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猛走峠のブログ一覧

2009年10月11日 イイね!

R伝説の文芸性と戦区移動について

R伝説の文芸性と戦区移動について文芸論は極めて感情的で主観的なのであって、文芸論に浸ることは、数の世界・スピードの世界を志し、かつそれが未熟な今の私には危険なことだ。

しかし、ここで忘れずに言っておくべきことは、
多摩湖道は、「周回コース」であって、
概ね平坦であって、
峠ではない。
だから、100%全力で走るよりも、
70~80%の力で走る、ということが大切なのである。
それは、「こういう傾向のコース(宮が瀬などでも)」一般に言えることだと思う。

さて、

多摩湖道のお話についても、本来ここから先が、もっとも文学的で文芸的で、もっとも伝説的なところなのだけれども、残念ながら、技術的理由によって、「戦区?」を多摩湖道から、移動させる必要性がある。
それこそ私たちは、「走り」を「ショー」として行っているわけではないし、そろそろ「地域」「アイデンティティーの形成過程」「母校に当たる場所」から議論を卒業させて、技術論を展開させてやる段階」なのだ。
ちなみに私は、当時、多摩湖道をホームコースとしていた「マラソンランナー」の間君(既出)(今から思うと「全くの同志」+「数理的思想の同業者」)から、一緒に行った「卒業旅行」で絶交されている。
そういう話は、次以降のステージでするのがふさわしい。

(で、昨日の会話の続き)
   自分「(前略)・・・とまあ、多摩湖道ってのは、昔は多摩湖サーキットって呼ばれてましてね。走り屋の聖地だったんですよ。」
英子先生「あー、懐かしいね。生前、私の夫がよく行ってました。若い頃の話。結婚して間もない頃に」
   自分「えっ?旦那様が?(結婚後まもない頃?年代的に言って昔過ぎる・・・?)」
英子先生「ええ。」
   自分「ご子息の“よしのり先生”(←平成元年で当時19歳くらい)の間違いじゃなくて、ですか?」
英子先生「よしのりが若い頃なんて、あんなところに走り屋なんて、あんまりいなかったと思いますけど。主人が若かった頃の話。ロータリーとか、ハコスカとかそういう時代でねー」
   自分「はあ。で、旦那様は多摩湖サーキットについてどうおっしゃってました?」
英子先生「ええ、道幅が凄く広くて、200キロに届きそうなくらいまで回してけるような、速いペースの道路だって言ってましたよ。ハコスカGT―Rとか、RX―3とかで」
   自分「高速セクションってことですか。あのー、RX―3って?RX―7の間違いですよね?」
英子先生「え?男の子なのにRX―3知らないの?」
  自分「すみませんねー、自分、車の知識は皆無なんですよー汗。自分が走ることばかり考えてて」
英子先生「じゃあ、キミが言う、多摩湖道の伝説って、あんまり信用できないね。」


とまあ、主に伝説的かつ文芸的な話であるわけだが、ここで入手した新たな情報によって、「いにしえの伝説」に対して新たな推論が成り立つのである。

<40年ぐらい前まで>
この周回道路は、成り行きによっては、ニュルブルクリンクと同じ境遇となる可能性があったのではなかろうか。つまり、40年ぐらい昔には、道幅は今の倍以上あった。

<第一次走り屋対策>
それを、「自転車道」を作ることによって、自動車道を半分以下に縮小した。
「第一次走り屋対策」といえようか。
これによって、ストリートファイターたちの走行速度は急速に低下した。

<第二次走り屋対策>
「ハチロク物語」の「夜間閉鎖」は「第二次走り屋対策」であろう。

<第三次走り屋対策>
そして、ハンプ、キャッツアイ、センターポールは、「第三次走り屋対策」なのではないだろうか。

要は、
「第一次走り屋対策」の前は、ここが市街地化する前は「公道サーキット状態」であり、それこそ、「ふもと」の武蔵村山で生産されたGT―Rの牙城だったのではなかろうか。
ただ、ここで、公的意思決定は、市街地化に伴って、「ここで走ることは許さない」となったのである。
対して、ニュルブルは、市街地化よりも「走り」に特化し、ついに、公道を「自然発生型サーキット」として、完全なる走りの場と化してしまった。

