
東京⇔福岡のロングツーリングの総まとめとして言えることで、かつ、ヤビツ峠を駆け抜けることと共通して言えることは、
「体力」である。
現在の自分の、長距離に対する、無理のない「走行体力」は、1日600kmぐらいである。
それが、一番適切であるようだし、これを超過すると、大変な疲労に見舞われることになるようである。
また、ひとこと、忘れずに書いておきたいのは、「未知なる区間」は神戸⇔福岡だけであったということ。神戸までは、今回までに、何度も行っていたわけで、
神戸は、丁度一年くらい前に行ったし、名古屋に至っては、もう何回目だろう、今年に入っては、三回目だった。
しかも、神戸も名古屋も、「泊まったことのあるビジネスホテル」に泊まったわけで、初めて行く場所ではないのだ。
決して、「無謀な作戦」を立てているわけではないし、自分は、そういう、無謀に近いほどの勇猛果敢な人間ではない。しかし、そういうことだから、ここまでにかけたガソリンの値段は、半端じゃないだろうし、「速さ」が「すぐに現れる」という点においては、「有望」ではないだろう。
しかしながら、「人並み外れたしつこい性格」というのが、
たぶん、
「多くの人間には嫌われるけれども、クルマには愛される」
ということは言えると思う。
きっと、私の手にかかれば、クルマは、エンジンやモーターがぶっ壊れることを寸分もためらわず、私に速さを捧げるために、私のために玉砕・散華するために、必死に走り続けるようになる、と思う。
また、「体力」も向上させていくために、その観念があるわけだけれど、
残念ながら、こうした「ロングツーリング」の機会は、しばらくないだろう。
自分は専業の走り屋ではないため。
とはいえ、このツーリングの話も、今度、どこかで、少しだけ「一般論的に」出すかもしれない。
いずれ、東海道における最速追求の歴史や、それに関わる闘争行為についても、語ることを避けて通れないだろうから。
さて、ヤビツ峠については宮が瀬側、しかもドリフトの話の割合が高かったので、すでに、「キミの好きなドリフトが~」などと、激しい誤解を受けている。
しかしながら、自分のヤビツ峠に対する思いは、「走り抜けること」である。
いま秦野側にいる。
これから、宮が瀬北原へと戻っていく。
道の上の電光掲示板には、
「菜の花台から先、ガケ崩れあり注意」と書いてある。
さっき来たとき、がけ崩れなどなかったし、パトロール系の車が入っていったカンジもなかったから、おそらく、単なる注意事項だろう。
まず、表ヤビツを登る。
ハイパワーカーではないので厳しい。
アクセルをすぐに踏み切ってしまうも、あまり速度がのらない。
「すりばち状」カーブのカンジを出そうとして、写真をアップするも、あまり表現できていない。もっとカーブに斜面がついている。しげの師の描画の方がカンジが出ている。
(もっとも、「時間配分」については、未だ、不自然・長すぎな気がするが)
頂上付近では右手に夜景。
見るのもつかの間、すぐに立ち去る。
「Y峠の秦野側の中腹の展望台で車に乗ったまま夜景を眺めていると霊に足を捕まれる。その後、運転手が行方不明になってしまうらしい」
こういう噂があるからだ。
道が細くなっていって、裏ヤビツ。
そうするとそろそろ、先ほどの、シカがいたエリアまで、戻ってくる。
シカは・・・、このカンジはまだいる・・・。
たぶん、まだいる。
ギアをニュートラルにし、空ぶかしをする。
10秒ほど、カーブの向こう側に音を響かせる。
もう一度、ギアを入れ、
ギアを落とし、アクセルをベタ踏み、回転数を上げ、排気音を響かせつつ走る。
カーブに入る前、ブレーキを少し強めに踏み、
カーボンセミメタルがローターを削る音を響かせる。
こちらの接近を予め奴らに教えておく。
古来から、「馬」と「鹿」が衝突すると、大変なことになる。
そう、「馬」と「鹿」はぶつかってはいけないのだ。
だから、「バカ」という言葉には「馬鹿」という漢字を当てたといわれている。
そもそも、「バカ」とは、
「まるで死んだみたいだ」という意味であり、
その根本的な語源は、
死を司る神「バー」と再生を司る神「カー」に由来する。
だから、大昔、「バカ」という語には、今よりもさらに重い意味があり、
「死」(バー)と、
さらにその向こうに「何かわからない再生?のゾーンが始まる?」(カー)
という意味の併せ言葉だった。
