。予定の5泊6日分しか食材を用意していないからのようだ。
乗客も慣れたもので、七輪のようなコンロに鍋やらを持ちこんでいて自分たちで調理している。船内には炭も売っていれば塩や調味料、玉ねぎや豆、肉も魚も(切り身も丸ごとも燻製も)売っているのだ。
煮炊きも食器洗いも洗濯も行水も全てを豊富な河の水でまかなう。皆それぞれ3リッター位の容量がある空き缶を持っていて、それには長いロープが結わえ付けられている。必要な時にはそれをデッキからドボンと水面に投げ入れて水を汲む。森の養分もゴミもバイ菌もすべてを涵養する薄茶色の河水が乗客の生命線だ。
船内を見て回った当初、空き缶ばかりを売っている人が居たので何かと思っていたら、そういうことなのだった。私たちも一つ買った。河水はさすがに生のままでは危ないので、缶で汲んで大きな蓋つきの鍋に移し、それへ塩素消毒液を混ぜて暫く置いておいた。その上澄みを掬って歯磨きや顔洗いに使い、沸かしてコーヒーや紅茶を淹れて飲むのに重宝した。しかし現地の人はそんなことはしない。汲みあげた直後に缶からそのままゴクゴクのんだりしていたけど、不思議とコレラや赤痢など起さないようだった。
常に千人以上の密集した客を乗せている船団は、人の密集度と衛生度を考えると動くスラム以外のなにものでもない。トイレは一応各船に一か所、アフリカ式にシャワーと一緒になった水洗式のものがあった。アフリカ式というのは、床の真ん中に穴のあいたボットン式のトイレの上に水タンクがあって、便を流すこともシャワーで体を洗うことも出来るようになっているというものだ。水はそのまま下からまっすぐに河へ流れる。もちろん上から浴びる水は河から汲みあげたものだ。
このトイレは用便する人と体を洗う人とで朝から行列が出来ていたが、幸い私たちの部屋は一般客は立ち入り禁止の船会社の管理官の部屋のすぐ裏手にあって、そこにある船員用のトイレを使わせてもらえたのが助かった。
キサンガニとキンシャサの間には幾つかの寄港地がある。いずれも地方としとしては比較的規模の大きい町があって、港に寄る度に人と物が入れ替わった。
最初の寄港地まで2日の予定が4日掛った。ようやくそこに着いたとき、バイク旅の元自衛官と女の子が降りて行った。キンシャサまで行くと言っていた大学生の男の子は、日本では予想だにしなかった混沌と暑さに疲れ切って余程参ったのだろう。もう一日も早くこの船の地獄から解放されたいと弱音を吐き、予定を変更して「こんな国もう二度と来たくない」と捨て台詞を残してその港から去って行った。
港で降りた一等の客がいるから客室が使えるけど…と船のマネージャーが伝えてくれた。なんとラッキー!と喜び勇んで見に行ってみると、これがまたひどかった。その部屋は動力船の本船三階の後部にあって24時間動き続けているエンジンの真上に位置していた。その振動と音が休まることは無く、空調があると聞いていたのに動力室の熱がそのまま籠っているようで温度も湿度も甲板に居る以上に高いようだった。なにしろただじっと寝転がっているだけでジトジトと体中から汗が吹き出すほどだった。
こうして私たちは難民船のような船団に揺られながら撮影を続けた。
その後、さらなる座礁や港での荷役作業の遅れなどがあって、航行6日目にしてまだ全行程の三分の二しか達していないという遅々とした進み方だった。さすがの私も少々疲れてしまっていた。しかし船はザイール社会の縮図を乗せたまま悠然と河を下ってゆく。
ゆったりとした河の流れに揺られながらの旅は退屈だと思えば退屈で、しかし毎日なにかしらの出来事が起こる、まさに無常の絵巻だった。
特等と一等の客は本船の三階、空調の利いたレストランで給仕がサーブする料理(といってもメニューそのものはたいしたものではない)を食べることが出来た。昼間はそこでフランス語の小説本を読みながら優雅に時間をやり過ごしている妙齢の女性も居た。
一方で川辺の村々から丸木カヌーで追い縋り、家畜や水産物、農産物などを売ろうと船腹からよじ登って来る者がいれば船から落っこちる人も居た。喧嘩や泥棒騒ぎもあれば船に常駐の警察官に逮捕されて腰縄で数珠繋ぎにつながれ本船の屋根の上に座ったままにされている者もいた。
船がキンシャサの灯りを目の前にしたのは出港して実に9日目の夕方だった。しかし港が込んでいるという理由でその夜は港に入らず沖で一夜を明かすことになる。
ザイール河の旅は予定の倍ちかい9泊10日を費やして終わったが、今度は出演者を含む大人数でキンシャサから河を上るという仕事が待っているのだった。