つまり、この道は、ニュルブルの類似スポットだったのであり、考え方の違いから市街地化への道を歩んだ。
かつ、ここは、我々、日本の走り屋の多くの心の中に語り継がれる、「R伝説」(GT-Rとこれを駆る、勇猛果敢なストリートファイターたちの伝説)のまさに中心地だったのではなかろうか。

伝説は、常に我々の眼前に、強烈な光を放って輝き続ける。
そうあってほしい。
しかし、多摩湖道のR伝説は、人の心の中にだけ語り継がれるものとなった。
現実の存在としての多摩湖道は、
それこそ、
間君たちマラソンランナーの世界となり、我々、走り屋のものではなくなったのだ。

目の前に、明確な形で現れる現象は、光の拡散と共に雲散霧消してしまう。
従って、ヒトの心の中にだけ刻み込まれてゆき、そのヒトの行動に影響を与えていくものとなる。
唯一プロットできる存在が数理的・現象事実であるが、
これの正確性の向上には、少なくとも未熟な今の私の感性のままで、
文芸的感性、言い換えれば主観的な世界への没頭は、私の感性の中の「ものさし」を、文学的かつ主観的なものへと、大きく狂わせる気がしてならない。

英子先生「え?男の子なのにRX―3知らないの?」
  自分「すみませんねー、自分、車の知識は皆無なんですよー汗。自分が走ることばかり考えてて」
英子先生「じゃあ、キミが言う、多摩湖道の伝説って、あんまり信用できないね。」

私の感性の近況は、
多摩湖道において、
偉大なる先人たちが創り出したR伝説に巡り合いかけているのだが、
今、この伝説の世界に私の思考を振り向けていくことは、
「数の世界を追い求める走り屋としての自分」と、「数理計算の世界を職業的に追い求める自分」、
つまり、未熟な今の自分の全てに恐ろしい負の影響を与える気がしてならない。

卑近な言い方をすれば、自身の体から入力されたドライビングインフォメーションから離れて、自分の直接的体験から離れて、偉大なR乗りの先人たちに、想像によって感情移入することになる。
本来、それこそが、もっとも文学的で、もっとも伝説的なところなのだけれども、
私の技術論的感性の理由によって、自身の体験とドライビングの技術論と密着させておくために、
多摩湖道から、ステージを移動させる必要性がある。

英子先生「え?男の子なのにRX―3知らないの?」
  自分「すみませんねー、自分、車の知識は皆無なんですよー汗。自分が走ることばかり考えてて」
英子先生「じゃあ、キミが言う、多摩湖道の伝説って、あんまり信用できないね。」

この現状は、何とか回避しなければならない。
現状はどうだ?走り屋、失格だ。
謎が、少しばかり魅力的に深まったところで、多摩湖道から離れよう。
Posted at 2010/03/17 07:20:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 多摩湖道 | 日記
2009年10月10日 イイね!

波瀾

波瀾多摩湖道の現在が、ハンプ、センターポール、キャッツアイといった「走り屋潰しアイテム」のオンパレードで、「ストリートファイターお断り」という強固な「条件」が付いていることは再三書いてきた。

故に、スピードトレーニングは許容されないこと(交通量と進んだ市街地化からみてもいうまでもなかろう。)、
せいぜいが「コントロール能力の鍛錬」という、普通のドライブレベルの行為しか許されていないことは再三強調してきた。

