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猛走峠のブログ一覧

2009年10月24日 イイね!

淵上の足→神格化の一般性(ヤビツ峠・一応・・・)

淵上の足→神格化の一般性(ヤビツ峠・一応・・・)画像は、昨日に引き続いて、山陽道(一般国道2号)の岩国近辺である。
ツーリングとか、燃費の話から入っていくんで、この画像でいいでしょう。

我が家のコルト(1300cc・NA)の、ロングツーリングにおける燃費は、
おおよそ14km/ℓと考えてよいだろう。

私の足は、淵上の足ではない。

「淵上の足(ふちがみの足)」とは、日産自動車の社員で、
「燃費の神様」
と呼ばれている淵上夏次のエコドライブテクニックのことである。

ふつうなら、ここからあと、「淵上の足(ふちがみの足)」と日産自動車の持つ技術について話すことになるだろう。
それがオーソドックスな、みんカラのブログスタイルであると思う。
しかし、このブログでやりたいのは、そういうことではない。

ここから先、少し、宗教的な話に入っていく。
このブログの価値観は、「走りそのものは、宗教的要素が強い、いや、走ることは宗教そのものだ」という類のものであるため、必然的にそうなる。

上で、「燃費の神様」という言葉を引用した。
別にこれは、私のオリジナルの言い回しではない。
「普通の言い回し」だ。
我々、日本人は、とかくこういう言い方を好む。
こういう言い方を好む「理由」について、具体的に、「峠」・「山」においてのアミニズムの事例を挙げながら、話してゆきたい。
(峠とか山とかいう話一般という点においてのみ、「ヤビツ峠」というくくりが許容されるだろう)



わが国の歴史というものは、
とにかく、長い。
とにかく、永い。

また、わが国の特殊性として、日本人の血統というものが、伝説上の起源において祖を一にしているらしいということ。
そして、それが、単なる妄想としての話ではなく、人間の遺伝子(ミトコンドリア)を調べると、たった一人の母にゆきあたるらしいと。
つまり、物証的な全人類同一起源説が、その縮図として、わが国には伝承されているらしいこと、がある。
ただ、この二者を、今、人知で強引に繋ごうとすることは、性急過ぎるのかもしれない。
それを行おうとすると、「我こそは伝統主義者」「我こそは保守主義者」と主張する論者達が、「X!」「Y!」と言い始めた、面白可笑しいテレビ画面の現状になってしまう。

では、私は、テレビのコメンテーターを笑っている場合だろうか?
いや、そんな場合ではない。
いまから私は、「我こそは伝統主義者!」と自称しながら、「X!」「Y!」と言い始めるハメになる。
これから、私は笑い者にならざるを得ない。
しかし、ここからの話は、「峠の走り屋」(「峠族」)にとって、必要不可欠なので、やらざるを得ない。


さて、
いま、峠を走る、我々を「神の視座」から、自分たちを少し客観的に見てみよう。
我々は、無神論者かつ無信論者で、現代的な価値観を持ち、かつ、相当にリベラルな感性を本質的に持っているのだろうか?

否。
全く逆だ。
我々がやっていることは、太古の昔から、人類が、繰り返し繰り返し、行ってきたことに他ならない。
だから、我々は、相当な懐古趣味で、伝統の上に、本質的には伝統に縛られて生きている者に他ならない。

それが、「マシン」という要素が介入することで、まさに、「手を変え、品を変え」という表面上の効果が発生したことで、違うことだと錯覚したような状態で、
先祖たちと全く同じことを行っていることに、
最近、私は気づいた。

「クルマ」という「マシン」に限定しなければ、
我々が行っていることは、それこそ、太古の昔から、人類が行ってきたことそのものである。

また、「クルマ」という「マシン」を使っていた時代のみという縛りをかけて見てみても、
私は、
父たちが行ってきたこと、
祖父たちの世代が行ってきたこと、
曽祖父たちの世代が行ってきたこと、
これを単に繰り返して、行っているに過ぎないという現実に気づいてしまった。

しかも、「マシン」・・・マシンの美的感覚・・・「マシンのモデリングのイデア」についていえば、もう、60年近くもそれが変わっていない、という恐ろしい事実にも、最近気づいてしまった。

