
私は、「伝統主義者の走り屋」としての「あるべき駆け出し」をすることが出来なかった。
今日の文章は、
「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがありました」
そういう世界観である。前近代的な世界観がベースである。
「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました」
こういう表現の、登場人物にセルフコントローラビリティーがある、近代合理主義的な世界観しか理解できない方には、どれほど優秀な技術を持っている方でも、いまから私が話すことは、決して理解することが出来ないであろう。
次のステージは宮が瀬。
これは確定事項である。
しかし、それは、「走り屋としての私」の「魂の叫び」からすれば、実に不本意なことである。
「走り屋としての私」、しかも、相当な懐古趣味人間で、伝統主義者で、カタブツな、
「走り屋としての私」が、多摩湖道からほかのワインディングへと話を移すのならば、
そこには、常道、いや、本来ならば絶対服従すべき、「順序」というものが存在する。
端的には、多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「順序」である。
しかし、「現実に生きる走り屋」としての私は、
不本意ながら、
誠に不本意ながら、
この「順序」に服従することができなかった。
この「あるべき順序」と「不本意」を詳しく吐露しよう。
いままで、「多摩湖」と、その周回路をしきりに強調してきた。
そのため、この人造湖が、ある種の「ヌシ」であると感じた方が多いであろうし、私はそう感じている。
そうなると、この周辺部に巣食う者のひとりである私もまた、
この「ヌシ」、
もっといえば、これらを創り出す「創造主としての人間集団の意思」と同じ系譜を辿ってゆくのがあるべき姿だろう。
私はそういう気がしているし、
自分も本来はそうありたいと思っている。
相当に慧眼な方は、このような、大多数には理解不能な表現を用いただけでも、
私が何を語りたいのか、正確にわかってしまうことであろう。
しかしながら、そうした曖昧表現の放置は、
不明確さを排除し、感覚を言語・理論・数値へとプロットしてゆくべきことを常道とする、ドライビングスキルの世界のあり方と真っ向対立することとなるのであり、
また、それは、私個人の美学とも真っ向から対立するものである。
なので、普通の人にも通じる、端的な言い方をする。
すると、これは、「東京圏の水源地の系譜」のことを指しているのであり、
それが、多摩湖、奥多摩、群馬という順序を辿るということである。
江戸期には、玉川上水が水の供給手段であったことは有名である。
それが、大正期の東京の人口の拡大により、この多摩湖が造られることとなったのであるが、
実際問題、昭和初期に東京の拡大に対して急場しのぎにほかならず、多摩湖完成直後から、隣接する場所に、狭山湖が建造され始めたのである。
この、多摩湖・狭山湖がしばらくは、「東京の水がめ」という位置づけであった。
私の祖父母たちが若年であった頃の話だ。
昭和も中期になってくると、再び、東京の拡大とそれに伴う水不足が発生し、貯水池を新たに求めることとなったのである。
ここで奥多摩湖・奥多摩エリアが登場することになり、奥多摩湖が「東京の水がめ」と呼ばれることとなる。
私の父母がまだ子供だったころの話だろう。
昭和後期になって、「東京圏」が大きく拡大し、利根川水系に水を求めるようになると、群馬県の山あいにダムが建設されるようになっていく。
私が生まれる少し前の話であろう。ここで、「群馬エリア」の登場である。
故に、「走り屋としての私」「私の走り」という存在を、「多摩湖エリアに巣食う者のひとつ」として定義づけたのなら、
「走り屋」としての私の経歴は、多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという段階を踏むことが、どうしても求められるわけである。
しかしながら、これがあくまで、現実の行動パターンと照らして、空想上の理想論に過ぎないことは一目瞭然であろう。
また、自分の行動をこれに合わせようとしたところで、
現実に「私」がこのような「段階」を踏んで走り屋としてのスキルを上げていこうと目論むのだとするなら、免許を取得したその日、あるいは免許を取得する以前から、「走り屋意識」を持っていなければならない。
たしかに、現在の「走りの技術的意識」に直結する価値観が形成された時期は、自分が15、6歳の頃、高校1年の時期である。
そのため、走りの技術論を深くしてゆくと、どうしても、この年齢期の意識、しかも、明らかにコンプレックスの要素を曝け出さなければならなくなるわけだが、いずれ、避けて通れないことになるだろう。
そしてそれは、たしかに、「走り」に対する根底的意識なのであって、自分の魂に深い傷となって刻み込まれていて、確かに自分の「走り」に対する意識の中で、本質的にして根源的なことなのであるけれども、技術的な話に直結したことである。
とはいえ、「一般論としての走り」そのものに対する抽象的意識なのであって、「マシンを使って、マシンを操り、マシンが走る」という狭義の「走り」だとはいえない。
だからして、「マシンを使って、マシンを操り、マシンが走る」という狭義の「走り」への意識を、
「走り屋意識」とすると、
15、6の時期の私の意識は、「走り屋意識」ではない。
故にこの時期の私の意識は、
まず、「道具」との結びつきを持たない。
かつ、具体的なステージとの結びつきを持たない。
だからこれは、「マラソンランナーであった同級生」にとっては「具体的なアイデンティティー」といえたのであろうが、
「私」にとっては「宙に浮いた意識」でしかない。
もちろん、この「宙に浮いた意識」が、後に、多摩湖道という具体的ステージと結びつき、「私」に「走り屋としてのアイデンティティー」を形成する。
いってみれば、「私は日本人である」という意識と同じく、「私は多摩湖道の走り屋である」という意識付け・自我同一性なのである。
しかしながら、冒頭にも書いた通り、私は免許取得時に、「走り屋としての意識」を有していなかったし、当然に、「走り屋としてのアイデンティティー」も持ち合わせていなかった。
そんなことだから私は、
多摩湖道において「多摩湖道の走り屋」として「アイデンティティー」を形成、
「青梅街道の走り屋」として「進化」し、
群馬エリアに拡大・精通することで、「首都圏一の走り屋」=「日本一の走り屋」と「成り」、
「私が最速の象徴となるべく世界制覇を目指す」という、
「伝統主義者の走り屋」としての、
多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「あるべき駆け出し」をすることが出来なかったことは、実に悔しいことである。
しかしながら私が、「伝統主義者の走り屋」として、
多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「あるべき駆け出し」をするためには、
私は免許取得前に、「走り屋としての意識」を持っている必要性があったのである。
(以下、同道巡り)