しかし、いま一度、ブレーキングトレーニングの話を書くことをお許し願いたい。

走りに対するこの道の特徴は、「ABSがとにかく介入しやすい」ということだ。昨日そう書いた。

ハンプによって、車両が少し浮き上がるわけだから、当然といえば当然だろう。
ただ、ここには、二種類のハンプが存在する。

ひとつは、「ゴン!」「ゴン!」「ゴン!」と大きな音を立てて車全体が跳ね上がる、印象的・単発的に設けられたハンプ。
「波長」は5~10メートルくらいか。

もうひとつは、「ボゴゴゴゴゴゴ」「ボゴゴゴゴゴゴゴ」と波打ちはするが、高さが低く、衝撃は無いが、連続的に設けられたハンプ。
こちらが一般的なハンプ。
今日の画像のハンプもこちらのタイプ。
「波長」は50センチくらいだろう。

両方のタイプ共に、ABSは介入しやすい。
少しでもハードブレーキングすれば介入する。
ただ、前者は、ブレーキング状態にあると即車輪ロック、ABS介入、ラインが膨らむ、コーナリング困難、となる。
後者は、そっとブレーキングしている分には、車輪ロックもABS介入もない。

そのため、
前者では、凸のない部分を狙って、「ギッ」「ギッ」「ギッ」とハードブレーキング、それぞれの部分で15キロずつ落としていくのを目安とすべき。
後者では、ブレーキング距離を長くとって、ソフトなブレーキングを心がける。

いずれにせよ、少しでも「攻める走行」にとっては、ABSの介入は、普通の車の、普通のABSでは、安定性にとっての邪魔者でしかない。
しかし、(ここからは個人的感想だが)ABSは、タイヤがロックするよりも随分手前の状態で介入するようになっているため、相当の安全マージンを残した上で「練習」が出来ることが良い気がする。

それこそ、「ドライビングトレーニング」の本には、
「うまくなりたければABSはキャンセルしよう」
「ABSのヒューズは抜いてしまおう」
「ヒューズの線を一本抜くだけなのだから」
と、ABSレスを推奨しているものが、多々見受けらける。

その是非はともかくとして、
すくなくとも、こうしたハンプ路面においては、「リスク」が増大するような気がしてならない。

また、こうしたわけで、この道では、ブレーキング回数がともかく多い。
右足でアクセルとブレーキを踏み分けるやり方は、
(私の場合、)それこそ、「3週間目」には、「これではダメだ」と思い始めていた。
「4週間目」には、「左足でブレーキを踏む」という行為に手をつけ始めていた。

そういうわけで、「4週間目」には、「ライフサイクル(夜の闇を求める)」と、「運転教本に反する」という二重の意味で(ひょっとするともっと多重の意味で)普通の多くのドライバーから逸脱していったのである。

(注) 「3週間目」「4週間目」・・・9月のブログまたはブログカテゴリー「走り」を参照。

ただ、こうした、ハンプ道の攻略方法については、大先輩方のご意見も伺いたいところである。

と、まあ、いままで多摩湖道の話をさんざん書いてきたわけだが、
最近私は、自分が今までこのブログに記してきたことの大半が無に帰するほどの、衝撃的な情報を、比較的身近な人物から入手することとなってしまう。

多摩湖道の話を「英子先生」(10/1ブログ参照。)と少しばかりしていたときのことだ。

   自分「(前略)・・・とまあ、多摩湖道ってのは、昔は多摩湖サーキットって呼ばれてましてね。走り屋の聖地だったんですよ。」
英子先生「あー、懐かしいね。生前、私の夫がよく行ってたね。若い頃の話。結婚して間もない頃かな」
   自分「えっ?旦那様が?(結婚後まもない頃だって?年代的に言って昔過ぎる・・・?)」
英子先生「ええ。」
   自分「ご子息の“よしのり先生”(←「アラフォー世代」)の間違いじゃなくて、ですか?」
英子先生「よしのりが若い頃なんて、あんなところに走り屋なんて、あんまりいなかったと思うけど。主人が若かった頃の話。ロータリーとか、ハコスカとか(以下略)」


次回、私が今まで、多摩湖道について、このブログに記してきたことの大半は無に帰することとなる。
昨日まで、ニュルブルの画像を出していた理由も明かされる。
私の頭の中で謎が強烈に深まり、それは多摩湖道に「R伝説」が見え隠れしたことなのであって、
本来ここから先が、もっとも文学的で、もっとも伝説的なところなのだけれども、残念ながら舞台は多摩湖道から、いったん離れることとなる。
技術的理由によって。
次回、多摩湖道・第一部は、驚愕の結末を迎えることとなる。
Posted at 2009/10/10 03:23:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 多摩湖道 | 日記
2009年10月09日 イイね!

