
10月27日火曜日、夕刻現在。
台風も過ぎ去ってきたのか、天候は回復。先ごろまで、吹いていた強い風は、ようやく、おさまっている。
10月25日日曜日と10月26日月曜日の、自分の「カーライフ」は、かなり荒れた。
この二日間で、「悔い改めよ!」という内容の啓示を何度受けたことであろう。
10月25日日曜日、天候は比較的良かったと思う。
千葉の「中古パーツ店」に出かける。
減っているフロントタイヤをアドバン・ネオバに変えようという試みだったが、ホイールの歪みが酷く、「バランスとれません!!」とのことで、ネオバ購入を断念。
仕方なく、後輪を前に出し、減った+ホイールの歪んだ前輪は後輪に。
(FF車は、こういう「荒療治?」が出来るからいいねえ。←ただのゴマカシという説も)
「こんな・・・ホイール歪んで・・・。何か、思い当たることはありません?」
「・・・・・」(無言)
このとき、自分の脳裏には、09月30日と10月01日のブログの件が浮かんでいた。
しかも、この「歪んだ」ホイールが、ダメージを受けたあからさまな可能性は、実は、このときだけではない。同じホイールの位置で、これ以前にも「キャッツアイにヒット」をやって、タイヤを壊していた。
この日、自分の手間の割には、前後輪を入れ替えてもらった(+ちょっとした検査)だけ。
それと、「備忘録」このときの走行距離74,942km。
(帰りの東京方面は、渋滞が激しかった。全く、このエリアは以前もそうだった気がする。)
10月26日月曜日、天候は雨。
合間の時間に、某ショップへ行く。
ここで主人にエンジンオイル+オイルフィルターの交換を依頼するも・・・、
「雨の日に、オイル交換?」
さらに彼の口からは、「悔い改めよ!!」という趣旨の発言が続いた。
自分「日本の走り屋ならば、アドバン・ネオバを知っておかねばならない!ですよね?」
主人「はあー?? で、ネオバの08?」
自分「07ですよ。08の中古は出てない。」
主人「中古タイヤー?走る気、あるの?走る気あるなら、新品でしょ。そもそも、ノーマルの足にハイグリップタイヤなんて・・・(以下略)」
ともあれ、
前日から私にしきりに発信されたメッセージは全て、
「悔い改めよ」
という内容のものであった。
さて、
画像は良くないが、宮が瀬北原交差点。
「そして、そのシルビア使いは神となる」
いままで、こういう話をしてきた。
こうした話を、
「峠の走り屋」とか、
「シルビア」とか「チェイサー」とか、
「ドリフト」だの「ソリスト」だの、
という表現を用いて言うから、極めてウソ臭く感じるのであって、
現に、多くの山の神社の御神体は、
こうした、「混同」による効果の結果として現れた、
「B」という側が「祭神」とされているのだ。
「神技」が象徴化され、
「神技」が伝承され、
「混同」が生じ、
元来、「信者」であった者が、「神」となる。
これについて、「混同」という観念を捉えた。
さらに、「正当性」ないしは「正統性」をめぐる「橋渡し」問題として、
「神技」の「象徴化」を捉えてきた。「神前の舞いとしてのドリフト」や「極限のダンシングライン」の話だ。
では、最後に、残ったのは「神技」の「伝承」という観念だ。
「神技」を媒介として、「神性」の「伝承」が自然発生的に起こってゆく。
「伝承」とは、読んで字の通り「伝え承る」、
古くからの技術やしきたりを受継いで伝えて行くことなわけで、
当然、「伝える側」と「受継ぐ側」が存在し、この関係を言い換えると、「師弟」となる。
ここで、師弟間の情報の伝え方が、即ち「伝承形式」となるわけだが、
ここには、「完全相伝」と「一子相伝」の二つの種類が存在する。
ここに、少しばかりの問題点も考えられうる。
「伝承形式」が「一子相伝」である場合には、「継承」される者は一人に限られるわけだから、「信者が神になる」ということはないだろうし、信者が神となるということは、「神が死ぬ」という恐ろしいことを意味してしまう。
通常、どこまでいっても「信者は信者、神は神」である。
そもそも、「一子相伝」の具体例は「家元制」で、
特定の力量の継承候補者に情報の全てを伝授するが、そこに「家職」としての限定条件が加わる。
ここにおける「師弟」は、「親子」であり、伝承人数は一人のみ且つゼロ。
つまり、読んで字の如く、一人の子供に相い伝えることだ。
一方で、
「完全相伝」とは、技術やしきたり等の師匠が蓄積した情報の全てを、継承を望む弟子の中からそれに見合った力量の者に伝授する形式を言います。
当然のことだが、弟子全員に伝授されることもあれば、ほんの数人から一人、場合によっては無しということもありえる。
また、伝授された情報を、そのままの形で伝承することを強制されない。
そのため、少し違った形で技が伝承されたりするわけで、伝承そのものの裁量権も与えられる。つまり、全てを継承者に授け任せる形である。
伝承に関する関連サイト
http://www1.odn.ne.jp/~cas30550/chanoyu-j/densyou.html
では、われわれ走り屋の世界、
「山のカミ」の「神技」と、ソリストとしての走り屋が発する「神技」とは、どちらの伝承関係であろうか?