これが、わが国の街道用語に取り込まれ、走る道具の「馬」と野生動物の「鹿」とをあわせ、「馬鹿」という漢字を用いて、「事故」とか「衝突」を意味させるようになった。
これが、一般に広まることによって、少し異なる、現在の意味になったのだ。
とはいえ、現在では、街道交通の「主力」が、
「馬(バ)」から、古代、引っ張られる物を意味した「貨(カ)」に変わっている。
正確には、「貨」の中に「馬」が取り込まれてしまったというべきか。
(「馬(バ)」は今で言うと、「トラクター」の意味で、「馬力」という表現はこの名残である。)
それだから、「貨(car)」と「鹿(カ)」の「本質発音」での区別が出来なくて紛らわしい。
「貨(カ)」というのは、ちょうど、「トレーラー」と同じ意味で、これはユーラシア大陸東方での言い方だった。現在の言葉で、「車(シャ)」というのは、この「貨」が引っ張られるために回転する部分を言った。つまり車輪のことだ。
「貨(カ)」という呼び名が、ユーラシア大陸の西方に伝わったとき、「カー」という発音になまって、これがまさにcarという語になっているのだが、
不幸にして、現在の漢字表記では「車」という、本来「車輪」のみを表す語を以って、クルマ全体のことを表すようになってしまった。車全体を表す語は、本来は「貨」なのだ。
というのも、交通の発達がずっとアジア域で起こってきたのに対し、近代の産業革命が、ヨーロッパで起こってしまったということから、こうした「用語のねじれ」が多く見られるのである。
それはそうと、復路では、シカに対する「教育効果」が現れている。
ギアをニュートラルにし、アクセルを10回ほど煽って、空ぶかしをする。
10秒ほど、カーブの向こう側に音を響かせる。
もう一度、ギアを入れ、
ギアを落とし、アクセルをベタ踏み、回転数を上げ、排気音を響かせつつ走る。
カーブに入る前、ブレーキを少し強めに踏み、
カーボンセミメタルがローターを削る音を響かせる。
こちらの接近を予め奴らに教えておく。
身構えたシカたちの姿が見える。
シカたちはこちらの姿を見つけると、横の森の中にサッと身を退けて、こちらに道を譲る。
「教育効果」が現れている。
先を急いで走り続ける。
また噂話。
Y峠の至る所で霊を見ることができる。(目撃者多数)
この種の霊的噂話を書いたサイト
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/1477/miyagase.html
「原因」「起源」「歴史」「伝説」に一切言及していない、この種の霊的な話は、それこそ、「霊の世界に対する冒涜」という気がするのだが、
わかる気がする。
ずっと、至るところ、
霊が立っているような、
特に、あの木の下に誰か立っている、
そういう気がするし、
そういう雰囲気がずっーと漂っているステージなのだ。
いまにも、ライトが幽霊を照らしそうな、独特の雰囲気をもった細い道だ。
とくに、復路、集中力が途切れがちで、疲労が溜まってきている状態では、こういう心理状態になりやすい。
それと、停止寸前のだらだらとした低速の速域が、
そういった低次元な霊・幽霊と、波長が合いやすいのかもしれない。
100キロ域のハイペースな峠では、走っていると、むしろ、神々しさのような、神気の世界と波長が合ってくるものである。
道が広くなってペースを上げる。
かつて、ドリフトのソリスト達が集まったとも言われるエリアを、グリップ走行で駆け抜け、まもなく、宮が瀬北原に到着する。
それにしても、本当に疲れるステージである。
峠走行を「ウップンばらし」と称する方もいるぐらいだが、
そもそも、自分は、峠走行を「単純な快感」とは思えないし、
ヤビツ峠では、逆に、鬱憤は溜まっていく気がしている。
ここを走る動機は、それこそ「修行」でしかない。
ウップンばらし・・・
「あー、今日はイライラするー」
「仕事でヤなことがあったー」
「カノジョに振られちまったぜー」
こういう感情を吹き飛ばすための手段・・・。
ヤビツ峠を駆け抜けることが、これらのウップンを吹き飛ばす手段となるのか?
自分にはわからない。
むしろ、諸先輩方からのコメントを頂きたいところである。
これにて、一ヶ月の節目とタイミングが同じになったので、ヤビツ峠から離れる。
宮が瀬エリアについては、来月も語るけれども、「環状」の話をやりつつ、日によっては宮が瀬、ということになりそうである。