変遷もしくは摂理

変遷もしくは摂理舞台を多摩湖道から他のステージへ移してやる必要性がある。
そこで、一応、「(私と)多摩湖道」の「第一部」を、編年体的にまとめていってやる必要性があるということは前に書いた。

まず、多摩湖(村山貯水池)が建造されたのが、
大正13年(1924年)。


「ハチロク物語」の作者が、ギャラリーしに行って、「こわっ」と感じたのは、
昭和63年(1988年)。
従って、ストリートファイターの全盛期も
1988年とみてよいだろう。
また、多摩湖道が夜間閉鎖されたのも
1988年。
計算上、私はこの年、5才くらいであったわけで、
この道は、昼間に、家族の車の後部座席で見ていたに過ぎなかったはずであったろうし、
また、この年齢のとき、私はここをそうそう頻繁には通っていなかったと思われる。

平成初頭、1990年代の私と多摩湖のお話(蛇足だが)。
小学生になると、学校行事で「歩け歩け大会」なるものが存在した。
この多摩湖まで、高学年になると13キロほどを、途中、水分補給を原則禁じられて歩き通す、というものだった。
(今から考えると、このときの教師たちが恐ろしい「技術的誤認」をしていたことに気づく)
ゴール地点がこの場所であるわけだが、それは1990年代のことであるため、「ストリートファイター」なるものには、時間帯的にも、時期的にも、重なるところはない。
とはいえ、毎年、脱水状態になってゴールし、湖面を見渡す堤防の場所に到着したときの記憶は今も鮮明である。
この時期の「多摩湖の記憶」が、私の深層心理を形成しているかもしれないが、それは、「走りの技術論」には直接は関係してこないだろう。多分。


また、家族でもよく来た気がする。

2002年くらいであった気がしているが、
どの年だったろうか、桜がひときわ盛大に咲いた年があった。
このときに堤体から見た村山下貯水池の湖面は、未だに記憶に鮮明だ。

私が、ここで「ドライビングトレーニング」を始めた、書き出し(走り出し)は、
平成18年(2006年)のことである。
したがって、ここまで書いてきた「トレーニング」の話は、殆んどが
2006年の話と思ってもらって構わない。

この時期の「私」と「クルマ」について書き記すと、両者共に「フルノーマル仕様」であった。
だから、タイヤもホイルも新車装着時と同じ、ノーマル仕様である。
これは、グリップが少ない分、「許容性」に富んでいるといってよい。
つまり、ノーマルタイヤであった時分には、キャッツアイを踏んだところで、ガタンと衝撃が襲うだけで、その他には「何も起こらなかった」。
つまり、タイヤが壊れてしまうことはなかった。

また、キャッツアイに触れる=タイヤ破損という速域までもっていくには相当の度胸が必要だろう。
すぐにコーナリング不能になるのだから。
少なくとも私には、それほどの度胸はなかったし、「走り屋」という意識自体がなかった。

今は、ハイグリップタイヤであるため、その点では比較的高い速度でも、コントロールが可能だ。
しかし、そのしっぺ返しとして、コーナリングミス→キャッツアイにヒット→タイヤ破損となってしまう。

そのため、履いているタイヤは純正で、しかも速域もまだ低かったため、キャッツアイにもただ「乗り上げる」だけで、「側面ヒット」のようなことはなかったのである。

再記だが、「夜間閉鎖」は解除されている。
ただ、それは、ハンプ、センターポール、キャッツアイといった「走り屋潰しアイテム」が設けられたことと引き換えであり、「ストリートファイターお断り」という、「条件付」の夜間閉鎖解除だといえよう。