50年前にアウトバーンを走っていたポルシェと、走り屋の車とを、特にリヤを並べてみる。
径の太くなった改造マフラー、横一文字にそびえるGTウイングあるいは門型ウイング。
びっくりするほど、その「ファッション・センス」は似通っている。
いや、我々の「ファッション・センス」がもう、何十年も変わっていないということを意味する。
私は、「ファッション界」「モード界」に生きる人間ではないので、こうした現象が、実は珍しくないのか、それとも、やはり珍しいのか、それがわからない。

しかし、我々は、こういう、「生きた化石のような世界」に生きる、「古い伝統に、進んで縛られているだけの種族」なのである。
したがって、「伝説」と「神秘性」を尊んで生きる種族なわけで、
かといって、「従順に信仰してそれで終わり」なのではなく、
最終的には、自らが「伝説」となり、
「神」となることを望んで走り続けているわけで、
当然、「自らが神になる」という「響き」・「自称行為」に対し、
多くの「走り屋」は何らの抵抗をも持たないし、私もそうした側の人間なのである。

けれども、
過剰な謙虚さが故に、「自らが神になる」という、響き・自称行為に対し、抵抗感を持つ走り屋・「走り家」の方々も多いことだろう。

ここから先の「混同」というテーマの話は、そういった謙虚・謙譲の美徳を持つ方々とこそ共感したいことなのである。

たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」がある。
こうした状況は、アミニズムを信仰の原型としてきた日本人は、何らの違和感も抱かない。
そして、これらの神社は、
当然にして、「山のカミ」が「御神体」として祭られている・・・そう思うだろう。
そう・・・、それでいいのだ・・・、
それでいいのだ・・・が・・・、
実は、厳密には・・・違う。

果たして、我々の中のどれだけが、この現状に気づいただろうか?
恐らく、宗教家の多くも、この「実際」に気づいていない。

たいていの峠道、伝統的な街道には、神を祭った「神社」、
こうした社の御神体は、もともとの「山のカミ」ではない。

では、何か?
「山のカミ」を敬い、これを信仰してきた「信者」、
そのなかでも「伝説的な信者」なのだ。

これが、どういうことを意味するのか?
それはまた明日以降。
Posted at 2009/10/24 14:45:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月23日 イイね!

燃費、象徴的ネーミング、日本の宗教観?(ヤビツ峠)

燃費、象徴的ネーミング、日本の宗教観?(ヤビツ峠)まず、昨日の、「もうすぐモーターショー」の話と「エコの話」に続けて、
「燃費の話」。
東京⇔福岡、片道1200km超、往復2500kmツーリングの「まとめ」が、まだ終わっていない。
ただ、ご安心を。
燃料を注いだデーターなど、きちんと保管・集計してあるのだ。
燃料を注いだ回数は、全部で9回。
量にして、177.81ℓ。
走行距離は2499kmであるから、
2499÷177.81=14.054…..km/ℓ。
つまり、我が家のコルト(1300cc・NA)の、ロングツーリングにおける燃費は、
おおよそ14km/ℓと考えてよいだろう。

・・・私の足は、淵上の足ではない。

我が家のコルトの燃費は、カタログ上、10・15モードで、20km/ℓであるので、
この「カタログ上の理論値」を、大きく下回っている。

「淵上の足(ふちがみの足)」・・・こうした象徴的ネーミングが、以下の回想・考察においてのキーとなることに留意していただきたい。


それでは、宮が瀬の回想に戻るが、
いままで書いてきたことは、決して他人事ではない。
「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

そこで、今度は、私の魂をも含めた話へと入ってゆくこととなる。

自分が、どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも、
「数の世界」を愛する者のひとりとして、
いつの日にか「最速」の象徴となりたい。
たしかに、私はこのページをそういうテーマで書いているし、
そういう目標をもって生きている。

だからして、「数の世界」「スピードの世界」「最速の世界」しか追い求めないようにとられがちだ。
だが、「それを追い求め、頂点を極めるのにふさわしい者」、
そういう者になるための通過点として、
「ドリフトの世界」「フィギュアの世界」「美の世界」「神前の舞の世界」「奉納ドリフト」というのは、
私が、日本に生まれ、ここを母なる大地として最速に至るステップを踏んでゆくのなら、
これを経験しておく必要性が、どこかの時点で出てくるのではないかとも思っている。

もっと、平易な言い方をするなら、
「速く走ることができることは、最速の走り屋としての絶対条件。
加えて、ドリフト・・・奉納ドリフトが出来て、日本の走り屋としては超一流」