それは「完全相伝」の方である。
「伝統社会」の多くが、その技の伝承を「一子相伝」としているのに対し、
我々、走り屋の世界は、「完全伝承」的な世界なのである。
そのため、「信仰対象としての神技」は、「完全伝承」によって正統に、「継承」・「象徴化」される。
ここに、「ソリストB」を以って、「峠の神A」を表現するに充分な状況が現出した。
また、完全伝承であるから、伝承を受けた者は、「一人のソリスト」だけとは限らない。
それは、「チーム」であったりする場合も多い。
こうした、神として崇められた集団を、昔から、「族」と呼称して敬ってきたのである。
「家族」「民族」「部族」という「族」の字には、こうした意味が込められているのだ。
「完全伝承」と「象徴化」によって「神技」は「継承」され、
「神」と「信者」とは一体化し、
ここに、「混同」の効果が発生する。
即ち、「神」と「信者」という関係が、解消され、
「そして、そのシルビア使いは神となる」
いままで、こういう話をしてきた。
しかしながら、ドライビング技術の観点から、とんでもない突っ込みが入る余地があった。
「ソリスト? 極限の美? ガードレールぎりぎり?
冗談じゃない!
ドリフトの技術が高いか低いかってのは、進入速度!!寄せることじゃありません!」
とか、
「舞の動線? 究極のダンシングラインを確保? そのために落ち葉拾い?
ドリフト走法に落ち葉拾いは不要ですよーだ!左右タイヤのグリップも滑る度合いも、違うこと前提に滑らすんだから。全部のタイヤ、違ったμの状態で滑らすんだから、落ち葉あろうが無かろうが、そのラインは使えるんですよーだ。ドリフト初級者でなければね!
ドリフト上級者に、落ち葉拾いは必要ない!!」
しかも極めつけは、ステージ要素からの突っ込みどころ、
「エンジンの? 回転数が? 上がり? 官能的な叫びを上げるぅ?
改造マフラーでぇ? 山一面にぃ? 排気音がぁ? こだまするだってぇ? え?
あそこはねー、近くに交番があるでしょー。ちょっとだけ市街地になってるとこ。
そんな排気音をガンガン立てて、その上ドリフトをガンガンやろうモンなら、あそこまで音がガンガン響いて!宮が瀬北原のとこ、パンダに閉鎖されて、臨検受けちゃいますー。違法改造云々って!
だからー、ヤビツ峠の宮が瀬側に、ドリフト族はいませんーっ!!」
私は狼狽した。
しかも、これが、「山岳信仰」の観点からみても、「神前の舞を奉納する者」という話を、実際には聞いたことがなかったからだ。
「実際の祭神」。
「むかしむかし、この街道で馬を走らせることは困難でしたが、彼の、神がかった、飛びぬけた乗馬センスは、この峠をアッという間に通過することを可能としたのでした」
とか、
「彼は、イノシシの背に乗り、いっときでこの峠を越えたのです。
彼が猪年生まれだったからか、そういう因果関係は今となってはよくわかりませんが、彼がイノシシを操る能力は、神がかっていて、彼がイノシシの背にムチをあてると、イノシシたちは走ることを最高の歓びとして、神明を賭して、彼のために走ったのであります」
峠にある神社の御神体・祭神について、調査してみると、こうしたケースばかりである。「木こり」とか「馬使い」「イノシシ使い」、後ろの二者は、「峠最速の神様」といって何ら差し支えない。
実際の祭神は、まさに「峠最速の神様」なのであり、
まさに、「速さの世界」「数の世界」の神様であるといってよいのだった。
「三峰神社奉納ドリフト」のような、走りにおける「美の世界」は、まだ、信仰と神の域、「神域」へは達していないのかもしれない。
「混同」の効果は発生していないのかもしれない。