だからして、確実なコントロールがもとめられるわけであり、
自分がここで行うことが「(神の目からみても)許容されている」のは、コントロールトレーニングだけであって、スピードトレーニングではないようだ。
反するときは・・・、制裁が下る(笑)。(9/30のブログ参照)


時折「奥地の峠」のように霧が出やすい、という気象条件は、このワインディングに「峠」としての気分を演出させるものである。
こうした雰囲気論・感情論以外、
走りに対するこの道の特徴は、「ABSがとにかく介入しやすい」ということだ。
ここから発生する、さらなる技術論は明日に「延期(?)」。
Posted at 2009/10/09 01:42:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 多摩湖道 | 日記
2009年10月08日 イイね!

オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!

オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!今日の東京は、未明から午前にかけては台風18号が襲来していたが、午後は台風一過。
久しぶりに太陽の姿を目にする。
写真のような雰囲気の、秋の夕暮れに久しぶりにお目にかかる。
多摩湖道の木々が写真の景色ぐらいに色づくのは、まだもう少しだけ先のことである。
(何ゆえにニュルブルの写真を用いているのかは、今日のところは触れずにおく)






缶コーヒーを飲み終わると、俺は叫んだ。
「オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!」
自分の心の中に。
自分の心の中だけで。
自分の心の中だけで叫んでいる点が、平成元年頃の大阪環状族との大きな違いであろう。

だが、坂の上の周回路に上がる前、自分は心の中に、平成元年頃の大阪環状族に劣らぬ程度の気合を入れることにしている。

自分は、実に「感情的な魂」の持ち主だ。
私の「魂」は、実に「雄叫びを上げることが多い魂」といえよう。
しかし、「走り屋」とは、「ドライビングスキル」という、「機械的技術」を追い求める者だ。
特に「スピード」の分野の住人である私は、「速さ」「数」を追い求める者であるから、
特に「感情的な魂」を度外視して、機械的に活動しなければならない。

相当な懐古趣味人間で、伝統主義者で、カタブツな、「走り屋としての私」の、「感情的な魂」が、
多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「正統的順序」をいくら叫ぼうが、
現実の走り屋としての、現実の技術的活動の前に、
嘲笑われ、否定されるのみである。

現実の、特にスピードを求めるグリップ派の走り屋の活動とステージ選択は、極めて散発的、かつランダムなものであって、非感情的なものである。

時間の都合がついたとき、自分のコンディションの良いとき、車のいない曜日・時間帯を見つけて繰り出す。走り屋の活動というのは、常に、現実の技術的要素と相談しながら行われる、「業」なのである。

ここに、「感情」が介入する余地はない。

具体的にいえば、
「飛ばしすぎじゃない?」
「ごめん、そういう気分なの」
とか、
「RX-7乗ったら~(中略)スピード出したくなっちゃってー♪」
とか、
一時の感情でスピードを追求するわけでは、決してない。

業として、
ある意味では仕事として、
物理的要素と相談しながら、夜の峠道の闇の中を、黙々と走るのである。
そのことは反面、刹那的快楽から、もっといえば、思想信条や個人的信念から逸脱してゆくわけであって、しまいには「死んだような目の人」になってしまう危険性をもつ。

しかし、この状態こそが「解脱した状態」なわけである。
私もまた、「解脱した状態」になれることを望んでいる者である。
だが同時に、「魂の叫び」を大切にしたい。
つまり、自己の魂が完全に「矛盾した状態」になっており、その解決を未だつけられないでいる。
このブログは、そうした矛盾状態に関する吐露でもある。

とりあえず、数の世界を求める走り屋として、ステージの選択についても、多摩湖道→奥多摩→群馬という、走り屋としての「美学」・「感情論」からは離れなければならない。

自分の技術を向上させるために、空き時間を見つけて、せっせと峠に繰り出す。
せっせと練習する。
だから、繰り出す峠も、テンでバラバラ。
いろいろな場所にそのときごとに繰り出す。
それだけだ。