そういう、「超一流の走り屋になるためのイニシエーション」として、いずれ、ドリフトという段階を踏まなければならないだろう。

それと、もうひとつ。
わたしは、
いつの日にか「悟りを開いた私」が「数の世界の象徴」となり、そして結果的には、「私」と「数の神」との混同が生ずることを望んでいる。
こう書いた。

こう書くと、
ずっと、いつまでも、「神は神」「信者は信者」ではないのか?
という疑問が呈されることになろう。

「神は神」
「信者は信者」
唯一絶対神を頂く、世界の多くの地域ではこうであろう。

あるいはまた、
「神」
「カリフ(カリスマ)」
「信者」
こういう構造をとるところもある。


では、太古の昔からの信仰形態である、アミニズムを基調としたわが国の場合はどうなるのであろうか?
ここまで書けば多くの人はもう、ピンとくるだろう。
わが国では、
「神と信者は混同する」
Posted at 2009/10/23 18:13:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月22日 イイね!

走りが帯びる宗教性と奉納ドリフト(ヤビツ峠)

走りが帯びる宗教性と奉納ドリフト(ヤビツ峠)もうすぐ、東京モーターショーが開幕する。
いろいろと新しい・・・「五年後の車」(?)を、「コンセプト」として展示するわけだろうが、
残念ながら、五年以内の私には、あまり関係ない気がしている。

ただ、「エコカー」という観念に、少しだけモノ申したい気もしている。
「エコ」というのは、とにかく、エンジンを回さない、エネルギーを使わない。
「ない」「ない!」「しない」という意識だけが強調されている。
され過ぎている。
しかし、積極的にエンジンをブチ回していくことで、結果として、エコな技術が身についてゆくのではないだろうか?
たしか、日本のエンジン技術は、そうやって、エンジンをブン回すことを徹底的におこなって、その結果として、高効率でパワーを出すことを体得し、省燃費の技術が確立されてきたのではなかったろうか。
V-TECやMIVECは、そうやって生じたものだったと聞いているし、
本来、ターボも、省燃費対策として出ていた時期かあったという話も聞いた気がする。
そうすると、電気モーターも、ひょっとすると、高高速でブン回し、400kmオーバーの最高速を求めていったその先に、「悟りの境地?」が存在しており、そこに「かつてないほどのエコを達成する技術」が待っているのではないか?
そういう気がしている。

とはいえ、
五年以内だったのならば、コルト系やランサー系の車しか乗っていないだろうし、
乗るつもりがないのであるから。
コルト系やランサー系で魅力的な電気モーター車が出るとか、
i-MIEVのスポーツ版が、驚愕するほどスポーツ走行性能に優れているとか、そういった、走りに関するインパクトがない限りは。
走りにまつわる「道具選び」には、宗教性が伴っているから。

また「走り」、これ自体については、一種の宗教性が宿っている。
宗教を、信仰スタイルを、コロコロと変える人は、極めて珍しい人であろう。
だからして、私も、車での走りを志す以上、今の同系統の車に乗り続けることが望ましい。
つまり、「自動車メーカーは変えにくい」という、少し宗教性にかかる、そういう意思がはたらいている気がする。

走りにまつわる「道具」・・・「車」の、メーカー選定でさえ、そうした「宗教性」が発生してくるのだから、
「走りそのもの」特に「峠での走り」それ自体については、もはや宗教そのものだといっても過言ではない。

今日は、意外と多くの人が知らない、D1の起源についてみてゆかなければならない。

ヤビツ峠の宮が瀬湖側のエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったという。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていた。

何のために?
速く走るために?
―こうしたドリフト走法が、ターマックにおいては「カニばしり」と揶揄されるようになって久しい。

何のために?
大勢の観客に見せるために?
―こんな暗い峠道に一体どれほどのギャラリーがいるというのか。
 しかもここは、「一本道」なので、ギャラリーが「本線」を見物するためにあがってくる「側道」「旧道」が存在しない。

では、何のために?
何のために極限の美を追い求めるのか?
―それを理解するには、「奉納ドリフト」というものを理解する必要性がある。

「奉納ドリフト」・・・それは「神前の舞」であるといってよい。
こう言っても多くの人は、ポカンとするだけであろう。

だから、それを解消するために、「有名どころ」の「類似事例」を挙げてやる必要性がある。

「明治神宫奉納コンサート」・・・これを知っている人は多いだろう。
明治神宫(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社で、
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とするため、近代日本の発展の、まさに象徴的な神社であるといえよう。
初詣では例年日本一の参拝者数を集めることで極めて有名だが、この神宮では、数々のミュージシャンがコンサートをすることでも有名である。
雅楽の第一人者に始まって、ポップス系のミュージシャンやロックンローラーであることが多い。

