
多摩湖道「最速時代」の追憶
多摩湖道は、お世辞にも「広い」とはいえない。
比較的広い区間であっても、片側一車線ずつなのであるから、ラインが限られる。
しかも現況はキャッツアイで両側を締め付けられている。
このブログでは何度も、こうした多摩湖道の性格を記述してきた。
また、仮に、このキャッツアイが無かったとしても道幅と、カーブが殆んどの、細いターマックが続くツイスティーなコースであるという状況には何ら変わりない。
すると、ここで速度やタイムを追求するには、恐怖心というものを全く度外視する精神と、それを「単なる自殺行為」から離脱させるものとしての、確かな技術が必要である。
ここで、どうしても、この細くツイスティーなターマックコースで、ストリートファイターたちが活発な活動を繰り広げていた時代、言い換えれば多摩湖道の走りが「最速」であった時代の話に触れておかねばならない。
多摩湖道が「走り屋潰しアイテム」によって覆いつくされる前のはなし。
夜、毎晩のごとくにストリートファイターたちがこの場所を攻めた記録が見受けられる。
ここからは、「ハチロク物語」http://homepage2.nifty.com/AE86/profile/profile.htm
の記述を引用、これに呼応する形で話をすすめてゆこう。
「ハチロク物語」によると、作者がAEハチロクを手にしたのは、1988年春。
それから、
「友人に連れられて、通称多摩湖サーキット(注2)に行ってみます。
多摩湖沿いのすれ違うのもギリギリのコースです。
当然、はじめはギャラリーです。
KP61,B310など軽量車が多かったですが、なんなんだこの速度は?!、と初めて走り屋というものに触れた瞬間です。
こわっ。
とっても追いつけるレベルではなかったのですが、事故の多発しているのもあり、いつしか夜間閉鎖となってしまいました。
でも、その近くに少しコーナーがあったのでせっせと練習していました。
(注2)多摩湖北側の西武遊園地から西武球場に抜ける道。いまはどうなっているのかな。
多摩湖も行けなくなったので、今度は友人とともに大垂水へ行くようになりました。」
こうした記述に続いて、その直後くらい、1989年1月にこの方はクラッシュしている。
ここから推察すると、多摩湖道でストリートファイターが活動していたのは、せいぜいが、1988年の秋までということになろうか。
その後、まもなくして(1988年のどこかのタイミングで)、夜間閉鎖となっている。
ハチロク物語作者による(注2)「多摩湖北側の西武遊園地から西武球場に抜ける道。いまはどうなっているのかな。」の記述。
私の今日までのブログは、この問いかけに答える形で展開されてきたといってもよい。
また、「夜間閉鎖」となっているとのことであるが、現況として夜間閉鎖にはなっていない。
道路を閉鎖をするための物理的なゲートの姿も確認できない。
一応、通行帯指定の道路標識として、23―5時は入っていってはいけないことになっているのだが、現在この道は、トラック輸送等を含む、24時間の生活道路として完全に機能しているため、この標識に、人々の生活実態から言って、実効性があるとは思えない。
したがって現在、夜間閉鎖は解除されているとみてよいだろう。
その代わりといっては何だか、この区間については、ハンプとキャッツアイが絶え間なく設置された「走り屋潰し区間」となっている。
こう表現することで、「ハチロク物語」の問いかけに応えたこととしておこう。
ただ、「ハチロク物語」の記述には違和感があって、「すれ違うのもギリギリのコース」という点は「多摩湖北側の西武遊園地から西武球場に抜ける」区間についていえば当てはまらない。
この区間は、多摩湖道の中で最も幅の広い区間である。拡幅工事が行われたのだろうか。
しかしながら、この広い区間がまさに、キャッツアイによって、車幅の両側を締め付ける区間となっているのである。
関連サイト
ハチロク物語http://homepage2.nifty.com/AE86/profile/profile.htm
Posted at 2009/10/02 02:22:46 | |
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