しかし、これでは、回想していく上で、不都合が出る。
記憶が、話しが、つながらない。
そのため、ステージは一箇所にある程度固定させておく必要性がある。
それなら、回想においては「走り屋の美学の順序」に配列したい、という欲が出ている。

だが、数の世界に生きる者として、その欲に従うことさえも許されない。

走り屋の世界、しかも、私が志す、スピード(数)の世界では、
極力、感傷的・文学的な表現はあえて避けるべきで、構成や話の運び方においてこそ、それは避けるべきとなろう。
だから、話の運び方は、技術的なつながりをベースとして舞台が移動してゆく必然性がある。

舞台を多摩湖道から他のステージへ移してやる必要性がある。
そこで、一応、「(私と)多摩湖道」の「第一部」をまとめていってやる必要性があろう。
しかし、これも、技術的な話を放り出して、文芸的な話をするわけにはいかない。

まず、多摩湖道が私に与えたドライビングに関する影響からだ。
端的には、「アクセルを抜かない」ことと「左足ブレーキ」である。
この話の続きは次回。

また、「オラー、環状あがっぞー!気合いれーッ!」については、あくまで、気合を入れる→集中力が増す→さしずめ、「安全対策」に過ぎないのである。
なんとも虚しい思いがするが、それが、数理的技術に生きる者の悲しい性(さが)なのである。
Posted at 2009/10/08 23:31:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 多摩湖道 | 日記
2009年10月07日 イイね!

アイデンティティー&エボリューション

アイデンティティー&エボリューション私は、「伝統主義者の走り屋」としての「あるべき駆け出し」をすることが出来なかった。

 今日の文章は、
「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがありました」
そういう世界観である。前近代的な世界観がベースである。

「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました」
こういう表現の、登場人物にセルフコントローラビリティーがある、近代合理主義的な世界観しか理解できない方には、どれほど優秀な技術を持っている方でも、いまから私が話すことは、決して理解することが出来ないであろう。


 次のステージは宮が瀬。
これは確定事項である。
しかし、それは、「走り屋としての私」の「魂の叫び」からすれば、実に不本意なことである。

「走り屋としての私」、しかも、相当な懐古趣味人間で、伝統主義者で、カタブツな、
「走り屋としての私」が、多摩湖道からほかのワインディングへと話を移すのならば、
そこには、常道、いや、本来ならば絶対服従すべき、「順序」というものが存在する。

端的には、多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「順序」である。

しかし、「現実に生きる走り屋」としての私は、
不本意ながら、
誠に不本意ながら、
この「順序」に服従することができなかった。

この「あるべき順序」と「不本意」を詳しく吐露しよう。

 いままで、「多摩湖」と、その周回路をしきりに強調してきた。
そのため、この人造湖が、ある種の「ヌシ」であると感じた方が多いであろうし、私はそう感じている。
そうなると、この周辺部に巣食う者のひとりである私もまた、
この「ヌシ」、
もっといえば、これらを創り出す「創造主としての人間集団の意思」と同じ系譜を辿ってゆくのがあるべき姿だろう。
私はそういう気がしているし、
自分も本来はそうありたいと思っている。

 相当に慧眼な方は、このような、大多数には理解不能な表現を用いただけでも、
私が何を語りたいのか、正確にわかってしまうことであろう。
しかしながら、そうした曖昧表現の放置は、
不明確さを排除し、感覚を言語・理論・数値へとプロットしてゆくべきことを常道とする、ドライビングスキルの世界のあり方と真っ向対立することとなるのであり、
また、それは、私個人の美学とも真っ向から対立するものである。

 なので、普通の人にも通じる、端的な言い方をする。
すると、これは、「東京圏の水源地の系譜」のことを指しているのであり、
それが、多摩湖、奥多摩、群馬という順序を辿るということである。

江戸期には、玉川上水が水の供給手段であったことは有名である。
それが、大正期の東京の人口の拡大により、この多摩湖が造られることとなったのであるが、
実際問題、昭和初期に東京の拡大に対して急場しのぎにほかならず、多摩湖完成直後から、隣接する場所に、狭山湖が建造され始めたのである。
この、多摩湖・狭山湖がしばらくは、「東京の水がめ」という位置づけであった。
私の祖父母たちが若年であった頃の話だ。