要は、峠での「奉納ドリフト」もまた、こうしたムーブメントのひとつなのである。
「奉納ドリフト」・・・それは「神前の舞」なのである。
「神前の舞」である以上、人間のギャラリーがいないか、ごく僅かだとしても、手を抜くことは決して許されない。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとすることが、必然的に、義務として求められてくるのである。

そのため、ガードレールぎりぎりまでを、その「舞の動線」「ダンシングライン」として使わなければならないため、「落ち葉拾い」は必然的に発生するものなのである。
確認すると、「神前の舞」としての「奉納ドリフト」、「神前の舞」のクオリティーを引き上げるための「落ち葉拾い」、そしてまた、これが、「伝統的な奉仕活動の形態」としての「清掃活動」に、必然的な形で回帰しているわけである。

「奉納ドリフト」。
ただ、少し残念なことに、
宮が瀬エリアや奥多摩エリアのドリフトで、こうした言い回しが使われていることは、私はまだ聞いたことはない。
「奉納ドリフト」という名称が実際に用いられているのは、埼玉県の三峰山で、「三峰神社・奉納ドリフト」という名称がかなりメジャーである。
それは、この山が、山頂部に神社を頂き、道路がその山頂に向かって設けられているというコース形状によって、こうした信仰を、はっきりと意識するからであろう。

ただ、他の峠で、「奉納ドリフト」という名称が用いられていないからといって、これが三峰山だけの現象であるということは出来ない。
実際のところ、他のエリアでも、山岳信仰と奉納ドリフトという関係性が成立していることが多い、という事実である。

そういうことであるから、むしろ、三峰山において、「奉納ドリフト」という呼称が確立していることは、実に幸運なことである。
なので、今、語っている、ヤビツ峠・裏ヤビツ・宮が瀬側でも、「奉納ドリフト」が行われている、ということを確認しておきたい。

こうした「奉納ドリフト」こそが、現在のD1の、真の意味での起源であるといってもよい。

さらに、この事例で私が言いたかったのは、「ドリフトと落ち葉拾い」という表象的事実ではない。
動的な美の限界を求める行為に宿る魂が、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められる、ということを書いてきたのだ。

しかも、これは、他人事ではないのだ。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

そこで、今度は、私の魂をも含めた話へと入ってゆくこととなる。
Posted at 2009/10/22 22:03:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月21日 イイね!

ろ過前&ろ過後、全体&詳細

ろ過前&ろ過後、全体&詳細昨日までの「ツーリングレポート」をぼちぼちと書いていくことにしよう。
ぼちぼちと、日数をかけて書くのである。

まず、走行距離について、車の累積走行距離によると、
東京出発が、走行距離72,333kmの時で、帰宅時が74,832kmになっていた。
つまり、東京、福岡を往復すると、2499km。
「ちょうど2500km」と表現して何の差しさわりもない。


通常、文学的・文芸的には、日数を経れば経るほど、同じ回想をすればするほど、美化と主観性が増幅してゆき、ついには数理的データーや客観性と離れていってしまうことが多い。
しかし、「走り」しかもその「技術の向上」を最大のテーマ・目標とする、このブログでは、こうした、人間の文学的・文芸的な思考とは、逆のルートを辿ってゆくべきだと思っている。
したがって、日数を経れば経るほど、同じ回想をすればするほど、美化と主観性の割合は縮小、次第に文芸性を喪失してゆく。また、入手・記録されたステージデーター、感覚、数理的データーたちは、数理的・技術的な検証を繰り返し加えられ、文芸的思考の世界から離れて、技術と数理的な世界へと入ってゆくべきなのである。
それが、文学的に面白いか、
感動のない無味乾燥な世界なのか、
それは今考えるべきことではないし、
また、著者が未熟である関係から、
「経験」という現象から、美化と主観性を取り除いていく過程で、「美化と主観性」を「抽出」してやる必要性があり、
つまり、「経験」を、技術と数理的な世界へともってゆく過程で、「美化と主観性」に嫌というほど触れなければならないのだ。
つまり、「美化と主観性」を「抽出」する過程でこれに触れ、そうすることで経験の世界からこれを取り除いていき、残ったものは、技術と数理的な要素のみである、という、「フィルターろ過方式」なのだ。
いってみれば、「美化と主観性」の「フィルター」にかけて、これを取り上げ、「除去」し、残った透過物が、技術と数理的な要素のみだということだ。


日数を経れば経るほど、同じ回想をすればするほど、美化と主観性の割合は縮小、次第に文芸性を喪失してゆく。また、入手・記録されたステージデーター、感覚、数理的データーたちは、数理的・技術的な検証を繰り返し加えられ、文芸的思考の世界から離れて、技術と数理的な世界へと入ってゆかなければならない。

では、ここで確認すべきことがあるのではないか。
舞台は、県道70号線。いわゆるヤビツ峠だった。
そもそも、ヤビツ峠は、神奈川県道70号秦野清川線にある、海抜761mの峠のことである。この「ヤビツ峠」という名を漢字表記すると、「矢櫃」という漢字を当てることになるが、通常は片仮名表記が好まれる。

このステージについて言い方を変えると、「神奈川県道70号秦野清川線」であろうし、
もう少し違う言い方をするなら、「宮が瀬レイクライン」となる。
「宮が瀬北原」交差点で県道64号と分岐し、秦野市の国道246号線へと到達する、33km程度の道だ。
ヤビツ峠こと、県道70号丹沢山地内で数少ない南北をつなぐ車道の峠で、他の林道は一般車両通行禁止のため、ヤビツ峠が丹沢山地唯一の南北をつなぐ一般車両通行可能な道である。

そういうことであるからか、車同士がすれ違うのもままならないほど大変狭い箇所が多いにも関わらず、この道の「ユーザー」はかなり多い。
「ユーザー」が多いことからか、実のところ、「定義」が、「集団ごと」あるいは「走り屋個人ごと」によって様々なのである。

まず、一般的な話をするなら、
秦野からヤビツ峠への道を「表ヤビツ」と、
宮ヶ瀬からヤビツ峠への道を「裏ヤビツ」と、
呼び分けられることがあり、
即ち、二種類のステージが存在している。

このうち、「有名」なのは、いわゆる「表ヤビツ」の方であり、距離が短いが、斜度は最大10%程度と急で、途中にある菜の花台からは秦野をはじめとして太平洋側を一望できる。
つまり、ここからの夜景は、関東一円でも有名である。
ただ、それよりも何よりも、『頭文字D』のコミックス、神奈川編で、プロジェクトDがチーム246(ツー・フォー・シックス)と、ヒルクライム、ダウンヒルの対戦をするステージとして、全国的に有名となったようである。
つまり、全国的には、「ヤビツ峠」=表ヤビツと認識されているのかもしれない。
ちなみに、この「表ヤビツ」は、『頭文字D』の作中の、
「ここじゃ、半端なチューニングカーじゃ通用しないぜ」
という台詞にもあったように、ハイパワー・チューンド・カーがヒルクライムを行う場所だとされている。
車両でいえば、スカイラインGT-R、スープラ、RX-7、ランエボ、インプレッサなどのハイパワーターボ車であろうか。
だが、これが「ヤビツ峠」の全てではない。
現実の「ヤビツ峠」には、この「奥」があるのだ。

この「奥」が、「裏ヤビツ」と呼ばれている。
しかも、厄介なことに、この「奥」、「裏ヤビツ」では、二種類の「すみわけ」がなされている。

裏ヤビツのなかでも、表ヤビツに近い側は、川沿いの渓谷の中に、車同士がすれ違うのもままならないほど大変狭く荒れた舗装路が続く。これが「ラリーストの道」と呼ばれ、その名の通り、「ラリーを志す者たち」が、比較的小さなノーマルエンジンにロールバーというラリー仕様車(スターレットやシティーなどの軽量FFだったと伝えられている)で、ストップウォッチを片手に、自らのタイムを向上させようとしていたエリアなのだ。
さしずめ「中ヤビツ」とでもいうべきだろうか。

そして、私が、これまで「ヤビツ峠」として、ドリフト族のソリストたちのことを記してきたのは、裏ヤビツの中でも、宮が瀬湖側のエリアである。
ここの車両は、スカイラインGT、ハチロク、シルビア、SX180、マークⅡ、チェイサーなどの後輪駆動車であろう。