昭和も中期になってくると、再び、東京の拡大とそれに伴う水不足が発生し、貯水池を新たに求めることとなったのである。
ここで奥多摩湖・奥多摩エリアが登場することになり、奥多摩湖が「東京の水がめ」と呼ばれることとなる。
私の父母がまだ子供だったころの話だろう。

昭和後期になって、「東京圏」が大きく拡大し、利根川水系に水を求めるようになると、群馬県の山あいにダムが建設されるようになっていく。
私が生まれる少し前の話であろう。ここで、「群馬エリア」の登場である。

故に、「走り屋としての私」「私の走り」という存在を、「多摩湖エリアに巣食う者のひとつ」として定義づけたのなら、
「走り屋」としての私の経歴は、多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという段階を踏むことが、どうしても求められるわけである。

 しかしながら、これがあくまで、現実の行動パターンと照らして、空想上の理想論に過ぎないことは一目瞭然であろう。

また、自分の行動をこれに合わせようとしたところで、
現実に「私」がこのような「段階」を踏んで走り屋としてのスキルを上げていこうと目論むのだとするなら、免許を取得したその日、あるいは免許を取得する以前から、「走り屋意識」を持っていなければならない。

たしかに、現在の「走りの技術的意識」に直結する価値観が形成された時期は、自分が15、6歳の頃、高校1年の時期である。
そのため、走りの技術論を深くしてゆくと、どうしても、この年齢期の意識、しかも、明らかにコンプレックスの要素を曝け出さなければならなくなるわけだが、いずれ、避けて通れないことになるだろう。
そしてそれは、たしかに、「走り」に対する根底的意識なのであって、自分の魂に深い傷となって刻み込まれていて、確かに自分の「走り」に対する意識の中で、本質的にして根源的なことなのであるけれども、技術的な話に直結したことである。

とはいえ、「一般論としての走り」そのものに対する抽象的意識なのであって、「マシンを使って、マシンを操り、マシンが走る」という狭義の「走り」だとはいえない。

だからして、「マシンを使って、マシンを操り、マシンが走る」という狭義の「走り」への意識を、
「走り屋意識」とすると、
15、6の時期の私の意識は、「走り屋意識」ではない。
故にこの時期の私の意識は、
まず、「道具」との結びつきを持たない。
かつ、具体的なステージとの結びつきを持たない。
だからこれは、「マラソンランナーであった同級生」にとっては「具体的なアイデンティティー」といえたのであろうが、
「私」にとっては「宙に浮いた意識」でしかない。

もちろん、この「宙に浮いた意識」が、後に、多摩湖道という具体的ステージと結びつき、「私」に「走り屋としてのアイデンティティー」を形成する。
いってみれば、「私は日本人である」という意識と同じく、「私は多摩湖道の走り屋である」という意識付け・自我同一性なのである。

しかしながら、冒頭にも書いた通り、私は免許取得時に、「走り屋としての意識」を有していなかったし、当然に、「走り屋としてのアイデンティティー」も持ち合わせていなかった。

そんなことだから私は、
多摩湖道において「多摩湖道の走り屋」として「アイデンティティー」を形成、
「青梅街道の走り屋」として「進化」し、
群馬エリアに拡大・精通することで、「首都圏一の走り屋」=「日本一の走り屋」と「成り」、
「私が最速の象徴となるべく世界制覇を目指す」という、
「伝統主義者の走り屋」としての、
多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「あるべき駆け出し」をすることが出来なかったことは、実に悔しいことである。

しかしながら私が、「伝統主義者の走り屋」として、
多摩湖エリア→奥多摩エリア→群馬エリアという「あるべき駆け出し」をするためには、
私は免許取得前に、「走り屋としての意識」を持っている必要性があったのである。

(以下、同道巡り)
Posted at 2009/10/07 03:25:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 多摩湖道 | 日記

プロフィール

「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
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