要は、秦野から宮が瀬へと至る、約30キロの道には、三つのステージが住みわけ的に存在しているのだ。

先日までで、せっかく、
「美の世界」「フィギュア的・マヌーバ的」な世界の方々、裏ヤビツの中でも、宮が瀬湖側のエリアの方々の魂に、「共感」してきたわけであるから、もう少しこのエリアの方々の魂に共感しながら話をすすめていく。

ドリフト。

ガードレールギリギリに外から振っていって、
ケツを流し、
意図的にスリップさせて、
オーバーステアを発生させる。
ステアはカウンターをあてつつ、
イン側・ガードレールギリギリに食いつくように走行させ、
極限の美を追求する。

何のために?
速く走るために?
―こうしたドリフト走法が、ターマックにおいては「カニばしり」と揶揄されるようになって久しい。

何のために?
大勢の観客に見せるために?
―こんな暗い峠道に一体どれほどのギャラリーがいるというのか。
 しかもここは、「一本道」なので、ギャラリーが「本線」を見物するためにあがってくる「側道」「旧道」が存在しない。


では、何のために?
何のために極限の美を追い求めるのか?
―それを理解するには、「奉納ドリフト」というものを理解する必要性がある。

「奉納ドリフト」・・・「奉納コンサート」の類似観念だろう。
「奉納コンサート」・・・有名どころでは「明治神宮奉納コンサート」。
Posted at 2009/10/21 22:11:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月19日 イイね!

不本意なる共鳴

不本意なる共鳴再び、「地獄の1200km超ツーリング」が幕を開けた。(帰路)

現時点で、車両にメカニカルトラブルは出ていない。
メカニカルトラブルが出たのは私の方なのだった。

私が、わざわざロングツーリングに望んだのは、自身のドライビングの「マラソン力」(厳密には「競歩力」「耐久力」)を自分で確認するためだ。
それは、案の定、凄く客観的な形で、現象として出てくる。
例えば、「歯が壊れる」とか。

そう。
前歯の詰め物が、外れかけた。
正確には、詰め物よりも、自分の歯の方が柔らかくなってしまっているらしく、自分の歯の方が欠けてしまった。
緊急修理が必要だった。
福岡にて、すぐ近くに、歯科があったため、修理をしてもらった。
保険証を持ってきていたため事なきを得る。

歯を修理したところで、いま、帰路についている。
再び、1200km超のツーリングの幕が、切って落とされている。

今まで、走りというものを、「美」と「数」に分けて語ってきた。
「美を求める走り」には「散華の美」が宿り、
「数を求める走り」は「淡々と技術を追求するだけ」と。

そういう語り口だったから、
「数を求める走り」の世界に生きる私は、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、クレバーさを備える者として、
「美を求める走り」の「散華の美」を
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
「他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と
他の世界の住人のこととして、完全な他人事として、せせら笑いながら、
しかも上から目線で、
考察してきた。
ここからは、
「美」と「数」として分けて考えることより、
同じく「走り」という共通の話として、
「共感」を前提として語ってゆきたい。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

念のため言う。
私は、ドリフトのフィギュア的要素、この種のマヌーバを、馬鹿にしているわけではない。
実際の私は、共感してばかりである。
第一、昨日の朝、例によって、食後、またおかしなことをやらかした。(これは、恐らく、次回談。)

ともかく私は、
「ポテンシャルを引き出すこと」ためには断食だ、
「レスポンスを向上させる」ためには断食だ、
こういう種族の人間にグルーピングされるのだろう。

けっして、
「自らは70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想だ・・・」と他の世界の住人を他人事としてせせら笑いながら、
内心で「バッカじゃねーの?」と思いつつ、
「美しいー!」「ブラボー!」「ブラバー!」と賛辞を叫びながら、
冷静に考察している・・・、
こういうタイプの人間ではない。

共感。
いや、共鳴。
「散華の美」とやらに、身体が共鳴しているのだ。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

ただ、私にとっては、本能的、身体的に共鳴していて、感動的であるのだけれど、
精神的には不愉快である。
私は、苦痛と向き合うことが大嫌いだ。
むしろ、傲慢な人間性を中核としている。

私が、わざわざロングツーリングに望んだのは、自身のドライビングの「マラソン力」(厳密には「競歩力」「耐久力」)を自分で確認するためだ。
こうしたおこないと、その動機づけは、あくまで技術的要請によって不本意に行われることとなる。
Posted at 2009/10/19 11:30:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記

プロフィール

「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
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